ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

農業用ダムとしてはオシャレ!…松ヶ房ダム

2022-09-22 06:58:06 | 福島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は福島県相馬市山上松ヶ房(そうまし やまかみ まつがぼう)にある宇多川水系の松ヶ房ダムを訪れます。アクセスは国道115号沿いにある「松ヶ房ダム」の看板のあるT字路から入ってそのまま行くと左岸に到着します。途中「←ダム管理事務所」の看板のあるT字路を入っていくと右岸に辿り着くことができます。今回ワシは管理事務所のほうの道を行きました。

おー、見えてきました。これですね。



右岸の奥にあるこの建物が「松ヶ房ダム管理事務所」。





そこから見た景色。手前には立派な洪水吐が見えます。



「定礎」は昭和61年(1986年)11月。



右岸のダム横には松ヶ房ダムの案内板。ダム湖名は宇多川湖(うたがわこ)。湖名は宇多川を堰き止めてダムが築造されたのでそう命名されたのだと思います。「概要」によると農業用水確保のために築造されたダムで、その位置は福島県と宮城県にまたがっているそうな(ダムの管理は福島県)。



その隣には「豊潤成就」と刻まれた石碑。これは県営かんがい排水事業相馬地区竣工を記念して建立されたもので、



「事業概要」によると、この地区は阿武隈山系から流れ出る日下石川、宇多川、小泉川、地蔵川、三滝川の5つの河川が主な水源になっています。しかしながらこれらの河川は勾配が急で、かつ水量が乏しいため常に用水不足に悩まされてきました。それに対処するため江戸時代には220ものため池が作られたそうですが、老朽化が著しく深刻な問題となっていました。この地に松ヶ房ダムが築造されたのはそうした問題を解決するためで、県営かんがい排水事業はダムを建設するとともに相馬第二地区では頭首工と用水路を新設。これらはこの地域の農業振興のための中核的な基幹水利施設の役割を担っているようです。


石碑の裏側には「碑文」が書かれていて、松ヶ房ダム築造の詳細な経緯が記されています。利水ダムの建設計画は何度も持ち上がったものの、どの場所に築造するのかがなかなか決まらずそれ以上進展しなかったそうです。そして昭和53年(1978年)4月、ダム建設を求める運動が起こり、相馬市と新地町の合意のもと同年12月より福島県営かんがい排水事業として調査が始まります。宇多川を遡り、適地として選ばれたのが現在の場所で、地権者の理解のもとで築造が開始。かくして平成9年(1997年)5月30日に宇多川湖は満水となり松ヶ房ダムは完成に至ったのです。


では、ダム上を進みます。先ほども書いたように右岸側には洪水吐があります。増水すると水はここから溢れ出て、



この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



洪水吐の水路に架かる橋を渡った場所から見たダム上。実はこの場所から貯水側へ向かう道があり、その先には取水塔があるんです。これはちょっと珍しい設計かもしれませんね。たぶん。





ダム上を進みます。ダム上にある欄干の代わりとなる鎖。実物はなかなか太く、以前訪れた岐阜県の徳山ダムのダム上の鎖を彷彿させます。



ダム上、中央から見た宇多川湖の様子。写真左に見えるのが取水塔です。



一方、下流側の景色はこんな感じ。



ダム上、中央には福島県(右岸側)と宮城県(左岸側)の県境を表示するプレートが嵌め込まれています。福島県のプレートに描かれているネモトシャクナゲは福島県の県の花で、宮城県のそれに描かれているミヤギノハギも宮城県の県花です。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



車止めになっているコレ、右岸にもありましたがなんとも可愛らしい形をしています。



左岸、宇多川湖から見たダムの様子。



同、下流側から見ると、こんな感じ。




ちょいと気になったのはダム上。ご覧の通りダム上はなかなかオシャレなデザインになっていて、デザイナーのセンスを感じさせます。また、ダム上の中央はレンガ状の石が綺麗に敷き詰められていてカネをかけているのがわかるほど。ところが、その石があちこちで浮き上がっていて、ダム上を歩いているとちょっと不安になるんです。おそらく経年変化によりダム上の基礎が平らでなくなっているんじゃないでしょうか。



農業用のダムとしてはオシャレなダムだけに、その素敵な姿をキープし続けて欲しいなと思います。
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高の倉ダム(再訪2022)

2022-09-21 06:59:56 | 福島(ダム/堰堤)
えー、どーも、ワシです。今回からしばらく東北方面のダム関連施設を回ります。で、最初に訪れるのは福島県南相馬市原町区高倉細倉(みなみそうまし はらまちくたかのくら ほそくら)にある新田川水系の高の倉(たかのくら)ダムです。実はここ、昨年の12月に来たんですがその時は運悪く工事中でちゃんと見ることができなかったんです(参考)。というわけで今回再訪した次第。アクセス方法などはリンク先を参考にしてください。

まずは右岸から見た「勇姿」をご覧ください。やあやあ、こんなお顔でしたか。



…と、まあ、結果としてご対面することができたんですが、前回と同じく管理事務所のある左岸沿いの道を登ってくると、前回のような工事こそしていませんでしたが、なんと関係者以外立入禁止の表示が!





