言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『人間・この劇的なるもの』新潮文庫で復刊

2008年01月30日 07時51分52秒 | 福田恆存

人間・この劇的なるもの 改版 (新潮文庫 ふ 37-2)
価格:¥ 380(税込)
発売日:2008-01
 『人間・この劇的なるもの』が復刊される。新潮文庫二月刊である。値段は380円。慶賀すべきことである。これで、多くの人が気軽に本書を手に入れることができる。折しも、『福田恆存評論集』が刊行されてゐるさなかであるが、本書を読んで、その人間観に関心を持てばぜひともそちらも購読してもらひたい。

 さて、このニュース、私は毎月送られてくる『波』(新潮社のPR誌。もちろん私などは購読してゐるのでして、無料で送られてくるのではありませんよ)で知つたのだが、今月号はそれ以外にも収穫が多かった。

 故郷にある韮山城(静岡県伊豆の国市)について書かれてゐたことが一つ。宮城谷昌光氏の「古城の風景」の第56回である。北条早雲の建てた城であるが、私の通つてゐた中学校の裏手にあつて、毎日その丘を見てゐた。今では何もないところであるから、全く知られてゐない場所だけに、嬉しかつた。

 二つ目は、桶谷秀昭先生が、「素人の読む『資本論』」の連載を始められたこと。ここ数年、北村透谷学会でお会ひするたびに、「もう私は透谷なんてどうでもいいのです。二十代で死んだ思想家なんですから。それより今は『資本論』が面白い。」と語つてをられた。もちろん、これは発言そのままではなく、記憶による再現だが、透谷学会の最中での発言だけに興味深く聞いた。ほかの人は苦笑されるばかりであつたが。すでに一度会報誌に書かれたことがあつたが、今回の連載は長くなるのだらうか。楽しみである。

 年間千円。あるいは、本屋のレジカウンター近くにおいてあるところもある。ぜひ御一読を。

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言葉の救はれ――宿命の國語237

2008年01月29日 10時02分48秒 | 福田恆存

(承前)

  さて、吉川幸次郎の論である。

  吉川は、他の國語改革(私から見れば「改惡」)論者とは違つて、穩當である。氏の論文「国語について」の結論部分で「私は一部の論者のように、漢語をまったく国語の中から駆逐せよというのではない。それは不可能であり、不得策であると考える」と言ひ、その理由として、次のことを擧げてゐる。

「第一は、大和言葉だけでは、「決然」ケツゼン、「絶対」ゼッタイというような強い音がでにくいことである。第二に、テニヲハを伴う言語は、明晰ではあるけれども、つづりが長くなりやすい。第三に、テニヲハを伴う言語は、明晰なだけに、線が細い。しかしわれわれの言語生活は、強い音の言葉、短いつづりの言葉、線の太い言葉をも、要求しているのである。それをみたすものは漢語である。/また、漢語の全廃は、われわれをわれわれの古典から隔絶し、また中国の文化からも隔絶する。いずれも不得策である。」

(全集第十八巻三七四頁)

 

以上のやうな四つの理由を擧げてゐる。かうした内容は全く正確な認識から生まれたものである。

  その上で、吉川が言ふのは、「漢字の制限は、そもそも末である。まず提唱されるべきものは、漢語の制限である」といふことであつた。つまり、今日はやや漢語が氾濫してをり、「必要の限度を越えている」と感じてゐるのだ。

むやみやたらに漢語を使用することは、全くディレッタント(衒學趣味・知識のひけらかし)で、私も好きではない。平野啓一郎氏の芥川賞受賞の際、その銓衡委員である三浦哲郎氏が、「辞書を引かなければ、読めない小説で良いのか」と疑問を呈してゐたさうだが、その感想に私も同意する。とは言へ、昨今の學生のやうに「前期試けんで通れば卒ぎょうできる」などと書くやうな體たらくでは困る。

が、先日何氣なく讀んだ新聞に載つてゐた、評論家の宮崎哲哉氏の次のやうな文章はやはり「知的」といふこととは違ふだらう。

「『つくる会』の内訌に伏在する思想対立が、保守が瀕している危殆と全く無関係ともいえない」

(朝日新聞・平成十八年五月九日)

こんな文章を、サラリーマンが疲れて歸る電車のなかで讀むであらう夕刊紙に書くのは、知識のひけらかしに思へてしまふ。「『つくる會』にもともとあつた考へ方の違ひは、現代の保守派と呼ばれる知識人の持つてゐる思想的危うさと全く無關係とは言へない」といふ方が、氏の意圖を正確に讀者に傳へるには有效であると思はれる。あんなに難しい文章を書いても、人は「宮崎つていふ人は頭が良いな」とは思はない。それよりも保守化した現代社會において「保守が瀕している危殆」についてもつと叮嚀に書いてくれた方がありがたいし、「宮崎つていふ人は頭が良いな」と少なくとも私などは思ふ――餘計なことを書き過ぎた。

