ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

奥さん、アンタは偉い!

2005-11-30 06:19:01 | 脳みその日常
昨日は天気に恵まれ、いつもの講座には多数の受講者が集まった。やれやれである。

講座の後、ワシはある演奏会に行くことになっていた。そのチケットが1枚余っていたので受講者に「行かれる方にはチケットを差し上げます」と呼びかける。すると、ひとりの婦人が挙手。ならばとクルマで一緒に会場へ向かう。

その道中、いろいろな話を聞いた。なかでも驚いたのは次の話。本日はこの講座に出るため仕事を休んだが、いつもは拘束時間にして17時間の仕事をしているとのこと。にわかには信じがたい話である。失礼とは思いつつ、一体なぜそこまでして働くのですかと尋ねてみた。

話によると、旦那は現在フリーで仕事をしているのだそうだ。ところが思うように収入が得られないらしい。しかしこの夫婦には3人の子供がいる。となれば、当面は奥さんが家計を支えるしかない。そこでやむを得ず過酷で苦しい仕事に就いたのだそうである。

家庭にはそれぞれの事情がある。だから、どのような形で生計を立てるのかは各家族が決めること。だがこの婦人の話を聞いていて、あぁ、この人はご主人はもとより家族を本当に愛しているんだなと感じた。

現在の苦しい仕事に耐えられるのは、ひとえに家族の幸せのため。だから家族が幸せになれるのなら、自分にやりたいことがあっても我慢するのは当然のことじゃないですか。婦人は、こともなげにおっしゃる。

それこそ自己犠牲の愛、もしくは無償の愛ではないか!どこにでもある話なのかもしれないが、聞いていてチョット感動してしまった。そして心の中で次のように呟いてみた。

…旦那さん、アンタは素晴らしい奥さんと巡り逢えて良かったね。何としてでも早く自分の仕事を軌道に乗せて、今度は奥さんにラクさせてやりなよ。

…子供たちよ、お母さんは君らを心の底から愛しているぞ。だから今は一所懸命勉強に励んで、お母さんに心配をかけないようにしなくちゃな。

この家族に1日も早く安穏の日々が訪れることを願っている。
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文字化できない脳みそ

2005-11-29 01:04:35 | 脳みその日常
擬声語とは何かの音を模して表現する時の言葉。たとえば動物の鳴き声などがそう。「ワンワン」とか「ニャーニャー」は立派な(?)擬声語である。広義では擬態語ともいうけれど。

定義はともかくとして、知識としてはわかる。ところが困ったことにワシには文字化された動物の鳴き声がその通りに聴こえない。それは昔からそうなのだ。ならば、外国語のような表現、たとえば犬なら英語で「バウワウ bow wow」、猫なら「ミァオゥ miaow/miaou」と表わされるが、そのように聞こえるかというと、そうでもない。

犬は犬の、猫は猫のそれらしい声で鳴くのであり、文字で表現できない音のように思える。だから「ワンワン」とか「ニャーニャー」という表記にはいつも違和感を覚えてしまう。そうじゃないだろ!と。

じゃあ、オマエならどう表現するんだ?と言われても困る。該当するカナが見つからないから。そもそもカナで表現するには限界があるのではないか?

え?単なるヘソ曲がり? それとも認識障害?

なんなんだろうねえ。
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R125の旅

2005-11-28 06:54:12 | ドライブ関連
どうも病気が悪化しつつあるようだ。もちろんドライブ病である。かつてハマった「国道巡り病」はまだ完治していなかった模様。

ふとR125の起点から終点まで走りたくなった。突発的に起こる病気だから理由なんてない。思いついたら行くしかないのだ!

R125は千葉県佐原市から埼玉県熊谷市まで距離にして129kmほどの国道である。思えば、もう10年も前にチャレンジしたのだった。なので、今回は逆のコース、つまり熊谷市から出発することにした。

熊谷市まで行くにも時間と距離が必要だが、それは「病気だから」仕方がない。ま、言うなれば禁断症状のようなものと思っていただければよい。日曜の深夜ということもあって道路は空いている。よしよし、いいぞ。

熊谷を出発して行田市に入る。すると国道沿いにナント、「HOTEL EXE」なるラブホテルが!もちろんここでいう「EXE」とはエグゼクティブの意味だろうとは思う。しかし、それを見た瞬間、ワシは「何で拡張子を名前にするんだろう…」と思ったバカ者です。