ダム下へ向かう道も同じように関係者以外立入禁止。ぬぁんと!



この時点では「嗚呼、またもや見ることができないのか…」と諦めムード。でも確か右岸からもアクセスできたことを思い出し、前回と同様に右岸へ移動することに。

右岸のダムへの入口に来ました。でもクルマで行けるのはここまで。ここからは歩いてダムへ向かいます。幸いなことに今回は立入禁止の看板がないのでダムまで辿り着けそう。希望の光が見えてきました。ちょっとウキウキしながらダムへ向かっていると…おおっ、あれか!



これが右岸から見たダム上です。早速歩いてみます。



ダム上、中央から見た貯水側の景色。



ダムの真下はこんな感じ。



そして下流側の遠景。



ダム上から左岸を見ると…あれが管理事務所でしょうか。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



左岸、貯水側から見たダムの様子。



近くには「高の倉ダムの概要」を表示した案内板と水利使用標識が並んでいます。







先ほどの建物はやはり管理事務所でした。でも「高ノ倉」と表示されていますね。



「定礎」は1972年11月。



管理事務所付近からダムを見ると、こんな感じ。



衝撃だったのはこれ。セメントでシールドされた壁面が崩れていたんです。なるほど、それで左岸からの道は立入禁止だったんですね。



土砂がもう少し多ければ埋もれていたかもしれない「高の倉ダム」の石碑。あれ?ここでは「ノ」じゃなくて「の」になってますね。



諸元が記されたプレート。「位置」の欄が「福島県原町市高の倉」になっていますが、原町市(はらまちし)は1954年から2006年まで存在した市で、同年に鹿島町(かしままち)、小高町(おだかまち)と合併して南相馬市になったのに伴いそれまでの原町市は南相馬市原町区になりました。


石碑の裏側を見ると、ダムの着工は1972年1月で、竣功は1976年3月と記されています。


再訪してダム全体を見ることができたのは良かったのですが、壁面の崩れを目の当たりにするとダムが築造される場所というのは厳しい自然と隣り合わせなんだなと改めて思い知らされます。
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北部地区の水源!…高柴調整池

2022-06-07 07:00:44 | 福島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は福島県郡山市西田町高柴(にしたまちたかしば)にある阿武隈川水系の高柴調整池を訪れます。アクセスは県道115号もしくは県道28号から入り、調整池下の道から上がって行くんですが、何せ曲がりどころの目印がないので文字で説明できません。とにかくその付近から調整池が見えるのでそれを目指してください。

右岸の、いわゆるダム横に来ると、こんな景色が見えます。



右岸には「高柴調整池の概要」が記された案内板があります。それによれば、この地域の農業は付近の小さな川から取水して耕作を行なってきましたが、慢性的な水不足に悩まされていたそうな。そこで農業生産性の向上と経営の安定化を図るために国営郡山東部地区総合農地開発事業が1979年から始められ、農地造成、区画整理、農業用用水排水施設の整備が2001年にかけて行なわれました。その事業の一環として築造されたのが高柴調整池で、その目的は北部地区(大田、高野)の農業用水の確保であり、以前記事にした三春ダムで溜めた水の一部をここに貯水し、同地区へ供給するのだそうです。というわけで、高柴調整池が完成したのは上に記した期間と思われます。



右岸にあるこの建物はなんでしょうか。



取水設備操作室だそうで。



取水設備の諸元が記されたプレート。設備は2001年3月製造とあるので高柴調整池は少なくともこの頃までには完成していたことがわかります。



右岸、下流側から見ると、こんな景色です。



右岸側には洪水吐があるんですが、ちょっと変わっています。増水すると、水はここから溢れ出るんですが、



通常よく見る排水路ではなく、写真中央に見える網のかかった穴(立孔)からトンネルを通って排水されるそうな。



で、これがいわゆるダム上になります。歩いてみましょう。



ダム上、中央から見た貯水側の景色です。



一方、下流側は、こんな感じ。向こうに見える道路が県道115号もしくは県道28号から入ってきた道です。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じです。



左岸、下流側から見た景色。



上の概要図を見るとわかりますが、郡山市の農業用水は三春ダムに依存しています。そして同ダムから水が高柴調整池へ送られ北部地区の農地へ供給され、同じく以前記事にした金沢調整池へ送られた水は南部地区の農地に向かうというわけですね。なるほど、勉強になりました。

ちなみに福島県には同名のダム(高柴ダム)がありますが、この高柴調整池とは全く関係がありません。そもそも命名の由来が違うんですから。
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騒動が発端…三ツ森ダム(溜池)

2022-06-06 06:54:29 | 福島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は福島県安達郡大玉村玉井(たまのい)にある阿武隈川水系の三ツ森(みつもり)ダムを訪れます。このダムは三ツ森溜池とも言い、ダム上へは近くを走る県道146号から行くのですが直接ダム上に行くことはできません。そこで地図を見ると県道からダムの下流へ向かう細道があり、そこを入って行くと当該ダムに到着します。

