ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

M先生のこと

2010-01-25 04:07:05 | 回想する脳みそ
記憶は何かを呼び寄せるんでしょうか…。

前回、若い頃の話を書きました。そこで記した学校では大勢の先生に世話になったのですが、なかでもM先生の授業は常にスリリングで面白かった記憶があります。

もっとも、M先生の授業は音楽学習の入り口付近でウロウロしている我々には高度すぎるものでした。和声も対位法も大して身に付いてない学生にオーケストレーション(管弦楽法)の実習やらアーティキュレーションの課題などを容赦なく与えるのです。「わかりません」などと言おうものなら鋭い眼光が矢のように飛んできました。

また、ある時、ワシが授業の始まる前に教室のピアノで暗譜したばかりのシェーンベルクの《ピアノ組曲》op.25を弾いていたところを見られてしまいました。その直後の授業ではそれについて何も触れませんでした。ところがホッとしたのも束の間、後日ピアノを専攻する学生たちを前にした授業で、突然ワシが呼び出され

「じゃ、お前、あのシェーンベルクの曲、弾いて!」

と命令。今でこそこの作品は学生の間ではポピュラーになっていて、大して珍しいものじゃありません。しかし当時は違いました。この学校ではピアノを専攻していても多くの学生はシェーンベルクという作曲家の存在や、その作品などをナマで聴いたことがなかったのです。

それにワシの専攻はピアノじゃありません。そんな雰囲気の中で突然弾かされる身にもなってください。もうね、心臓バクバクですよ。

M先生がそうした「イヴェント」を思いついたのは、たぶんピアノの連中に耳慣れない音楽を聴かせて刺激を与えようとしたのだと思います。というのも、ワシが弾き終わると、「なに、あの曲」「へんなの」といった声があちこちから発せられたからです。

ワシに言わせれば「お前ら、専攻してるくせにこんな作品も知らんのか!」とその時にも思いましたからね。たぶん似たようなことをM先生も感じていたのだと思うんです。

そんなことを思い出しつつネットを見ていると思いもよらぬ情報に遭遇。なんとM先生が一昨年の暮れに亡くなっていたことを知りました。その学校を離れてからは全く音信不通だったので、まさに寝耳に水の状態。それに先生とはいえ、年齢はワシより少し上。教わっていた当時、M先生は大学院生でしたからね。

ちょっとショックです。

で、驚いたのは数日前にM先生を追悼する意味での作品展が都内の某ホールで行われていたこと。もちろんその演奏会のことは知らなかったので行くことができませんでした。でも数十年ぶりに今回ふと思い出したのは何かの知らせだったのかもしれません。それが冒頭の一文の意味です。

人は生きていく上で、いろいろな人から刺激を与えられ、それを栄養にして成長していくもの。M先生との付き合いはほんのわずかな時間でしたが、その時の「栄養」が今のワシには大いに役立っています。感謝しなければなあと思いますね。

ありがとうございました。
合掌
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プチ伝説

2010-01-24 04:42:49 | 回想する脳みそ
久しぶりに昔のことを書きたいと思います。若い頃、ワシはある学校の図書館に籠ってひたすら勉強していました。そしてそこに所蔵されている本も多数読んだ記憶があります。

その数年後のこと。その学校で世話になったA先生と呑むことに。当時の思い出などを肴に呑んでいると、先生は苦笑しながら話を切り出しました。

「実はね、あの学校のエライさんが君を専任講師にしろと言ってきたんだよ」
「はあ?」
「ほら、今度あの系列が経営する大学ができるだろ?」
「ああ、そうらしいですね」
「うん、それで君をそこの専任にしたらどうかと…」
「いやいや、それ、荒唐無稽な冗談でしょ?」
「そうだよな。でもエライさんは極めて真顔で提案してきてな」
「ありがたい話ではありますが、私はまだ学生ですよ」
「うん、僕もそうエライさんに言ったさ」
「で、エライさんはどう答えたのですか?」
「『あぁ、そうか…』でおしまい」

一体なぜエライさんがそんな突飛な思いつきをしたのでしょうか。どうやら理由があったようなのです。

つまり「あの図書館であれほど熱心に勉強していた学生は今までにいなかった。そしてそいつは図書館の蔵書をすべて読破した」というのがエライさんの耳にした情報だったのだそうです。もちろんこれには事実と違う情報が含まれています。

確かに勉強はしていましたが、熱心だったかどうかは自信がありません。時々居眠りをしてましたし。それに「蔵書をすべて読破した」というのは明らかにウソです。

このように事実と異なることがいつしか勝手に一人歩きを始め、ワシはついには「開校以来最も勉強した人間」とされてしまったわけです。そして、笑っちゃいますが、伝説上の人物として今でも語り継がれているとかいないとか。

