『諸君!』二月號の「行動家・福田恆存の精神を今に生かす」は、たいへん讀みごたへのあるものでしたね。久しぶりに讀むのが惜しくなるやうな論文で、じつくりと讀ませてもらつた。さすが福田恆存の謦咳に觸れてゐた方だけあつて、福田恆存の思想がどうのやうな口調で話されてゐたのかを知つてゐる、貴重な言説である。もちろん、身近にゐたがゆゑに見えないものもあるはずで、ああ、そんな野暮なことはここでは言はないことにしませう。
ただ、編輯部のつけた「長持ちする思想家」といふのはひどすぎますね。度し難いセンスです。さういふ切り口で福田恆存を讀んでゐる讀者はゐない。さういふ、國語の傳統に馴染まない言葉を使つて平氣でゐる人間を斬るのが福田恆存なのです。
さて、西尾氏の「福田恆存はハムレットである」といふ見方は、まつたく同感ですね。ですが、それが「行動家」と命名されるのはちと異論があります。特に、西尾氏の「行動」は政治行動や社會運動のことであるやうですし、確かに日本文化會議や國語問題協議會や現代演劇協會などの創設を見ると福田恆存=行動家といふ圖式が當てはまるやうに見えます。ですが、やはりそれは事の表面だけであつて、その裏面でのより大きな精神的營爲の方が私には重要に思はれます。
言つてよければ、それは「祈り」なのです。何に祈るのか、つていふ疑問は當然起きますがね、それはもちろん神でせう。自然と言つても良い。内村鑑三流に「天然」と言つた方が良いでせうか。自あるものではなく、天に由來するものといふ意味で。『人間・この劇的なるもの』のなかでの「個人を否定する爲の全體」といふのは、西尾氏が言ふやうな國家や共同體や歴史といふものばかりでなく、それらを包攝する、あるいは超越する「何か」だと思ひます。福田恆存はそれを意識し、それに祈りつつさまざまな決斷をしてきた。
「主人持ち」といふ言葉が、この論文の中ほどに出て來ましたが、論爭相手の「主人」に對して、こちらも別の「主人」をもつて來る、それでは結局政治主義に終はつてしまふ。福田恆存は、私もあなたも同時に否定し肯定する「全體」を見てゐた。ところが、西尾氏には、それが見えてゐない。そんな風に感じましたね。だから、西尾氏の「行動」とは「政治運動」と同義なのであつて、平たく言へば「はないちもんめの掛け聲」に過ぎないのです。西尾氏の言説が、他者を寄せ付けない言ひ放しのやうに見えてしまふのも、自分の「主人」をかざしてゐるだけにしか見えないからかもしれません。
それに對して、福田恆存の行動とは祈りなのです。だからこそその言葉は時代を越えて讀者の心を引きつけるのです。どうせ「長持ちする」と言ふのなら、そこまで言つて欲しかつたですね、編輯部の方。「祈りの人・福田恆存の精神を今に生かす」ですよ。
「これ以上自我の芯で戰ふのは間違ひではないかと最近しきりに考へてゐる」といふ一九七〇年代の福田恆存の發言の眞意も、私には「自我(告白)の否定=祈り」でなければ、自己の言動がすぐに何かの集團の擁護論として見られ、政治主義に絡めとられてしまふといふ意味であるやうに思はれます。政治運動は、平面のシェア擴大運動にしか過ぎないんです(ここら邊りは、最新の『昧爽』に書きましたので、興味のある方、讀んでみて下さい)。
ですが、かうした瑕疵とは別に、實に有益な指摘もありました。
福田恆存の用語の「自由」と「宿命」との定義にはゆらぎがあるといふこと。これはなるほどさうだなと膝を打ちました。曖昧にしてゐたところをずばりと言はれたやうでした。
それから、平和、民主主義、平等、自由などの概念の安易さに人人が氣附き、福田恆存の言説が表面的には「常識」になつてしまひ、保守化してゐるが、それだけに問題點が潛在化してしまつてゐるといふ認識は、私も共有してゐるものです。
