ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

いまごろ入金

2005-09-30 06:45:08 | 脳みその日常
音楽業界の原稿依頼なんて昔から「口約束」と相場は決まっている。近年ではファックスやメールで依頼されることもあるが、それは「依頼状」にすぎない。一般社会においてカネが絡むケースでは必ずといって契約書を交わすものだが、この業界では皆無。少なくともワシが原稿を書くにあたって契約書を目にしたことは一度もない。恐ろしい業界である。

そんないい加減な業界なので、詐欺行為に遭うなんて珍しいことじゃない。つまり約束通り原稿を送ったのに原稿料を支払ってもらえないのだ。長いこと文筆業をしていると、契約書に署名することはないが、詐欺にはしばしば遭遇する。口約束を信じたほうが悪いと言われればそれまでである。でもウチの業界は口約束が慣例なんだもん。相手を信じるしかないのだ。

これまでワシが受けた最大の被害額は単発原稿で13万円という記録がある。もう15年近く前の話だ。もちろん何度も請求はした。しかし相手方はダンマリを決め込んだまま。裁判を起こせないことはないが、面倒なのでやらない。というより、ワシに相手を見る目がなかったと考え、被害額については「授業料」を払ったと思うようにしている。だが、殊勝な決意をしても「悪魔」は次から次へと現われる。どこにでも「悪魔」はいるのである!

だからトータルにしてワシが被った未払いの原稿料なんて相当な金額になると思う。まあ、俗に「ダマすよりダマされろ」という言葉があるくらいだから、ワシも素直にそれに従うようにしている。だって、他人をダマしてまでカネが欲しいとは思わんからね。

色々な意味でダマされることに慣れっこになっているので、過去に受けた詐欺行為については忘れることにしている。いや、忘れちゃうんだけど(苦笑) そんななか、昨日驚くことがあった。ナント、8年も前の原稿料が現金書留で送られてきたのだ!

実は少し前に「お支払いしたいので、どーたらこーたら」というメールが来ていた。だが、とっくに諦めていたカネなので「今さら支払わなくていいよ」と断っておいたのに…。きっと良心の呵責に耐えかねて支払を決意したんだろうな。いや、夜ごと悪夢にうなされ続け、もう発狂しそうになり、「こ、これはアイツの呪いかもしれん…」と思ったのかどーか。本当のところはわからんけど。

もちろんワシはそんな悪意に満ちたことはしない。いや、できない。繰り返すが、そんな前のことは忘れちゃうから呪いようがない。でも、なんなんだろうねえ、今さら支払うなんて…。

まあ、いいや。臨時収入ということでパーッと使っちまおう。よぉーし、今夜は宴会だ! ワッハッハッ。
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片っ端からやっつけよう

2005-09-29 04:16:00 | 脳みその日常
昨晩も演奏会に行く予定だったが、ちょっと元気がないのと原稿の準備のためキャンセル。誰でもそうだろうが、予定通り事が運ばないと凹むものだ。気持ちはあるのだが身体がついて来ない。いかん、いかん。

とあるパンフレットのための原稿締め切りがもうすぐなのに試聴用のCDがまだ揃わない。どうするんだよ、オイ!…と、思っていたら昨日残りの分が届く。やれやれ、これについてもう心配することはなくなった。ひと安心である。

たまっているストレスは片っ端から解消するのがよい。複数あるストレスを一気に消そうなんて考えると余計にストレスがたまるものだ。これはどんな仕事にも通じること。目の前にそびえ立つ対象にビビったらその時点で気持ちが負けている証拠。山のようにある課題などは少しずつ片付けていけばよい。ストレスはベクトルの向きが違うだけで、片付けなければならないものという意味では同じなのだ。

と、偉そうなことを言いながら、ワシにはまだ仕上げなければならない原稿が残っている。なんとかせねば…。そんな状態なのに都内をフラフラとクルージングするワシ。タバコを買いに出掛けたはずが、うっかり70kmも走ってしまった。なんて遠いタバコ屋なのだろう(苦笑)
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音楽まみれの1日

2005-09-28 08:11:44 | 音楽あれこれ
昨日は講義の日。受講者は通常の1.5倍ほど多かった。テーマは「幻想即興曲のナゾ」。うーん、やっぱりショパン(1810-49)をネタにすると人が集まるんだな。恐るべし、ショパン様。

