言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

40年ぶりに目を光らせます…太陽の塔

2010年02月24日 13時09分46秒 | 日記・エッセイ・コラム

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100223-OYT1T00066.htm

 大阪府吹田市の万博公園で3月27日から、太陽の塔上部の「黄金の顔」の目玉が夜間に連日点灯されることになった。

 大阪万博(1970年)の開催40周年を記念し、当時の投光器を使って40年ぶりに瞳の輝きを取り戻すことになる。

 日本万国博覧会記念機構によると、太陽の塔は万博会期中、サーチライトのような照明を夜間にともしていた。閉幕後、大阪(伊丹)空港の運航の妨げになるとして点灯を中止。同機構が、発光ダイオード(LED)で点灯すれば航空機の運航に支障がないことを確認し、LEDを使うことにした。

 2004年9月には、愛知万博の記念事業として、仮設照明器を目玉近くに置き、一日限定で点灯。今回は、大阪万博当時の投光器の電球をLEDに取り換え、日没から午後11時、目玉全体を浮かび上がらせる。

(2010年2月23日  読売新聞より)
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只今、通算110203件です。

2010年02月22日 21時12分24秒 | 日記・エッセイ・コラム

 アクセス数が110000件を越えました。ありがたうございます。内容がかなり限定されたものであるにも関はらず、毎日70件弱の方に閲覧いただいてゐることは、たいへん嬉しいことです。素直に感謝し、お礼を申し上げます。

 年末から年始にかけて福田恆存の「獨斷的な、あまりに獨斷的な」を讀み、明治文學史について隨分と思考を巡らしました。何か書いてみようと思つたままそれきりになつてしまひました。

   ところで、二葉亭四迷についてもつと讀むべきかなとも思ひ、新潮文庫の『平凡』を手にしてみたら、何と線が引かれ、何やらコメント書きまでされてゐました。讀んだことも、それについて評言を記したことも忘れてゐるやうではと愕然としました。歳と共にそんなことが増えて來てゐます。

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『解つてたまるか!』鑑賞録――福田恆存が斷念したこと その7

2010年02月21日 08時43分51秒 | 日記・エッセイ・コラム

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 最後に、觀劇の感想を書かせてもらふ。

  第一に笑ひの質が變はつてしまつたといふことを痛感した。變はつたなどといふ言ひ方は適切ではない。低俗になつたのである。知識人を笑ひながら、實は自分を笑ふといふアイロニーを面白いと思ふ感覺が乏しい。男を裸にして踊らせたり、「おバカ」を賣りにする藝人に歌はせたりするのを喜ぶ大衆に、諧謔(ユーモア)や皮肉(アイロニー)は通用しない。

 第二に、村木といふ役を演じることの難しさである。この役柄には重みがなければならない。自己否定と自己肯定とに激しく引き裂かれ、狂人と超人とが同居するには支點となる強い何かがなければならない。それがあるゆゑの陰翳の濃さが舞臺の上に滲み出てくるものでなければ、最後の自殺は演じきれない。はたしてさういふ役者がゐるだらうか。

 第三に、舞臺裝置のミスマッチである。コンクリートむき出しの梁や壁が常時背景にあるのは、この劇の主題にとつて必要であらうか。すりばち状になつた舞臺の作り方は蟻地獄のやうに登場人物たちの意識を引きずりこんでいくことを示してゐるのだらうか。それは非常に興味深いが、役者を演じにくくさせてゐるやうに私には見えた。

 第四に、原作から削除した部分についての疑問である。特に村木の臺詞の省略は命取りになりはしなかつたか。臺本がないので記憶を頼りに言へば、ホテル内での村木の言葉は省いてはなるまい。

 第五に、福田恆存自身の感想を。自らこの芝居を演出してのものである。「眞の主題、あの『明るい死』はやはり表現し得なかつた(中略)。今や、演出家としての私は作者としての私に向つて、作品に無理があるのではないかといふ疑問を抱き始めてゐる」(『せりふと動き』)。

