言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

先崎彰容『違和感の正体』を読む

2016年07月26日 08時51分51秒 | 日記

 新進気鋭の評論家、先崎彰容氏の本を初めて読んだ。「せんざき・あきなか」とお読みする。昭和50年生まれだから、40歳を過ぎたばかり。四月から日本大学で教へていらつしやる。今ではテレビに時々出るやうになつたから、声と顔とは認識できて、本を読んでゐても肉声が聞こえるやうだ。

 評論で肉声が聞こえるといふのは褒め言葉のつもりである。「です」「ます」調といふ文体の評論も異例であるが、それも肉声が聞こえる理由かもしれない。

 東日本大震災を経験し、家賃を二重に払はなければならなくなつたといふ、この著者が置かれた状況が、本書のスタイルを決めたやうである。二つの時代を同時に生きなければならなかつたといふことなのだ。

 近代に生きながら、そこに違和感を持つ。しかし、生きるといふことは二つではなく一つだから、畢竟「こころ」が引き裂かれることになる。引き裂かれたままでは生きていくことはできないから、その違和感を表明し、その違和感に言葉を与へ正常に戻さうと努力する。その言葉とは、勝海舟であり、福沢諭吉であり、柳田国男であり、石川啄木であり、北村透谷であり、高坂正堯であり、江藤淳であり、吉本隆明であり、亀井勝一郎である。東日本大震災の避難所で、さうした本を読みつつ、「状況」に抗つた成果が本書である。その意味では、被災してゐない私には何も言ふことはない。できれば、さういふ個人的な状況から発したものではなく、建前上でかまはないから、現代といふ時代にある日本の分析として書かれてほしかつた。

 「個人的体験が、勅撰和歌集から『小説神髄』まで、日本文学の系譜と近代日本の条件につながっている」との確信を著者は表明してゐるが、さういふ個人的体験で彩られた日本から、さうではない日本になるべく努力した近代日本があつて、著者が読んだとした知識人たちがその道を模索し、格闘したのである。その二つを同時に見た著者は引き裂かれることで、本書を書いたのに、結果的に前者への確信を得たといふのであれば、それはどういふことなのか。私にはわからなかつた。

 「ものさしの不在」、これが現代の状況であると著者は言ふ。もつと一般的な言葉で言へば、価値観の多様化した時代、あるいは相対主義の時代といふことになる。そんな時に「個人的体験」の尊重を言つてしまふのであれば、それは「私のものさし」の提示にすぎないのではないか。

 現代日本を「診断」しようといふ姿勢で本書は貫かれてゐる。つまり、自分は医者なのである。臨床哲学といふものが一時取り上げられたが、その伝にならへば臨床社会学である。しかし、病気として現状をとらへるとき、それを診察する医者は健康であるといふのが前提である。しかし、現代人はそれほど「健康」であるのか。まともな文学も、まともな学者も、まともな政治家も、まともな教育者も、まともな家族も、まともなジャーナリストもゐないなかで、ひとびとはまともな家族に生まれ、まともな文学を読み、まともな学者から学び、まともな社会人として生きてゐると思つてゐる。さういふ中での診断がもし可能であるとすれば、自分にも聴診器を当てるといふ姿勢がどこかに示されなければならない。したがつて、違和感の表明は、まづ自分に対してなされるべきである。果たしてそれが本書にあるか。私には聞こえてこなかつた。

 最初に、著者の肉声が聞こえると書いた。その声は何か。「さあ、診断してあげませう」といふ不快な親切心である。かつて中村光夫は「です」「ます」調で文章を書いた。有名な言葉に「年はとりたくないものです」といふものがある。中村は、当時40歳であつた。作家広津和郎との間に交はされた論争(『異邦人』論争)での言葉である。敬体には、どうしても慇懃無礼な印象が伝はつてしまふ。どうしてかういふ文体を選んだのか、たぶん心根がそれを選んでしまつたのであらう。

 最後に引用された亀井勝一郎の言葉はとてもいい。

「常に正しいことだけを形式的に言う人、絶対に非難の余地のないような説教を垂れる人、所謂指導者なるものが現われたが、これは特定の個人というよりは、強制された精神の畸形的なすがたであったと言った方がよい。精神は極度に動脈硬化の症状を呈したのである。言論も文章も微笑を失った。正しい言説、正しい情愛といえども、微笑を失えば不正となる。」『大和古寺風物誌』

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映画「小野寺家の弟・小野寺家の姉」を観る

2016年07月25日 17時41分31秒 | 日記

 

 休みも二日目にはつてやうやく体調が落ち着いてきた。 

 特にストレスといふものは感じない日々であるはずなのに、休日に入つて一日目二日目は何もする気になれない。そんな時には、読書もあまり気が進まないので、DVDを観ることにしてゐる。今回も四枚ほど借りてきた。そのうちの一枚である。

 弟33歳と40歳の姉。両親はすでに亡くなつてをり、一つ屋根の下に住む。現実に隣にさういふ兄弟がゐたら、ちょっと気が引けてしまふだらうが、映画だから淡々と見続けられる。しかも、役者が向井理と片桐はいり。彼らの生活の中に、あるいはこれまでの人生に何かの物語を読み取らうとする。

 主人公のその二人の役者は、私は嫌ひである。どちらも役柄以上に、その人物が出てしまつてゐるからである。自分を消しながらそれでゐて現れてくる、さういふ役者がいいのではないかと素人ながら考へてゐる。しかし、今回は二人がとてもよい。姉と弟といふ関係が、二人の個性を消してくれてゐる。最後にある台所でのシーン。片思ひの彼に振られて帰宅してきた姉が弟に「ごめん、姉ちゃんふられちゃった」と語るところなどは、とても良かった。弟はすでに帰宅した直後に、一人部屋で泣いてゐる姉の声を聴いてゐるから、事態は呑み込めてゐる。しかし、慰めの言葉もかけない。「俺、風呂に入ってくる」と言つて台所を出ていく弟。

 弟には、姉への深い感謝の思ひがある。姉は姉で、弟への責任感を強く抱いてゐる。厄介な関係である。強い姉弟の結びつきは、一向に解かれないままで未来の時間を縛り続けてしまふのか。それについては何らの暗示もなく、映画は終了する。しかし、この切なさはとてもいいものであつた。両親を早くに失つたがゆゑの切なさが二人の結びつきを強め、頑なにしてしまつた。このままではいけないのだらうが、少しづつ遠心力も働き出してゐるやうにも感じる。

 二人だけで完結せず、それぞれに仕事を持ち、それぞれに別々の人間関係を築かうとしてゐる。その健気さが、この映画の味はひでもある。向井のあつさりとした演技、片桐の彫りは深いが、しつこくない口調が、べったりとした陰湿な印象を打ち消してゐる。そこに救ひも魅力もある。日本の現代の家族映画には、かういふものがあつてよいのではないかと思ふ。幸せと不幸とがあまりに峻別されてゐて、幸福な家庭と不幸な家庭とが同居してゐる日常風景を描くには、かういふ姉弟だけの家族といふのは存外に良いものであつた。

 原作・脚本・監督=西田征史

 

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機械の老朽化とそれに対する対策、それによるどうでもよい迷ひごとと、それゆゑに消耗する我が貧弱な精神

2016年07月24日 11時02分33秒 | 日記

 先日、『坊っちゃん』のビデオを見せようと教室にあるビデオデッキに入れたところ、テープが絡みつき映らないは、テープに傷がつくはで大わらは。やうやく取り出すことに成功して、一安心。そして家に帰つてテープの傷み具合を確かめようと我が家のデッキに入れるも同じ状態。踏んだり蹴つたりだが、これも試練。何とかしようとデッキを分解して、やつとの思ひで取り出したが、症状としては学校のものより悪い。もうこれは使ひ物にならない。テープをDVDに落とし込もうとしてゐたが、それもあまり活用しないままご臨終である。見れば2005年製とあるから、10年も経つと、機械も相当に痛むらしい。さう言へば、昨年あたりからこちらは25年ほど前に購入したサンスイのステレオであるが、CDの取り出し口が閉まつたり閉まらなかつたりといふ症状が出てゐる。25年とは物持ちがいいのかもしれないが、機械は形状が崩れずに機能だけ低下するから老朽化をあまり深刻に受け止めない。きつと新製品を買へば、もつと早くに買ひ替えればよかつたといふことになるのは分かり切つてゐるもののさうはできない。愛着もあるのかもしれながいが、機械の進化を無理やり取り入れる必要を感じないのである。

 しかし、録音機械や音声や録画の再生器機はどんどん変化してゐる。今更何を言ふかと言はれるかもしれないが、音声テープやVHSはおろか、MDもCDも絶滅危惧種のやうな状態である。かういふ進歩は必然的なものであるから、逆らふことは意味がないが、それでも何か腑に落ちないといふ気分は残る。保守的な気分であるが、嫌な感じでもある。

 その点、本はいい。電子書籍といふものもあるが、それがシェアの大半を占める時代は来ない。資料や辞書などの用途に限られよう。したがつて書庫としての図書館にはもつて来いの媒体であるが、思考の空間としての図書館、あるいは書斎などにはそれは不向きである。

 この夏も本の整理をし、本を読み、文章を書くつもりである。大阪と愛知に本が分散してゐるので、クラウド上に書庫を作り、それをどちらからでも読めるやうにしたらどうかと提案してくださる人もゐるかもしれないが、今はさういふ誘ひには魅力を感じない。増えていくばかりの本を整理し、性格上分散しがちな思考に、意識的に枠をはめていくのが私にとつて大事なことのやうに感じてゐる。さうであれば、電子情報として本が無限に増えていくといふ状況は、むしろ害毒である。ブレイクの詩にあるやうに「よどめる水に毒ありと思へ」よろしく「積み上げられた本に毒ありと思へ」を戒めとしたい。

