ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

ぶらり250km

2005-02-28 04:24:46 | ドライブ関連
何となくドライブがしたくなり、出掛ける。R129を南下し、途中から小田原厚木道路の側道(R271)を走る。そして大磯まで行き、R1を東京方面に戻る。然るべきところに寄ってからR134に入り、江ノ島を右に見つつ三浦半島のほうへ行く。アップしたショボイ写真は荒崎漁港に浮かんでいたプレジャーボート。写真で見るとイマイチだが、実際に見るとなかなか格好いいのだ。

そして久里浜を経由して横浜、川崎を通って帰宅する。日曜の夜なので海沿いの道はガラガラに空いていた。おっと、原稿をやらなくちゃ…。
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削除しました

2005-02-27 21:08:37 | 脳みその日常
夕方にアップしたものは、読み直しても気分が悪いし、ましてや他の人が読んでも恐らく気分のよいものでないと思われたので削除しました。ご了承くだされ。
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シティ・フィル、リターンズ

2005-02-26 17:35:49 | 音楽あれこれ
何しろこれまで評判の悪かった東京シティ・フィル。どうやら彦さんが原因のようだな。フランスものシリーズという企画は面白かったのだが、結局は指揮者としての能力が問題だったのか…。

…ということが判明したのは、昨日の定期を聴いてわかったこと。昨夜の指揮者は岩村力。プログラムも全く異なるもので、ヴォルフ《イタリアのセレナード》、ショスタコーヴィチ《ヴァイオリン協奏曲第1番》、休憩を挟んでプロコフィエフ《交響曲第6番》という、いくぶんマニア向けの曲目が並んだ。

フレーズをいかに膨らませるかというのは、何もフランス音楽に限ったことではない。現代モノは別にして、どんな音楽であれ立体的なフレージングは必要であろう。それが聴く者のイメージを膨らませるからだ。岩村はそのあたりのことは十分にわかっている。だからヴォルフの作品ではワクワクする演奏ができたのだろう。

ショスタコーヴィチの独奏は、中国人の若手新人、ホァン・モンラ。クセのないボーイングなので、均一の音色を奏でる。それはそれで良い。ただし、場合によっては薄っぺらな印象を与えかねない。いうなれば、ドロシー・ディレイ門下のヴァイオリニストによくみられる平板な演奏だ。技術はあるが面白くないというのがディレイ門下の特徴。もちろん、モンラはディレイ門下ではないが、譬えてみればそういう音楽なのだ。ま、今後それをどう克服するかが課題だろう。

プロコフィエフの《第6番》なんて、生では久しぶりに聴いた。それにしても、プロコは交響曲の作曲家としてはイマイチのような気がするねえ。もっとも、オケの演奏もいささか消化不良の感があったが。でも、シティ・フィルもやればそこそこできるオケだということがわかった。いや、もっと言えば、指揮者次第でオケは変わるということなのだが。

それにしても、解説を書いていたFという奴。いまさらヴォルコフの『証言』なんぞを引き合いに出して恥ずかしくないのかね。あんなもん、とうに過去の遺物だぞ。それにあの書物の内容なんて欺瞞に満ちているのもすでに証明済みなのに。

それにショスタコのこの作品が協奏曲にもかかわらず4つの楽章からなってて、緩-急-緩-急という楽章編成になっているのは変わっているという。確かにそうだが、それに言及するのなら、バロック時代の教会ソナタのことぐらい触れたらどうなんだ? そのあたりの類似性とか影響の有無について語ったほうが面白いだろうよ。よもや、Fはそれを知らないわけじゃないだろうな。
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自分は必要なのかと考えること

2005-02-25 01:28:18 | 脳みその日常
往々にして精神を病む人は「自分は何のために生きているのか?」と考えたりする。また、他人とのコミュニケーションがうまくいかない人は「もしかして自分は必要とされてないのではないか?」と思ったりする。

結論から言おう。そうした疑問をいくら考えたところで答えは出ない。ワシはかつて音楽の勉強をする前に、大学で哲学を学んでいた。哲学科というところは、いわゆる哲学の歴史を学ぶところである。古代ギリシャ哲学から現代哲学までをひと通り学ぶのだ。歴史上に名を残すエラーイ哲学者たちの脳みその中を探る学問といってもよい。

