ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

歴史的ため池!…入鹿池

2023-06-18 06:55:19 | 愛知(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は愛知県犬山市堤下(つつみした)にある木曽川水系の入鹿池(いるかいけ)を目指します。アクセスは北尾張中央道とも呼ばれる国道155号バイパスから犬山/明治村方面へ向かう県道453号へ入り、道なりに進んでいくと到着します。

いきなりですが、いわゆるダム上の中央から見た左岸側の景色をご覧ください。あとで触れますが、このダム上の長さは724.1mもあるんです。ちなみに高さは25.7mだそうで。

右岸側の様子。写真中央に見えるのが取水塔で、左側には洪水吐(余水吐)があります。また湖面にはボートが多数浮かんでいますが、ここは釣り場でもあるようです。

洪水吐の下流側から見た様子。増水すると水はこの水路を通って流れてゆきます。

釣り客で賑わうなか、入鹿池を眺めます。

ダム上、中央付近にある案内板。上に示した諸元の数値はこれによるものです。また入鹿池は2010年3月にため池百選に選定されたそうな。

2016年11月16日には当時の天皇皇后両陛下が当地へ行幸された記念碑があり、

その奥に見えるのは農業用水を取り入れるための取水塔のスルースバルブと取水管。これは1961年4月に旧取水塔に設置されたもので、2001年3月まで使用されていたものという。

「入鹿池水積招福」と刻まれた石碑。

その裏側には沿革が記されています。その内容を以下に転記します。

「     沿   革
 愛岐の丘陵地帯三千四百四十ヘクタールの水を、五条、成沢、郷の三川に集め、千五百二十万立方メートルの水を湛える入鹿池は、周囲約十六キロメートル、満水面積百六十六ヘクタールの日本屈指の農業用溜池である。この池が築造されたのは今から凡そ三百五十年前で、当時、この地方は、尾張藩祖徳川義直公の重農政策により、新田開発が盛んであったが、農民達は水不足に悩んでいた。このような状況の中、寛永五年に、小牧村の江崎善左衛門を始めとする六人衆の、熱心な溜池築造論議が始まり、犬山城主成瀬正成を通しての請願が叶い、入鹿村の盆地に水が湛えられたのは、寛永十年二月の事であった。
 築造から二百三十六年、明治元年五月十三日払暁の入鹿池切れは、一瞬にして千余人の尊い人命と、二百数十ヘクタールの美田を奪い、後世に残る一大参事となった。決壊した河内堤は、直ちに復旧に着手され、昼夜を分たぬ人海戦術により再築された。その後、明治十五年には余水吐が設けられ、明治三十九年に、旧取水塔、そして昭和十九年には、貯水量の増大を図ると共に、中堤中央部にも余水吐が設けられた。昭和三十三年からは、愛知用水事業の一環として、新取水塔の建設及び主要幹線水路の改修が始められ、昭和三十六年五月に完了した。処が、その翌月、この地方は、集中豪雨により大被害を受けた。なかでも、入鹿池の提塘に生じた亀裂及び漏水は、当時、大きな問題となり、築造以来の大改修工事が行なわれる事となった。この工事は、老朽溜池等整備事業として行なわれ、提塘の補強、余水吐の統合及び排水能力の増大等が図られた。これには、昭和三十七年から十年の歳月を要した。この頃から、下流河川の安全性や、池の有効活用が課題とされ、これに対処する為、昭和五十三年から防災ダム事業、昭和六十年からは、愛知用水二期事業により、幹線及び支線水路の管路化が始められた。
 入鹿池は、今や、この地域の農業用溜池としての他、多目的ダムとして、更には観光資源としても、重要な役割を果すに至っている。吾々は、この恵まれた自然と、先人達の築いた偉大な財産を守り、更により多くの恵みを受け、この地域が増々(ママ)繁栄することを念願し、ここに記念の碑を建立するものである。
      昭和六十三年四月吉日」