もっとも、ここはずっとショパンのことを喋るようなツマラン講座ではない。いろいろな話をしているうちに、最後はグルダ(1930-2000)の《ゴロウィンの森の物語》を聴くことに…。どうしたらショパンからグルダへ至るのかなんてヤボなことは聞かないよーに。そう、単に「勢い」ってやつよ。(説明になっとらんし)

どーにかこーにか講座を終わらせ、夕方、紀尾井ホールへ駆けつける。ピョートル・アンデルジェフスキー(b.1969)のピアノ・リサイタルである。J.S.バッハ(1685-1750)を両端に置き、間にシマノフスキ(1882-1937)とショパンを挟むというプログラム。

それなりにポリシーが感じられる内容であり、聴き応えはあった。しかし、この人の弱音には「芯」がない。ただ音を弱く弾いているだけなのだ。そうっと弾けばそれなりに美しい音は出る。でも響きを意識していないので、ある意味で乱暴に聴こえてしまったのは否めない。

もっとも、音そのものは弱いので音楽は決して暴力的に聴こえない。だから何とかサマになるのだろうが。まあ、弱音を「音」として意識できるようになればもっと聴衆を魅きつけることができるだろう。なかなかのイケメンだし。ただ、長身で足も長いのに歩幅が狭く、チョコチョコというよりピョコピョコと歩くのは格好悪いな。ピグモンじゃないんだし(苦笑)

ホールでは後輩のAさんが聴きに来ていた。休憩時間の時に声をかけられ驚く。さらに同業者のIさんが仕事で来ていた。だいたいIさんとホールで会うと帰りはワシのクルマで一緒に帰るのが通例となっている。義務でなく、ただいろいろな話ができるから楽しい。それだけのこと。

しかし長い1日だった。さて、原稿の続きをやらなければ…。
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雨の瞬間

2005-09-27 04:45:01 | 音楽あれこれ
ヘロヘロになりながら資料を読んでいたが、内容が頭に入らないのでちょっと休憩。思考をリセットするためである。

一服しながらボーッとしていると何やら音が聴こえてきた。どこからともなく小さな音。譬えるなら、紙を丸める時に鳴る「くしゃくしゃ」といった音である。

最初、その正体が何であるかまったくわからなかった。ちょっと不気味ですらあった。かすかな「くしゃくしゃ」は気の遠くなるほどの長い時間をかけて少しずつクレッシェンド。まるでホラー映画のサントラ音源を聴いているかのよう。なんだい、なんだい、イヤな展開だな。

不気味な音がまさにクライマックスに到達した瞬間、雨が降り始めたことに気づく。結果的にそれは通り雨だったのだが、あの音は一体なんだったんだろう。ま、まさか幻聴では…。いや、もうその音はしてないし。

仕事に辟易していた脳みそにはちょうど良い刺激となったかもしれない。やれやれである。あ、そうだ、今日は講座の日だっけ。いま頭を悩ませている原稿を早く片付けてそちらの準備をしなくちゃな。うへーっ。
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なかなかしんどい

2005-09-26 23:58:01 | 脳みその日常
ここ2日間、まともに寝ていない。覚えているだけで1時間の仮眠が2回ほどだ。今月末の原稿の締め切りは打ち合わせたしたかのようなバッティング状態。暢気に構えていたツケが今になってボディブローのように利いてきた。

アップアップしているところへまたも追加原稿の依頼。やいやい、今頃になって追加すんなよ!「すいません、よろしく」じゃないっての!

