ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

うまく教えるコツ

2006-08-31 10:17:22 | 脳みその日常
昔から何かを教えるのがうまいと言われる。こう書くと自慢のように聞こえるかもしれないが、本人は決してうまいと思っているわけじゃない。むしろ毎回反省することのほうが多い。でも他人からすると「教えるのがうまいねえ」となるから不思議だ。

そこで、なぜうまいと思われるのか考えてみた。教えている状況を振り返ってみる。いつもの講座でも「歌い方教室」でもワシのスタンスは変わらない。そのスタンスとは要するに教わる側の立場になるということ。もし自分が教わる側だったら、どのように教えてもらえばわかりやすいのかを考えるのである。それがわかれば教えることなんてちっとも難しいことじゃない。

ところが多くの先生は自分が決めたスタイルを崩すことはないらしい。あることを教える場合にはこのように教えなければならないと決めてかかっているのだ。確かにその方法論は間違いではないし、理に叶っているのは認める。しかし彼らはひとつの重大なことを見落としている。それは教わる側の能力は十人十色であるということだ。顔がひとりひとり違うように、その能力もみな違う。

そんなことはわかっていると言うかもしれない。でも実際に教える際に生徒の能力に応じた教育の仕方をしているだろうか。たぶん教師は教わる側のことなんてほとんど考慮していないと思う。よく愚かな大学教師が毎年同じ内容の講義をするように、ほとんどの先生は自分の都合だけで教えようとする。つまり、自分の「枠」に生徒を嵌め込もうとする。その枠にうまく嵌る生徒は問題ない。でも嵌らない生徒はどうするのか? 落ちこぼれたのだから放っておくのか? それって教育者としていいのか?

結局、問題なのは枠に嵌め込もうとする教え方なのである。これが教えることにおけるすべての元凶なのだと思う。そんな横暴な教師に教わった生徒は優秀な者を除き悲劇というほかはない。そう考えるとひとりの教師が集団の生徒を教えることには自ずと限界がある。理想を言えば教育は個人レッスンが一番なのだ。

しかしながら、すべての教育で個人レッスンをするわけにいかないのもまた厳然たる事実。となれば、教える者はどうしたらよいのか。ひとつの解決法としては、相手となる集団の能力レヴェルに見合った教え方を考えることである。その集団が求めているものは何なのか、どこをどのようにしたら彼らは上達するのかなどをケース・バイ・ケースで考えれば良いのである。そうすれば集団全体のレヴェルは自ずとアップするのだ。頑に自分の方法論を押しつけても教わる側のリアクションはすこぶる鈍い。当然のことである。

こうした教え方は何も職業教師だけの問題ではない。各家庭における教育や躾についてもあてはまる。子供の能力、個性はどうしたら伸ばすことができるのか。親はそれを贔屓目でなく冷静に判断し、精神面や金銭面において適切に補ってやればいいだけのこと。うまく躾けられないとか教育できないというのは、親が子供と同じ目線になってしまうからである。そこでヒステリーを起こしても得られるものは何もない。常に温かい目で子供に接すれば子供は安心するだろうし、親を信頼するようになる。

教わる側は多かれ少なかれ現在の自分の状態に不満を感じている。だから教わることによって道を開きたいと考えている。とすれば、教える側がすることはただひとつ。教わる側が何を望んでいるのかをいち早く知ること。それがわかればあとは教わる側がどうすればその「壁」を乗り越えられるかをこちらが提示してやればよい。簡単なことなのだ。
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健気な生徒たち

2006-08-26 06:27:02 | 脳みその日常
生徒とはもちろん「歌い方教室」のオバサマたちのこと。何が健気かというと、万難を排してでも教室に来ることである。

話は先々週にさかのぼる。いつものように教室へ行くと数人の生徒さんたちが汗だくでやってきた。夏だから汗をかくのは当然かと思っていたら、別の理由らしい。

ひとりは前日に知り合いが亡くなり、その日は通夜だったそうな。翌日、つまり教室のある日は告別式で、通常ならば欠席するところなのに式が午前中に終わったので午後の教室に駆けつけたとのこと。

