今日は、軽いお話。
私の職場からは東海道新幹線が約1キロに渡つて見ることができる。時間にしたら12、3秒といふところか。
今日は試験で、監督をしながら生徒の背中越しに外が見渡せる。そこから偶然にドクターイエローが見えた。ただそれだけである。
6年生の古文のテスト。彼らの受験の成功を祈つた。
今日は、軽いお話。
私の職場からは東海道新幹線が約1キロに渡つて見ることができる。時間にしたら12、3秒といふところか。
今日は試験で、監督をしながら生徒の背中越しに外が見渡せる。そこから偶然にドクターイエローが見えた。ただそれだけである。
6年生の古文のテスト。彼らの受験の成功を祈つた。
矢内原忠雄を読み続けてゐる。
今は「ヒューマニズムとニヒリズム」である。畏友で藤井武を語る講演である。
一般にヒューマニズムとは、人間の間から神を放逐することであると思はれてゐるが、それは甚だ唯物論的であるといふのが矢内原の考へである。人間こそ最高の価値をもつ最高の存在であるのに、神などを考へたりすることが束縛が生まれ、自由を喪失すると考へてゐる。しかし、それは本当か。
たとへば生活が苦しい人がゐる。しかし、その生活苦が必ず人を不幸にするだらうか。たとへば病気の人がゐる。では、その人は必ず希望を失ひ捨て鉢になるだらうか。
自由とは、「境遇に拘らない精神のもち方」ではないだらうか。束縛からの解放を自由と定義することは、唯物的な発想である。何かを取り除けば自由になると考へるからである。しかし、それで得られる自由は、相当に次元の低いものである。
歴史的に見て、ヒューマニズムの起源はエラスムスだと矢内原は見てゐる。オランダのロッテルダムの神学者であつたエラスムスはカトリック教会に対して深刻な皮肉を言つた。彼は決して神を否定したのではない。カトリックの伝統を批評し、教会の固定した教義を嘲つただけである。しかし、彼は最終的に破門されることを怖れ、教会に屈服した。しかし、同じ批判をしながらついに屈服しなかつたのがルッターである。
ルッターとエラスムスの違ひを矢内原はかう述べてゐる。
「エラスムスには罪の意識、罪の観念がなかつた。彼は人間の自由を文化的に考へた。今日の言葉で言へば、基本的人権の線に止まつてゐたのです。ルッターは基本的人権の基底にあるものとして罪からの自由を必要となし、それを人間解放の基本的問題として考へたのです。」
いづれにせよ、不幸や絶望の原因を環境や境遇のせいにするやうな「ヒューマニズム」とはまつたく違ふところに立つてゐる人が二人ゐたといふことは事実である。
エラスムス――人文主義の王者 (岩波現代全書) | |
沓掛 良彦 | |
岩波書店 |
痴愚神礼讃 - ラテン語原典訳 (中公文庫) | |
沓掛 良彦 | |
中央公論新社 |
リズムの哲学ノート (単行本) | |
山崎 正和 | |
中央公論新社 |
山崎正和の作である。
哲学書でありながら、とても味はひのある文章で、本当に読むことが幸せな時間をつれてきてくれる貴重な書であつた。
病魔に襲はれて山崎の書き下ろしの最後の書になるかもしれないが、これほどの充実した内容を今後も期待したくなる。私にとつてはその社会的発言をめぐつてはアンビヴァレントな気分に引き裂かれる山崎であるが、得がたい文章家であることに変はりない。いい文章が心を鍛へてくれる。思考の運動を導いてくれる。現存する文章家のなかで、さういふ体験をさせてくれるのは誰かと言へば山崎に指を屈する。
リズムといふこの不思議な「動き」。従来の哲学の対象は静止したものだつた。「運動は安定するまでの仮の姿とされた」からである。わづかにベルグソンなど生の哲学やクラーゲスの『リズムの本質』があるだけである。
