ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

登ったどー!…七倉ダム(再訪2021)

2021-06-30 06:53:26 | 長野(ダム/堰堤)
再訪シリーズ。どーも、ワシです。今回は大町ダムの上流にある信濃川水系の七倉(ななくら)ダムへ向かいます。アクセスは大町ダムから高瀬川に沿って走る県道326号を登っていくだけなのですぐわかります。

県道からの脇道を降りていくとダム下になります。そこで最初に目にするのが迫力ある洪水吐。まるでジェットコースターのよう。



溢れ出た水は、あちらへ流れてゆきます。



ダム斜面の中腹付近に道があって、なだらかな斜面を下ると広いスペースになります。そこから見た「ご尊顔」がこちら。



今回の七倉ダム再訪の目的はズバリ、ダム上に行くこと。「なんだ、そんなことか」と言うなかれ。このダム上に行くにはダム下から歩いて階段を登るしかないんです(ダム横付近を走る県道のトンネル途中には入口があるんですが、そこは一般車両は立入禁止)。実は前回の訪問の時は深夜だったので真っ暗。もちろん階段を登ればダム上に行けることは知っていましたが、迷った挙句、断念。だから「今度こそ!」という思いがありました。

とはいえ、登る前はやはり躊躇。怯みますよ、さすがに。でも、ダム上から若者3人が階段を降りてきたのを見て

「くそっ、アイツらが行けたんだからワシに行けないわけがない!」

なんだか知りませんが闘志が湧きました。そしてチャレンジ。途中までは順調。しかしそこから先がキツかった。写真の場所はまだ半分くらいの地点です。



斜度はこんな感じ。決してカメラを斜めにしているわけじゃありませんよ。



その後何度か途中休憩しながら、やっとの思いでダム上に到達。そこでハタと気づきました。この階段、何段あるんだろうか…。夢中で登ってきたので数えるのを忘れていたんです。まあ、いいや。下る時に数えよう。



これがダム上。これだけ見ればなんてことない光景ですが、あの階段を登らないとこの景色は見えないんです。階段下で登るかどうか悩んでいて、結局登らなかった老夫婦はこの景色を知りません。当然ですが。



でも、ダム上は立入禁止で歩くことができませんでした。



仕方ないので、左岸側から貯水湖を見るとこんな感じ。前日の雨で水が濁っています。



一方、下流側はこんな風に見えます。こうして見るとなかなかの高さでしょ?



左岸側にある洪水吐の上にかかる橋から貯水側を見ると…。



その水が溢れるとこの水路を通って流れてゆきます。



洪水吐の隣にある建物が七倉ダムの管理所。





ダム本体に嵌め込まれた「七倉ダム」のプレート。



左岸から貯水側へ向かうと「高瀬川水系展望図」が。これによると七倉ダムの高さは125mだそうで。どうりで高く見えたわけです。





そして「水利使用標識」。



その付近から見たダムの様子。



貯水湖側から洪水吐を見るとこんな感じ。流木がかなり溜まっていますね。



そんなわけで、ここのダム上はあの階段を頑張って登った人だけが見ることを許される場所です。とはいえ、ダム上に登った瞬間は意外にもあまり感動はしませんでしたが。「ふ〜ん、そうなんだね」って感じ。ちなみにあの地獄のような階段の段数は下りながら数えたら341段でした。

もうね、膝が笑う、笑う。
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忘れちゃいけないもの

2021-06-29 06:50:53 | ドライブ関連
どーも、ワシです。えー、大町ダムへの入口とは反対側のところにちょっとした広いスペースがあります。そこには2つのモニュメントが…。気になったので近づいてみます。

