ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

「美人は3日で飽きる」の意味するもの

2005-06-30 07:27:10 | 脳みその日常
まずはココをお読みいただきたい。

世の中にはいろいろな人がいるが、自分のルックスや学歴を恥ずかしげもなく自慢しちゃう人っているんだねえ。自分でそう言うくらいだから、きっとこの人は誰が見ても美人なんだろうな。もっとも、相談コーナーとはいえ、ここまであからさまに自慢するのはどうかと思うけれど。

フツーの感覚の持ち主なら、いくらそれが事実だとはいえこういう書き方はしないだろう。相談者は真実の自分を書けば回答者にわかってもらえると思ったのだろうか。ノーである。回答者も人間なのだから、このように書かれた時点で「ダメだな、こいつ」と思ったことだろう。

何がダメなのかといえば、こう書けば相手がどう思うのかが相談者にはわかっていないからである。ルックスも学歴も申し分ないのになぜ私はフツーの恋愛ができないの? 相談者はそう言いたいのだろう。バカだねえ、まったく。恋愛ってのはな、相手とのコミュニケーションがとれなくちゃ成立しないんだよ。いくら自分の顔立ち良く教養があったって、そんなもんは恋愛では何の役にも立たない。

たぶん回答者とすれば、「アンタには人間的な魅力がないからだよ!」と言いたいところだろうが、この回答者がそう言わないのはコミュニケーションとはどういうものなのかがわかっているからである。もし直球で「アンタは中身のない人間なのさ!」と指摘したら、相談者は地獄の底まで落ち込むだろう。一方、傍観する我々の立場なら「いい気味だ。こんなオンナは徹底的に落ち込めばいいのだ」などと無責任なことを思うに違いない。

しかし回答する立場からすれば、いくら鼻持ちならないバカ女であっても相談者であることに変わりはない。何とか道を見つけてあげようと思うからこそ直球の意見を避けたというわけである。とはいえ、さすがにコメントしようがないからか、「必要なのはご自身の意識改革」などとうまく逃げている。さすがである。

ワシの経験からいっても、確かに美人といわれる人たちには人間的な魅力に欠ける人が少なくない。中身がないのだから「3日で飽きられる」のも当然なのである。男女の関係とはいえ、そこは人間同士の付き合い。話題とかネタがなくちゃ関係も続くわけがないのだ。

話題が豊富な人というのは、それだけいろいろな経験をしている人でもある。辛酸をなめたこともあるだろう。この相談者のように挫折した経験もなく、ただ周囲から常にチヤホヤされる時間を過ごした人間に話題なんてあるわけがない。前述したように、いくら多くの本を読んで教養を身につけたところで、所詮それは「絵に描いた餅」に過ぎないのだ。その餅を作るのにどれだけ苦労したのか、そして実際に食ったらどんな味がして感動したとかなどは、やはり経験してみなければわからない。

ひがみの意味でなく、ルックスなんて歳を取れば劣化していくもの。むしろ多くの経験を積んだ人の表情のほうが歳を重ねていくにつれて輝いて見えてくるから不思議だ。もちろん、ワシは美しいものは嫌いではないけどね(苦笑)
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講座、無事終わる

2005-06-29 11:59:13 | 脳みその日常
何だか知らないが、バタバタと忙しい。そんな合間を縫って、昨日は月に一度の講義の日。原稿でモタついていたので、十分に準備できないまま講義に臨む。ええい、もう出たとこ勝負ぢゃ!

前回の講座では高齢の受講者のオジサンから「もっと易しく教えて欲しい」とありがたい要望があったので、ほぼアドリブで話しながらも、できるだけ専門用語を使わないようにした。いや、これがまた難しいのさ。

昨日のテーマは、ショパン(1810-49)の《別れの曲》がなぜ名曲なのかというもの。いろいろな例を引き合いに出して説明したが、やはり中間部の減七の和音の連続に触れないわけにはいかない。テンションが最も高い和音が続くからこそ、前後の旋律の美しさが引き立つからである。

しかし、ここで「減七の和音」という用語を使ったらアウトなのだ。楽典を学んだことのない受講者にとって音楽用語や専門用語を耳にすることは、いわば死ねと言われるようなもの。いやいや、そこまでオーバーなものじゃないけど、彼らにとってみれば、専門用語はアレルギーみたいなものなのである。たとえば、相対性理論の公式をいきなり見せられたら、やはり面食らうでしょ? つまりは、そんな感じ。

専門用語を使えば簡単に説明できることも、それを使わずに説明するとなると本当に難しい。どうすれば受講者に理解してもらえるかを考えるだけでノイローゼになりそうだ(苦笑) 結局は、日常生活で誰もが体験することなどを例にして話すしかない。で、どんな例を出したのかって? フフフ、それは企業秘密よ。

