ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

ちょいと手抜き

2006-01-30 18:38:21 | 脳みその日常
ただいま原稿に手こずっております。いま流行の言葉で言えば「想定外」だった。明日の講座の準備もしなくちゃならんし。いやー、トホホである。

というわけで埋め草をするために、ふと浮かんだ疑問を書いておこう。

スケートのショートトラック競技はなぜオリンピックの種目になったのか。スピード競技では何か不満でも?Rの小さいコーナーを抜ける速さを競ってどうだっていうんだろうか。それはクルマでいえば高速仕様と峠仕様の違いみたいなものなのか?両者は明らかに違うんだぞ!と。そういう理屈ならわかるのだが。

もうひとつ。

浮かぶでも沈むでもないモーグルとかいう競技は大回転の選手では通用しないのか。どちらの競技もヒザの柔らかさが要求される。でも大回転は空中で踊ることはない。そうか、その違いか…。照れ屋さんにはモーグルはできないのかも。ほんとか?(笑)

ま、どうでもいいのだが、とりあえずルーティーン・ワークをこなしたということで。

すみません。明日はちゃんと書きます。
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闇の必要性

2006-01-29 10:02:28 | 脳みその日常
闇といっても別に物騒な話ではない。久しぶりに電灯を消して寝ただけのこと。

普段の生活が昼夜逆転しているので、寝るのはだいたい昼間だ。といって部屋が完全に真っ暗になるわけじゃない。太陽さんのパワーは限りなく偉大で、どこからか光が入ってくる。そんなことはとっくの昔にわかっているので、寝る時にカーテンで遮光するなんて無駄なあがきはしない。だから明るいなかで堂々と寝ることにしている。

ワシの眠りはどちらかと言えば深いほう。周囲が明るくても全く問題はない。しかし最近、どうやら生物にとって24時間のうちに闇の状態がいくらかなければならないような気がしてきた。

そもそも世界のどこにいても昼と夜は存在する。すべての生物が光と闇を交互に経験するようになっている。だから夜行性の生物は別にして、フツーの生物は光のある昼間に活動をし、夜には眠るというパターンだ。人間は基本的に夜行性ではないので、当然ながら後者に属する。

しかし、文明の発達によって今や24時間灯りのある生活が可能となった。そこでワシのような昼夜逆転生活者が登場することになる。それでもやはり24時間のうちに闇の状態がいくらかでもなければ生物として破綻をきたすのかもしれない。それは肉体的な破綻はもとより精神的な破綻という意味でもある。

ま、そんなムズカシイことでなく、要するに闇の状態のなかで寝るのが良いというだけの話。なぜ良いのか。理由はわからない。でも、脳みそがスッキリするのは事実。別に長時間の睡眠をとるわけではないのだが…。

あ、こんなことを書いてもあまり意味がないねえ。だって多くの人は夜間に寝ているんだもんな。うははは。
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モーツァルト君、生まれる

2006-01-28 07:11:19 | 音楽あれこれ
昨日は、あの有名なヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-91)の誕生日。今年はまた生誕250年ということで、ちまたには「モーツァルトでひと儲けしよう」と企む輩がどこからともなく異常発生する予感。あー、憂鬱。

いや、ちょっと待てよ。モーツァルトはとっくに彼岸の人。その命日を偲ぶのならわかる。なぜならここで言う命日とは、現在の彼にとっては彼岸における誕生日みたいなものだからである。あ、あのね、仏教徒のように亡くなってから四十九日後が本当の命日とか、そーゆー理屈をここでは言わないように(苦笑)そもそもモーツァルトは仏教徒じゃないわけで…。

いずれにしても、とっくに死んでる人の現世での誕生日を祝うというのには、ちょっと違和感がある。現在死んでいる人に対して「Happy Birthday To You!」とか歌ってもねえ…。

たとえば、自分の身内にそれを当てはめてみようか。とっくの昔に亡くなっている自分の祖父の誕生日を祝うかい?その命日に法要など何らかの「イヴェント」はあるにしても、ジイさんの誕生日を祝うことはフツーはやらんよな?

