ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

築造の経緯記載あり!…栗栖池

2023-05-11 06:51:25 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は兵庫県たつの市新宮町牧(しんぐうちょう まき)にある揖保川水系の栗栖池(くりすいけ)を目指します。アクセスは県道44号を北上し、沿道にある火の見やぐらを過ぎて小さな橋を渡ったところを左折。道なりに進んでいくと到着します。池名は栗栖川を堰き止めて築造したことに由来するものと思われます。

見えてきました。これですね。

池の右岸横に到着。これが、いわゆるダム上になります。

栗栖池の表示板。兵庫県のため池はこのデザインで統一されています。あれれ、ダム便覧の表記は「くるすいけ」だね。単なる誤記なのでしょうか。

そして、栗栖池の案内板。これによれば、栗栖川はもとより水量が乏しかったため、旱魃時の水不足対策としてこの地に池を築造することが決定。昭和15年、築造のための組合を結成し、翌年起工式が行なわれた。ところが太平洋戦争勃発により工事はほぼ中断。しかし当事者の努力により昭和27年(1952年)8月9日、なんとか完成にこぎつけたという。なお、この場所(奥小屋奥麦子[おくむいこ])には当時四軒の家があったが、工事により全戸移転し、池の上流の神保(しんほ)にも三軒が存在したが現在では廃村になっているそうです。ちなみに兵庫県のため池データベースによれば、栗栖池の高さは25.7m、長さは90mでダムの条件を満たしているためダム便覧に掲載されています。ただダム便覧では高さが26.7m、竣工は1951年と記載されており、データに相違があるのが気になりますね。

右岸、池側から見た様子。

では、ダム上を歩いてみましょうか。中央から見た栗栖池はこんな感じ。

一方、下流側の景色を眺めます。

おおっ、左岸側に洪水吐がありますね。越流式です。増水すると水はここから溢れ出て、

この水路を通って、あちらへ流れてゆきます。

対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

左岸、ダム横から見た池の様子。水が澄んでいます。

同じ場所から下流側を眺めます。ゆったりした感じですね。


ため池のほとんどは築造の経緯が不明で案内板もないのが実状ですが、上のような案内板があると見学者にとっては実にありがたいものです。
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シンプル!!…金出地ダム

2023-05-08 06:58:03 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は兵庫県赤穂郡上郡町金出地(あこうぐん かみごおりちょう かなじ)にある千種川水系の金出地ダムを目指します。アクセスは県道44号の「テクノ中央」信号を上郡市街方面へ曲がり、県道28号を進んで行きます。最初のヘアピンカーブを過ぎたところにT字路があるのでそこを入り、すぐ左に入って行くと目的地に到着します。

ダム名はもちろん地名に由来するものですが、その金出地の由来については昔このあたりで銅や砂鉄を産出したことによるもののようです。(参考

左岸にやってきました。おー、まだ新しいダムですね。

ダム横に来ました。定礎は2013年12月。

これが左岸から見たダム上。歩いてみましょう。

ダム上、中央から見た貯水側の景色です。

そして、ダム下を覗き込み、

下流側の遠景を眺めます。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。なんの飾りもないシンプルなデザインですね。

右岸、貯水側から見た様子。

同、下流側から見るとこんな感じです。

「金出地ダム」のプレートが嵌め込まれた石碑。

金出地ダムの周辺案内図。

鞍居川(くらいがわ)を堰き止めてできた湖なのでダム湖名は「鞍居湖」だそうです。うーん、由来はともかく音(おん)が「暗い子」をイメージしちゃうね。

金出地ダムの概要を示す案内板。築造の目的は洪水調節、農業用水の確保、河川環境の保全で、


高さ62.3mの重力式コンクリートダムだそうです。

右岸の少し高台にあるこの建物は金出地ダム管理所で、


そこからダムはこんな風に見えます。

せっかく来たので、ダム下に向かい、「ご尊顔」を拝みました。


上にも書いたように定礎の年月はわかったのですが、案内図には完成年が記されていません。そこでネットで検索してみたところ1990年に兵庫県が事業を開始したものの、見直しなどで一時中断。その後工事は再開され、2012年に着工し、2016年に完成したようです(参考)。
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川名が由来…長谷ダム

2023-05-07 06:52:46 | 兵庫(ダム/堰堤)
今月末に名古屋で行なわれるコンサートのための原稿をなんとか書き終えました。いや〜、面倒臭い。

どーも、ワシです。さて、今回は兵庫県たつの市新宮町光都(しんぐうちょう こうと)2丁目にある千種川水系の長谷(ながたに)ダムを目指します。アクセスは県道28号沿いにあるファイン播磨先端製造技術センター付近の交差点から上莇原(かみあざわら)方面へ。すぐ突き当たりを右に。そのまま進んでいくと目的地に到着します。

まずはダム下へ行き、「ご尊顔」を仰ぎます。治水ダムのようですね。


上に書いたアクセスで来ると、こんな景色が見えてきます。


左岸、ダム横には「長谷ダム管理所」があります。



管理所の前にはモニュメントのような「長谷ダム竣工記念碑」。1991年11月吉日


近くにある案内板。当該ダムは長谷川(ながたにがわ)の洪水調節と農業用水の補給を目的として昭和63年から平成3年(1991年)にかけて築造されたものだそうです。ダム名は長谷川を堰き止めて築造されたことに由来するんですね。なお、ダムの位置は案内板では「揖保郡新宮町上莇原」となっていますが、これは揖保郡新宮町が存在した2005年10月1日以前の表示です。同日以降は「たつの市」が発足したので住所表示は上に示したものになっています。高さ30.3mの重力式コンクリートダム。


