言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

ないやうであるもの。

2018年07月31日 20時04分56秒 | 日記・エッセイ・コラム

 先日、以前勤めてゐた学校の教へ子の披露宴に出かけた。すると、一つのテーブルはその卒業生たちで固められてゐた。話題は専ら高校時代の話。初めて聞く話、そして何度も聴いてゐるがいつ聴いても笑へる話、時間はあつといふ間に過ぎた。とても楽しい時間であつた。

 「先生、卒業した後の俺らがそれぞれの場所で頑張つてゐる姿を見てどう思ひますか」と突然切り出した男がゐた。自分たちのことを「頑張つてゐる」と表現するのがいかにも今どきの青年らしかつたが、訊かれて嫌な気持ちにはならなかつた。そして「嬉しいよ」と一こと言つた。でも学生時代の彼らもとても一所懸命だつた。叱つてもそれを真直ぐに受け止めてくれる生徒たちだつた。その場でそのことを言葉にしてあげればよかつたが、なぜだか言葉が出てこなかつた。言へば嘘になつてしまふと感じたからであらうか。

 宴がおひらきになり玄関口で別れるときに、「先生頭を叩いてください」と言つてきた男がゐた。何を言つてゐるのかといぶかつたが、彼らにとつての私は、さういふ役回りだつたのだらう。以前にさういふ場面があり、とてもよい感想を抱いてゐるやうであつた。校風はとても厳しい学校だつた。だから、1年生から6年生まで厳しく指導をした。しかし、そこには忸怩たる思ひもないわけではなかつた。きちんと見極める目がこちらになければ、指導が指導でなくなるからである。そして、卒業して10年が経ち、今かうして彼らを見てゐると、改めて教育の難しさを感じる。その日に来てくれた彼らは、私のしたことを真直ぐに受け止めてくれた、冷静に言へばそれだけのことにすぎない。さうでない卒業生もゐたはずである。さう思ふとやはり心の半分には重りが乗せられてゐる。

 それから、つい今の学校の生徒と比較してしまつた。今の学校の卒業生とはかういふ出会ひはないだらう。なぜなら文化が違ふからである。ないやうであるもの、それは文化である。学び方、教へ方、そして生き方、数年間とは言へ、真剣に生きる大人と子供の作り出す空間に教育が成り立つには文化がなければならない。教へたいこと、伝へたいことがある学校には、生き方としての文化がある。それは言語化するまでもなく伝はつていく。いや、むしろそれだけが伝はつていくのではないか。

 やや感傷的な気分でこの文章を書いてゐるが、ないやうであるものがある学校こそこれからも必要とされるものなのだらう。

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難しい、ね。

2018年07月30日 15時39分28秒 | 評論・評伝

 読みたいと思はせる批評家がゐない。

 新聞や雑誌、それからSNSなどに熱心に書いてゐる批評家もゐるが、それらを真剣に読んでみようと思ふことはない。そもそも批評といふものが成り立ちにくい時代なのかもしれない。

 批評を書いてゐる人間がこんなことを書いてしまふことは自己否定であるが、フィクションでもなくエンターテイメントでもなく、対象を分析して類推して見えなかつたことを明らかにするといふ批評の行為が成り立ちにくいのではないか、そんな気がしてならない。

 もちろん私は批評を必要とする人間である。自分の自我は砂の造形のやうにもろいものであると自覚してゐる者には、批評といふ行為によつて辛うじて「生のかたち」が維持できるからである。しかし、それにしてもである。批評にはその視点となる基準が必要である。その基準自体が「人それぞれ」でいいと言ふ時代には、そもそも基準自体が存在しない。たとへば、ここに1mの物があるとして、ある人にはそれが80cmに見え、別のある人には95cmに見えるといふのであれば、それは何が正しいか正しくないか分からなくなる。いやいやそれならまだいい。mやcmといふ単位があるではないがか、説明と説得とを重ねればいつしか物の長さは決まつていくと可能性もあるではないかと言はれるかもしれないが、今は単位自体がないのである。1某、80某、95某ではもう何も対話が生まれない。

 さういふ時代のやうな気がする。政治も経済も、それから教育も文學も、独り言をそれぞれがつぶやいてゐるだけで、「対話」が生まれない。さういふ時代だらう。それだから、言葉が溢れてゐる。読書離れは叫ばれてゐても、SNSは隆盛を極めてゐる。対話が少なくなつてゐるのに、4技能が声高に言はれる。まつたく笑ひ話である。英語を使つて話す聞く読む書く、それに熱心な文科省の高官は、ひそひそと「うちの子の入学をお願ひします」と密談する。素晴らしい時代だ!