上記の記述と他の案内板のデータを年表風にまとめると次のようになります。
寛永十年(1633年)12月:入鹿池完成
明治元年(1868年)5月13日:入鹿池決壊
明治十二年(1879年):復旧工事完了(案内板の記述による)
明治十五年(1882年):余水吐設置
明治三十九年(1906年):旧取水塔完成
昭和十九年(1944年):中堤中央部にも余水吐設置
昭和三十六年(1961年)5月:新取水塔及び主要幹線水路改修終了
昭和三十六年(1961年)6月:集中豪雨により提塘の亀裂及び漏水発生
→ 老朽溜池等整備事業の開始
昭和五十三年(1978年):防災ダム事業開始
昭和六十年(1985年):愛知用水二期事業開始 →幹線及び支線水路の管路化
平成十三年(2001年)3月:現在の取水塔完成(スルースバルブの案内板の記述による)

現在入鹿池を管理しているのは入鹿用水土地改良区で、1952年に設立されたものだそうです。その事務所はなんと入鹿池の下、つまりダム下にあり、なんともモダンなデザイン。



いやいや、なかなかの歴史がありますね。ちなみに池の名称はここがかつて入鹿村だったことに由来するそうな。
コメント

砂利道の先に…猫藪川砂防ダム(堰堤)

2023-02-27 06:56:06 | 愛知(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回目指す豊川水系の猫藪川砂防ダムは昨日記事にした「西屋敷川砂防ダム(堰堤)」のすぐ近くにあります。場所は愛知県新城市富岡猫藪(しんしろし とみおかねこやぶ)。アクセスは西屋敷川砂防ダムのすぐ下流にある橋を渡ってちょっと行くと到着します(西屋敷川砂防ダムまでのアクセスは昨日の記事を参考にしてください)。

到着しました。西屋敷川砂防ダムに似ていますね。


ダム本体に貼られたプレート。西屋敷川砂防ダムと同時期の1997年に築造されたもののようです。


左岸、ダム横から見た様子。


同、貯水側から見るとこんな感じ。


残念ながらダム上へはフェンスがあって行けません。


ふと見ると、ダム上に諸元が刻まれていました。高さは11.0mなので定義上は砂防堰堤になります。長さは73.51mで、前回の西屋敷川砂防ダムの長さが75.30mなのでそれよりも少し短いですね。高さはこちらのほうが3.0m高いんですが。


ダム名は猫藪川を堰き止めて築造したことによると思われますが、地名にもなっている猫藪にはどんな由来があるんでしょうね。ネットで検索してみましたがわかりませんでした。でも何らかの形で猫が関係しているのかもしれませんね。
コメント

地域生活のための…西屋敷川砂防ダム(堰堤)

2023-02-26 07:04:41 | 愛知(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は愛知県新城市富岡猫藪(しんしろし とみおかねこやぶ)にある豊川水系の西屋敷川砂防ダムを目指します。場所は大原調整池の北西にあり、アクセスは県道81号(別所街道)の「富岡大原」信号のすぐ西のT字路を入って道なりに進んでいくと到着します。

これですね。小ぶりな感じです。


本体に貼られたプレート。平成9年に築造されたようです。


左岸、上流側から見た様子。手前の枯れすすきがイイ味を出してますね。


ダム上はフェンスがあって行けず。ふと、足元を見るとダム上にこんなプレートがありました。ダム名はこの西屋敷川に築造されたことに由来するものですが、高さは8.0mなので定義上は砂防堰堤になります。


ここはグーグル先生の地図に載っていて、見つけやすい場所にあります。周囲には特に何もなく、地域のために築造された生活のための砂防堰堤という感じでした。
コメント

愛知県の東西分水工

2023-02-25 06:54:22 | 愛知(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は愛知県新城市日吉大坊(しんしろし ひよしだいぼう)にある東西分水工を目指します。目的地は新東名高速道路の新城インターチェンジの南南東に位置し、豊川と並行して走る県道69号(県道443号)の「東西分水工」の看板のあるところを入って行くと到着します。