今週は4つの演奏会に行く予定だったが、久々の極限状態のため本日はキャンセル。このままだと他の演奏会も欠席しそうな予感。なんとか調整して立て直さないとな。

そういえば、今日大学の図書館に資料を借りに行った。家中の資料にもなく、緊急を要するものだったので、しぶしぶ行く。昼間は晴れて気温が高かったのと、ロクにメシを食ってなかったこと、それに睡眠不足のせいで、図書館への階段がキツイのなんのって。気持ち悪い汗をいっぱいかいた。

いやー、ここで負けたらアカン!
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クラシックへの餌

2005-09-25 05:26:28 | 音楽あれこれ
クラシック音楽への関心が低いのは今に始まったことではない。それでもこのところテレビをはじめとするメディアがクラシック音楽を取り上げたりする。宣伝するのが悪いというのではない。取り上げ方について「どーよ?」と思うだけである。

世の中の関心を集める最も簡単な方法といえば、ゴシップのほかに美形アーティストに注目すればよい。クラシック界でもゴシップは実際にあるがそんなのは「高く売れない」ので、まず報道されることはない。しかし美形アーティストなら映像として十分に観賞に堪えうる。だからレコード会社はそれをネタとしてメディアに売り込む。

韓流ブームにあやかろうとするのか、クラシック界もイケメンを売り出そうとしている。ピアニストでまず挙げられるのはユンディ・リ(b.1982)だろう。リは周知の通り2000年の第14回ショパン国際ピアノ・コンクールで優勝した中国人。キムタクに似ていることから人気が爆発した。またクロアチア出身のマキシム(b.1975)もいる。こちらはアジアン・テイストがお好みでない方に人気を博しているようだ。

確かに両者ともイケメンであり、メディアが騒ぎ立てるのもわかる。情報番組などで宣伝することは彼らの知名度を上げるには十分かもしれない。しかし忘れてならないのは彼らの仕事はアーティストであって、モデルではないこと。メディアの無能さを痛感するのは彼らを「演奏で判断していない」ことにある。いや、判断できないからルックスで決めてしまうのだが。

もちろん、リもマキシムも決して下手なわけじゃない。特にリについては演奏する作品によっては素晴らしいものもある。だから彼を「イケメンだからどーのこーの」という範疇に入れてしまうのは酷かもしれない。ただ、ここでワシが言及したいのはリの演奏についてでなく、メディアの宣伝の仕方なのでリ・ファンの皆様は誤解のないように。

一方のマキシム人気こそワシには理解できない。もちろん演奏を聴いての話である。デビュー・アルバムがやたらと売れたというが、正直な話、あの程度の演奏ならそのへんのピアニストでもできる。「そのへんの」というのは微妙な音色のことを考えないでバリバリ弾ける演奏家という意味だ。エネルギッシュに演奏する姿は確かに素敵かもしれない。

でもねえ、弾きゃあいいってもんじゃないんだよ、ピアノは。ああいう演奏で良いなら世の中のピアニストはみんな金持ちになれるはず。だけどそうでないのはなぜか。ルックスも関係するだろうけど、ピアノ演奏は単なるメカニカルなものじゃないからさ。

メカニカルな技術に加えて多彩な音色表現やアーティキュレーションを自在に操れなければ、少なくともクラシックの世界では一流とはみなされない。だから世のピアニストたちは日々精進しているのである。名誉のために言っておくが、彼らはメカニカルの問題などすでにクリアしているのである。そのあたりのことをミーハーなファンは理解すべきなのだ。

本当に心にしみるピアノ演奏というのはビジュアルで決して得られるものではない。試しにマキシムの演奏を目をつむって聴いてみればよい。音楽にでなく、演奏に心底感銘を受けますか?

あぁ、この発言でまたマキシム・ファンに後ろから殴られる可能性が増したな。でもね、リの場合と同じく、ワシはマキシムを非難しているのではないのだ。単にイケメン・ピアニストとして紹介しようとするマスゴミに問題があると言いたいだけなのである。

思えば、かつて1986年のチャイコフスキー・コンクールで優勝したバリー・ダグラス(b.1960)というピアニストがいた。彼も優勝後しばらくはミーハーなファンにチヤホヤされていた。もちろん今でも活動はしている。実際のところ彼は今年の「愛・地球博」のイベントに来日し、出演していたようだ(参照)。

でも、かつてのようなダグラス人気はないし、マスゴミも取り上げなかった。なぜか? すでにダグラスは商品として価値がないと判断されたためである。今さら45にもなるオッサンをイケメンとして紹介するには無理があったのだろう。マスゴミのやり方はすべてにおいてそうなのだ。気の毒だけれど、単なるピアノ弾きは所詮「使い捨て商品」と同じ扱い。ひどいよな、まったく。