一般人と天才を一緒に扱うなって?うーん、まあそーゆー意見もあるだろうな。でも、やっぱり何か不自然だよ。モーツァルト本人にしたって、「おいおい、ワシは死んどるっちうねん!」とツッコミを入れたくなるだろうし…。いや、アイツのことだから小躍りして喜ぶかもしれんな(笑)

ま、そんなこんなで、今年1年はモーツァルトの音楽を聴く確率が異常に高くなるのは間違いない。昨晩の「誕生日」では飯田橋のトッパンホールでオール・モーツァルトのプログラムだったし。しかも、演奏会の最後で演奏者と聴衆が「Happy Birthday To You!」の大合唱…。だーかーらー、死んどるっちうねん!(苦笑)

実際、ワシの仕事でも昨年末にはすでにモーツァルトに関する原稿依頼がずいぶんあった。きっと、まだまだモーツァルトに関する原稿依頼が来そうな予感。個人的には世間が騒ぐほどモーツァルトを評価していないので正直シンドイのである。あー、憂鬱。

そして12月5日の「命日」になればなったで、故人を偲ぶイヴェントがきっと行なわれることだろう。一年中続く「モーツァルト特集」。まったくもって西暦の末尾が「6」と「1」の年は憂鬱である。あ、モーツァルト・ファンの皆さん、ごめんね。
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くじら橋に行ってみた

2006-01-27 04:07:24 | ドライブ関連
都内のナイスな夜景スポットのひとつとしてマニアの間でよく紹介されるのは稲城市向陽台にある「くじら橋」。その場所は前から知っており、何度もその付近を通ったことがある。しかし、実際その場所に立ち止まって夜景を眺めたことはなかった。そんなわけで、ふと思い立ったので行ってみることにした。

現地に到着したのは午前2時。晴れているからナイスなビューが眺められるはず。そう思いながら橋の真ん中に行ってみる。確かに都心の灯りが見えないこともない。しかし、期待していたほどのビューではなかった。たぶん同じ向陽台でもほかの場所のほうがキレイな夜景スポットがありそうな気がする。ヒマならば探検するところだったが、仕上げなければならない原稿があるので、今回は断念。

ちなみに、あるサイトでみつけた昼間の「くじら橋」はこんな感じ

下から撮影したのを見ると、確かに「くじらの腹」みたいでしょ?


なぜ今回自分で撮影しなかったのか。それは寒くて撮影することすら忘れていたから(笑)
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声帯は筋肉だ!

2006-01-26 16:16:27 | 脳みその日常
ひと眠りして起きたらノドに異常な痛みを感じた。おっと、これは風邪か?ついに日頃の不摂生に厳罰が下ったか?でも、熱もないし、体調が悪いわけじゃない。はて、何だろう。

原因を考えてみた。思い当たることは、ただひとつ。喋り過ぎである。

昨夜、身寄りのない友人から電話が掛かってきた。久しぶりということもあり、いろんなことを一気にお互い話しまくる。受話器を置いたのは午前7時半。気づけば6~7時間も話していたことになる。

普段ほとんど喋ることのないワシだから、おそらく急激に喋ったことで声帯に負担がかかったのだろう。逆に言えば、それだけ声帯が弱くなっている証拠。日頃使わない筋肉も急な運動をすれば筋肉痛になる。声帯の筋繊維が筋肉であることを思えば、それが筋肉痛になるのも当たり前。

それにしても、この程度のことでノドが痛くなるなんて、考えてみれば異常なのかもしれない。いかん、いかん、フツーの人間生活に戻るようにしなければ…。気づかないうちに、どんどんヘンな奴になっていく可能性があるからな。少なくとも人間として必要な機能は失わないように心がけないと。気づいた時には声が出ないなんて、シャレにもならんし。

おー、こわっ。
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出会い系サイトで遊んでみた

2006-01-25 11:54:10 | 脳みその日常
このところスパム・メールがやたらに来る。いつもは迷惑メールとして処理しているが、昨日それらを消去しようとタイトルだけ見ていたら「出会い系サイト」からの "ご招待" が目に留まる。ちょっとヒマだったので、冷やかしで遊んでみることにした。

ほうほう、登録は無料なのか。ならば早速…。すると、登録完了を知らせるメールが来ると同時に、いきなり「はじめまして」のメールが!おいおい、いきなりかよ!