もう一度書きますが、その伝説はかなり事実と違います。当事者本人が言うのですから間違いありません。

まあそうやって伝説というのは作られていくものなのかもしれません。事実をかなりデフォルメすることで虚像というものは作られるのでしょう。歴史においてはそうした虚像が人々を惑わすこともありました。

でもワシのケースなんて歴史上の伝説に比べたら本当に可愛いもんです。事実とは異なってはいますが、この伝説が後輩たちに何らかの目標となってもらえるのなら良しとしましょうか。
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社会的責任って何よ

2010-01-21 04:20:19 | 脳みその日常
素人が考えても変だなと思うのは今回のJAL再建の動きです。JALの存在は確かに国民にとって大切なのかもしれません。もし今の日本でJALがなくなってしまったら様々な影響が出ることでしょう。

そりゃ困るというわけで、政府は税金を投入して再建に乗り出しました。まあ、それは仕方のないことかもしれません。1日も早い黒字経営になって欲しいと思います。

ただ、ひっかかるのはこのような事態になったことで誰が責任を取るのかということです。上層部が辞任しましたが、それは実質的な責任を取ったわけじゃありません。いわば形式的なものです。実際、辞任したところで損失したお金が戻ってくることはないんですからね。

今回のことで税金が使われる以前に明確にされなければならないのは責任の所在ではないでしょうか。このような事態になった責任は誰によるもので、一体誰がその損失を埋めるための弁償をするのか。

リストラについての報道はされていますが、それは今後の立て直しをする上でのひとつの手段にすぎません。むしろ赤字になった原因が明確であるのなら、それを引き起こした人物が弁償するのが筋というものでしょう。

ところが、それについての報道は耳にしません。単にワシが知らないだけなのかもしれませんが。

組織が巨大になればなるほど責任の所在は不明瞭となり、その組織が社会的な影響があるからという理由ですぐに税金を投入するというのは果たして正しいのでしょうか。会社に損失を与えたのですから「犯人」にまずは弁償させ、それでも経営が滞るようであればはじめて税金を投入するというのが筋道なんじゃないでしょうかね。

これは今回のJALに限りません。例えば以前あれだけ騒がれた国民年金の問題だってそうです。年金のずさんな管理によって様々な問題が噴出しました。結果的にそれについて誰も責任が問われなかったと思います。いや、実際に「犯人」が特定されて損失金を全額弁償したなんて話は聞きません。

国民のひとりとして思うのは、「犯人」でもない我々がなぜ「犯人」の尻拭いをしなければならないのかということです。無実なのに弁償金の一端を担うなんて、どう考えてもおかしいじゃないですか。常識で考えても一連の税金投入は納得がいきません。そんな無茶苦茶な論理は一般社会ではありえませんもん。

今回のJAL問題でカネを貸していた銀行団体が怒っているのは当然。だって一方的に踏み倒しされるわけですから。もっとも、銀行という金貸しは個人的には好かんのですが、これに関しては同情します。

ダメになった企業は本来ゼロにすべきなんです。もしその企業の倒産によって社会的な影響があるのなら、その役割を同業他社に委ねるなどの方法はあるんじゃないでしょうかね。倒産した企業のシステムなどをタダ同然で与えればいいじゃないですか。数社ある同業他社に業務の分配をすればそれら他社だって利益があがるでしょうよ。事はそんな単純なものじゃないのかな。知りませんけど。

ともかく、政治家は税金の用途をもっと考えるべきだと思いますね。税金は国民から「預かったお金」なのであって、自分のお金じゃありません。そんなことは子供だって知ってることなのにね。


なんだかなぁ~。
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単に減らせばいいのか

2010-01-19 04:18:53 | 脳みその日常
昨日、数年前一緒に仕事をした編集者とランチをしました。互いに近況を話したのですが、やはり話題の中心は音楽業界のこと。この編集者はワシよりもかなり年下なのですが、編集の仕事ばかりでなく営業もこなす頑張り屋さん。そのため各レコード会社の現状を知っていました。今回は話題になったことを書きます。

昨今の景気の悪さはいうまでもありませんが、音楽業界とて例外ではありません。最近も某レコード会社が大量の人員削減を発表しましたね。つまりそれだけCDの売り上げが落ち込んでいるわけです。

そうなると当然こちらにも影響がでてきます。売り上げが伸びず企業としての体力がなくなってくれば新譜のリリースも減らさざるを得ません。となれば、ライナーノーツの仕事も当然減ります。