この東西分水工は以前訪れた大野頭首工で分水した豊川用水を東部幹線水路と西部幹線水路に分けるための施設です。

下の案内図に出ていますが、豊川用水はここで東部幹線水路と西部幹線水路に分岐します。これは下流側から見た東部幹線水路の始まり部分。写真奥にちょっと見えるのが豊川用水の水路。

ユニークな形をしたこれはネルピックゲートと呼ばれるもので、用水の流量が変動しても水位を一定に保つ働きをするそうな。別名「水位調整堰」とも言います。ネルピックとはこれを考案したフランスの会社「アルストム・ネルピック社」にちなむものですが、このゲートが優れているのは動力を用いることなく水圧の力によって水位を自動的に調節できるところにあるらしい(参考)。

このゲートを通過した水はあちらへ流れてゆき、東部幹線水路になります。


一方、これと並んで配置されているのが西部幹線水路の開始部分。

ここに設置されているゲートは「スルース・ゲート sluice-gate」。名称に由来があるのかと思いきや、これは訳せば「水門」。なんだよ〜、深読みしたやんか。これは上流の水位が一定の場合、開閉操作により流量を調節するようです。

「水門」を通った水はあちらへ向かい、西部幹線水路になります。


近くにある東西分水工についての案内板。それによれば豊川用水事業は愛知県の東三河地域と静岡県の湖西市(こさいし)地域に農業用水と上水道用水、そして工業用水を供給する目的で整備され、昭和43年に通水が開始したそうです。その後、人口増加と生活水準の向上、そして工場が建設されたことで恒常的な水不足に悩まされることに。そこで用水の安定供給を目指して新たな水源を確保するための豊川総合用水事業がスタートし、平成13年(2001年)に完成し現在に至っているそうな。この東西分水工がいつ設置されたのかは書かれていませんが、少なくとも2001年までには設置されたものと思われます。


東部幹線水路を下流へ向かっていくと大原調整池から合流したり、また、西部幹線水路を下って行くと駒場調整池に流れ込んでいるのがわかります。その意味でいえば東西分水工の果たす役割がいかに大きなものであるのかがわかりますね。

当ブログではそれぞれの築造物を「点」として紹介していますが、それぞれの点はなんらかの水路によって結ばれていて、ある時、点と点が線になった瞬間、なるほど、そうだったのかと合点がいきます。そして水利事業の大変さと素晴らしさに感銘を覚えたりするんですよね。

なんか、ワシ、キザなこと言ってる?

へへへ。

ちなみに奈良県御所市にも東西分水工がありましたね。(参考
コメント

少し兄貴!…新戸川砂防ダム(堰堤)

2023-02-24 07:07:32 | 愛知(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。昨日の記事の続きみたいになります。上新戸川砂防ダム(堰堤)のすぐ東側にもうひとつのダムがあるのを見つけました。場所は上新戸川砂防ダム(堰堤)と同じく愛知県新城市下吉田上新戸(しんしろし しもよしだ かみあらと)です。アクセスについては昨日の記事を参考にしてください。

こんなダムです。


ダム本体には「新戸川砂防ダム」のプレート。昭和61年(1986年)に築造されたもののようです。


近くの道からはこんな風に見えます。


右岸、ダム横に登ってきました。フェンスがあるのでダム上へは行けません。


ちなみに昨日も載せた地図を再掲しておきます。これで上新戸川砂防ダム(堰堤)との位置関係がわかると思います。


ちゃんと確認しなかったのですが、おそらくこのダム上にも高さや長さのデータなどが刻まれていると思われます。目測で判断するとこの「新戸川砂防ダム」は上新戸川砂防ダム(堰堤)よりも規模が小さいようなので実際のところは「新戸川砂防堰堤」が正しい名称のように思われます。新戸川(あらとがわ)はここを流れる川の名前。もうひとつはっきりしているのは「新戸川砂防ダム」がまず1986年に築造された後、2年後の1988年に「上新戸川砂防ダム」が築造されたということ。昨日も書きましたが、この時期の少し前にこのあたりでは土砂災害があったんでしょうね。ちなみに「新戸川砂防ダム」はグーグル先生の地図には出ていません。
コメント

