どーも、ワシです。さて、今回は愛知県犬山市堤下(つつみした)にある木曽川水系の入鹿池(いるかいけ)を目指します。アクセスは北尾張中央道とも呼ばれる国道155号バイパスから犬山/明治村方面へ向かう県道453号へ入り、道なりに進んでいくと到着します。
いきなりですが、いわゆるダム上の中央から見た左岸側の景色をご覧ください。あとで触れますが、このダム上の長さは724.1mもあるんです。ちなみに高さは25.7mだそうで。
右岸側の様子。写真中央に見えるのが取水塔で、左側には洪水吐(余水吐)があります。また湖面にはボートが多数浮かんでいますが、ここは釣り場でもあるようです。
洪水吐の下流側から見た様子。増水すると水はこの水路を通って流れてゆきます。
釣り客で賑わうなか、入鹿池を眺めます。
ダム上、中央付近にある案内板。上に示した諸元の数値はこれによるものです。また入鹿池は2010年3月にため池百選に選定されたそうな。
2016年11月16日には当時の天皇皇后両陛下が当地へ行幸された記念碑があり、
その奥に見えるのは農業用水を取り入れるための取水塔のスルースバルブと取水管。これは1961年4月に旧取水塔に設置されたもので、2001年3月まで使用されていたものという。
「入鹿池水積招福」と刻まれた石碑。
その裏側には沿革が記されています。その内容を以下に転記します。
「 沿 革
愛岐の丘陵地帯三千四百四十ヘクタールの水を、五条、成沢、郷の三川に集め、千五百二十万立方メートルの水を湛える入鹿池は、周囲約十六キロメートル、満水面積百六十六ヘクタールの日本屈指の農業用溜池である。この池が築造されたのは今から凡そ三百五十年前で、当時、この地方は、尾張藩祖徳川義直公の重農政策により、新田開発が盛んであったが、農民達は水不足に悩んでいた。このような状況の中、寛永五年に、小牧村の江崎善左衛門を始めとする六人衆の、熱心な溜池築造論議が始まり、犬山城主成瀬正成を通しての請願が叶い、入鹿村の盆地に水が湛えられたのは、寛永十年二月の事であった。
築造から二百三十六年、明治元年五月十三日払暁の入鹿池切れは、一瞬にして千余人の尊い人命と、二百数十ヘクタールの美田を奪い、後世に残る一大参事となった。決壊した河内堤は、直ちに復旧に着手され、昼夜を分たぬ人海戦術により再築された。その後、明治十五年には余水吐が設けられ、明治三十九年に、旧取水塔、そして昭和十九年には、貯水量の増大を図ると共に、中堤中央部にも余水吐が設けられた。昭和三十三年からは、愛知用水事業の一環として、新取水塔の建設及び主要幹線水路の改修が始められ、昭和三十六年五月に完了した。処が、その翌月、この地方は、集中豪雨により大被害を受けた。なかでも、入鹿池の提塘に生じた亀裂及び漏水は、当時、大きな問題となり、築造以来の大改修工事が行なわれる事となった。この工事は、老朽溜池等整備事業として行なわれ、提塘の補強、余水吐の統合及び排水能力の増大等が図られた。これには、昭和三十七年から十年の歳月を要した。この頃から、下流河川の安全性や、池の有効活用が課題とされ、これに対処する為、昭和五十三年から防災ダム事業、昭和六十年からは、愛知用水二期事業により、幹線及び支線水路の管路化が始められた。
入鹿池は、今や、この地域の農業用溜池としての他、多目的ダムとして、更には観光資源としても、重要な役割を果すに至っている。吾々は、この恵まれた自然と、先人達の築いた偉大な財産を守り、更により多くの恵みを受け、この地域が増々(ママ)繁栄することを念願し、ここに記念の碑を建立するものである。
昭和六十三年四月吉日」
上記の記述と他の案内板のデータを年表風にまとめると次のようになります。
寛永十年(1633年)12月:入鹿池完成
明治元年(1868年)5月13日:入鹿池決壊
明治十二年(1879年):復旧工事完了(案内板の記述による)
明治十五年(1882年):余水吐設置
明治三十九年(1906年):旧取水塔完成
昭和十九年(1944年):中堤中央部にも余水吐設置
昭和三十六年(1961年)5月:新取水塔及び主要幹線水路改修終了
昭和三十六年(1961年)6月:集中豪雨により提塘の亀裂及び漏水発生
→ 老朽溜池等整備事業の開始
昭和五十三年(1978年):防災ダム事業開始
昭和六十年(1985年):愛知用水二期事業開始 →幹線及び支線水路の管路化
平成十三年(2001年)3月:現在の取水塔完成(スルースバルブの案内板の記述による)
現在入鹿池を管理しているのは入鹿用水土地改良区で、1952年に設立されたものだそうです。その事務所はなんと入鹿池の下、つまりダム下にあり、なんともモダンなデザイン。