それも間髪入れずにタイプの違う3人からのメールだった。ひとりは学生風、もうひとりは寂しんぼうなOL、そして3人目はバツイチで会社経営をしているという30代の女性。

よくもまあ、これだけタイプの異なる人を「派遣」させたものだと感心。冷やかしとはいえ、こちらも一応真面目に対応してみることにした。とりあえず学生風なコはパス。残り2人とメールのやりとりをしてみる。

笑っちゃうのは、相手がどんな奴なのか知らないのに、いきなり「会おうよ」と切り出して来たこと。アホか、まったく…。ま、そうやって誘うのが向こうの商売。何も気づかないフリをして、こちらも「いいよー」とか返事をしてみる(笑)すると、

「じゃあ、いつなら会えるの?」と来た。
「この日かあの日ならいいよ」と答える。
「わーい、嬉しいな♪ じゃ、この日に会おうね」
「いいよ」

まだこの段階では時間と場所は決めていない。また、時間と場所については相手に決めさせることにした。こちらとしては相手が次にどう出てくるか観察するためである。

「具体的な日時が決まったら、改めて連絡してよ」
「わかったー♪」

やれやれ、我ながらしょーもないメールをしてるなと思いつつ、読書でもするかと思っていたら、すぐさまメールが。

「ねえ、どんなタイプが好きなの?」

アホですか!アンタは…。そんなものは会ってから聞けばいいことだろ!と思いながらそのメールは放置。なぜワシが激昂したのかというと、次のような事情があるからだ。

つまり、メールを交換するといってもカネがかかるのである。相手のメールを読むにしても、こちらがメールを送るにも所定のポイントを消費させられる仕組みになっている。だから余計なことをグダグダとやり取りしていると無料ポイントは、あっという間になくなるのだ。

で、気づけばポイントはなくなってた…。そこで「試合」は終了。

欲望ギラギラの男ならすかさず追加ポイントを購入し、相手をモノにするため会話を続けるのだろう。しかしワシは最初から会うつもりはないからそこまでである。相手がいわゆる「サクラ」であることはミエミエなのだから、何もワナにハマるこたーない。

それにしても、「サクラ」の特徴は「何とか相手にメールを続けさせようとする」ところにある。サクラのメールの文末は必ず相手への問いかけで終わる。そうすれば相手がリターンしてくれると思っているのだろう。

「私はこう思うんだけど、アナタは?」などが典型的な例だ。笑止千万だぜ。もっと巧妙なワナを仕掛けんかい!などと思ってしまう(苦笑)

まあ、ワシはヒマな時間を楽しめたからいいけどね。ただし、出会い系で真剣に相手を求めようなどと思っている人がいたら絶対に止めたほうがいい。きっと知らないうちに膨大なカネを使うことになるだろうから。欲望につけ込む商売とはそういうものなのだ。
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ひとつの時代が終わる

2006-01-24 03:51:58 | 音楽あれこれ
1月22日、日本の童謡界の重鎮である川田正子さんが亡くなった。71歳。虚血性心不全。海沼実が創設した音羽ゆりかご会で頭角を現し、《みかんの花咲く丘》の歌唱は彼女の代表曲だった。その後引退するも71年に復帰し、「森の木児童合唱団」を主宰。後進の指導に当たっていた。

川田さんとは面識はない。しかしワシの人生のなかで川田正子という存在はいろいろな記憶を呼び覚ますものだった。

最初に思い出されるのはワシが阿佐ヶ谷に下宿していた時。ここの大家さんには本当にお世話になったので、いずれ他の話でも登場するかもしれない。とにかくこの大家さんは「日本の情緒」を絵に描いたようなご夫婦で、旦那さんは自分よりも年下の琴古流の尺八の名手、山口五郎(1933-99)に師事し、熱心に練習されていた。また奥さんは三味線を嗜むという極めて日本的なお宅だった。