細道の先に…上新戸川砂防ダム(堰堤)

2023-02-23 06:57:40 | 愛知(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回はグーグル先生の地図を見ていたら愛知県新城市下吉田上新戸(しんしろし しもよしだ かみあらと)に「上新戸砂防ダム」というのがあるのを見つけたので行ってみることにしました。場所は浜松いなさジャンクションの北西で、国道257号上の「浜松いなさ4km」表示の看板のところのT字路を入っていくと到着するようです。

細い道を登っていくと…おおっ、あれですね。なんともいかめしいお姿です。


ダムのすぐ下までクルマで行くことができます。


違う角度から。


ダム本体に貼られたプレート。あれれ、「上新戸川砂防ダム」じゃないですか。グーグル先生、またやらかしましたね。


ダム下にある表示板。おや? 東側にも砂防ダムのようなものがあるようです。それは次回の記事で紹介します。


左岸、ダム横に登ってきました。そこから見た様子。


ダム上にはこんなデータが刻まれています。昭和63年(1988年)の愛知県による通常砂防工事で、高さは9.00m、長さは85.10mとあるので表記はダムですが、定義上は砂防堰堤になります。


ちょいと失礼して堰堤の上を歩いてみます。


堰堤の中央から下流側を見ると、こんな感じ。


堰堤中央から見た左岸側の様子。


細道の先に、こんな築造物があるとは思いませんでした。おそらく以前、ここでは土砂災害があったんでしょうね。
コメント

旧はないよ!…新豊根ダム

2023-02-22 16:36:25 | 愛知(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は愛知県北設楽郡豊根村古真立月代(きたしたらぐんとよねむら こまだてつきしろ)にある天竜川水系の新豊根ダムを目指します。アクセスは三遠南信(さんえんなんしん)自動車道の浦川インターチェンジを降りたところの国道473号を右折していくとすぐ大入川林道開設記念碑のあるT字路があるのでそこを入って行きます。それが県道429号で、どんどこ進んでいくと目的地に到着するはず…なんですが、訪れた日はなんと通行止め!仕方がないので国道473号を大千瀬川沿いに進み、国道151号に入ります。そして国道上の「豊根村役場→」の表示のあるT字路を入りそのまま道なりに進み、新豊根ダムの上流側からアクセスしました。まあ、とにかくぐるっと遠回りする感じです。ふぅ~、疲れるぅ~。

まずは、こんなダムです。いや~、デカイな!


では、順を追って左岸の上流側から見ていきましょう。ダム湖沿いをクネクネと走ってくるとダムが見えてきます。


そこには「新豊根発電所概要」と書かれた案内板があります。

地図をよく見ると新豊根ダムのダム湖である新豊根貯水池と佐久間ダムのダム湖である佐久間貯水池が導水路トンネルで繋がっているのがわかりますね。

それはただ繋がっているのではなく、佐久間貯水池近くの新豊根発電所では揚水発電を行なっているんです(写真上部に揚水時の文字が見えますね)。つまり新豊根ダムが上部調整池、そして佐久間ダムが下部調整池の役割を果たしているのです。


新豊根貯水池から導水路トンネルへ向かう取水口がこちら。この取水塔の下に取水口があり、導水路は地下を通って新豊根発電所へ繋がっています。



左岸のダム横に来ました。そこにはこんな建物があります。管理所? いえいえ、表示はないものの、これは「操作室」なのだそうです。(参考


その近くには新豊根ダムの案内板があります。洪水調節と発電を目的としたドーム型コンクリートアーチ式のダムで、高さは116.5m。1969年11月に着工し、1973年8月に竣工。