 さて、その前にこの夏は、VHSをハードディスクやDVDに録画する機械を買ふかどうかに迷つてゐる。聞けば、VHSの再生機はこの7月で製造終了らしい。これから入手は困難、値段は上昇となる。2時間テープをDVDにするのを外注すると一枚1500円。機械を買ふか、デッキを買ふか、それも思案のしどころである。何事も決断力がない私は、いつも迷つてばかりだが、この夏もかうしたどうでもよい思案に無駄なエネルギーを消耗してしまふのであらう。呵々

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古書店巡り

2016年07月23日 08時29分56秒 | 日記

  先日上京した折に、久しぶりに神保町を散策した。この街を毎週のやうに利用してゐた時期もあつたが、今は足を運ばなくなつた。一つにインターネット古書店の充実がある。文庫本や発行時に部数のかなり多かつたものなどは、すぐに見つかる。ある程度の金額であれば、送料が無料になるサービスもあつたり、300円ほどで送つてくれるところが大半だつたりする。重い物を持ち歩く必要がない。そして何より検索といふ機能である。かつては神保町を1日歩いて収穫なしといふことがあつた。それがネットの検索なら一瞬である。気持ちの整理はパソコンの前ではなかなかつかないから、神保町を歩き回つた方が諦めはつけやすい。だが、瞬時の検索はそれ以上の魅力である。しかもリクエストを出しておけば、本が見つかると知らせてくれる。こんな便利なものはない。

 

 

  古書店街は苦境であらう。事実、古書店街も以前とは変はつてゐた。メインストリートの店には飲食店になつてゐたところもあつたし、DVDショップになつてゐたところもあつた。寂しいといふのとは違ふが、街の変化が気になつた。

  古書店もそれぞれにインターネット上に店を持つてゐる。実際の店には今までとは違ふ意味が出て来てゐるのだらう。掘り出し物を見つけるといふ喜びは健在である。事実、歩き回つて楽しかつた。かつての喜びが蘇つたやうに感じたので、また神保町巡りを再開したい。

 

 

 

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時事評論 7月号

2016年07月21日 13時11分13秒 | 告知

 今月号は、次の通り。 どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。
1部200圓、年間では2000圓です。
(いちばん下に、問合はせ先があります。)

 松原正先生の追悼文を留守先生が書かれてゐる。待望のものである。「西洋を怖がらないやうになつてから日本は駄目になつた」と、松原先生は語つてゐたといふ。その通りである。グローバリズムに対応した英語能力の向上などといふことを、今の政権は強く言つてゐるが、それは「西洋を怖がらない」からである。英語を話せるやうになれば、英語文化圏に飲み込まれるのである。それでもやつていけると思ふほど西洋を見くびつてゐるといふことであり、日本を買ひかぶつてゐるといふことである。それほどに彼我に対する認識の誤謬を犯してゐることを知らない政治家の愚に怒りが消えない。

 「祈りの国」を書かせていただいた。副題は、「その人がゐるといふことがそのまま『呼びかけ』となる」である。その人とは誰か。それは天皇である。その方の祈りによつてわが国は守られてゐる。そのことを指摘したまでである。そこでも引用したのが、ベルグソンの次の言葉である。

「聖徒や偉人たちは、他人に向かって何一つ要求しない。しかし獲得する。彼らは説き勧める必要もない。彼らは存在しているだけでよい。彼らの存在が呼びかけなのである。」

 論理は、嘘をつく。だから、言葉で人はだまされる。話してゐる人もまた、自分の論理に欺かれる。

 論理は、動機を抱いた後の事柄に生まれるものであり、動機は論理的帰結ではない。だから、論理では動機を転換させることはできない。動機を隠したまま、あるいは動機を省みることなく、論理は展開していく。論理とは衣装=意匠でしかない。

 しかし、祈りは論理を越えてゐる。私たちの国が存続するとすれば、それは祈りによつてしかなされない。

 

                 ●



 

   ☆    ☆    ☆

祈りの国――その人がゐるといふことがそのまま「呼びかけ」となる 

          文藝評論家 前田嘉則



反省と謝罪の義務と権利<上>

 寄って集って誤らせて気持ちよくなってゐる「世間」様

   評論家 瓦崎鬼一郎




教育隨想

 共産党の「人殺し」発言を、憲法改正の好機にせよ(勝)



ラグビーイヤーはまだまだ続く――高校ラグビーに一点の雲

 元中村学園大学教授 青木秀実

追悼 松原 正

  早稲田大学元教授 留守晴夫

コラム

  『朝鮮王公族――帝国日本の準皇族』(中公新書) (紫)

  「連帯責任」考(石壁)

  「十八歳で選挙」のこれ以上なき愚(星)

  「文明の衝突」の嘘(騎士)



問ひ合せ

電話076-264-1119
ファックス 076-231-7009

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