古今東西の哲学者たちの思想を学んだ立場から言えば、「自分は何のために生きているのか?」とか「もしかして自分は必要とされてないのではないか?」という疑問に対する明確な答えを出している哲学者は、残念ながらいない。仮にそれっぽい疑問について答えを出そうとした者がいたとしても、ストレートに答えを出していない。彼らは頭がいいので、なにがしかのレトリックを用いて違う論理にもっていこうとする。つまりは、これらの問いはエラーイ学者でさえ難しい問題なのだ。

確かに人生において、人はいろいろな壁に直面し、悩み苦しむ。するとそうした疑問をもつのも無理はない。ワシとて若い頃にはこの問題にずいぶんと苦しめられたものである。でも結局、答えを見いだすことはできないまま今日に至っている。

だけど、ちょっと見方を変えてみよう。「何のために生きているのか」なんて真剣に考えるのは、もしかしたら愚問じゃないだろうか、と。人間はたまたま考える生き物だから、そんなことを思いつくけれど、生きているものは他にもいる。たまたま彼らは考えるという能力が与えられていないだけだ。いや、もしかしたら実は考えているのかもしれないが、それは単に我々に伝わらないだけなのかもしれない。

いずれにしても、いま生きているということは確かなのであるが、もしかすると生きていることそのものは偶然なのかもしれないのだ。創造主というか絶対者のレベルからすると、いまワシが生きていようと生きていまいと、そんなことはどうでもよいことなのかもしれない。たまたま、この瞬間にワシが呼吸をしているというだけのことであって…。

「何のために生きているのか?」という問いがなぜ起こるのか。それは無意識のうちに自分と自分以外の人間とを比較するからではないか。他人を意識するからこそ、誰かの「ために」何かをするという気持ちが起こったりするわけだし。

また、意識する対象がモノであっても基本は同じ。たとえば、カネを貯める「ために」生きるとしよう。確かに対象はカネを貯めることであって、他人ではない。しかしそれを推し進めて考えていくと、結局は金持ちになった自分を誰かに認めてもらいたいという気持ちが潜在的にあるから、そうした行動に出るんじゃなかろうか。

もしこれが正しいとすれば、「何のために生きているのか?」という呪縛から逃れるには、自分以外の他人を意識しないように務めれば良いことになる。他人を意識するから劣等感を抱いたりするし、不安になったりする。しかしそんなことは他人にとっては関係のないこと。だから他人を意識したところで何も自分にメリットはない。

そうはいうものの、なかなかゴーイング・マイ・ウェイというわけにはいかない。そりゃそうさ。人間はみな社会の中で生きているんだからね。仙人のように孤独に生きてるわけじゃないし。じゃあ、どうしたらよいのか。

劣等感を抱いたり不安になったりする人に共通するのは、自分に自信がないこと。ポイントはそこだ。問題の解決の糸口は、なんでもよいからひとつでも自信が持てるものを見つければよい。他人に負けない何かがあればあるほど劣等感を抱くこともなくなるし、不安になる回数も減るはず。

そうなればシメたもの。同様に「自分は必要とされていないのではないか?」なんていう問いも浮かばなくなる。自分に得意分野があれば、そのスキルを誰かが必要とするからだ。こちらが黙っていても、相手から頼んでくるものさ。

だから、「自分は何のために生きているのか?」とか「もしかして自分は必要とされてないのではないか?」という疑問を抱いたら、すぐに自分を見つめ直し、いち早く自信を取り戻すように務めることである。それが解決の近道だと思う。
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やってらんねえな

2005-02-24 06:08:47 | 脳みその日常
連載記事を担当していたが、これ以上デキの悪い編集者に付き合うのは御免なので降りることにした。もちろん代役は決めての上である。その旨を編集責任者にメールする。すると即座に電話がかかってきた。

「えっ、いったいどういうわけ?」

「いや、メールに書いた通りです」

「うーん、困りましたねえ」

「いやいや、困ることはないですよ。代わりに書いてもらう人には了解をとってありますし」

「いえ、そういうことじゃなくて…」

相手はしばらく沈黙していたが、ワシの決意が固いことを理解したらしく了承したようだ。やれやれ、これで少しはストレスから解放される。

連載を辞めることで、もちろん収入は減る。それは覚悟の上だ。でも、たかだか月に3万ちょっと減収。まあ、やりくりすれば何とかなるだろう。それより、ワシにとって重要なのはいかにストレスを溜めないかなのである。3万を犠牲にしてストレスから解放されるのであれば、考えようによってはこれほど安いものはない。
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世の中狭いが、複雑な心境

