言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「アルキメデスの大戦」を観る

2019年08月18日 08時10分06秒 | 映画
小説 アルキメデスの大戦 (講談社文庫)
三田 紀房
講談社

 今夏は映画を一本だけ観た。時間はあつたが、観たいと思ふ映画がこれだけだつた。夏休みは子供映画が多いのだと改めて思ふ。

 戦艦大和がなぜ造られなぜ沈められたのかといふことが描かれてゐる。時代錯誤の発想と、組織防衛の論理とがそれを招いたといふ結論は、今日にも通じる日本社会の構造的欠陥であらう。さういふことをフィクションとCGとを通じて描かれるのである。その意味では新しいことは何もない。戦艦大和が轟沈するシーンから始まるのは監督のお手柄なのか原作の妙策なのかは分からないが、十二分に引き付けられた。大和が日本社会の象徴であると思へば、身につまされるやうな現実が私の周りにいくつもある。どうやつたら苦しまないで死ねるだらうかと考へながらそのシーンを観てゐた。なんて馬鹿なものを作つたのだとは今の私たちなら思ふだらう。空中戦の時代が来てゐるのに巨大戦艦大砲主義で挑むとはそもそもアナクロニズムであると笑ふこともできる。しかし、同じことを今もきつとしてゐるのだらう。特に教育の場面では保守的であるべきだと私は考へてゐるだけに、守るべきは何で変へるべきは何かを明らかにできない中での日々の営みは、もしかしたら戦艦建造と同じことをしてゐるとも限らない。戦略と教育とを同列に論じること自体が、映画を観ての混乱ぶりを露はにしてゐるだけ(アナロジーの乱用)とも言へさうだが、さういふアタフタ振りを記しておくことも自分の人生を美化しないためにも重要だらう。

 それにしても、次期の軍用艦にどういふものを造るべきかとの会議でのやり取りがあまりにお粗末であるのが辛かつた。映画の出来がといふことではなく、またしてもその「身につまされ度」がである。戦艦の時代が終はつたとの信念があるのであれば、もつと理屈で反論すべしとも思ふし、妾がどうしたといふスキャンダルで相手を封じ込めようとの姑息な(その場しのぎの)方策しか出せない議論の低調ぶりが、日本人なのだと思はされる。

 そのシーンを観て、「こんなはずはない」と思ヘる人がはたぶんゐないだらう。といふことは、「この通りだらう(多少はデフォルメしてゐるだらうが)」と思つたといふことである。となれば、日本人とはかういふものなのだ。空気の支配する社会である。今日的な課題で言へば「消費税の増税」についても、今や「消費税の時代ではない」といふことが分かつてゐても、「消費税で財政の安定を図るしかない」といふ消費税拡大主義には抵抗できない。そこでの議論はどういふものであつたのかは、何十年後かのドキュメンタリーで映像化されるのかもしれないが、「会議でのやり取りがあまりにお粗末るのが辛かつた」と再び私も書くに違ひない。そして、そのときは同時代に生きた人間として、どうすることもできなかつた自責がこもるからさらに「辛い」ことになるだらう。「どうやつたら苦しまないで死ねるだらうか」と考へることさへできないほどの辛さがあるのだらうか。

 この映画の中には、一人の数学徒がその時代への抵抗者として登場する。黒板に数式を書きながら戦艦大砲主義が無駄の長物であることを証明するが、焼け石に水。それどころかやがて彼もまた軍艦に乗る人物となる。それも苦しいシーンである。映画ですら最後まで抵抗できる人物として描けないのである。フィクションでさへ日本人は、最後までアウトサイダーでゐる人物を造形することができない。何といふ貧困であるか。書斎で一人死んでゐた、あるいは獄中で戦後を迎へたとは書けないのである。

 それならせめて「アルキメデスの敗戦」とすべきかと思ひながらこれを書いてゐる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『騎士団長殺し』を讀む。

2019年08月17日 10時55分55秒 | 本と雑誌
 
騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(上) (新潮文庫)
村上 春樹
新潮社
 
 

 

騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(下) (新潮文庫)
村上 春樹

新潮社

 

騎士団長殺し 第2部: 遷ろうメタファー編(上) (新潮文庫)
村上 春樹
新潮社

 

騎士団長殺し 第2部: 遷ろうメタファー編(下) (新潮文庫)
村上 春樹
新潮社

 村上春樹の作品を久しぶりに讀んだ。イギリスのイートンに短期留学してゐた生徒が日本に戻つて来ると、「文学部に行きたい」と言ひ出した。その生徒とは進路について話をしたことがなかつたが、イートンの様子を教へてくれないかと尋ねたところ、喜んで話をしてくれた。2時間ほど話をしてゐるうちに進学の話題になり、当地の文学の授業がたいへんに面白かつたといふことでさう思つたらしい。