左岸から見たダム上。歩いてみましょう。

ダム上、中央から見た貯水側の景色。

ダム下を見下ろし、

下流側の遠景を眺めます。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

右岸、上流側から見た様子。

同、下流側からダムを眺めます。


兵庫県には「長谷ダム」と表記されるダムがもうひとつあります。それは神崎郡神河町長谷にありますが、こちらは「はせダム」と読み、地名に由来します(参考)。あー、なんとも紛らわしいですね。ただ、神崎郡のほうの着工は1980年で竣工は1995年なので今回訪れたたつの市の長谷ダムは着工こそ1988年と遅いですが竣工はこちらのほうが早い。ダム名表記の重複は予想されたと思うのですが、そのあたりは考慮しなかったんでしょうか。もしかすると「読み方が違うからいいだろ!」ってな感じで押し通したのかな?
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ダムでいいじゃん!…下莇原ダム

2023-05-06 07:01:29 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は兵庫県たつの市新宮町光都(しんぐうちょう こうと)1丁目にある千種川(ちくさがわ)水系の下莇原(しもあざわら)ダムを目指します。アクセスはいくつかの方法がありますが、わかりやすいのは県道154号沿いの「福元設備工業所」の看板のあるT字路を入り、そのまま進むと目的地の左岸に到着します。

まずはダム下へ行き、「ご尊顔」を拝みます。治水ダムのようですね。

続いて左岸のダム横へ向かいます。

左岸、貯水側から見たダムの様子。

「下莇原ダム」と刻まれた石碑。

その裏側には諸元が記されています。高さ25.1mの重力式コンクリートダムです。「位置」の項目には揖保郡新宮町下莇原になっていますが、新宮町は1934年4月1日から2005年10月1日まで存在した町名で、同日に龍野市、揖保川町(いぼがわちょう)、御津町(みつちょう)と合併してたつの市になったため現在は上に記した住所表記になっています。またダム名の「下莇原」は旧地名に由来するものと思われます。ちなみに地名に「莇(あざみ)」が付いているので、かつてこのあたりはアザミが群生していたのかもしれませんね。

では、ダム上を歩いてみましょう。

ダム上、中央から見た貯水側の景色です。

ダムの真下を覗き込みます。

そして、下流側の遠景を眺めます。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

「定礎」は平成元年(1989年)10月。

右岸、貯水側から見たダムの様子。

同、下流側から眺めてみます。


こんなに立派なダムなのに下莇原ダムはダム便覧には載っていません。ここを管理する光都土木事務所の見解によればこの施設は調整池という扱いなので治水、利水を目的とするダムではないそうな(参考)。ダム便覧に掲載されていない理由はそれを根拠にしているのかな?でも、現地には上に見た通り「下莇原ダム」の石碑まであるわけだしダムの条件も満たしているんだからダムに認定してもいいんじゃないでしょうか。もし調整池だからダムではないとして掲載しないのなら、なぜダム便覧は他府県の調整池を載せているんでしょうね。うーん、掲載基準がわからんなあ。
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どこかで見たような…安室ダム

2023-05-01 06:56:21 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は兵庫県赤穂郡上郡町行頭(あこうぐん かみごおりちょう ゆくとう)にある千種川(ちくさがわ、ちぐさがわ)水系の安室(やすむろ)ダムを目指します。ダム名は安室川を堰き止めて築造されたことに由来すると思われます。アクセスは山陽本線の赤穂駅の北側を走る県道90号を西へ進み、しばらく行くと「←安室ダム」という表示のあるT字路があるのでそれを入って行くと到着します。

左岸に到着しました。こんなダムです。


上のアクセスで来ると、まず目に入るのがこの石碑。

竣工記念碑と、

その概要が記されています。それによると、安室川流域は度々氾濫し沿岸住民を悩ませてきたそうです。特に昭和51年9月の台風17号による豪雨は甚大な被害をもたらし抜本的な対策の必要性が指摘されていました。また地域住民の生活水準の高度化と宅地開発が進んだことで都市用水の急速な需要の増加が予想されたため、下流地域の水道用水の安定供給を目的とした新たな水源の必要性も唱えられていました。そこで兵庫県は千種川総合開発事業の一環として洪水調節、流水の正常な機能維持、上水道用水の確保を目的とする安室ダムの築造に乗り出します。昭和53年に実施計画が開始され、昭和57年から工事に着手。そして昭和62年2月からダム本体工事に着手し、平成3年(1991年)10月に完成したそうです。


これらの石碑付近から見たダムの様子。


左岸のダム横にはこんなものがあります。写真右のロボットのような形をしているのは兵庫県の県営ダムではお馴染みのタイムカプセル。

ダム建設に関する様々な資料がカプセルに入られているそうです。でも、これ、いつ開けるんだろうか…。

そしてダムの諸元が書かれたプレート。高さ50.0mの重力式コンクリートダムで、昭和62年2月から平成3年3月にかけて工事が行なわれたとあります。上に記した完成年月と異なるのはおそらくダム本体の工事が平成3年3月に終了したということなのでしょう。


同じくダムの左岸には「安室ダム管理所」があります。



さらにその近くには案内板と定礎(昭和63年9月)のプレート。




これがダム上。歩いてみましょう。


ダム上、中央から見た貯水側の景色。


ダムの真下を覗き込み、

下流側の遠景を眺めます。


対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


右岸、貯水側から見たダムの様子。


同、下流側から見るとこんな感じです。


安室ダムの管理所を見た時、「あれ?前に来たことがあったような…」という既視感(デジャブ)を覚えたのでした。これまで訪れたダムはチェックしているので誤って再訪することはないはずなんですが。いや〜、チェック漏れか?