なぜここで川田正子が登場するのかというと、当時ワシは民族音楽にハマっていて、その枝葉として日本の童謡についても調べていたからである。下宿の部屋で音資料を聴いていたら奥さんが来て「下(の階)でお茶でも飲みに来なさいよ」と誘われた。ちょうど脳みそも疲れていたので言われるまま階下の大家さんのお宅に伺う。

なにしろこの家は古い木造。小さな音で聴いていても階下には音が聞こえるほどだった。ワシが熱心に童謡を聴いていたので、大家さんはそのことに興味をもったというわけだ。

「あら、童謡に興味があるの?やっぱり川田正子の歌声はいいわよねえ」
「そうっすねえ。子供らしい歌い方ですもんねえ」

そんな話をしながら緑茶をすすったものである。

次に川田正子がワシの人生に登場するのは数年後。ビル・メンテナンスの会社でアルバイトをしていた時のことだった。その会社のビルの1階にはスナックがあった。昼間はランチをやっていたのでよくそこへ食べに行ったのである。生姜焼きなんかがメチャクチャうまかったなあ(笑)いや、それはさておき。

ある日、いつものようにランチを食べていたら店の奥さんが疲れた顔をしていたので「大丈夫ですか?」と尋ねる。すると、お嬢ちゃんを音羽ゆりかご会に入れたいらしく、そのために「いろいろ大変なのよ」という返事。

「えっ、あの川田さんの『ゆりかご会』ですか?」
「そうよ。でもなぜアナタ、そんなこと知ってるの?」
「いえ、まあ、そんなの常識ですけど…ゴニョゴニョ…」

あのスナックはまだあるのだろうか。

その後、今の仕事を始めてからバブルの頃にはいくつもの「童謡・唱歌」の企画を立てるため、参考資料を借りにコロムビアやビクターに足繁く通ったものだ。それでまた川田正子の実績を改めて知ることになる。そういえば、資料を借りる際に丁寧な対応をしてくださった課長のIさんと主任のIさんは今どうしているのだろうか。すっかりご無沙汰だな…。

とにかく、ひとつの時代が終わった感は否めない。川田さんの冥福をただただ祈るばかりだ。
合掌
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グダグダの月曜

2006-01-23 09:31:41 | 脳みその日常
ワシの生活リズムは完全にヨーロッパ型。このまますぐに飛行機で渡欧しても生活に支障はないだろう。いや、単に昼夜逆転してるだけなんだけど…。

ついさっきまで「コメント」を書いていた。あるサイトでいつもの講座の内容を宣伝してくれるので、そのためのコメントを考えていたのだ。だが、考えれば考えるほどナイスなコメントが浮かばない。

テキトーに書けばいいじゃないかと思うかもしれない。いやいや、そのコメントこそキャッチーなものにしないと受講者は集まらない。コメントを読んだ人が「一体どういう話をするんだろうか。聞いてみたいな」と思わなければ意味がないからだ。

それにしても、当講座もそろそろクラス分けをしないといけない時期に来ている。ウチの講座にはまったくのクラシック音楽初心者もいれば、筋金入りのベテラン・リスナーもいるからだ。どのレベルの人も飽きさせないような話をするのは本当に難しい。このところ、それをつくづく痛感する。でも、せっかく来てくれるのだから何かを得て帰っていただきたいと願っている。

一番簡単なのがいくつかのクラスに分けること。そうすれば受講者のレベルに応じて話をすることが可能だからだ。ところがクラス分けをするほど受講者がいるわけではない。何とも歯がゆい。

そう考えると大学で教えることなんて本当にラクだなあと思うね。入学してくる学生は一定レベルの知識をもっている。となれば専門用語は使い放題だし、マニアックな研究テーマの話もウハウハ言いながらできる。さぞや楽しいだろうな…。ま、それはそれで人間関係などの点で苦労は尽きないんだろうけれど。そう、隣の庭の芝生は何とかかんとかであるから、これ以上は望まないことにしよう。