ともあれ、今回も何とか乗り切れてよかった。幸いにも前回のような「クレーム」はなかったし。

バタバタは、もうしばらく続きそうだ。でもその割にカネにならないんだよな。

あーあ。
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警告のパターン

2005-06-28 06:01:22 | 脳みその日常
先週の6月21日のブログでタバコのドテっ腹に警告メッセージが出ていると書いた。
至極迷惑だなと思っていたら、
そのメッセージには他にも様々なパターンがあることに気づく。

たとえば、

これなんかは幸せ満開の妊婦さんに向けてのもの。
(画像の文字が読みにくい時には、画像をクリック!)
まあ、フツーの妊婦さんだったら、妊娠中は吸いたくなくなるっていうけど。
生まれてくる子供のことを案じて、取りあえず危険は避けたいだろうし。

その一方で、ここだけの話だが、かつて実姉が妊婦だった頃、
彼女は本数こそ減っていただろうが、プカプカ吸っていたことを思い出す。
もちろん酒もゴクゴクと呑んでいたよなあ。
なんちう奴だ…まったく。
もっとも、生まれた子供にはどこにも異常はなく、健やかに育ち過ぎているが(笑)


次のは、未成年者に向けたもの。
まあ、あたりさわりのない警告である。
というより、こんなこと書いたって若い奴は、
「うん、そうだね。タバコは吸っちゃいけないんだよね」
なんて素直に従うわけがないのだ。
たぶんワシが若かったら、そうだろうと思うから。

今風の若者言葉で表現するなら、
「こんな警告、チョー、ウゼェよ!」というところか。もしくは、
「この警告ってぇー、ウザくなくない?」
出た出た、ワケのわからん二重否定疑問文(苦笑)



最後のこれは、ある意味でいかにも「警告」という感じである。
でもさ、「肺気腫を悪化させる危険性を高めます」って、
これはすでに病んでいる人向けなのか?
だいたい「肺気腫」なんて言葉を知ってるのは医療関係者か患者だよな。
一番リアルで切迫した感じが伝わってきそうだ。
でも、この警告を見た人が患者だったら、開き直る人が出てくる気もする。
「ええ、ええ、どーせ、もう悪化してんだから、構わねーよ!」って。

それにしても、肺気腫という病気は罹りやすい人は罹りやすいんだよねえ。
別に喫煙者でなくても。
こればかりはどうにもならんのだろうな。
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久々の地獄

2005-06-27 12:08:25 | 脳みその日常
ワシの仕事は月末締め切りのものが多い。そのため毎月下旬になると憂鬱の日々を送ることになる。原稿の種類によっては簡単にできてしまうものもあるが、その逆に「想定外」のこともある。

仕事の依頼を受けた段階で、これはどれぐらいの時間でできるかをイメージして予定を立てる。たいていは予定通りに行くが、予定がタイトだったりすると急なトラブルが発生した時に困る。本当に困る。シャレにならんぐらい困る。でも、やらなければ終わらない。

一昨日の晩からほとんど一睡もせずに、とりあえず25枚の原稿を書き終えた。久しぶりに超ハードな仕事である。本当なら先週末に終わっていたはずなのだが、思い切り予定が狂ってしまった。たかが25枚なのに、ちっとも捗らないのである。時間通りに終わらなかったので、自己評価としては「敗北」に等しい。くそーっ。

でも、まだ終わったわけではない。夕方までに批評を4本入れなければならない。頭が完全にボーッとしているが、やるしかないのだ。そうでないと、明日の講義の準備に取りかかれないし。

すんません、今日はくだらんブログになっちまいました。とほほ。
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~されている

2005-06-26 05:41:50 | 脳みその日常
これまでの人生を振り返ってみると、自分が願ったことはほとんど実現している。「こうなればいいな」と思えば、その通りになったし、「こうなりたい」と思えば、そうなった。自分には念力でもあるんじゃないかと思ったこともある。なーんだ、人生なんて自分の力でどうにでもなるじゃないか。人生は自分で切り開くものなんだよな。そう思ったりもした。

ところが、最近では必ずしもそうではないという気持ちが強くなっている。ワシはもともと自ら「営業」して自分を宣伝するのが苦手である。この業界に入った最初の頃は、さすがに自分という存在を知ってもらうために「営業」したこともあった。しかし、今では自ら売り込む活動は一切やっていない。正直なところ「面倒くさい」からである。自分のペース、自分のスタイルに合った仕事ができればいいと思ったからである。

今年になってから奇妙な出来事が相次いで起こっている。それは自分の与り知らぬところから原稿の依頼がたびたび来るようになった。きっと、どこかで誰かがワシの話をしたのかもしれないし、編集者自らがワシのことを知ったのかもしれない。いずれにせよ、自身が望む望まないに関係なく、ワシの人生は何かに「動かされている」のではないかと思ったわけだ。