 いつまでもかういふ時代が続くはずはない。滅びるに決まつてゐる。

 だからこそどうするか。良心の声を聞く訓練を始めようではないか。教育が出来ることは、さういふ日常倫理の実践である。

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時事評論石川 平成30年7月号

2018年07月23日 09時45分16秒 | 告知

「時事評論石川」7月号のお知らせ。

 今月号の内容は次の通り。 どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。
 1部200圓、年間では2000圓です。
(いちばん下に、問合はせ先があります。)

                     ●
  暑い。外にゐても家の中にゐてももうエアコンのないところでは生活ができない。地球温暖化のせいだなどといふ説明を聞くと更に暑くなる。そんなはずはない。どうせ冬になれば今度は「寒い」と言ふに決まつてゐるからだ。単にこれまでとは違ふ生活環境になつたといふに過ぎない。理由はなぜかは知りたいが、それを「地球温暖化」などといふ大雑把な論は信じないことにしてゐる(朝になつて鶏が鳴いた。鶏の鳴き声が太陽を昇らせたからである。そんな程度の論に思へる)。地球の誕生以来の時間の流れのなかでは、かういふ変動は異常でもなんでもないのであらう。ただ私たち人間においては辛い、それだけである。

 それにつけても、テレビで流される国内政治の状況は「狂気」そのものである。いつまでも、どうでも良いことに一所懸命になる。その「懸命」が厄介だ。政治は結果責任が問はれるものだ。結果を求められない野党の攻撃は無意味である。もつとマシな論戦はできないものか。

  いつもながら「この世が舞台」には目を啓かれる。ドイツ文学にはあまり馴染みがなく、政治劇など読書の視野に入つてこない。それでもフランス革命の功罪については関心はあるので、今回の文章はとても勉強になつた。「俺達は皆『操り人形、見も知らぬ強い力で操られてゐる』」との「ダントン」の言葉は胸に迫る。フランス革命は起きたが、そのとき既にフランス社会は破壊されてゐた。トクヴィルはたぶんさう見てゐただらう。したがつて革命はそれを一気に早めただけである。彼等は理想を掲げれば社会は蘇ると思つたのであらうが、そんなことはない。理想はむしろ現実を破壊してしまふものだ。現実を見ないだけ破壊はすんなりと行はれるからである。革命派ロベスピエールの出現も宿命であり、その宿命を誰も止めることができなかつた。むしろそれこそが宿命である。

 問題はその宿命の受け止め方である。トクヴィルが書いたやうに「革命以前の状態と以後の理想状態とを越えがたい溝で断絶」し、「新しい世界に過去のいかなるものをももちこまない」様にする事が大事であつたが、結局「大した成功はをさめなかつた」と留守氏がまとめてくれてゐるが、その通りである。

 ただ、この『ダントンの死』は現在品切れである。

ヴォイツェク ダントンの死 レンツ (岩波文庫)
Georg B¨uchner,岩淵 達治
岩波書店



   ☆    ☆    ☆

またぞろ頭をもたげる「拉致棚上げ」の動き

        福井県立大学教授 島田洋一

            ●

中東レポート 下

トランプの中東政策に左右される日本の石油

     経団連アナリスト 佐々木 良昭

             ●


教育隨想

 天皇の本質は何か―譲位をめぐる論争から(勝)

            ●

森友・加計問題 独り相撲のメディア

     ジャーナリスト 伊藤 要

            ●

「この世が舞台」

 『ダントンの死』ビューヒナー

       早稲田大学元教授 留守晴夫

            ●

コラム

  朝鮮戦争前後の新聞を読んで (紫)

  「総選挙」異聞(石壁)

  下請け国にならないために(星)

  平和主義者が理解できない事(白刃)