「今日は来れないかと思いましたわ」
「いや、そんなに無理しなくてもいいんですよ」
「でも、欠席すると(レッスンに)ついて行けなくなると困るでしょ?」
「え? いやいや、決してそんなことないですから安心して下さいよ」

別の方々は地方出身者で、当初の予定では教室の日には郷里へ帰っているはずだったという。ところがその日が「歌い方教室」ということを知るや、急遽帰省するのを翌日にずらしたという。やはり理由は同じく、欠席してついていけなくなると困るからというもの。

いやー、ぜんぜんハイレベルなことをしてるわけじゃないんだけどなあ。正当な理由で欠席するのなら、こちらは別に時間をもうけて補講してあげるのに。もちろん無料で。

ま、そんなこんなで生徒さんはみな欠席することもなく、毎回熱心に教室へ通ってくる。歌が上手になりたいという動機で通ってくるのだが、その熱意は相当なもの。だからこちらもできるだけその熱意に応えてあげたいと思う。

カネをもらうのだから当たり前といえば当たり前だ。しかし、そこにはカネをもらうのとは別の何かがあるようにも思える。それは彼女らのひたむきな姿であり、損得抜きに何とかしてあげたいと思わせるパワーなのかもしれない。すでにそのパワーに圧倒されつつあるが、こちらも負けてはおれん。頑張らねば。
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矢板トラック・ステーションへ

2006-08-25 18:13:04 | ドライブ関連
トラック・ステーション(TS)訪問第三弾! 今回は宇都宮の北にある矢板TSへ。関東にあるTSは他に大宮なのだが、食堂は24時間営業ではない。だいたいワシが突撃する時間は深夜なので、行ったところで閉店している。パーキングで夜通し排気ガスを出して寝ているトラックの群れのところへわざわざ行くのも無意味だ。やはり食堂が24時間営業のR246沿いの東神TSは既にご紹介したので、今回は矢板まで足を伸ばしたという次第。

矢板は栃木県なので東京からはそこそこの距離。とりあえずはR4を北上することにした。今回はもともとあるR4ではなく、途中からR4のバイパスを走る。今頃になってこのバイパスを初めて走ったが、この道は宇都宮市の先まで渋滞もなくスイスイ。深夜だからなのかもしれないが、ストレスを溜めることなく走れてゴキゲン。

途中、深夜のドライバーの間ではよく話に出る「道の駅ごか」に立ち寄ってみた。だがこれといって何があるわけでもない。既に売店は閉まっているし、ただ暗いだけ。まあ、寝るには良い場所かもしれないな。気を取り直して先へ進む。

このバイパスが走りやすいのはトラックとて同じ。信号も少ないし、見通しも良い。だからスイスイ走れるがトラックの通行量は多い。一種の「トラック街道」でもある。ゴキゲンで走れるのは良いが、過度にスピードが出てしまうのは気をつける必要があるだろう。覆面やスピードの取り締まりに遭遇したら確実に捕まる可能性があるからだ。

そんなこんなで、午前1時半に矢板TSに到着。パーキングは既にトラックやトレーラーでほぼ満車状態。さて、お目当ての食堂に行くことにしよう。

  


東神TSが深夜メニューにカレーライスしかなかったのに対し、ここは10種類ほどある(浜松TSはもっとバラエティに富んでいる)。で、注文したのは生姜焼き定食(800円)。食堂はオッチャンがひとりで切り盛りしており、注文するには声をかけないと応じてくれない(笑)でも、機嫌が良かったのか知らないが、小鉢をひとつサービスしてもらった。いや、もしかすると単に賞味期限が近いので早く処分したかったのかもしれない。真実は判らぬまま…。まあ、いいや、一品増えたわけだし。

この食堂の一角には畳の座敷がある。写真には写っていないが、あぐらをかいてメシを食べることができるのだ。普段ベンチシートに座っているトラック・ドライバーにとって、これはありがたい。何か寛いだ気分になるからね。