で、よくよく思い出してみると同じ兵庫県の安富(やすとみ)ダムの管理所とまあまあフォルムが似ていることに気づきました。ああ、そういうことだったのか。もしかしたらワシにもボケが訪れたのかと思い、一瞬ヒヤッと、そしてちょっと安堵。
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成相ダムとセット…北富士ダム

2023-02-13 06:57:14 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県南あわじ市八木馬回(やぎうままわり)にある三原川水系の北富士(きたふじ)ダムを目指します。アクセスは国道28号の「鳥井」信号を成相寺方面へ曲がり、道なりに進んでいきます。最初の一時停止を左折し、しばらく行くと北富士ダムの表示の案内があるので左に曲がって行くと目的地に到着します(そのまま道なりに進むと成相ダムに行ってしまうので注意)。

先にダム下へ行ってみます。「ご尊顔」がこちら。成相ダムに比べシンプルな印象ですね。


左岸のダム横へ向かいます。すると、こんな風に見えてきます。


左岸のダム横に到着。

傍には「北富士ダム」と表示された石碑があります。2002年11月竣工。成相ダムの記事に書きましたが、北富士ダムは成相ダムとセットで着工、竣工したダムです。両者のフォルムが違うので、いわば二卵性双生児といったところでしょうか。


左岸のダム横の道を貯水側に進んだところにあるのが「兵庫県洲本土木事務所 北富士ダム管理所」の建物。狭いスペースを利用して建てられた、これまたシンプルなデザイン。1998年9月定礎。




そこからダムはこんな風に見えます。


では、ダム上を歩いてみましょう。中央から見た貯水側の景色はこんな感じ。


一方、ダムの真下を覗き込むと…。

そして、下流側の遠景。


対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じです。欄干の手すりにちょっとしたアクセントが感じられますね。


右岸、貯水側から見たダムの様子。


同、下流側から見ると…。


成相ダムとは同時期に着工・竣工したので二卵性双生児と書きましたが、こうして見るとカネのかけ方が違うのがわかります。北富士ダムのほうは予算がなかったんですかね。デザイナーも違うんじゃないでしょうか。ま、シンプルなりの美しさはあってそれはそれで良いと思いますが。

これで淡路島にあるダム及びそれに類する水施設は制覇しました。さて、次はどこへ行こうか。
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歴史的価値あり!…旧成相池堰堤

2023-02-12 07:02:36 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。前回成相ダムを眺めた時に上流に何か見えたので今回はそこへ行ってみることにします。

おー、これですな。なんでしょうか。


上流側から見た様子。味のあるダムですね。


その付近から下流方向を眺めると成相ダムが見えます。(ちょっとズームしてますが)


このダム、道から少し下にあるので行ってみます。おー、このアングルも良いねえ。


そこには案内板が。三原川水系の「旧成相池堰堤」らしい。住所は兵庫県南あわじ市八木馬回(やぎうままわり)。

これは渇水時における下流域の水不足対策として1929年に計画され、1937年に着工。そして1950年に完成した粗石モルタル造りの重力式ダムだそうです。その後1999年、下流に成相ダムが築造されたためこの堰堤は役割を終えることになりますが、先人の苦労や熱意を後世に伝えるため湖中にそのまま保全されることになったとか。


農業用のダムではありながらその歴史的建造物は高く評価され、2021年には土木学会選奨土木遺産に認定されました。



で、ダム上を歩いてみようと思いましたが、フェンスに阻まれて行けず…。ふと、対岸に石碑のようなものが見えたので向かいました。


対岸のダム横に到着。篆書で「成相池之碑」と書かれています。その内容は右岸の案内板の記述の詳細で、下に転記しておきますので興味のある方はお読みください。


「池は諭鶴羽山脈の横谷成相渓に在り因って名つく昭和四年七月八木村成相耕地整理組合の設立と共に計画せられ同十二年四月起工二十五年三月完成す此間実に十有三箇年の久しき或は水利の調停資金の調達に或は世界大戦に伴ふ財界の変動労力資材の缼之等により幾度か共進行き沮まれしか幸に昭和二十二年十月県営に移され漸く組合長以下組合員積年の宿望達せられて遂に其竣功を見る池は直線式重力堰堤にして堤長百十三米高三十三米体積二萬八千立米に及び満水面積八町歩中央余水吐幅員五米七連を有し承水面積五百五町歩貯水量九十二萬一千立米を算し主として村の中央に灌漑す其支配面積三百有六町歩内新開田六十八町歩に達す又池と共に用水路を改修し一度樋を放てば忽ちにして全地域に奔流し茲に旱荒の憂を絶ち其増産米穀毎年数千石の多きに及び食糧の緩和に資する所大なるものあり嗚呼累々たる堤石は渓谷に聳えて●目構築の労を語り満々たる池水は●●の影を宿して往年桔槹の苦を嗤ふ冀くは後人よく先覚努力の跡を憶ふて永く殖産に其志を継がむことを
 昭和二十五年四月一日
 成相耕地整理組合長●英之助題 顧問河瀬脩二撰弁書」

左岸、上流側から見た堰堤の様子。


同、下流側からはこんな感じ。うーん、見れば見るほど味わいのある形ですねえ。


構造は現代のダムのほうが耐久性に優れているのかもしれません。でも、そのフォルムは昔のダムのほうが味があって、オリジナリティに富んでいるように思います。この先、何十年後、現代のダムは果たしてどれだけ土木遺産に認定されるんでしょうね。ちょっと興味があります。

ま、その頃ワシはおらんか…。残念!
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北富士ダムとセット!…成相ダム

2023-02-11 06:57:31 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県南あわじ市八木馬回(やぎうままわり)にある三原川水系の成相(なりあい)ダムを目指します。アクセスは国道28号の「鳥井」信号を成相寺方面へ。道なりに進み、最初の一時停止を左折。そのまま進んで行くと到着します。