おっといけない。そろそろ就寝時間だ。しかし今日は月曜日。きっと眠りについた頃に電話がかかって来たりするんだろうな。ワシの場合、月曜日というのはそういうパターンが多いのだ。よーし、いっそのこと留守電にして居留守にしてしまおうか。いやいや仕事の依頼だったらマズいし…。さあ、どーする…。

結局、毎週月曜日の午前中というのはグダグダしながら時間を過ごす。寝るのはだいたい昼過ぎになってから。あー、ホントに無駄に生きてるな、ワシ。よし!原稿を書くための下調べでもするかな。
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創造は醜なり

2006-01-22 03:56:14 | 脳みその日常
少し前、「美の巨人たち」というテレビ番組で中村正義(1924-77)を特集していた。この日本画家の名前は以前から知っていたが、その生き様やポリシーなどについては恥ずかしながらロクに知らなかった。もちろん川崎のよみうりランドの近くにその美術館があることは知っていたが、未だ足を踏み入れていない。

その番組では中村の凄まじいまでの「思想」がうまく取り上げられており、興味がわいたので改めてその著書『創造は醜なり』(美術出版社)を読む。著書といっても、これは1957年から1975年までにあちこちの雑誌等に掲載された短文をまとめたもの。画業が専門であるから、もちろん美術に関する内容がほとんどである。

周知の通り、彼のスタンスは前衛・革新的な作品を作ること。だから権威ある(と世の中では評価されている)日本芸術院などについては完膚なきまでに叩きまくる。でもそれは負け犬の遠吠えではない。なるほど、なるほどと思わせる理屈が次から次へと出てきて、読み物としては非常に面白い。ただし、彼は文章のプロじゃないので読みにくい文体ではある。しかし慣れればそれも個性だなとわかる。

中村は何も美術界のことだけを述べるのではない。世の中の状況を見る彼の目は信じられないほど鋭い。社会批評、文明批評といってもよい文章もある。驚いた。例えば以下のようなくだりがある。

「人の嫌がる仕事を一手にひき受けての犠牲的精神ならば立派なものということになろうが、如何にせん無知と貪欲の二重奏。自分達が住むこと自体、困難になりかねない今日この頃の汚れ。人心の荒廃。金があることが豊かである、ということではないことにまだ気が付かない不思議な国だ。」(「貧しさと怯え」より)

これは1972年11月に『新日本美術』に掲載されたもの。34年も前に書かれた文なのに、今読んでも決して色褪せていない。むしろ、当時から我々はちっとも進歩してないじゃないか、学んでないじゃないかと悲しい気持ちになる。

この本にはいろいろな意味で教えられた。
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時は流れる

2006-01-21 15:16:29 | 脳みその日常
今日、東京は久々の雪。前日から降ることがわかっていたので、昨夜は本日分のドライブをしておいた(笑)もっとも、雪の中でケツを振りながらのドライブもまた楽しいのだけれど。

さて、昨日は久しぶりに甲府盆地を一周する。むかしバイトでファミリーマートの店舗配送の仕事をしていた。その時のコースを回ってみただけの話。

新しい道路ができていて面食らうのはよくある。記憶の中の景色とは異なって見えるからであろう。しかしもっと驚くのは店舗そのものがなくなっていること。「甲府コース」は当時10店舗だったが、昨晩行ってみたら同じ場所で営業していたのはたった3店舗しかなかった。何か寂しい気がするねえ。

道を覚える時、コンビニを目印に記憶することはよくある。でも気をつけなければならないのは、ある程度時間が経つとその目印そのものが消失していること。いや、コンビニに限らない。近年ではガソリン・スタンドなども廃業する時代だから記憶するほうも大変だ。ましてや道路そのものが変わったりしていると、もうバンザイ。とはいっても、それがまたワシには面白くてワクワクしちゃうんだけどね。
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人間の大きさ

2006-01-20 16:00:32 | 脳みその日常
このところテレビを賑わせているのは、ハッキリ言って成金の奴らだ。偽装建築問題にしても粉飾決算にしても、つまるところカネを稼ぐことで地位を築いてきた連中である。彼らは社会的地位という点からすればそれなりに尊敬される人物のハズ。