 ここまで作者が書くのだから、私もその勢ひで言はせてもらはう。この芝居がすつきりと傳はらないのは、「解つてたまるか!」といふタイトルに一因があるやうに思はれる。啖呵がききすぎて觀客はついて來られない。いくら頭を整理しようとも「解つてたまるか!」ともうひとりの自分がつぶやけば、卓袱臺をひつくり返されるやうに思考が混亂してしまふ。玉葱の皮むきのやうに、どこまで行つても芯がないので腑に落ちてこないのだ。演出家、役者、觀客いづれの理解をもあへて拒否するかのやうな強烈な言葉である。また「解つてたまるか!」が、解つてもらひたいがゆゑの言葉なのか、解つてもらひたくないがゆゑの言葉なのか、あるいは解りつこないといふあきらめなのか、解つたなどといふ誤解への批難なのか、幾重にも意味をとることができる多重性は面白いとも言へるが、主題がぼやけてしまふといふ危險性も内包してゐる。口がすべるといふ言ひ方があるが、タイトルがあまりに決まりすぎてかへつて主題が擴散してしまつた。何をどう考へても「解つてたまるか!」と言はれれば、觀客の心情は彈き飛ばされよう。それでも食らひつく力強い觀客を期待してゐた福田であらうが、私たちにはそんな活力はもはやない。福田は當初「金嬉老」と音が近い「蜃氣樓」といふ題にしたかつたらしいが、手應へのない世界といふ意味ではそれの方がよかつたかもしれない。それとも「解ることなんてできやしない」などとすれば主題は明確になるが、それでは説明的すぎるだらうか。

 以上、生意氣なことを言つてしまつたが、この芝居の關係者ならそれこそ笑つて「解つてたまるか!」と言つてくれるに違ひない。

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『解つてたまるか!』鑑賞録――福田恆存が斷念したこと その6

2010年02月15日 21時20分32秒 | 日記・エッセイ・コラム
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 ついでながら、同じ頃のインタビューのなかで福田恆存はかう語つてゐる。

     僕は偽善と感傷というのがなにより嫌いなんです。感傷というのはいつわりの感情、偽善というのは偽りの道徳感ですね。それがみんな通用しちゃう。昔は偽善者と言われると、ギョッとしたものです。偽善者はみんな自分が偽善をやっているという意識がある。私は自分がやっていることはいかに善とかけ離れているかという気があるから、偽善者と言われると内心ギョッとしますが、今の人は、偽善をやっているという意識がない。自分はほんとうに天下、国家のためを思って、エゴイズムなどちょっともないきれいな人間と思い込んでいるから、「偽善者め」と言っても、てんで通じない。そこで道徳感もあやふやになり、人間の感情もあやふやになり、人間関係もあやふやになって、すべてがごまかしになってしまう。そういうところで居心地よく住んでいる人間とは、これはどうなんだろうということですね。悲劇仕立てにしろ、喜劇仕立てにしろ、文学があつかうべき問題というのは、一番そこにあるのじゃないかな。

                      (「文学を語る」『三田文学』昭和四十三年十二月號)

 どうやら福田にとつて、この芝居が悲劇か喜劇かはあまり問題ではないらしい。村木がハムレットよろしく決鬪でもして死ねば悲劇として描けるが、これまで見てきたやうに村木を殺す主體を現代日本人に搜し出すことができない以上、自殺させるしかあるまい。ハムレットの死が悲劇たり得たのは、彼を受け止めたホレイショーがゐたからである。しかし、「走れ、メロス!」で全てが逃げてしまつた以上、悲劇となるのは不可能だ。となれば喜劇仕立は必然だ。ただ、その喜劇が痛快な終り方ではなくアイロニーを釀し出してしまふのは、自分の言動を省みる習慣を持たない人間が、それゆゑに安穩と暮らし他人まかせの幸せを享受してゐる状況への作者の苛立ちがあるからのやうに思へる。人間は所詮理解をし合へない存在である、その孤獨が中心主題にはあるとしても、怜悧な福田恆存ならもつとからりと終幕を書けたやうにも思ふ。