右岸に到着しました。「横顔」はこんな感じで、


ダム下から見ると、ちょっとマントヒヒの顔のよう(笑)


ダム下の副ダムもなかなか立派。

違う角度からだとこんな感じ。


右岸、ダム横には「成相ダム」と記された石碑。2002年11月竣工。

その裏には築造の経緯が記されています。それによれば下流の三原平野は昔から氾濫と枯渇を繰り返してきたそうで、そこに住む人々に洪水と旱魃被害を与え続けていた。そこで、昭和54年の大水害を機に三原川総合開発計画が立てられ、その一環として成相川においては次回記事にする北富士ダムとともに昭和62年(1987年)に工事に着手。そして完成に至ったという。セットでのダム築造といえば数日前に記事にした大日ダムと牛内ダムもやはり三原川総合開発の一環として築造されたわけですが、こちらのほうが着手(1983年)も竣工(1999年3月)も早いんですね。


石碑の背後にあるのが「兵庫県洲本土木事務所 成相ダム管理所」。



そこから見たダムの様子。


これがダム上。歩いてみましょう。欄干にある「こんもり」は何かな?


ダム上、中央から見た貯水湖の様子。

ん?上流に何かありますね。あとで行ってみましょう。


一方、ダム下はこんな感じ。

そして、下流側の遠景です。


ダム上のベンチ。単なる腰掛けでなく、高さの異なる石を並べているところにセンスを感じます。


対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


左岸、貯水側から見たダムの様子。


同、下流側から見るとこんな感じです。


両岸の壁には大日ダムや牛内ダムと同じデザインのタイルが貼られています。オシャレ!


管理所のデザインは別にして、ダムのあちこちにセンスが垣間見えます。もしかして牛内ダムと同じデザイナーが担当したのかな? 知らんけど。

(お知らせ)
おっと、昨日記事にした「上田池」の写真で、載せるの忘れていたものがあるので再編集しました。「ご尊顔」もあるので興味のある方はコチラからご覧ください。
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維持管理は大変!…上田池堰堤(ダム)

2023-02-10 07:02:19 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県南あわじ市神代社家(じんだいしゃけ)にある三原川水系の上田池(こうだいけ)を目指します。アクセスは国道28号の「立石」信号を南下し、しばらく進むと左側に上田(こうだ)八幡神社が見えてきます。それを過ぎて「←上田池」の看板のあるT字路を左折。そのあたりから道が狭くなってくるので要注意です。そのまま行くとダム横に到着します。

その前にダム下へ行ってみることにします。名称は池ですが、ご覧の通り立派なダムです!すげーでしょ?


ダム下には3つの石碑があります。向かって右のは不明ですが、

中央には「共栄●記念」と刻まれています。ま、これもよくわかりませんが。

左には「殉職碑」。ダム築造中に亡くなられた方を慰霊するものと思われます。


もうちょっとダムに近づいてみます。ダム上からの緩やかな傾斜がわかりますね。


上のアクセス通りに行くと右岸に到着しますが、ダム横は駐車スペースがないので少し離れた場所に停めます。そして右岸の貯水側からダムを見ると、こんな感じ。いや、もう、芸術ですやんか。


ダム横に近づきます。この石積みの工法、おそらく大正から昭和初期に築造されたダムに見られるものですね。


ダム横には案内板があります。この下流にあった旧三原町では上田池築造以前は農業用水を三原川から取水していましたが、水量が少なく人々は旱魃の被害に苦しめられていました。そこで大正4年(1915年)、ため池建設計画が持ち上がります。しかし第一次世界大戦による物価高騰やダム形式の検討に手間取り、着工まで数年を要することに。最終的にダム形式は農業用ダムとしては全国初の重力式粗石モルタル形式、高さは41.5mに決まったということです。


兵庫県のため池を示す看板。


これがダム上です。歩いてみましょう。良い感じの古さです。


中央から見た上田池の様子。


一方、41.5m下の景色。ひぃ〜、なかなかの高さです。

そして、下流側の遠景。


ダム上、中央にはこれまた古めかしい建物?が…。


その壁には諸元を記したプレートが嵌め込まれています。これによると起工は大正15年(1926年)1月5日で、竣工は昭和7年(1932年)4月3日とあります。

その下にもプレート。2008年の土木学会選奨土木遺産では「上田池堰堤」として認定されています。


対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


左岸から見た様子をご覧ください。なんとも歴史を感じさせますね。


左岸に来てビックリ。なんとそこには上田池の築造の経緯と改修の詳細な記録が残されているのです!年代順に見ていきます。

まずは「上田池碑」と題された石碑。


こんなことが記されています。転記すると…

「池は上田河内の渓谷に有り因て名く神代市榎列三箇村耕地整理組合の経営に属す大正15年1月5日工(事)を起し昭和7年4月3日竣成す堰堤高136尺延長72間敷幅120尺天幅14尺体積6千立坪を有する粗石モルタル積石堰堤にして満水面積11町5●歩水深118尺優に20有4万立坪の水を蓄う而して用水路幹線延4110間一大動脈を形成し●十條の支線之より分岐す総て石造又は混凝土(コンクリート)溝にして一度樋を放てば数十分間を出でずして忽ち里餘を奔流し萬頃に灌く地区総面積565町歩内開田136町歩往年旱害の地為に其憂を絶ち瘠土一朝にして膏田と化し穣々佳禾を生ず溜池竝に水路工事は総て組合の直営に就り労役延人員20有5萬工費総額80萬円に及ぶ葢し地方稀に見る農業土水事業にして常時農村失業者の救済も亦之に依て達せらる夫れ組合の地区たるや三原川左岸高地に存し古来水利に乏しく灌漑用水は概ね之で地下水に需むるも炎●句餘に及べば忽ち枯渇し秋禾実らず地力●耗耕作を遺棄する者年と共に多し茲を以て築池の議提唱一再にして止まらずと雖も未だ其機到らず浩歎之を久うす會食糧自給の聲上下に囂しく延て開墾助成法の発布を見るに及び即ち同志相謀り歳餘を費して議を纏め大正11年7月28日始めて組合の設立を見爾来幾多の日子を重ね設計を周にし低資を仰ぎ大小水利問題の解決を遂げ多大の困難を排して其竣功を見るに至る葢し組合員和衷協同戮力一致の賜たらすんばあらず冀(こいねが)くは後世其恵沢に浴する者永へに先人の遺業を追憶し其労を空うせさらむことを
  昭和7年4月 貴族院議員從四位勲三等永田秀次郎●●撰  正八位勲六等河瀬脩二謹書」

