言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

時事評論 5月号

2014年05月25日 21時05分59秒 | 告知

○時事評論の最新號の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)

                 ●

   5月號が発刊された。一面の古賀勝次郎氏の中国論は、興味深い。法家と儒家とが共に根付いた日本だが、かの国には儒家の思想はあつても法家の思想はないといふ。だから、法治国家になりえないのだと結論する。今年初めに上梓された『鑑の近代――「法の支配」をめぐる日本と中国』の骨子が述べられたものだ。そして、その本の出版の二か月後、フランシス・フクヤマ氏の『政治の起源』が翻訳出版されたが、それも同じやうな主旨で中国に法治主義は根付かないと書かれてゐるといふ。

 確かに、日本には法家の思想も儒家の思想も入つてきてはゐるだらう。しかし、日本の政治がそれらを自家薬籠中の物にしてゐるのだらうか。甚だ疑問だ。「きれいはきたない、きたないはきれい」との『マクベス』のセリフではないが、きれいはきれい、きたないはきたないといふ単線思考しかない私たちの国民意識を振り返ると、いろいろな思想が陳列はされてゐるが、決して根付いてゐるとは思へない。本当に法家も儒家も私たちの手の内にあるのであれば、中国を手玉に取ることもできよう。しかし、現実は逆ではないか。彼の国には「法の支配」がないのであれば、どうすれば良いのか。むしろそれを知りたい。

 先日、同僚と話してゐて、最近の『文藝春秋』や『中央公論』の記事で、十年後に読むに堪えるものがどれぐらゐあるかといふ話題になつた。それに引き替へ、かつては小林秀雄や福田恆存、田中美知太郎などの論文は今も魅力を失つてゐない。そこには論理といふよりも文体が、分析によるよりも音楽を聴くやうにして讀ませる調べがあるといふことを話してゐた。すると、今月号の3面に廣木寧氏が小林秀雄の『無常といふこと』にたいして「凝縮されて詩となつた文は意味より調べを語る楽譜のやうなものになつた」と書いてゐた。まさに至言である。さういふ聴くに値する文章がないことが、論壇誌の貧しさなのだらう。文体をもつた批評家がゐないといふことである。

 

 

   ☆        ☆    ☆

中国の”無法”はどこから来るのか

 中国問題はすべて「法の支配」の不在に原因

       早稲田大学教授   古賀 勝次郎

● 

政党の活性化は、党員になることから

   アジア母子福祉協会常務理事  寺井 融

教育隨想       

  慰安婦は「甚だしい人権侵害」か? (勝)

小林秀雄『歴史の魂』と国民文化研究会
   この人にはどうしても会ひたいといふ人はゐるか

    (株)寺子屋モデル講師頭 廣木 寧

この世が舞臺

     『塔』ホーフマンスタール                              

                            圭書房主宰    留守晴夫

コラム

     ニュースでニュースの蓋をする (紫)

     日本の「法・文化」の悪弊 (石壁)

     「塗り絵」と「デッサン」(星)

     韓国経済を嗤ふ愚(騎士)   

   ●      

  問ひ合せ

電話076-264-1119     ファックス  076-231-7009

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孜々として鶏の如くせよ。

2014年05月20日 20時03分42秒 | 日記・エッセイ・コラム

 



 今日の繁栄が、自分の存在や活躍によるのでないことが明らかなら、誰かの存在や活躍ゆゑである。そして、その誰かとは誰かが分からないのであれば、私もまた私を誰かと分からない人のために何かを遺していかうではないか。さう思ふ。そして、さういふ考へを持つ人がどれだけゐるのかが、結局国力の違ひであるやうに思ふ。

漱石の日記より

 

 明治34321日(木) 

英人は天下一の強国と思へり。仏人も天下一の強国と思へり。独逸(ドイツ)人もしか思へり。彼らは過去に歴史あることを忘れつつあるなり。羅馬(ローマ)は亡びたり。希臘(ギリシャ)も亡びたり。今の英国・仏国・独逸は亡びるの期なきか。日本は過去において比較的に満足なる歴史を有したり。比較的に満足なる現在を有しつつあり。未来は如何あるべきか。自ら得意になるなかれ。自ら棄るなかれ。黙々として牛の如くせよ。孜々(しし)として鶏の如くせよ。内を虚にして大呼するなかれ。真面目に考へよ。誠実に語れ。汝の現今に播く種は、やがて汝の収むべき未来となつて現はるべし。

  

※ 孜々として・・・・・熱心に励むさま。

 

漱石日記 (岩波文庫) 漱石日記 (岩波文庫)
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発売日:1990-04-16

 

 