結果からすると、ワシの人生の在り方は予め決められていたのではないか、と思ったりもする。「動かされている」と感じるのはワシの主観が勝手に判断したことであって、もしかすると実は決められたプログラムがあって、本人はそれに従って生きていただけなのかもしれない。本人はそのプログラムに気づかないわけだから、当人に予期せぬことが起これば、驚いたり、ショックを受けたりする。でも、そうなるのはすでにプログラムで決まっていたことだとすれば……

これはまさしく運命論である。もちろん、ワシは運命論を支持しようとは思わない。だって、人生が運命によって予め決められているなんて思ったら夢も希望もないもんな。たとえば、もし自分に「悲惨な生涯を送るというプログラム」が組み込まれているとしたら、どうだろう。もう生きていたくないよな? うん、きっと絶望するよ。結果として悲惨な生涯だとしても、それはそれで諦めもつくだろう。しかし懸命に生きている途中で、「あなたは悲惨な人生を送ります」なんてことがわかった日にゃ、「じゃあ、どんなに努力してもダメじゃん」と悲観的になるに決まってる。

そんなことを人々が気づいたら大変なことになる。いわゆる自殺の名所に人々は殺到。たとえば、富士山の麓にある樹海は黒山の人だかりになるだろうし、福井県の東尋坊では混乱を避けるため、飛び込み予定者に整理券が配られるといった珍現象も起きかねない。現代は、ただでさえ労働人口が減少しているのに、これ以上人口が減ったら困るではないか!

冗談はさておき、じゃあ、我々はどう考えればいいのか。

簡単である。人は今までのようにそれぞれの目標に向かって突き進めば良いのだ。結果は問題ではない。あとで振り返った時に「あぁ、動かされていたな」と思えば良いのである。万一自分が目標とするものに到達できなかったとしても凹むことはない。その時の自分が一所懸命やったのであれば悔いはないだろうし、目標とは異なる結果に「動かされた」だけのことなのだから。
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何を今さら

2005-06-25 06:20:11 | 脳みその日常
趣味とまではいかないが、人間観察するのが好きだ。人間観察するといっても、「巨人の星」に出てくる星飛雄馬の姉明子のように柱の陰からそっと見ているのではない。ましてや人知れず涙を流すわけでもない。実際にコミュニケートしながら相手を観察するのである。

ガキの頃からそういう習慣があったせいなのか知らないが、初対面で会った瞬間、目の前にいる人がどんな性格の持ち主なのかは直観的に把握できる。その人とロクに話をしなくても「わかる」。もちろん実際に話をすれば、より正確にその人のことを理解することができるだろう。こんなことは何も特別な能力を必要とするものではない。人間にごく当たり前に備わっているものではなかろうか。

そういう考えのワシがこんな記事を読むと苦笑を禁じ得ない。というか、学者センセイ方、アタマのほうは大丈夫ですかと言いたくなる。25日から大阪市で開かれる日本子ども社会学会で発表されるという内容を抜き書きすると以下のとおり。

「見た目は元気でも、本当は不安で孤独-。小中学生の女子は学級委員などに意欲的で一見元気だが、実は、男子より強い孤独感を内面に抱え、自己評価も低いことが東京成徳大学の深谷和子教授(児童臨床心理学)らの調査で分かった。」

いったい学会で発表するほどのことなのか? ごくフツーに社会生活をしていれば、こんなことは誰だって知ってることだろ。児童へのアンケートから上のような結論に達したというが、ワシに言わせれば、ちゃんちゃらオカシイ。児童臨床心理学の世界ってぇのは、臨床とか抜かしながら実は象牙の塔じゃないのか? センセイ方は驚くべき結果を見つけたと思ってウハウハしているのかもしれないが、現実がわかっとらんねえ。こんなこと、小中学生の子供に接したことのある人なら誰もが知ってる事実だと思うぞ。
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プンプン臭う音楽

2005-06-24 06:00:52 | 音楽あれこれ
昨晩は津田ホールで「東京現代音楽アンサンブルCOmeT」の演奏会を聴く。この団体は近・現代の作品を演奏することで知られ、その意欲は大いに評価されてよい。この日はフォーレ(1845-1924)の《ペレアスとメリザンド組曲》(1898)、ラヴェル(1875-1937)の《ピアノ協奏曲》(1931)、そしてベリオ(1925-2003)の《フォークソングス》(1973)などが演奏される。ここで、それらについては省略する。

それにしても、何でもかんでも演奏すればよいというものではないと、つくづく思った。それは最後に演奏したマウリシオ・カーゲル(1931- )の《オルケストリオン・ストラート》(1996)である。この作品は異例の楽器配置をとる。ステージ上を左奥から右前にかけて対角線上に奏者がほぼ2列になって並ぶ。

使用される楽器は、左奥から順に、パーカッション(2)、コントラバス(2)、テューバ(2)、コンバスとテューバに並ぶような位置にピアノ、トランペット(2)、アコーディオン、クラリネットとサックス、フルート(2)、チェロ(2)、ヴァイオリン(2)といった配置。指揮者はもちろん右前でタクトを振る。