せっかくカネをかけて宣伝するのなら、トータル的に優れた演奏家を紹介しろと言いたい。イケメンだからとかいうクダラナイ理由でなく。

見た目だけ旨そうな餌をまけば確かに客は飛びつくかもしれない。でも実際に味わって「なんだ、そんなものなのか」と飽きられてしまっては逆効果ではないのか? この不景気の時代にメーカーはカネの使い方を間違っている気がしてならない。「オマエラの頭の中は、まだバブルなのかよ!」と。
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対話

2005-09-24 05:53:51 | 脳みその日常
演奏家のインタビューによく登場する「音との対話」というフレーズ。楽器相手に音楽と対話すれば孤独感はない、という。そうだろうな、自分がどのように弾くかによって出てくる音も変わるわけだし。その意味では「対話」なのだろう。

ワシが夜な夜なドライブをするのも考えてみれば同じこと。アクセル・ワークとハンドル操作によってクルマはいかようにも動いてくれるのだから。もっとも、それは芸術とは同レベルでは語れないことかもしれないが。

音楽を扱う仕事であっても、原稿を書くにあたって「対話」というのはない。書く対象となる音楽を聴くからそれも対話じゃないかと思うかもしれない。しかしそれはすでに完成したものか、もしくは自分とは関係のないところで作られているもの。だから「対話」にはならない。原稿を書くというのは対象となる音楽を自分のなかでどう捉え、解釈するかなのだから。

自分との対話、つまりは自問自答。まったくもって面白くない「対話」である。自分の思考パターンなんて自分が一番わかっているのだし。対話の面白さというのは、自分とは異なる他者とコミュニケートするところにある。意外な発言、思っても見なかった発想がそこから生まれるからね。ソクラテスが他者との対話を重視して哲学を展開した理由も実はそこにあったのかもしれない。

かつてワシが哲学科にいたころ、クラスメートにY君という孤独を愛する奴がいた。あるとき彼はこんなことを言った。

「ボクは砂を噛む思いで哲学書を読んでいるんだ!」

はぁ、そうですか。砂を噛む思いねぇ…。「随分と丈夫な歯をお持ちで…」などというツッコミはもちろんその時はしなかった。でも彼は一体何が楽しくて難解な哲学書を読んでいたのだろうか。未だにわからない。

もちろん同じカリキュラムを履修していたのだから、ワシもひと通りの哲学書は読破した。だが、ワシは砂を噛む思いなんてまっぴらだったし、ある意味で要領がよかった。だから難解な表現内容も「簡単に言えばこういうことだよな?」なんてテキトーにまとめて単位をもらい、あとは悪友たちとレベルの低い「対話」を楽しんでいたものである。

そういえば、砂を噛んでいたY君は今頃どうしているのだろう。ワシの知る限りどこかの大学で教えているという話も聞かないし…。ヘーゲルのように相変わらず自室で哲学を探究しているのだろうか…。
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ヤル気の素

2005-09-23 06:04:03 | 脳みその日常
今週は仕上げなければならない原稿が多いのに、なかなか手につかない。時間はどんどん過ぎるばかり…。自分の不甲斐なさを嘆きつつ週末を迎える。もっとも、こんなことは今までにもたびたびあった。だから特別凹むこともない。その都度目の前にある仕事をクリアしてきたのだから。

とはいえ、ヤル気が起きないことはあまり気分の良いものではない。何とか奮起しなければ…。じゃあ、どうするか。このブログをずっとお読みいただいている読者ならお分かりですね? そうです!深夜のドライブに行けばいいんです(笑)

…てなわけで、今回向かったのは秩父。もちろん目的はない。なんとなくそっち方面を走りたくなっただけのこと。

またまた3連休を迎えるということで、深夜2時過ぎだというのにR299やR140には改造したクルマやら何やらが走っていた。ワシのクルマなんてサスをちょこっと強化してあるだけだから改造のうちには入らない。そう「一般ピーポー」のクルマにしか見えないはず。

でも、よほどガッチリと足回りを強化した改造車でない限り、ワシは余裕で追尾することができる。そうなると場合によっては峠仕様の改造車連中からバトルに「ご招待」されることもある。