溜池が築造されるきっかけの多くは水利権に関係しています。ここも例外ではありませんでした。事の発端は大正13年(1924年)に起きた「鳴俣(なるまた)騒動」です。この地域にはもともと鳴俣堰(なるまたぜき)なる用水路があり、本宮町(もとみやまち)と大山村で水を分け合っていました。そして3日のうち1日は大山から本宮へ分水するという習慣になっていたそうな。

ところがこの年の夏は雨が降らず、本宮へ水が流れてこなかった。不審に思った本宮の農民らは鳴俣堰の取水口に押しかけ、実力行使で分水しようとします。これに激怒した大山村民は本宮の商店と取引をしない「不売買同盟」を結成。これが「鳴俣騒動」で、その後三回の調停会を経て解決に至ったようです。

その後、こうした事件が二度と起きないようにするため、昭和5年(1930年)に「安達太良(あだたら)普通水利組合」が結成されます。その対策として「安達郡本宮町外一ヶ村水利改良工事」が計画され、昭和7年(1932年)7月に着工。昭和14年(1939年)6月に完成し「三ツ森溜池」と命名されたそうな。(参考)(参考

そんな歴史を背負っているのが、この三ツ森ダム(三ツ森溜池)なんですね。



これがダム上なんですが、ご覧の通り先へ行くことはできません。監視カメラが設置されていて、下手に侵入すれば警察へ通報されるそうなので…。





仕方がないので、左岸からダムの下流側の景色を撮ってみました。



同じく、左岸から貯水側を見ると、こんな感じです。



左岸側には色鮮やかな鳥居が…。



基本的に溜池なので、特に見るところはありません。でも築造の経緯を知るとダムも違った景色に見えてくるから不思議ですね。
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過酷な環境だけに…岳ダム

2022-06-05 07:05:33 | 福島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は福島県二本松市岳温泉(だけおんせん)にある阿武隈川水系の岳ダムを訪れます。アクセスは県道30号沿いにある「あだたら高原」の看板のあるところを入り、すぐ左折して行くと到着します。

地名になっている岳温泉は非常に長い歴史があり、平安時代に編纂された『日本三代実録』(901年)には既に863年にはこの温泉が京の人々に知られていたことが記されています。当時の名称は小結温泉で、その後名称は「陽日(ゆい)温泉」「十文字温泉」「深堀温泉」と変わります。そして現在の「岳温泉」という名称になるのは1903年のこと。その長い年月の間にこの温泉には火災や土砂崩れが何度となく起こったものの、その都度息を吹き返して現在に至っています。(参考

そんな場所に築造されたのが岳ダムです。まずはダム下から見た「ご尊顔」をご覧ください。



順を追って見ていきましょう。県道から下りてくると、ダムの手前には「岳ダム案内図」があります。年月が経っているせいか、だいぶ文字がかすれています。それでも1971年4月にダム工事が開始され、1980年3月に竣工したというのが読み取れます。



さらにダムへ近づくと、そこには岳ダム管理事務所の建物があります。





そこからダムを見ると、こんな感じ。



ダム横へ行くには管理事務所を横目に見ながら進みます。これがダム上なんですが、ご覧の通りロープが張ってあってダム上に行ってはいけない雰囲気。



そんなわけで、ダム横から貯水側を眺めてみます。(下流側は写真を撮り忘れました。てへ)



ダム上に行けなくて、なんとなくモヤモヤした気分だったので先ほどの案内板のところに戻り、今度はダム下へ行ってみました。そこには「岳ダム」と刻まれた石碑が。これ、そういうデザインなのか風化して欠けてしまったのかわかりませんが、とにかくこんな形をしています。



ダム下にも先ほど見たのと同じ案内図があります。でも、こちらはほとんど読めません。



上にも書いたように、この地域は災害が起こりやすい環境にあります。そんな過酷な場所に築造された岳ダム。写真は撮り忘れましたが、ダム下への道はコンクリートがかなり風化していて自然の脅威を感じました。
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行けぬ!…六郎沼ダム

2022-06-04 06:57:39 | 福島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は福島県福島市平石六郎(ひらいしろくろう)にある阿武隈川水系の六郎沼ダムを訪れます。アクセスは県道148号沿いにある「エス・エム・ケイ」の看板近くのT字路を入って行くと到着します。

それにしても、ここの住所「平石六郎」って、なんだか人の名前みたいですね。もっとも、そのように繋げるからそう見えるだけで、実際には平石という地区にある六郎という場所のようです。ちなみに、少し離れた場所には「平石八郎」という住所もあります。でも「七郎」はありません。なんでだろう〜、なんでだろう〜。

この事実を知ったのは帰宅してからのことで、当該ダムに行くまでは「ダム名は、きっと昔●●六郎という人がいて、その人がこの沼を作ったのでそれにちなんで命名されたのだろう」と勝手に思い込んでいました。でも、どうやらそうではなく、六郎という場所にある沼だから「六郎沼」と呼ばれているようです。ホントのところは知りませんけどね。

…と、まあ、そんなわけで六郎沼ダムの入口に到着したんですが、入口にはなんと「関係者以外立入禁止」の表示が!