道路側にある1つめがこれ。何を表現したものなんでしょうね。



モニュメントの下の説明文を読んで思わず震えました。そうです、ここから4キロほど離れた湿地帯で、あのオウム真理教によって誘拐・殺害された坂本弁護士の息子、当時1歳2ヶ月の龍彦ちゃんの遺体が発見されたのでした。ホント、あれは凄惨な事件でしたね。二度とあのような悲劇を起こしてはなりません。当時を思い出していたら、再び怒りの感情が湧いてきました。なぜ正義のために立ち上がった人間(一家)が犠牲にならねばならなかったのか…と。



怒りを鎮めるため、もう1つのモニュメントへ。おっと、これは泉小太郎君ではないですか!リアルな竜はもちろん見たことがないので、似ているとも似ていないとも言えません。でもその活き活きとした姿は今にも動き出しそう。



その横にある石碑には泉小太郎伝説が記されています。





色々と考えさせられる瞬間(とき)でした。
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見どころがいっぱいだよ…大町ダム(再訪2021)

2021-06-28 07:04:04 | 長野(ダム/堰堤)
再訪シリーズ。どーも、ワシです。今回向かうのは信濃川水系の大町ダム(長野県大町市平ナロヲ大クボ)。以前訪れたのは2019年12月の雪の日(参考)で、入口付近までしか行けませんでした。そこで今回はその全貌を見ようというのが目的。

まずはダム下から見上げた「ご尊顔」をどうぞ。お〜、いいねえ。



では、ジワジワとダム横に向かっていきます。左岸沿いにある道の途中から見るとこんな感じ。



ダム入口の道を進んで行くと最初に目にするのが管理所の建物。前回はここまでしか行けなかったので、この先は未知の領域(オーバーだっちゅうねん!)。





管理所の前には大町ダムの看板。



ダムの定礎は1980年5月21日だそうで。



「大町ダム」と刻まれた石碑。



貯水湖の名称は「龍神湖」。



国土交通省によって築造されたダムだけに丁寧に解説された案内板があります。







龍神湖側からダムを見るとこんな感じ。



これがダム上です。歩いてみましょう。



おや? 欄干の上に細い針金が伸びていますね。わかりにくければ写真をクリックして拡大すると見えます。



その下に、針金を付けた理由が記されていました。カラスが欄干に留まってフンをして汚すので、いわばカラス除けに張られているそうな。



欄干には武川武彦氏によるイラスト。



おっ、これは泉小太郎伝説かな?





この景色に見える山々については欄干にイラストで説明がなされています。ほぉ、なるほど。





欄干の下流側を見ると…、あっ、先ほどのイラストはやっぱり泉小太郎伝説でした。この伝説については以前の記事「久米路峡にまつわる話」で紹介しましたし、大町市にある「蓮華大橋」の親柱にもありましたね。小太郎君は大町の有名人なのだ!







ダム上にはダムの設備についての説明看板が多数あります。

選択取水設備


クレストゲート

「お腹がいっぱいだよ」…思わず微笑んでしまう表現ですね。


コンジット予備ゲート


龍神湖の様子です。前日に降った雨のために水の色が変わっています。



107m真下を見るとこんな感じ。



下流側の遠景です。



対岸(右岸)へ来ました。振り返るとこんな感じです。



対岸、貯水側から見たダムの様子。



対岸、下流側から見た様子です。管理所との位置関係がわかりますね。



近くにはダム建設にあたり亡くなられた2名の慰霊碑があります。





1986年3月に建設が完了した大町ダムですが、今回あちこちを見て思ったのは見学者への配慮が十分になされているなということ。ダムを学ぶことができるし、良い景色でお腹がいっぱいになるし、言うことなし!
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災害復旧用の…丸山砂防ダム(堰堤)

2021-06-27 06:57:26 | 長野(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。前回の黒沢橋を渡るとすぐにT字路になります。それを右折して行くと砂防ダムがある…と、グーグル先生の地図には書いてありました。というわけで、最初に向かったのは信濃川水系の丸山砂防ダム(と思われる場所)。