簡単にその配置を譬えるなら、楽団のメンバーの乗ったバスを横から見た感じだ。もう、こういうコンセプト自体にワシなどは「胡散臭さ」を感じる。もっとも、この作品はストリート・ミュージシャンたちに捧げられたというから、その意味ではなるほどとも思う。

とはいえ、わからないのはなぜこの配置で演奏しなければならんのか、だ。解説にはその理由がどこにも記されてないし、カーゲルの意図もよくわからない。フツーに考えてみようか。奏者たちはみなステージの右前にいる指揮者に向いて演奏している。演奏するほうはそれでもよいだろうが、それを聴かされているほうはステージ全体を見ているのである。当然、音響のバランスなどということは全く無視されている。

そうした音楽なのだと言われればそれまでだ。でも、音楽そのものがちっとも面白くないし、何を表現しようとしているのかも皆目分からない。確かに、カーゲルの音楽というのはパフォーミング・アートであり、ジャンク・ミュージックともいわれている。ジャンク・ミュージックとは、彫刻におけるジャンク・アート(特別意味のない日常生活のガラクタを素材にして制作される芸術)に由来する用語であることは周知の事実。カーゲルはそうした視点に立って作品を作ってきた。

また、カーゲルのコンセプト・アートといえば《Pas de cinq》(1956)などが思い出される。「5人の歩み」とでも訳されるこの作品は、目隠しをした俳優たちがそれぞれの手に杖を持ち、舞台を歩き回るというもの。当時にあって、こうした「作品」は確かに作られる意味があったのかもしれない。それなりの意図があったわけだし。

しかしながら、この《オルケストリオン・ストラート》の意図するところは何だろう。クソ面白くもない音楽に加え、挙げ句の果てに、作品がまさに終わる直前にはパーカッション奏者たちがステージから客席に下りて、聴衆に「お布施」を下さいと通路を歩き回る。曲目解説にはご丁寧にも「小銭をご用意ください」などと書かれている。

アホか、まったく。おそらくスコアにはそういうパフォーマンスをせよと書いてあるのだろうが、ここにいる聴衆はあらかじめチケットを購入して入場しているのだぞ! なのに、さらにゼニを取るとは何事か! もちろんワシは知らん顔をしていたが。

不愉快な気持ちを抱きながら帰宅したのは言うまでもない。
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食われるということ

2005-06-23 05:46:37 | 音楽あれこれ
タイトルを見てクリックした、そこのアナタ。残念でした、エロい話じゃないです。

クラシックの演奏会では、よく「あーぁ、食われちゃったねえ」と言われることがある。楽しみに取っておいたデザートを他の演奏家に食われたのでは、もちろんない。簡単に言えば、共演者のペースにハマったということだ。昨晩トッパンホールで行なわれた室内楽の夕べは、まさにその例。

トッパンホールの企画する「エスポアール・シリーズ」では将来有望と思われる演奏家をチョイスし、ソロのみでなく室内楽も経験させることで一層羽ばたいてもらおうというもの。ちなみに、エスポアール(espoir)とはフランス語で「期待、見込み」という意味。英語ならば、hopeと同義語である。

エスポアールに選ばれたのは、ピアノの岡田 将。ソリストとしての才能は十分あると思う。ほとんどの若手が単色の音でバリバリ弾くなかにあって、岡田には多彩な音色がある。それだけでも注目に値する。

しかしそれはソロとしての評価であって、室内楽における力量については未知数。共演者とどう対峙するのか。それが昨夜の聴きどころでもあった。

ところが、やはりというべきか経験のなさが演奏に如実に表れていた。あれだけ豊富な音色をもちながら、室内楽となると彼のセールスポイントというべき音色がまったく生かされていないのだ。むしろ共演者の陰に隠れるかのよう。これが冒頭で書いた「食われる」ということなのである。

室内楽だからといって、何もピアノが「伴奏」に徹する必要はどこにもない。むしろ今回のようなロマン派の作品においては丁々発止のやり取りをしたほうが演奏効果は上がる。マーラーの《ピアノ四重奏曲》は確かにピアノが出しゃばる作品ではない。しかし主題旋律をピアノが奏する時にアピールしなかったら、ほかの部分でピアノの主張するところはないだろうに。

次のラフマニノフ《チェロ・ソナタ》なんて、もうチェリストの山崎伸子に食われっぱなし。この作品はチェロのペースに合わせたらシロップ以上に甘ったるいものになってしまう。そう、まるで若手漫才師スピードワゴンの井戸田の発する「あま~い!」である(笑) チェロ・パートの旋律はもともとが甘いのだから、こういう作品こそピアノでゴリゴリ押すようにしなければ「ラフマニノフらしさ」が出ない。なのに、チェロに呑まれた上に、よくわからないルバートをあちこちでかける。