言うまでもなく、「.exe」はWindowsやMS-DOSのファイルに使われる拡張子のこと。ワシのマシンはMacなので、その拡張子のファイルは開けない。しかし知識として理解していたので、エグゼクティブよりも先に拡張子が思い浮かんだのかもしれない。うーむ、ドライブ病どころか、パソコン病にも罹患しておるではないか!(苦笑)

そんなことを考えながら加須(かぞ)を抜けて、栗橋、古河(こが)、そして八千代、下妻を通過する。そうこうするうちに茨城県土浦市になる。あっ、そういえば熊谷で証拠の写真をとるのを忘れていた。ならば、せめて常磐線の土浦駅のカンバンでもどうぞ(笑)

ええい、せっかく来たのだから霞ヶ浦のほとりでも行くか。さすがに深夜なので目ぼしいものがない。そのなかで光っていたのが国民宿舎水郷「霞浦(かほ)の湯」のカンバン。うーん、やっぱり深夜はカンバンしかないのか…。

ちょっとガックリしながらも先を急ぐ。霞ヶ浦の畔に沿って美浦(みほ)、稲敷と通過し、佐原に到着。そのままR51に合流するので、東京方面にクルマを向ける。そして帰宅。

今回の走行距離は330km。しかし重病だなあ…。
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和訳する脳みそ

2005-11-27 05:54:06 | 脳みその日常
やらなければならない仕事は残っている。しかし、今月はもうプレッシャーになりそうな原稿はなさそうなので、気分転換の意味で外国語を和訳して時間を過ごす。

仕事で外国語の資料に目を通すことは日常茶飯事。少なくとも英語とドイツ語なら読むには大して支障はない。しかし読んでいるといっても、いちいち日本語に変換しているわけじゃない。脳みそのなかでは原語のニュアンスで理解しているのだ。

その方法ならば確かに素早く「読む」ことができる。ところが、いざそれを日本語の文章にしようとするとうまくいかなかったりする。なんてことない文章なのに日本語に訳せない。訳すだけなのに、なんでこんなに時間がかかるんだ?愕然とすることがある。その意味からすると翻訳家ってすごいなぁと思う。心底、尊敬するねえ。

感心してばかりはいられない。いつ「翻訳まがい」な仕事が来るかもしれないので。原語を日本語に変換する神経を鍛えておかなければ…。そんな動機から和訳の作業を開始したのだ。

それにしても日本語として違和感なく訳すというのは難しい。脳みそのなかでニュアンスで理解するのとは別の能力が要求されるのだな、とつくづく思う。遠い昔、大学受験のためにやった和訳って一体何だったんだろう。あんなの、まるで機械的な直訳だよな。

でも考えてみれば、直訳なんてやっぱりヘンだよ。いくら文法通りに訳せたとしても直訳調に話す人なんて実際にはいないわけだし。

「●●するところの▲▲は、□□をして××せしむる…」(苦笑)

オイオイ、なんだよこれ。意味は通じても現代の日本語らしくないじゃないか!

しかし、日本の大学受験制度って受験生におかしな試練を課すもんだよな。これじゃあ日本語の美しさなんて受験生にとってはどうでもいいってこと?文法的に間違ってなければ、それでいいってわけ?

まあ、そんなことはどうでもよい。和訳する神経回路を作るために始めた作業だが、これがまた楽しかったりする。何が楽しいって、日本語化するプロセスが面白いのだ。

直訳ならこうだけど、ヘンだよなあ…。じゃあ、違う表現の仕方はないかな…。おぉ!こういう言い方なら自然だよな…。よし、これにしよう!…てな具合。

目にしているのは外国語だけれど、脳みそではそれを日本語として捉え、日本語らしい表現を導き出す作業。脳みそに入っている日本語のすべての語彙から最も適切と思われるものを探し出すワクワク感。これはまるでパズル。

楽しいよ。みなさんも、どう?
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訪問者たち

2005-11-26 02:37:35 | 脳みその日常
家で仕事をしているので、あまり人と話す機会はない。面と向かって話をするのは、実際のところ訪問してくる宅配業者か飛び込みのセールスぐらいである。

宅配業のニィちゃんは週に2、3度来るので、もう顔なじみ。普段の挨拶はもとより、相手の時間が許す限りいろいろ話す。この人に関していえば、普段の睡眠時間は4時間ほどらしい。子供とのコミュニケーションなんてまずないそうだ。子供が寝た後に帰宅し、子供が起きる前に出勤する生活がずっと続いているとか。子供の寝顔を見て、「あぁ、今日もコイツは生きてるな。よかった」と思うそうだ。