2005-02-23 23:53:08 | 脳みその日常
ある友人に作品のデータの問い合わせをする。話をするうちに世間話になった。すると友人から意外な話を聞く。大昔にワシを振った彼女のことだった。「あぁ、そんな人がいたねえ」そう思いながら聞いていると、友人は衝撃の事実を語った。

その彼女というのは、いわゆる玉の輿というやつで、とある大学の医学部教授と結婚をした。ここまではワシも風の便りで知っていた。ところが友人の話によると、昨年の8月にそのダンナが亡くなったというのだ。それも49歳という若さで。肝臓がんだったという。

今さら彼女には何の未練もないし興味もない。ただねえ、身近な人を病気で亡くすという辛さは共感できるものがある。本当に悲しかっただろうな、と。まあ、彼女の将来の生活についてはダンナの遺産があるから心配することもないだろうが、今後どのように立ち直ってゆくのか。子供もいるということだし。

いずれにしても、悲しみから早く立ち直って欲しいものだ。
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クールだぜ、ゲヴァントハウス!

2005-02-22 18:35:12 | 音楽あれこれ
昨日のサントリーホールでのライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団は素晴らしかった。プログラムは前半がバルトーク《ヴァイオリン協奏曲第2番》(独奏:フランク・ペーター・ツィンマーマン)、後半がベートーヴェン《英雄》。

バルトークでは打楽器と弦に揃わぬところがあったが、なんというか女性的な柔らかな表現に驚く。音が発する瞬間がとにかくソフトなのだ。鋭い表現が好きな人は、こういう演奏は苦手かもしれない。とはいえ、モノは考えよう。ツィンマーマンのヴァイオリンがエネルギッシュだったのだから、何もオケまでヒステリックになる必要はどこにもない。独奏楽器と管弦楽とが対照的な表現をするのもまた面白いのではなかろうか。

それにしても笑っちゃうのは、ツィンマーマンがオケのなかにいると小さく見えることだ。リサイタルだとなぜか彼は大きく見える。うーん、なんでかなあと考えているうちにハタと気づく。そうか、オケの連中はほとんどがゲルマンなんだもんな。ツィンマーマンが相対的に小さく見えても不思議じゃないわい。なるほど、なるほど。

オケは前半では女性的な表現だったのに対し、後半では豹変。なんて男らしいのだろう(笑) 全体的にいくぶん速めのテンポではあったが、それはそれは爽快な演奏だった。(あー、そうかい、なんてツッコミはなしね)

いや、それより何より驚いたのは、弱音の美しさである。オーケストラなんてデカい音を出そうと思えば簡単に出すことができる。だが音が死なないようにしながら弱い音を保持するのは難しい。日本のオケがダメなのはこの点ではないか。弱いが美しい音を出すことで、初めて強い音が活きるのである。それをものの見事に指揮者のヘルベルト・ブロムシュテットは成し遂げたのだ。

なんだか久しぶりに心地よいベートーヴェンを聴いた気がした。ブラヴォーである。
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ゴーシュ

2005-02-21 04:36:54 | 脳みその日常
北海道のクラシック音楽界に新しい動きがあるらしい。つい最近ネット上で見つけたのが「季刊ゴーシュ~北海道発のクラシック音楽マガジン」。地方のクラシック音楽の活動はこれまで低迷していた。というより、それぞれの土地のメディアが彼らの活動をちゃんと取り上げてこなかったのが原因なのかもしれない。なんといってもメディアの影響力はあるからねえ。その意味で「ゴーシュ」のような雑誌が独自に発行されることは喜ばしいことである。これがきっかけとなって北海道の音楽界が活性されることを願わずにはいられない。

とはいうものの、どの地方でもそうなのだが、それぞれの地域には必ずといってよいほど「お山の大将」がいる。コイツらは大した能力もないくせに、限られた地域の中で実力者のように振る舞うから困る。何か新しいことをするにしても、コイツらに同意してもらえないと「ダメな企画」とされてしまう。そう、コイツらは地方という狭い世界で常に権力者でいたいのである。こうした目の上のタンコブを排除しない限り、地方の音楽界は本当の意味で活性化されない。

