昔から何かを教えるのがうまいと言われる。こう書くと自慢のように聞こえるかもしれないが、本人は決してうまいと思っているわけじゃない。むしろ毎回反省することのほうが多い。でも他人からすると「教えるのがうまいねえ」となるから不思議だ。
そこで、なぜうまいと思われるのか考えてみた。教えている状況を振り返ってみる。いつもの講座でも「歌い方教室」でもワシのスタンスは変わらない。そのスタンスとは要するに教わる側の立場になるということ。もし自分が教わる側だったら、どのように教えてもらえばわかりやすいのかを考えるのである。それがわかれば教えることなんてちっとも難しいことじゃない。
ところが多くの先生は自分が決めたスタイルを崩すことはないらしい。あることを教える場合にはこのように教えなければならないと決めてかかっているのだ。確かにその方法論は間違いではないし、理に叶っているのは認める。しかし彼らはひとつの重大なことを見落としている。それは教わる側の能力は十人十色であるということだ。顔がひとりひとり違うように、その能力もみな違う。
そんなことはわかっていると言うかもしれない。でも実際に教える際に生徒の能力に応じた教育の仕方をしているだろうか。たぶん教師は教わる側のことなんてほとんど考慮していないと思う。よく愚かな大学教師が毎年同じ内容の講義をするように、ほとんどの先生は自分の都合だけで教えようとする。つまり、自分の「枠」に生徒を嵌め込もうとする。その枠にうまく嵌る生徒は問題ない。でも嵌らない生徒はどうするのか? 落ちこぼれたのだから放っておくのか? それって教育者としていいのか?
結局、問題なのは枠に嵌め込もうとする教え方なのである。これが教えることにおけるすべての元凶なのだと思う。そんな横暴な教師に教わった生徒は優秀な者を除き悲劇というほかはない。そう考えるとひとりの教師が集団の生徒を教えることには自ずと限界がある。理想を言えば教育は個人レッスンが一番なのだ。
しかしながら、すべての教育で個人レッスンをするわけにいかないのもまた厳然たる事実。となれば、教える者はどうしたらよいのか。ひとつの解決法としては、相手となる集団の能力レヴェルに見合った教え方を考えることである。その集団が求めているものは何なのか、どこをどのようにしたら彼らは上達するのかなどをケース・バイ・ケースで考えれば良いのである。そうすれば集団全体のレヴェルは自ずとアップするのだ。頑に自分の方法論を押しつけても教わる側のリアクションはすこぶる鈍い。当然のことである。
こうした教え方は何も職業教師だけの問題ではない。各家庭における教育や躾についてもあてはまる。子供の能力、個性はどうしたら伸ばすことができるのか。親はそれを贔屓目でなく冷静に判断し、精神面や金銭面において適切に補ってやればいいだけのこと。うまく躾けられないとか教育できないというのは、親が子供と同じ目線になってしまうからである。そこでヒステリーを起こしても得られるものは何もない。常に温かい目で子供に接すれば子供は安心するだろうし、親を信頼するようになる。
教わる側は多かれ少なかれ現在の自分の状態に不満を感じている。だから教わることによって道を開きたいと考えている。とすれば、教える側がすることはただひとつ。教わる側が何を望んでいるのかをいち早く知ること。それがわかればあとは教わる側がどうすればその「壁」を乗り越えられるかをこちらが提示してやればよい。簡単なことなのだ。
そこで、なぜうまいと思われるのか考えてみた。教えている状況を振り返ってみる。いつもの講座でも「歌い方教室」でもワシのスタンスは変わらない。そのスタンスとは要するに教わる側の立場になるということ。もし自分が教わる側だったら、どのように教えてもらえばわかりやすいのかを考えるのである。それがわかれば教えることなんてちっとも難しいことじゃない。
ところが多くの先生は自分が決めたスタイルを崩すことはないらしい。あることを教える場合にはこのように教えなければならないと決めてかかっているのだ。確かにその方法論は間違いではないし、理に叶っているのは認める。しかし彼らはひとつの重大なことを見落としている。それは教わる側の能力は十人十色であるということだ。顔がひとりひとり違うように、その能力もみな違う。
そんなことはわかっていると言うかもしれない。でも実際に教える際に生徒の能力に応じた教育の仕方をしているだろうか。たぶん教師は教わる側のことなんてほとんど考慮していないと思う。よく愚かな大学教師が毎年同じ内容の講義をするように、ほとんどの先生は自分の都合だけで教えようとする。つまり、自分の「枠」に生徒を嵌め込もうとする。その枠にうまく嵌る生徒は問題ない。でも嵌らない生徒はどうするのか? 落ちこぼれたのだから放っておくのか? それって教育者としていいのか?
結局、問題なのは枠に嵌め込もうとする教え方なのである。これが教えることにおけるすべての元凶なのだと思う。そんな横暴な教師に教わった生徒は優秀な者を除き悲劇というほかはない。そう考えるとひとりの教師が集団の生徒を教えることには自ずと限界がある。理想を言えば教育は個人レッスンが一番なのだ。
しかしながら、すべての教育で個人レッスンをするわけにいかないのもまた厳然たる事実。となれば、教える者はどうしたらよいのか。ひとつの解決法としては、相手となる集団の能力レヴェルに見合った教え方を考えることである。その集団が求めているものは何なのか、どこをどのようにしたら彼らは上達するのかなどをケース・バイ・ケースで考えれば良いのである。そうすれば集団全体のレヴェルは自ずとアップするのだ。頑に自分の方法論を押しつけても教わる側のリアクションはすこぶる鈍い。当然のことである。
こうした教え方は何も職業教師だけの問題ではない。各家庭における教育や躾についてもあてはまる。子供の能力、個性はどうしたら伸ばすことができるのか。親はそれを贔屓目でなく冷静に判断し、精神面や金銭面において適切に補ってやればいいだけのこと。うまく躾けられないとか教育できないというのは、親が子供と同じ目線になってしまうからである。そこでヒステリーを起こしても得られるものは何もない。常に温かい目で子供に接すれば子供は安心するだろうし、親を信頼するようになる。
教わる側は多かれ少なかれ現在の自分の状態に不満を感じている。だから教わることによって道を開きたいと考えている。とすれば、教える側がすることはただひとつ。教わる側が何を望んでいるのかをいち早く知ること。それがわかればあとは教わる側がどうすればその「壁」を乗り越えられるかをこちらが提示してやればよい。簡単なことなのだ。