 海外の大学も考へてゐるといふことなので、それなら問題はないのだが、もし日本の大学の文学部に行くとなれば「日本の文学部の授業が君の関心と合ふかどうかは疑問だ」といふことは率直に話した。さてどうなるか。幸運を祈つてゐる。

 文学の話をしてゐた時に、どんな作品を讀んでゐるのかと訊くと「日本人なら村上春樹」とすぐに答へた。よくある返答である。こんなときに「石川淳です」とか「谷崎潤一郎です」とか答へる生徒がゐたら驚くところだ。「それで、どの作品が好きかな」と訊くと「これと一つ挙げることは難しい」といふことだつた。それであれこれと話題は膨らんだが、「先生は、『1Q84』で讀むのをやめた」と答へると、不思議さうな表情をしてゐた。「村上春樹は、考へる様子をよく「地下二階に降りる」といふ比喩で説明する」と話すと、驚いた表情をして「それなら『騎士団長殺し』を讀んだらどうですか」といふことになつた。

 まあ、こんないきさつで本書を讀むことにした。こんな言ひ訳エピソードを書いてからでしか、村上春樹の小説を再び讀んだことを記せないのである。それほど心にひつかかる作家である。

 あらすぢは、書かない。しかし、「やはり」と言つてよいだらうが、これまでの感想と同じく不吉な印象であつた。これまでと違ふのは、表現者(画家)が主人公であるだけに、村上春樹の思考スタイルを表す「地下に潜る」といふ行為が、小説の題材としても使はれてゐるといふことである。画家Aのことを画家Bが描き、画家Aの作品を画家Bが追体験していくといふことは、村上春樹の内向がいよいよ深まつてゐるといふことではないかと考へた。世相はますます浮かれてゐるが、そんな世相に対してこんなにも内向してゐる登場人物を描いた小説が相当の数の読者を得てゐるといふことは興味深い。もちろん、読者の数など100万人だとしても、1億3千万人からすれば、1%に満たないのであるから不思議なことではないのかもしれないが、それでもそれだけの人がこの作品の趣向に共感してゐるといふことは特筆すべきであらう。

 でも私は「不吉」と感じた。それはどういふことか。穴にこもるといふことがやはり相当に恐ろしいことだからだらう。考へるといふことは孤独になることである(アクティブラーニングでは穴にこもる必要はない。したがつて、そこにある思考とは、本来の思考とは別物であると考へた方がいい)。村上春樹にはそれに耐へ得る知識も教養も、そしてなにより体力がある。物語を書き続けるといふ仕事を持つてゐる職業作家には、地下から戻つて来られる地上がある。そして地上と地下との往還を成し遂げるほどの「力」がある。しかし、その往還を果たせぬ者には、生活=穴(地下二階)になつてしまふ危険が大きい。そこに不吉を予感させる原因がある。もちろん、そんなに深刻に考へる必要はないかもしれぬ。しかし、救ひを用意しない冒険は作家一人には許されても、読者を巻き込むことは避けるべきだ。穴は、穴から脱出できる「力」を持つ人だけに許された冒険の場所である。救ひとは掬ひであり、上にあげるのが本来の意味である。穴に入らなければ何かを見出すことはできないといふ真実に気づくといふことは大事なことなのだらうが、そこにとどまつてしまふのは不吉でしかない。

 今回もまた、解決のないまま課題は残されてゐる。かういふ小説があり、かういふ小説を書く作家がゐてもよい。だが、サリンジャーにはそれを受け止めるキリスト教がある(ライ麦畑で遊ぶ子供たちが崖から落ちないやうに捕まへてくれる人がゐる!)が、村上春樹の不吉を支へるものは私たちにあるだらうか。少なくとも文化といふものさへ私たちの国から蒸発しつつあるなかでは、ただ不吉だけが残るのではないか。99%の人々は安楽に過ごし、苦しむ1%の人々はいよいよ内向していく。これが私たちの令和である。

文學界 9月号
文藝春秋
文藝春秋

 『文学界』に、村上春樹のインタビューが載つてゐた。新潮社で出した本について文藝春秋がインタビューする。それが許されるといふのはやはり「大作家」には違ひない。文藝評論家の湯川豊(この方、丸谷才一にもかなり突つ込んだインタビューをしてゐただけに、さすがである)が、かなり突つ込んだ質問をしてゐて、讀み応へがある。それから、村上春樹の話題ではないが「国語教育改革」に対する記事も個人的に面白かつた。