「新豊根ダム」と刻まれたもの。


これがダム上。歩いてみましょう。


ダム上、中央にある放流設備非常用ローラーゲートに貼られたプレート。1972年8月製作。


そこから見た新豊根貯水池の様子。向こうに見えるのが先ほどの取水塔。



一方、ダムの真下はこんな感じ。さすがにこの高さだとスマフォを持つ手が震えます。落とさぬよう慎重に…。

そして、下流側の遠景。


対岸(右岸)に来ました。アーチ形であるのがよくわかりますね。


…と、ここまで、ごく当たり前のように「新豊根ダム」と書いてきましたが、「新〜」と付いているのだから、じゃあ「豊根ダム」もあるんじゃないかと思いますよね。でも、調べてみましたが「豊根ダム」はありません。えー?、ならばなぜ「新」が付いたの? そう思うじゃないですか。

これについては発電所の建設に関係があるようです。現在の新豊根ダムが築造される前、ここには取水口があり現在の佐久間ダムの貯水池のところには豊根発電所があったそうです。その後、佐久間ダムが築造されることが決まり、豊根発電所は水没することになったため発電所を上流側に移設しました。しかしそれからしばらくして現在の新豊根ダムの築造が決定したことで従来使用されていた取水口が使えなくなり、結果として豊根発電所は廃止されることに…。

1956年に佐久間ダムが完成し、現在の新豊根ダムの建設に伴い、上に書いたように両ダムの間で揚水発電を行なうことが決まります。そのための揚水発電所が佐久間ダムの湖畔に建設されることになり、新たな揚水発電所が1973年10月に竣工し、「新豊根発電所」と命名されました。こうした経緯から上部調整池であるダムの名称が「新豊根ダム」になったようです。

なるほど、だから豊根ダムは存在しないんですね。
コメント

地域の農業用水のために…乙川頭首工

2021-04-10 06:53:29 | 愛知(ダム/堰堤)
愛知県岡崎市六名南(むつなみなみ)付近にある矢作川水系の乙川(おとがわ)頭首工に来ました。乙川はもちろんこの川の名称で、その上流には以前訪れた石原ダムがあります。乙川頭首工は地図で見るとわかるようにすぐ下流で矢作川に合流する手前のところに設置されています。

これが「ご尊顔」。



頭首工のすぐ下流には沈砂するための装置。



この下流で乙川は矢作川に合流します。



頭首工へさらに近づいてみます。なんだかスッキリした面構えです。



頭首工の真横から見た図。



乙川の上流方面の様子です。



頭首工のすぐ上流から見るとこんな感じ。この写真の左下あたりに取水口があり、



その水はこの水路を通ってあちらへ流れていきます。



その水路の下流から頭首工方面を見るとこんな感じ。



この水路の水は下流で農業用水として使用されるそうな。決して大きな頭首工ではありませんが、地域のため立派に活躍していますね。
コメント

佇む哲学者?…大ゾレ砂防ダム

2021-04-09 16:19:04 | 愛知(ダム/堰堤)
すみません、更新が遅れました。

以前、愛知県岡崎市雨山町にある矢作川水系の雨山ダムを訪れました(参考)。その時には気づかなかったのですが、すぐ近くに大ゾレ砂防ダムというのがあるのを最近知りました。ならば確認してみようってんで訪問。アクセスは県道382号から雨山ダムの先の橋の手前の脇道を入ります。

なるほど、その橋からダムらしきものが見えますね。近づいてみましょう。



ダム横近くまで来ました。ダム本体にプレートのようなものが見えます。



ズームしてみると「大ゾレ砂防ダム」の文字。大ゾレ? 変わった名称ですが、なんですかね。



ダム横にある看板を見て納得。ああ、ここを流れる川の名前なんですね、大ゾレ川。それにしても変わった名前です。



ダム横から見た様子です。おや? ダム上になにかいますね。



ズームしてみます。白い鳥が身じろぎせずに佇んでいます。



ダムの上流側からの様子です。鳥さん、動きません。



鳥はたいがい音に敏感なのでシャッター音でも反応して飛び立つか動くものなんですが、この鳥さんは違いました。前世は哲学者だったのかもね。

ははは…んなわけないか。
コメント

歴史を背負う…牟呂松原頭首工

2021-04-08 07:11:47 | 愛知(ダム/堰堤)
今回は愛知県新城市一鋤田(しんしろしひとくわだ)にある豊川水系の牟呂松原頭首工です。これは豊川の水を牟呂用水と松原用水へ分流するための施設であることからそう命名されたようです。