そこへ向かう道は細いですが、新緑が眩しいものの気分は最高。



脇道を入って行くと未舗装路になるので、そこからは徒歩で。そしてこんなダムが。いや、堰堤かな。



近づいてわかったのはダムが嵩増ししてあることです。黒っぽいところが本来の姿で、白っぽく見えるのが嵩増しした部分と思われます。



ダム上まで登ってみました。歩いて中央まで行ってみます。



中央の落水部分。



中央から見た鹿島川上流の様子。



一方、下流側はこんな感じ。ここを下って行くと前回の黒沢橋があります。



中央から見た右岸の様子です。まあ、写真を見る限りは何が何だかわからんですね。



右岸、上流側から見たダムはこんな感じ。嵩増し工事をしてあるのがわかりますね。



それにしても、ちょっと見た限りではここが丸山砂防ダムという表示は見当たりませんでした。でも、ネットで検索してみると本体にプレートが嵌め込んであるの撮影したサイトがありました。それによれば、最初に完成したのが1962年3月で、災害復旧用の副ダム完成が1982年2月、そして現在の姿になったのが1996年11月だそうです。また、高さは8.0mなのでプレートには砂防ダムとありますが、定義上は砂防堰堤ですね。(参考

ちなみに、この近くにもいくつか砂防ダムがあるようですが、いずれも通行止で行くことができませんでした。まぁ、そんなことはよくありますけどね。
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違和感…黒沢橋

2021-06-26 06:56:48 | 橋のユニークな親柱
国道148号沿いの青木湖から鹿島槍スポーツ・スポーツ・ヴィレッジへ向かう道をずっと進んで行くと鹿島川を渡るんですが、そこに架かる橋を黒沢橋(くろさわばし)といいます。橋の名称はここの地名に由来するものと思われます。1994年11月竣工。

それがこれなんですが、なんとなく不自然に思えませんか?











「いや〜、特に思わんけど?」えぇ、まあ、そうかもしれません。ただ、この橋のロケーションを考えてみてくださいな。この橋は標高1,025mの山の中にポツンとあるんですよ。夜間、この親柱の上の灯りが点いているかどうかは知りません。でも仮に点いていたとしてもそんな時間にこんな山奥の道を誰が通るんですかね(いや、まず通らんでしょ)。



にもかかわらず、親柱の上の、ちょいとモダーンな照明のデザイン。こういうのは街中に似合うんです。例えば松本市の市街地の中にある一ツ橋(ひとつはし)とか、市街地ではありませんが、上伊那郡中川村にある坂戸橋(さかどばし)などの親柱を見ると「おおっ、絵になるなぁ」と思えるわけです。

山の中の橋なら、その親柱もそれに相応しいものが良いんじゃないかなあ…と思うんですけどね。逆の意味でユニークな親柱でした。
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災害のたびに…源太郎砂防堰堤

2021-06-25 06:51:07 | 長野(ダム/堰堤)
やぁ、どーも、ワシです。いよいよ当初の目的である姫川水系の源太郎砂防堰堤を見ていきましょう。この堰堤は1932年に農業振興事業として築造されましたが、その後何度か改良工事が行われ、現在のものは昭和31年(1956年)4月に第二次砂防堰堤工事が着工し、昭和38年(1963年)1月1日に竣功したもののようです。(参考

まずは全景をご覧ください。写真手前に見えるのが前回の平川第1号床固工です。



4段構えの立派な堰堤だなぁ…と、その時は感心したのですが、帰宅して調べてみたらいっぺんにこれらを築造したのではないようです。このサイトの説明を図解するとこんな風になります。

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     昭和38年:高さ8m
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 昭和9年:高さ6m + 昭和26年:2m嵩上げ
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     昭和7年:高さ5m
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つまり災害が起こるたびに上流に向かって堰堤を築いていったというわけですね。それほどまでにこの平川は急流だということです。

では、堰堤にもっと近づいてみましょう。最も上流側にある堰堤本体に嵌め込まれたプレート?がこれ。確かに上に書いたように着工が昭和31年4月1日、竣功が昭和38年1月1日とあります。