   
            ●

問ひ合せ

電話076-264-1119
ファックス 076-231-7009

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滝川一廣氏に話を聴く。

2018年07月15日 19時42分09秒 | 日記・エッセイ・コラム

  昨日は上京して精神分析医の滝川一廣氏の話を聴いた。

  由紀草一先生の主催される会(しょーと・ぴーすの会)の会合である。30名ほどの会だから質問はしたい放題。4時間たつぷりと子供の精神医学について対話をした。

 子供は発達し続ける。その確信に支へられてゐるから、滝川氏はどんな質問にも穏やかに噛んで含めるように話をされる。やや攻撃的な質問にも、なかには「先生の意見には同意しかねるが」といふ実践家の質問もあつたがそれにも、穏やかに一呼吸おいて話を始める。あまりにも穏やかすぎてゆつくり話されるものだがら、まだたぶん御回答が終はつてゐないだらうに、次の質問者が質問を始めてしまつてゐた。

 私には、その対話ややりとりがとても充実した時間であつた。もちろん、私は門外漢であるのでその内容を十分に理解したといふわけではない。二つほど質問したが、それは明らかに私の読解力不足ゆゑであつた。しかし、さういふ質問にも白板にていねいに板書して説明をしてくださつた。ありがたいことである。

 人間の発達の具合は、Y軸「認識の発達」とX軸「関係性の発達」の座標軸上で正比例の直線を中心に紡錘状に分布してゐるといふ。しかし、私は座標軸を用ゐる限りは、正の数の第一象限だけではなく、負の数を視野に入れた第2~第4象限まであるのではと質問をした。

 すると先生は、端的に「私は人間の発達にマイナスはない、と思ひます」と言はれた。「マイナスがあると思ふのは、年齢に応じて右上の方向に子供たちの位置が移動していくが、その位置よりも左下にあるからです。しかし、それは他人よりも右上に向かふスピードが遅いから負の領域にゐると感じるだけで、第一象限にゐることは間違ひありません」とのことであつた。

 私には、紡錘状に分布する学齢の位置が右上に移動していくといふ「時間性」の視点が欠けてゐた。そこを見事に言ひ当てられた。

 もう一つの質問は、発達には「遅れ」以外に「悪くなる」ことはないのか、といふ質問であつたが、これについては他の人からの質問とも重なつて、「折れ線型自閉症」の問題と言はれる課題のやうであつた。滝川先生は、そのサンプルは非常に少ないので、簡単には言へない問題であると言はれた。評価や診断を受けるときに、その子供ががんばりすぎてしまひ、その後日常生活では「退行」のやうなことが起きてゐるだけで、それは「遅れ」ではないのではないか、といふ意見を述べられた。この辺りは、模擬試験を受けるときの生徒の状況にも似てゐる。普段の気の抜けた状態での学力と模擬試験時の緊張した覚醒状態での学力との差がそれである。

 もつと話を聞きたかつたが、帰りの電車の時間が迫つてゐたので会場を後にした。

 ご関心がある方は、こちらをお読みください。

 

子どものための精神医学
滝川一廣
医学書院

 

 

 

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若者はなぜオウムに走つたのか

2018年07月12日 21時51分14秒 | 評論・評伝

 先日、オウム真理教の教祖やその幹部たちの死刑が執行された。法律に反して犯罪を犯したのであるから、それに報いたまでである。私には特別な感慨はない。不潔極まりないあの風体が私には宗教家と感じさせなかつた。ぶよぶよに膨れた体躯には聖性を微塵も感じなかつた。

 私には「なぜ若者はオウムに走つたのか」といふ文章がある。珍しく賞で一席を頂戴したもので(産経新聞主催「私の正論」)、それを載せておく。1996年12月11日に記したものだ。

 

 宗教入信の動機として、亀井勝一郎は古代から近代までの文献をあたって、端的に「死の恐怖」「罪の意識」「病者の自覚」と三分した。そしてさらにそれらを一つにつづめて「恐怖観念」が奥底にあるとみた。

