言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『午後の曳航』を読む。

2020年08月30日 20時03分03秒 | 本と雑誌

 

 

 あらすぢは、書かない。書く必要はないだらう。

 1997(平成9)年に起きた『酒鬼薔薇事件』を経験した時代には、この小説の意味は大きく変はつた。文庫の解説に文芸評論家の田中美代子が書いた「読者は、仲間を集めて高遠な哲学を披歴する十三歳の少年など現実に存在しないことを知っている」といふことが、もはや成り立たない時代になつてゐるからである。

 作家の想像力が時代を超越してゐるといふことを示してゐるのかもしれないが、さういふことには関心はない。ただ三島由紀夫といふ作家が、何を感じてこの小説を書いたのか、そのことに関心がある。三島は少年を主人公に様々な小説を書いてゐる。『仮面の告白』も『潮騒』も『金閣寺』も、挙げればきりがない。それはなぜなのか。不安定で狂気をはらんだのが、いや自ら選んだ近代人を描くとしたら、それは少年を主人公にする以外にないといふことなのか。これからの宿題になる。

酒鬼薔薇事件』が起きた時、友人から「これは『午後の曳航』だな」と言はれた。鈍感な私はそれを聞き流したが、やうやくそのことが知れた。

 13歳の狂気といふものを、ここに来て私も知るやうになつたからかもしれない。経験が理解を深めたといふことだ。

 それにしても、三島の言葉遣ひが遠くに感じる。

「人間が生まれるとから、死がしつかりと根を張つてゐて」

「竜二のしやにむにの抱き方は」

「房子はたとへしもない甘さを籠めてさう言つた」

「長い電話をかけて、誇りかにかう言つた」

「なぜいけないの。僕、ここで勉強してゐたんだのに」

 夏休みが明ける頃になると、この小説のことが気になる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パトリシア・ハイスミスを読む。

2020年08月29日 15時15分37秒 | 評論・評伝

 

 

 倉橋由美子は『あたりまえのこと』の中で、パトリシア・ハイスミスに何度か触れてゐた。一般に彼女の名前が知られるのは映画『太陽がいっぱい』の原作者であるといふことだらう。日本人のアラン・ドロン好きとあいまつて、映画は好評で、原作も読まれた。

 倉橋は、もちろんその作品に触れたのではなく、一度も実際に書いたことがなく、頭の中だけで14冊の本を書いた男を主人公にした短編「頭のなかで小説を書いた男」について論及してゐた。

 書くといふ作業は、頭の中の「構想」を文字にして「表現」するといふやうに理解されやすいが、事実私の周囲にも表現といふタイトルで構想の文字化を実践してゐる人がゐるが、じつに浅薄な「表現」理解だなと苦笑してゐる。表現とは、ペンや紙の抵抗を受けながら、構想自体を作り上げていく作業だと微塵も思はないといふことは、たぶん文章を書いたことがないからだらうと想像してゐる。だから、構想→表現などと一方通行的構造でとらへて平気でゐられるわけである。「書かなければ分からないことがある」、そんな常識を素通りにしてしまふのだらう。

 さて、この小説だが、この男には妻と子供がゐる。妻はをかしいなと思ひながらその夫の行動を見守る。本にならないのだから売れるわけもなく、経済的にも自分が支へることになる。夫は作家であることへの誇りすら描写されてゐる。しかし、一人息子はそんなことは金輪際思はない。裸の王様を認めるのはやはり子供であるのかもしれない。

「書かなければ分からないことがある」。その常識を思ひ出させてくれる一級の小説である。作家を夢想する人が描いた小説の観念であり、七転八倒する実体の作家の厳しさが浮かんでくるとも言へる。

 この小説が収められてゐる短編集『風に吹かれて』を読んでゐるが、一篇一篇趣が違つてゐて興味深い。「池」といふ小説はとても不気味で後味が悪く、夜寝る前に読んだので嫌なざわつきがあつたが、それも味なのかもしれない。アメリカ文学といふは馴染みが薄いが、一つ一つ作品に触れていかうと思ふ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『函館珈琲』を観る。

2020年08月26日 20時25分46秒 | 映画

 

 

 

 休日には映画を観たい。そんな気持ちが最近特に強い。ところが、東京のやうに名画座に簡単に行けるやうな都市は地方にはない。勢ひシネコンでロードショーを観るしかないのだが、いま現在映画館でやつてゐる映画で観たいと思ふ作品がない。観たいと思ふものが重なる時は、こちらの都合で行けないことが多く、ちぐはぐな映画鑑賞環境である。

 では、どうするか。私の場合にはAmazon prime一択である。二年ほど前に近くのTSUTAYAも閉店してしまつてからは、専らiPadでその映像を観てゐる。先日の日曜日の観たのが、表題の『函館珈琲』である。

 新人の小説家が早くも小説が書けなくなり、都心を離れて函館に来るところから始まる。先輩の家具職人がかつてゐた、職人たちが集まるシェアハウスに行けば、書けなくなつた小説も書けるやうになるだらうと勧めてくれたのである。

 私は函館には行つたことがないが、大変きれいで穏やかな景色である。傷ついた人達が集まる大切なその家は、とても魅力的で、住人たちの会話に引き込まれる。その場面では、必ず珈琲がある。小説家が淹れた珈琲が住人たちのお気に入りとなる(でも、私にはその淹れ方がずゐぶん雑にに見えた。バリスタに監修してもらつたのだらうか)。