万事休す。

ま、こんなことはよくあるので気にしません。次のダムへ向かいます。
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歌もあって、いいの…蓬莱(発電所取水)ダム

2022-06-03 06:58:54 | 福島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は福島県福島市飯野町(いいのまち)にある阿武隈川水系の蓬莱(ほうらい)ダムを訪れます。アクセスは阿武隈川を渡る県道39号から飯野堰堤公園方面へ行き、阿武隈川の右岸の道を進んで行くと到着します。

右岸の道を進んでいく途中、蓬莱ダムの「ご尊顔」を見ることができます。



右岸のダム横近くまで来ました。年季の入ったダムという感じですね。



右岸のダム横には「飯野堰堤公園」と刻まれた石碑があります。飯野堰堤は蓬莱ダムの別名。じゃあ、なぜ蓬莱ダムと呼ばれるのかはあとで説明します。



公園とはいうものの、石碑の周辺はこんなスペースしかありません。どこが公園やねん!と思いますが、実は道路を挟んだダムの反対側に「飯野堰堤公園」はあるんです。石碑を建てる場所を考えたら良いのにと思いますが、たぶん石碑建立当時、ここはもっと広く、公園だったんでしょうね。



そして、ダム横から見ると、こんな感じ。写真左側が阿武隈川の上流ですが、そこには取水設備があります。



この取水設備から分水した水は3日前に記事にした入川補助調整池へ流れ込み、最終的には蓬莱発電所へ向かうというわけです。だから蓬莱ダムという名称はおそらく構造的には「蓬莱発電所取水ダム」が正しいように思われます。



近くには水利使用標識があります。「取水量」の項目に蓬莱発電所と書かれていますね。これは上の説明を立証するものですが、同じ欄に飯野発電所という記載が見られます。これは上の写真の取水設備の隣に2014年に建設された発電所で、その取水設備を通る水量を利用して発電しているようです。(参考



飯野ダムの案内板。竣工は昭和13年(1938年)12月1日とあります。「所在地」には伊達郡飯野町とありますが、この住所表記は1955年1月1日から2008年6月30日までのもので、翌7月1日からは福島市に編入合併して上に書いたように福島市飯野町となっています。



右岸、上流側からダムを見ると、こんな感じ。



飯野堰堤公園は1978年に「新観光福島三十景」のひとつに選ばれています。新観光福島三十景とは福島民報社が主催し、福島県民のハガキ投票により新時代に相応しい観光名所を選定したもの。じゃあ、残りはどこなのかと調べましたが、いくつかはヒットしたものの一覧表のようなものは見当たらず。また、同公園は福島民友新聞社創刊100周年記念さくら企画として「花見どころ10選」にも選ばれていますが、これも一覧表らしきものはありませんでした。う〜ん、なんだかなぁ。



なんと!このダムには歌があるんですね。題して「飯野堰堤小唄」。作詞・作曲は飯久保正克。同氏は地元の学校歯科医で、1986年には勲五等瑞宝章を叙勲されています。(参考



「飯野堰堤小唄」は地元の盆踊りなどでも歌われているようですね。なんともほのぼのしています。
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係争事件の末に…山ノ入ダム

2022-06-02 06:55:15 | 福島(ダム/堰堤)
日々の食料の買い出しは深夜営業のスーパーに行きます。そこに新年度になってから入った学生と思しきお嬢ちゃんが働いています。時々レジで見かけるのですが、勤務態度がとにかく初々しい。ハキハキした大きな声で、

「いらっしゃいませ!」「ありがとうございます!」「またお越しくださいませ!」

往々にして深夜働く店員は暗かったり不遜な態度を取る奴が多いんですが、そうしたなかでこのお嬢ちゃんはとびきり元気。好感が持てます。こういう子はホント頑張って欲しいなと思ったり…。


あ、どーも、ワシです。えー、今回は福島県二本松市渋川八王子にある阿武隈川水系の山ノ入(やまのいり)ダムを訪れます。アクセスは県道354号の「山ノ入ダム」の看板のあるT字路を入り、払川を渡り登っていくとまたまた「山ノ入ダム」の看板があるのでそこを入っていくと到着します。

まずは左岸から見た山ノ入ダムの「横顔」です。



上に書いたルートで来るとダムの左岸に来るのですが、最初に目にするのが「山ノ入ダム管理事務所」の建物。グーグル先生の地図やダム便覧では「山の入ダム」と表記されているんですが、ご覧の通り現場の表記と異なっています。なぜなんでしょうねえ。当ブログは現場優先なので「山ノ入ダム」と表記することにします。





管理事務所の壁には水利使用標識が貼られています。灌漑を目的とするダムなんですね。



そこから見た貯水湖の様子。



事務所の近くには「水豊人樂」と刻まれた石碑があります。「水、豊かなれば、人、楽(らく)なり」といった意味ですかね。調べてみましたが出典は不明。でも同じ文言の石碑が山口県萩市にある山の口ダムにもあるようです(参考)。ということは何かの書物に「水豊人樂」と記されているのかもしれません。出典をご存知の方がいらっしゃれば教えてくださいね。