宅配業というのは基本的に「お客様第一主義」。荷物の受け取り手が不在なら何度も足を運ばなければならない。それを「売り」にしているサービスなのだから当然といえばそれまでである。でも、できれば一度で済ませたい。それが運転手の本音であろう。そりゃそうだ。ワシが運転手の立場だったら「何度も来させるなよ」と思うからね。

そう思うからこそウチに来る業者の人には、指定された日の範囲であればそちらの都合のいい時に来てくれればいいよと言っている。ワシのほうは、よほどのことでない限り、時間との勝負ということはないわけだし。昨日もいつものニィちゃんが来たが、相変わらず疲れきった顔をしていた。でも笑顔で対応してくれるので見ていて余計に痛々しい。身体を壊さなければいいが…と、いつも思う。

飛び込みのセールスについては、こちらがヒマであればいくらでも話を聞いてやることにしている。もちろん相手が提示する商品など最初から購入する気はない。あくまでヒマつぶしである。

ハナから商品購入の意思はないのだから冷静に相手を観察することができる。そうすると面白いように相手の人間性が見える。本当にセールスする気があるのかとか、客をナメてるかどうかなど、相手がワシを見抜く前に察知できる。それにワシは心優しいので、商品説明の矛盾やセールスの進め方に問題がある場合、容赦なくツッコんであげることにしている。

「そんなセールストークじゃ、この商品は売れないよ」とかね。

このレベルならまだよい。酷いのになると恫喝するような口調の奴も来る。客にモノを売る人間としては論外だ。そうなるとワシもだまってはいない。こういうバカには「お仕置き」をしてやらなければならない。

といって、別に暴力を振るうわけじゃない。相手を威嚇する態度に出るのみ。最初は穏やかに応対していたのが、突然態度を豹変させるのだ。すると相手は面食らう。

だが、そこで止めてはいけない。大事なのは、さらに畳み掛けるように本気でドスを利かせること。そうすればよほど肝が据わった奴でない限り、間違いなくビビる。

こういう輩には完膚なきまでに打ちのめす対応をするに限る!ただし、バカは暴力という反則を使って反撃してくることもあるので、威嚇する場合は各自の自己責任でどうぞ。

要は、客をナメたら酷い目に遭うことを教えてやればよいのだ。
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いいとこ、みっけ

2005-11-25 05:24:58 | ドライブ関連
ひとつ面倒くさい仕事が片付いたので気分よくドライブへ出掛ける。もちろんワシのことだから出掛けたのは深夜。特別目的地を決めて出発したわけじゃなく、ただフラフラと流そうと思っただけ。

不思議なもので、走っていると何となく行きたいところが頭に浮かぶ。よし、今回は山のほうへ行ってみよう。そうと決まれば真っ暗なところを目指して走るのみ。今日は「原稿を書かなければ…」などという心配がないので、時間を気にせず探検できる。もうね、ワクワクよ。

何となくピンと来る交差点があった。ここを曲がって行けばいいかも…。こういう時はだいたい勘が当たる。どんどん山道を進む。街灯もないほどの山中に来た。いいぞ、この調子だ。

細くクネクネした道を行くと、ある瞬間にパッと夜空が広がる場所があった。すぐに路肩へクルマを寄せて停車。降りて空を見上げる。

うおぉぉぉぉぉ。こりゃ、ナイスな場所をみつけた。夜景を見るのも好きだが、満天の星空をボーッと眺めるのもいい。「夜空フリーク」のワシなので、いくつものスポットを知っている。だが、ここは知らなかった。比較的近くて星が綺麗に見えるので、しばらくは「お気に入り」になりそう。その場所はどこかって?フフフ、それは言えない。

時間を忘れて、しばらく夜空を眺める。そしてまたあてもなくクルマを走らせる。

しばらく走ったところで「宮が瀬ダム」の表示が見えてきた。ややっ、こちらの道から行ったことはないな。じゃあ、行くか…。すべてが思いつきの行動である。

ふと停車させた目の前に見えたのがこの橋。別に掲載するほど素敵なものではないが、まあ深夜の雰囲気をお楽しみいただこうと思ってね。あ、何か「いる」とか言うのはナシね。た、たぶん「いない」と思うけど。
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先天的な適職なんてあるのか?