ところが、いざ何らかの問題が表面化した時の対応の仕方はどうだ。マンション住民に対しては恫喝するくせに証人喚問ではまるで借りてきた猫のよう。刑事訴追の恐れがあるので云々とか抜かしてケムに巻こうとする。自分のしたことが間違ってないと思うのならなぜ堂々と証言しないのか。いや罪を自覚しているのでコソコソせざるを得ないのだろう。

こうした連中の対応の仕方を見ていて気づいた。コイツらはカネ儲けに関しては苦労をしたのかもしれないが、人間の「うつわ」を広げてないな、と。カネを稼ぐことが悪いとは思わない。それなりの苦労をした代償として金持ちになるのは当然ではある。

しかし何のために稼ぐのか。そもそもの動機は自己愛に他ならない。自分が幸せになりたい。豊かな生活をしたい。結果として社会的な地位を築き、名士のようになったとしても、おそらく奴らにとって、そんなのはどうでもよいこと。カネが稼げたらいいのだから。

「自分だけが幸せになろうなんて思うわけないじゃないですか」と、株主の前で涙ぐんで見せたところで、そんなのはクサイ演技にしか見えない。もともと自らが汗水流して稼いだカネでなく、他人の稼いだカネで成り立っている株式の売買を繰り返し行なって成り上がってきた会社なのだから。

連日カネにモノを言わせて成り上がって来た奴らを見ていると、つくづく「コイツらには人の心がないな」と思ってしまう。手っ取り早くカネを稼ぐことには長けていても、人の心の痛みとか辛さを彼らは経験していない。だからその点ではまるで子供のよう。それは、ワイドショーなどで事件に対する発言を求められたコメンテーターが「かわいそうですね、同情します」なんて言っても何の説得力もないのと同じ。

それはともかく、仮にも社会的に注目される人たちはさ、人間的にも尊敬されるようになれよ!と言いたいねえ。カネ儲けの技術に優れていても中身のない人間だったら、言い方は良くないがそれはカタワだぜ。誰もそんな奴を尊敬しないよ。尊敬されているように見えるとしたら、それは奴らに対してではない。彼らの持っている「カネ」に対してなのである。

あー、虚しい。
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パートナーの意味

2006-01-19 04:39:26 | 脳みその日常
伸びきった髪を切りに、いつもの美容院へ行く。そこでオーナーのオバチャンから興味深い話を聞いた。美容院という商売柄、多くの客と接しているが、最近は30代以上の独身女性から異口同音に「パートナー」という言葉が出るらしい。

「結婚するなら、こんなパートナーがいいわ…」
「相手はダンナというよりパートナーの関係がいいわね」

…といった具合。まあ、普通に聞けば何てことないフレーズではある。

今や女性も男性並みの給料をもらう時代になった。昔のようにダンナの給料に頼らないでも現代の女性には十分な生活力がある。だから旦那と嫁という従来のいわば主従関係よりパートナーの関係を彼女らは望むのかもしれない。共同生活者としてのパートナーである。

しかし美容師のオバチャンは彼女らの発言には別の意味があるんじゃないかという。確かにパートナーという横文字の響きはスマートに聞こえるし、彼女らの考え方もわからないでもない。

「でも結局彼女らは自分の都合を最優先に考えているのよ」とオバチャンは指摘する。彼女たちは自分のライフスタイルや自分にとって都合の良い相手を求めているのであって、相手のことを思い遣るという発想は二の次なんじゃないの?と。

ほうほう、手厳しいな。さらにオバチャンの指摘は続く。

きっと彼女たちは独身生活が長いぶん自分本位の生活パターンに慣れきっているのよ。そのパターンは絶対に崩したくない。とすれば、その条件を満たす相手は自分のパターンに干渉してこない人じゃないとダメなのよね。

もちろんそういう生き方が悪いとは思わないわ。でもそれなら何も結婚しなくたっていいわけでしょ?あ、でも彼女たちはそうは言いながらも誰かと一緒に暮らしたいのよね。ほら、人間ってやっぱりみんな寂しがり屋だから。