後期ロマン派の作品を感傷的に演奏することほど気持ちの悪いものはない。毅然と、そして押し出しの強い演奏をするからこそ、最終楽章のアレグロ・モッソは感動的なフィナーレとなる。そうした作曲者の意図が岡田にはまったく見えていない。何が何でも甘ったるく演奏すれば良いというものではないのだ。

むしろ最後に演奏したシューマンの有名な《ピアノ五重奏曲》op.44のほうが「まだ」堂々としていた。それにしてもこの第1楽章の第2主題のことを演奏者たちはちゃんと把握していたのだろうか。第2主題の直前に出てくる推移主題をあたかも第2主題のように捉えていたとしか思えない演奏だったけれど。

音楽理論を普通に学んでいる評論家ならたぶんこのことに気づき、指摘するに違いない。でも多くの評論家は「愛好家あがり」だから、きっとこれについては何も書かないんだろうねえ。ま、そんなことは今に始まったことではないけど。

現段階で岡田の室内楽奏者としての力量はスタート地点に立ったというべき。今後にエスポアールしたいところだ。
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ペースが落ちとる

2005-06-22 05:54:46 | 脳みその日常
当初の予定では、昨晩から今朝がたにかけて久々の中距離ドライブをするはずだった。目的地は学生のころ運送のバイトでよく行かされた浜松のトラック・ステーションである。

当時ワシの所属する会社では「社速」というものが決まっており、たとえ東名高速であっても80Km/hで走らなければならなかった。もちろんそれ以上のスピードを出すことはできるのだが、タコグラフが設置されているので「違反」するとすぐにバレる仕組みになっていた。

そんなわけで、たかが東京から往復430kmほどの距離なのに浜松はメチャクチャ遠く感じられたものである。おまけに帰路の東名で事故でもあれば、もう最悪。通常なら午前4時には帰って来れるのに、ひどい時には午前9時半に帰社したこともあった。

そのような時間に帰ってきたって、もう大学の授業には間に合わない。そうなると「自主休講」である。いや、間に合わない時間ではないのだが、睡魔には勝てなかったのだ。かといってバイトを辞めるわけにはいかない。大学の授業料が払えなくなるからである。

てなわけで、浜松はワシにとって思い出の地のひとつなのである。浜松行きを思いついたのは、ほかの理由もあった。たまたまネットを見ていたら、近年そのステーションが改築されたことを知ったのである。今はこんな感じになったらしい。ならばこの目で確認したくなるのが人情というもの。

ところが、速筆で知られるワシなのだが、近年どうも仕事のペースがダウンしつつある。依頼される仕事の内容をみて、だいたいその仕事がどれだけの時間でできるかは経験的にわかる。しかし、その経験というのは悲しいかな「過去の」データであり、今そのデータと同じ時間で仕事ができるのかというと、正直難しい。そうなると受けた仕事も予想外の時間がかかったりする。今回、浜松に行けなかったのはそうした理由からだ。まったく、体力の衰えは恐ろしいものよ。気力までも衰えてしまうのだから。

それでも、最近ヤル気を起こそうと思い、ちゃんとした本棚に音楽についての基本的な資料である『The New Grove』(第2版)を鎮座させてみた。堂々たる存在感であり、仕事も捗りそうに思える。下方の棚には初版の『The New Grove』のペーパーバック版がちょっとだけ写っているが、やはり貧相だ(笑)。そんな気分転換にもかかわらず、この体たらく。トホホである。
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そこまでして売らんでも…

2005-06-21 05:28:41 | 脳みその日常
昨日、ここでタバコのことを書いた。その後、買い置きのタバコがなくなったので近所のコンビニへ買いに行く。すると何の因果か、パッケージに異変が生じていた。異変といっても、別に不良品というわけではない。単に「警告文らしきもの」が商品の腹に印刷されていただけのこと。

アップした写真はワシが長年嗜んでいる銘柄である。左のほうが以前のもの。そして右が今回購入したものだ。見ればわかるように、商品の腹に「警告文」が印刷されている。写真が読み込めないかたのために、記されている警告文の全文を転記しておく。

「喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります。疫学的な推計によると、喫煙者は肺がんにより死亡する危険性が非喫煙者に比べて約2倍から4倍高くなります。(詳細については、厚生労働省のホームページ www.mhlw.go.jp/topics/tobacco/main.htmlをご参照ください。)」

いや、そんな警告文を商品に印刷しなくたって、こちらはわかってるって。それを承知で購入してるんだし。

それにしても、商売する上で商品そのものに敢えてデメリットの要素を出すってのはどうなのかねえ。他の商品ではまず見たことないよな? たとえばさ、ある洗剤に次のような注意書きがあったら消費者は果たして買うだろうか。