それはさておき、問題なのは企業による「リストラ」のやり方です。リストラとはそもそも再構築という意味ですね。今までの方法では企業として成長できないのでシステムや組織を見直すというのがもともとの意味だったはず。

ところが、リストラは組織を見直してよりよい環境にするのが主眼なはずなのに、いつの間にか社員の数を減らすことがメインになっているような気がします。確かに企業において人件費の占める割合は大きいでしょう。でも果たしてそれで会社は再生するのでしょうか。

退職に追い込まれた人も気の毒ではありますが、社内に残された人も実は「被害」を受けているんですね。なぜなら辞めた人が担当していた仕事をそっくりそのまま自分のところにくるからです。給料は保証されていても、これでは質の高い仕事はできません。むしろ商品のクオリティは下がります。

消費者はそうした変化には敏感なので、次第に購入しなくなります。こうなると、もう負のスパイラルの始まり。そのうちどうしようもない状況になるはずです。一体何のためのリストラだったのかという話ですよ。結果として全く意味のない人員削減ということになります。

売られているのは確かにCDという商品で、数値的に計算できるものではあります。でも、経営者が見落としているのはその中身がどういうものなのかということです。レコード会社は鍋や釜を売っているんじゃないんです。材料をプレスすれば出来上がりというわけにはいきません。

音楽業界は「モノ」を作る仕事なんですよね。「モノ」を作るには手間暇をかけないと完成しません。「こだわり」だって必要です。それなのにリストラによって一人当たりの仕事量が増やされる。もうね、「こだわり」どころの話じゃなくなってきますよ。ホントに。

ワシは社外の人間ですから、好き勝手なことが言えるのかもしれません。でもその一端を担う仕事をしている視点からすると年を追うごとに「テキトーな」商品が増えている気がします。こんな商品を作ってたらCDが売れなくなるのも当然かなと思ったりもしますね。

一体、今後どうなっていくんでしょうねえ…。困ったもんです。
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男 ←→ 女

2010-01-16 04:22:47 | 脳みその日常
年齢が進むとともに顔つきも変わっていく。そんなことは改めて言うまでもないことでしょう。ただ、面白いのはその変わり方です。人間には男と女しかいないわけですが、歳を取るにつれて人相はクロスするんですね。

どういうことかというと、男性はある年齢を境に女性的な顔つきになり、逆に女性は男性のような顔になるのです。たとえば、どうみてもオッチャンなのに、なんとなくオバチャンみたいな顔の人っているじゃないですか。逆も同じです。

これは何なんでしょうね。もともとが女性顔の男だったのか、もしくは男性顔の女だったのか…。まあ、なかにはそういう人もいるかもしれません。

でも、若い頃の写真などをみると当時はキリッとした男前だったのに、年を取ってからの写真ではオバチャンみたいな面影が垣間見えたりするんですから不思議です。中年になって太ってくるというのも原因なのかもしれません。

また、女性の場合もそうです。若い頃は可愛らしい顔だったのに中年にさしかかる頃から男みたいな表情がみられるようになります。これは凹凸のハッキリした、いわゆる派手めな顔つきの人ほどそういう傾向がありますね。

なぜそうなるのか、理由は知りません。もしかすると科学的な根拠があるのかもしれません。でも、そういう「現象」がみられるのは一体いつ頃からなんでしょうね。ことによると、その「現象」は老化の始まりを示しているのかもしれませんねえ…。

人間はかくも不思議な生き物です。
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ストレスに注意

2010-01-07 04:43:04 | 脳みその日常
もう先々月の話。うたの教室の生徒さんのひとりがガンと宣告されました。それも膵臓ガンで、すでに肝臓にもガンが転移しているとのこと。

ご存知のようにこのタイプのガンは発見された段階で末期であることがほとんど。なぜなら自覚症状がないからです。つまり身体の不調を感じたときにはすでに手遅れなのだとか。この生徒さんのケースもそれで、手術すらできない段階にまできているそうです。

その時の話では余命は長くて1年だとか。いや、残酷すぎますよ。だってもう死期がわかっちゃってるわけでしょ。もしかすると、死期はもっと早まることだってあるわけですし。

ただ、今のところ救いなのはまだ病人らしくないことです。痛みなどがないぶん、普通の生活を送っています。おまけにこの人はもともと底抜けに明るい性格で、今回の宣告の件にしても、