堰堤の脇の道をさらに登ると、堰堤の上が見えてきます。特に柵がないので自己責任で堰堤の上を歩いてみます。



これが堰堤の中央です。



平川の上流方向の様子です。



堰堤の下はこんな感じ。



下流側の遠景です。砂防堰堤を築造するだけあって、土砂がかなり堆積していますね。



堰堤中央から脇道のほうを振り返るとこんな感じ。その途中に見えるのはライブ・カメラのようです。もしかしてワシの姿が写っていたかも(笑)いや〜、照れるなぁ。



脇道をさらに上流方面へ行くと平川の岸に行くことができました。未舗装路なので途中でクルマを置いて川岸へ。

近くで見る平川の様子です。



わかりますかねぇ、この水の澄み具合。



さらに下流に向かうと、なんと堰堤のすぐそばまで来ることができました。



先ほどの堰堤の上から見た下流の様子とはまた一味違った景色です。水の気持ちになってみました?



この堰堤は災害が発生するたびに追加・築造されたものですが、その経緯はともかくとして現在の姿からすると全体像は高さ21m(5m+8m+8m)なのでダムの定義からすると砂防ダムと呼んでも間違いではありません。い〜や、これだけの規模のものなら十分砂防ダムですよ!

それにしても、なぜ「源太郎」なんですかね。その由来はなんだろうか…。気になります。
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平川第1号床固工から流路工の完成へ

2021-06-24 06:54:39 | 長野(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。え~、前回の「平川頭首工」を見た後、平川のほとりに向かうとこんな案内板がありました。

「平川第1号床固工」1972年12月完成。通常、床固工(とこがためこう)は高さ5.0m以下の堰堤を指しますが、これは高さ7.0mと少し大きめの床固工と言えるでしょう。



その「お姿」がこちら。写真右上に少しだけ見えているのは次回の記事で紹介する「源太郎砂防堰堤」の一部です。



床固工本体に嵌め込まれているプレート。そこには「平川第一号床固」とあります。



案内板の近くを見ると2つの石碑が並んでいます。



「はじめに砂防ありき」とは1974年9月から1990年8月まで長野県北安曇郡白馬村の村長を務めた横沢裕の持論で、その在職期間中に全力で砂防政策に尽力したことがこの石碑の裏に記されています。



その隣にある「平川流路工」と題された石碑には横沢が砂防政策に尽力した理由を読み取ることができます。平川は以前から大雨のたびに土砂が大量に流出し、下流地域に被害を起こしていた。特に昭和34年(1959年)9月の伊勢湾台風は大糸線と国道148号の一部が土砂に埋まる事態に。

当時の建設省はその対策として昭和37年(1962年)から直轄の砂防ダム工事に着手。その産物として完成したのが次回ご紹介する「源太郎砂防堰堤」、そして「平川第1号床固工」でした。さらにこの床固工の完成後、流路の安定を図るために流路工事に着手。そうした一連の工事が終了したのが1990年で、これをもって「平川流路工」の完成となったわけです。



見た目では単なる川の堰き止め工事のように思えるかもしれません。でもその背景には作らざるを得ない理由があったんですね。なるほど、なるほど。

さて、いよいよ次回は当初の目的だった源太郎砂防堰堤に向かいます。お楽しみに!(まだまだひっぱります)
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正しい竣工年は?…平川頭首工

2021-06-23 06:57:41 | 長野(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回目指すのは長野県北安曇郡白馬村北城(ほくじょう)みそら野にある「源太郎砂防堰堤」という変わった名前の堰堤です。アクセスは国道148号沿いにある白馬綜合開発株式会社 みそら野管理事務所の横の道を入っていきます。

もう少しで当該の堰堤に到着というところで「平川頭首工」と刻まれた石碑が目に飛び込んできました。昭和58年(1983年)3月竣工で、鈴木善幸改造内閣で農林水産大臣を務めた田澤吉郎(たざわきちろう:1918-2001)の名も見えます。