食堂のオッチャンの風貌からは想像がつかぬほど生姜焼き定食はうまかった。腹を満たしたところで帰途につく。帰りはもともとあるR4で東京方面に向かう。この道も久しぶりに走ったが、昔のようなトラック渋滞は微塵もない。こちらもスイスイなのである。なるほど、今までのトラックはみなバイパスに流れているんだな。だからこの道は空いているというわけか。昔のバイト時代のことなどを思い出しつつ帰宅した。この日の走行距離、310km。
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くじ運がいいのもなあ…

2006-08-24 06:54:40 | 脳みその日常
ガキの頃から何故か「くじ運」は良いほうだった。キャンペーンなどに応募するたび、いろいろな賞品をもらった記憶がある。

最近はどうなのか知らないが、昔は民放ラジオで毎週クラシックの音楽番組をやっていて、番組の終わりに「レコード・プレゼント」のコーナーがあった。当時のLPレコードは高かったから子供のこずかいで気軽には買えない。そこでこのプレゼントには毎回のように応募したものだ。応募総数がどれほどだったのか知らないが、ここでも「くじ運」の良さを発揮。確か、カラヤンが指揮した《ツァラトゥストラはかく語りき》は初めての当選だった。

その後、数枚当たり、極めつけはブレンデルによるベートーヴェンの《ピアノ・ソナタ全集》がドドーンと届いた時は本当に驚いたものである。ワシのくじ運の良さを知ってか、ウチのオヤジなんかはワシの名前でたびたび応募していた、というのを最近知った。まったく、人のくじ運を利用するとはトンデモナイ奴である。実際、なにかしら当選していたというから余計に憤慨するのだが(苦笑)

ネットの時代になってもワシのくじ運の良さは続いている。2000年前後の頃は金券類だけで年間6~7万円ほど稼いだと思う。別に血眼になって応募したのでなく、なんとなく応募すると不思議に当選するのである。さすがに最近はネット人口の増加によるのか、かつてほど当選しない。それでも年間に3~4万円ほどはコンスタントに当たっている。

そんなわけで、くじ運の良いワシであるが、先月もロクに当選賞品も確認せずに応募したらナント1等賞をゲット。で、賞品は何かというと、バーベキュー・セットだった。リンク先の商品が今回当選したものと同じものである。これをご覧になればわかるように、なかなか本格的。ただ、残念ながらワシはアウトドア派ではない。それに、これをもらっても置き場所がない。こ、困ったな…。賞品が届いたらどうしよう。

困っていたところへ、先々週、情け容赦なく賞品が届く。本当に置き場所がない!とにかくこのデカイものを早く処分しなければ…。最初、オークションで売買しようと考えたが、そんな暢気なことをしている場合ではなかった。オーバーに表現すれば、このデカイやつがあるせいで生活が脅かされる危険があったからである。

そこで、これをもらってくれそうな人に片っ端から電話をかけまくった。ところが事はそう簡単に決まらず。インドア派に電話したって「そんなの、いらん!」と言われるし、アウトドア派に電話すると「ウチでは既に2セットもあるからなあ」と断られる始末。

途方に暮れているところへ福音が。ネットで知り合った友人にこの話をしたところ「ぜひ欲しい」とのこと。その返事を聞くや、すぐに発送準備にかかる。そして1時間後には集荷に来た業者の手に渡した。やれやれ、一時はどうなるかと本気で悩んだゾ。

翌日、友人から喜びの連絡があった。送った側としては申し訳ない気持ちで一杯だったが、喜んでもらえてホッとひと安心。いろんな意味で、よかった、よかった。
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文字表現って難しいねえ

2006-08-23 06:08:19 | 脳みその日常
文字によって何かを伝えること。これには限界がある。単純なデータなどを羅列する程度のことなら簡単だ。しかし抽象的な事柄や微妙なニュアンスを伝えるとなると、そうはいかない。いくら考えても伝えたい形容詞が思い浮かばなかったり、文章そのものがダメダメだったりする。