「用水路改修記念」と題された石碑。

その裏には次のようなことが記されています。

「昭和7年(1932年)上田池の竣工とともに用水路を新設。榎列(えなみ)、市、神代三地区の開田補水田300余町歩の良田に灌漑を始めた。その後、年を経るとともに施設の老朽化が現れ、昭和36年(1961年)より用水路全面改修工事を計画実施し財政難の折柄役職員組合員一致協力幾多の困難を乗り越えてこれを遂行し現在に至る。」


「樋門改修記念」の碑。昭和61年(1986年)秋、突如樋門から2,500トン余りの漏水を確認。こりゃ大変だということで、早速調査を行ない、翌年3月に第二樋門操作弁の改修を行なう。平成元年(1989年)には第一、三、四樋門の操作弁の改修と第四樋門取水管防銹工事を実施。平成2年(1990年)には堤体漏水防水工事、平成3年(1991年)には樋門取水管内外共防銹工事などや水位計新設に伴う電気設備を設置。いやいや、大変な工事です。


改修工事はさらに続きます。平成24年(2012年)からは毎年樋門の改修工事が実施され、平成28年(2016年)3月に竣工したとあります。


いや〜、こうしてみると施設の維持管理は大変なことがわかりますね。右岸の案内板だけではわからない「見えない苦労」が左岸の碑文から読み取ることができます。

最後にもう一度「ご尊顔」をどうぞ。うんうん、格好良い!
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ダムに匹敵!…越良池

2023-02-09 07:08:28 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県南あわじ市神代國衙(じんだいこくが)にある大日川水系の越良池(こえらいけ)を目指します。ここはダム便覧には載っていませんが、兵庫県のため池データベースによると高さが15.8mでダムの条件を満たしているので行ってみることにしました。アクセスは国道28号の「三条」信号を「松本サッシセンター」方面へ曲がり、最初の「止まれ」表示のある交差点を右折。オニオンロードを進み、2つ目のT字路を入って行くと目的地に到着します。

あれのようですね。到着までもう少し。


右岸に到着です。立派なダムですよ、これは。


兵庫県のため池を示す看板。


右岸のダム横には「大成越良池」と記された石碑。

その裏側の上段には越良池の沿革が記されています。写真を撮り忘れたのでその内容を転記します。

「昔この池、越良の谷に徳川末期築造されたと伝わる口の池、中の池、奥の池の三つがあって旧田主が水利権を持って稲作をしていました。
 明治四十三年に戌申請書が発布されました。これに応じて元来畑地帯で水の乏しかった喜来、黒道、篭池、国衙の城家、国上部落の農民が発奮して開田作業を成すと共に水利の必要から喜来部落 正木正巳、城家部落 鳥井嘉平の両氏が中心となり、旧田主の口の池を買収併合して、今までより大きな新池の築造にかかることに衆議が一致し、新旧田主合同で工事をすることになりました。田主人は自己の水掛り面積に応じ、四百五十株を出資して山を買取り田主役として出役し、明治四十三年翌四十四年の二ヶ年で貯水量十万トンの越良新池を築造しました。当時の田主人は新旧あわせ百五名で、受益面積は、旧田主の開田済十町歩、新田主の開田である神稲十七町五反歩、国衙十七町五反歩の合計四十五町歩でした。
 大正時代に入っても、谷が浅いために水量が乏しく予定の貯水量がないため、毎年のように灌漑に苦心しました。
昭和七年翌八年に堤体下部内面百メートルにわたり刃金土の土羽補強修理工事を施行しました。昭和二十九年当時の水利総代 神稲 田村佐一郎氏、国衙 久井芳郎氏、会計 中尾英一氏等が発起人となり耕地整理組合を創設し、補助を得て市村 早瀬和一氏の監督により堤体中心部百メートル、深さ六メートル幅員二メートルの立ち刃金を入れる漏水防止工事を昭和三十年に行いました。
 昭和五十九年桶管付近に穴があき小修理をしましたが、漏水止まらず翌昭和六十年再び陥没、大修理をしました。しかし、漏水甚だしく昭和六十年総会の議決により、ため池等整備事業(大規模)の申請をし、認可を得て工事に入り、兵庫県洲本土地改良事務所のご指導並びに三原町のご協力のもとに工事請負人株式会社榎本組の施工によって昭和六十一年から平成六年度の九年間にわたる工事が完了しました。ここにその大略を記し竣工記念と致します。」

要するにこの地域では水が乏しかったため、明治44年(1911年)に越良新池なるものを築造。しかし水量は相変わらず乏しく、それに加えて度々漏水しては修理するといったトラブルが頻発したため、昭和60年(1985年)にため池等整備事業(大規模)を申請。認可を得て翌61年(1986年)から工事に着工。そして平成7年(1995年)3月に完成したというわけです。

