やうやくにして「ハンナ・アーレント」を観た。もう二十年ほど前に彼女の『過去と未来の間』といふ本の書評を書いたことがある(この稿の最後につけた)。それ以来気にはなつてゐたが、決して讀みやすいわけではない文章は、新訳がでるのを楽しみにしてゐるといふものでもなかつた。
ただその存在は、気になつてゐなかつたわけではないのは確かなことで、この映画をどうにしかして観たいといふ気持ちがふつふつとわきあがつてゐた。東京で、大阪で、名古屋でとその機会をうかがつてゐたが、見るのに半年近くを要してしまひ、このたびすぐ近くの映画館で上映され始めたのを機会に行つてみた。面白かつた。歴史的な絶対悪といふもの、いはゆる極悪人が犯すことではなく、凡庸な陳腐な人間が、上司の命令に従順に従ふといふやうに常識的良心的な営みによつておこるのであるといふことを主張する彼女の主張が、どれほどの抵抗にあつたのか、それに屈せずに自己の主張をいふことがどれほどたいへんなことであるのかを映画は見事に描いてゐた。この映画にたいする多くの人の感想も、そのことへの驚きと共感とであつた。私もその通りであると思ふ。悪が悪人面をして出て来てくれれば、だれもそれに引つかかることはないであらう。善魔といふ言葉があるが、善意として行はれる悪ほど性質の悪いものはないのである。
それにしても、あれほど『風立ちぬ』で喫煙に文句を言つてゐた禁煙団体が、この映画に文句を言はないのはどうしてだらうか。まさか、自分たちの善意が大悪を招いてゐることに気づいたからなどといふ冗談は言ふまいが、禁煙を言ふのならかういふ映画に対しても言ふべきであらう。二時間ほどの映画は、煙たくなるほど煙草のシーンで満たされてゐる。彼女の思想がかういふ煙草の中から生まれたのであるといふ事実は、私には面白い発見であつた。別に煙に巻くやうな文章の晦渋さは、その喫煙の習慣から生まれたといふことへの皮肉を言ひたいのではない。煙草を吸ふ習慣がない人物が、アイヒマンの裁判を傍聴したらどういふコメントを寄せるだらうかとふと考へたのである。喫煙がそれこそ悪として退けられる現代社会にあつて、アイヒマンに見た凡庸な陳腐な悪を愛煙家ハンナ・アーレントは、どう描き出したであらうか。現代に生きる私たちも、現代では気づかれない「凡庸な陳腐な悪」をきつと犯してゐるのであらう。そのことを考へてしまつた。
観てゐるこちらの頭が動き出す映画はいい映画である。私の映画評価において最も優先する基準である。
Hannah Arendt [Blu-ray] [Import] 価格:¥ 3,787(税込) 発売日:2013-11-19 |
H・アーレント『過去と未来の間』(みすず書房・四九四四円)
過去と未来の間――政治思想への8試論
価格:¥ 5,040(税込)
発売日:1994-09-07
今世紀の哲学の大きな収穫は、実存の探求による「時間」論の進展である。
常識的には、従来「現在」という時間は、ある区切られた時間の単位であって、過去と未来の間に広がる動かない場所であると考えられていた。過去から未来に向かって時間は安定した一つの流れの中にあると信じられてきた。しかし考えてみれば、過去は記憶の中でのみ存在しているのであり、未来は文字通り存在していないものである。ただ一つ手ごたえがあるのは現在と言う一瞬である。言ってみれば、現在とは闇の中から突然出てきた針の先のような鋭利な感触だ、と言える。そうであれば、「現在」に投げ込まれた実存は、不安にならざるをえない。だから、今世紀の哲学は「不安」を探求した。
内省による自我の探求によっても、存在の構造による実存の分析によっても、私たちの近代は、不安であった。著者は時間と不安をこう述べている。「つねに過去と未来のはざまに生きる人間の観点から見ると、時間は連続体つまりとだえることなく連続する流れではない。時間は『彼』が立つ地点で裂かれている。」そしてその裂け目は、実存が攻めて来る過去と未来に抗することによって存在しているとも言う。更に、人間が時間のうちに立ち現れることによってのみ、「過去・現在・未来」の時制が生れるのであれば、人間は必然的に現在に変革を挑まねばならなくなる。したがって、著者の筆は「行為」の分析や「政治哲学」へと進んで行く。
ところが、私たちはどうであろうか。現在に不安を見出してしまったがゆえに、見えない「過去の失敗」や「将来の幸福」ということばかりを考えるようになった。その結果、いたずらにうろうろするだけでどうしていいか分からなくなってしまったのである。大切な今日の生き方を忘れてしまったのである。不安定な今であるなら、大事なのはその生活や行動に筋道を立てようとすることである。著者の、「行為」に力点を置いての論の展開は、あまりにも正しい。
著者の挙げる「自由観念の混乱」も、「権威の崩壊」も、「教育の危機」も、すべては「不安」に対する適応異常に違いない。不安である事を現在の充実につなげるべきなのに、自暴自棄になって価値を破壊したのが私たちの近代である。「全体主義」とその裏返しの「相対主義」を見ればそれは明らかだ。ならばこれからは、共同で「行為」をしていくうちに、「テーマ」というか「ルール」というか、ひとつの価値を創りだしていく努力をしていくべきだと考えさせられた。
(94・10・24)