ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

誤表記か?…千草ダム(堰堤)

2022-11-30 07:05:35 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回はグーグル先生の地図に載っている兵庫県宍粟市千種町河内(しそうし ちくさちょうこうち)にある千種川水系の千草ダムを訪れます。アクセスは国道429号「千草」信号を県道72号へ北上し、千種川と河内川が合流した下流のところにあります。

どうやらこれのようです。県道72号沿いにあるのでわかりやすい。


千種川の下流方向の景色。


左岸、ダム横に来ました。いや、ダムというより堰堤ですね、これは。

右岸には水利使用標識らしきものが見えますが、左岸からでは読むことができません。


右岸側には取水口が見えます。(写真中央の黒く見える部分)


ご覧の通り、ここは左岸から眺めるだけで右岸へ行く道が見当たりません(後で地図で調べてみると上流側からいける道があるようです)。また案内板もないのでこの施設がどのようなものかも不明。さらに疑問なのはその名称です。グーグル先生の地図では「千草ダム」と表記されていますが、それが地名に由来するのであればもっと下流に千種町千草という地名があるんですが、そこそこ距離があって不自然なんです。そこで考えられるのは「千種ダム(堰堤)」ではないかというもの。というのも、この施設は千種川に設置されているからです。さらにグーグル先生の地図表示にはしばしば誤表記があるので、もしかすると今回もそのパターンかもしれません。ちなみにネットで「千草ダム」「千種堰堤」を検索してもそれらしい情報は載っていません。

一体なんなんだろうねえ。
コメント

周囲は難読地名ばかり…茗荷谷ダム

2022-11-29 09:53:33 | 鳥取(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は鳥取県八頭郡若桜町茗荷谷(やずぐんわかさちょう みょうがだに)にある千代川(せんだいがわ)水系の茗荷谷ダムを訪れます。アクセスは国道29号から「香美(かみ) 氷ノ山(ひょうのせん)」方面へ行く国道482号に入り、しばらく道なりに進みます。そして国道が通る陸橋が見えてきたら右に下る道があるのでそちらへ。そのまま行くと目的地の右岸に到着します。

まあ、気づいたら鳥取県に来たわけですが、びっくりするのはこのあたりには難読地名が多いこと!

【八頭郡の由来】(参考
まずは八頭郡から。八頭郡は明治29年(1896年)に八上(やかみ)、八頭(はつとう)、智頭(ちず)の3つの郡が合併し、それぞれの郡の文字をとって八頭郡になったそうな。

【若桜の由来】(参考)(参考
「若」は新しいの意味、「さ」は狭い土地の意味で、八東川(はっとうがわ)沿いの狭い土地を新たに開拓したことに由来するという。じゃあ、なぜ「さ」に「桜(櫻)」の字が当てられたのかという疑問が残ります。これについては履中天皇の時代(古墳時代の5世紀前半)にはすでに「若櫻」の名があったことが『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』(嵯峨天皇の命により815年編纂)に出ています。また『郡郷考』という書物には若桜を「和加佐」と読み、古姓若桜部に因んでいるとあることから地名の若桜は姓の若桜に由来するものという。

まあ、そんなわけで茗荷谷ダムが見えてきました。これが「ご尊顔」です。


右岸、ダム横近くに来ました。

ダム本体に嵌め込まれたプレート。「昭和35年1月 茗荷谷堰堤 鳥取県知事 石破二朗」とあります。当時は堰堤と呼ばれていたんですね。なお、石破二朗(いしばじろう:1908-1981)は昭和33年(1958年)12月に同知事に就任し、昭和49年(1974年)2月まで務めました。石破茂の父でもあります。


右岸、ダム横にある表示板。これを見るとわかるようにこのダム名は「みょうがだに」です。でも、ダム便覧では「茗荷谷(みょうがたに)ダム」と表記されています。なんというケアレスミスでしょうね。現場を見れば明らかなのに。


ダム横には水利使用標識があります。「河川名」に春米川(つくよねがわ)と表示されている通り、茗荷谷ダムはこの春米川を堰き止めて築造されたもの。「水利使用の目的」が水力発電とあるので調べてみると、ここから直線距離にして約5km離れた八東川(はっとうがわ)沿いにある春米発電所(鳥取県八頭郡若桜町大炊[おおい])に春米川とは別の水路を通って送水され発電に使用されるようです。同発電所は鳥取県企業局が運営していて、発電所の工事着手は1958年8月1日で、発電開始は1960年12月9日。(参考


で、これがダム上なんですが、ご覧の通り立入禁止で、行くことはできません。とほほ。


仕方がないので、右岸、貯水側から見たダムの様子を撮ってみました。


春米川上流方向の景色。


「茗荷谷ダム管理棟」は右岸、ダム横から少し下ったところにあります。



鳥取県が運営するダムなのにダム横付近に案内板がないのはちょっと不親切だなあと思ったりして…。
コメント

兵庫県初の!…引原ダム

2022-11-28 07:02:25 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県宍粟市波賀町引原(しそうし はがちょうひきはら)にある揖保川(いぼがわ)水系の引原ダムを訪れます。アクセスは国道29号沿いにあるので迷うことはないでしょう。

【引原の由来】(参考
ダム名はもちろんここの地名に由来するのでしょうが、平安時代、この地域は「蟾原」と表記されていたようです。「蟾」はヒキガエルの意味なので、昔この付近はヒキガエルがたくさんいる野原だったのかもしれません。「蟾原」はその後江戸時代になると「曳原」と表記され、明治6年(1873年)には引原小学校が開校しているので「引原」という表記はこの頃すでに定着していたと思われます。