「動き」を哲学の対象にするとどういふことになるのか。
自我といふものも、個人といふものも、静止したものではなく関係の中に揺らいでゐるものとなる。近代といふものが自我や主体性といふものを尊重したが、それも怪しいといふことになる。こんな印象的な言葉がある。
「個人があるときなぜ練習の必要を思い立ち、練習の開始を『決意』するのかをも説明する。正確にいえばこの『決意』という表現が常識の通弊なのであって、後にすべての行動について詳述するように、厳密にはおよそ人が意識的に自ら行動を開始することはありえない。常識も半ばこの真相に気づいているらしく、日常用語でもあらゆる行動の動機について、『する気になる』と言い習わしている。練習も当然、人が『する気になって』始まるものであり、個人と共同体のリズムが共鳴し輻輳しあい、新しいリズム単位をつくるべく身体を駆り立てたときに始まるというべきだろう。」(112頁)
かういふ言葉にしばし立ち止まり、考へ、味はひ、喜びが湧き上がる。かつて『近代の擁護』を書きながら、その地平を自ら崩しながら、その上にもう一つ新たな位相を見出さうとしてゐるやうである。
上の文章にも象徴的だが、「常識」への挑戦が本書の眼目でもあつた。そのことについては228頁の「哲学と常識にたいする『私』の登場」に詳しい。全文を引用したくなるほど、知的な興奮に満たされてゐるが、それは是非とも書店で読むか、買つて椅上で熟読されたい。
かつて世阿弥を論じて「序破急」をすくひ上げ、西洋の庭の噴水と日本の庭の鹿おどしとを比較して「水の東西」を論じた山崎は、ここでも序破急と鹿おどしの運動構造に注目する。流動と拍節といふ二つの次元がひとつの「動き」に存在する姿こそ人間の本質であり、リズムの属性である。
この哲学的な収穫は、きつと今後の社会論にも波及していくだらう。そのことを山崎に求めることはできないかもしれないが、その思考の後継者は、きつと出てくるに違ひない。
モリのいる場所 (朝日文庫) | |
小林雄次 | |
朝日新聞出版 |
守一のいる場所 熊谷守一 | |
熊谷 守一,廣江 泰孝,熊谷守一展実行委員会 | |
求龍堂 |
ひとりたのしむ―熊谷守一画文集 | |
熊谷 守一 | |
求龍堂 |
|
いのちへのまなざし 熊谷守一評伝 (美の人物伝) |
福井淳子 | |
求龍堂 |
画家熊谷守一の生活を描いた映画である。
山崎努と樹木希林とが主演であれば、観ないわけにはいかない。
しかし、台詞の良い場面はすべて予告で観てしまつたやうな感じである。見て損はないし、心静かになること請け合ひであるから、お奨めはするが、もう少し熊谷の言葉が聞きたかつた。そして
その妻の言葉も。
NHKのアサイチに出てゐた樹木希林が、山崎努と共演できたことを喜び、熊谷の生涯を描いた映画が出来たことを讃へてゐた。超俗の生き方は樹木希林も同じではないかとの視聴者からのコメントには、あつさり「私のは偽物。熊谷さんのやうな生き方が本物です」といふのもいい言葉だつた。映画とは関係ないが、別の視聴者が「私は夫が嫌ひです。どうしたら良いか」と訊いてきたが、それに対して「十分あなたも嫌はれてゐます」とのコメント。かういふ言葉を嫌味なくさらりと言へる人物も得難い存在であるやうに感じる。
だいぶお年を取られた。もつともつとこの女優の映画を観たいと思つた。
友人が、今年3月に職場を早期退職して「石門心學の復興を目指して」会社を立て上げた。
ホームページを見ると、高校一年生の時に認識論の問題に突き当り、大学は哲学科に進まれたといふ。そして、その問ひに対する答へを石田梅岩の心學に見出された。私には到底及ばないその志操堅固を畏れる。
ぜひ、一度ご覧いただきたい。