「もうね、余命1年なのよね~。あっはっはっ」

と、周囲があきれるほど。「ちょっ、ちょっと、笑ってる場合じゃないでしょ」と、こちらが心配になってしまうほどなんです。

おそらく実際のところは本人の中で相当の葛藤があるはずです。いや、あったと思います。でも暗い気分のまま周囲の人と接するのはよくないと思ったのでしょう。まわりの雰囲気も暗くなってしまうからです。

それにしてもですよ、そんな状況なのに自分の病気を笑い飛ばしているのは、見ているこちらが却って辛くなります。なぜそんなに元気なフリをするんだろうか、無理しなくていいのに…。

底抜けに明るいといっても、本当のところはそうじゃありません。この人についてはもう20年も前から知っているのでよくわかるのです。周囲のことを気遣うがゆえに敢えて明るく振る舞っているに違いありません。見方を変えれば、きっと弱い部分を見られたくないのだと思います。だから明るいフリをするのでしょう。

ワシは医学については全くの素人で、的外れな意見なのかもしれませんが、こういうのを見ているとストレスというものがガンを誘発しているのではないかと考えてしまいます。本来の自分ではない姿を相手に見せ続けるのがストレスになっていたのではないかと思えるのです。

もちろん不幸にしてガンに罹ってしまった人すべてがそれが原因というわけではないでしょう。ただ、ワシの周囲でガンで亡くなった人たちを思い出すと、多くの人がそれぞれに相当のストレスをためていたようにも思えるのです。もしかするとそうしたストレスがなかったら彼らはまだ生きられたのではないか…。

ですが、ストレスのない生活を送るなんて実際のところは不可能ですね。また全くストレスがないのも好ましくないといわれます。ならばどうすればよいのか。

月並みな言い方ですが、できるだけ自然体の保てる生活を送ればいいんじゃないかなと思います。無理をせず、虚勢を張らず、周囲のことは考慮しつつも自分らしさを失わないように務める。こんなところでしょうか。

まあ、そうはいってもいつ病魔に襲われるかわかりません。身体の健康ばかりでなく、心のケアも忘れないようにしたいものですね。
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ステップ・アップのヒント

2010-01-01 07:19:59 | 脳みその日常
新年、あけましておめでとうございます。今年もみなさんにとって良き一年でありますように!

さて、新年早々ちょっと説教臭い話を。若い人たちを見ていて思うのは、「伸びるヤツ」には一定の共通点があるということです。伸びるというのはもちろん頭角を現すという意味ですから、不断の努力をするのは伸びるための前提条件になります。

ところがダメな奴は努力すらしません。努力しないのですから知識に偏りが出てきます。いや、まだ偏りが出るくらいならマシなほう。基本的な知識もない奴がなかにはいますね。

困るのはそういうのに限って理屈っぽかったり自分の正当性ばかりを主張しがち。でも、もともと知識のストックが少ないので相手を説き伏せるまでには至りません。その段階で「ああ、自分は勉強が足りないなぁ」と気づけばまだ伸びる可能性はあります。

でも、相手を説き伏せられなかったことで勝手に不機嫌になったりするから始末に負えなくなる。なぜ自分の力のなさを認めないのでしょうか。謙虚になって相手に教えを請うなりすればいいのに…。この「壁」が乗り越えられない限り、そういう人は伸びません。

で、そういう輩は見ていて気の毒に思えてしまうので、時にこちらが相手に歩み寄ってみようとします。そうすれば会話が成立するかなと思うからです。これはあくまで相手への思いやりであって、相手へ譲歩しているのではないんです。

しかし、時にこの方法も徒労に終わります。こちらの歩み寄りを相手は自分の都合の良いように誤解するんですね。「相手は自分に屈服した」と。

なぜそんな誤解をするのでしょうか。誰しも若い時期にはありがちなのですが、「自分には未知なる可能性がある」とか「自分には優れた能力がある」と勝手に思い込んでしまうのです。もしかするとそうした可能性や能力があるのかもしれません。でも、そのほとんどは自分に対する過大評価であることが多いのです。

このように書くと「なんてバカな奴だ。どうして気づかないんだ?」と思うでしょう。でも、当の本人は渦中にいるわけですし、ともすれば自分には全能の力があるなんて思ってるわけですよ。

だからどんな相手に対しても尊大な態度をとります。相手に対して敬意を払うとか謙虚さをもつなんてことは、まずしません。だって自分がいわば「神」みたいな存在なんですからね。

このような人は一日も早く現実に気づいて欲しいと思うばかりです。そうでないと、伸びるどころか、独りよがりの世界に陥ってますます苦しむだけだからです。

まあ、人間は程度の差こそあれ、そうやって成長していくんですけどね。
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