裏面下部には諸元が記されています。


では、ダム上を歩いてみましょう。


中央から見た越良池の様子。


下流側の景色。実に見晴らしが良いですね。


左岸側には越流式の洪水吐があります。


左岸に来ました。振り返ると、こんな感じ。写真の手すりの下が洪水吐からの水路で、


そこから見た洪水吐の様子。そして増水すると水はここから溢れ出て、

あちらへ流れてゆきます。


ため池とはいえ、沿革や諸元もきちんと記されているので見学者にとってはとても有用です。
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義憤の石!…諭鶴羽ダム

2023-02-08 15:00:39 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県南あわじ市神代浦壁(じんだいうらかべ)にある三原川水系の諭鶴羽(ゆづるは)ダムを目指します。アクセスは国道28号の「円行寺(えんぎょうじ)」信号を浦壁方面へ曲がり、県道535号を道なりに進んで行くと到着します。

まずは左岸から見たダムをご覧ください。


では、順を追って見ていきます。県道535号を進んでくるとダムの右岸に到着します。ダムの手前に諭鶴羽ダムの管理所があるんですが、そこから見たダムの様子がこちら。


貯水側から見た諭鶴羽ダム管理所の建物。



先に右岸をあちこち見てまわります。まず目にするのが「諭鶴羽ダム周辺案内図」。ダム湖名は「ゆずるは湖」というんですね。高さは43.9m。


上のリンク先の概要に書かれているように、諭鶴羽ダムは昭和40年(1965年)に来襲した台風23、24号によって三原川沿川に多大な被害が発生したことがきっかけで治水ダムの築造計画が始まりました。そしてしばらくはバルブによる洪水調節を行なっていましたが、平成16年(2004年)からはダム管理の省力化と確実な洪水調節のために自然調節式のダムにシフトしています。

「諭鶴羽ダム」と刻まれた石碑。

その裏には諸元が記されています。竣工年月日は1974年5月29日。なお、「位置」が「兵庫県三原郡三原町神代浦壁」とありますが、三原郡三原町(みはらちょう)は2005年1月11日までの地名で同日に三原郡の他の三町、すなわち緑町(みどりちょう)、西淡町(せいだんちょう)、南淡町(なんだんちょう)と合併して南あわじ市が誕生したので三原郡は消滅しました。上の案内図の「位置」には南あわじ市と記されているので、この案内図は南あわじ市になってから設置されたことがわかります。


そこから見たダムの様子。


おっ、出ました!兵庫県の県営ダムにみられるロボット型のタイムカプセル。

この中にはダム建設に関する資料が収められています。この記述ではダム完成は昭和50年(1975年)3月になっていますが、上の石碑の竣工年月日と異なりますね。これはダム全体の完成を指すのでしょうか…。


その隣には諭鶴羽湖の案内板。湖名はダムの南東にある諭鶴羽山(ゆずるはさん:標高608m)に由来。その頂上には諭鶴羽神社があり、開化天皇の時代に創建されたという。山の名称は天竺の摩迦陀神が鶴に乗って熊野に向かう途中、この山頂で羽を休めたことに由来するという。摩迦陀(まがだ:摩訶陀、摩伽陀とも書く)はインドのガンジス川中流域(現在のビハール州南部)の古称なので、そこの神様が鶴に乗ってはるばる海を渡って紀伊半島の熊野へ向かう途中、ここに立ち寄ったということなんでしょうね。でも地理的にみて何もここで羽を休めずに一気に熊野に行っても良いような気がするんですが、鶴に根性がなかったんでしょうか。

山の名称については別の説もあるようです。つまりこの山には「ユズリハ」と呼ばれる木が自生していて、新芽が出て葉になると古い葉が落ちて代が変わるところから新年に飾られるものだそうで、それが山名になったというもの。ふ〜ん。


では、いよいよダム上を歩いてみることにしましょう。ご覧の通り車両がすれ違えるほどの幅があります。


ダム上、中央から見た諭鶴羽湖の様子。


一方、ダムの真下はこんな感じ。

そして下流側の景色。


対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


左岸、諭鶴羽湖側から見たダムの様子。


その近くには2つの岩が無造作に置かれています。

これらは「担い石」と言います。これはいわゆる有名な「曽我兄弟の仇討ち」に関係するもの。事の発端は1176年10月、兄弟の実父で、伊豆国の豪族である河津祐泰(かわづすけやす:1146-1176)が伊豆国奥野の狩庭で御家人の工藤祐経(くどうすけつね:1147-1193)の郎従に暗殺されます。

これを受けて、実子の十郎祐成(じゅうろうすけなり:1172-1193)は父の仇を討つ決意をします(十郎が曽我姓なのは彼の母が御家人の曽我祐信[そがすけのぶ]と再婚したため)。そして親類である浦壁城主の元で武術に励んでいました。そして大願成就のため諭鶴羽神社へ日参。その満願日に神様からのお告げが…。「そなたの健気な心を聞き届けよう。境内の二つの大石を担って山から下りられるか力を試されよ。必ず成就するぞよ」と。これを聞いた十郎は喜び、すぐに大石を担いで急坂を下山したという。その後弟の五郎時致(ごろうときむね:1174-1194)とともに1193年6月28日、駿河国富士野で父の仇である工藤祐経の殺害に成功したというお話。ただ、悲しいことに兄弟はすぐに斬首されてしまうのですが…。



左岸には「諭鶴羽古道」の入口があります。神社までは山頂経由で3.4kmもあるので、もちろん行きませんでしたが。


淡路島に来て、まさか曽我兄弟に関するものを見るとは思いませんでした。でも学んだ〜。
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設計センスの良さ!…牛内ダム

