夏休みが終はる頃、学生時代は危機を迎へてゐた。宿題をためてゐたせいもあるが、宿題が手につかない状況になるからでもあつた。今の言葉で言へば「うつ」といふことにならうが、我が家の語彙にはさういふ言葉はなく、怠け心といふことになり、自分自身もその怠け心に負けてなるものかといふことで体を奮ひ起こして学校に行つてゐた。家にゐて何もせず、ただ時間を無駄に過ごしてゐた。さういふ学生時代だつた。部活には行つてゐたが、それも今思ひ出すとあまり熱心ではなかつたからか、心の立て直しには役立つたとは思へない。
よくぞ学校に復帰できたな、と今さらながら思ふ。だから、夏休みは好きではない。
大人になつた今は、さういふ危機はあまり訪れない。それだけ忙しくなつたといふことかもしれないが、心のバランスを欠くほどの体の成長がないからかもしれない。老化といふことも悪いことばかりではない。
「うつ」といふ気分とニヒリズムとはつながつてゐるのかどうか。それは分からないが、気分としては共通してゐるやうに感じる。学問といふものに救ひはあるのだらうか。そんなことを感じてゐる。学びは人を豊かにする。学びは、教養につながる。さういふことを見聞きし、また自分でも言つてきた。しかし、本当だらうか。学びによつて結実するものは、暇つぶしでしかない、さう割り切つた上で、何か身に着けば儲けものだぐらゐにしておいた方が、学びはもつと自由になるやうな気がする。面白い本を読む。それで楽しい時間を過ごせたと感じる。それでいいのではないか。ところが、「予算」といふものがあると、大学文系学部は社会にどういふ成果を挙げてゐるのか定量的に言へと追及される。「そんなことはできない」と言へば、「ならば予算を減らしませう」といふことになる。それで「現代人の最大の課題であるニヒリズムにどう対抗できるか、さういふことを研究してゐる」、そんな訳のわからない、いかにも文系的な言ひ方で説明してしまふと、きつと「出直してこい」と言はれる。ならば、いつそ文系学部の学びは人を豊かにするなどとは言はず、暇つぶしにもつてこいです、とでも言つた方が気持ちはすつきりする。どうせ定量的に言へることではないのである。例を出すのもをこがましいが、漱石が漢籍を愛したのは社会に貢献するためではなかつた。
ところで、15年ほど前よく読んでゐた批評家に松本道介といふ人がゐる。1935(昭和10)年生まれであるから、今は82歳である。その人が「季刊文科」といふ雑誌に「視点」といふ評論を毎号書かれてゐた。それを読むのを楽しみにしてゐた。今日、紹介する本はそれをまとめた二冊目の本である。タイトルは、「反学問のすすめ」となつてゐる。そのタイトルが全体の主題を示してゐると同時に、立花隆の『脳を鍛える』といふ本を批判した一つの章のタイトルでもある。立花といふ人は、本当に知識が教養に結びつかない人だと思ふ。しかも自分が教養人であると確信を持ち、それを作り上げたのは自分の読書量だと自負してゐから、東大生を前にしての講義録である本書の中であれを読め、これを読めと言ふ。つまり、教養を知識量に還元できると信じてゐるのである。じつにその頓珍漢さが面白い。松本氏の「反学問」とは、立花氏のやうな学問の在り方への「反」なのであらう。
松本氏は、前書きにかう書いてゐる。
「あの時代(引用者註・今から65年ほど前のこと)から眺めると今はすべてがおかしい。生活も便利になり、学問もずっと“進歩”した筈なのに、すべてが疑問だらけだ。十年後二十年後の社会がいったいどうなるのかはまったくわからず将来は不安にみちている。
そんな状況にありながら世間はヒューマニズムや学問をまだあてにしている。多くの学者が研究に励んでくれれば、こうした疑問や不安は解決してくれるという幻想を抱いている。だが、私はそのような幻想を持つことができない。どうしてヒューマニズム自体、学問自体が疑問に付されないのか。それが不思議でならない。」
学者としての誠実であらう。しかも、さう思ひながら学問をし続けてゐたのが松本氏自身である。答へはないが、それを続ける。これこそが誠実といふことである。答へを出せないと知る、そしてそれを自覚しながら生きる。このことを最近私が読んだ本の言葉で言へば、「ネガティブ・ケイパビリティ」である。松本氏は結構強いニヒリズムを背負ひ込んでゐるはずである。しかし、だからこそ安直な答へを出さないでゐる、ゐ続けてゐる。私自身ができてゐるかどうかは措くとして、さういふ生き方にずつと惹かれてゐる。