2005-11-24 19:01:55 | 脳みその日常
あるテレビ局が新番組の宣伝に躍起になっている。それによれば、問題を解くことで自分がどんな職業に適しているのかが分かるらしい。職業によって脳みその部位の反応の仕方は異なるそうだ。その番組では脳みそを4分割にして判定するとのこと。具体的には左前脳、左後脳、右前脳、右後脳の4部分である。

昨日の「番組宣伝のための番組」では、さまざまな職業の人たちの脳波を測定。そして仕事をしている時に脳波がどの部位からどのように出るのかを紹介していた。確かに職業によって各部位の反応の仕方は異なっている。それを見る限り面白いとは思った。へぇー、職業によってこんなにも脳波の出方は違うのか、と。

でもそこでふと考える。それぞれの職業に特徴的な脳波は先天的に獲得していたものなのだろうか。その業種に限定された多くの経験を積んだからこそ、そうした脳波が出るようになったのではないのか?もしそうだとすればこの番組で得られる結果はあまり意味がないのではないか。だって同業者ってのは同じ思考プロセスをするんだから同じような部位から脳波が出たって何ら不思議じゃないわけだし。

自分がどんな仕事に向いているのか悩んでいる人は多いのかもしれない。でも、こんな(といっては失礼だが)番組で得られた結果で大切な人生の方向が見いだせるとは到底思えない。どの人もそれなりに悩んだ末に現在の仕事についているわけでしょ。当時はその仕事ならできるなと思ったから就職したわけだよな?

今の仕事が続くのなら、それはその人の適職なのではないのか?意識の上では「嫌だな、こんな仕事」と思っていても、本当に嫌な仕事であればとっくの昔に辞めているはず。そもそも今の仕事が本当に嫌いなら、まず身体が動かなくなるもの。ヒキコモリや不登校などはまさにその例であろう。ま、それは仕事じゃないけど。

現在仕事をしていない人や学生についてはどうか。あのね、ハッキリ言うけど仮に適職と思われる仕事に今後ついたとしても、実際にその仕事をこなせるかどうかは別なんだよ。データ的にその仕事の「素質」はあるのかもしれないが実務は別なのだ。

どんな仕事も決して甘いもんじゃない。全員が全員ラクして適職につければ何も問題はない。でも実際人々はいろんな問題を複合的に抱えながら日々を何とか乗り切っている。年老いてから「あぁ、これが自分の適職だったな」と思えるのかもしれない。でも、若い頃は不本意と思って呻吟していても、一所懸命やってきたのであれば、それはそれで違う意味での適職だったということなのだ。
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懐かしくも嫌な痛み

2005-11-23 04:27:41 | 脳みその日常
昨日はバタバタしていてブログの更新ができなかった。いや、正確には一度更新したのだが、ちょっと愚痴っぽい内容だったので考え直してすぐに削除した。他人の愚痴なんて誰だって読みたくないもんね。

慌ただしく部屋の中を動き回っていたら、うっかり硬質の紙で手の指の股を切ってしまった。よもやあんな紙で切れるとは思わなかったので、ちょっとびっくり。切ったといってもザックリやったわけではない。少しばかり血がにじむ程度である。

経験した人ならわかるが、指の股を切ると始末が悪い。改めて言うほどのことではないが、指というのは意識する以上に動いている。指の股とは所謂「水かき」の部分なので、その部分の傷は指が動くと同時に動く。完治していない状態にある傷に刺激を与えればどれだけ痛いかは誰でも知っていよう。まあ、痛いというよりヒリヒリするんだけど。

この痛み、かつて経験したことを思い出した。それはワシがまだ少年時代、ピアニストを目指していた頃にさかのぼる。ワシの手は決して小さくはないが、その割に開かない。といっても11度ぐらいはつかめるのだが。

それでも19世紀のピアニストの伝記などを読むと、信じられないようなバケモノが登場する。なかには2オクターヴ(15度!)近くも広げることができたなんていう話も出てくる。いったいどういう手じゃ!

まあゲルマン系や北欧の連中なんてそもそも身長が高いのだから当然手もデカイに決まっている。だから、まるで「うちわ」みたいな手の持ち主がいても不思議ではない。でも同じ人間として奴らと同じように手のひらが開かないのは何としても我慢がならなかった。

そこで思いついたのは手のひらを開くようにすることだ。指と指は「水かき」の存在によって開くことが制限される。となれば、水かきをいじってやれば今以上に手は開くのではないか。手の構造から考えてもこの推理は間違っていない。ならば、やってやろうじゃないか! ちなみに、ここで言う「いじる」とは、すなわち水かきを切ることを意味する。

