(承前)
さねとう・けいしゅうは、さらにはこんなことを言ふ。言語に優劣をつけるといふ感覺それ自體が、今讀むとずゐぶんお氣樂な言語認識であるが、それ以上に、その基準があまりに滑稽である。
「語彙が豊富であり、表現方式(文法組織)が豊富で、自由に、こまかい表現まででき、また、その言語による文献の多いものが、すぐれた言語です。忠実に言語をうつすことができ、はやくかけるものが、すぐれた文字です。千年まえの言語を忠実にうつしたのが歴史的かなずかい、いまの言語を忠実にうつそうとするのが(いまはまだ一部分忠実にうつされていませんが))現代かなずかい。どちらがよいかは、わかりきっているとおもいます。」
(『日本語の純潔のために』一四五・一四六頁)
「文献の多いものが、すぐれた言語」なら、毎日何十冊と新刊が出る現代の、そして恐らくは世界一書籍の發行部數の多い日本語は、言語として世界一優れてゐるといふことになる。いかにも唯物的な發想である。全くナンセンスである。量が價値を決めると言ふのなら、「三一書房」といふ既に倒産した出版社の書籍である本書は、價値がないといふことになる。さういふふざけたことを言つてゐることになる。
この程度の認識で、「どちらがよいかは、わかりきっているとおもいます」などと言はれて、「現代かなづかい」の方が優れてゐますと言へるのは、相當のおつちよこちよいであらう。
さねとう・けいしゅうについては、もうこれくらゐで良いだらう。あまりにも程度が低い。
さて、次は吉川幸次郎についてである。
吉川が、國語問題について觸れたのは、次の五つである。
①「国語について」昭和十五年
②「字音かな遣ひあらたまれりといふを聞きて」昭和十七年
③「日本語表記法の問題」昭和二十五年
④「かなづかい論――一古典学者の発言」昭和二十六年
⑤「かなづかい三論」昭和三十年
⑥「かなづかい」昭和四十三年
これらについて、大變要領よくまとめたものが、丸谷才一氏の「言葉と文字と精神と」(『桜もさよならも日本語』所收)の中に書かれてゐる。吉川本人の文章は、すべて『吉川幸次郎全集』第十八卷に收められてゐるが、それがすぐに手に入らない人は、丸谷氏のこの本をお讀みになつていただきたい。新潮文庫に入つてゐる(が、今心配になつて新潮社のホームページを見ると、本書も品切れのやうである。再版する可能性はないわけでもないだらうが、それほど入手困難な本でもなからうから、古書店でお探しいただきたい。當代の代表作家の書であり、國語問題の必讀書でもある本書も品切れといふのは、じつに情けない話ではある)。
丸谷氏の論旨も明快で、批判すべき觀點もまことに適切で痛快である。餘談ながら、この方は小説よりも批評の方が數段、上であるやうに思ふ。