茨城県桜川市真壁町椎尾(しいお)にある利根川水系の南椎尾調整池に来ました。まずは左岸から見た調整池の様子です。
貯水側から見るとこんな感じ。
これがいわゆるダム上。進んでみます。
越流式の余水吐が左岸側にあり、水はここから溢れ出て、
あちらへ流れてゆきます。
余水吐の橋を渡ると南椎尾調整池についての案内板があります。ここは霞ヶ浦用水事業のひとつとして、降雨分布が不均一なこの地域のために農業用水・水道用水、そして工業用水を安定して供給するために造られたものだそうです。
この案内板の隣には「つくしこ調整池」の石碑があります。
その裏には「つくしこ由来」と題する文。それによると、奈良時代の歌人、高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ:生没年不詳)が詠んだ句、
鷲の住む「筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率いて 娘子壮士の 行き集ひ かがふ嬥歌」に 人妻に 我も交はらむ 我が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より いさめぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな (万葉集:巻9-1759)
が載せられています。でも、この石碑では上の全文のうち「」部分を転載しているのですが、全文掲載でないのはどうしてなんでしょうね。なにも抜粋せずに全部載せてあげたら良いのに…。
ちなみに「」内の補足説明をしときましょう。
・裳羽服津(もはきつ)…地名らしいのですが、正確なところは不明。
・娘子壮士(をとめをとこ)…若い男女の意味。石碑では「娘子荘子」となっていますが、これは間違いと思われます。
・嬥歌(かがひ)…元々は歌を歌いながら踊る宗教行事のこと。ここでは男女の出会いの場という意味で、今風に表現するなら婚活パーティーのこと。
…と、万葉集を引用するのは良しとしましょう。また、調整池を建設するにあたり用地を提供した人々の名前を載せるのも大切なことです。でもね、タイトルになっている「つくしこ由来」がどこにも書いてないんです! どういうことやねん! で、由来はなんなん?
すみません、取り乱しました。気を取り直して歩きます。ダム上、中央付近から見たつくし湖の様子はこんな感じです。
一方、下流域の景色です。
対岸(右岸)まで来ました。振り返るとこんな感じ。
対岸、つくし湖側から見た様子。
同、下流側から見た様子はこんな感じです。
調整池の周囲には色々な案内板があります。まず、筑波山の中腹でミカンが採れる理由。
調整池の地理的な位置。
そして、詳細に書かれた霞ヶ浦用水の歴史。なかなかの力作です。
部分を拡大しますんで、お読みになりたい方はどうぞ。
これは子供向けの案内板かな?
これは一体なんなのでしょうね。脇の看板はのっぺらぼうなのでわからず。
「紫の 山と薬師の 影うつす 水辺に映えよ 若き桜木」と刻まれた石碑。紫の山とは筑波山のことです。それは朝夕に色が変わって見えることからそう呼ばれるようになったそうな。紫峰とも言います。残念ながら作者名はよくわかりませんでした。
調整池でありながら、色々学ぶことの多い場所でした。興味のある方は是非行かれてはいかがでしょうか。
本年も当ブログをお読みいただき、ありがとうございました。来年も頑張りますんで、よろしくちゃん!
貯水側から見るとこんな感じ。
これがいわゆるダム上。進んでみます。
越流式の余水吐が左岸側にあり、水はここから溢れ出て、
あちらへ流れてゆきます。
余水吐の橋を渡ると南椎尾調整池についての案内板があります。ここは霞ヶ浦用水事業のひとつとして、降雨分布が不均一なこの地域のために農業用水・水道用水、そして工業用水を安定して供給するために造られたものだそうです。
この案内板の隣には「つくしこ調整池」の石碑があります。
その裏には「つくしこ由来」と題する文。それによると、奈良時代の歌人、高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ:生没年不詳)が詠んだ句、
鷲の住む「筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率いて 娘子壮士の 行き集ひ かがふ嬥歌」に 人妻に 我も交はらむ 我が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より いさめぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな (万葉集:巻9-1759)
が載せられています。でも、この石碑では上の全文のうち「」部分を転載しているのですが、全文掲載でないのはどうしてなんでしょうね。なにも抜粋せずに全部載せてあげたら良いのに…。
ちなみに「」内の補足説明をしときましょう。
・裳羽服津(もはきつ)…地名らしいのですが、正確なところは不明。
・娘子壮士(をとめをとこ)…若い男女の意味。石碑では「娘子荘子」となっていますが、これは間違いと思われます。
・嬥歌(かがひ)…元々は歌を歌いながら踊る宗教行事のこと。ここでは男女の出会いの場という意味で、今風に表現するなら婚活パーティーのこと。
…と、万葉集を引用するのは良しとしましょう。また、調整池を建設するにあたり用地を提供した人々の名前を載せるのも大切なことです。でもね、タイトルになっている「つくしこ由来」がどこにも書いてないんです! どういうことやねん! で、由来はなんなん?
すみません、取り乱しました。気を取り直して歩きます。ダム上、中央付近から見たつくし湖の様子はこんな感じです。
一方、下流域の景色です。
対岸(右岸)まで来ました。振り返るとこんな感じ。
対岸、つくし湖側から見た様子。
同、下流側から見た様子はこんな感じです。
調整池の周囲には色々な案内板があります。まず、筑波山の中腹でミカンが採れる理由。
調整池の地理的な位置。
そして、詳細に書かれた霞ヶ浦用水の歴史。なかなかの力作です。
部分を拡大しますんで、お読みになりたい方はどうぞ。
これは子供向けの案内板かな?
これは一体なんなのでしょうね。脇の看板はのっぺらぼうなのでわからず。
「紫の 山と薬師の 影うつす 水辺に映えよ 若き桜木」と刻まれた石碑。紫の山とは筑波山のことです。それは朝夕に色が変わって見えることからそう呼ばれるようになったそうな。紫峰とも言います。残念ながら作者名はよくわかりませんでした。
調整池でありながら、色々学ぶことの多い場所でした。興味のある方は是非行かれてはいかがでしょうか。
本年も当ブログをお読みいただき、ありがとうございました。来年も頑張りますんで、よろしくちゃん!