石碑の裏側には山ノ入ダムの築造の経緯が記されています。要約すると次の通り。

この地域には多くの川があるが、その川の水を人々は長年にわたり農業用水として依存してきた。しかし灌漑期になると水は不足気味になり、旱魃が続くと農業用水のみならず飲料水にも影響を及ぼしてきた。こうした状況に対し、江戸時代初期には阿部金三郎(参考)と吉倉村の名主である鈴木庄左衛門(参考)が私財を投げ打ち努力の末に12年かけて用水路を建設。それは今日もなお多くの農地に用水を供給する役割を果たしている。


ところが、昭和31年(1956年)に北清水の係争事件が発生。これは年水と呼ばれる地下水の分水を巡って安達町と二本松市が水利権を争い、両地域の農家ばかりか住民をも巻き込む事件となった。その後昭和35年(1960年)に福島県知事の調停により和解が成立。これをきっかけに水問題対策への関心が高まる。そして昭和59年(1984年)に県営かんがい排水事業安達地区として山ノ入ダムの築造に着手し、平成16年(2004年)、ついに完成した。



ダム湖名は「あだち湖」で、歌まで作られています。しかも4番まである!



「山ノ入ダムの役割」を示す図。上に書いた築造を経緯を知っていると「なるほど、係争事件はこうして解決したんだな」とわかりますね。



「山ノ入ダム」概要。諸元表のところにダムの位置が「福島県安達郡安達町渋川地内」とありますが、この住所は2005年11月末日までのものです。安達町は1960年2月1日から2005年11月末日まで存在した町で、翌日から同郡岩代町(いわしろまち)、同郡東和町とともに二本松市に新設合併したため、現在の「山ノ入ダム」の住所は上に記したようになっています。



その概要図付近からダム上を見ると、こんな感じ。



これがダム上です。歩いてみましょう。



左岸側には越流式の洪水吐があり、増水すると、水はここから溢れ出て、



この水路を通って、あちらへ流れてゆきます。



ダム上、中央から見た「あだち湖」の様子。



一方、下流側の景色は、こんな感じ。



対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じです。



右岸、「あだち湖」側から見たダムの様子。



同、下流側からダム上を見ると、こんな感じ。



ダム築造の経緯がわかると、そこから色々と興味が湧いてきますね。係争事件についてもっと調べてみようとか、初めて目にする名称の頭首工に行ってみようとか…。そうして知識は増えていくんですなあ。ちなみに「山ノ入ダム」の名称はそこを流れる山ノ入川に由来しますが、山ノ入の由来に関しては調べてもわかりませんでした。
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水を溜めな、いがんべ…岩部溜池

2022-06-01 06:57:15 | 福島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は福島県相馬郡飯館村飯樋字岩部(そうまぐんいいたてむらいいといあざがんべ)にある新田川水系の岩部溜池を訪れます。アクセスは国道114号から県道62号に入り、「親と子の会話でなくそう青少年非行」の看板のある交差点を左折し進んでいくと到着します。

これですね。アースダムのようです。



右岸には「岩部溜池竣功記念碑」が建てられています。



その裏には色々書いてあるようですが風化が激しく、読めない部分が多数。ただし、昭和35年(1960年)1月に岩部ダム促進協議会発足し、昭和37年(1962年)夏に完成したというのは読めました。



そこからダム上を見ると、こんな感じ。



では、ダム上を歩いてみることにします。ダム上は地域の生活道路になっていて、道幅は狭いですが、利用者は譲り合いながら交互にダム上を通っていました。



右岸側には立派な洪水吐があります。





そして増水時になると水は越流式の洪水吐から溢れ出てこの水路を通ってあちらへ流れ、飯樋川へ合流します。



ダム上、中央から見た貯水側の景色。



そして下流側は、こんな感じ。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じです。



左岸、下流側から見た景色。



ダム便覧を見ると、表記は「岩部ダム」となっていますが、ここでは記念碑の表記を尊重して「岩部溜池」とします。なお、地名の「飯樋」は池の水を田畑に送るための設備という意味で、その名称は古くからあり、鎌倉時代の文書には「飯土江」「飯土居」と表記されていたようです。(参考
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山の向こうのための…入川補助調整池

2022-05-31 12:08:36 | 福島(ダム/堰堤)
月末は原稿の締め切りがあってブログにまで手が回りませんでした。すみません。

…というわけで、どーも、ワシです。今回は福島県福島市立子山板敷(たつごやまいたしき)にある阿武隈川水系の入川(いりがわ)補助調整池を訪れます。アクセスは県道306号(大沢広表線:おおさわひろおもてせん)から入ったところにあります。