でも旦那に干渉されるのはイヤ。だから、パートナーという対等な関係でいられる相手を探しているんだわ。アタシは古い人間だから、こういうのはちょっとどうかと思うけど…。

いやー、思わぬところで思わぬ話を聞いた。なるほど、オバチャンの指摘はなかなか鋭いかもしれない。でも実際のところはどうなんだろう…。自分本位のご都合主義のお局様たちが世の中には蔓延しているのだろうか。

もしそうだとしたら、ちと怖いものがあるな。
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脳みそがスポンジ

2006-01-18 06:15:33 | CD/DVD
狂牛病になったわけではない。面倒くさい原稿がひとつ終わり、ホッとしたら脳みそがまるでスポンジのような感じになったのだ。スカスカ、フワフワ。

そうなると何も考えられないし、ネタも思いつかない。「なーんだ、また休脳日かよ!」と思われるのも悔しいので(笑)、前向きに検討することにした。そうなると、やることは決まっている。もうおわかりですね?ええ、ええ、ドライブですとも。

しかし、これがちょっと困ったことに…。軽く200kmほど走ったのだが、運転中に聴いた音楽がマズかった。ワシのクルマには6連奏のCDチェンジャーがついている。基本的にクルマのなかでクラシックは聴かない。聴くのはもっぱらヘヴィ・メタかフュージョンと決めている。ウキウキで運転したいのに、そこでクラシックなんて聴いたら脳みそがついつい「仕事モード」になっちまう。そんなのはイヤだ。だから聴かない。

ところが今CDチェンジャーに入っているラインナップのなかにキース・ジャレットの名作「ケルン・コンサート」があるのをすっかり忘れていた。今回はこれにやられてしまったのだ!

スカスカになったスポンジ状の脳みそに、こういう曲はストレートに染み込んでくる。キースのピアノの音が鳴った瞬間にワシの頭の中で「ドカーン!!!!」と音がしたかと思うほどその音楽は突撃してきた。もうね、頭の中でチャイコフスキーの序曲《1812年》の大砲が響いているんでさぁ…。

このアルバムはもちろん1975年にケルンで行なわれたインプロヴィゼーションの模様を録音したライヴ。これまで何百回聴いただろうか。とにかく思い出せないほどよく聴いたのは確かだ。聴くたびにさまざまな記憶が呼び起こされる。「ああ、あの時にこれを聴いたな」とか「そういえばこの時にもこれを聴いたな」などなど。

スカスカになっている脳みそに、記憶という豪速球が直撃したのだからたまったもんじゃない。文字で表わすなら「うひゃぁぁぁぁああああああ」って感じになった。脳みそはまさにスポンジ状なので、いくらでも吸い込む吸い込む。しばらくしたら耳から脳みその水が溢れてくるかと思いましたよ。いや、マジで。

いやー、それにしても名曲だなあ。心に滲みるし、泣けますぜ。まあ、そんなことは誰でも知ってることだと思うけど。

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北欧ざんまい

2006-01-17 04:56:31 | 音楽あれこれ
今月はなぜか北欧音楽についての原稿をあちこちから依頼されている。まるで申し合わせたかのような偶然だ。寒い時期には寒い音楽を…ってか?いやいや、理由はわからないが、とにかく苦しみつつ取り組んでいる。

そもそもワシは北欧音楽のエキスパートじゃない。それに北欧の言語にすら精通しているわけでもない。むかしデンマーク語をかじったことはあるが、使っていないと忘れるのが世の常。本当にきれいサッパリ忘れてる。さらにノルウェー語、スウェーデン語、フィンランド語…うーむ、わからん。

音楽の形式などについては音を聴けば判断がつく。しかし、一番困るのは固有名詞をどうカナ表記するかだ。これら北欧言語には特有の文字があるので、それがわかっていないとどーにもならない。ま、そのあたりは編集者と相談するしかないのだが。

ところで、北欧は家具やデザイン、それに印刷などに独特のセンスがあることをご存知だろうか。前にも紹介した『Nordic Sounds』などを見ればわかるように、北欧の人々の色彩センスは我々では想像もつかない色のぶつけ方をする。補色同士を隣り合わせにするなんて当たり前田のクラッカーである。さらに原色をバシバシ使ったりするのも北欧印刷の特徴のひとつかもしれない。でもその色がやたらと綺麗だからハマる人はハマるだろうな。

北欧の製品なんてフツーの日本人の家庭にはない。そう思っていた。しかし灯台下暗し。なんとウチにもあったのだ!