ええ、ええ、トライしましたとも…勇気を出して、カッターで。案の定、複数の水かきから同時に血がにじんできましたよ。これがメチャクチャ痛い! あんなところにも神経があるなんて、切って初めてわかった(苦笑)いや、ホントに痛いんだってば。

それにしても、何でそんな無茶なことをしたんだろう。トチ狂っていたとしか思えない。いうまでもないが、こんなバカなことをしても指の股が痛むだけで、絶対に手のひらは広がらない。良い子のみんなはくれぐれもマネしないように。
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メール化したオフィスの弊害

2005-11-21 14:03:27 | 脳みその日常
先日、とあるホールで担当者のFさんと話をする。最初は当日の演奏のことを聞かれたのでその話をしていたが、ひょんなことから最近の若い人たちのことに話題が及ぶ。仕事を早く覚えてもらいたいのだが、なかなかうまくいかないらしい。

バブルの頃のように新人のための研修がきちんとしていれば何も問題はない。その研修で業務の基本は叩き込まれるからだ。ところが潤沢な企業は別にして、現在ではほとんどの企業でマトモな新人研修などは行なわれていない。となると、新人は入社してすぐに現場で仕事を覚えていくことになる。

もともと仕事ができる奴というのは、研修などなくてもすぐに仕事を覚え、即戦力としてバリバリやってゆく。そういう奴は放っておいても大丈夫だ。しかしそんなのはごく少数。多くの新人は誰かが面倒を見てやらなければならない。とはいうものの、それほど仕事はどこもヒマじゃない。

「困ったもんですよ」
「まあ、仕事なんて先輩の様子を盗み見して覚えたもんですよね?」
「ええ、少なくとも私はそうしましたね」
「最近の新人にはそういうことをする奴はいないんですか?」
「いないというより、できない環境になりつつあるんです」

話によると、こうだ。たとえば電話の応対などは先輩のやり方を見ていれば覚えられたものだった。ところが、最近では顧客とのやり取りがほとんどメールで行なわれるようになったため、オフィスで電話をする機会もかなり減ったのだとか。そうなると、応対を聞いて覚えるというワザは使えない。

また、文書のやり取りがメールで行なわれると、基本的な書式やビジネス用の文言なども盗み見ることができない。静かに仕事ができるのはいいが、ちゃんと目を光らせていないとトンデモナイ文書ができあがる可能性もあるらしい。

ここへ入社してくるのは、お勉強的な意味では相当優秀な人ばかりだそうだ。語学はできるし、頭の回転も速いらしい。だが仕事となると話は別。どんなに優秀でもフレキシブルな対応ができなければ現場では「使えない」のだ。どんなトラブルが発生してもすぐに解決できる応用力がないと、何の意味もない。

「頭が固いんですかねえ」
「うーん、人間的にはマジメなんでしょうけど、それが却ってマイナスに…」

そんな話をしながら、ふとFさんが随分と老けたことに気づく。そうか、時間は確実に過ぎているんだな。そもそも互いにこんな話をするとは思ってもみなかったし。
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ボイス・ブログ…さらに…

2005-11-20 02:16:22 | 脳みその日常
恥ずかしながら、ボイス・ブログの存在をつい最近知った。はぁ、考えてみればそういうのが登場するのも当然かもしれない。ネット上のチャットも最初は文字だけのやり取りだったが、今ではYahoo!をはじめ多くのポータル・サイトで「ボイス・チャット」が主流となっているわけだし。

なぜ文字から音声に移行するようになるのか。喋るほうが簡単だからである。自分の考えを相手に伝えるにあたって、文字で伝達することは実は難しいことなのだ。そもそも文字で伝えられるのは限られた情報だからである。自分の率直な気持ちを誤解のないように相手に伝えるには、限られた文字情報だけでは不可能といってよいかもしれない。

しかし、音声による伝達方法なら、伝えたい内容が文字によるそれと同じであれば、音声のほうがはるかに「良く」伝わる。音声の場合、喋る内容のほかに語り手の抑揚なども同時に相手に伝えることができるからだ。つまり音声のほうが文字に比べ伝達する情報量が格段に多いということである。利用者にしてみれば同じことをするのなら簡単なほうを選ぶに決まっている。「ボイス・チャット」に人気が集まるのはそうした理由にほかならない。

チャットは基本的には刹那的な性質をもつ。文字チャットの画面を保存することはもちろん可能だ。しかし、その内容は保存するほどのものでないため、たいていの場合はチャット・アプリを終了させるか当該のブラウザを閉じてしまう。