これが左岸から見た「ご尊顔」です。



この看板に書かれてあるように、この調整池は入川にあるので入川補助調整池と呼ぶのですが、実際には調整池の西側にある阿武隈川に面したところに建てられている蓬莱発電所のための補助調整池なんですね。蓬莱発電所は阿武隈川のもっと上流にある蓬莱ダムから主に取水して発電しているのですが、今回の調整池はまさに補助的な役割を果たしているようです。蓬莱発電所及び蓬莱ダムの運用開始が1938年12月なので、この補助調整池ダムも同時期に築造されたものとみて良いと思います。(参考



調整池の上流側からダムを見ると、こんな感じ。写真の右端に見切れているのが取水設備で、



この取水設備の下にある取水口から導水された水が山の向こうにある蓬莱発電所へ送られる仕組みらしい。





調整池の左岸の上流へ少し行ったところには大きな「殉職碑」があります。



これは昭和14年(1939年)3月に建立されたとあり、



なんと56人もの作業員がダムの建設中に命を落としたようです。合掌。



当該調整池は東北電力が管理しているためかダム敷地内に立ち入ることはできません。なのでお伝えできるのはこれだけ。ちょいと消化不良です。
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またもや…信夫ダム

2022-05-28 06:53:49 | 福島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は福島県福島市渡利片倉(わたりかたくら)にある阿武隈川水系の信夫(しのぶ)ダムに向かいます。アクセスは国道4号の「黒岩」交差点を南向台方向へ曲がり、阿武隈川を渡った所の信号を右折。そのまま阿武隈川に沿って走ります。そして福島交通のバス停があるところを斜め右の細い道をしばらく走ると到着…。

…のはずなんですが、昨日記事にした大笹生ダムと同様に「通さねーよ!」と断られてしまいました。



なんでぇ、なんでぇ、行けんのかーい! さすがに二箇所連続で拒否されると凹みますねえ。

まあ、それはさておき、信夫ダムの名称について考えてみました。なぜこの名称になったのか。調べてみましたが、この付近には「信夫」という地名はありません。当該ダムのすぐ下流に、やはり信夫という名称のついた東北電力の「信夫発電所」があります。当該ダムはそこで発電するための取水ダムなので両者はセットと考えられます。それにしてもなぜ信夫という名称になったのか…。

改めて地図を見ると、当該ダムから直線距離にして北北西へ約6.7kmのところ、つまり福島市役所のすぐ北に標高275mの「信夫山」というのがあるのを見つけました。山とは言いながら実際には周囲を見渡すことができる丘で、平安時代には「信夫山」は歌枕として詠まれ、また鎌倉時代からは金鉱の採掘が行なわれ、さらに信仰の対象でもあったそうな。

そんな由緒ある信夫山だから当該ダムもその発電所にも信夫という名称が付けられたのかもしれません。もちろん、それはあくまでワシの想像ですが。

ささ、次のダムを目指すぞ〜!
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いつになったら…大笹生ダム

2022-05-27 06:53:06 | 福島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は福島県福島市大笹生笹ノ口(おおざそうささのくち)にある阿武隈川水系の大笹生ダムを目指します。アクセスは東北中央自動車道の福島大笹生インターチェンジを下りると県道5号に出るのでそれを左折し、次に県道312号を右折します。そして広域農道を米沢方面へ。

しばらく進むと、「←大笹生ダム」の看板が道路の右側にあるので、そこを斜めに左へ入って行くと到着…。



…のはずなんですが、なんと「関係者以外の立ち入りを禁じます」とな! ぐはっ。



どうやらダムの水管理システムの更新をしているらしいんですが、





その工事が終わってもダムへは行けないようです。というのも、ストリートビューを見る限り2014年以降現在まで「関係者以外の立ち入りを禁じます」の看板はそのままなので、どうやっても一般の人はその道を進むことができないようなんです。

というわけで、今回のチャレンジはこれにて終了! がっかりちゃん。
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ハートと自然!…半田沼ダム

2022-05-26 17:52:31 | 福島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は福島県伊達郡桑折町南半田(だてぐんこおりまちみなみはんだ)にある阿武隈川水系の半田沼ダムを訪れます。同ダムは半田沼自然公園の中にあるので、アクセスはリンク先の地図を参考にしてください。

さて、例によって地名が気になったので調べてみました。

【郡山そして桑折の由来】(参考)(参考)   
奈良時代の701年に「大宝律令」が制定され、地方行政の仕組みが国郡里制となります(その後715年には「国郡郷制」に変更)。そして国には国府(こくふ)、郡には郡衙(ぐんが)と呼ばれる役所が置かれ、国府には中央の上級役人が国司として派遣され、郡衙では地元の有力豪族が実権を握っていました。この地域、すなわち現在の福島県と宮城県、岩手県、青森県が「陸奥国(むつのくに)」と呼ばれ、陸奥国府は現在の宮城県多賀城市に設置。また、現在の郡山市、田村市、田村郡、安達郡が「安積郡(あさかぐん)」という区分だったようです。その安積郡衙(今でいう県庁みたいな役所)が置かれたあたり(現在の郡山市清水台)の地名が郡山(こおりやま)で、それが現在の郡山の起こりとなったようです。