石碑を見た時は「ほぉ、そうなのか」と思っただけでしたが、この記事を書くにあたり確認してみると意外な間違いに気づいてしまいました。というのも、田澤が農水大臣だったのは1981年11月30日から翌82年11月27日まで。でも石碑に記されている竣工年は1983年であり、この時すでに田澤は農水大臣ではなかったはず。これは一体どういうことなんでしょうか。

ネットで調べてみると、どうやらこの頭首工の本当の竣工は昭和56年(1981年)12月であることがわかりました。あぁ、それならば頭首工の竣工時期が田澤の任期中であり矛盾は生じませんね。ただ、この参考サイトに出ているこのプレート、どこにあったのかなぁ。ワシは現物を見ていません。

とにかく、平川頭首工を見ていきましょう。写真の奥から分水して流れてきた平川の水は、



あちらへ流れていき、



この水門のようなものを経て、



さらに分水していくと思われます。



平川頭首工は農業基盤整備のための灌漑排水事業として設置されたことがこの看板からわかりますね。



頭首工を見学し終えて堰堤に近づこうとしたら、またまた「副産物」を発見。それは…次回の記事で明らかになります!(ひっぱります、えぇ、ひっぱりますとも)
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姫川第二ダム(再訪2021)

2021-06-22 07:05:15 | 長野(ダム/堰堤)
いや〜、どーも、ワシです。今回は以前深夜に訪れた(参考)長野県北安曇郡白馬村北城(ほくじょう)にある姫川水系の姫川第二ダムを再訪します。アクセスは国道148号の「青鬼集落」の看板のところから入っていきます。いや、青鬼って…これも気になるところですがそれはまたの機会に。

で、国道からの道を入ってくるとダムの上流側に来ます。「姫川第二ダム」の看板が見えますね。



ダム横へ来ました。そこには管理所があります。





水利使用標識は前回来た時と変わらず。中部電力が管理する発電用ダム。



ダム上の道は鉄橋のような感じ(のはず)なんですが、訪れた時は工事中で、橋は渡ることができるもののベニヤでスッポリとカバーされている状態でした。上のリンク先でお分かりのように、この橋の鉄骨は朱色で、深夜でもダムととてもマッチしていた記憶があります。だから昼間なら尚更素敵に見えるかなと思ったのですがカバーされていては、もう台無し…。下の写真は橋を渡って右岸の下流側から見たものです。



少し離れたところからもう一枚。ダムの下側がちょこっとしか見えないなんて…嗚呼。



まさにハプニング。でも工事中の橋に出くわすなんてそうそうあることじゃない。そう考えれば今回は貴重な経験だったと言えるかもしれませんね。
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長閑な急斜面の場所に…車坂砂防堰堤

2021-06-21 06:57:58 | 長野(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。グーグル先生の地図を見ていたら前回の姫川第3ダムの少し上流のところに姫川水系の車坂砂防堰堤(長野県北安曇郡小谷村中小谷)というのがあるのを見つけたので行ってみました。アクセスは国道148号の「下里瀬(くだりせ)」交差点近くにあるサンテインおたりを目印に、そこから山のほうへ入っていきます。

畑の間のそこそこの急坂を登って行くと…ありました! あれですね。



堰堤まではクルマで行けないので、そこからは歩いて近づきます。

堰堤本体に嵌め込まれたプレート。「車坂砂防ダム」とありますが、高さが14mなのでダムの定義上は砂防堰堤になります。着工は1987年8月、竣工は1995年11月。



堰堤本体の上には行けそうになかったので、その下にある副堰堤の上を歩いてみます。



副堰堤の中央。ほとんど水が流れていないせいか草ボーボー。



排水はこの水路を通って姫川へ流れて行くのでしょう。



堰堤を近くから見ると鉄骨ばかりなので向こう側が透けて見えます。



この周囲にはホント畑しかありません。静かで長閑な場所なんです。なのでこの砂防堰堤は「浮いて」見えます。ちょっと違和感があるなあという感じ。なんでこんな場所に堰堤があるの?というのが最初の感想です。でも、おそらくかつてここで土砂崩れなどの災害があったから砂防堰堤が作られたんでしょうね。
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昼間ならバッチリ!…姫川第3ダム