 そこから静かに話題が進むが、大きな事件といふものは起きない。しかし、それがいい。

 日曜日の午後のゆつたりとした時間をゆつたりと過ごすにはぴつたりの映画だつた。相応しい時に相応しい映画を観ることができるといふ幸運は滅多にあることではない。さういふ偶然の幸福をうれしく思ひながら、手帳に「『函館珈琲』を観る。良かつた。」と書いた。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼 山﨑正和

2020年08月21日 14時56分54秒 | 評論・評伝

 先ほど家内から「山﨑正和さん亡くなつたよ」とのメールが来た。

 全身癌といふことは近著で書かれてゐたし、ある数値が上がつたら間もなく死ぬのだとご本人が書かれてゐたので、さういふ状況であることは知らされてゐた。しかし、読売新聞の「地球を読む」には、しばしば登場してゐたし、先月号の『中央公論』にはコロナ禍についてのたいへん視野の広い文章を書かれてゐたので、病状の深刻さは感じなかつた。

 だが、この暑さもあるのだらうか、残念ではあるが、その死を悼んでお送りしたい。

 不思議なことに、今朝出がけに『ポストモダンを超えて』といふ本をカバンに入れた。夏休み明けの仕事はじめの休憩時に読んでみようと思ひ立つたからである。三浦雅士、芳賀徹、高階秀爾、そして山﨑正和の4人が気鋭の研究者を呼んで連続的にシンポジウムを行つた記録である。2016年の出版だが、指導的な理念を失つた時代(ポストモダン)にあつて、その理念がないこと自体が論じられなくなつた時代(ポストモダンを超えて)にあつて、文化人は何をすべきかといふテーマである。

 まさしく山﨑氏のど真ん中のテーマである。決して明るい希望は示してゐないが、行くところまで行けば何か生まれるといふやうな悲観的楽観論を述べてゐる。

 山﨑氏の批評の特徴は悪いことは書かないといふことであつた。評論家として対象の欠点を書くことほど易しいことはない。だから、私は自制してきたとどこかで書いてゐた。バブル期に書かれた『柔らかい個人主義の誕生』にしても、その当時の社会の実態は「無節操な自己中心主義の伸長」にしか過ぎないと私には映つたが、さうは書かない。新しい時代の新しい価値観なのであると、現代を擁護する。それが「社会の家長」としての文化人の役割であるとの自負と責任とがあつたやうに思へる。

 決して乱暴で子供つぽい筋の論は書かない。その対極には江藤淳がゐたが、この二人の対立もまた興味深い。山﨑氏は鴎外を論じ、江藤は漱石を論じた。その二人の志向はやはり対極であつたやうに思ふ。

 山﨑正和論は書きたいと思ふ。が、どこから書いてよいのか分からない。それほどに魅了されてしまつたからである。

 享年86。ご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘッセ『世界文学をどう読むか』を読む

2020年08月20日 09時52分58秒 | 評論・評伝

 

 

 昨日、福田恆存の選集を編むとしたらどういふラインナップにするのかといふことを書いたが、どうしてそんな趣向を思ひついたのかと言へば、じつはその前にヘッセの『世界文学をどう読むか』を読んだからである。

 そのタイトルからすれば、まさに読み方の伝授のやうな印象を受けるが、実際は「どんな作品が世界文学か」といふことで、ヘッセにとつて「教養を身につける」=「精神的な完成の努力」にはどんな本を読むことが必要なのかを書いたものである。丁寧に巻末には「世界文学書目表」が付せられてゐる。

 訳者による解説を読むと、そもそものタイトルも「世界文学文庫」となつてゐると言ふ。それなら「世界文学は何を読むか」で良かつたのにとも思ふが、「親しみよくするため」といふ意図らしいので、これ以上は言はない。

 その書目表には、インドとシナの文学は入つてゐるが、日本のものはない。ヘッセにとつて日本文学とはさういふ位置づけなのだ。「これやあれやの佳作が忘れられているとしても、あらゆる時代の文学の最も美しい珠玉はちゃんとそろっている」といふ見立てである。

 それにしても、これだけのラインナップを独自の視点で選べるといふのは驚きだ。しかもそれを公にすれば、いろいろな批判を受けるだらうことは十分に承知してのことである。それだけ自分の読み方に自信があるといふことだらう。文筆家はそれ以前に十分な読書人である、さういふ「常識」が生きてゐる時代の作家である。まづは読むこと。これを心掛けなければならない。

 ところで、これほどの「世界文学選集」作りを志した人は日本人にはなかなかゐないが、個人選集を勝手にリストアップした人がゐる。それは荒川洋治である。現代詩作家と自称する詩人であるが、自身の考へる文学史を架空の全集のリストアップといふかたちで表現するといふのは面白い趣向で、ヘッセに通じてゐる。

 彼の文章に「『ある日』の文学全集」といふものがあるが、1996年のもので「今日のところはこのような陣容である」として83巻が編まれてゐる。「中上健次、宮本輝、村上春樹などこの20年間に登場した文学者は原則として除外した」といふのはいいとして、亀井勝一郎も福田恆存も倉橋由美子も曽野綾子も入つてゐないのは残念だ。「大きな存在が何人かぬけているがうまく入らなかっただけの話だ」といふことらしい。まあ、そこが個人選全集の面白さである。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする