言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

あらゆる問ひの中で最も本能的なものとは何か

2014年10月23日 22時52分39秒 | 日記

 やはり、じくじくと大学の意味について考へてゐる。日本の大学で失はれてしまつたものとは何か。そして、取り戻すべきものとは何か、といふことである。

 中等教育学校の一介の教師に過ぎないが、誰かがさういふ問ひを立てずには何も始まるまいと信じることは、誰にも邪魔をされずにできることだと思ふからである。

 現代はグローバル化する社会だといふことで、大学も中等教育も、あるいは初等教育でも、海外とのつながりや英語教育の推進を声高に主張してゐる。しかし、そのグローバルの行き先が「英語のできる日本人をつくる」といふことに集約してしまつてゐるのは、どうしてか。そのことは問題にされない。英語ができるアメリカ人では何の魅力もないのは百も承知であるのに、英語ができる日本人になれば魅力を持つと信じてゐることには、私は違和感を抱く。日本語のできるアメリカ人だけは、日本では魅力を持たないことを考へればそれは明らかであらう。だのに……

 ブルームを讀み続けてゐる。彼によれば、六十年代にはもはやアメリカの大学には見るべきものはなくなつてしまつたと言ふ。それは丁度三十年代にドイツの大学がさうであつたやうにである。それは端的にどういふ状況に現れてゐるのか。かう書いてゐる。

「学生たちは、あらゆる問いの中でも最も本能的な問い――善とは何か――は大学にふさわしくない、と教えら」てゐたといふ。「彼らはまた、唯一研究に値するのは、この問いを見くびりあざける、あまりに冷笑すぎる教条とそれを活気づける本能だ、と教えられた」のである。

 「善とは何か」など、見くびりあざける対象なのであつた、アメリカの六十年代に。となれば、今日の日本の大学生に「善とは何か」を問うて、どういふ反応をするのかを考へれば、自ずから答へは明らかである。

 この問ひは、最も本能的であるとブルームは言つてゐるが、してみるとその問ひを持たない人びととは、本能が破壊されてゐる人といふこととになる。なるほどさうなのであらう。さういふ人間を相手に語学を教へ、グローバル化などを説いて何に役立たう。

 大学が今なすべきことは、さういふ問ひを復活させることである。時代錯誤の妄言であらうが、そんな戯れ言を聴いてくれる人もどこかにはあらうと思つてゐる。

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『ザ・テノール』を観る

2014年10月20日 20時56分38秒 | 日記
映画 ザ・テノール~真実の物語 オリジナル・サウンドトラック
キム・ジュンソン,コ・イェジン,チョン・キオム,サルヴァドーレ・カッマラーノ,ナ・イェン・シク
ユニバーサル ミュージック


 韓流ブームが続いてゐて、日本と韓国の間がこんなにギクシャクしてゐなかつたら、もう少し話題になつただらうが、上映館も少なくひつそりと始まつた映画であるが、とてもよかつた。

 生きるといふことが何かの目的を持つてゐなければならないといふのが本当だとしても(即自存在)、生きてゐるといふだけで尊い(対自存在)、それが前回私がここで書いたことだけれども、やはり生きるためには何かを果たしてゐる手ごたへがなければ(何かに、誰かに役立つてゐるといふ実感がなければ)生きることは難しい。

 病気によつて声を失つたテノール歌手が、周囲の人の支へによつて、声を取り戻し、少しづつ歌を歌ひ始めるまでを描いたものだ。決して完璧に戻つた訳ではない。そんな簡単なことではない。それをそのままに描いてゐるところが真実らしい。あとでユーチューブでモデルの人の歌を聴いたが、やはり声量はない。しかし、それでいいのではないかと感じる。

 最悪の事態を迎へ、苦しんで、苛まれて、やうやく人生を断念することができて、少しづつ新しい生き方を手さぐりでさがしはじめるやうになる、さういふ生き方が勇気を与へてくれる。才能があるが故にそれが失はれた時の絶望も深いのであらう。さう簡単に明るく朗らかに生きてもらつては困る。才能がないが故に中途半端に絶望して希望をいつまでも捨てきれない人生が私たちのほとんどである。そんな人々の前で、天才は希望も絶望も振幅をできるだけ大きくしてくれなければ、人生の深淵さは現れてこないだらうからである。

 主人公のユ・ジテは2001年の「春の日は過ぎゆく」以来、好感を寄せてゐた。やはり良かつた。伊勢谷右介は演技の厚みはないが誠実さは伝はる。監督は、本作が三作目といふキム・サンマンである。演出にファンタジックなところがあつて韓国映画らしい印象で、私には余計なものが混じつてゐるやうに感じる部分もあつたが、主題は明確で強く心に響いた。声を出しながら手術をする、京都大学の医学部の先生(お名前が一色といふ方らしい)が始められた一色式の声帯手術の場面で、聖歌を歌ふシーンでは落涙してしまつた。韓国にゐた頃、通つてゐた教会の牧師が好んで歌つてゐた聖歌である。韓国の人の良質な心性が求める垂直的な精神の調べである。あのシーンを観ただけで私には収穫であつた。

 時間があれば、どうですか。
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即自存在でいいではないか。

2014年10月14日 21時29分23秒 | 本と雑誌
 ベケットの戯曲に『ゴドーを待ちながら』といふ有名な戯曲がある。芝居でも一度見たことがあるが、何も起きない退屈なものである。が、これがキリスト者にはとても大事な意味を持つてゐる。もちろん、ベケットは皮肉で書いたのであらうが、神を信じながら、いつまでも神が訪れない状況をからかつてゐるのである。

 しかし、そのことは逆に言へば、近代といふ時代を「ゴッドから遠く離れて」といふやうにも言へる。あるいは、ベケットにしても「待つ」といふ言葉を用ゐなければ、近代の不条理を言へなかつたのであるから、キリスト教の枠組みからは逃れられなかつたといふことになる。

 サルトル流に言へば、即自存在の批判をしなければ対自存在になれないのが人間だといふことnである。人間は神を待つ、しかしその神は来ない。さういふ不条理を生きるのが人間だといふのである。

 人間が神を生み出した。神は人間にとつて必要なものである。神は即自存在である。しかし、神が即自存在であれば、神から見れば人間も即自存在である。なぜなら、「(神を)待つゐる存在」なのであるから。人間がペンを生み出した。ペンは人間にとつて必要なものである。ペンは即自存在である。しかし、ペンが即自存在であれば、ペンから見れば人間も即自存在である。なぜなら、「(ペンを)使つてゐる存在」なのであるから。対自存在などゐない。私はさう思ふ。存在は関係の中に生まれたのである。関係なしには存在はない。だから、サルトル流の実存主義は、どうにも納得ができない。


 どうにも話が変な方へ行つてしまつた。「ゴドーを待ちながら」――私はベケットと違つて皮肉ではなく真実に、「待つ」といふ姿勢を持ち続けてゐられる限り、人間は信頼できるのだと思つてゐる。

 今年もあと三か月を切つた。何もかも持ち越したまま時間だけが過ぎて行く。自分が怠けてゐるからかもしれない。なるほど、本のページは一向に進まない。周囲にある事態を好転させる言葉も見つからないままだ。しかし、それだけでもないやうにも思ふ。「待つ」ことしかできない時代といふのもあるのではないか。さう感じてゐる。
 
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ノーベル物理学賞 日本人受賞を祝ふ

2014年10月07日 21時34分21秒 | 日記
 今年のノーベル物理学賞を三名の日本人が受賞された。

 この慶賀を祝したい。

 応用技術にノーベル賞が与へられるといふことの意味は私には分からない。しかし、その水準の高さは一流であるといふことだらう。今後とも多くの科学者の輩出を祈らうと思ふ。
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蜩ノ記

2014年10月06日 21時48分01秒 | 日記
 映画『蜩ノ記』を観た。原作も面白く読んだが、映画もその印象が変はらない。身体も言葉づかひも現代人のものであるから、あのままが九州のあの時代の様子であるとは思はないが、やはり精神は受け継げるとふことであらう。所作も歩き方も、あるいはその速度も、当時の姿は想像の内にしかないが、武士の生き方を全うするために死んでいく人がゐたといふことは、私たちの歴史である。

 言ひ訳を一切せずに、主君のために死んでいく。もちろん、さういふ生き方は、私たちの近代には稀なことである。名こそ惜しけれ――劇中の言葉であるが、印象に残つた。

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