言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『関ヶ原』を観る。

2017年08月28日 09時56分22秒 | 日記

 8月26日公開を待ち望んでゐた。もつと正確に言へば、公開が遅すぎである。お盆の頃に公開してくれれば場所も時間も選べたのにである。

 内容は、とても良かつた。最初の20分はもたもたしてゐたが、あとは食ひ入るやうに見てしまつた。途中で細かいことについては知識がついていけないところもあつたが(この辺りのところは不満の人も多いやうだ)、家康や島津に嫌な感じを抱き、小早川にいらいらした感情を抱いたのはいつもながらの「関ヶ原の合戦」の感想であり、その上で戦ひとは何万人と何万人が正面衝突するといふのではなく、小さな衝突の連続であることを改めて知らされて、鮮烈なイメージを浮かび上がらせてゐた。隣にゐた家内はそのシーンに目を閉じてゐたやうだが、むごさもなければ悲劇は描けないだらう。

 映像は、黒沢明の『影武者』や『乱』を思ひ出させる異様な色が印象的であつた。美しいかと言ふとすぐに是とは言へないが、現在とは違ふ当時の状況と、日常とは違ふ戦場の状況との差異が精密に描かれてゐると感じる。

 先入観としてこれまで持つてゐた怜悧な石田三成像とは違ふ岡田三成だが、勝負を焦る緊迫感は、その苛立ちにおいて見事に演じてゐると思へる。惜しむらくは、その発話である。大きい声が怒鳴り声にしか聞こえず、台詞を聞き取れないといふのは、今後は大きな課題になるだらう。馬の乗り方は、若いころから訓練してゐたと言ふ。声についても訓練をしてはいかがか。

 三成は「正義」といふことを追求したといふ。それは戦国時代を終はらせる大義の前に散つていつた。正義といふ言葉が一元論でしかなければ、それは空しいだらう。家康のしたたかさは嫌ひではあるが、正義と力との二元論こそ歴史の正統と言へさうである。

関ヶ原
Rambling RECORDS
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夏過ぎる頃、ニヒリズム

2017年08月25日 09時35分41秒 | 本と雑誌
反学問のすすめ―視点 2
松本 道介
邑書林

 夏休みが終はる頃、学生時代は危機を迎へてゐた。宿題をためてゐたせいもあるが、宿題が手につかない状況になるからでもあつた。今の言葉で言へば「うつ」といふことにならうが、我が家の語彙にはさういふ言葉はなく、怠け心といふことになり、自分自身もその怠け心に負けてなるものかといふことで体を奮ひ起こして学校に行つてゐた。家にゐて何もせず、ただ時間を無駄に過ごしてゐた。さういふ学生時代だつた。部活には行つてゐたが、それも今思ひ出すとあまり熱心ではなかつたからか、心の立て直しには役立つたとは思へない。

 よくぞ学校に復帰できたな、と今さらながら思ふ。だから、夏休みは好きではない。

 大人になつた今は、さういふ危機はあまり訪れない。それだけ忙しくなつたといふことかもしれないが、心のバランスを欠くほどの体の成長がないからかもしれない。老化といふことも悪いことばかりではない。

「うつ」といふ気分とニヒリズムとはつながつてゐるのかどうか。それは分からないが、気分としては共通してゐるやうに感じる。学問といふものに救ひはあるのだらうか。そんなことを感じてゐる。学びは人を豊かにする。学びは、教養につながる。さういふことを見聞きし、また自分でも言つてきた。しかし、本当だらうか。学びによつて結実するものは、暇つぶしでしかない、さう割り切つた上で、何か身に着けば儲けものだぐらゐにしておいた方が、学びはもつと自由になるやうな気がする。面白い本を読む。それで楽しい時間を過ごせたと感じる。それでいいのではないか。ところが、「予算」といふものがあると、大学文系学部は社会にどういふ成果を挙げてゐるのか定量的に言へと追及される。「そんなことはできない」と言へば、「ならば予算を減らしませう」といふことになる。それで「現代人の最大の課題であるニヒリズムにどう対抗できるか、さういふことを研究してゐる」、そんな訳のわからない、いかにも文系的な言ひ方で説明してしまふと、きつと「出直してこい」と言はれる。ならば、いつそ文系学部の学びは人を豊かにするなどとは言はず、暇つぶしにもつてこいです、とでも言つた方が気持ちはすつきりする。どうせ定量的に言へることではないのである。例を出すのもをこがましいが、漱石が漢籍を愛したのは社会に貢献するためではなかつた。

