言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「ハンナ・アーレント」を観る

2014年03月31日 09時11分36秒 | 日記・エッセイ・コラム

 やうやくにして「ハンナ・アーレント」を観た。もう二十年ほど前に彼女の『過去と未来の間』といふ本の書評を書いたことがある(この稿の最後につけた)。それ以来気にはなつてゐたが、決して讀みやすいわけではない文章は、新訳がでるのを楽しみにしてゐるといふものでもなかつた。

 ただその存在は、気になつてゐなかつたわけではないのは確かなことで、この映画をどうにしかして観たいといふ気持ちがふつふつとわきあがつてゐた。東京で、大阪で、名古屋でとその機会をうかがつてゐたが、見るのに半年近くを要してしまひ、このたびすぐ近くの映画館で上映され始めたのを機会に行つてみた。面白かつた。歴史的な絶対悪といふもの、いはゆる極悪人が犯すことではなく、凡庸な陳腐な人間が、上司の命令に従順に従ふといふやうに常識的良心的な営みによつておこるのであるといふことを主張する彼女の主張が、どれほどの抵抗にあつたのか、それに屈せずに自己の主張をいふことがどれほどたいへんなことであるのかを映画は見事に描いてゐた。この映画にたいする多くの人の感想も、そのことへの驚きと共感とであつた。私もその通りであると思ふ。悪が悪人面をして出て来てくれれば、だれもそれに引つかかることはないであらう。善魔といふ言葉があるが、善意として行はれる悪ほど性質の悪いものはないのである。

 それにしても、あれほど『風立ちぬ』で喫煙に文句を言つてゐた禁煙団体が、この映画に文句を言はないのはどうしてだらうか。まさか、自分たちの善意が大悪を招いてゐることに気づいたからなどといふ冗談は言ふまいが、禁煙を言ふのならかういふ映画に対しても言ふべきであらう。二時間ほどの映画は、煙たくなるほど煙草のシーンで満たされてゐる。彼女の思想がかういふ煙草の中から生まれたのであるといふ事実は、私には面白い発見であつた。別に煙に巻くやうな文章の晦渋さは、その喫煙の習慣から生まれたといふことへの皮肉を言ひたいのではない。煙草を吸ふ習慣がない人物が、アイヒマンの裁判を傍聴したらどういふコメントを寄せるだらうかとふと考へたのである。喫煙がそれこそ悪として退けられる現代社会にあつて、アイヒマンに見た凡庸な陳腐な悪を愛煙家ハンナ・アーレントは、どう描き出したであらうか。現代に生きる私たちも、現代では気づかれない「凡庸な陳腐な悪」をきつと犯してゐるのであらう。そのことを考へてしまつた。

 観てゐるこちらの頭が動き出す映画はいい映画である。私の映画評価において最も優先する基準である。

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 H・アーレント『過去と未来の間』(みすず書房・四九四四円)

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 今世紀の哲学の大きな収穫は、実存の探求による「時間」論の進展である。

  常識的には、従来「現在」という時間は、ある区切られた時間の単位であって、過去と未来の間に広がる動かない場所であると考えられていた。過去から未来に向かって時間は安定した一つの流れの中にあると信じられてきた。しかし考えてみれば、過去は記憶の中でのみ存在しているのであり、未来は文字通り存在していないものである。ただ一つ手ごたえがあるのは現在と言う一瞬である。言ってみれば、現在とは闇の中から突然出てきた針の先のような鋭利な感触だ、と言える。そうであれば、「現在」に投げ込まれた実存は、不安にならざるをえない。だから、今世紀の哲学は「不安」を探求した。

  内省による自我の探求によっても、存在の構造による実存の分析によっても、私たちの近代は、不安であった。著者は時間と不安をこう述べている。「つねに過去と未来のはざまに生きる人間の観点から見ると、時間は連続体つまりとだえることなく連続する流れではない。時間は『彼』が立つ地点で裂かれている。」そしてその裂け目は、実存が攻めて来る過去と未来に抗することによって存在しているとも言う。更に、人間が時間のうちに立ち現れることによってのみ、「過去・現在・未来」の時制が生れるのであれば、人間は必然的に現在に変革を挑まねばならなくなる。したがって、著者の筆は「行為」の分析や「政治哲学」へと進んで行く。