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ひらく』創刊

2019年08月16日 11時54分41秒 | 告知

 今日は、雑誌の紹介。

ひらく (1)
佐伯 啓思,佐伯 啓思
エイアンドエフ

 

 夏休みに会つた友人から、「佐伯啓思先生(京大)が雑誌を出すことになつたけど、知つてゐるか」と訊かれ、「知らない」といふと、詳しく教へてくれたのがこの雑誌である。

 どうやら『表現者』の後継誌『クライテリオン』とはちよつと趣きが違ふらしい。どう違ふかはどちらにもあまり詳しくないので分からないが、藤井聡さんも京大だし、佐伯先生も京大だし、なんだか穏当ではない。もちろん知識人には有りがちなことではあるので、論壇の隆盛に両者とも貢献していただければ読者としては歓迎である。

 本屋を探して見たが置いてあるところはなかつた。そこでネットで購入。台風の日に到着したので濡れてしまつてはゐないかと心配したが、それもなかつた(注文してから上本町のジュンク堂に行くと、そこにはあつた)。目次と執筆者をざつと見る。読んでみたい記事があつた。又吉直樹のインタヴューといふのは誰のアイディアであらうか。私はそこはスルー。先崎彰容と東浩紀と佐伯啓思との鼎談には注目。安藤礼二の「近代日本哲学の真の起源」は問題意識に注目。当たればど真ん中の話題である。荒川洋治の評論も北村透谷に触れてゐて、これは読まないと。佐藤卓のデザイン論にも関心はある。今の仕事が一息ついたら読んでみようと思ふ。

 ちなみにその友人の教へ子が書評を書いてゐると言ふ。なかなか興味深い本を取り上げてゐる。この本を選ばれたのはご本人か。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『科学の社会史』を讀む。

2019年08月15日 15時51分43秒 | 評論・評伝
科学の社会史 (ちくま学芸文庫)
古川 安
筑摩書房

 九月から先輩の教員と読書会を開くことにした。「会」と言つても二人だから、まあいつもと同じやうな食事を交えた雑談となるだらうが、それでも一冊の本を巡つての雑談は、これまでとは異なる談議にはなるだらうと予感してゐる。

 そこで、宿題として出されたのが本書である。どうやらその先輩は「科学としての地理学」といふことについての本を出すらしく、この一年ほど「科学」といふ言葉に執してゐる。科学とは、もちろんscienceの和訳であるが、「科」といふ言葉が的確に意味するやうに「分ける」といふことの学問である。「しな」とは漢字で書くと、科、品、階となる。階段状になつてゐる状態を表すと考へると分かりやすい。品川といふ地名や信濃川といふ名称も、川の両側が段丘になつてゐたのではないかと想像される。陳列棚に物を置いて客に分かりやすくしたから、品物といふやうになつたとも、一つの物として他と区別したものを品物といふやうになつたとも言へるが、それも「しな」である。

 そして、科学である。物理学、科学、生物学、地学、それらもどんどん細分化していく、そのやうに細分化していく学問の総称が「科学」であらう。本書が引いたやうに、古代の哲学者アリストテレスは「すべての人間は、生まれつき知ることを欲する」のであるから、知識はいよいよ細分化していく運命にある。そのことを純粋に繰り広げてゐるのが科学であらう。

 本書は、ルネサンス期から20世紀までの科学の歴史を概観してゐる。概観と言つても300頁にわたるから門外漢には「精緻」に見える。ルネサンスと言つても14世紀のイタリアルネサンスばかりではなく、それに先立つ12世紀、アラビア科学の受容に始まる科学の歴史を含んでゐるからほぼ千年。そして、キリスト教との関係、イギリス・フランス・ドイツ・アメリカそれぞれの大学や研究施設での「科学」の発展、そして最後に科学の課題が主に戦争や環境破壊に触れて書かれてゐる。私には欧州での大学での発展過程は難しすぎたが、最後まで一気に読めた。

 科学の持つ意味を今日ではだれもがオプティミスティックに語ることには躊躇する時代になつた。それでも科学無しには科学の課題を解決することはできない。したがつて、やや神秘主義的な「ニュー・サイエンス」などに安易に寄りかかるもできまい。ではどうするか。課題解決についても最後に少しだけ触れてゐるが、ここは正直もの足りない。それが科学史家の仕事であるとは思ふのだが。