いや、それはまだマシなほう。こんな時間だから時々「脳みそが完全に溶けちまった」としか思えない奴が「ごあいさつ」に来ることもある。ワシにプレゼントをしたいのか知らないが、手には木刀のようなものを握って…。

しかしワシはイイ歳をしたオッサンである。若い頃ならいざ知らず、もう彼らの「お遊戯」に付き合うことはない。「あいさつ」もそこそこに、別れを惜しみつつその場を離れる。それが大人の対応というものだ。

そんなスリリングな時間を過ごしながら軽くひと回りしてくると不思議に原稿を書こうという気になる。深夜なので目には見えないが、森林浴みたいなものを経験しているのかもしれない。いや、自然のパワーをもらってきたからこそヤル気が起きるのだろう。

ぬあんて、勝手な解釈をしておりますが…わはは。
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「もののけ」と化したヘンデル

2005-09-22 04:35:42 | 音楽あれこれ
数年前まで「誤字脱字のオンパレード」で知られたある音楽雑誌が久々のヒットを叩き出した。今発売中の10月号(p.82)の一部を撮影したのが右の写真。なんと、

「日本ヘンデル妖怪」!!!!

素晴らしい! 読み手の想像をはるかに超越したミステイクだ! 未だかつてこんな間違いがあっただろうか! もちろん正解は「日本ヘンデル協会」である。それにしても「協会」を「妖怪」にしてしまうところが誤字脱字を繰り返してきた老舗編集部の真骨頂というべきではないか。これは別の編集部がかなり前に放った超ド級の広告、すなわち

「モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第5番《トルコ風》K.219」

を目の当たりにした際の衝撃に近いと個人的には思っている。

天災は忘れた頃にやってくるというが、まったくその通りだ。電子メールの普及により原稿は編集者の手によって打ち直されることなく、そのまま製版屋さんへ流されるようになった。元の原稿が間違っていれば問題だが、プロの書き手ならそう打ち間違うことはない。そのため近年ではあまり誤植は見られなくなっている。そんな平和な時代になり、書き手も読み手も安心していた矢先に突然「妖怪」が出現したのだ! 驚くなというほうが無理であろう。

もっとも、一部の「誤植発見マニア」の間では誤植が減って楽しみが激減したという話も聞く。「昔ならどのページにも必ず誤植があって探すのが楽しみだった」とか。彼らにとって、本文の内容なんてどうでもよい。ただ彼らには「誤植」さえあればよかったのだから。また、誤植探しのためだけに定期購読していた読者もいたとか、いなかったとか…。

こんなことはもちろん論外ではあるが、それほどまでにこの音楽雑誌にはかつて誤植が多かったのである。でも恥ずかしいよなあ。
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権威主義者になりがちなタイプ

2005-09-21 15:21:22 | 脳みその日常
やたらと地位や名誉に寄りかかる人がいる。ワシのような無所属の立場からすれば哀れみすら覚える可哀想な人。それがいわゆる権威主義者という奴らだ。

彼らが権威に依存するのは一個人として自信がないからに他ならない。もしくは肝っ玉が小さいため、何らかの地位に就いていないと不安なのだろう。だからそういう奴に限って社会的に認知された肩書きを持つと、これみよがしにその肩書きを振りかざす。だから痛々しいのだ。「アンタは肩書きがなけりゃ胸を張れないのかい!」思わず、そう言いたくなる。

最近興味深いことに気づいた。日本人で権威主義に依存する人の多くには共通点があるということを。それは名前である。

姓の下のほうが「カ行」、名の上のほうが「サ行」の人はだいたい権威に依存する傾向が強い。もっと具体的に説明しよう。ここで言う「カ行」「サ行」というのは姓名の漢字を音読みに直したもののこと。

たとえば「日本太郎」という名前であれば、対象となる姓は「本」、名は「太」である。「本」「太」をそれぞれ音読みすると「ほん」「た」になる。つまり「ほん」は「ハ行」であり、「た」は言うまでもなく「タ行」。このようにして姓名を変換する。音読みがわかりにくい漢字の場合、たいていその漢字の「つくり」を音読みすれば間違いない。

念のため音読みの例を示しておく。
「川」→「せん」(サ行)、「沢(澤)」→「たく」(タ行)、「崎」→「き」(カ行)