「洗剤は、あなたにとって皮膚がんの原因の一つとなります。疫学的な推計によると、洗剤使用者は皮膚がんにより死亡する危険性が……」

もちろん、こんな警告文はまずあり得ない。あくまで「譬え」である。ワシがここで言いたいのは、ユーザーを不安にさせる文言を、売ろうとする商品に掲載することは矛盾しないのか?ということだ。そんな警告文を載せたらユーザーはその商品を買いたいと思わなくなるだろう。たばこ会社は商品を売ることで利益を上げてるんだよな? なのに自らその商品の売れ行きを鈍らせる行為に走るとは…。みすみす自殺行為ではないのか。

このような警告文を出さなければならないのは、昨日も書いたように社会がそういう傾向になってきたからにほかならない。それはそれで悪いとは思わない。でもさ、健康に良くないとわかっている商品をなぜ売るのさ? それも商品の腹の目立つところにデカデカと警告文なんぞ印刷しやがって。そんな格好悪いことをするぐらいなら、いっそのことタバコそのものを売らなければいいではないか。

一方で「健康に悪いから吸い過ぎちゃいけません」なんて抜かし、他方でその身体に良くない商品をコマーシャルしてまで売っている。厚生労働省も本気で国民の健康を考えるなら、「たばこ禁止令」でも出せばいいのだ! そうしないのは、たばこ税が入って来なくなるからなのだが。ったく、国民の健康より税収かよ…。

もっとも、「たばこ禁止令」が出されたとしてもワシはどうにかしてでも吸い続けると思うが…
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タバコにはもっと増税すべき

2005-06-20 22:18:43 | 脳みその日常
最初にお断りしておくが、ワシは紫煙を愛して止まないベテラン・スモーカーだ。そんなワシが敢えてタバコに増税せよと唱えるには理由がある。

まず喫煙者のマナーがなっていないこと。社会の公的機関など、すでに多くの場所でタバコを吸うことは禁じられている。それは社会が禁煙の傾向にあるからだ。医学的にも副流煙の悪影響があるから社会がそういう方向に行くのは間違っているとは思わない。だから公的な場に行く時、ワシは社会のルールに従い、喫煙できるところでしかタバコは吸わない。

ところが、脳みその弱い喫煙者には社会のルールなどというものはないらしい。あたり構わず吸うし、歩行しながらの喫煙なんて常識であるかのようだ。嫌煙家からすれば、喫煙者がこうした行為を繰り返すからタバコが許せないのではなかろうか。

ルール違反なのはほかにもある。道路を灰皿と勘違いしているバカタレ喫煙者だ。クルマを運転しているとイライラすることがある。そういう時、タバコを吸うとそのイライラは収まるものだ。現にワシもそうだし。だが、許せないのは開けた窓から灰を落としたり、後続車がいるにもかかわらず平気で吸い殻をポイ捨てする奴。なぜ備え付けの灰皿に捨てないのだろう。もし他人が自分の家の前の道でポイ捨てしても、コイツらは平気なのだろうか。おそらく100パーセントの人は怒りを覚えるに違いない。

コイツらは「公道」という意味が全く分かっていない。すべての人が利用する道路、それが公道なのだ。みんなが気持ちよく安心して通行することのできる道なのである。そういう道に無神経にポイ捨てするバカ。そんな奴にタバコを吸う資格はないのだ。偏見といわれても仕方がないが、ポイ捨てする奴の多くは肉体労働者か、もしくはチンピラの類いである。この手の輩に公道の意味なんて、たぶんわからないだろう。

となれば、喫煙のイメージ・アップをはかるにはコイツらにタバコを購入させないようにするのもひとつの手である。それにはタバコの値段を上げるのが効果的ではないか。それもムチャクチャ増税して、たとえば一箱1,000円にするとか。そうすれば無闇矢鱈にポイ捨てをするのももったいなくてできないはず。

もちろん、その方法が最善とは思わない。ただ、モラルのない奴がタバコを吸う機会が減ればタバコ吸いに対するイメージも変わると思う。マナーを守って喫煙している立場からすれば、「喫煙者 = マナーが悪い人」と思われるのは本当に心外だからね。
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特別な日

2005-06-19 21:47:22 | 回想する脳みそ
脳みそには理性がある。その理性がどうしても言うことを聞いてくれない。理由はわかっている。今日という日がワシにとって特別な日だからだ。

情緒が不安定になってきたのは昨日の夜10時半頃から。4年前のこの時刻、入院していた大切な人が危篤になる。懸命の措置も甲斐なく、翌日の明けがた息を引き取った。この一連の記憶は恐ろしいまでに脳裏に焼き付いている。もともと記憶力は良いほうであるが、あまりに衝撃的なこの出来事。きっと自分が死ぬまで忘れることはないだろう。

理性が言うことを聞いてくれないと書いたのは、この時の記憶が脳みそを支配したからだ。

ベッドの周りに集まった家族は為す術もなく、ただただ呆然としていた。やれることといえば本人の身体をさすること。心臓は、鼓動が次第に弱くなっていくため、十分な血液を身体中に送ることができなくなっていた。そうなると心臓に遠い場所から鬱血が起こり、肌の色はみるみる青紫になってゆく。