 ところで、15年ほど前よく読んでゐた批評家に松本道介といふ人がゐる。1935(昭和10)年生まれであるから、今は82歳である。その人が「季刊文科」といふ雑誌に「視点」といふ評論を毎号書かれてゐた。それを読むのを楽しみにしてゐた。今日、紹介する本はそれをまとめた二冊目の本である。タイトルは、「反学問のすすめ」となつてゐる。そのタイトルが全体の主題を示してゐると同時に、立花隆の『脳を鍛える』といふ本を批判した一つの章のタイトルでもある。立花といふ人は、本当に知識が教養に結びつかない人だと思ふ。しかも自分が教養人であると確信を持ち、それを作り上げたのは自分の読書量だと自負してゐから、東大生を前にしての講義録である本書の中であれを読め、これを読めと言ふ。つまり、教養を知識量に還元できると信じてゐるのである。じつにその頓珍漢さが面白い。松本氏の「反学問」とは、立花氏のやうな学問の在り方への「反」なのであらう。

 松本氏は、前書きにかう書いてゐる。

「あの時代(引用者註・今から65年ほど前のこと)から眺めると今はすべてがおかしい。生活も便利になり、学問もずっと“進歩”した筈なのに、すべてが疑問だらけだ。十年後二十年後の社会がいったいどうなるのかはまったくわからず将来は不安にみちている。

 そんな状況にありながら世間はヒューマニズムや学問をまだあてにしている。多くの学者が研究に励んでくれれば、こうした疑問や不安は解決してくれるという幻想を抱いている。だが、私はそのような幻想を持つことができない。どうしてヒューマニズム自体、学問自体が疑問に付されないのか。それが不思議でならない。」

 学者としての誠実であらう。しかも、さう思ひながら学問をし続けてゐたのが松本氏自身である。答へはないが、それを続ける。これこそが誠実といふことである。答へを出せないと知る、そしてそれを自覚しながら生きる。このことを最近私が読んだ本の言葉で言へば、「ネガティブ・ケイパビリティ」である。松本氏は結構強いニヒリズムを背負ひ込んでゐるはずである。しかし、だからこそ安直な答へを出さないでゐる、ゐ続けてゐる。私自身ができてゐるかどうかは措くとして、さういふ生き方にずつと惹かれてゐる。

 

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箕面の滝

2017年08月24日 09時04分18秒 | 日記

  昨日はふと思ひ立ち、箕面の滝に出かけた。バスで箕面駅に行き、歩いて45分ほど。薄曇りの絶好の散策日和。気持ちよい汗をかいた。

  やうやく夏休みらしい一日を過ごした。今夏は教員免許更新に物心を費やした。かういふ一律研修をして何になるのか。行政府が真面目に教育を考へてゐない証拠であらう。教員免許を持つてゐない大学の先生が教員免許の更新の研修をするといふのもをかしなものだ。初等中等教育と大学との関はりは必要である。しかし、それとこれとを結びつけるのは安易である。

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『現代建築のトリセツ』を読む。

2017年08月23日 08時49分59秒 | 日記
現代建築のトリセツ (PHP新書)
松葉 一清
PHP研究所

 「現代建築」に強い関心がある。最初に心惹かれたのは、代々木体育館だ。丹下健三の設計である。大阪万博の大屋根、それをぶち抜いた岡本太郎の「太郎の塔」いやいや「太陽の塔」、あの時代の建築はとても魅力的である。モダニズム建築とひとくくりにされるが、実用一辺倒といふわけでもないやうな気がする。建築は思想を体現してゐるが、思想だけで建築を語るのもどうかと思ふ。それを良いと思ふ感性が引き寄せるものは、モダニズムであるかポストモダニズムであるかは関係がないからである。丹下の作品にしても、東京都庁はあまりいいとは思はない。

 「トリセツ」といふ言葉は取扱説明書の略称であるが、さういふものが必要なほど、建築物の意味するところを過剰に求めてしまふのが現代人であるといふことだらう。しかし、アップルの商品にはトリセツがないやうに、本当の脱近代の建築物にはトリセツはいらないのではとも思ふ。しかし、当の建築物が公共の物である場合には、一般市民にその意味を伝へるためのトリセツは必要なのだらう。