牟呂用水への取水口がこれ(写真中央)で、豊川の左岸から分岐した水はコンクリートの地下を通って、



あちらへ流れてゆきます。



その取水口のすぐ下流側にお魚さんが上流へ遡るための魚道があります。





昨日書いた海倉橋(かいくらはし)の中央から見た豊川の上流側の景色です。



一方、頭首工のすぐ下流には沈砂させるための装置(?)があり、



下流の遠景はこんな感じです。



おおっ、なんと右岸側にも魚道が用意されていました。これでお魚さんはどちら側からでも上流に遡ることができますね。





対岸(右岸)へ来ました。下流側から見た頭首工の様子です。



対して、上流側から見るとこんな感じ。写真左側の左岸に見える白い建物が管理所のようです。行ってみましょう。



これがその建物。確かに頭首工の管理はここでしているのでしょうが、正式には「豊川用水総合事業部 新城支所」でした。





敷地内にあるこの塊。そのプレートには「旧牟呂松原頭首工堰柱」と書かれています。旧牟呂松原頭首工は1967年12月に築造されたのですが、1994年に現在の頭首工が築造された際、記念としてその一部を設置したようです。



牟呂用水は明治時代の1888年に完成した歴史ある水路ですが、その後台風や地震により何度も堤防が決壊し災害が発生してきました。また松原用水の歴史はもっと古く、戦国時代の1567年まで遡ります。両用水、元々は別々の水路だったのを1959年に牟呂用水から分岐して松原用水に繋げることで統合。そして1968年に牟呂松原用水が完成したそうな。

いや〜、歴史を背負った頭首工だったんですねぇ。

しみじみ。
コメント

高さがあれば…三ッ口池

2021-04-06 07:01:09 | 愛知(ダム/堰堤)
愛知県豊橋市石巻町(いしまきちょう)にある豊川水系の三ッ口池(みつくちいけ)に来ました。

これですね。



いわゆるダム横に来ました。なかなか立派な池です。



案内板によると、三ッ口池は豊川用水を建設するにあたり東部幹線水路の水量が不足した際に水を補う目的で整備された、要するに補助溜池だそうです。しかしこれは新設されたものではなく、元々は江戸時代初期に築造された農業用の溜池で、1883年には嵩増しし地域の重要な水源施設になっていたものを取り込む形で作られたのが現在の三ッ口池なのだとか。



では、「ダム上」を歩いてみることにしましょう。



まず左岸側にあるのが越流式の余水吐で、その上部に細工がされていて滝のように落水するようになっています。涼しげですね。ここから溢れ出た水は、





この水路を通って流れてゆきます。



「ダム上」の中央から見た貯水湖の様子です。



一方、下流側の景色はこんな感じ。堤の高さが12.5mしかないので平面的に見えます。



対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。



正直な話、地図で三ッ口池を見つけた時、これほど大きなものとは思いませんでした。実際目にすると池という名称では勿体ないくらい立派な築造物なんです。もっとも、高さが低いので定義上ダムではないので仕方ないんですけどね。
コメント

遊歩道に創意あり!…万場調整池

2021-04-05 06:52:53 | 愛知(ダム/堰堤)
今回は愛知県豊橋市西赤沢町(にしあかさわちょう)にある豊川水系の万場(ばんば)調整池を目指します。ここも前に訪れた初立池と芦ヶ池調整池とともに豊川用水の東部幹線水路で繋がっているそうな。