でもこの時点で我々はまだ本人は恢復するものと思っている。いや、恢復して欲しいという願望がマッサージという行為をさせたに違いない。現に青紫になろうとしている部分をさすると確かに元の肌色に戻る。しかしそれは一時的なものであって、マッサージを止めるとすぐまた変色し始める。

そんなことをしても、もはやどうなるものでもない。脳みそではわかっているのだ。でも、奇跡が起こるかもしれないではないか。奇跡が起こった時、皮膚が青紫のままだったら本人があまりにも可哀想。だから奇跡が起きることを願いつつ、また奇跡が起きて欲しいと念じながら時間を忘れ身体をさすり続けたのだ。

しかし奇跡は起きなかった。願いが挫かれた時、それは本当の悲しみとなる。もう二度とあの笑顔を見ることはないし、話することすらできないのだ。ワシのすべてを理解し、いつも優しい心遣いをしてくれたあの人は逝ってしまった…。4年も前のことなのに、それはつい昨日起きたことのように感じられる。

本当に大切な人を失うということは、想像以上の悲しみであり、衝撃でもある。よく「悲しみは時間が解決してくれる」というが、それはケース・バイ・ケースだと思う。もし亡くなった人がワシの心に占める割合が少ない人なら、その悲しみは時間とともに薄れていくだろう。しかしこの人はそうではなかった。ヘンな譬えだが、目に入れても痛くないほど愛していたからね。うーん、ことによると前世ではワシの子供だったのかもしれないな。(笑)

冗談はさておき、この人はどんな人にも優しかった。だからワシに限らず多くの人が今でも彼女の死を惜しんでいる。結局、一睡もできないまま今日お宅に伺うと、彼女が生前親しくしていた友人から献花が届いていた。彼女は身体こそ小さかったが,心は本当に大きい人だったと思う。みんなから愛されていたんだなあと、しみじみ感じた。
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SCOPEに関するレポート

2005-06-18 04:55:55 | 脳みその日常
すでにご存知の方も多いかもしれないが、今や携帯電話では通常のWebサイトを閲覧できるようになっている。もちろん閲覧するためにはそのためのアプリケーションが必要。これについては当ブログで何度か「Jigブラウザ」の紹介をした。しかし、このアプリは有料であり、現在では年間利用だと3,000円を支払わなくてはならない。もっとも、ワシが加入した昨年の段階では年間利用で6,000円だったから安くはなっているのだが…。

それでも「カネを出してまで利用したくない」と思う方もおられるだろう。ふだん携帯でWebを利用しない人にとってはそうに違いない。だが、そんなi-modeユーザーに嬉しいのが「SCOPE」の存在である。なぜならこのアプリは無料で使用できるからだ。これについての情報は、今年の初めに出されていたが、ワシはJigブラウザに満足していたので、当時見向きもしなかった。

ところが最近、あるアプリを探していたら偶然「SCOPE」のサイトを見つける。そして「無料のWebブラウザって一体どんなのだろう」という興味から早速携帯へダウンロードすることにした。

ファースト・インプレッションは2つ。ひとつは、なかなかサクサク動くということ。アプリ自体が少ない容量になっているので、携帯本体への負担が軽いせいなのかもしれない。もうひとつのインプレッションとしては見た目が安っぽいということ。もうちょっと色彩やデザインに手を加えればいいと思うのだが、無料アプリということを考慮すれば甘んじるしかないだろう。

機能の面では最小限のアイテムは装備されている。ブックマーク登録もできるし、URLを直接入力して検索することも可能だ。その点ではなかなか使えるアプリといってよい。

ただ、残念なのはフレーム対応のHPやJavaScriptを使用したページはほとんど表示されないこと。もちろん有料のJigブラウザであっても未だにJavaScriptに完全に対応しきれていないので表示されないこともあるが。

しかし比較した感じではまだJigブラウザのほうが有料だけあって読み込めるサイトは格段に多い。とはいえ、SCOPEの場合でもブログのようなテキスト・サイトなら閲覧するのに全く問題はない。事実このブログはちゃんと読み込むことができた。

SCOPEにメリットがあるとすれば、それはWeb上での辞書検索や、ちょっとした情報収集ができること。出先で調べたい事柄が出てきた時、これがあれば便利だと思う。だが、無料アプリとしてはこの程度の機能が限界なのかもしれない。

Jigブラウザの場合は有料であるだけにもっと多くの機能が使える。またDoCoMoのみならずauやVodafoneにも対応しているので、今のところJigブラウザを横綱とするなら、SCOPEはまだまだ十両といったところか…。せめて早く幕内に上がって欲しいものだ。
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ポリさん、そりゃマズイぜ