ただし、名前がひらがなの場合は最初の文字を見る。たとえば「はなこ」なら「ハ行」というように。また、漢字であっても音読みのないものについては現在調査中である(笑)

もちろんこの「法則」がすべての人に当てはまるわけではない。しかしワシの経験からして、この法則による姓名が「カ行」「サ行」となる人の多くは権威主義が大好きな人である。何かというと肩書きをチラつかせるような人がいたら「鑑定」してみたらよい。たぶんこの法則に当てはまるから(笑)
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自信と愛

2005-09-20 23:52:43 | 脳みその日常
合宿で後輩たちから「なぜそんなにエネルギッシュなんですか?」と聞かれた。いやー、そんなこと言われてもねえ。「基礎体力があるからじゃないの?」と、とりあえず答えておいた。

しかし考えてみると彼らがそう感じたのは、もしかすると文字通りの意味ではなくワシが自信家のように見えたからそう発言したのかもしれない。仮にそうだとしたら、あながち間違いではない。そもそも困ることとか不安なんてないから。

そんなことを臆面もなく言えるのはワシがこれまでいろんな経験を積んで来たからに他ならない。経験を積んでいる最中はそれこそ死に物狂いで目先のことに取り組んだものだ。楽しい記憶もあればそうでないものもある。様々な経験を積んだ後、今ふっと振り返ってみた時、知らず知らずのうちにそれらが「自信」となってワシの身についているのだと思う。

自信と簡単に言うけれど、これは付けようと思ってつけられるものじゃない。経験の堆積が結果的に自信というものになるのではないだろうか。今の彼らはまだ積み重ねの途上にある。だから苦しいのだろうし、もがいているのかもしれない。

でもね、そんなのは、ある時期が来ると「なんでそんなことで悩んでいたのだろう」と思うようになる。そう思えた時こそ何らかの自信がついた証拠なのだ。あとはそのまま走り続ければよい。そうしてみんな一人前になってゆくのだ。

ところでこの合宿には誰でも参加することができる。何もOBじゃなきゃいけないというのでもない。だから今回もワシがゲストをひとり呼んだ。それは学生の彼らにとって将来的に何らかのプラスになると思えたからである。

OBも先生もゲストも学生には人生の先輩であり、将来仕事をする上での良きアドヴァイザーでもある。そうした人々の話を聞けば、今は将来に不安を感じている学生も会話の中から何かを見つけるかもしれない。暗闇の中で怯えている人にとって、選択肢という光は何ものにも代え難い安心感を彼らに与えるであろうから。

実はワシが学生の頃の合宿にはOBもゲストも出席しなかった。つまり暗闇の中で学生はもがき続けていたのである。もちろん先生方は出席したが、はっきり言って彼らの視野は狭い。学問的な話は参考になれど、実社会の話はまずない。それも無理からぬこと。彼ら自身、学問の世界には精通していても実社会の経験はないのだから。

だけど、学生がすべて研究者になるわけではない。となれば彼らにとってOBやゲストのような部外者の話は極めて参考になるはず。毎年幹事がOBに参加を呼びかけているのはそうした意図がある。合宿の日程に土日を挟むのもOBが参加しやすくするためだ。

にもかかわらず、毎年参加するのはワシを含め、決まったメンバーだけ。参加しているから言うわけじゃないが、なぜOBは参加しないのだろうか。幹事がわざわざ我々のために日程を考慮してくれているのに。可愛い後輩たちのために自分の経験を話してやればいいではないか。

「誰の力も借りずにここまで来たのよ! 仕事なんて自分で見つけるものよ!」

参加しないOBはそう思っているのかもしれない。一理ある。でもさ、自分が味わった苦労を後輩にも味わわせる必要はないんじゃないのかね。仮にも我々は先輩なのだから、後輩たちを温かい目で見守り、導いてやる役割があるんじゃないのかな。

そこへいくと、同じOBでもT君は偉い。決して威張るわけでもなく、ニヤニヤしながらも後輩たちの面倒を見ているからね。この時期彼の仕事は忙しいにもかかわらず、何とか時間を作って毎年合宿に参加している。これこそ後輩たちに対する愛ではなかろうか。

