言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

三浦哲郎氏逝去

2010年08月29日 22時16分47秒 | 日記・エッセイ・コラム

忍ぶ川 (新潮文庫) 忍ぶ川 (新潮文庫)
価格:¥ 540(税込)
発売日:1965-04
 三浦哲郎氏が亡くなつた。79歳である。

『忍ぶ川』は、名作である。偶然にも今日、宮本輝の『螢川』と共に書庫から持つて來た。先日新聞に、體調を崩してゐたがやうやく小説を書く氣になつてきたと書かれてゐたのを讀んだので、いつさう淋しさが募る。

井伏鱒二の御弟子であつて、短篇を書かせたら當代隨一の作家であつたと思ふ。「とんかつ」は忘れられない作品である。兄を精神的な病で失ひ、姉は確か青函聯絡船から海に飛込んだのだつたと思ふ、さういふ呪ひにも似た精神の脅迫を受けながら、書いた小説だけにどこか哀愁が漂つてゐる。芥川賞の銓衡委員を永らく務めてゐらしたが、「辭書を引かなければ讀めない小説を讀むのは嫌になつた」といふ言葉を殘して辭められた。昭和の文人には、J文學は理解できないだらう。當然のことである。私にも今の芥川賞はつまらなく思へる。

御冥福を祈る。合掌

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文學以前の生活

2010年08月29日 18時29分39秒 | 文學(文学)

蛍川・泥の河 (新潮文庫) 蛍川・泥の河 (新潮文庫)
価格:¥ 380(税込)
発売日:1994-12
  今朝、トランクルームに本を探しに行つた。すると宮本輝氏の『泥の河』が目に止つた。同時に輯録されてゐる『螢川』の印象は強烈に覺えてゐるが、こちらの方は記憶にない。確かに讀んだはずなのに不思議である。しかし、讀んで見てしみじみと心が打たれて離れない。きつと以前讀んだときもさうであつたであらうのにである。またいつの日か忘れてしまふのであらうか。悔しい思ひも片隅にある。

  解説を桶谷秀昭氏が書いてゐた。これも失念してゐた。

――『泥の河』で出發した宮本輝は、若年にして文學以前の生活に心を勞した人の翳をその表情に漂はせてゐた。

   この小説は、昭和三十年の大阪を描いてゐる。かう書かれてゐた。「昭和三十年の大阪の街には、自動車の數が急速に増えつづけてゐたが、まだかうやつて馬車を引く男の姿も殘つてゐた。」

   土佐堀川の邊りでも馬車が歩いてゐた。さういふ時代からまだ半世紀である。

   桶谷氏は、かうも書いてゐる。

――近代生活の味を知つてしまつた日本人が、銀子の感受性を失つてしまつたとしたら、やはりそれは美徳の喪失にほかならないのである。失はれた美徳は、いまの日本人が再び貧困に見舞はれる事態になつたとしても、取り戻すことはできなのではないだらうか。むしろ貧してさらに淺ましくなる心性が露呈するかもしれない。

「銀子」とは、この小説のなかで泥に浮ぶ船の中で生活する家の女の子の名前である。無口であるが強い心の持ち主で、生活に耐えてゐることにも決して負けない少女である。「お米がいつぱい詰まつてゐる米櫃に手ェ入れて温もつてるときが、いちばんしあはせや」と言ふ女の子である。

   古風な小説である。が、かういふ小説が殘るのではないか。

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ミスタードーナッツの一号店は箕面店

2010年08月27日 22時28分54秒 | 日記・エッセイ・コラム

 どうでもよいことを書く。今朝、新聞を読んでゐたら、ミスタードーナッツの一号店は大阪府の箕面店であると書いてあつた。驚きである。それはもちろん今私が住んでゐる市だからである。確かにダスキンの大きなお店はあるが、その社長がアメリカに行つてミスタードーナッツのフランチャイズのことを知り導入したのが、まさか当地であるとは。驚いた。

 ミスタードーナッツには思ひ出がある。私が中学生の頃、当時住んでゐた静岡のある地方都市の駅前にもミスタードーナッツのお店が出来た。もう三十年以上前である。それを日曜日にわざわざ電車で出掛け買つて来た。家族の分を買つて帰り食べたのだ。これがじつに美味しかつた。エンゼルクリームと棒状のドーナッツ。穴の空いたいはゆるドーナッツ状でないドーナッツを初めて食べたのもそのときである。まさかドーナッツだけのお店ができるなんて信じられなかつた。あの半透明の紙で包み、砂糖がつかないやうにして食べるスタイルも、不思議な満足感があつて懐かしい。でも、今はもう食べない。正直言つて美味しいと思はなくなつてしまつたのだ。スターバックスのハニーシュガードーナッツの方が断然おいしいと思ふ。それも半分でいい。我が家はダスキンのモップと換気扇のカバーを利用してゐるから、ミスタードーナッツの割引券をいただくが、買ふことはない。こちらの味覚が変はつてしまつたのであらうか。あの懐かしい美味しい味を味はへないのはほんたうに残念なのだ。もし味が落ちてゐるのなら、復活させてほしいものだ。

 ところで、今夏久しぶりに韓国に行つたが、今は日本から撤退したダンキンドーナッツがあつたので食した。夜の十一時ごろに買つたのを翌朝に食べたのだが、悲しくなるほど美味しくなかつた。概して韓国のパンは美味しくないが、その予想は的中した。韓国は肉と野菜が美味しい。それで満足だ。ついでに、日本車の多さに驚いた。相変はらずクラクションを鳴らしながら猛烈なスピードで市中を走る車の風景が見られた。しかし、車の質は数段よくなり、地下鉄はきれいになり、ソウル駅の見違へるほどの豪華さに驚いた。