桑折(こおり)の名称もそれに由来するようですが、地理的には安積郡衙とはだいぶ離れています。それに同じ読み方でありながら「郡」がなぜ「桑折」に変わったのか、どうも説得力に欠けます。で、別の説によると現在の桑折は昔は桑島(くわしま)と呼ばれていたが、阿武隈川の氾濫を避けるために諏訪明神の神託により桑折(くわおり)に改称したというもの。そして読み方も「くわおり」が音韻変化して「こおり」になったそうな。うーん、まだこちらの説のほうが説得力がある気がしますね。

半田沼に戻りましょう。まずはその景色をご覧ください。



でも、いきなりこんな景色は見えません。先にも書いたように半田沼は半田山自然公園内にあるので、



クルマは「桑折町半田山管理センター」の駐車場に停めて、そこから歩いて行きます。







管理センター前の駐車場。斜面に「半田山自然公園」と刈り込みたかったのでしょうが、実際には「半田山自……」とフェードアウトしています。おいおい、最後まで頑張れって(笑)



さて、おめあての半田沼に向かいます。通路にはこんな看板が!文言にセンスを感じませんか? まるで糸井重里みたいなキャッチコピー。





こんな道を進んでいきます。新緑が眩しい。



しばらく歩いて行くと右岸に到着します。これがダム上。



右岸側には洪水吐があります。越流式ですね。





そして、増水すると水はこの水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



では、ダム上を歩きます。その中央から半田沼を見ると、こんな感じ。



半田沼の水は農業用水として使われているようです。



対岸(左岸)に来ました。といっても、あっという間の距離ですけどね。



下流側には「恵潤民」と題された石碑があります。これは半田新沼湖面低下工事記念碑(昭和29年建立)で、そこに記されている内容を要約するとこんなことが書いてあります。

半田村を始め伊達崎村、坂村桑折町等の水田は年々旱害を被り水不足のため米の減収は甚だしかった。殊に太平洋戦争の開始以来米穀の需要は急激に増加しその増産を期待されながらも水不足のため増収も増反も行ない得ない状態であった。ここにおいて半田新沼湖面低下による水源確保のことが論議され、昭和19年4月当時の村長奥山実之助氏等が率先奔走して湖面低下の調査方(ママ)を県に申請し、同21年漸くその調査に着手した結果県営事業として採択が下り、同22年2月より工事に着手。時恰(あたか)も終戦後の資材不足のためその調達を始め電力事情等も極めて悪く事業担当者の労苦は言語に絶するものがあった。しかし村長寺島智宏氏の陣頭指揮による奮闘と受益者の熱意と工事担当者の撓(たわ)まざる努力はこれらの悪条件見事に克服し昭和25年(1950年)11月三年有余の歳月を経て完成を見た。



…ということは、半田沼は昭和19年以前にはすでに存在していたことになります。そして湖面が低下してリニューアル工事を行なったのでその名称は「半田新沼」と刻まれているのかもしれませんね。一応案内板の名称は「半田沼」なのでそれに従います。

半田沼のことを色々調べていたら、興味深い記事をみつけました。標高863mある半田山山頂付近から半田沼を見るとハート形になっているというんです。ただし、これが見られるのは農閑期である11月から翌年の5月までだそうな。上にも書いたように半田沼の水は農業用水として使用されるので農閑期の水を使用しない時期だと半田沼の水位が上がり、こんな風に見えるんだとか。へぇ〜、ハートレイク。偶然にできたとはいえオシャレやん!(参考
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大洪水吐と六郎太…摺上川ダム

2022-05-25 06:57:09 | 福島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は福島県福島市飯坂町茂庭(いいざかまちもにわ)にある阿武隈川水系の摺上川(すりかみがわ)ダムを訪れます。アクセスは国道399号を走っていくと目的地の左岸に到着します。

摺上川の下流から国道を上っていくと…おおっ、あれですね。



国道をそのまま進んでいくと摺上川ダム管理所の建物が見えてきます。





管理所からダム方向へ目をやると、巨大な洪水吐が否応なしに眼前に広がります。越流式ですが、低水位時にもこのスリットのようなところから排水されます。



そしてダム横のほうへ目を向けると、こんな感じ。ここの洪水吐がいかに大きいかがわかりますね。



洪水吐とダムとの位置関係。



さらにダム横に近づくと、こんなブロンズ像が。「六郎太少年像」と記されています。作者の笹戸千津子(ささどちづこ:1948- )は山口県出身の彫刻家で、東京造形大学美術学科の第一回卒業生。





六郎太少年像は1951年1月から翌年3月まで放送されたNHKのラジオドラマ「さくらんぼ大将」の主人公である六郎太をモチーフとしたもの。その舞台がここ茂庭地区だったことに由来するそうな(参考)。



そこから洪水吐を見ると、こんな感じ。奥行きがあるのがわかりますね。(しつこい?)