2021-06-20 07:02:07 | 長野(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は長野県北安曇郡小谷村にある姫川水系の姫川第3ダムへ向かいます。実は2年ほど前に一度来たことがあるんですが、その時は深夜だったためほとんど写真が撮れず記事にしていませんでした。だから、ワシにとってはまあここは再訪みたいなものですが一応初出扱いにします。ダムへのアクセスは国道148号の「小谷温泉口」を曲がり、すぐ右折するとダムが見えてきます。

こんな風に。よく見るとダムのところに「姫川第3ダム」と書かれているのがわかります。





そこから姫川の上流を見るとこんな感じ。



ダムへ近づくには崩落しそうなトンネルを進まねばならないので注意が必要。

ところが、トンネルを抜けた先にあるダムへの入口はご覧の通り「関係者以外立入禁止」で、これ以上近づけません。



う〜む、なんとか下流からダムを見ることができないかな…。周辺をウロウロしてみると少し下流から川岸へ行く道があるのを発見。未舗装なのでクルマを降りて川岸へ向かいました。

石ころだらけの歩きにくい道を進むと、姫川の岸に到着。写真は下流方向を写したものです。



ここから上流に向かって歩きます。すると、見えました! これが下流側から見た姫川第3ダムの「ご尊顔」。



さらに近づいてみます。右岸側から凄い勢いで水が吹き出ていました。



深夜の訪問では何も見えなかったこともあり、今回その全貌をバッチリ捉えることができたので個人的には大満足でした。
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デンカ(株)大網発電所取水堰堤(再訪2021)

2021-06-19 06:55:37 | 長野(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回からしばらく長野県のダム関連施設を巡ります。向かったのは、以前訪れた姫川(ひめかわ)水系のデンカ(株)大網発電所取水堰堤(長野県北安曇郡小谷村北小谷塩坂)。前回の訪問は深夜だったので昼間の姿を確認しようというわけ。つまりは再訪シリーズのひとつですな。

ここへのアクセスは国道148号の塩坂トンネルの両端にある脇道のどちらからでも行くことができます。前回は新潟県側の道から行ったので今回も同じルートでいいや…と思って進んで行ったら、なんと通行止。異様なトンネルを再体験することはできませんでした。

仕方ないので長野県側のルートから向かいます。

到着しました。これが全体像です。見た目はなんとなく頭首工のような感じですね。ちなみにこのアングルは新潟側の道から来ると目に飛び込んで来ます。



堰堤の近くから見た様子です。



堰堤の下方はこんな感じ。魚道が見えますね。



堰堤の対岸(右岸)下流側の様子です。国土地理院の地図によれば堰堤の右岸の上流側に取水口があり、その水が右岸の水路から直線距離にして4.5km下流にあるデンカ(株)大網発電所へ送られるようです。ちなみにデンカ(株)とは電気化学工業株式会社の新社名ですが、いつ改称したのかは確認できませんでした。



下流側の姫川の様子。何もない景色ですが、なんとなく美しいですね。



堰堤横から見た様子です。深夜の感じとは全く違います。こんな風なんですな。



「危険ですから入ってはいけません」とありますが、



入りたくても、ガッチリ施錠されていて入れませんてば!