 その意味で本書の最大のテーマは、2020年の東京オリムピックの国立競技場の顛末である。

 ご存じのやうに、最初の案(ザハ・ハディド案)から現在の物(隈研吾案)に変更になるにはたいへんな問題があつた。途中でザハ氏が亡くなるといふこともあつて、その配慮の無さに心穏やかでないこともある。

「工費も考えずに選んだのかと最初の『デザイン競技』に批判の矢が向けられ、選考委員長をつとめたアンドウ(引用者註・筆者は安藤忠雄のことを親しみを込めてかう書いてゐる)が、ザハ・ハディドとともにバッシングの嵐にさらされました。手がつけられなくなった批判の高まりに、ザハ案はお蔵入りとなったわけです。」

と書かれてゐる。つまりは、案の変更は本当に正しかつたのかといふ疑義である。「デザイン競技」に敗れた一部建築家グループの非難と、それにシンパシーを寄せる人々、マスコミ、それによつて動かされた世論、それを見て動いた政権、それらに異議を申し立ててゐるやうに見える。もちろん、隈氏の案を批判してゐるのではない。筆者は、そこは冷静に論じてゐる。しかし、きちんとした手続きで決めたのであれば、その後に白紙撤回するといふのは「ご政道に反する」ことではないか。建築費がかかり過ぎるとの批判があつたが、それを計算しないで決めてしまつたのであれば、それは選考委員会の問題である。計算しないで会議に案をかけたのであれば、事務方の責任である。いづれにしてもザハ氏には責任はない。なのに、である。

 私は、あの最初の案がいいと思つた。高さが70メートルにもなつて他の景観を台無しにするとの批判もあるが、東京の街づくりはそもそもが台無しであるのに、何を今更と思ふ。東大寺の大仏殿が目立つのは、他の景観を圧倒してゐるからである。太陽の塔が目立つのは、70メートルの塔にあの両腕がにょきと出てゐるからである。「負ける建築」の隈氏の案は優れてゐるかもしれない。しかし、それなら最初から案を出せば良かつたのである。「勝つた建築」が駄目で「負ける建築」がいいとは実に不可解である。

 ところで、磯崎新氏が、この一件で次のやうな提案をしてゐるのを本書で知つた。慧眼であると思つた。ご一読を。

 磯崎新の提案

 

 

 

 

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なんだか変な本だつたな。

2017年08月22日 08時47分22秒 | 本と雑誌

 知人に勧められて、こんな本を読んでみた。

現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史 (イースト新書)
北田暁大,栗原裕一郎,後藤和智
イースト・プレス

 著者の三人をいづれも知らない。ただ、現代の批評はつまらないなと思つてゐたので、その「事情」を知るのもいいかと思つて手を出してみた。

 曰く。論者が経済を知らないからだ。

 曰く。論者が若者を見くびつてゐるからだ。

 曰く。論者が安倍憎しで凝り固まつてゐるからだ。

 この三点である。でも果たして「論壇」なんてあるのかなとも思ふ。なぜ日本ではなくて「ニッポン」なのかなと思ふ。かういふ三人寄つても文殊の知恵ほどにも得られるものがないのが「現代批評のつまらなさ」なのだと了解できた。収穫と言へばそれだけ。

 批評がつまらないのは、批評の視点が定まつてゐないことによる。その視点に共通するものを持ちえない時代なのだから致し方ない。それを解体しよう解体しようとしてきたのが近現代であつてみれば、これは自業自得である。だから、このやうに数人が視点を共有してその中で通じる批評を語り合ひ、書き合ひ、持ち上げ合ふ。さういふことになるのだらう。

 ディシプリンと相互承認、その二つの軸で集団の座標が作られてゐるのだから、この三者には共通のディシプリンがあり、そしてそれを相互に承認していくしかないのである。それが「論壇」といふのであれば、本書の「論壇」とは、この三人の「事情」といふことにすぎまい。普遍性を持たないとはさういふことだ。つまりは、「論壇」がいくつもいくつもあつて、それぞれが互ひを非難し合つてゐる。それが日本の事情である。この時代がこれからどれぐゐる続くのかは分からない。そして、共通のディシプリンを作り上げていくといふことは大事で、それだけが今注力すべき事柄である。しかし、その「再生」のきつかけが若者論の再考であるといふのは、まつたく違ふ「論壇」に属してゐる私にはその発想の糸口にもたどり着けない主題であつた。

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