 それにしても、この本を題材にしてどういふ話題が出てくるだらう。あまり期待はできないが、第一回はそんなものか。次の本は、私が選ぶことになる。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冲方丁『麒麟児』を讀む

2019年08月14日 18時25分09秒 | 評論・評伝
麒麟児
冲方 丁
KADOKAWA

 私としてはたいへんに珍しく歴史小説を讀んだ。冲方は『光圀伝』『天地明察』で知られる作家である。家内の方がファンで、この本も先に家内が読んでゐる。読後の感想はほぼ一緒だつた。

 本書を讀むきつかけは教へ子から冲方の新著が出ましたけど読んだかとの問ひ合はせがあつたことによる。以前『光圀伝』を紹介したのだが、それをたいへん気に入り、それ以来冲方のファンになつたやうだ。本書は勝海舟と西郷隆盛といふ二人の麒麟児(才能が優れてゐて、将来が期待される少年)の話だから、これまでにもいろいろなメディアで二人の話は讀んだり見たりしてきた。その作者がどちらの側に立つかで、あるいは佐幕派か勤皇派かでも描き方は変はるが、両者とも傑物であることに変はりはない。江藤淳のやうに若いころは勝の立場に傾倒し、晩年は西郷に心を寄せるやうになるといふ変化が起きるのも、当代一流の文藝評論家をしてもその年齢に応じて見方を変へざるを得ないほどの魅力をこの二人が内包してゐるといふことであらう。

 江藤淳を引き合ひに出すのであれば、さて福田恆存はこの二人をどう見てゐたのだらうか、今すぐに思ひ出せないが、何かの感想はお持ちであつたはずである。

 この小説であるが、300頁ほどで描き切るには話題が多すぎる。だから、感想としては「長いあらすぢを讀んだ」そんな読後感である。張り詰めた場面の連続であるがために、どこの場面も同じく重いもので、それらが次々と描かれていくから速度の速い乗り物に乗つて道を急いだといふ感じなのである。それほどに二人が生きた時代が激動してゐたといふことなのだらう。作者がそれを伝へるためにかういふ趣向にしたのかどうかは分からないが、私にはさう思へた。これを5冊ぐらゐの文章で書くことも、この作家なら可能であらうが、それは今日の出版業界が許さないといふこともあるだらうし、二人の生き方の激しさやそれに伴ふやり切れなさや疲労感は、きつと滲み出てこないだらう。じつくりと描く代はりに大事な感触を失つてしまふものになつたのではないか。したがつて、これはこれで良いのだらうと読者の一人としては感じる。

 それにしても、この二人の人物は明治新政府の成立にとつて欠くことのできない存在でありながら、自ら身を引く道を選んでいつた。それゆゑに日本が近代化の遠心力にばらばらにならずに済んだのである。身を捨てて日本を生かす人がゐたといふことである。そのことを改めて感じた。

 先日、友人から「前田さんは、日本近代150年の欺瞞を話されてゐるが、そのところを結論だけでなく精緻に書いてほしい」と言はれた。私にはもとよりその直観(あるいは直感か!)以上の根拠を明示することは能力的に無理だと弁明したが、絶対者のゐない日本の近代が似非であることは今も否定する気はない。しかし、そんな問題意識などないながら日本の近代を何とか成立させようとした二人の傑物がゐた。そのことを迂闊にも失念してゐたことを本書によつて知らされた。しかし、我田引水に言へば、彼らの苦労がそれでも空しいのは(「空しい」などと書くと相当な批判を受けると思ふが)、それをきちんと受け止める絶対者がゐなかつたからである。会津の戦争に悲しみがあるのも、それ以上に西郷の戦争に悲しみがあるのも、そして大久保の死が痛ましいのも、それゆゑである。彼らはいづれも無念で終はつてしまひ、歴史の悲しみを日本の近代に浸潤させた。しかし、その土台を私たちは受け継ぐことができないのである。これが近代の欺瞞の紛れもない証左なのである。

 ハムレットにはホレーショーがゐた。もしホレーショーがゐなければ、『ハムレット』は成立しなかつたであらう。そして400年の間それを正統なる悲劇として私たちに印象付けることはできなかつたであらう。シェイクスピアなど持ち出して何を言ふかと訝しがる人もゐると思ふが、日本の近代が悲しすぎるのは、それが「未完」であるのは、それをきちんと受け止める存在がゐないからである。

 この辺りを起点に「日本近代150年の欺瞞」を書き出すことができるかもしれない。そしてもし福田恆存が二人の人物にて触れてゐないとすれば、その触れてゐないといふことが大事なメッセージのやうに思へるのである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする