ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

エレクトラ

2005-03-17 06:29:06 | 音楽あれこれ
上野へ《エレクトラ》を観に行く。ワシはオペラについてはズブの素人なので興味津々で出掛けた。

それにしても最近の演出は大胆である。冒頭でアガメムノンの亡骸が全裸で登場するのだが、一糸まとわぬ姿なのだ。そう、性器も丸出し。これって公然わいせつ罪に当たらないのかねえ。芸術だから許されるのか? いやー、そうじゃないだろう。

おおまかなストーリーは次の通り。ミケーネの女王クリテムネストラは愛人のエギストと謀り、夫であるアガメムノン王を殺害する。娘エレクトラはその事実を知り、母と愛人の殺害を目論む。そして妹のクリソテミスにも殺害に協力するように持ちかけるが、断られてしまう。

そんななかで弟のオレストが死んだとの知らせを受け、嘆き悲しむエレクトラ。しかし暗殺は遂げねばならないと心に誓う。やがて見知らぬ男がオレストの死を伝えるためにやってくる。エレクトラはその男がオレストであることに気づかない。そう、彼は死んではいなかったのだ。

しばらくするとエレクトラはその男がオレストであることに気づき、抱擁する。そしてオレストと従者が母と愛人を殺害する。彼女は歓喜の踊りをしながら最高潮を迎えた瞬間に息絶える。

ま、そんなとこ。

しかし、『サロメ』などもそうだが、毛唐の作るドラマというのは何と血なまぐさいストーリーなんだろうね。殺すとか憎悪するとか、嫉妬するなど、もう狂気の世界としか思えない。こうしたストーリーは、まず日本では作られないよな。戦国時代の話とかはあるにせよ、ここまで生々しく展開しない。どぎつい物語を見せられると、「はぁ、人間の怨恨とか醜悪な精神というのは実在するのかもしれんな」と思ってしまう。そう思いたくないが、たぶんあるんだろうな。こえー、こえー。

歌手陣で光っていたのは、アグネス・バルツァ(クリテムネストラ)とクリスティン・ゴーキー(クリソテミス)。バルツァは演技力が、そしてゴーキーは歌唱力が素晴らしかった。一方、デボラ・ポラスキ(エレクトラ)は音程が上がりきれてないところがいくつもあり、ちと残念。

専門的なことはわからないが、ロバート・カーセンの演出はどうなのだろう。これが流行のスタイルなのか? シンプルな舞台で暗めのステージ。まあシックな感じではある。しかし、歌手にスポットライトが当てられてないので、会話のやり取りなどの場面ではどこで誰が歌っているのかが判りにくい感はあった。

そのほか、女中たちと思われる15人ほどのメンバーが何度も登場し、その度に「集団演技」のような踊りを展開。アングラ的というか現代舞踊なのか知らないけれど、本当に必要なのかと思うところもしばしば。いや、もしかすると単に演技が下手なだけだったのかもしれないので、なんとも言えないが(苦笑)

今回の演目が後期ロマン派の作品であることは、小澤征爾にとって幸いしただろう。というのも、毒々しいストーリーとドロドロした音楽ゆえに、小澤お得意の「出しゃばり」な部分が目立たなかったからだ。舞台作品というのはあくまで演技者がメインでなければならない。ところが小澤の場合、なぜかいつも自分が主役となりたがる傾向がある。

一昨年のモーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》の公演はまさにそうだった。舞台作品では歌い手を盛り上げるのがオケの仕事なのに、オケの音量は強く、どんどん前に出てくる。これではメインとなる歌い手たちの存在は薄くなるばかり。この時の演目はモーツァルトなので、歌い手はオケに負けじと「がなる」わけにもいかない。だから余計に小澤が主役になったように見えたのだ。

幸い、《エレクトラ》は歌手が存分に叫んでも構わない作品だったからよかった。ゴーキーの音量もオケに負けないほどだったし。そういう作品ではあっても、やはり小澤はもっと歌い手を引き立てるような演奏をしなければイカンと思うけどね。舞台作品の指揮者とオケは、あくまで黒子に徹する必要がある。少なくとも名だたる巨匠指揮者たちは若い頃からそうした訓練を受けてきている。あのカラヤンだって若い頃は歌劇場指揮者として「修行」したのだ。

押すところは押す、引くところは引く。この絶妙なバランスを会得してこそ舞台作品の成功に繋がるのである。でも、小澤はまだまだ。まずは主役という意識を捨てなくちゃ…。
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寄稿ということ

2005-03-16 14:24:15 | 音楽あれこれ
毎月書いている雑誌に、今回なんとワシの顔写真が載ってしまった。いや、編集長が出せと言うからさ。これでますます悪いことができなくなる(笑)

たまたまその号に知り合いのピアニストも書いていた。先ほど「お怒りのメール」が届く。といっても、ワシへの怒りではなく、雑誌社に対する憤りを記したものだ。

その原稿のところには「特別寄稿」というタイトルが付けられていた。彼に言わせれば、「書いてくれという依頼で書いたのに、なぜ寄稿なのだ?」という。寄稿とは文字通り「原稿を寄せる」という意味。つまり自分の書いた原稿を雑誌社に送りつけて「掲載しろ!」という、いわば書く側の能動的な意味が含まれる。だから彼にしてみれば、依頼なのになぜ「寄稿」なのだ? となるわけだ。

気持ちはわからんでもない。でも押し売りで送りつけた原稿であっても、編集部からの依頼で書いた原稿であっても、雑誌に載ったことは事実なわけだからさほど気にすることではないとワシは思うのだが。

たとえば、洋書などで共同執筆者を紹介するところには「コントリビューター(contributor)」と書かれることがある。コントリビューターを訳せば「寄稿者」の意味だ。でも、この人たちは何も原稿を出版社に送りつけたわけではない。編集部から事前に依頼されて書いているはず。だから、仮に押し売りであっても、そうでなくても英語ではコントリビューターになってしまう。読者にどう解釈されようと、書いた内容が良ければそれでいいのではなかろうか。

昨日から、仕事を含め演奏会が4日間続く。今日は小澤の指揮するR.シュトラウスの《エレクトラ》。さあ、どんな演奏になるか楽しみだ。
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人にモノを頼むこと

2005-03-15 03:46:07 | 脳みその日常
どういうわけか、頼み事をされることが多い。数日前、ある学生がメールで質問をしてきた。自分はこれこれしかじかの勉強をしたいが、どうすればよいのでしょうか、と。

頼まれればイヤと言えないのがワシの性格。自分のこれまでの経験を踏まえ、その学生の能力に相応しいと思われる方法を考えた末に、送信。ところが、その後何の連絡もない。

世間的な常識からすれば、相談してリアクションしてくれたのだから、その相手に対してすぐさま礼状を送るのは当たり前のこと。しかし、今の若い人たちにしてみれば、これまでの常識は常識ではないのかもしれない。

ワシは何も礼状をよこせと言っているのではない。むしろそんなのはどうでもいいとすら思っている。だが世の中はそうじゃないんだよな。

学生時代というのは、学校の中だけが社会とだ思っているフシがある。学内の価値観が一般社会の価値観であるかのように錯覚するのは仕方のないことかもしれない。残念ながら、それは違う。むしろ、一般社会の価値観は損得勘定にまみれた、ある意味で醜い世界なのだ。このほうが普通といってよい。

この醜い世界では、誰かに何かをしてあげるということは、悲しいかな無償ではないようである。つまり、その人は相手に何らかのリターンを求めているのだ。リターンといってもさまざまで、金品であったり、仕事をまわせということだったりする。異性間の場合だと、最もおぞましいケースでは身体を要求されることだってある。

音楽の世界なんかでは、我々がおぞましいと思っていることが意外と当たり前だったりするからコワイ。したたかな女であれば、喜んでそれを利用したりする。つまり身体を売れば主役の座がもらえると計算するわけだ。実際、その作戦は成功したりするから恐ろしい。

たとえば、舞台作品の出演者を決める場合、たいていはオーディションが行なわれる。役柄に相応しく、能力のある人間がフツーは選ばれることになっている。だからといって、才能がある人が選ばれるとは限らない。したたかな女がそれに応募した場合、番狂わせが生じるからだ。だから、オペラやオペレッタで主役クラスの歌や演技が他の出演者よりも明らかに下手だなという場面に遭遇したら、それはその主役クラスが「作戦」を実行したのだろうなと思ってほぼ間違いない。

性的な魅力で人を落とせても、音楽で人を騙すことはできない。したたかな女は、心の中で「勝ったわ!」と胸を張っているだろうが、誰もこの女を認めてはいないのである。実に哀れだねえ。

こうした醜さは極端なものかもしれない。しかし、程度の差こそあれ、世の中のギヴ・アンド・テイクの関係はシビアに存在する。前述の学生は、いつそれに気づくのだろうか…。まあ、痛い目に遭わなければ気づかないと思うけれど。
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そういうわけか…

2005-03-14 05:49:11 | 脳みその日常
ソニー・ミュージック・ファウンデーションからメディア向けの資料が届く。そのなかにアレッシオ・バックスのことが載っていた。バックスは1977年にイタリアで生まれたピアニスト。2000年に行なわれたリーズ国際ピアノ・コンクールで優勝して以来、世界各地で活躍している。わが国にはもう何度か来日しており、ワシは2002年に東京、紀尾井ホールで行なわれた演奏会を聴いた。今年も4月1日には大阪いずみホール、10月22日にはさいたま芸術劇場、23日には高松市美術館でリサイタルを行なうという。

ワシはソニーの「回し者」じゃないので宣伝はこれぐらいにしておくが、一瞬不思議に思ったのは、バックスは確かワーナークラシックからアルバムを出していたよな? なのになぜソニーが宣伝しているんだ?…ということ。あっ、そうか。ソニーとワーナーは業務提携をしていたんだっけ。それなら不思議でもなんでもないじゃん。(苦笑)

ところで、バックスに限ったことではないが、ガイジンのお辞儀の仕方に違和感を覚えるのはワシだけだろうか。特に若手のアーティストにそれを感じる。ここで言うお辞儀とは、もちろん感謝の気持ちを示す行為のこと。しかし、若手のガイジンのお辞儀は、何となく機械仕掛けの人形のよう。いや、そこまでは言い過ぎとしても、なんかねえ、あまりに不自然なやり方なんだよな。バサッと頭を下げて、グワッと頭を上げる。そう、そんな感じ。

お辞儀の際、彼らは手を気にすることもない。バサッと頭を下げるとともに手もダラッと下げる。おいおい、それじゃまるで屈伸運動じゃねーか。もうちょっと何とかならんかねえ。何のためのお辞儀なんだかわからんぞ、それじゃあ。もしかすると、彼らもお辞儀をする意味がわかってなかったりしてな。
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ほとんどビョーキw

2005-03-13 02:25:25 | 脳みその日常
昼に、いつもの店にツケの代金を支払いに行く。部長のSさんに昼飯をご馳走になったあと、店内でひとしきり談笑する。人材を募集しているようであるが、なかなか条件に叶う人物がいないとか。そりゃそうだ、最近の若い人たちはいろいろな点で欠如しているものが多いもんな。まあ、どうなることやら。

店を出て帰宅しようとクルマに乗り込む。突然、どこかへ出掛けたくなった。店は文京区にあるので、なんとなくR17を下ることに決める。

さすがに土曜日というだけあって、「なんでこんなにクルマが走っているんだ?」と思うほど道路にはクルマが溢れていた。でも急ぐ旅でもないので、渋滞にハマりながら群馬の高崎まで行く。そのまま行けば新潟へ向かうことになる。さすがに日本海を見るだけの元気はないので、高崎からR18に合流。そう、長野県に向かうのだ。

軽井沢の手前に碓井峠がある。ここは登坂車線があるのでノロいクルマをビュンビュンと追い抜き、ゴキゲン、ゴキゲン。途中、名物の「横川の釜めし」でも食おうかと思ったが、道路が比較的スムーズだったので我慢する。

佐久インターからR141へ向かう。あとは韮崎へ向かう一本道。と、ところが、佐久を過ぎて臼田あたりでは凄い吹雪。気温はマイナス8度。そりゃ吹雪にもなるわなー。ここだけの話だが、運転しながら携帯で写真を撮ってみた。いや、吹雪の凄まじさを味わっていただこうと思ったのだ。しかし、すでに日はとっぷりと暮れ、目に見える吹雪は全く写っていない。なので、写真は当然ボツ。あー、ショック。

清里まで来ると雪は止んでいた。やれやれ、あとは凍結に注意するだけである。何事もなく、無事に韮崎へ到着。途中、気になる道に入り込んでみたり、寄り道三昧。そしてR20に入り、東京方面を目指す。

なんだかんだで、本日の走行距離は410km。久々にタップリ走ったなという妙な充実感で満たされる。こうした満足感はドライヴが好きな人でなければわからないと思う。しかし…ここまでくると、もうビョーキだわ。
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こども音楽コンクール

2005-03-12 06:23:02 | 音楽あれこれ
明け方にTBSで放映していた「こども音楽コンクール」。偶然目にしたのだが、意外に見入ってしまった。ワシの目を惹き付けたのは子供たちの集中力である。大人のプロも顔負けなのだ。

最も驚いたのは、ほぼすべての団体が暗譜で演奏していたこと。オーケストラの奏者はみな自分の前に譜面台を置き、譜面を見ながら演奏すると思うだろう。いや、イメージとして間違いではない。現にワシもそういう先入観をもっていた。ところがこの子供たちは違った。自分のパートをすべて暗譜しているのだ!

冷静に考えれば、暗譜して演奏するのは何も驚くことではない。ピアニストをはじめとして、ソリストは基本的に暗譜で演奏するのが当然だから。またこれはコンクールだから演奏する曲は1曲のハズ。何度も何度も練習していれば知らないうちに暗譜してしまうだろう。そう考えれば彼らが暗譜で演奏するのは驚くにはあたらないのかもしれない。

それにしても、彼らが作品に没入する姿はプロの演奏家も見習うところがあるのではないだろうか。プロというのは初見能力があるから初めて見る楽譜でもスラスラ弾けてしまう。しかし、正確な音が弾けるからといって「良い音楽」になるとは限らない。むしろ「ただ弾いただけ」という表面的な音楽になることのほうが多い。プロの演奏であっても感動できないひとつの理由はそこにある。作品を「おざなりに」演奏しているからだ。

心がこもっていれば、どんなことであれ相手の心に伝わる。演奏だって、そう。演奏に込められた彼らのエネルギーは、聴く者の心に感動という形で届く。物理で「エネルギー保存の法則」というのがあるが、音楽においてもその法則は適用されるのではないか。「エネルギー保存の法則」というのは言うまでもなく「ある閉じたなかで発せられたエネルギーの総量は変化しない」というもの。音楽の場合でいえば、良い演奏をしたいというエネルギーが強く込められれば込められるほど、聴き手には強い感動というエネルギーに変換されて届くというわけだ。

それにしても、さすがTBSである。番組の最後にオルガニストがJ.S.バッハの有名なオルガン曲《トッカータとフーガ》ニ短調を演奏した。ところが、番組はトッカータ部分の終わりとともに終了。おいおい、フーガ部分がまだ演奏されてないじゃないか!

編集上の都合なのかもしれないが、それはあまりにお粗末。せめて途中で切るのならテロップに「《トッカータとフーガ》からトッカータ部分」とでも出しておけばいいものを…。それすらしないってことは、このプロデューサーが「私はクラシック音楽を知りません」と宣言しているようなもの。これだからテレビ局は知ったかぶりしているなんて言われるのさ。あー、恥ずかしいねえ。
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書くこと、考えること

2005-03-11 23:09:13 | 脳みその日常
テレビやネットを視聴していると、ふと自分が何も考えていないことに気づく。見るという行為は確かに能動的なことなのであるが、実際のところは「見えている」「眺めている」といったほうが正しい。だから知らず知らずのうちにボーッとしてしまうのだろう。

といってこれらは見るべきじゃないとは思わない。くだらない情報も流されるが、なかには有益な情報もある。情報化社会にあって、敢えて目を背けるのは正しい判断とはいえまい。

じゃあ、どうすればよいのか。考える習慣をつければよいのだ。たとえばワシはここでブログを毎日書いている。その理由は簡単だ。自分の感じたこと、考えたことを文字にすることで頭の中を整理したいだけである。曖昧な記憶や考えのままだと、文字に直せばすぐにわかってしまう。文章にすることで、いかに自分があるテーマについて知らないのかを自覚することができるのだ。それを意識するだけでもブログを書く意味はある。

ワシにとってブログを書く意味はほかにもある。書く仕事をしているとはいえ、やはり常に書いていないと文章のクオリティが落ちる。それは運動選手がトレーニングを怠けると記録が伸びないのと同じ。書き続けることで、書く能力の低下を防いでいるといっても言い過ぎではない。いくら大学時代に優れた論文を書いた人であっても、しばらく文章を書くことから離れているとまったく書けなくなるという話はいくらでも聞く。日々の訓練がいかに大切なのかがわかる。

昔読んだ本の中に「書くことは考えること」いう文章があったような気がする。誰が書いたんだっけ。梅棹忠夫だったかな。うーん、高校の現代国語の教科書だったかもしれない。まあ、そんなことはどうでもよいのだが。

(ここからはメモ)
昨日の東フィルの演奏会でNさんから声をかけられる。何かと思ったら、相変わらずの営業活動だった。すごいねえ。ある意味でワシも見習わなくてはと思ったり…(笑)
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コーチングねえ…

2005-03-10 13:06:11 | 脳みその日常
最近あちこちで耳にするようになったコーチング。それはコミュニケーションを円滑に行なうための方法らしい。人間にはいろいろなタイプがあり、それぞれのタイプに応じたコミュニケーションをすれば仕事の作業効率も上がるのだとか。

もちろん、コーチングにはそのほかにいろいろなノウハウがあるらしいが、ワシは詳しく知らない。それにしても、なんでこんなことが話題になるのか不思議でならない。ある番組では、上司が部下に対してコーチングに基づく会話をするとうまくいくと宣伝していた。企業利益はコーチングによって向上し、ゴーン社長率いる日産はそれによって立ち直ったのだという。ふーん、そうなんだー。

コーチングによると、上司は部下に対して頭ごなしに叱ってはならないという。また、部下が「イエス」「ノー」で答えるような質問の仕方をせず、部下に自分の考えを述べさせるようにすればよいともいう。さらに、相手の発した言葉を反復すると、相手から好感をもたれやすいそうだ。ほーほー、なるほどね。

でも、ちょっと待てよ。よくよく考えてみるとコーチングの拠り所としているのは何も新しいことではないんじゃないのか? ごく当たり前の人間関係をしている人であれば、知らないうちにコーチングらしきことはやっているだろ。

フツーの人なら、まず相手がどのような人間かを観察する。それを踏まえた上で相手とのコミュニケーションをするよな? それって天然のコーチングじゃん。でもこれだけ「コーチング」というテクニックが評価がなされる世の中ってどうよ。

もしかして、世の中の多くの人は相手を観察すらしてないってことなのか? また、相手を不快にさせないことだってコミュニケーションの基本中の基本だよな? そんなの、誰から教わるってものでなく、自然に身につくものじゃないのか?

