最後に、觀劇の感想を書かせてもらふ。
第一に笑ひの質が變はつてしまつたといふことを痛感した。變はつたなどといふ言ひ方は適切ではない。低俗になつたのである。知識人を笑ひながら、實は自分を笑ふといふアイロニーを面白いと思ふ感覺が乏しい。男を裸にして踊らせたり、「おバカ」を賣りにする藝人に歌はせたりするのを喜ぶ大衆に、諧謔(ユーモア)や皮肉(アイロニー)は通用しない。
第二に、村木といふ役を演じることの難しさである。この役柄には重みがなければならない。自己否定と自己肯定とに激しく引き裂かれ、狂人と超人とが同居するには支點となる強い何かがなければならない。それがあるゆゑの陰翳の濃さが舞臺の上に滲み出てくるものでなければ、最後の自殺は演じきれない。はたしてさういふ役者がゐるだらうか。
第三に、舞臺裝置のミスマッチである。コンクリートむき出しの梁や壁が常時背景にあるのは、この劇の主題にとつて必要であらうか。すりばち状になつた舞臺の作り方は蟻地獄のやうに登場人物たちの意識を引きずりこんでいくことを示してゐるのだらうか。それは非常に興味深いが、役者を演じにくくさせてゐるやうに私には見えた。
第四に、原作から削除した部分についての疑問である。特に村木の臺詞の省略は命取りになりはしなかつたか。臺本がないので記憶を頼りに言へば、ホテル内での村木の言葉は省いてはなるまい。
第五に、福田恆存自身の感想を。自らこの芝居を演出してのものである。「眞の主題、あの『明るい死』はやはり表現し得なかつた(中略)。今や、演出家としての私は作者としての私に向つて、作品に無理があるのではないかといふ疑問を抱き始めてゐる」(『せりふと動き』)。
ここまで作者が書くのだから、私もその勢ひで言はせてもらはう。この芝居がすつきりと傳はらないのは、「解つてたまるか!」といふタイトルに一因があるやうに思はれる。啖呵がききすぎて觀客はついて來られない。いくら頭を整理しようとも「解つてたまるか!」ともうひとりの自分がつぶやけば、卓袱臺をひつくり返されるやうに思考が混亂してしまふ。玉葱の皮むきのやうに、どこまで行つても芯がないので腑に落ちてこないのだ。演出家、役者、觀客いづれの理解をもあへて拒否するかのやうな強烈な言葉である。また「解つてたまるか!」が、解つてもらひたいがゆゑの言葉なのか、解つてもらひたくないがゆゑの言葉なのか、あるいは解りつこないといふあきらめなのか、解つたなどといふ誤解への批難なのか、幾重にも意味をとることができる多重性は面白いとも言へるが、主題がぼやけてしまふといふ危險性も内包してゐる。口がすべるといふ言ひ方があるが、タイトルがあまりに決まりすぎてかへつて主題が擴散してしまつた。何をどう考へても「解つてたまるか!」と言はれれば、觀客の心情は彈き飛ばされよう。それでも食らひつく力強い觀客を期待してゐた福田であらうが、私たちにはそんな活力はもはやない。福田は當初「金嬉老」と音が近い「蜃氣樓」といふ題にしたかつたらしいが、手應へのない世界といふ意味ではそれの方がよかつたかもしれない。それとも「解ることなんてできやしない」などとすれば主題は明確になるが、それでは説明的すぎるだらうか。
以上、生意氣なことを言つてしまつたが、この芝居の關係者ならそれこそ笑つて「解つてたまるか!」と言つてくれるに違ひない。