これが仕事ならば呻吟しつつも頑張ろうと思う。だがプライベートで書く文章の場合、いくらこちらが気を遣って書いても、相手はこちらの思うように受け取らないこともある。誤解というほどではないが、異なる解釈をされるケースがあるのである。

そうした場合、こちらの意見を相手に正しく伝えるのは本当に骨が折れる。相手が目の前にいれば表情やジェスチュアでフォローすることも可能だろう。でも文字でしか伝えられない時は「追伸」なり、改めて説明するしかない。それほどまでに文字で伝えられる情報というのは限られるのである。

たとえば、ワシがここでグダグダと駄文を書くのも、できるだけ誤解されないようにするためだ。文字面ではシニカルに見えることもあるだろう。だからといって相手が心底憎くて書いているのではない。本当にその相手が嫌いだったらこんなところでネタにすることはまずない。限りなくスルーである。

あるネタをここで書くのは人物や事柄に対して少なからず愛情をもっているからだ。シニカルな表現だったり、手厳しい内容だったりするのはそれなりの意図があってのこと。賢明なる読み手ならおわかりだろうが、取り上げる内容がいかにキョーレツなものであっても、ワシの文章は対象を攻撃するだけで終わることはない。何らかの形で常にどこかでフォローするようにしている。

それでも真意が伝わらないことはある。もう、そうなるとお手上げというほかはない。こちらには全く悪意はないのに「コイツはひどいことを書きやがる」と勝手に解釈されてしまうのだから。まあ、いちいち反論したり釈明するのも面倒くさいから相手にしないけれど。もちろん、明らかにこちらが間違っていることがわかった時には素直に謝るし、訂正もするけどね。

あ、別に最近トラブルがあったというわけじゃないよ。フト思っただけのこと。誤解のないように。
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夏の終わりコンサート

2006-08-22 05:06:15 | 音楽あれこれ
先日の日曜日、ひょんなことから長野県の白馬村で行なわれた「夏の終わりコンサート」へ出かけた。これは今年で17回目となる音楽祭で、参加したのは地元の合唱団体だけでなく東京、埼玉、三重、大阪などからも熱心なアマチュア団体が集まっていた。配布されたパンフレットを見るように、これはもう手作りの音楽祭であり、時間の関係で参加しなかったが、演奏会後には「打ち上げ」のようなパーティーも行なわれたようである。

演奏するのはアマチュアだからお世辞にも上手とはいえない団体もあった。基本的な発声はできていないし、指揮者の音楽に対する認識も「?」という面もなくはなかった。もちろん、一所懸命に歌う姿勢は見ていて素敵で、みな音楽が好きなんだなという気持ちは痛いほど伝わる。しかし惜しむらくは、ちゃんと歌えていないこと。まあ、そこまで要求するほうが酷というべきかもしれないが。

この日は知り合いの息子を連れて行った。彼は今アメリカで合唱指揮の勉強をしており、たまたま帰省していたので誘ったのである。話を聞けば、ゆくゆくは地元で合唱団を設立したいという夢があるそうな。まだ具体的に動き出していないようだが、夢を熱く語る若者を見て頼もしいと感じるとともに何とか夢を実現して欲しいなと思ったりもした。

ガンバレ!若者よ!
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しばし、お待ちを

2006-08-16 02:34:32 | 脳みその日常
書こうと思うことは色々あるのだが、目下原稿に追われているのでござる。暑い上に脳みそまで沸騰してるので、もうしばらくお待ちを。

いやー、それにしても集中力が落ちたもんだ。とほほ。
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エオーロラさん?