 なるほど、宗教が個人の必要に応じて選ばれたのだとしたら、これらの当否は別としても、「動機」があるに違いない。しかし、ことオウム真理教に関する限り、あるいは新々宗教全体に言えることなのかもしれないが、「動機」というものが希薄に見える。たとえば、彼らが「動機」を持ち主体性を発揮しての入信であったなら、その動機に反する行動を強いられてもできなかったはずだ。しかし、彼らは言いなりだった。となれば、「動機」があったのは彼らではなく、むしろ教団の側ではないかと考えられる。「動機」は教祖のみが有し、彼らは導かれたに過ぎないのである。「選んだ」と思ったのは錯覚であり、実は「選ばれた」のである。

 ただし、いつでも宗教は「選民思想」を持っている。自分たちこそが救世主につながり、現実の諸問題を解決し、新しい文明を作り出すのだという気概があったればこそ、今の私たちの文明も築かれた。「選民思想」なくして、社会の閉塞を突き抜ける活力は生まれない。では一体何が問題か。ここではそれを「選ばれた若者」の側から論じてみよう。

 一言で言って、彼らには自我(伝統的価値)がない。寄って立つ自我がないから、新しい教理と対決することがないのである。つまり、今の若者には自己とは何かを考える意識もなければ、それを可能にする言葉もないのである。一体なぜこんな風になってしまったのか。現代の状況を概観してみたい。

 私たちの現代は、物質的に豊かになり、戦争や貧困や不衛生などの社会全体に共通する問題はほぼ解決されている。そこでの「不安」はひっきょう個人的な問題にならざるをえない。かつてのように「今日のオマンマ」を気にしていれば吹き飛んでしまったような個人的な問題、たとえば、学業の不振やいじめの問題や持病などに、個人が生々しく向き合わなければならなくなったのである。そこでの感情はおそらく「焦燥感」であろう。個人の現実に直面したがゆえの、「何かをしなければ」という強迫観念に似た感情がソフトなファシズムのように支配している。

 ところがである。それとは本来両立するはずのない「退屈感」もまた、私たちの気分を支配しているのである。社会の専門化が極端に進んで、個人は全体の部分に過ぎないことを骨身にしみて感じている。全体につながる開かれた個人としての自覚ではなく、閉ざされた個人として、「何ができるというのさ」という諦めにも似たソフトなニヒリズムが蔓延しているのである。

 こうした「退屈と焦燥」を生きる閉塞した個人が、一気に解放される手段としてオウム真理教を考えると、極めて魅力的な説得力のある存在に見えてこよう。「君はこういう使命を持っているんだよ」「君の能力がこうやって歴史に、人類に貢献するんだね」「君の前生は悪いことをしたからこうしなければならない」という言葉は、退屈と焦燥の二律背反の気分に引き裂かれた現代の若者を存分に引き付けるのである。教祖の語る言葉によって、「初めて自分の生きる目的を知った」かのような安堵感が、彼らの心に訪れたに違いない。

人はいつの世も自己とは何かを知りたいと思ってきた。そして、それを宗教やそれらを基調に紡ぎだされた文学をたよりに地道に行ってきたのが、私たちの歴史でもあった。しかし、現代はそれらをあまりに足蹴にし過ぎた。自我の拠り所とすべき言葉を私たちは自分自身の手で葬ってしまったのである。あるいは、今日の複雑な問題を伝統的価値では解決できないということなのかもしれない。

 好きか嫌いかという本能的な感情表現の言葉はあっても、沈みこんだ現実から救いあげてくれる言葉を私たちは失いつつあるのだ。そうとなれば、見る限り論理的で一貫した体系を持った「価値」を提示され、「私」のすべきことが明言されれば、もはや私たちにはその声を防ぐことは難しい。

 だから、今後ますます宗教は興ってこよう。それが新しい価値の創造過程とみるか文明の没落兆候と見るかは、意見が別れようが、この傾向は強まると見ることに異論はあるまい。

「現代の不安」というものを、ナイーブで神経過敏であるがゆえに感じてしまった若者の一部が、たまたまオウムへ行ってしまったのである。だから、同じ気質を持ちながらオウムへ偶然行かなかった若者は内心「オウムじゃなくて良かった」とつぶやいている姿が、容易に想像されよう。

 もう宗教は「走る」ものではない。ここに「ある」のである。

 

 

 

 

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