ここで紹介した「ゴーシュ」のように、地方の音楽メディアが活発になれば「お山の大将」もエラソーにしていられなくなる可能性がある。雑誌が第三者的な目で冷徹な批評をすれば、コイツらの「中身のない影響力」は何の意味もないことが白日の下に晒されるわけだから。もっとも、雑誌サイドに「お山の大将」を向こうに回すだけの勇気があればの話だが。

聞くところによれば、大阪を中心とした関西の音楽界ですら、いまだに封建的な世界があるそうな。そこにも「お山の大将」みたいな奴らがいて、なかなか自由な発言が許されないのだとか。関西在住で優秀な若い音楽学者に「関西圏の音楽界の批評をしてみないか?」と提案したら、「いやー、関西のクラシック界は封建的で難しいんですよ」と断られてしまった。ヘタなことを書いたらエライことになるそうな。ふーん、そういうもんなのかねえ。ということは、ワシなんかが関西で書いたらすぐに職を失うということだな。こえー、こえー。

それにしても「ゴーシュ」のアドヴァイザーのなかにTさんがいるじゃないの! この人、相変わらずどこにでも顔を出すんだねえ。某スタジオでシコシコと編集作業をしてるだけじゃ我慢できないんだな。あらま、音楽評論家を名乗ってるよ。アンタはジャーナリストじゃなかったの? まあ、この人はある種のロシア・オタクだから地理的にロシアに近いこの企画に乗っかったのかもしれないな。でも、この人があるところに書いた指揮者のフェドセーエフの経歴、ぜんぜんインチキで使えなかったぞ(苦笑)
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フリーズ睡眠

2005-02-20 10:24:37 | 脳みその日常
前にも書いたかもしれないが、ワシは一旦眠りに落ちると死んだように眠る。といって長時間眠るわけではない。短い時間で一気に疲労を取るパターンのようだ。もちろん眠っている間の意識なんてない。だからその間、自分がどうなっているかはわからない。親しい人の話を総合すると、ワシは眠っている時、本当に死んでいるんじゃないかと思うほど動かないらしい。よく言えば寝相が良いということなのだが…。

確かに眠る体勢と目覚めた体勢にほとんど変化はないし、寝具に乱れもない。そうか、やはり死んだように眠っているのか。実感、実感。しかしフリーズ状態で寝ているということは、睡眠中、心肺機能を除けば身体の筋肉を動かしていないことでもある。これで果たしてよいのだろうか。

ところで、ここ数年本当に足の衰えを感じている。外を歩くことがほとんどないので足は弱る一方だ。わかっている。だが歩く必要がないので、ついつい歩かない。こりゃ、ますます弱るよなあ。

筋肉が活動しないことは同時に血のめぐりも悪くなることを意味する。コレステロール値を計測したことがないので何とも言えないが、たぶん高いんじゃないかと思う。というのも、最近脂っこい食事をしたあとすぐに横になると、しばらくして足首あたりに激痛が走るからだ。これはメチャクチャ痛い。きっと血管が詰まり気味になっているのかもしれない。そう、ドロドロ血の状態だ。

このように思うのは、食事後に軽いストレッチなどをすると激痛は起きないからである。ストレッチによって筋肉が動かされることで、体内の血流量が増す。だから詰まり気味の血管も詰まらずに済むのだろう。水分を多めに摂取することでも激痛は回避されることも経験的にわかっている。

いずれにしても、こんな症状が起きるのは正常でない証拠だ。なんとかしなければ。ましてや眠りに落ちたら動かないので、最悪の場合そのままアノ世へ…なんてことにもなりかねないな。まあ、ある意味でそれはそれでいいけれど…。

いや冗談はともかく、まずは血液をサラサラにする必要がありそうだ。そういえばここ1年くらい、もろみ酢を飲んでなかったことを思い出した。もろみ酢は血をサラサラにする効果があることが知られている。おーし、まずは酢を飲むことから始めてみるとしよう。
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いかんな、シティ・フィル

2005-02-19 18:35:23 | 音楽あれこれ
昨日、東京シティ・フィルの定期演奏会に行く。都営線のダイヤの乱れもあり、開演時間は10分遅れた。それはやむを得ないとしても当の演奏のほうがねえ…。