いやー、世の中、一体どうなっとるんだ?
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ダジャレのつもりなのか?

2005-03-09 04:32:08 | 脳みその日常
ついにそこまでやるかという感じ。アサヒ・コムの記事によれば、韓国の自動車メーカー「現代」が『冬のソナタ』人気にあやかり、自分のところのクルマに「ソナタ」という名前をつけて売り出すのだという。何かが当たれば、すぐにそれに便乗して恩恵にあやかろうという魂胆ミエミエの戦略だ。

で、何がダジャレなのかというと、この会社は漢字で書けば「現代」だが、韓国語読みでは「ヒュンダイ」。たとえばベートーヴェンの32曲ある《ピアノ・ソナタ》のなかで、有名な作品を集めて「三大ソナタ」とか「四大ソナタ」と呼んだりすることがある。ちなみに「三大ソナタ」といえば《悲愴》《月光》《熱情》のことであり、「四大ソナタ」だったら、この3つに《ワルトシュタイン》か《告別》を加えたものをいう。もちろん、そうした名称はベートーヴェンが考えたものではない。あくまで後世の人が勝手に呼んでいるものだ。

それはともかくとして、韓国の新車となる「ソナタ」は、呼び方を工夫すると「ヒュンダイ・ソナタ」となる。ヒュンダイという読み方を知らないクラシック音楽ファンが聴けば、

「おっ、なんだなんだ? 《ソナタ》の新しい括り方なのか?」

などと勘違いするかも。いーや、しないだろうな。(苦笑)

嗚呼、やはりオヤジ・ギャグの領域なのか…うーん。
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夢にやられた

2005-03-08 18:56:45 | 脳みその日常
昼まで仕事に集中して、午後からちょっとシエスタ。これがマズかった。

珍しく夢を見る。もういない人の夢だ。夢というのは通常の認識判断の力を無にする。現実において、その人はもういないのに夢の中では生きている。それは見ているワシも夢の中だから、その人が生きているとすっかり思い込んでいる。ここが恐ろしいところだ。

夢はまた、見ているワシにはおかまいなく平気で論理的飛躍をしたりする。なぜそうなったのかわからないが、その人と話がしたいと夢の中で思う。しかし、どうやったら連絡が取れるのかわからない。しばし悩む。

そうだ、その人には妹がいたから携帯の番号を教えてもらえばいいじゃないか、と思いつく。なーんだ、簡単なことじゃないか。…と、そこで目が覚めた。

普通なら「なんだ、夢だったのか」と現実に戻るところ。しかし今回は半分寝ぼけていたのかもしれない。夢から覚めるのと同時に、その妹にワシは電話をかけようと起き上がっていたからだ。

脳みそが正気に戻ったのは、受話器に手をかけようとした時である。「いや、待てよ。携帯なんてもうあるわけないじゃん。なんでワシは妹に電話をしようとしたんだ?」

もうね、一瞬、頭がパニックよ。夢と現実がないまぜになって、何とも言えない感情にとらわれた。
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頓挫…残念!

2005-03-07 04:24:19 | ドライブ関連
実は昨晩も100kmほどドライヴしたのだが、懲りずに今夜も(笑) しかし「出撃」時間が遅れ、出発は午前1時。今宵の目的地は入間川の源流にある名栗湖。

まずは岩蔵温泉を目指す。そこから成木方面に行き、小沢峠へ。と、ところがである。さすがにこの時期だと路面が凍結していそうな場所がチラホラ。路肩には残雪もある。ゆるやかな峠道なら通常だいたい80km/hで走るワシでも、さすがに減速せざるを得ない。50~60km/hぐらいでチンタラと走る。

名栗湖は小沢峠を抜けた先にあるのだが、すでに時刻は午前2時40分。うーん、どうしよう。凍結気味の路面はコワイし、飛ばせないし。しゃーない、ここは潔く引き返すことにしよう。もうちょっと暖かくなってきたら再チャレンジだ。

いや、仕事がなければ行ったのだが、午前中に出す原稿があるんで躊躇したのさー。うははは。
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サブカル成金