  ところが、私たちはどうであろうか。現在に不安を見出してしまったがゆえに、見えない「過去の失敗」や「将来の幸福」ということばかりを考えるようになった。その結果、いたずらにうろうろするだけでどうしていいか分からなくなってしまったのである。大切な今日の生き方を忘れてしまったのである。不安定な今であるなら、大事なのはその生活や行動に筋道を立てようとすることである。著者の、「行為」に力点を置いての論の展開は、あまりにも正しい。

  著者の挙げる「自由観念の混乱」も、「権威の崩壊」も、「教育の危機」も、すべては「不安」に対する適応異常に違いない。不安である事を現在の充実につなげるべきなのに、自暴自棄になって価値を破壊したのが私たちの近代である。「全体主義」とその裏返しの「相対主義」を見ればそれは明らかだ。ならばこれからは、共同で「行為」をしていくうちに、「テーマ」というか「ルール」というか、ひとつの価値を創りだしていく努力をしていくべきだと考えさせられた。

 

                    (94・10・24)

 

 

 

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哀悼 宮里立士さん

2014年03月30日 18時40分24秒 | インポート

 またしても訃報である。私よりも若い人の死は、どうとらへてよいのか分からないほどの戸惑ひが離れない。

 宮里立士さんは、3月26日故郷の那覇で47歳であつた。沖縄の状況を大手のマスコミとは違ふ視点で知らせてくれる貴重な言論人であつた。この訃報は知人の山本直人さんより知らされたが、私と宮里さんとは年に一回北村透谷研究会でお会ひする程度で、これまでの疎遠なお付き合ひが悔しい。彼は『表現者』の常連執筆者でもあつたので、その御活躍はいつも身近に見てゐるやうな気がしてゐたのがうかつであつた。
 透谷研究会では私はいつも外野席にゐるやうな立場だが、宮里さんは、そのお人柄もあつて、どんなお話にもつき合つてくれる。西部邁氏や富岡幸一郎氏とはよく会つてゐるやうなので、そのあたりの近況もいろいろと教へてくれた。

 透谷研究会も事務方を引き受けていらしたから、今後は橋詰会長もお困りになるだらうと思ふ。

 それはともかく、安らかにお眠りいただきたい。御冥福を祈る。合掌

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「印象派を超えて」

2014年03月28日 22時11分27秒 | 日記・エッセイ・コラム

 印象派と言へば、マネやモネであるが、点描主義といふよりも目に見えない光を絵画で表現したといふ感じが強い。それが、スーラなどの新印象派となると、科学的な理論に基づいて描かれるから、光学的な知見を得てさらに理論的な絵画となる(分割主義と言ふらしい)。

 愛知県立美術館で開催されてゐる「印象派を超えて――点描の画家たち」展で展示されてゐるスーラの作品は「入り江の一角、オンフール港」など6点である。淡い色使ひはあまり惹かれなかつた。

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 フランスで全盛期を迎へる印象派は、しだいにヨーロッパ各地に広がり、テオ・ファン・レイセルベルヘの「《7月の朝》、あるいは《果樹園》、あるいは《庭園に集う家族》」(1890年)によつて頂点に達したやうに私には感じられた。その陽射しの美しさは格別で、絵画が光を捕まへた瞬間のやうにさへ思はれた(もちろん素人の独断である)。

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 もちろん、それに先立つて後期印象派のファン・ゴッホが点描画を描いてゐる。絵画史においては、もちろんゴッホの方が格上である。しかし、私はゴッホの点描は、一つ一つの色彩が目の中で統合される感じがしない。それぞれが目に差し込んでくるやうで、どうにも好きになれない。そもそも印象派といふ名称すら疑はしい。この展覧会では、「種まく人」や「レストランの内部」など9点が展示されてゐて、それだけでも見応へはあるが、印象派といふ括りのなかでもゴッホは孤立してゐるやうに感じた。