これに対し、ブログは書き手が意図的に削除しない限り自動的に保存される仕組みとなっている。それでも利用者がそこへ文字を書き込む行為はチャットですること、すなわちキーボードで文字を打ち込むことと何ら変わらない。とすればブログにだってボイス版が出てきても不思議ではない。

ブログに書き込むなんて面倒くさいという人のためにできたのがボイス・ブログのポータル・サイト「ケロログ」である。説明によるとマイクと録音できるアプリケーションさえあれば誰でもすぐに使えるそうだ。もちろん文字ブログのように録音された音声は保存されるようだし、サイトを訪れた人はその音声を自分のPCへダウンロードすることもできるらしい。もっとも、ワシはボイス・ブロクをするつもりはない。文字を書くのはまったく面倒とは思ってないからねえ。

近年発生した事件では犯人の記した文字ブログが話題となっている。今後ボイス・ブログがもっと普及すれば、そのうち本人の音声による「犯行予告」とか自殺する前の「遺書」なんかも出て来るんだろうか…。いやいや、ボイスどころか、そのうち「映像ブログ」が当たり前のようになったりして。

そんなことを思っていたら、「ビデオ・ブログ」とか「ライブログ」なんてのがすでにあることを知る。おやっ、今年の7月には「ブイログ」なんて記事があったのか…。いやー、世の中どんどん進んでるねえ。どうなるんだ?この先。
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オクターヴ奏法に油断は禁物

2005-11-19 10:44:56 | 音楽あれこれ
ピアノの楽譜に当然のごとく出てくるのがオクターヴ。これはひとつの音では響きのうえで作曲家が物足りないと感じた時に1オクターヴ上もしくは下の音を加えるもの。いや、場合によっては演奏家が任意でオクターヴにして演奏することもある。

もっと言うなら「5度」を加える奴もいる。たとえばオリジナルの楽譜には「ド」の音しかないのに、「ド-ド」では物足りず「ド-ソ-ド」にしてしまうなど…。これは往年のホロヴィッツやシフラなどがトチ狂ってやっていたことだ。まあ気持ちはわからんでもないが。

それはともかく、ここでワシが言いたいのはオクターヴを弾くにしても「きちんと音を鳴らす必要がある」ということ。何も鍵盤を打ち抜くほどの強音で弾くことはない。しかし音を響かせようという意識をもって弾かないと、いくらオクターヴの音であっても地に足がつかないように聴こえてしまう。こういう演奏だと聴いてて気持ち悪いよ、ホントに。オクターヴでその旋律をアピールしようとしているのに、まるでフワフワ宙に浮いているように聴こえてくるのだから。

もちろん、オクターヴをきちんと弾くにはある程度の手の大きさが必要だ。思い切り手を開き、やっとのことで1オクターヴ届くという人にとって、この行為は拷問に近いものかもしれない。だから手の小さいピアニストはオクターヴ奏法が主役とならない古典派以前の作品をセレクトすることが多い。それは実に賢明な選択であろう。

だからといって彼らが後期ロマン派の作品を弾くべきじゃないと言っているのではない。前述したように、弾くのであれば、きちんと芯のある音を出せばよいのである。ただ、手が小さいと、オクターヴを弾く時にどうしても手首が浮き上がってしまう。それは手の構造上どうしようもないことではある。

だが、残念なことに手首が浮いた状態でオクターヴを弾いても良い音にはならない。なぜなら、弾こうとする力は「くの字」に曲がった手首から指へ伝わりにくいからだ。せっかくの力も抜けてしまうというわけ。だから彼らは何とかして力を指へ伝えようと努力する。ところが、そうしようとすればするほど手首と肘に余計な力がかかってしまい、逆効果になる。

ピアノ学習者は「脱力しなさい」と言われることがある。これはまさに手首と肘に力が入らないようにするためだ。無駄な力が腕に加えられなければ出てくる音は当然「良い音」になる。この例からわかるように、無理矢理オクターヴを鳴らそうと頑張ることはその心意気は認めるけれど、悲しいかな徒労に終わるケースがほとんど。

単に「なんだ、オクターヴか」とナメてかかってはいけない。オクターヴで良い音を出すことは意外に難しいのだから。そもそも手を広げるという行為自体に力がかかっているんだもんね。手を広げなけりゃ弾けないのに、広げたら広げたで力が入り良い音を出すのは難しいという矛盾。

ピアノ弾きは本当に大変だ。
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月の光が獅子座流星群を…

2005-11-18 05:42:10 | ドライブ関連
17日から19日にかけて「獅子座流星群」が冬の夜空に流れるという情報をキャッチ。となれば行かないわけにはいかない。行動派のワシは原稿を投げ打ってまで流星の観察に出掛ける。

ところが東京の夜空は曇天。ありゃー、ダメかもしれんな。まあいいさ、とりあえず出発してみよう。あとはどうにでもなれってんだ!