当該の調整池に近づきました。すると2つの石碑が目にとまりました。「万場調整池 完成記念碑」と「万場地区県営畑地帯総合土地改良事業 土地改良碑」です。





2つの石碑は調整池から道を挟んだところに建っていて、そこから調整池はこんな感じに見えます。



入口と思われるところに来ました。でも、ご覧の通り中に入ることはできません。





入場できないならドローンを飛ばしちゃえってぇのがいるんでしょうね。



入口の横には水路が。これは洪水吐かな? 仮にそうだとして、増水時にはここから流れ出て、



あちらへ流れていくものと思われます。



調整池の全貌が知りたい…という方は、この見晴台からどうぞ(ん? なんだかピンボケですな)



パノラマ撮影すればいいのでしょうが、面倒くさいので三分割したものでご勘弁を。







いや〜、本当にデカイです。感動的ですね。でも、魅力はそれだけではありません。先にも書いたように調整池を囲むように舗装路があるのですが、立ち入ることはできません。そこでさらにその周囲に遊歩道のようなものが作られています。近隣の人たちは大勢ここを歩いていました。

魅力というのは、この遊歩道に並行して流れる小川なのです。つまりこの小川は宇連ダムから万場調整池へ至る水の流れを表現しているんです! これは素敵な発想であり、地理の勉強にもなりますね。

宇連ダムから流れ出た水は、


大野頭首工を通り、


長篠城跡の近くを流れ、


牟呂松原頭首工を経て、


この万場調整池と繋がっているというもの。写真中央に見える排水路から調整池に流れ込んでいるんです。


ダムや溜池の周囲に遊歩道があるのはよくあることですが、そこを利用してこういった工夫をしているのは実にナイスだと思います。素敵やん。
コメント

古代からの…芦ヶ池調整池

2021-04-04 06:56:14 | 愛知(ダム/堰堤)
愛知県田原市野田町芦ヶ池(たはらしのだちょうあしがいけ)にある豊川水系の芦ヶ池調整池に来ました。ここはため池百選のひとつであるとともに豊川用水の東部幹線水路にも繋がっていて、重要な役割を果たしています。それについては後で説明します。

これがダム上に相当する場所。県道416号がこれと並行して走っているのでとてもダム「上」という感じがしませんが、構造上は「上」になります。



上の写真を撮った場所が左岸のダム横に相当し、そこには越流式の洪水吐があります。増水時にはここから溢れ出て、



県道の下を横切って、あちらへ流れてゆきます。



この左岸のところにあるのがサンテパルクたはらの看板。これは体験型の農業公園だそうで。この看板は目立つのですぐにわかります。



さて、ダム上を歩いてみます。中央付近から見た調整池の様子はこんな感じ。



下流側の景色です。景色といっても高低差がほとんどないので長閑な風景といったところ。



右岸側にある建物。これは? (後で判明します)



右岸から見たダム上。



右岸から見た調整池の様子です。写真中央に見えるのがサンテパルクたはら。



右岸には「芦ヶ池調整池」と刻まれた石碑。



その裏には沿革が記されています。これによると芦ヶ池は奈良時代から存在した溜池で、1968年に豊川用水が完成したのに伴い、芦ヶ池の規模を拡大しそれを活用する目的で1987年2月より工事に着手。そして1995年3月に「芦ヶ池調整池」として完成したそうな。



近くには芦ヶ池調整池の案内板。これによれば、ここは少し遠くにある大野頭首工(参考)と豊川用水を通じて繋がっていて、豊川の水量が多い時にこの調整池に水を溜めておき、水が不足した際には渥美半島の地域の農業用水として活用されるそうです。大野頭首工と繋がっているなんて、なんだか不思議な気がしますね。



で、気になっていたこの建物、



先ほどの案内板を見て納得。ポンプ場でした。



渥美半島は本当に温暖で、訪れた時にはキャペツやメロンの出荷で忙しそうでした。
コメント

窯跡の上に…初立池

2021-04-03 07:30:38 | 愛知(ダム/堰堤)
私用で名古屋へ行くことがあったので、ついでに愛知県のダムを巡ってみました。まず向かったのは田原市伊良湖町地内にある豊川水系の初立池(はつたちいけ)です。ここは渥美半島の先端、伊良湖岬(いらごみさき)の近くにあり、ため池百選にも登録されている場所だそうな。ほぉ〜。

