言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

再受験生と会ふ

2016年07月03日 12時29分29秒 | 日記

 昨日は、名古屋で再受験に挑まうとしてゐる卒業生と再会。学校は、期末試験最終日で、3月まで一緒に学年団で過ごした先生方と午後から名古屋に出かけた。

 セール間際なのか、土曜日の午後の名駅はいつもこんなであるのか、びつくりするほどの人手に閉口しながら、鼻からドライアイスを吹かないでゐてくれた「ナナちゃん」(今から34年前に初めて見たときは、もつと大きいと思つたが、今はこんなものかと思ふ)の脇を通つて、第一会場の駿台予備校名古屋校に向かふ。今夏最高の気温の中、日影がありがたい。それから河合塾、そしてその他の予備校生と時間を分けて実施。

 試験の結果が出たばかりといふことで、元気な者、元気でない者もゐたが、まあいろいろある。むしろこれからの方がある。それでも忍耐して心に秘めた目標を達成してほしい(月並みですが)。

 来春の喜びを大きなものにするためには、あるいはその喜びを日に日に内からじわりと湧き出てくるやうなものにするためには、今の生活の過ごし方が肝心だ(これも月並みですが)。

 大仰で照れ臭いが幸福感の作り方は、さういふところで学んでいくものだと思ふ。

 次は、東京の会、そして関西の会と続きます。

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