  友人との夕食を青瓦台近くのレストランで楽しんだが、わづか一時間半で味はへる隣国の情緒を十二分に楽しんで帰つてきた。

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保田與重郎生誕百年

2010年08月24日 11時55分30秒 | 文學(文学)

保田與重郎文芸論集 (講談社文芸文庫) 保田與重郎文芸論集 (講談社文芸文庫)
価格:¥ 1,103(税込)
発売日:1999-01-08
  日頃、毎日新聞は讀まないが、日曜日だけその書評論の充實に惹かれて讀んでゐる。とは言へ、最近は便利なものでネットで讀んでゐるのだが(これで新聞社の採算は合ふのであらうか)、それでも保存の價値ありと思ふ記事があれば、コンビニの賣店に行つて購入する。

  先週から昨日まで出張に出てゐて新聞を讀む機會がなかつたので、今朝ネットで「今週の本棚」を見ると、「この人この3册」に保田與重郎が取り上げられてゐた。これにまづ興味を持つた。毎日新聞が保田を取り上げるとは!  朝日や毎日の思想傾向を言ふのは時代錯誤だと思はれるかもしれないが、いやいやまだまだ健在なのではないか。毎日は日曜日しか讀まないからよく分からないが、朝日は毎日讀んでゐるから、特に終戰記念日前の記事を讀んでもその「傾向」は顯著である。固定讀者がゐる限り新聞の論調は變へられないだらう。

  まあそんなことはこの際には關係がない。話題は保田與重郎である。

  取り上げられてゐたのは、次の三册。

 <1>農村記(保田與重郎著/「保田與重郎文庫15 日本に祈る」所収/新学社/1040円)

 <2>日本の橋(保田與重郎著/「保田與重郎文庫1 改版 日本の橋」所収/新学社/ 756円)

 <3>絶對平和論(保田與重郎著/「保田與重郎文庫28 絶對平和論 明治維新とアジアの革命」所収/新学社/1323円)

 1は未讀だから、内容については分からない。タイトルや紹介文を讀むと、出征先の中國から奈良の櫻井に戻り、農作業に從事してゐた頃のことを書いてゐるやうだ。3もまた、平和のためには武器を捨てて農業に徹すべきといふ主張である。2は代表作であるが、日本の自然と文化との關はりについて書かれたもので、これは今でも讀まれていいと思ふ。

   かつて、ある研究會で、『保田與重郎』を書かれた桶谷秀昭先生に、「絶對平和論」について質問したことがある。私は「あれは保田特有のアイロニーか」と伺つた。桶谷先生は、確か「あれは本氣ですよ」と言はれたやうに記憶してゐる。その評價については私は分からない。だが、その「本氣」といふ言葉には返す言葉がなかつた。それ以降、保田を讀む氣がしなくなつたが、もう讀まないと斷言することはできない。今も惹かれるところがあるからだ。絶對平和といふのは、生活とは別次元の理念において必要なものであると思ふが、今はまだ考へを煮詰めてはゐない。

  保田與重郎生誕百年といふのも氣がつかなかつた。福田恆存の生誕百年は再來年である。

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摩擦のない清潔な貧しさ

2010年08月10日 09時15分44秒 | 日記・エッセイ・コラム

私の幸福論 (ちくま文庫) 私の幸福論 (ちくま文庫)
価格:¥ 672(税込)
発売日:1998-09
 福田恆存の『私の幸福論』を久しぶりに読み返した。最初に読んだのは、高木書房のもので、ハードカバーでエミリオ・グレコの「女の首」のデッサンが表紙に使はれてゐる。今は、ちくま文庫に入つてゐるので、簡単に手にすることができる。福田恆存のものは、今では文春文庫やちくま文庫や新潮文庫、そして麗澤大学出版会から評論集、文藝春秋から戯曲全集と随分新刊書が出てゐて、ありがたい。何がありがたいかと言へば、生徒にも勧めやすいといふことである。

 夏休みに『私の幸福論』を読ませることにした。『人間・この劇的なるもの』と選択を迷つたが、こちらはまだ早いと思ひ、諦めた。

 七月辺りから、ぼちぼち感想を言ひに生徒が寄つてきたが、その行為自体が本書に興味を寄せてゐる証拠であると一人合点して喜んでゐる。

 さて、表題は、本書の最後の章に出てくる言葉である。利己主義といふ「理想」を求めて生きる結果、人は孤独をかこつことになるが、その孤独から逃れるために更に利己主義を貫徹しようとして孤独になる。それは人が「快楽」を求めた結果であるのだ。そしてそれが、「摩擦のない清潔な貧しさ」であるといふ。青年は一人になりたがる、それは内省の好機とも言へる時期であつていたづらに否定するものでもないが、ますます内向きで閉鎖的になる、言はば自閉化する社会にあつては、いよいよ人間が物化してしまふのではないか。社会からの逃避、家族からの逃避、自己からの逃避=子ども手当ての要求、高齢者の所在不明、自殺者の増加、いづれもこの自閉化の表れではあるまいか。摩擦を避け、ひとりだけの清潔さを求め、それらが恥ずかしいことであることを知らない心の貧しさ、それが現代社会の病理である。

 もちろん、その社会の一員であることを棚に上げてゐても仕方がない。快楽主義にどつぷりと浸かつてゐることは明らかである。

 ただ病名を明らかにしてもらふだけでも救ひはある。治すのは各自の努力であるとしても、医者の診断はそれ自体が治療である。『私の幸福論』を読み返して、その正確な診断に感謝してゐる。

追記

今、高木書房のホームページを見たら、『私の幸福論』はまだ手に入るやうだ。ちくま文庫とはまた違つた味はひ(装丁)を楽しみたい方は、こちらで御注文ください。http://www2.ocn.ne.jp/~tkgsyobo/index.html

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