で、「メイン」のダム上がこちらです。



メインのと書いたのには理由があります。実は最初に向かったのはそこではありませんでした。これがまず目にしたダム上です。事情を知らなければ、絶対にそう思うでしょうね。



貯水側から見たダム上(と思ったところ)。



そして、ここを歩いてみます。



その中央付近から見た貯水湖の様子。中央に見える取水塔が可愛らしいですね。





一方、下流側はこんな感じ。



対岸へ来ました。振り返るとこんな景色です。



対岸側から見たダム上。



通常だとこれで見終わるのですが、「いや、待てよ? 洪水吐はどこだろう?」。そうなんです、ダムには必ず洪水吐があるんですが、ここには見当たらないんですよ。そんなはずはない。…だとすれば、これはダム上ではないのでは? じゃあ、本当のダム上はどこに?

どこかに案内板はないものか。うろついていると…ありました。



どうやらワシは初立池の「副堤」をホンモノと思い込んでいたようです。(写真右上)



なるほど、それで洪水吐が見つからなかったわけか…。(実はあったのかもしれませんが)

そうとわかればメイン(本堤)のダム上に行くしかありません。そして、湖周を回って辿り着いたのが一番上の写真の場所なのでした。

で、メインのダム横には、さすがに案内板が鎮座しているのですが、残念なことにご案内できないものになり下がっています。これはいかんなあ。



これはなんでしょうか。独特な形をしていますね。近づいて見ると「渥美町土地改良記念碑」と刻まれています。石碑の裏には「昭和45年(1970年)4月11日」とありました。





メインのダム上を歩いてみます。中央から見た景色がこちら。写真中央に小さく見えるのが、あの可愛らしい取水塔なので、先程はその向こうからこちらを眺めたことになります。



メインのダム上から見た下流側の様子です。風力発電用の風車がブンブン回っていました。





対岸(右岸)まで来ました。振り返るとこんな感じ。



貯水側から見たダム上の様子です。



下流側からダム上を見るとこんな感じです。



そして、左岸側へ戻る時に気付いたのは左岸のすぐ下流側に何やら石碑のようなものが…。木々に埋もれていて写真が撮れなかったのですが、そこには「初立池」の文字が刻まれていました。



おや? でも洪水吐はどこに? 左岸からの道を下って来るとその水路を発見。やれやれです。増水時にはここを通って、



あちらへ流れて行くんですね。



ここからはオマケになります。この水路の横には国指定の史跡である「伊良湖東大寺瓦窯跡(いらごとうだいじがようあと)」があります。説明によれば、平氏の焼き討ちで焼失した東大寺を再建するための瓦がこの窯で作られたのだそうです。へぇ〜。





くれぐれも初立池が溢れないことを祈ります。まぁ大丈夫でしょうけどね。
コメント

用水確保と送水…前山池(前山ダム)

2020-07-24 07:17:21 | 愛知(ダム/堰堤)
常滑市金山石坂にある矢田川水系の前山ダムへ来ました。位置的には知多横断道路「常滑インター」北側にあります。

案内板には「前山池」とありますが、フィルダムなので前山ダムでも間違いではなさそう。農業用水確保や前山川を通して愛知用水へ送水する役割を果たしています。



道路側にあるのが越流式排水路。増水するとここから流れ出し、



あちらへ向かい、これが前山川となります。



貯水側から見た様子。



では、いわゆる「ダム上」の道を歩いてみましょう。



「ダム上」中央付近から見た池の右側。写真右に見えるのは管理所らしい。



池の中心部分の様子。



一方、下流側はこんな感じ。



対岸へ来ました。振り返るとこんな景色。



対岸、貯水側から見た様子。



これが先ほど遠くに見えていた管理所。なんか立派ですなぁ。



ちなみに常滑市の地名の由来はこの付近の地盤(床)は粘土層の露出が多く、その性質が滑らかであることから「床滑 → 常滑」になったそうな。ほぅほぅ、またひとつ勉強になりました。
コメント