  漢字に一生をささげてゐる白川靜氏の文章は、少なくとも漢字による難しさはない。が、芥川賞を受賞したとき大學生だつた平野氏の書いた小説(『日蝕』)が難しくて讀めないといふことは、どうにもをかしいと思ふ。

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言葉の救はれ――宿命の國語236

2008年01月25日 15時38分16秒 | 福田恆存

(承前)

さねとう・けいしゅうは、さらにはこんなことを言ふ。言語に優劣をつけるといふ感覺それ自體が、今讀むとずゐぶんお氣樂な言語認識であるが、それ以上に、その基準があまりに滑稽である。

「語彙が豊富であり、表現方式(文法組織)が豊富で、自由に、こまかい表現まででき、また、その言語による文献の多いものが、すぐれた言語です。忠実に言語をうつすことができ、はやくかけるものが、すぐれた文字です。千年まえの言語を忠実にうつしたのが歴史的かなずかい、いまの言語を忠実にうつそうとするのが(いまはまだ一部分忠実にうつされていませんが))現代かなずかい。どちらがよいかは、わかりきっているとおもいます。」

(『日本語の純潔のために』一四五・一四六頁)

「文献の多いものが、すぐれた言語」なら、毎日何十冊と新刊が出る現代の、そして恐らくは世界一書籍の發行部數の多い日本語は、言語として世界一優れてゐるといふことになる。いかにも唯物的な發想である。全くナンセンスである。量が價値を決めると言ふのなら、「三一書房」といふ既に倒産した出版社の書籍である本書は、價値がないといふことになる。さういふふざけたことを言つてゐることになる。

  この程度の認識で、「どちらがよいかは、わかりきっているとおもいます」などと言はれて、「現代かなづかい」の方が優れてゐますと言へるのは、相當のおつちよこちよいであらう。

  さねとう・けいしゅうについては、もうこれくらゐで良いだらう。あまりにも程度が低い。

  さて、次は吉川幸次郎についてである。

  吉川が、國語問題について觸れたのは、次の五つである。

①「国語について」昭和十五年

②「字音かな遣ひあらたまれりといふを聞きて」昭和十七年

③「日本語表記法の問題」昭和二十五年

④「かなづかい論――一古典学者の発言」昭和二十六年

⑤「かなづかい三論」昭和三十年

⑥「かなづかい」昭和四十三年

 

 これらについて、大變要領よくまとめたものが、丸谷才一氏の「言葉と文字と精神と」(『桜もさよならも日本語』所收)の中に書かれてゐる。吉川本人の文章は、すべて『吉川幸次郎全集』第十八卷に收められてゐるが、それがすぐに手に入らない人は、丸谷氏のこの本をお讀みになつていただきたい。新潮文庫に入つてゐる(が、今心配になつて新潮社のホームページを見ると、本書も品切れのやうである。再版する可能性はないわけでもないだらうが、それほど入手困難な本でもなからうから、古書店でお探しいただきたい。當代の代表作家の書であり、國語問題の必讀書でもある本書も品切れといふのは、じつに情けない話ではある)。

  丸谷氏の論旨も明快で、批判すべき觀點もまことに適切で痛快である。餘談ながら、この方は小説よりも批評の方が數段、上であるやうに思ふ。

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言葉の救はれ――宿命の國語235

2008年01月20日 14時56分17秒 | 福田恆存

十三 福田恆存の論敵たち

   今囘からは、新しい章に入ります。

  さねとう・けいしゅうの『日本語の純潔のために』(三一新書・昭和三二年)を讀んだ。福田恆存・金田一京助論爭を、「表音式かなずかい」の側から整理した「歴史的かなずかいか、現代かなずかいか」が輯録されてゐるからである。

どうだらう、讀者諸兄はどうお思ひになるだらうか。「かなずかい」である。「かな」を外したら「すかい」(sukai)である。「使ひ」との關聯どころか、「つかい」とのつながりさへも見えなくなつてしまふ。音に從ふといふことをここまで徹底せよといふことなのだらうが、まつたくその感覺は、尋常なものではない。

ちなみに、さねとう・けいしゅうとはどういふ人物か。明治二九年生まれ。早稲田大学の教授を務め、専門は支那語學・支那文學。『中国新文学発展略史』『アジアの心』などがある。

  本書の序には「著者と読者へ」と題された、歌人の土岐善麿の文章が寄せられてゐる。そこには次のやうに書かれてゐる。

「かなづかい問題に関する諸家の論争に対する批判、ないし客観的な、科学的な整理の方式は、国語改革における教授の理念の具体的な『応用』ともみるべきもので、もし教授のような進歩的な理論が承認され、その厳正な態度が保たれ更に、こうした解明の能力がだれにも持たれたら、あの論争も、徒らに感情的な混迷をまねくことはなかったでしょう。そしてそれが国民一般の解決すべき課題の提示となり得たであろうとさえ考えられます。」