せっかくフランスもののシリーズなのにイメージを喚起させないような凡庸な演奏。いったん演奏を始めたら、ほとんど変わらない速度。サティの《パラード》ですらインテンポなのだよ! もっさりした行進曲じゃん、まるで。これではこちらのイメージも膨らみようがない。

それに最初のデュカ《ラ・ペーリ》のファンファーレにはがっかり。赤面するぐらいの金管のヘボさ。ヘタレもいいとこ。彦さんよ、もうちょっと練習させろよな。

彦さんといえば、なんだいあの「ちょんまげ」は。唖然としたね。まるで怪しいアーティストみたいだし。

あまりに呆れたのと、仕事の関係で前半だけ聴いて帰宅する。大丈夫か、シティ・フィル。今回の入場者も6割ぐらいだったし。いや、半分ぐらいだったかもしれないが。心配である。
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慇懃無礼な奴

2005-02-18 04:25:54 | 脳みその日常
表面上は礼儀正しいように見せるが、実は失礼なことを平気でする(言う)人を慇懃無礼な奴という。こういう奴に関わるとロクなことがない。仕事柄、ワシは先生と呼ばれることもある。この呼び方は本当に嫌いで、ヤメて欲しいのだが、世の中には「先生、先生」と呼びたがる奴もまたいるのだ。

彼らがなぜそう呼びたがるのかというと理由は簡単。とりあえず相手を「先生」と呼んでおけばいいだろうという安易な発想なのだ。バカだねえ、そんなことをしてもすぐにバレるのにな。

学校などで実際に教えているのなら先生と呼ばれるのは仕方がない。しかしワシは市民講座を除き、誰かを教えているわけじゃない。だから先生なんて呼ばれる筋合いはない。でも奴らは「先生、先生」と来る。最初はそう呼ばれることを逐一断っていたが、最近では断るのも面倒になってきたのでそのままにしている。だって、あまりにも「先生」と呼びたがる奴が多いんだもんな。

もちろん他意はなく「先生」と呼んでくれる人もいる。それはそれで嬉しいことだ。だが多くはまさに慇懃無礼な奴なのだ。面と向かっては「先生」なんて呼びながら、心の中では相手をナメている。そんなのはしばらく話していれば態度でわかる。

「ははーっ、コイツはワシをナメてるな」と。

本当に慇懃無礼な奴は丁寧な言葉遣いでありながら、実際にはこちらの神経を逆なですることを平気で言う。あのねえ、アンタの魂胆はバレバレですよ。そう言ってやりたいところだが、言わない。なぜなら、なんとかにつけるクスリはないから。ワシがそこで指摘したところで、その人の性根は治ることはないからねえ。

自然に行こうよ、自然に。
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よりどころ

2005-02-17 04:49:05 | 脳みその日常
あなたにはよりどころがありますか。どうしてよいのかわからなくなった時、頼りにするものは何ですか。信心深い人なら宗教かもしれません。いや、別に心が落ち着くのであれば、どんなものをよりどころにしてもいいんですが。

ワシのよりどころとするのは、自宅から50~60km離れたところの、とある場所です。ここに来ると不思議と心が落ち着き、弱った心が何となく元気になります。といって、景色の美しい場所というわけではありません。他人からすればなんてことのない場所なんです。でも、ここはワシにとって落ち着く場所なのです。

実は先ほどそこへ行ってきました。ワシは夜中にクルマであちこち走り回るので行き先はどこでもよいのですが、今回はこの場所に行きたいなと思ったわけです。行けばどうなるというわけではないのですが、そこへ行くと気持ちが穏やかになれる。

ひとつでも「よりどころ」があるとラクですよ。ない方は自分なりのそれを見つけてみたらいかがでしょうか。

うはは、急に「ですます調」になってしまったわい。
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文は人なり

2005-02-16 23:59:03 | 脳みその日常
文章は、まさしく人をあらわす。その文章には書く人の心の状態や知的レベル、そして場合によっては生まれながらの品性すら出る。だからコワイ。

見た目は穏やかそうにみえても、思いやりのない人の文章は冷たい。いや、攻撃的であったりもする。逆にぶっきらぼうに振る舞うように見える人であっても、相手を思いやる心を持つ人ならば、その人の文章はあたたかい。

