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先囘擧げた「國語」否定論者の一つひとつについては縷々指摘するが、彼等とも相容れない獨特な「國語」否定論者の石川九楊氏をまづ一瞥する。 言ふまでもなく氏は書家である。漢字はもちろんのこと、書もまた「漢」で生まれた(「中國」で漢字が生まれたといふのは正しくない。このことをまづ言つておく。そもそも「中國」といふ呼稱については、異論がある。呉智英氏や石原愼太郎氏や高島俊男氏や谷澤永一氏などが言つてゐるとほりである。特にこの場合、漢字の出自についてであるから、「中國」ではない。あの地域を「中國」と呼ぶのは、近代の話である。したがつて、中國四千年の歴史といふもの嘘である。民族は大いに變はつてゐる。中原を治めた人人は一樣ではない)。 ところで、田中角榮の日中國交囘復の折だつただらうか、條約調印の署名の時に、その人の手がふるへてゐたといふ話を聞いたことがある。相手の國の文字で、その人人の衆人環視の下で調印といふことに、無言の壓力を感じたといふのだ。ずゐぶん、ナイーブな政治家だとは思つたが、笑ひ飛ばせるほどの氣概も殘念ながら私にはない。そして、さういふ感想が「なるほど」と受け止められる雰圍氣が私たちにはある。日本語は漢字をもとにして出きてゐるといふ「負ひ目」である。 もちろん、そんな「負ひ目」感情には全く意味がない。それどころか根據もない。したがつて、私はかの政治家を評價しないし、そのナイーブさに親しみも感じない。私ならそんな感想も言はない。文字は文字に過ぎないからである。これがアルファベットであるなら感じないといふアナロジーを考へれば明らかである。もしその論が正しいのであるならば、アメリカの大統領は、ヨーロッパ人にたいして「負ひ目」を感じなければならないといふことになる。いかにも馬鹿げた話ではないか。 さういふ平常心を失はせるほど、漢字文明への卑屈な思ひは、知識人のなかに滲透してゐるのだ。このことだけが、この逸話を語り、ここに記録しておくことの意義である。 石川九楊氏もまたその一人である。最初に文字が書かれたのは甲骨文字であるから、甲羅や骨を削るといふ現象を構造的に分析して、「書く」ことを現象學的に考察するのは面白い。しかし、その研究成果が、日本語の理解にそのまま役立つと考へるのには、ずゐぶんと飛躍がある。漢字の魔力に取り憑かれてゐるとしか思へない。 確かに日本語は、漢字とひらがなとカタカナで構成されてゐる。これは事實である。しかし、その背景に儼然と「中國(語)の文明」を見るかどうか、それは見る人の思想が決める。現在のアメリカがイギリスの支配下にあるといふことをまともに研究する人がゐるだらうか。アイヌ人が、現在の日本人の支配を受けたことによる問題點を考へたり、ネイティブアメリカンが現在のアメリカ人の支配を受けたことによる問題點を考へたりすることは、十分に研究する價値があることであるが、現在のイギリス人が、ネイティブアメリカンを支配してゐると考へるのは、見當違ひも甚だしい。イギリスのロビイストか、何か特別の思想をお持ちの偏見としか言ひやうがない。 石川氏は、あたかも中國文明の支配の下にあるのが、日本(語)であると考へるから、漢字を使用することが、中國の文明の下にある證據であると考へる。これはたいへんな誤謬であるし、學問として値するかどうかの疑問まで持つ。どこの國においても歴史が獨自的に孤立して發展することなどあり得ない。人類がアフリカのどこかで人組の男女によつて始まつたとするのが事實であるかどうかはともかく、どこか一箇所で始まつたのであるから、歴史は傳播の歴史である。あつちこつちで別別のものが單獨に生まれたのではなく、影響と反撥とを繰返しながら、發展してきたといふのが文明理解の正統であらう。そして、もし國の個性と言ふものがあるとするなら、影響と反撥の過程で滲み出てくる「何か」なのであつて、それを研究するのが學問ではあるまいか。
松原正先生の講演會の詳細を御傳へします。
演 題 「未定」
松原正先生、留守晴夫先生の講演
日 時 9月23日(土)秋分の日 1:00開演
※講演終了後、懇親會があります。
場 所 大阪市中央卸賣市場本場業務管理棟16階 大ホール
(大阪市福島區野田1-1-86)
地下鐵千日前線玉川驛下車 徒歩12分
JR大阪環状線野田驛下車 徒歩12分
※常連の方は、御分かりの通り、「いつもの場所」です。