 「涙で考へずに腦細胞で考へる習慣を附ける事だな」(第三幕)と村木は、大學教授の後藤に言ふが、それは僞善と感傷に流されず、空疎で觀念的な言葉を使はずに、自分の頭で考へた言葉で話せといふことである。その傳にならへば、涙の色は違ふにせよ、「腦細胞で考へ」たこの芝居自體にも涙が滲み出てゐるやうだ。が、それから四十年、今日ではさらに「腦細胞で考へる習慣を附ける事」はなくなり、それどころか「涙」で考へることもなく、末梢神經の刺戟に反應するだけである。象徴的なのは、この芝居においても人人の笑ひが集中したのが漫才のやり取りのやうなところであつたといふことであらう。この芝居は興業的にうまく行つたとは思へない。もしかしたらこのままお藏入りといふことになるかもしれない。それはなぜか。アイロニーを理解し樂しむゆとりが私たちにないからである。

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『解つてたまるか!』鑑賞録――福田恆存の斷念したこと その5

2010年02月12日 21時03分32秒 | 日記・エッセイ・コラム
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 さてここまでくれば、村木といふ人物を離れてもう少し一般化して考へても良いだらう。

 福田恆存はこの戲曲を書いて間もなく、『文藝春秋』の八月號に「僞善と感傷の國」といふ評論を書いた。今改めて讀み返せば、兩作はまさに合はせ鏡である。以下は私が適宜補足した要約である。

  金嬉老が犯した罪は、殺人である。その背景にたとへ民族差別の問題があつたとしてもだ。ところが、殺人といふ「結果」以上に、世論は「動機」を重視した。そして、そこに同情や共感を示した。しかし、それでは「他のすべての眞面目な朝鮮人を愚弄する事になる」。どんな理由があらうとも「殺人を正當化する如何なる大義名分も存在しない」。「僞善は虚僞の道徳感から發し、感傷は虚僞の感情から發する」。まつたくその通りである。

 僞善を行ひ感傷を抱く前提には、御爲ごかしの善意がある。犯罪者を救ふには、犯罪といふ行爲から視線をそらせばよい、それが善意である、これが世論の考へである。彼らは善人になりたいのだ。だから、行爲よりも動機を見ようとする。なぜか。逆説ながら動機は見えないからである。見えないものにはいくらでも胡麻化しがきく。よつて僞善を實行しやすくなる。かくて世論は善意でもつて犯罪者を救つたといふ僞善を堂堂と實行できるのである。そして、そこには共犯者がゐる。「人權辯護士」や「戰後民主主義者」である。彼らこそ「進歩的文化人」であるが、彼らは何において進歩してゐるのだらうか。それは感傷に溺れ僞善を行ふ術においてである。しかし、世論も彼らを尊崇などしてゐない。彼らの言論がそもそも御爲ごかしのものであり、裏側にはべつとりと利己心が張付いてゐることを人人も感じてゐるからである。しかし、そこが偽善者の偽善者たるゆゑんである。必要ないものは見ない。「善意」の行爲を告發すれば自ら同じ穴のムジナであることを暴露してしまふことになる。よつて決してそれはしない。ひたすら感傷に身をまかすのである。ここに見事に共犯關係が成立し、僞善と感傷の國が完成するといふ構圖である。

  そこで、福田恆存はかう言ふ。そもそも「動機などといふ曖昧なものを相手にしてゐると、人間は氣違ひになる」。「全體のためであらうと自分一個の爲であらうと、いづれにせよ目に見える形として結果はどうなつたかといふ事だけ考へるにしくは無い」。

 自らが被害を受けたら、こんなことは自明の理である。自分の家族が殺されても、「父よ彼を赦し給へ、彼は何をしてゐるのか解らないのです」と言つて犯人に同情や共感を寄せるやうな人はゐまい。さういふ當り前の反應がどうして犯人が「譯あり」であるとできないのか。それを福田は、民主主義だとか人權だとかの「空疎な言葉や觀念」で利己心を隱蔽しようとしてゐるからであると言ふ。そして、それを一掃したいと書いてゐる。『解つてたまるか!』とは、かうした「動機論的思考法」への痛撃であつたのだ。近年起きてゐる獵奇的犯罪において、「動機論的思考法」は「精神鑑定」といふ新たな「空疎な言葉や觀念」を身にまとひ活躍してゐるが、それをみても「解つてたまるか!」と言ひ續ける必要はあると實感する。

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