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へえ、村上春樹もこんなことを言ふのか

2014年05月15日 21時57分26秒 | 文學(文学)

こころの声を聴く―河合隼雄対話集 (新潮文庫) こころの声を聴く―河合隼雄対話集 (新潮文庫)
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発売日:1997-12-24
 今、家にある河合隼雄の本を讀んでゐる。讀んだ本も讀んでゐない本もあつて、20冊ぐらゐにならうか。それでも膨大な氏の本からすれば何十分の一であらうか。

 その中の一冊に『対談集 こころの声を聴く』といふ本があり、これがずゐぶんと面白かつた。それそれに話題が違ふから、一冊の要約はできないけれでも、中でも村上春樹との対談は秀逸だつた。

 こんな言葉がある。

 河合 僕が心配しているのは、西洋の場合はモダンを通過してポストモダンに行くけど、日本がモダンを回避してポストモダンに行った場合です。

 かういふ何気ない言葉のとてつもない重みを感じてしまふ。「モダンを回避して」といふ言葉だけで、現代の問題のすべてを言ひ尽くしてしまつてゐるのではないか。個人にしても、家族にしても、それから社会にしても、その根拠となるものを持たずに、頭は西洋、体は近代以前の日本人といふちぐはぐな状態は、きつとそれゆゑである。どうしたら、頭と体とは一つになりうるのか、それこそがモダンを通過して克服すべき課題である。漱石が『こころ』を書かざるを得なかつたのは、その矛盾を自分の心を実験台にして考へようとしたからである。

 さて、その河合の発言にたいして、村上はかう語る。

 村上 それはすごい問題になりますね。ポストモダンであるとプレモダンであるとにかかわらず、やはり日本人にとって今本当に理想とするべきものがないんですね。だから僕なんか小説を書いていていつも思うのは、じゃあいったい到達すべき場所はどこなのかというイメージがまだ見えてこないんです。それは僕らが書きながら考えるしかないと思うんですけれど、とりあえずないんです。

 まあ、こんなにあつさりと自己の手の内を表現したといふことに驚いたし、なるほど村上の面白さもつまらなさもここにあるんだなといふことが明らかになつて嬉しかつた。理想を追ふことを諦めたポストモダンの小説家だと思ひ、それが村上節(ぶし)になつてしまつて同じ調べが続いてゐることに少々飽きてきたから、もう読まないことにしてゐるが、この人は意外にも理想とすべきものを捜してゐるのかと知ることができて良かつた。まあ、探してゐる振りをしてゐると『海辺のカフカ』を讀んで感じてしまひ、『1Q84』では探す振りを楽しんでゐるやうにさへ感じてしまつて「やれやれ」だつたが、河合を前にかういふ「告白」をしてゐるのを讀むと、案外本気なのかもといふ気もしてくる。もちろん、作品から受ける印象こそ優先すべきで、作者による作品解説など、あまり尊重すべきではない。ただ、新鮮な感動があつたのも事実で、収穫を得たやうにも思ふ。

 それにしても河合がゐない今、その死について村上はどう感じたのだらうか。どこかに書いてゐるのかもしれないが、今はまだ讀んでゐない。

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憲法を変へるといふこと

2014年05月11日 10時06分39秒 | 日記・エッセイ・コラム

 憲法を変へる時期が来てゐる。

 明治憲法も国民自身で改訂する意思も発想もなかつたのであるから、今日の憲法も変へずにこのままいかうといふのであらうか。そのことを信念のやうに言ふいはゆる護憲派と呼ばれる人たちの心性は、唐突な言ひ方であるが聖書を持たない国のコンプレックスのやうに見えてしまふ。神の代はりに天皇を戴き、近代国家の「おままごと」はできたけれども、聖書にあたるものがないので、それを憲法に求めてゐるといふことである。

 平和主義とは「山上の垂訓」のことであり、基本的人権の尊重とは、「隣人愛」のことである。それは法律の文言であることを越えて、使徒信条である。さう生きなければならないといふ信仰の告白である。問答無用の絶対的な真理であるから、変えてはならないのである。しかし、平和とは何か、人権の根源とは何かには、彼らは答へることはできない。そして、そのことは憲法を変へよといふ保守派の人々も答へられはしない。なぜなら天皇の原理からは説明はできないからである。なるほど、法律であるから、そんな存在論的な問ひに答へる必要もないといふ反論は尤もである。しかしながら、西洋には神学があるから法律論でさういふことに触れる必要がないといふのは筋が通るが、神学を持たない私たちの国で、「無魂法律論」を主張するのであれば、私たちの国家には平和や人権の根拠を見いだせる文化がないといふことになつてしまふ。それでいいわけはない。だから、憲法を聖書に見立ててそれを信奉するか、何かを見出すかしか道はない。もちろん後者はすぐできることではないが、少なくともさういふ神学の不在から私たちの近代が始まつてしまつたといふ自覚はなければならない。