2005-06-17 04:47:04 | 脳みその日常
2日前の深夜の出来事。何気なく甲州街道を流しながら下っていた。国立を過ぎてしばらく行くと、前方に軽のミニパトを発見。何となく巡回しながらノタノタ走っている。いくら軽とはいえ中には警官が2人乗車していたので煽るわけにもいかず、おとなしく「ノタノタ・パトカー」の後についていた。

やがて立川の日野橋交差点が近づいてきた。ワシは八王子方面にR20で行こうとしていたので左折するため左車線にいた。運悪く、前を走っている「ノタノタ・パトカー」も左折するらしい。あちゃー、この先はしばらく片側一車線だから、またコイツのケツを拝み続けなければならない。参ったな…

日野橋交差点の手前50mほどに来た時、信号は赤に。もともとミニ・パトはスピードを出していないのだから余裕で停止できる距離だ。当然停まるものと思っていた。ところが、このバカ・パト、この交差点が左折可とでも思ったのか、徐行しながら交差点を曲がっていくではないか!

信号が赤であっても交差点に進入して良いのは緊急車両のみのはず。バカ・パトはもちろん赤色灯を点灯していなかった。従ってパトカーであっても、このケースの場合、信号の指示に従わなければならない。緊急車両でないのだからこれは明らかに反則行為である。

とはいえ、後続のワシまで信号無視をして追いかけるわけにはいかない。何せワシは警官でないし、乗っているクルマだって緊急車両でもない。仕方ないので、しぶしぶ信号が青になるまで待つ。

信号が変わり、すかさずダッシュ。す、すると、先ほどのバカ・パトは相変わらず前方をノタノタ走っていた。まるで何事もなかったのように…。何だよ、お前ら! それでも警官かよ! パトカーを強制的に停止させて、説教してやりたかったね。うん、心の底からそう思った。

よし、次の信号で止まったら説教してやるか…。本気でそう心に誓っていると、な、な、なんと、バカ・パトのやつ、国道沿いに面した●野警察署に入っていきやがった。うーむ、さすがに国家権力の巣窟に侵入してまで説教を垂れるわけにはいかんな。

クソーッ、残念!
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ララバイの出所はどこなんだ?

2005-06-16 19:19:01 | 音楽あれこれ
あまりにも有名な映画『荒野の用心棒』(1964)のテーマ曲は、別名「ララバイ」と呼ばれる。ララバイはもちろん子守歌という意味である。なぜこんなマカロニ・ウェスタン映画に子守歌が関係するのか。ある資料によれば、この曲は音楽を担当したエンニオ・モリコーネ(1928- )が監督のセルジオ・レオーネ(1929-89)に捧げた子守歌だからと書いてある。ふーん、でも何だか釈然としないなあ。本当にそうなんだろうか。そこで事情を探るべく、ネットで検索してみた。

確かに、いくつかのサイトでは「モリコーネがレオーネに捧げた子守歌」説をとるものもあった。ところが、このサイトでは真っ向からその説を否定している。そして、

「この曲は1960年にユージン・オニール原作の舞台(TV?)「I DRAMMI MARINI」のために書かれた子守歌が原曲となっている」

と述べている。もちろんこのサイトは個人がやっているもので、オフィシャルなものではない。従って、それをすぐに信用するわけにはいかない。でも、面白そうなので他のサイトで検証を試みることにした。

まずはユージン・オニール(1888-1953)が本当に『I DRAMMI MARINI』という作品を書いているのかということを調べてみる。たとえば、こんなサイトとかあんなサイトを見てみるも該当する作品はない。いや、待てよ。『I DRAMMI MARINI』ってイタリア語だよな? なんでアメリカ人であるオニールがイタリア語の題名の作品を書くんだ?

いやいや前述の引用には「オニール原作の舞台(TV?)「I DRAMMI MARINI」のために」とあるから、ことによると原作のタイトルは違うのかもしれない。たまたまその演目の題名が「I DRAMMI MARINI」ということだったのかも。となると、今度は「I DRAMMI MARINI」の意味を考えてみなくちゃならんな。

文字通り訳せば「船員たちのドラマ」となる。このタイトルに類似するものを探すと、オニールの原作による映画に果てなき航路 (The Long vayage Home)(1940)というのがヒット。原題で検索してみたらオニールがこの戯曲を書いたのは1917年であることが判明。

それはわかったけれど、『果てなき航路』の音楽はモリコーネじゃない。あれれ、だんだんワケがわからなくなってきたぞ。そんな時、なぜかロシア人の若者による個人サイトをみつける。おやっ、ここをみると、前述の「新説」を裏付けられそうなことが書いてあるではないか!

なるほど、年号こそは1961年となっているが、確かに「I DRAMMI MARINI」とある。ということは「新説」のほうも全くのデタラメというわけではなさそうである。それにしても両者が入手したソースは何なんだろうな。それを考えていると、考えていること自体が「ララバイ」になってきそうだ…。

あぁぁぁぁぁ。
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