生徒を育てるにはどうすればよいか。そればかりを考へてゐる。
育てるにはまづ学力をつけるといふことがある。もちろん、その場合の「学力」とは何かといふ問題もある。それについては、中等教育では教科書が検定によつて決められてゐるのであるから、その教科書が理解できるかといふところを基準にしてゐる。
次に「理解できる」とはどういふことなのかといふ問題もある。それについては、定められた試験において60点を取れるといふことを基準にしてゐる。
しかし、学力が付き、理解ができれば、生徒は育つたといふことになるのか。学力=教養=幸福といふ図式はすでに過去のものである。私の身の回りにも高学歴の方はたくさんゐるが、彼らの言動を見る限り、かなり不自由な生活をしてゐることが分かる。この場合の「不自由」とは、人とぶつかり、他者を困らせ、自分の理想を押し付けることでしか幸福感を満たせない、つまりは、共感力に乏しい人たちのさまである。
もつとも、ご自身は「不自由」と感じてはゐないかもしれない。その意味では不感症でもある。しかし、他者を不幸にして得られるものは自由であるはずはなく、ご当人の主観とは関係なく、さういふ人は不自由と見て間違ひない。
そして、ここが重要なことだが、これからの知性の在り方は、カントの言ふ通り、知性の私的利用ではなく公的利用にならなければならない。したがつて、教育の場面では知性や理性を公共性や協働性のなかで開発していく必要がある。
2017年以降、学習指導要領に「カリキュラムマネジメント」といふ言葉が入つたが、学習内容の時系列的展開をカリキュラムとするのではなく、知性の公的利用を目的として、授業や試験を位置づけていくことが必要となる。それのみが、この時代に「生徒を育てる」といふことの意味であらう。
そこでは知識が必要か不要か、実用的か非実用的かといふ二項対立は意味のない議論となる。
人を育てない知の伝達は無意味であるし、知の伝達無しの人間教育もあり得ないからである。
教育が人の自立を目標とする限り、それは最優先の目標である。
本書の著者は精神科医である。日本の学校教育の問題点をかなり辛辣に論じてゐる。代案も出されてゐるが、私にはやや観念的であるやうに思へた。
最も参考になつたのは、人間の特性を三種に分けたところである。
1 視覚空間型
2 聴覚言語型
3 視覚言語型
3が、現代の学校に最も適してゐる特性である。国社数理英のペーパーテストで高得点を取れる子供たちである。しかし、彼らが社会に適応してゐるかどうかと言へば、先にも述べたやうにさうでもない。
2は、活字で学ぶことは苦手だが、授業を聴いたり他人から教えてもらへば何とか現代の学校にも適応できる。
問題は、1である。彼らは理論や抽象は苦手で行動に走りやすく注意が散漫である。したがつて、現代の学校のやうに講義を聴くといふスタイルには不適応になりやすい。おまけに注意をすれば、その注意の意味が分からないから全力で反抗する所となり、この特性が分からなければ教師と衝突することになる。
かうした特性に応じた子供たちへの対応は、今すぐにでも学校は取り組まなければならない。そのことを感じた。
そのためには教員の能力開発が必要である。多少のアドバイスは散りばめられてゐるが、これだけで「子どもが自立できる教育」が出来るとは思へない。もつと詳細で実践的なテキストに期待したい。