ワシ自身、気分が乗らない時に書く文章は、あとで見直してみると本当に下手クソな文章になっているとわかる。なんか無理矢理ひねり出しているというのがミエミエなので恥ずかしくなるのだ。しかし、気分が乗っている時や、興味のある内容のことを書く場合、自分でも上手く書けたと自覚できるし、あとで読み直してみてもソコソコの出来であることが多い。

そう、文章は書く人の気分がそのまま出てしまうものなのだ。あー、月並みな結論だな(苦笑)
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バタバタ

2005-02-15 23:06:12 | 脳みその日常
やたらと慌ただしい。落ち着いて原稿が書けないこのごろ。あっ、そういえば留守電に原稿催促のメッセージが入っていたな。うわっ、ヤバヤバー。明け方までに何とかしないと。

バタバタといえば、大阪・寝屋川での殺人事件もそう。ネット上では17歳の少年の氏名や写真が晒されてエライことになっている。「きっかけはー、フジテレビ!」の通り、朝のバラエティ番組「とくダネ」のなかで事件を説明する際、少年の名前がみえてしまったことがきっかけだった。

事件の大きさを考えれば、未成年とはいえ少年のデータが公表されてしまっても加害者側は文句は言えない気もする。つまりそれだけの罪を犯したわけだからな。すでに何度も書いたことだが、重大事件は誰が起こしたかが問題ではない。たとえ犯人が少年だろうと罪は罪である。

もし少年の将来を考えてそのデータを公表しないというのなら、せめてコイツの親のデータぐらい晒してもいいんじゃないだろうか。なにしろ保護者なんだからさ。保護者なら問題ないだろう。なにしろ成人なんだし。被害者の立場からすれば、それぐらいの制裁は当然のような気もするねえ。

とにかく現在の法律では圧倒的に被害者が不利な立場にある。そろそろ少年法というようなワクを取り払う時期に来ているのではないのか。罪を罪として認め、罪を犯した人間は誰であろうと相応な償いをさせる。実に簡単なことではないか。そして犯罪を未然に防ぐために、家庭では親がちゃんと子供に道徳を教えればよいのだ。「他人を傷つけてはいけない」という最小限のことがわかっていれば、人を刺すなんて行動には出ないからな。

被害者をやたらと擁護している感じだが、今回の被害者の男性教諭については全面的に感情移入できないところもある。生徒からは慕われる良い先生だったらしいが、裏の顔もあったからである。それは検索すればわかるが、この先生、左巻きの反日組織に賛同者として名を連ねている。これはこれでまた別の次元で議論がなされるかもしれない。
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笑える音楽雑誌社

2005-02-14 19:40:27 | 音楽あれこれ
たまたま目にした雑誌「ショパン」の今月号の紹介ページ。もうね、ツッコミどころが満載で笑える笑える。ここってさ、一応雑誌社の公式サイトだよな。つまりはネット上の「顔」のはず。ところが見れば判るが、誤字だらけなのだ。これじゃ、まるでシロートのHP以下じゃん。(苦笑)

基本的に音楽家の名前を間違えて表記すること。これは音楽専門の雑誌なんだからまずあってはならないし、あり得ない話。いや、仮にあったとしてもひとつかふたつ程度だろう。ところがここには「てんこ盛り」なのだ。あーあ、こういうところを見ると、これを作成した担当者の音楽レベルがわかってしまうから悲しいねえ。というか、こんなやつに任せるなよと言いたいな。

たとえば名前の打ち間違いにはこんなのがある。伴奏ピアニストとして知られる岩崎を、なんとここでは岩崎と平気で書くありさま。確かに似たような字かもしれないが…うーむ、絶句。また、作曲家の松隆は、松隆に…。あちゃー。まだ生きてる人なのに古くさくされちゃったよ。さらに、たぶん深井尚子なのだろうが、深い尚子。へぇ、何がそんなに深いんだい? この人はディープな演奏をするんだろうか…

どう考えてもミスだろうという間違いもある。サイン回って何ですか! 何回もサインするという意味なんでしょうかねえ。さらにプデュースって何よ。一瞬考えちゃったよ。前後の流れからすると、きっとプロデュースなんだと思うけど。

情報としてどーよ、と思ったのはう檜ホール。ナヌ? そんなホールがあったのか? これはワシも勉強不足だなと思って検索してみるが、そんな名称のホールはない。試しに檜ホールで再検索してみたら、あった。湯河原にあるこれだな…きっと。
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