2023-02-07 14:38:27 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県南あわじ市賀集牛内(かしゅううしうち)にある三原川水系の牛内ダムを目指します。アクセスは国道28号の「国衙(こくが)」信号を南下し、最初の信号を左折。そして突き当たりまで行って右折します。オニオンロードを少し行きイノシシマークの「飛び出し注意」看板のあるところを左へ入り、そのまま道なりに進んで行くと目的地の左岸に到着します。

…てなわけで、左岸にやって来ました。治水ダムのようです。


牛内ダムの案内図。


左岸にある展望広場。

このモニュメントは何を表現しているんでしょうね。タイトルと作者は不明。


そこから見たダムの様子。


眼下には展望テラスがあります。う〜ん、なんかデザイナーのセンスを感じさせますね。


左岸、ダム横には「牛内ダム」と刻まれた石碑。1999年3月竣工とあります。

その裏には牛内ダム築造の経緯が記されています。おや? この文章、見た覚えが…。そうです、最初の2つの段落は一昨日記事にした大日ダムに置かれている石碑と全く同じでした。


なんだ?パクリか? いやいや、そうじゃありません。実は石碑にもあるように昭和54年(1979年)に発生した大水害を機に三原川総合開発が始まり、その一環として昭和58年(1983年)に大日ダムと同時にこの牛内ダムも工事に着手、そして竣工。2つのダムの一体化工事により下流の三原平野の水害を防ぐ役割を果たすことになったというわけです。だから碑文の文言も共通しているんですね。なお、2つのダムは放水トンネルで繋がっていて、増水時にはこのトンネルで分水して貯留することで洪水になるのを未然に防ぐのだとか。ほぉ〜。

左岸には「牛内ダム管理所」があり、


1994年9月竣工。オシャレなデザインは兵庫県の都市住宅部が設計したからなのでしょう。


そこからダムを見ると、こんな感じ。


では、ダム上を歩いてみることにしましょう。


ダム本体の欄干には南あわじ市の花「ニホンスイセン」のレリーフ。これは大日ダムにもありましたね。


ダム上、中央から見た貯水湖の様子。


ダムの真下はこんな感じで、

下流側を眺めるとこんな景色です。


対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じです。


右岸、貯水側から見たダムの様子。


同、下流側からダムを見ると、こんな感じ。


両岸の側壁のタイル。これは大日ダムでも同じものが貼られていましたが、やはりオシャレ。


同じ時期に築造された大日ダムと見比べても、この牛内ダムはトータル的にオシャレなデザインがされていると思います。デザイナーのセンスかなぁ。
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美女池とともに…大日川ダム

2023-02-06 16:31:05 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県南あわじ市北阿万新田北(きたあましんでんきた)にある三原川水系の大日川(だいにちがわ)ダムを訪れます。アクセスは昨日記事にした大日ダムの上流にあり、右岸・左岸どちらからも遡って行くと到着します(大日ダムまでのアクセスは昨日の記事をご覧ください)。

まずは「ご尊顔」をご覧ください。形状からすると治水ダムのようです。


昨日書いた左岸横の水路が気になったので、それを遡りながら上流へ向かいます。


すると大日川ダムのダム下に続いていることが判明。つまり当然っちゃあ当然ですが、大日川ダムの水の一部が大日川とは別にこの水路に流れていたわけです。


そこからダムを見上げてみます。おお〜っ。


続いて右岸のダム横に向かいます。これがダム上。

ダム本体に貼られた「大日川ダム」のプレート。このブルーのプレートがあるということはこの築造物がダムというよりもため池的な意味合いが強いことを示すようです。ちなみに兵庫県のため池データベースによると、このダムの高さは43.5m、長さは178mと記されています。

昭和39年(1964年)8月竣工とあるので、下流の大日ダム(1999年3月竣工)よりも前に築造されたことがわかりますね。貯水量を示すディジタル表示はもちろん後付けでしょうが、なんかオシャレ。


右岸、貯水側から見たダムの様子。


ダム上を歩いてみます。中央から見た貯水側はこんな感じ。


ダムの真下を見下ろして、

下流側を眺めます。


対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。


左岸のちょっと高い場所からの景色。ダム上の建物のところに軽自動車が止まっていますが、その所有者は可愛らしいお嬢さん。おもむろに建物の鍵を開けて入った後、しばらくして出てきました。県の職員かな?貯水量のチェックがルーティーン・ワークなのかもしれません。お疲れ様です。


左岸、貯水側から見たダムの様子。


右岸に戻り、さらに上流へ。


しばらく行ったところに石碑が…。

上部に「竣工記念碑」と記されていますが、下に記されている文言は半分以上が風化していて読めず。


さらに進んで行くと堤がパーテーションのように仕切られていて、道路沿いには「美女池」の表示。

堤はこんな感じですが、

堤の中央にある「これ」が気になります。


これが美女池で、


増水すると水はここから大日川ダムへ流れていくようです。


美女池とはなんぞや? そう思いながらさらに上流へ進むと、案内板がありました。それによると、ある夏の朝、地元の農民が山へ行く途中この池にさしかかると霧が立ち込めていたそうな。それがあまりに美しく眺めていると水の中から美しい女性が出現。驚いて山へ行くのも忘れて家に戻りそのことを近所の人たちに語りました。それを聞いた若者たちが池に向かうも誰もおらず、やがてその噂は忘れられていきました。再び夏が来て村の庄屋がお供とともに池にやってくると生臭い風とともに霧の中から池に美女が立っているのを目にします。村に戻り、彼は村人たちにそのことを話すと皆あの噂は本当だったんだと信じ、いつしかこの池を「美女池」と呼ぶようになったとか。一体美女は誰なのか?ある坊さんは大蛇の化身ではないかという。大蛇は川で100年、池で100年、そして海で100年修行を積んだ後天に昇る力を得るそうな。だから淡路島の南端の潮崎にいた大蛇がこの池に来て退屈だったので人間を驚かしたのだろうと。その昔、この池には洞窟があり、それが潮崎まで繋がっていると信じられていたので坊さんの説は人々を納得させたのでしょうね。でもこの池から潮崎まではかなり距離があり、実際には繋がっていないはず。とすれば、この坊主、とんでもない嘘つきということになります。