それが写真のボールペンである。たまたまHMVの景品としてもらったものだが、よく見てみると「Made in Denmark」の文字がついている!写真ではうまく撮れないのが残念だが、本当にそう書いてあるのだ。いやー、びっくり。

もしかしたら、アナタの家にも意外な北欧製品があるかもね。
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運営も重要な要素なのだ!

2006-01-16 02:37:20 | 音楽あれこれ
昨日は午後から知り合いの演奏会。ホールのサイトを確認すると、小さいほうのホールでは昼からジャズ教室の発表会があることを知る。ホールの駐車場のキャパは少ないので万一のことを考えて早めに行き、ジャズの発表会を覗くことにした。

その発表会は副題に「ファミリー・コンサート」とあるように、出場者は幼児から大人までさまざま。まあ、ホノボノとしたよくある発表会の光景だ。そう、演奏中に会場の通路を子供が走り回るってこともね。

演奏するのは素人なのだから、お世辞にも上手とはいえない。でも発表会はそれでいいのだ。人前で一所懸命やることに意味があるのだから。

問題があったとすれば、会の進行の仕方。ちゃんとタイム・スケジュールを組んでないのか知らないが、次の出演者の時には何が必要で、誰が共演するのかなど、もうグダグダ状態。指導者のセンセーたちもテンパっちゃってて、ピアノ連弾するにしても楽譜を見ながらであるにもかかわらず音を外しまくるし…。生徒のほうがちゃんと弾いてるのにセンセーが間違ってどーする!と思わずツッコミを入れたくなるのをワシはグッとこらえながら聴いていた(笑)

しばらくして知り合いの演奏会の開場時間になったので、場所を移動する。主役のO君は、とあるレコード会社に勤務しているが、実はピアノがムチャクチャ上手い。それもそのはず、入社する前はケルンやモスクワの音楽院に留学し、ピアニストを目指していたからである。なぜサラリーマンになったのかは知らない。きっと何らかの事情があったのだろう。

とにかく彼はシチェドリン(b.1932)の《バス・オスティナート》とかスクリャービン(1872-1915)の《黒ミサ》なんかを余裕で弾くほどの腕前。そのへんに転がっている「自称ピアニスト」なんかとは全く比べ物にならない。日常の仕事をこなしながらこれだけ弾けるのはただ者ではないのだ。希望としてはピアニストを本業にしてもらいたいと思うのだが。所属するレコード会社も、もっと彼をバックアップしてあげればいいのにと思ったり…。

演奏は良かったのだが、こちらも先ほどのジャズの発表会と同様、運営のマズさが演奏会の価値を下げたといってよい。ある楽器店が後援したこともあって、お客のなかには乳児などもゴロゴロいて、シーンと静まり返った瞬間に突然奇声が聞こえるなどの「ハプニング」もあった。まあ、それは仕方がない。そんなことは予め覚悟の上で行ったのだから。

でもねえ、やはりステマネ(ステージ・マネージャー)を置いていなかったんだろうな。子供向けに音楽を聴かせるやり方を工夫していたが、進行はノビノビになるし。おまけにあのホールにはレセプショニストやドア係がいないんだろうか。やっぱりグダグダ。

当たり前のことだが、音楽会は出演者だけで成り立つものではない。もちろん出演者のできによって「行ってよかった」と思えることもあろう。しかし、マネージメントや裏方のスマートな対応がなければ素晴らしい演奏会も台無しになる。そのあたりのことがわかっていない主催者は意外に多いのかもしれない。
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