2005-03-06 18:38:35 | 脳みその日常
言うまでもなく、それはフジ・サンケイ・グループとやり合っているHのこと。コイツは「これからはネットの時代ですよ。だから既成のメディアとITを組み合わせることで企業価値も上がるんです」などと抜かしている。確かにネットを活用すれば双方向のコミュニケーションも可能になるだろう。理屈は通っていると思う。

しかしコイツの発言は大衆のことをまったく考えていない。大衆というのは、もちろん幼児から年寄りまでを含んでいる。ここをご覧になっている方々は、それなりにパソコンに興味があり操作もできるだろうから、Hの発言に違和感はないかもしれない。でも中高年でパソコンに精通してネットをやっている人なんて、現状ではそれほどいないはず。Hは「これからのこと」を考えてるのかもしれないが、じゃあネットに関心のない年寄りはどうでもよいのか?

逆に、パソコンを自由にこなす人を対象にするというのは、サブカルチャーそのもの。サブカルチャーというのは一部の人だけで盛り上がる文化である。HはまさにITの渦中にいるから、きっと自分のしていることがサブカルチャーとは思っていないだろう。また連日報道もされるから天狗になってるところもあるんじゃないかね。

でも、所詮コイツのやってることは大衆すべてに価値があるとは思えない。パソコンとは無関係な生活をしている田舎の年寄りの視点で考えてみれば明らかだろう。彼らからすれば「ホリエモン? 誰のことぢゃ? インターネット? 知らんのぉ」 せいぜいこんな感じではないだろうか。彼らにとってはテレビを含むメディアなんて受動的に楽しめればよいのだ。メディア文化なんて、そもそもそんなものなんだよな。

カネに縁のないワシからすれば、コイツらが血眼になっている株のことなんてどーでもよいこと。テレビではやたらと、やれどこそこの株が上がった下がったと賑々しいが、これだってサブカルみたいなものよ。カネだけは持っていて、働きもしないで株式市場の動向に一喜一憂している個人投資家とかね。

だいたい、濡れ手に粟という考えが気に食わんな。他人の稼いだカネなのに、株主だか投資家だか知らんが「上前」を頂戴するんだろ? Hだって結局はそうやって他社を買収して成り上がってきた。そんな調子のいい奴に今後の文化を委ねていいもんかねえ。どうも胡散臭い気がしてならん。

もっとも、フジのH会長だって表沙汰にされては困る過去があるから、どっちもどっちという感じだけど。そういえば、両方とも頭文字が奇しくも「H」だな。ヒドイのH、卑怯のH、人でなしのH…いや、そこまでは言わんが。
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内輪で盛り上がるなよ

2005-03-05 19:41:25 | 脳みその日常
最近、ある演奏会に仕事で行った。小さめのホールで、お客はほぼ満員。おうおう、閑古鳥が鳴く演奏会が多いなか、なかなか盛況だな。そう思っていたのだが…

休憩時間にロビーに出てみると盛況の理由が判明。なんと、あるレコード会社の人たちがゾロゾロいるではないか! どこを見ても知っている人ばかり。そうか、今回のアーティストはここからCDを出しているんだっけ。ならば異常に盛り上がるのも納得である。

しかしだねえ、なんというのかな、まるで同窓会的な盛り上がりなんだよな。形態は確かに公開演奏会なんだけど、実際にはクローズド・コンサートのよう。内輪で盛り上がってどーすんのさ! アンタら、このアーティストを有名にするのも仕事のひとつだろ?