それにしても美女は誰だったんでしょうね。かつて身投げした成仏していない霊? いやいや、それだとロマンがありませんな。
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三原平野の守護神!…大日ダム

2023-02-05 07:00:35 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県南あわじ市北阿万新田北(きたあましんでん きた)にある三原川水系の大日(だいにち)ダムを目指します。アクセスは国道28号の「国衙(こくが)」信号を「南あわじ市休日応急診療所」方面へ曲がり、道なりに進んで「衣料センターひがしら」のところのT字路を左折。そのまま進んで行くと大日ダムが見えてくるので直進すればダム下、そして手前のカーブミラーがあるT字路を右折して行くと左岸のダム横に到着します。

まず、ダム下へ行って「ご尊顔」を拝みました。治水ダムのようです。


次に左岸のダム横に向かいます。横長のダムであるのがわかりますね。


左岸、貯水側からダムを見るとこんな感じ。


左岸のダム横にはこんな水路があり、滔々と水が流れています。

そしてこれは上流から繋がっているようです。一体これはなんだろうとその時は思いました。その答えは次回記事にする大日川ダムで明らかになります。


これが左岸から見たダム上。行ってみましょう。車両通行可。


ダム本体には様々なイラストが所々に見受けられます。「うずしお(渦潮)」は言うまでもなく鳴門岬の先にある鳴門の渦潮のこと。ちなみに鳴門岬の手前には「道の駅うずしお」があります。

こちらは「淡路人形浄瑠璃」を描いたもの。淡路人形浄瑠璃は室町時代末に百太夫という人形遣いがこの地に人形の操り方を教えたのが最初で、江戸時代になると阿波藩主の蜂須賀氏の支援を受けて享保(1716-1736)・元文(1736-1741)年間に最も栄えたそうです。淡路人形浄瑠璃は明治時代になって次第に衰退し存続が危ぶまれましたが、1964年に伝統芸能を守る目的で「淡路人形座」が設立され、多くの演目が上演されています。また、1976年、同浄瑠璃は国指定重要無形民俗文化財に指定されました。

こちらは南あわじ市の花「ニホンスイセン」のイラスト。


ダム上、中央から見た貯水湖の様子。この上流に大日川ダムがあります。


一方、ダムの真下はこんな感じで、

下流側はとにかく良い眺め。


対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。


右岸には「大日ダム」と記されたプレートが嵌め込まれた石碑があります。1999年3月竣工。

その裏には築造の経緯が記されています。それによると下流の三原平野は古来より渇水と氾濫を繰り返しており、これらの被害をなくすことが長年の人々の願いだったそうです。昭和54年(1979年)の大水害をきっかけに三原川総合開発計画が持ち上がり、その一環として大日ダムの築造が昭和58年(1983年)に着手されたとあります。


その石碑近くから見たダムの様子。


ダム本体にひっそりと置かれた「大日ダム 定礎」の石碑。1995年11月。


右岸には大日ダム管理所があります。



そこからダムはこんな風に見えます。


大日ダムは上に書いたように下流における渇水と氾濫を防止する目的で築造され、兵庫県としてはため池でなくダムとしての位置付けのようです。というのも兵庫県のため池に掲示されるあのブルーの看板がないから。この上流には大日川ダムがありますが、そこにはブルーの看板があるんですよ。詳しくは次回の記事で紹介します。
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ダムでいいじゃん…稲田新池

2023-02-04 06:56:12 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県南あわじ市北阿万稲田南(きたあまいなだみなみ)にある本庄川水系の稲田新池(いなだしんいけ)を目指します。ここはダム便覧には乗っていないため池なんですが、兵庫県のため池データベースによると高さが15.6mでダムの条件を満たしているので行ってみることにしたんです。

まずは右岸から見た様子をご覧ください。なかなか立派なため池です。


…と、結果的には辿り着いたものの、最初は行けないんじゃないかと半ば諦めました。というのも、最初は目的地が下流側から見えたのでこのままアクセスすれば行けるなと思ったのです。(写真中央の右に見えるのが目的地)


ところが、このまま進んで行くとですね、なんとフェンスがあって行けないことがわかりました。目的地のため池はすぐそこなのに…。いや〜、困った。さて、どーする。

改めて地図を見ると別のルートからアクセスできそうなことが判明。つまりフェンスの向こうにある道が別のところから繋がっていることがわかったんです。それがどこからかは文字で説明するのが難しいので地図を載せておきます。目的地は写真中央の「➕」で、ワシが最初アクセスしたのは白草池の下側の道でした。でも、このルートがダメなので地図を見直したところ、大日ダムへ向かう手前のところから入って行くと稲田新池に辿り着くことができることがわかったというわけ。


こうして未舗装の道を進んで行くとなんとか稲田新池の右岸に到着。やれやれです。これがいわゆるダム上になります。


早速ダム上を歩いてみました。中央から見た貯水側の景色はこんな感じ。


一方、下流側はこんな景色です。写真右端に見えるのが白草池。


対岸(左岸)には兵庫県のため池を示す看板があります。


左岸からダム上を見るとこんな感じ。


左岸、貯水側から見た様子。


左岸には洪水吐があります。越流式です。

違う角度から見るとこんな感じ。


いや〜、見ることができて良かった。満足、満足。
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