2006-08-11 15:39:23 | 脳みその日常
アサヒ・コムのサイトを見ていたら、ある記事に思わず目にとまる。「プールできらめく人」がいるらしい。うーん、一体どんな人なんだろう。その続きには人名らしき文字が。

「エオーロラ」

ほぅ、そんな人がいるのか。で、記事を読んだら初めて意味が分かった。言うまでもなくこれは

「プールにきらめく 人工(の)オーロラ」

そう、「エオーロラ」なんて人はいないのだ。だけど、タイトルを続けて読めば、

「プールできらめく人 エオーロラ」

のように見えないこともない。そんな風に読むなと言われるかもしれないが、読んでしまったのだから仕方がない。つまり、このように読む人だっているのである。だから日本語の表記には注意を払わなければならない。ましてや文字を商売にしているメディアなら、あらゆる可能性を想定して表記に神経を使うべきなのだ。

たとえば「プールにきらめく人工のオーロラ」とかさ。

で、原文はコレ

日本語は難しい…自戒を込めて。
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エディ・コンドンなんてどう?

2006-08-09 19:11:37 | CD/DVD
例年8月は気が狂いそうになるほどヒマで、どうやって時間をつぶそうかと思案したものだ。去年の今頃は急な仕事でちょっとバタバタしたものの、まあ大したことはなかった。ところが今年は違う。急な仕事はもちろんだが、何かと動き回らなければならないことがあって、違う意味で気が狂いそうになる。

ワシの仕事はヒマか多忙かの両極端。それは昔から変わらないし、そういうものだと思っている。それにしても、もうちょっと、こう、なんというか、平均的な忙しさにならないものだろうか。まあ、無理だろうな。

…というわけでって、何の脈略もない前フリだったが、まあカタイことは言わずに。じゃ、久しぶりにCDの紹介でもしてみるか。ご紹介するのはエディ・コンドン・バンドの録音。この楽団は1920年代に流行した、いわゆるディキシーランド・ジャズの代表のひとつ。CDは4枚組で、1927年から1949年までの録音が収められている。

で、エディ・コンドンて誰?ってことになるのだが、詳細はココなんかを参考にしていただきたい。まあ、バンジョーやギターを弾きながら自分のバンドを率いて演奏活動をしていた人なのである。いってみれば、アーティー・ショウやらデューク・エリントンみたいなものだな。

それにしてもこのジャケットの写真、知り合いのF社長に似ているなあ。もっとも、F社長は作曲家の松村禎三にも似ているからそう見えるだけなのかもしれないが。すみません、内輪のネタです、ハイ。
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「面白い」と「特選」は違う!

2006-08-06 10:05:52 | 脳みその日常
愚痴でなく笑いのネタとして。

先々月、ある雑誌から「最近聴いて面白いと思ったCDを紹介して欲しい」という依頼があった。そんなの楽勝とばかりに快諾し、書いて送る。ところが、先日送られてきた見本誌を見て驚いた。ワシが書いたところは「○○が選ぶ特選盤」みたいなコーナーなのだ。

と、とくせんばん?! ちょっと、ちょっと、聴いて面白いCDを紹介しろというから書いたのに、それを特選盤扱いされてもねえ。ワシが紹介したもののなかにはヘンテコなものもあって、とても特選盤とはいえないものもあったし…。事実、原稿では「ヘンテコで面白い」なんて書いちゃったし。もし特選盤として提示するなら、まずそんな表現はしないし、そもそももうちょっとマトモなCDを紹介するって。

もっとも、この雑誌、どちらかといえばマニア向けで、クラシック音楽のほうがまだメジャーじゃないかと思えるほどだ。まあ、人によっては両者はどんぐりの背比べという指摘もあるが…。ともかく、この雑誌のメインのコーナーなんて門外漢のワシからしたらチンプンカンプンで、さっぱりわからない。でも、もし相手もこちらのことをそう思うのであれば、ワシが何を書いてもチンプンカンプンということになる。そうなればお互い様か。はは、ははは。

特選盤としてヘンテコなものをピックアップしたのは、さすがにマズかったかもしれない。だけどさ、面白いっていっても、いろんなレヴェルがあるからなあ…。ま、いまさら何を言ってもアフター・ザ・フェスティヴァルなんだけどさ。うっ、この表現は昭和のニオイ、プンプンか(笑)
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生かされていることに感謝しよう