いやいや、なかなかの歴史がありますね。ちなみに池の名称はここがかつて入鹿村だったことに由来するそうな。
いきなりですが、いわゆるダム上の中央から見た左岸側の景色をご覧ください。あとで触れますが、このダム上の長さは724.1mもあるんです。ちなみに高さは25.7mだそうで。
右岸側の様子。写真中央に見えるのが取水塔で、左側には洪水吐(余水吐)があります。また湖面にはボートが多数浮かんでいますが、ここは釣り場でもあるようです。
洪水吐の下流側から見た様子。増水すると水はこの水路を通って流れてゆきます。
釣り客で賑わうなか、入鹿池を眺めます。
ダム上、中央付近にある案内板。上に示した諸元の数値はこれによるものです。また入鹿池は2010年3月にため池百選に選定されたそうな。
2016年11月16日には当時の天皇皇后両陛下が当地へ行幸された記念碑があり、
その奥に見えるのは農業用水を取り入れるための取水塔のスルースバルブと取水管。これは1961年4月に旧取水塔に設置されたもので、2001年3月まで使用されていたものという。
「入鹿池水積招福」と刻まれた石碑。
その裏側には沿革が記されています。その内容を以下に転記します。
「 沿 革
愛岐の丘陵地帯三千四百四十ヘクタールの水を、五条、成沢、郷の三川に集め、千五百二十万立方メートルの水を湛える入鹿池は、周囲約十六キロメートル、満水面積百六十六ヘクタールの日本屈指の農業用溜池である。この池が築造されたのは今から凡そ三百五十年前で、当時、この地方は、尾張藩祖徳川義直公の重農政策により、新田開発が盛んであったが、農民達は水不足に悩んでいた。このような状況の中、寛永五年に、小牧村の江崎善左衛門を始めとする六人衆の、熱心な溜池築造論議が始まり、犬山城主成瀬正成を通しての請願が叶い、入鹿村の盆地に水が湛えられたのは、寛永十年二月の事であった。
築造から二百三十六年、明治元年五月十三日払暁の入鹿池切れは、一瞬にして千余人の尊い人命と、二百数十ヘクタールの美田を奪い、後世に残る一大参事となった。決壊した河内堤は、直ちに復旧に着手され、昼夜を分たぬ人海戦術により再築された。その後、明治十五年には余水吐が設けられ、明治三十九年に、旧取水塔、そして昭和十九年には、貯水量の増大を図ると共に、中堤中央部にも余水吐が設けられた。昭和三十三年からは、愛知用水事業の一環として、新取水塔の建設及び主要幹線水路の改修が始められ、昭和三十六年五月に完了した。処が、その翌月、この地方は、集中豪雨により大被害を受けた。なかでも、入鹿池の提塘に生じた亀裂及び漏水は、当時、大きな問題となり、築造以来の大改修工事が行なわれる事となった。この工事は、老朽溜池等整備事業として行なわれ、提塘の補強、余水吐の統合及び排水能力の増大等が図られた。これには、昭和三十七年から十年の歳月を要した。この頃から、下流河川の安全性や、池の有効活用が課題とされ、これに対処する為、昭和五十三年から防災ダム事業、昭和六十年からは、愛知用水二期事業により、幹線及び支線水路の管路化が始められた。
入鹿池は、今や、この地域の農業用溜池としての他、多目的ダムとして、更には観光資源としても、重要な役割を果すに至っている。吾々は、この恵まれた自然と、先人達の築いた偉大な財産を守り、更により多くの恵みを受け、この地域が増々(ママ)繁栄することを念願し、ここに記念の碑を建立するものである。
昭和六十三年四月吉日」
上記の記述と他の案内板のデータを年表風にまとめると次のようになります。
寛永十年(1633年)12月:入鹿池完成
明治元年(1868年)5月13日:入鹿池決壊
明治十二年(1879年):復旧工事完了(案内板の記述による)
明治十五年(1882年):余水吐設置
明治三十九年(1906年):旧取水塔完成
昭和十九年(1944年):中堤中央部にも余水吐設置
昭和三十六年(1961年)5月:新取水塔及び主要幹線水路改修終了
昭和三十六年(1961年)6月:集中豪雨により提塘の亀裂及び漏水発生
→ 老朽溜池等整備事業の開始
昭和五十三年(1978年):防災ダム事業開始
昭和六十年(1985年):愛知用水二期事業開始 →幹線及び支線水路の管路化
平成十三年(2001年)3月:現在の取水塔完成(スルースバルブの案内板の記述による)
現在入鹿池を管理しているのは入鹿用水土地改良区で、1952年に設立されたものだそうです。その事務所はなんと入鹿池の下、つまりダム下にあり、なんともモダンなデザイン。
いやいや、なかなかの歴史がありますね。ちなみに池の名称はここがかつて入鹿村だったことに由来するそうな。