參加費 2000圓
詳細は、電話0729-58-7301(森田さんまで)
「早稻田文學」がフリーペーパーになつて、第4號がこのほど發行された。
私と早稻田文學といふのも、我ながら不似合ひな感じもするが、知合ひがその編輯を御手傳ひしてゐる關係でお送りいただいてゐる(S君へ、この場を借りて御禮申上げます)。
關西在住で、芥川賞作家のモブ・ノリオ氏が、關西では「宣傳マン」になつてゐるやうである。私には氏の小説はまつたく分からなかつたが、このフリーペーパーはなかなか面白い。レイアウトの凝りぐあひや執筆人のメンバー構成には、ややサイケな印象があるが、近代古典發掘の頁もあつて、そこが面白い。
今囘は、漱石の「思ひ出す事など」である。解説は『「吾輩は猫である」殺人事件』の著者奧泉光氏。また、齋藤美奈子氏が、花袋の『田舍教師』についてエッセイを書いてゐる。中で福田恆存に觸れた邊りも、この女史の文學的目配りも周到なものであることを感じさせる。以前、この人の話を聽いたことがあるが、その話し方、視點の置き方ににじみでる斜に構へた精神が、やや鼻について嫌な印象もあつた。しかし考へてみれば、文學少女の○○年後といふのは、かういふ姿なのだらう。今囘、氏の文章を讀んで改めて納得した。
大阪では、古書店など10ヵ所を開拓した、と朝日新聞の今年4月6日の夕刊に報じられてゐた。關心がおありの方は、下記のところへ。
東京都新宿區西早稻田2-7-10
電話・ファックス 03-3200-7960
ところで、國語、日本語といふ言葉の使ひ方について一言したい。
先囘述べた石川九楊氏は、「國語」とは言はず「日本語」と言ふ。歴史的假名遣ひを用ゐる丸谷氏も、歴史的假名遣ひに正統性を認める國語學者の大野晉氏も「國語」と言はずに「日本語」と言ふ(それどころか、大野氏は歴史的假名遣ひを使はない。正統性があつても使はないといふのは、どういふことなのだらうか。御著書の讀者は、歴史的假名遣ひでは讀めないと思つてゐるからだらうか。それなら、私信は歴史的假名遣ひをお使ひなのか。それを知る手立ては私にはないが、國語學者の考へる「日本語」といふのは、どう考へてもいぶかしい)。歴史的假名遣ひをかつては使ひ、今はどうやら使はなくなつた山崎正和氏は、「日本語」とも「國語」とも言ふ。端的な例を文章の標題から引いてみる。
石川九楊 『二重言語國家・日本』(第一章 日本語は特異か 第二章 日本語は書字中心言語である 第三章日本語は二重言語である 第四章書字中心・二重言語の現在と未來)
丸谷才一 『日本語のために』『さくらもさよならも日本語』
大野晉 『日本語をさかのぼる』『日本語の文法を考える』『日本語の成立』『日本語練習帳』『日本語と私』
山崎正和 「『日本語改革』と私――ある國語生活史」
もちろん、福田恆存は「國語」である。著書『私の國語教室』を擧げるまでもない。
これらの表現者たちが、「日本語」や「國語」を使ひ分けてゐるのには、理由がある。一般に「國語」といふ名稱は、國家といふ枠のなかで考へられ、かつての植民地獲得競爭時代の帝國主義的な偏狹思想を印象づけられがちである。また、國語、國史、國文といふ狹いエスノセントリズム(自民族中心主義)として受け止められるから、よくないと思はれてゐる。もちろん、これは一般的な近代史の文脈ではなく、日本が大東亞戰爭の折、朝鮮半島や台灣などを植民地化し、そこに「國語」を押付けたといふ個別具體的な經緯を踏まへてゐるのでもある。
さらに、「日本語」派の石川氏は、違つた側面から「國語」の否定を試みる。
「國」とは、自立と独立の意識を欠いたまま、自立し独立した国家を箱庭的(ミニチュア)
的に準える意味しか存在しない。しばしば語られる日本人の「甘え」なる意識は、この「国」
の意識に等しい。(中略)「国語」という言葉は大方の論者の意図に反して「国家語」とい
う観点をもたず、中国・中央に対する地方(ローカル)という前提での国でしかありえぬ
がゆえに、これを廃棄し、「日本語」とすべきなのである。
石川九楊『二重言語国家・日本』
「大方の論者」とは、以前にも論じた田中克彦氏などを指す。最近、旺盛に發言してゐる論者としては、安田敏朗氏、小森陽一氏、イ・ヨンスク氏などがゐる。彼らの「意図」は、まさしく近代化の過程で「国家語」として誕生したといふ側面に焦點をしぼり、近隣諸國に抑壓の制度として機能したイデオロギーとしての言語=「國語」を浮び上がらせるといふことであつた。