2006-08-05 18:24:52 | 脳みその日常
このところ毎日といってよいほど子供が犠牲となる事故の報道がなされている。ただでさえ少子化で子供の数が減っているのに、身勝手な大人の都合で小さな命たちはどんどん消されてしまう。なんということだろう。子供に関する事故の報道がメディアによってことさら取り上げられているとは思いたくない。以前だって子供は事故で亡くなっていただろう。それにしても連日飛び込んでくるニュースといえば子供がらみ。大丈夫か?我が国。

こうした報道を耳にするにつけ、我々大人は何と幸運なのだろうと思ってしまう。統計的に考えれば我々は事故などの不慮の事故に遭遇せずに生き残ったのだから。仮に子供の頃事故に遭ったとしても何らかの形で生き延びたわけで、その意味でも我々はラッキーという以外の何者でもないのだ。

自分自身のことを振り返っても、これまで何度か死神からご招待を受けそうになったことがある。状況からみて、どう考えても死んでおかしくないのになぜか生き延びたことは今考えても不可思議な現象には違いない。非科学的な発想だが、もしかするとワシにはまだ何か世の中でやることがあるから生かされたのではないか。そう考えたりもした。

でも、やることといったって、大したことじゃない。ここに落書きをしたのを皆さんに読んでもらうのも生かされた理由のひとつなのかもしれない。また、別の非科学的な発想によれば、この世に生きることは人間として、もしくは内在するであろう魂に修行させるためだともいわれる。

たとえ苦しいことや辛いことがあっても、それを乗り越えることで魂の修行になる。そして徳を積んだ魂は、いずれ肉体から離れる時、神秘学な表現を使えば「浄化」され、より高い段階へと進むのだとか。こんなことを考えながらリヒャルト・シュトラウス(1864-1949)の交響詩《死と変容(浄化とも訳される)》(1889)を聴くとその音楽が妙にスッと入ってくるから面白い。なるほど、なるほど…と。

そういえば、古代ギリシャの哲学者プラトンは著書『クリトン』のなかでソクラテスの言として「大切にしなければならないのは、ただ生きることではなく、善く生きることなのだ」と記している。うーむ、これは先の魂の修行のことと何となく類似するものがあるよーな、ないよーな。

偶然であれ何であれ、我々は今現在生きている。というより生かされている。ならばより善く生きようじゃないか。た、たとえ思うように原稿が捗らなくても弱音を吐いてはならんのであーる…。

うぅぅぅぅ。
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帰省…そして

2006-08-03 09:10:25 | 脳みその日常
昨日は親戚の法事のため帰省する。標高の高いところは東京と違って湿気がないので気分がよい。たとえ気温が東京とさほど違わなくても爽やかに感じるのはそのためなのだろう。

法事は午前中に終わり、のんびりする間もなく実家を後にする。ちょっと仕事が押しているので悠長に遊んでいる場合ではないからだ。それでも帰京する道中、小学校時代の恩師の家に立ち寄る。

お邪魔したのは特別理由があったわけじゃない。恩師は高齢のためか、近年特に弱気な発言をしていたので励ましに行ったのである。中学、高校の恩師とはほとんど連絡をとっていないが、なぜか小学校の時の担任だった恩師とは今も付き合いがある。

ウマが合うというわけでもない。今では珍しいことだし当時もめったにないことだったが、恩師は6年間ワシの担任だったのだ。それがこんにちある種の信頼関係を築いているのかもしれない。小学校の時の昔話をしたり、ワシの近況を報告したりと、あっという間に時間は過ぎた。あまり長居をすると身体に障ると思ったので1時間半ほどお邪魔してご自宅を後にした。

最後に、暑くてウンザリしているであろう皆様に涼しさをプレゼント。下の写真は蓼科高原近くのチェルトの森にあるゴルフ場付近。帰り道、何となく通ったらなかなか良い景色だったのでパチリ。夏バテには気をつけませう。

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