ベルグソンの『物質と記憶』の第七版の序には「自分の立場ははつきり二元論だ」と書かれてゐる。そして、それは常識的な立場であるのに、哲学者からは理解されず評判が悪いとも書いてゐる。
つまりは、物質といふものを、表象に還元してしまふ観念論も、あるいは物質といふものは我々の中に表象を生み出しつつも当の表象とはまつたく本性の異なるものだとする実在論も、共に誤りであるといふ考へである。それは端的に「『もの』と『表象』の中間に位置する存在なのである」と明言した。これが二元論である。
私は、いまこのベルグソンの物質観を問題にしてゐるのではない(もちろん、その考へに異論があるわけではないが)。ではなく、二元論といふ考へ方は、かういふことであるといふことが言ひたいのである。
ところが、新聞に出てくる知識人たちの文章や、テレビに出てくるコメンテーターの中には、時に「物質か表象(精神)か」といふやうな二者択一の意味で使ふ人が多い。例へば「日本経済の立て直しに必要なのは『増税』か『減税』かの二元論ではない」といふ言ひ方がそれだ。これなどは完全に「二者択一の問題ではない」と言へばいいことである。
二元論とは、二つの別のものを同時にとらへるといふ意味である(ベルグソン的にはそれを「中間」といふ表現で言つてゐる)。
善悪二元論、物心二元論などがその例である。善と悪は相対的なもので、同時に生まれてくるものである。しかし、それらは平行してゐる。その意味で右左、前後も二元論である。
ところで、2012年の東京大学の現代文の入試問題に、このことをずばり訊く問が出題された。
河野哲也の『意識は実在しない』が出典である。
「ここから第三の特徴として、物心二元論が生じて来る。二元論によれば、身体器官によって捉えられる知覚の世界は、主観の世界である。自然に本来、実在しているのは、色も味もにおいもない原子以下の微粒子だけである。知覚において光が瞬間に到達するように見えたり、地球が不動に思えたりするのは、主観的に見られているからである。自然の感性的な性格は、自然本来の内在的な性質ではなく、自然をそのように感受し認識する主体の側にある。つまり、心あるいは脳が生み出した性質なのだ。」
問の一番にかうある。
「『物心二元論』とあるのはどういうことか、本文の趣旨に従って説明せよ」である。あくまでも読解問題なので、知識を問うてゐるわけではない。しかし、この問題、生徒にはなかなかの難問である。なぜか。相反するものを同時に捉へるといふことが理解できないからである。これは多分日常での彼らの言語生活が関はつて来るのだらうと思はれる。
この場合で言へば、本文には主観と自然(客観)とは平行してゐると明確に書かれてゐるのに、生徒たちはそれを交差させてしまふのだ。「美しい自然」があるとすると「美しい」と思つてゐるのは主観。「自然」は物質だからそこから「美しさ」が滲み出て来るのではない。それなのに生徒は「美しい自然」といふ実体があると思つてしまふ。自然を見て美しいと感じたのだから「美しい自然」があると考へたのだらう。しかし、それは主観の作用である。
東京大学が何を狙つて出題したかは不明だが、私には良問であると思はれる。相対的な二者を同時に理解するといふことは、東京大学の現代文の出典歴史を貫く一大テーマである。