近くに掲示されている水利使用標識。おおっ、前回見たのと違ってる! 作り替えたんですね。



姫川の上流側はこんな感じです。



堰堤の横でゴーゴーと唸り音を立てているのは黒部川電力の北小谷発電所の建物。



深夜ではよく見えなかった全貌を今回ハッキリと捉えることができました。再訪した甲斐がありました。良き良き。
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ゆったり歩いて学べる…長井ダム

2021-06-18 06:58:56 | 山形(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は最上川水系の長井ダム(山形県長井市平野北脇ノ沢)を訪れてみようと思います。場所は山形鉄道フラワー長井線の長井駅の西方向にあり、県道252号を登っていくとトンネルを抜けた先にダム右岸へ通じる道があるので、そこを入っていきます。

まずは左岸から見た「勇姿」をご覧ください。これがベスト・ショットかなぁ。



ダムへの道を入っていくと、最初に目に入ってくるのが長井ダム管理支所の建物です。このサイトによると、長井ダムは昭和52年(1977年)4月に予備調査を開始し、平成12年(2000年)3月に本体工事に着手。平成15年(2003年)9月にダムの定礎、平成23年(2011年)3月に長井ダム竣工、そして同年4月、長井ダム管理支所開設だそうです。





近くにはこのダムの貯水湖の名称である「ながい百秋湖(ひゃくしゅうこ)」と刻まれた石碑。



その裏には命名の由来が丁寧な解説で書かれています。「ながい」は長井市に、そして「百秋」は古事記に記されている「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)」(=日本国のこと)に由来するそうな。



「千秋長五百秋」は幾千年も続くという意味であることから「ながい百秋湖」は長井市にある幾千年も続く(続いて欲しい)湖と解釈できます。興味深いのはカナ読みだけなら「長五百秋湖(ながいほあきこ)」でも良かったのでしょうが、それでは長井市のニュアンスが出ない。そこで「長五」を「ながい」に変え、「百秋」を「ほあき」でなく「ひゃくしゅう」と読み替えることで、出典は古事記だけど別物だよ感を出したとも考えられます。

それにしてもこの石碑の解説文はとても明快で、わかりやすい。おそらく文章を作成した人は頭脳明晰なんだと思います。ワシは文章を書くことを生業にしているので、こういうところがすごく気になるんですよね。

この管理支所からダムまでは少し歩くことになります。



その途中には長井市出身の現代具象彫刻家である長沼孝三(ながぬまこうぞう:1908-1993)の作品『万手(まんじゅ)』があります。これは千手観音以上にあらゆる想いをあたたかく支える女性を具現化したものだそうです。







【「卯の花姫」伝説と『万手』】
長井ダム上流には三淵渓谷があり、そこには「卯の花姫」の伝説があります。祭礼の日になると卯の花姫は龍神となって野川を下り、里の人たちに安全と五穀豊穣をもたらすとのこと。この伝説は現在でも近隣の神社で「黒獅子の舞」として受け継がれているそうな。『万手』像はこの卯の花姫と重ね合わせ、ダムはもちろんのこと流域の人々を見守って欲しいとの願いから建立されたそうです。いや〜、ロマンだねぇ。



では、いよいよダムへ。ダム横には独特の筆跡で「ながい百秋湖」と刻まれた碑。



右岸、下流側から見たダムの様子です。



これがダム上。広々していますね。



ダム上、中央から見た「ながい百秋湖」。



ダムの真下はこんな感じ。なかなか「ひぃぃ〜」です。



下流側の遠景。



ダム上、中央に設置された「展望台」。いや〜、そこに登ったところで景色はそんなに違わんゾ。



ウォーティーとフラッティーは可愛いけど。(でも、なんでそんな名前なんだろうか…)



ダム上、中央にある建物の中の様子。ガラス張りなので覗いてみると、色彩のせいかプラモデルのように見えます。一応これは常用洪水吐ゲートの開閉装置らしいんですが…。



対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。



対岸、「ながい百秋湖」側から見たダムの様子。



国土交通省が管理するダムだけあって、いろいろなところに目が行き届いていますね。見て、学んで、楽しめるダムだと思います。
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最上川本流の砦…上郷ダム

