やうやく長い休みに入つた。
ゴールデンウィーク以来の休みだらうか。だいぶ疲れも溜まつてゐるやうな気がする。もちろん、日曜日には休める日もあることはあつたが、それでも何かしら仕事をこなさなければ、翌週の仕事が回らないといふ状況で、緊張感が続いてゐた。
それが端的に現れるのは、朝早く起きてしまふといふことだつた。年のせいもあるが、熟睡といふことをここのところ経験したことがない。寝つきは悪くないが、夜は何度も起きてしまふ。夕方には集中力がなくなることもあつて、仕事のペースが落ちてしまふ。
それでも「ちょつとお話が……」と生徒や同僚が来れば、直ちに自分の仕事は脇において、そちらの話を聴くことにしてゐる。それがささやかな信条でもある。さうして私の時間は微分化(最適化)されていく。私自身が、恩人たちの人生の微分化によつて育ててもらつたといふ経験があるので、私もさうしようと思つてゐる。
さういふ時間が三カ月も続いてゐると慣性の法則が働いてゐて、緊張感だけは続いてゐる。何もしなくてよいのだと頭では分かつてゐるが、体の方はいつ何があつてもいいやうに適応できる体勢を整へようとしてゐる。したがつて、いつものやうに何度も起き、早く起きてしまふことになる。そして、読書すべき本を決め、執筆の仕事を組み込んでやるべきリストを作らうとしてしまふ。手帳には予定を入れ、誰とはいつ会ふことにするといふスケジュールを入れて、業務のやうな休みを作らうとしてしまふ。
これが悪いことなのかどうか分からない。ここには子供の頃の「無為な時間」を過ごしたことへの反省がこびりついてゐるやうな気もするからだ。
そして、厄介なことには、休みが長くなつてくるにしたがつて、その「業務のやうな休み」からも緊張感は薄れてくるので、「業務」が滞ることへのいら立ちが出てくることだ。この対応が難しい。休みに入つても緊張感があつてうまく休めない難しさ。そして、休みに入つて緊張感が抜けていくことへの苛立ちとの付き合ひ方の難しさ。厄介である。これは私だけのことだらうか。それも分からない。やれやれである。
今夏も同じやうな過ごし方をしてしまひさうだ。