いつの日か、大部の福田恆存論を御書きになるんでせうね。それを心より期待してゐます。年末のオピニオン誌に、かういふ痛快な文章が載つたといふのは、たいへん嬉しかつた。もちろん、今年最高の文章です。
ただ、編輯部のつけた「長持ちする思想家」といふのはひどすぎますね。度し難いセンスです。さういふ切り口で福田恆存を讀んでゐる讀者はゐない。さういふ、國語の傳統に馴染まない言葉を使つて平氣でゐる人間を斬るのが福田恆存なのです。
さて、西尾氏の「福田恆存はハムレットである」といふ見方は、まつたく同感ですね。ですが、それが「行動家」と命名されるのはちと異論があります。特に、西尾氏の「行動」は政治行動や社會運動のことであるやうですし、確かに日本文化會議や國語問題協議會や現代演劇協會などの創設を見ると福田恆存=行動家といふ圖式が當てはまるやうに見えます。ですが、やはりそれは事の表面だけであつて、その裏面でのより大きな精神的營爲の方が私には重要に思はれます。
言つてよければ、それは「祈り」なのです。何に祈るのか、つていふ疑問は當然起きますがね、それはもちろん神でせう。自然と言つても良い。内村鑑三流に「天然」と言つた方が良いでせうか。自あるものではなく、天に由來するものといふ意味で。『人間・この劇的なるもの』のなかでの「個人を否定する爲の全體」といふのは、西尾氏が言ふやうな國家や共同體や歴史といふものばかりでなく、それらを包攝する、あるいは超越する「何か」だと思ひます。福田恆存はそれを意識し、それに祈りつつさまざまな決斷をしてきた。
「主人持ち」といふ言葉が、この論文の中ほどに出て來ましたが、論爭相手の「主人」に對して、こちらも別の「主人」をもつて來る、それでは結局政治主義に終はつてしまふ。福田恆存は、私もあなたも同時に否定し肯定する「全體」を見てゐた。ところが、西尾氏には、それが見えてゐない。そんな風に感じましたね。だから、西尾氏の「行動」とは「政治運動」と同義なのであつて、平たく言へば「はないちもんめの掛け聲」に過ぎないのです。西尾氏の言説が、他者を寄せ付けない言ひ放しのやうに見えてしまふのも、自分の「主人」をかざしてゐるだけにしか見えないからかもしれません。
それに對して、福田恆存の行動とは祈りなのです。だからこそその言葉は時代を越えて讀者の心を引きつけるのです。どうせ「長持ちする」と言ふのなら、そこまで言つて欲しかつたですね、編輯部の方。「祈りの人・福田恆存の精神を今に生かす」ですよ。
「これ以上自我の芯で戰ふのは間違ひではないかと最近しきりに考へてゐる」といふ一九七〇年代の福田恆存の發言の眞意も、私には「自我(告白)の否定=祈り」でなければ、自己の言動がすぐに何かの集團の擁護論として見られ、政治主義に絡めとられてしまふといふ意味であるやうに思はれます。政治運動は、平面のシェア擴大運動にしか過ぎないんです(ここら邊りは、最新の『昧爽』に書きましたので、興味のある方、讀んでみて下さい)。
ですが、かうした瑕疵とは別に、實に有益な指摘もありました。
福田恆存の用語の「自由」と「宿命」との定義にはゆらぎがあるといふこと。これはなるほどさうだなと膝を打ちました。曖昧にしてゐたところをずばりと言はれたやうでした。
それから、平和、民主主義、平等、自由などの概念の安易さに人人が氣附き、福田恆存の言説が表面的には「常識」になつてしまひ、保守化してゐるが、それだけに問題點が潛在化してしまつてゐるといふ認識は、私も共有してゐるものです。
いつの日か、大部の福田恆存論を御書きになるんでせうね。それを心より期待してゐます。年末のオピニオン誌に、かういふ痛快な文章が載つたといふのは、たいへん嬉しかつた。もちろん、今年最高の文章です。