ワシも毎年参加しているが、事情はまるっきり違う。大して忙しいわけでもないし、日程なんてどうにもなる職種だし。幹事から「この日程でやります」と言われたら「そーですか。じゃ行きます」ってな具合。だから毎年参加できるのである(苦笑)
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合宿終わる

2005-09-19 23:50:46 | 脳みその日常
例年の合宿も無事終了する。といっても今年は全日参加でなく、2日目の深夜には宿を後にしたが。何せ今回は日程が3連休と重なったこととロケーションが箱根だったこともあり、3日目まで滞在したら帰りはたぶん大渋滞に巻き込まれると予想したからである。

早めに帰宅したは良いが、本日はまるで魂が抜けたように何もする気が起こらなかった。何だろうな、この不可解な気持ちは。合宿で宴会を盛り上げ過ぎたからだろうか、それとも酒を飲み過ぎたからだろうか。

ボーッと時間を過ごしていたが、嬉しいこともあった。午後には突然仕事の依頼の電話が来たし、夜には別の電話が来た。その電話とは来月結婚する後輩のYさんからで、当日のパーティーで一言話して欲しいとのこと。

「個人的にもお願いしたいんです!」と懇願されたが、ワシは本当は人前で話すのは苦手なのである。通常、そういうお願いは極力お断りすることにしている。だがあまりに熱心に頼むので後輩思いのワシは引き受けることにした。まあ、これから幸福な結婚生活を送ることになるのだろうから、せめてこれぐらいのことはしてやらなければという気持ちからである。

これは決して「押しつけ」とか「やっつけ」の意味ではない。幸せそうな人の顔を見るのが好きなのだ。そういう人の顔を見ると、こちらも幸せな気分になれる。ワシが苦手な挨拶をして彼らの幸福に少しでも寄与するのならやってあげよう。そう思ったから受諾したのだ。内心はビクビクですがね(苦笑)まあ、いつもの「出たとこ勝負」で何とかなるだろうけれど。
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芦ノ湖にて

2005-09-18 16:01:20 | 脳みその日常
明け方まで呑んで、合宿二日目はアルコールの抜けぬまま芦ノ湖へ。遊覧船に乗る後輩を見送りつつ撮影。
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品のないフリッター

2005-09-17 06:10:15 | 音楽あれこれ
昨晩はアルゼンチン生まれのピアニスト、イングリット・フリッター(b.1973)のリサイタルを紀尾井ホールで聴く。プログラム冊子には「ほとばしるラテンの情熱」なんて書いてある。まあ、キャッチ・コピーとしては間違いではないが、でもねぇ…。

フリッターは1994年の「カントゥー国際ピアノ・コンクール」で既に優勝していた。しかし、その名が世界的に知られるようになったのは、2000年に開催された第14回「ショパン国際ピアノ・コンクール」で第2位に入賞してから。

そういえば、先月の8月25日のブログでガブリエラ・モンテロについて書いたが、同じ南米出身のピアニストとして確かに「情熱的」という意味では共通するものはある。だが、CDとライヴという違いを考慮しても格としてはモンテロのほうが遥かに上であると言わざるを得ない。

フリッターの演奏で特徴的なのはペダルの使い方。それは残念ながら良い意味で言うのではない。まず右ペダル(サステイン・ペダル)の踏み直しが尋常ではないこと。場合によってはひとつひとつの音に対してペダルを踏むことも稀ではない。それも音価の短い音に対してである。速い音の動きに呼応して「ダダダダ…」と踏み直すことにどんな効果があるのだろう。本人が思うほどあまり意味がないと思うのだが。

ペダルの使い方でもうひとつわからないのは左ペダル(ソフト・ペダル)の多用だ。左ペダルは言うまでもなく一時的に音をソフトにする際に効果を発揮するもの。音色を微妙に変化させたい時にも用いられることがある。ところが、フリッター様はこのペダルをやたらと踏んでいらっしゃる。いや踏み続けておられる。曲のなかで7割がた踏んでいるのではなかろうか。

「アテクシはソフトな音が好きなの♪」

そう言いたげである。でもねえ、踏みゃあいいってもんじゃないんだよ。逆に我々の耳がソフトな音に慣らされて、ペダルを解除した時に聴き手が受けるショックといったらない。あまりに音が汚く聴こえるんだもの。