案の定、翌日にその会社の人間がワシのところへメールをよこした。「いやー、素晴らしかったでしょ?」って、おいおい。もちろんワシは仕事で行ったのだから、それについてはうまくかわして返事をしておいたけれど。いや、ズバッと書いてもよかったのだが、活字になる前にネタを出すのはルール違反だからな。

いま、これを書いていたら携帯の電話が鳴った。登録してない番号だったが出てみると男の声で、

「もしもーし、カメよぉー、カメさーんよぉぉぉおおおお」と勝手に歌っている。

なんだコイツ。もしかして同級生なのか? でも声の主が判らなかったので、

「あのー、どちらさまでしょう?」

「えっ…」

一瞬、沈黙が走り、このバカ男、気まずそうに、

「す、すみません…間違えました」だとさ。

あほ! 今度掛けてきたら、ここにその番号を晒すぞ(笑)
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正直に生きるのは難しい

2005-03-04 16:26:59 | 脳みその日常
世の中には建前と本音というものがある。腹の中では煮えくり返っていても、他人に対してはニコニコしているなんてのは、まさにその例。そんな態度はイカン!という人もあるだろう。心情的にはワシも賛成だ。

しかし建前というのがなかったら、少なくとも今の社会はうまく機能しないようだ。みんながみんな本音で語り合う社会であれば建前なんてものは必要ない。だが、残念ながら本音を堂々と言える人は少ない。思っていることをそのまま言えば自分が社会的にどんな目に遭うかわかっているからである。リスクを背負ってまで本音を言わなくてもいいじゃないか。みんなそう思うから建前に走るのだ。

学生時代は本音が言えて良かったなあと言う人がいる。そりゃそーさ、学生同士なら損得の関係じゃないからね。せいぜい友情が破綻する程度のリスクはあっても、生活に支障が出ることはない。懐古的な気分も手伝って、学生時代の友人と話すと本音が言えるのさ。

だからといって社会に出てから建前ばかりの人生でいいのかという疑問もないわけじゃない。建前というのは、概して保守的な傾向がある。保守的な発想は確かにその中で生きるぶんにはラクチンであろう。しかしワシなどは、そういう空気が苦手である。心のこもっていない「愛想笑い」なんてされても嬉しくも何ともないし。むしろ議論になってもいいからとことん話し合うほうが好きだな。だからゴマをすろうとする奴が近寄ってきたら、できるだけ避けるようにしている。だって、ワシを何らかの形で利用しようとしているのはミエミエだからね。ったく、胸くそ悪いわ。

こんなスタンスで日々生きているから、実際問題としてワシはこれまで相当損をしてきたと思う。でも魂を売ってまで自分の考えを曲げたくないから本音を言うだけ。それに伴うリスクは覚悟の上さ。…とはいうものの、思っていることを正直に言うことは本当に難しい。でも、負けんぞ(笑)
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高速だな、まるで

2005-03-03 03:50:56 | ドライブ関連
しつこいが、また深夜のドライブ(笑) 環七をぐるりと回りながら、R14で千葉まで行く。途中谷津付近で工事渋滞があったものの、スムーズに動けた。そのまま戻るのも何なので、帰りはR357で東京方面へ。

それにしても、深夜のR357は高速道路並みにスピードを出す奴が多い。うっかりするとパンダの餌食となるので注意しなければならない。幸いにも今回はパンダさんもお休みのようで、ぬわわkm/hで巡航する。そんな速度で飛ばしていたから、その付近にある「東京ネズミ島」を確認する余裕なんてなかった。まあ、もともと興味もないからいいけど。そしてお台場からレインボー・ブリッジを抜けて帰宅。ほんの散歩がてらの120kmだった。ぶははは。

(ここからはメモ)
ワシがあの企画でヘソを曲げたことに対して、F社長が困惑しているらしい。確かにワシも大人げなかったところはある。しかしだな、ワシもプロとしてやっている以上、簡単に「はぁ、そうですか」と譲るわけにはいかない。書き手を軽視するようなやり方に我慢がならんのである。

とはいえ、すべてを投げ打つというのも企画に支障を来すのは目に見えている。だからワシは必要以上のことはしないよ、と引き下がっただけのこと。何もワシがやらなくても代わりはいくらでもいるわけだし。別にもう立腹してるわけじゃないんだよな。とにかく面倒くさいことはやりたくないだけのことよ。
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