地上の光にあまり邪魔されない場所はいくつか心当たりがある。あ、そうだ、昨年は山中湖に行って完敗を喫したんだったな。よし!今回はリトライである。こういう時「リベンジ」という言い方をよくするが、これは明らかな間違い。「復讐」してどうすんだよ。マスコミをはじめとして、意味も分からずに使うことほど愚かなことはない。

ま、そんなことはどうでもいいや。とりあえず、中央道に乗って上野原インターで降りてみる。そこからしばらく走ったところに秋山というところがある。ここは良い意味で「光がない」格好の場所だ。街灯もまばらで、信号なんてほとんど見かけない珍しいところなのである。

ここで何気なく空を見上げてみる。なんと晴れているではないか! 早速路肩へクルマを停車させて夜空を眺めた。晴れてはいるものの、星はちっとも流れていない。ただ月が冷たい光でワシを見つめているだけ。それが右の写真。…ったく。

秋山から都留へ抜けて、そのまま山中湖へ向かおうとR139を走っていたら前方に気が遠くなりそうなほどノタノタ走るトラックが…。そんな奴のケツを見続けるのはイヤだ。途中から道志方面へ進路変更する。

この山道はキョーレツなワインディングである。クルマ酔いしやすい人なら、たぶん確実に吐くだろう。ワシはウハウハ言いながらタイヤをギュインギュイン鳴らしつつ道志みち(R413)へ合流したけどね。

そこから山中湖までは一本道。夜中の2時にここを走るクルマなんてほとんどいない。まさにマイ・ロードである。緩やかなカーブも時速100km前後でぶっ飛ばす快感。(ここだけのヒミツね♪)

山中湖へ到着。なんと気温はマイナス2度! さぶい、さぶい。

でもイイ感じに晴れている。よしよし、これならリトライして勝利を収められそうだな。暗い場所にクルマを止めて早速空を見上げた。

…うぅ、見えねー(泣)

やっぱり月の光が完璧に流星の邪魔をしているのだ! あまりに悔しいので、コイツをアップで撮影してカメラに拉致してやりましたとも。ええ、ええ。
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悪質詐欺には気をつけろ!

2005-11-17 01:43:42 | 脳みその日常
ここ数日、同じ大学を卒業した仲間や後輩から同じ内容のメールが届く。それによると悪質業者が往復ハガキを送付してきて、いわゆる「同窓年鑑」なるものを作るので個人データを書き込んで送り返せ、と。それは大学とは全く無関係のものなので返信しないようにとの忠告メールだった。

あぁ、そういえばウチにもそんな往復ハガキが届いていたな。もうね、記載内容を見て、すぐに「これは怪しい」と直感しましたよ。だからもちろん返信なんてしてない。むしろ慌てて返信してしまった同窓生がいるんじゃないかと心配している。

このようなところで具体的な社名を出すのは少し憚られるが、今後被害者を出さないために敢えて公表することにする。その会社とは、

「人事新報社」

住所は大阪の都島区となっている。最初にハガキを見て怪しいと思ったのでネットで検索してみた。しかし同社のサイトはもちろんない。Yahoo! の電話帳で検索してみても同社はヒットしなかった。うーん、ますます怪しいよな、この会社。

そんなことを思いながら、さらに検索をしてみると次のようなサイトをみつけた。この告発板をみると「人事新報社」はあちこちの学校の卒業生に同様の手口で悪事を働いているのがわかる。しかも、サイトに書かれてある住所や連絡先までワシのところへ届いたハガキと全く同じ!

いまや個人情報も漏洩しまくっている時代。ここにデータを送らなくても、どこかの業者は情報を握っているはず。だからワシはちっとも驚かない。我々のプライバシーはあるようで実は全くないのだ!それが現状なのだろう。

許せないのは個人のデータを収集した挙げ句、それを他の業者に売買する奴がいることだ。この「人事新報社」もたぶんそういうこともするだろう。しかし、名目はあくまで「同窓年鑑」を作成することと主張するに違いない。でも、大学の同窓会事務局が与り知らぬところで勝手に作ったそれを 11,340円(税込)で我々に売りつけ商売をしようという魂胆には本当に腹が立つ!