だいたい左ペダルを解除する時というのは強音で弾く場合が多い。そんな時はまず良い音は出ていない。強い音でも聴き手を唸らせるには音を強く弾く少し前から左ペダルを解除して、聴き手の耳を本来の音の響きに慣らしておく必要がある。そうでないと感銘を与えるどころか聴き手は不快になるものだ。

さらに解釈として疑問に思ったのは、通常ならレガートで繋げるべきパッセージをヘンなところで切るケースがしばしばみられたことだ。「おいおい、そこで切ったらマズイだろ」というところでプツッとぶった切るのである。なぜそこで切るかなあ…。その理由がさっぱりわからない。

聴いていて一番ヒヤヒヤさせられたのは皮肉にもショパンの作品。特に《舟歌》と《ソナタ第3番》だった。弾き慣れているはずなのに、これらの作品はグダグダ。《舟歌》はまだしも、《ソナタ》の終楽章なんか「大丈夫か? オイ!」と思うほどで、クライマックス直前ではこともあろうことか何とストップ!「ちょっと、ちょっと、プロが止まっちゃイカンよ」。音楽は止まったら最後ってぇことは常識でしょうに。

あらまあ、どうしたんだろと思っていたら、アンコールにはピアソラの《アディオス・ノニーノ》の旋律を基にした騒々しいほどのジャズ風な編曲もの。しかも鍵盤をぶっ叩きまくり! ちょっとー、フリッター様、あまりにお下品ではありませぬか?

そんな曲をここで弾いたらシューベルト、ベートーヴェン、ショパンというメイン・プログラムの香りはぶち壊しですぜ。もっとも、そんな曲をアンコールにもってくるという神経をワシは疑うけれど。まあ、ハリウッドあたりの派手なキャバレーで弾くにはウケるとは思うがね。この人、なかなかの美人だからその世界でもイケると思うし…。

(告知)
本日から月曜まで毎年恒例となっている大学の合宿へ参加する予定。期間中、携帯が圏外でなければ風景の写真などを随時アップしようと思っとります。
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虫のミニマル・ミュージック

2005-09-16 05:53:03 | 音楽あれこれ
セミの喧噪が収まったと思いきや、今度は虫の大合唱である。何気なしに考え事をしていたら、あるパターンが聴こえてきた。それぞれの虫には固有の鳴き方があるのは周知の通り。個別に鳴き方を知りたい方は「虫の声が聞けるサイト」を参照されたし。

個々の虫の鳴き声ならば特に気にもならないが、種類の異なる奴らが大合唱を始めると面白い現象が起きる。つまり、コイツら、生意気にもミニマル・ミュージックもどきを演奏しやがるのだ。先ほど「聴いた」リズム・パターンを書き留めてみたのが右の楽譜である。(楽譜をクリックすると拡大します)

基本となるリズムは楽譜の「1」で、どうやらこれがこの「作品」のペースメーカー。楽譜では単に8分音符を淡々と刻んでゆくように書いてあるが、同種の虫が大合唱するので、音の鳴り出しが微妙にずれるのは言うまでもない。だって指揮者がいないんだからアインザッツが揃わないのは仕方がないのである(笑) しかし、この不揃いさがまるでミニマル・ミュージックの「モワレ効果」を生むのに役立っているとは脳みそのほとんどない虫どもにはよもや想像もつくまい。

こうした基本パターンが「演奏」されるなか、不思議と目立つ「ソリスト」がいた。ワシは虫には興味がないので、それが何という虫なのかは知らない。ともかく、この目立ちたがり屋はなかなかファンキーなリズムを刻んでいた。それが楽譜の「2-1」のパターンだ。コイツ、もしかしたら前世はロックンローラーだったのかもしれんな。巧みに6連符を打ち込んでやがるし。

だが、このソリストは気紛れだったりする。「2-1」のパターンを繰り返していたと思ったら、突然「2-2」のようなフェイントをかけてくる始末。ややっ、コイツ、プログレ出身者かもしれんぞ(笑)そんなことを思い描いていたら、いつしか夜明けとなった。あらら、また1日が始まる。

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