夏休みが終はり、全国的に二学期の授業が再開されてゐる。コロナ禍にあつて開始時期を遅らせる地域もあるとのことだが、果たしてそれは妥当か。ゼロコロナを求めれば、家にじつとしてゐるのがいいのだらう。政府も分科会もそれを求めてゐるやうだ。しかし、果たしてそれでいいのか。学校が閉ぢれば、その経験が児童生徒学生の記憶に残る。ことが起きた時には問題の解決を図るよりは問題を回避するのがいいのだなといふ感覚が、じわりと浸透する。しかし、それは不作為の伝播といふことである。
パンデミックの状況下で、我が国はいち早くこの問題を解決して未だ呻吟する国を救ひにいかうといふ声は皆無である。その意味では中国は凄い。文字通り凄い。国家意思の力は歴然だ。解決と回避との懸隔は甚だ大きい。
初期診療をなぜ全国の開業医にさせないのか。感染症の分類が邪魔をしてゐるといふのであれば、そんな人為的な「壁」は人間が壊せばよい。それをやるのが政府である。わざわざ早期治療をさせないやうにして、その結果感染者を重症化させて、それでは病院をさがしませう、おいベッドが足りないぞ! と叫んでゐる。マッチポンプである。
閑話休題。
学校には門がある。それは容易には越すことのできない高さがあつて、外敵の侵入を防いでくれる。逆に言へば、中にゐる者を守るものである。中には圧力がかかるから、それが学習の成果を上げる働きをする。
オンライン学習に果たしてそれがあるのか。
授業が情報の伝達の場であるといふことは事実である。しかし、それは映像においても可能であるとするのには飛躍がある。それは家には「門」がないからである。この場合の外敵とは、ゲームであつたり漫画であつたり、眠気や食欲であつたり、圧力がかからない場では情報は伝達しにくい。有り体に言へば、「気安く学べる」は「気安く学びを放棄できる」といふことである。
学校は再開しなければならない。コロナ禍でこそ、その意思を示すのが国家の役割である。
名古屋大学の教育学部に坂本將暢先生といふ方がゐる。教育方法論を研究されてゐるが、今年になつて何度か「授業のあり方」について相談にうかがつてゐる。極めて大きな示唆を受け、行くたびに課題が解決されてゐる。その先生が『教育と医学』(慶應義塾大学出版会)7・8月号に寄稿されたのが「オンライン教育の効果と課題」である。
そこにかうある。
「学校の『門』は、それを越えられない児童生徒がいるくらいのハードルである一方で、世界や領域を切り分ける口でもあることがわかります。」
学びは誰でもか可能だが、その「誰」に自分が入るかどうかはまた別の問題である。そこを切り分けるのも「門」である。教師も保護者も、そして文科省も、学校の敷居を低くしよう低くしようとしてゐるが、それは根本的なところで間違つてゐる。「門」が低くなれば、それだけ「気安く学びを放棄できる」ことになるからだ。
やれやれといふ思ひの中で、二学期が始まる。