 だから、私は同世代の論者の次のやうな発言を聞いても、何も解決してゐないとしか思へない。

「憲法とは本来、国民が国のかたちを決めるもの。時代に合わせてどんな理想国家を描くのか、まず私たちが自ら考えることが大事だ。」(東浩紀「時代にあった理想考えよう」朝日新聞5月10日)

「自ら考えること」が各自ばらばらであることが問題であり、それが「時代に合わせて」考へたところで、収斂していくことなどない。東氏は、この言葉の前の方で、「日本国籍をもつ国民だけによって成り立つ従来型の国家を思い描いて」はいけない旨の主張をされてゐる。それが「時代に合わせて」考えた結果なのだらう。

「価値観が多様化するなか、一つの価値観を共有するのは無理がある」と東氏は結論づけるが、「自ら考えること」が正解へとたどり着く唯一の手段であると考へるこの「思考万能論」こそ最も厄介なジレンマを抱へこんでゐる。だいたい価値の多様化などといふことはもう三〇年も前から言はれてきたことで、その相対主義が今日の問題の根本であることが、なぜか忘れられてゐる。それとも「俺たちの議論の力は特別なのだ」といふ自負があるのか。さうだとすれば、それこそ「時代に合わせて」考へ直した方がよい。

 聖書には 「神のものは神に、シーザーのものはシーザーに」といふ言葉がある。かつて松原正氏がよく引用してゐた言葉であるが、私には東氏のやうな言説やそれに無条件に信頼を寄せる人々がシーザーであることを忘れて神にならうとしてゐるやうにしか見えない。

 終末論的に考へるしか方法はない。いつまでも偶像を神として奉るのはやめよう。「時代に合わせて」偶像を作りなほしても仕方のないことである。

 

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江藤淳の声

2014年05月05日 11時40分07秒 | 文学

 今、曽野綾子を徹底的に批判してゐる文芸評論家がゐる。佐高信と一緒になつて本まで出して、その「欺瞞」を突いてゐる。私はそのことにはあまり関心がないからその本を読まないが、その少し前に出た『保守論壇亡国論』といふのは、以前上京したをりに見つけて買つてみた(生憎、当地の書店には、かういふ文芸評論といふジャンルのものは置かれることが少ない)。黒い表紙に、活字が妙な大きさで、本の作り方には、ちよつと私とは趣味が違ふなといふ感じがしたが、櫻井よし子やら西尾幹二をどう批判するのか読んでみたいと思つて買つたのである。

 内容は、山崎行太郎が批判する相手には「作品」と呼べるやうなものがなく、つまりは彼らにあるのは「政治的雑文」や「情勢論的雑文」でしかないといふことである。それに引き換へ、福田恆存や江藤淳や小林秀雄や田中美知太郎や三島由紀夫には「作品」があつたといふのである。その言はまつたく正しいだらう。後者に比べられる文筆家が当代にゐないことは、何も新しい主張ではない。それをもつて「保守論壇亡国論」といふのならもつと先まで書くべきであらう。つまり、なぜさういふ文筆家がゐなくなつてしまつたのかといふことである。保守とか革新とかではなく、さういふ文筆家がゐない状況が「亡国的」状況なのであつて、今活躍してゐる文筆家が「亡国」をもたらしてゐるのではない。福田恆存たちの思想は、その死と共に亡んではゐない。今も多くの人はそれを読んでゐる。「亡国」の状況は、山崎には見えるのかもしれないが、私には肯ずることができなかつた。

 この本の収穫は何といつても、巻末にある江藤淳へのインタビューである。御存命なら掲載されてゐたかどうか不明であるが、雑誌に掲載されたきり本になることはなかつたからありがたい内容でもある。話題は、正宗白鳥、小林秀雄との関はりで、江藤淳といふ人物がその文学的な傾向を批評に求めざるを得なかつた背景が語られてゐて興味深い。かういふ声を引き出した山崎の偉大な功績である。中にこんな発言がある。今にして思ふと感慨深い。


 江藤  論争というのは、決着がつくとすれば何十年かたってからでしょうね。批評というのは、そういうものですよ。即効性はない。だから僕は長生き主義で、長生きしたいと思っています。そのうちには、何か実現することもあるだろう。

  このインタビューは、平成八年に行はれた。そして、それから三年後、平成十一年に江藤は自ら命を絶つた。

保守論壇亡国論

保守論壇亡国論
価格:¥ 1,512(税込)
発売日:2013-09-14

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