  印象派の最後にモンドリアンのコーナーがあつた。不思議である。色彩の妙といふことでは確かに近いが、現代藝術と印象派といふずゐぶん強引な繫がりは興味深かつた。そんなことは織り込み済みであると言はんばかりに、コーナーの入り口の解説には、次のやうに書かれてゐた。

「モンドリアンの色彩の分割は、科学的な光学理論を反映したものではなく、象徴主義的な文脈を強く留めている。したがって、スーラの分割主義と直接結びつくものではないが、線や色彩に対する考え方には、類似した認識がある。」

 「類似」といふ一言で結びつけてしまふのは、いかにも強引であるが、かういふ美術史の冒険は私は好きである。現代藝術はただでさへタコツボ的で孤立しがちである。そこに一筋の道を見出さうといふ美術館の意気込みは、もつと試みられてよいのではないか。事実、モンドリアンはかう言つてゐる。

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「キュビズムは自然主義的表現を残し、まだ三次元的である」と。印象派が、絵画を脳の中で再現する光と捉へ、それがさらに物質を構造的にとらへるキュビズムに繫がり、さらに脳のなかで絵画とは何かが問ひ続けられて抽象主義藝術が誕生した。モンドリアンのカンヴァスに黒い線が縦横に引かれ、その内部が赤に青に黄色に塗られただけのあの絵画は、究極的に絵画が出来ることは何かを探つた果ての境地である。それだけを見ると、何も伝へてはゐないやうであるが、その道もどこかからか来た道である。モンドリアンはその意味で孤独ではない。さういふ絵画史を知ることは、現代といふ時代を知る上で貴重な体験である。

(4月6日まで)

 

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時事評論 最新号

2014年03月22日 21時41分43秒 | 告知

○時事評論の最新號の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)

                 ●

   3月號が発刊された。盛りだくさんである。

 

 

              ☆        ☆    ☆

「おれはおれだといふ自信」

      清々しい日本を取り戻さう

        麗澤大学准教授   川久保 剛

● 

唱歌に歴史を聴く

  歌われない『蛍の光』三、四番     

        評論家  三浦小太郎

教育隨想       

  小野田寛郎氏の死と戦後の日本 (勝)

南京事件の真実は何か
    『謎解き南京事件』

       近現代史研究家 阿羅健一

この世が舞臺

     『今昔物語集』                              

                            圭書房主宰    留守晴夫

コラム

     私たちは助けられません (紫)

     クラシック代作と発掘捏造 (石壁)

     讀書の質から高めよう(星)

     責任を取らぬ國(騎士)   

   ●      

  問ひ合せ

電話076-264-1119     ファックス  076-231-7009

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梅屋庄吉といふ人

2014年03月16日 00時07分51秒 | 日記・エッセイ・コラム

 先日、テレビで「たった一度の約束」といふドラマを見た。

 梅屋庄吉といふ人物は、孫文を支援し続けた日本人で、現在のお金で言へば一兆円を超える財を捧げた人である。活動写真で資金を調達した人物で、のちに映画会社の日活を創立したメンバーのお一人である。孫文から「賢母」といふ言葉(その意味は、無償で尽くす人といふ意味)や「同仁」といふ言葉(その意味は、分け隔てなく人を愛することといふ意味)を贈られた人である。長らくそのことは遺言によつて秘せられてゐたが、孫の小坂文乃によつて明らかにされた。

 ウィキペディアの「孫文」を見ても、この人物には触れられてゐない(今確かめたら小さく載つてゐた。訂正します)。それほどに遺言は守られてゐたといふことであらう。しかし、今やその必要はない。かういふ人物がゐたことは、私たちの誇りである。篤志家といふ言葉があるが、梅屋の功績は大きい。孫文といふ人物の評価は別として、東アジアに民主主義をもたらさうとした動きに掉さした事実は重い。

 再放送があれば、ぜひ見ていただきたい。

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