こうした行為を法的に罰するのはなかなか困難らしい。一応は「商品」を作ってお金と引き換えに渡すらしいから。もっとも、本当にそんな「年鑑」が入手できるかは知らないけれど。いやー、きっと客から入金だけさせておいてそのままかもしれんな。

みなさま、くれぐれもご注意を。
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ナクソスがネットで音楽配信

2005-11-16 08:06:33 | 音楽あれこれ
すでにご存知の方もおられるかもしれないが、ナクソスが月額1,890円(税込)でいくらでも音楽を聴けるというサービスを開始した。

もちろん聴けるのはナクソス音源に限られる。それでもかなりのレパートリーが網羅されているはずだ。サイトの説明によれば 150,000曲以上揃っているとある。月にCDをたくさん購入する人ほど、このサービスは利用価値がある。なぜなら通常のCDを1枚買うほどの値段で、数十枚いや数百枚の音楽を楽しむことができるからだ。

もっとも、CDコレクターにとっては何の魅力もないだろう。音を聴くことはできても「現物」はないのだから。おそらくダウンロードもできないとなれば「うーん…」と悩む人もいるかもしれない。

ただし、このサービスは図書館の閲覧室へ出向いて試聴する機会の多い人にはありがたいことこの上ない。自宅に居ながらにして目的の作品を聴けるのだから。時間と交通費を考えればこのサービスを利用したほうが絶対に安い。

正直、ワシも今ユーザー登録しようか悩んでいるところだ。ただ、すでに大方の作品を所有しているので、自分にとってどれだけの利用価値があるのか何とも言えないところである。でも、これからクラシック音楽を聴こうと思っている人には十分すぎるほどの「資料室」であることは確かだ。
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たまにはラモーでも…

2005-11-15 11:42:30 | CD/DVD
ジャン=フィリップ・ラモー(1683-1764)はフランス・バロックを代表する作曲家のひとり。音楽史においてラモーといえばまずブフォン論争の渦中にいた人物として思い出される。この論争はごく簡単にいえばフランスの古典音楽、とりわけトラジェディ・リリックを支持する国王派と、新たに台頭してきたイタリア音楽、特にオペラ・ブッファを信奉する王妃派との間に闘わされたものである。

論争が勃発したそもそもの発端は1752年にペルゴレーシ(1710-36)の《奥様となった召使い》がパリで上演されたことに起因する。それまでのフランス・オペラはどちらかといえばシリアスな内容か、もしくは悲劇的なものであった。ところが《奥様となった召使い》は喜劇。そりゃーパリの保守派は怒りますわな。「なめとんのか!」と。たぶんラモー先生も鼻の穴を膨らませながら激怒したとか、しないとか…。

そうなるとイタリア・オペラ擁護派は俄然形勢不利となる。「やべーよ、これ…」と思ったのかも。しかしそこへ協力な助っ人が現われた。その人の名はジャン=ジャック・ルソー(1712-78)。そう『エミール』『社会契約論』を著した啓蒙思想家である。侃々諤々の議論が行なわれるなか、翌年にルソーは『フランス音楽に関する書簡』を発表。これによりそれまでビビッていたイタリア・オペラ擁護派は元気百倍となり、さらに論争を続けることになる。

政治的には1754年にパリに来ていたイタリア喜劇一座を退去させることで国王派の勝利に終わった。しかしそれが結果的にはフランスにおける喜劇、つまりオペラ・コミックの発達につながってゆく。うーん、歴史は皮肉なものだ。

いやいや、ブフォン論争なんてここではどうでもよいこと。ラモーの音楽を紹介しなくちゃ。右に挙げたCDはいずれもブフォン論争以前に作曲された作品である。右上のは「クラヴサン曲集」で、ギルバート・ローランドがなかなか爽快な演奏をしている。レーベルは低価格でお馴染みのナクソスだからといってあなどってはいけない。むしろお買い得というべきだろう。

右下のはケネス・ワイスがラモーのオペラとバレエをクラヴサン用に編曲したもの。《ダルダニュス》《カストルとポリュクス》《ピグマリオン》《恋するインド》からそれぞれ数曲ずつセレクトして収録されている。これがまたドラマチックで聴き応え十分。

我が国におけるラモーの位置づけは、いうなればヘンデルのようなものだ。バロック音楽といえばすぐにJ.S.バッハかヴィヴァルディにばかり焦点が当てられがち。しかしラモーやヘンデルの豊かでドラマ性のある音楽はもっと評価され、演奏されるべきだと思う。
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