2021-06-17 07:05:20 | 山形(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は山形県西村山郡朝日町大滝にある最上川水系の上郷(かみごう)ダムに来ました。アクセスは国道287号から入っていくとダムの右岸に辿り着くことができます。ただ、国道から脇道へ入るところには何の目印もないのでそこを見落とさないことがポイント。

まずは左岸から見た「ご尊顔」をどうぞ。なかなかのツラ構えをしています。



先ほど書いたように国道から入ってくるとダムの右岸横に来るのですが、そこはこんな感じです。



近くにはお馴染みの水利使用標識があります。東北電力が管理する発電用のダムなんですね。



ではダム上を歩いてみることにしましょう。壁には親切にも下流正面から見た上郷ダムの全景写真が貼りつけられています。たぶん全景を眺めることができるスポットがないのでダム側の配慮と思われます。いいねぇ、こういうのは。



右岸側には魚道があります。お魚さんに優しいのは魚道の傾斜がとても緩やかになっていて上流へ遡りやすい構造になっていることです。



横から見るとこんな感じ。



ダム上、中央から見た最上川上流の景色。



一方、ダムの真下を見ると…勢いよく落水しています。



下流側はこんな感じ。写真右側に先ほどの魚道が見えます。



対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じです。



ダムの名称「上郷」はおそらくダムの右岸上流側の地名に由来するものと思われます。上郷ダムはたぶん最上川本流を堰き止めている唯一のダムでしょうが、ゆったり流れる川の流れと同様にどこか大物感が漂います。惜しいのはダムに関しての案内板がないこと。部分的な気配りはあるのにね。もっとアピールして欲しいなあ。
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生糸から桑へ…馬神池

2021-06-16 06:53:51 | 山形(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は山形県西村山郡朝日町大谷にある最上川水系の馬神(うまがみ)池にやってきました。アクセスは国道287号から県道112号に入り進んでいくと到着です。

ここは全国の「ため池百選」に選ばれています。それを示す看板は池の最も目立つ場所にあります。



その看板の近くにあるのが「馬神池」と「竣工記念碑」の石碑。



「馬神池」の裏側には工事着工が昭和13年(1938年)5月1日で、竣工が昭和24年(1949年)5月31日と記されています。



「竣工記念碑」の裏側には馬神池建設の経緯が記されています。昭和初期、この地域では生糸生産を地場産業にしていましたが、不況の煽りを受け生糸価格が暴落。その対策として大谷村一円を桑畑にする計画が持ち上がります。桑畑用水確保のために着手されたのが馬神池でしたが、完成目前の昭和19年(1944年)夏、豪雨により池が決壊。結局完成したのは上に記したように昭和24年でした。

年月を経て、昭和40年代になると池の老朽化が進んだため改修工事が必要と判断。そして馬神地区溜池等整備事業として改修工事が昭和53年(1978年)6月に開始。そして昭和62年(1987年)11月に完成したのが今の形となっています。



近くには「馬神社」と刻まれた小さな石碑。これはなんでしょうね。



洪水吐は県道側にあります。増水時にはここから溢れ出て、



あちらへ流れてゆきます。



通常のため池だと、いわゆる「ダム上」に相当する場所が少し高いところにあるんですが、ここはちょいとイレギュラー。ダム上に相当する場所には二本の道が通っているくらい広いスペースがあります。



下流側から見たダム上の様子。写真に見える道路は池から遠いほうの道。



これが池に近いほうの「ダム上」の道。とりあえず歩いてみましょう。



ダム上、中央付近から見たため池の様子。



一方、下流側を見ると山の斜面の一部分が完全に崩れていて「地肌」が丸見え状態になっています。





対岸へ来ました。振り返るとこんな感じです。



農業振興のために作られた馬神池。気になるのは下流側に見える完全崩落した山肌。修復には時間がかかりそうですね。
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