 笑止である。「かなずかい」と書くことがどうして「科学的」であるのか、「使ひ」を「ずかい」と表記することがどうして「進歩的な理論」なのか、自明のこととして記してゐただけに、今日の目で見ると滑稽である。何をもつて「科学的」とするのかの説明のないままに、いかにも自分たちが文明の先を行く「進歩派」であるかのやうに錯覺するのは、この種の人人のいつものことであるが、一教授の理念の具体的な『応用』」などといふことを國語改革のあり方において求め、それを卷頭に載せるといふ著者の姿勢が、問ふに落ちずに語るに落ちた話である。

  一瞥する。

  次のやうな言語觀から出發した「国語改革」の理念とは、滑稽を通り越して悲慘ですらある。

「文字は言語の道具でしかありません。道具であるなら、言語の変化につれて変化してゆくべきです。現代かなずかいの方が歴史的かなずかいよりも自然です。」

(前掲書一四四頁)

  これは明らかな事實誤認である。國語改革といふ名稱が明らかに示すやうに、「改革」といふのは誰かが意圖的にするものであつて、秋になつて葉が紅葉し落ちるやうには「自然」な變化ではない。あるいはかうも言へる。道具が錆びるのは自然であるが、錆びが來ないやうに手入れをするのが自然なのである。道具といふ言葉で、「たかが言葉」と貶しめようとする魂膽だらうが、その言葉遣ひにすでに纖細さを缺いてゐる。道具ならばこそ、叮嚀に扱はなくてはならないのである。

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言葉の救はれ――宿命の國語234

2008年01月18日 11時15分00秒 | 福田恆存

(承前)234

 戰後の國語改革の誤つた點は、漢字制限についてだけではない。假名遣ひの改惡にたいしても同じことが言へよう。言葉が手段であるとは私は斷じて思はない。手段なら、その前にそれを使ふ自己の内に言葉に依らない觀念がなければならない。しかし、觀念は言葉によつてしか作りえないものであり、それがなければ蓄積も表出もできない單なる氣分の斷片なのである。不機嫌な思ひは漠然とはあるとしても、それを言葉にするとは、言葉によつて整理し安定させることなのであつて、その場合の主體は、言葉を發する私たちであるといふよりは、むしろ言葉の方であらう。そして、その言葉とは「私」自身が作り出したものでないのであつてみれば、言葉こそが目的(本質)で、私たち(の書字や發話の行動)は手段(現象)にすぎまい。

  あるいは百歩讓つて、「人間が本質で言葉は現象である」としても、用字や假名遣ひに、その時その人の必要があるのであれば、それを一刀兩斷に否定して「現代に生きるなら現代かなづかいで通せ」といふのはどう考へてもやり過ぎである。

  英語ではアルファベットの數は決まつてゐるではないか、それでも文體や個性は十分に可能で、文字や假名遣ひに過剩に執するのはをかしいといふ比較文化論でこの問題について言つてくる人がゐるかもしれないが、それの方がをかしい。比較文化で言ふのなら、同じ中國でも大陸は簡體字で臺灣は繁體字である。その違ひがどこから生まれたのか、政治家の意志である。毛澤東がゐたかゐなかつたかである。文字の歴史において、過去とのつながりを求めたか、斷絶を企てたかの違ひである。

  それに、歐米言語とは全く文化を異にする私たちの國語の有り樣を單純な比較文化で決めるとは、近代主義の迷ひ言である。もつともかういふことを言ふ人間は、以前よりは少なくなつたことも事實である。かつてほどには近代主義への信頼がなくなつたといふことでもあるし、言葉なんてどうでもいいぢやないか、個人の勝手だといふほどに、文化無關心が増えたといふことでもある。

  戰後といふものへの反省が近年盛になつてきた。憲法改正すらタブー視されない今日の時代はしかしまだまだたくさんの誤謬を犯してゐる。そして、その中心こそ、この國語の問題であり、言葉への無關心なのである。近代が個人の自立によつて始まるのだとしたら、言葉への無關心は實は決定的な問題なのである。福田恆存が言つたやうに、私たちには近代がまだ始まつてゐないのではあるまいか。

  言葉を簡單に、ひどいものではフランス語にしてしまへなどといふ人がゐた時代の空氣は、近代=西洋の枠組の中でつくられたものであつた。だから、國語も改革することが當然必要であると思はれたのである。

しかし、明治の法律、産業その他の改革が、外發的であつたと同じやうに、國語國字の改革もまさしく外發的であつた。かうならねばならぬといふ目標の前にすべてが手段と化し、日常の次元で改變を迫られた結果である。國語を自ら變へようとするには、相當の熱意と根據とがなければならない。そしれそれは、すべての改革が本來さうであるべきだが、個人の名において爲されるべきものである。「國語審議會」なる正體不明の、不特定の、無機質な、言つて良ければ無責任の媒介によつて行はれるべきことではない。ましてや、その正體不明のものによつて強制されるなどといふことは、最も謹むべき惡行である。

言葉が、かうして自立性を確保できないのであれば、何の近代化か――私にはさう感じられてならないのである。

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