同じ場所から今度は下流側を眺めます。写真から分かるように、摺上川ダムの洪水吐の水路に架かる橋は2つあります。これは珍しいかもしれません。



摺上川ダムは平成17年度に全日本建設技術協会による全建賞、そしてダム工学会による技術賞をそれぞれ受賞しています。





では、ダム上を歩いてみることにしましょう。対岸が見えないほど長い!



ダム上、中央から見た貯水湖の様子。写真右端に見えるのは取水塔ですが、



その連絡通路が吊橋になっているのは初めて見ました。



湖面を見ると水の流れがあるのがわかりますね。



一方、下流側の景色は、こんな感じ。良き眺めです!



左岸、下流側に見える謎の物体…。



ズームしてみます。通信用のアンテナでしょうか。



対岸(右岸)に来ました。振り返ると…うん、やっぱり長い!



近くには「水域通航規制」なる看板が。これを見るとダム湖名は「茂庭っ湖」だそうです。



その付近から見たダム上の様子。



右岸からはダム下へ降りるための階段があります。もちろん降りませんでしたけどね。



右岸、下流側から見たダムの様子。



左岸に戻ってきました。先ほど書いた洪水吐の水路に架かる2つの橋の、今度は下流側から見た様子です。



その橋を渡って国道側に来ると「摺上川ダム」と刻まれた石碑があり、裏側には平成17年(2005年)9月竣工と記されています。





そこから管理所を見ると「摺上川ダム インフォメーションセンター」の文字が。なるほど、管理所の建物に併設されているんですね。



ダム築造の経緯などはインフォメーションセンターに行けば分かったのかもしれません。でも、訪れたのは早朝の開館前なのでもちろん開いていません。ただし、一番上のリンク先には摺上川ダムに関しての様々な情報が載っているので参考にされると良いでしょう。
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花かつみに想いを馳せる…金沢調整池

2022-05-24 06:59:13 | 福島(ダム/堰堤)
いや、どーも、ワシです。今回は福島県郡山市田村町金沢(たむらまちかねざわ)にある阿武隈川水系の金沢調整池を訪れます。アクセスは国道49号沿いにある郡山市立守山小学校近くのT字路を入り、しばらく行くと郡山東部広域農道の交差点があるので高倉方向へ。そのまま進み、道路沿いの「金沢」と記されたミラーのあるT字路を右折して道なりに行くと目的地の右岸に到着します。

まずはダム下から見た「ご尊顔」をご覧ください。こうして見ると風貌は調整池というより治水ダムですね。



右岸のダム横に向かいます。坂を登って最初に目にするのが郡山市東部土地改良区の建物。





国営郡山東部竣工記念碑の石碑。石碑には東部地区総合農地開発事業の経緯が記されています。その内容を要約すると次の通り。

1958年と1969年に発生した大旱魃をきっかけに三春ダムの築造計画が進められるなか、東北自動車道も開通したことにより食料供給地帯として地理的有利性が高まり、早期の開発が期待された。そこで農業生産性の向上と安定した農業経営実現のため国営郡山東部地区総合農地開発事業が1959年に着手。これにより金沢調整池および高柴調整池の築造をはじめ、農地造成や区画整理、さらには用水路の整備などが行なわれた。

石碑には平成14年(2002年)2月とあるので同開発事業はその頃に完了したと思われます。



そして近くには金沢調整池の概要を説明した案内板。これによると同調整池は南部地区(高倉、谷田川、下枝)の農業用水を確保するため三春ダムから取水し貯留する目的で築造されたものだそうです。なるほど、だからダムというより調整池という名称なんですね。



とはいっても、ご覧の通り、見た目は完全にダム。右岸の下流側から見ると、こんな感じ。



また貯水側から見ても、やはりダムにしか見えません。



いわゆるダム上の親柱に相当する場所には2001年3月竣工とあり、金沢調整池はこの頃に完成したと思われます。その上には「花かつみ」と記された図版。「花かつみ」は学名をヒメシャガと言い、古くは905年に編纂された『古今和歌集』の<恋四・六七七>によみ人知らずの作品として「みちのくのあさかのぬまのはなかつみかつみるひとにこひやわたらむ」として登場しています。

さらに松尾芭蕉(1644-1694)は1689年に弟子の河合曾良(かわいそら:1649-1710)とともに安積山(あさかやま)ー現在の郡山盆地と猪苗代湖の間に位置する額取山(ひたいとりやま:標高1,009m)ーを訪れ、幻の花とされた「花かつみ」を探し歩いたことが『奥の細道』(1702年刊)に記されています。その「花かつみ」は1974年に郡山市の花に制定され、この親柱に描かれているというわけですね。(参考



さて、これがダム上になります。歩いてみましょう。



ダム上、中央から見た調整池の様子。



ダムの真下は、こんな感じ。



そして下流側の遠景。



ダム上の欄干には「カッコウ」と「山桜」という二種類の図版が貼られています。「カッコウ」は郡山市の鳥で、「山桜」は郡山市の木なのだそうです。(参考





対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



左岸の調整池側から見た様子。



一方、下流側から見ると、こんな感じです。うん、やはり見た目はダムですね。



「花かつみ」については全く知らなかったので、良い勉強になりました。
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