左岸から見た「ご尊顔」です。


左岸の国道沿いには「兵庫県引原ダム管理所」があります。



近くには「音水湖散策マップ」。ダム湖名は音水湖(おんずいこ)なんですが、これは右岸側の地名(波賀町音水)に由来するもののようです。


その隣には「ハウエル・バンガー・バルブ」。1963年に設置され、1996年まで使用されていた実際の放流バルブです。そういえば以前訪れた宮城県の鳴子ダム(1957年完成)にもこのバルブが展示されていましたね。(参考



さらにその隣には「引原ダム概要」。これを見ると、ダムの起工は1941年4月1日で、竣工は1958年3月31日とあります。


左岸から見たダム上。


そばには引原ダムの案内板があります。その歴史を読むと本ダムは揖保川河水統制事業の一環として築造が開始されたものの1947年には一旦工事が中止され、1953年になって工事再開。そして1958年に完成したという経緯があったようです。


兵庫県のダムだなぁと思わせるのは湖面の面積を甲子園球場22個分として表現していること。関東だったら東京ドームで表現されるでしょうね。


「引原ダムの役割」パネル。当該ダムは洪水調節、水力発電用水、かんがい用水、工業用水を目的とした多目的ダムだそうです。ちなみに水力発電用水はここから直線距離にして約1.9km下流にある関西電力 原発電所(兵庫県宍粟市波賀町日ノ原)へ送水されて発電されます。同発電所の運用開始はダムが完成した翌月、つまり1958年4月。発電所の完成当初は兵庫県企画庁の所有でしたが、2010年4月1日より関西電力が所有者になっています。(参考


ダム本体に嵌め込まれたプレート。


ダム上、中央から見た音水湖の様子。


ダムの真下はこんな感じ。64.7mらしいですが、まあまあの高さです。

下流側の遠景。訪れた時はキレイに色づいていました。


対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じです。


右岸、音水湖側から見た様子。


右岸の道を進んでいくと…なんでしょうね、これは。

「パラボラベンチ」だそうな。試しに座ってみましたが何も聞こえず…。おおっ、恥ずかしい。


その奥には「記念碑」と刻まれた石碑。

その下部の句「すすむ世の ためとてあはれ ささなみの そこに消えぬる 引原の里」は当時兵庫県知事だった阪本勝(さかもとまさる:1899-1975)が歌ったものらしい(参考)。阪本は1954年から1962年まで兵庫県知事を二期務めたが、その一方戯曲作家、美術評論家としても活躍したそうな。


石碑の裏側上段には当時の引原村の歴史と引原ダム築造の経緯が刻まれています。




昭和33年5月建立の割に文字が明確に読むことができたので下に転記しておきます。

「兵庫県宍粟郡波賀町引原村の起原は遠く平安時代に遡り大同二年(807年)坂上田村麿(758-811)の後裔田村氏助の拓く処と父祖相伝えて茲に千百数拾年その後天安元年(857年)八幡神社を京都石清水八幡宮より奉祀し享保二十年(1735年)鹿王山長源寺(※)を建立し●に農作の傍ら林業に励み和衷協同引原川上流に桃源境を作り戸数百参十戸田畑参拾五町歩の有力村として現在に至る然るに昭和十六年(1941年)太平洋戦争が起るや播磨臨海工業地帯の拡充にせまられ揖保川河水制の為県営引原ダム建設となり祖国の必勝を念じつゝ郷土を去る者四十八戸更に三十余戸の日の原部落分村となる終戦を経て昭和二十八年(1953年)工事の再開せらるゝや社寺を東側山腹に遷し在村する者僅かに十余戸他は竜野姫路阪神方面へ生業を求めて離散し茲に我等の郷土は湖底の村となりおわるこの地や我が揺籃なり我が墳墓なり哀惜の情一入深し然れども父祖の精魂は水霊となり我等と共に引原ダムを祝福し永くその栄を護らん」

(※)長源寺は国道29号沿いの引原駐在所の隣にある寺

学んだ、学んだ。
コメント

お尋ね者カボチャ!

2022-11-26 07:28:09 | 脳みその日常
どーも、ワシです。先日スーパーでカボチャを買いました。


よく見ると、このカボチャ、「ブラックのジョー」というそうな。まるで西部劇に出てきそうなお尋ね者の名前みたいですね。


「ふふ、ようやく見つけたぜ!ブラックのジョー!」
「ふっ、貴様にこのオレが倒せるかな?」
(両者しばらく沈黙の末、銃声が鳴り響く…)

てな具合。

ま、妄想はさておき、名前の由来が気になります。調べてみるとこれは北海道士別市(しべつし)で誕生したカボチャで、2018年頃から本格的に流通し始めた新品種(参考)。冬至になるまで果皮の色が褪せず、常(じょう)に黒い(ブラック)ままであることからそう命名されたそうな(参考)。なんとウイットに富んだネーミングでしょうか!

ちなみに士別という地名はアイヌ語で本当の川という意味の「しぺっ si-pet」に由来するらしい。で、本当の川とはこの地を流れる天塩川(てしおがわ)を指すようです(参考)。

美味しく調理して食べよう!
コメント

高野川支川堰堤のひとつを見学

2022-11-25 07:25:24 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県宍粟市一宮町河原田(しそうし いちのみやちょう かわはらだ)に高野川(たかのがわ)支川堰堤という揖保川水系の築造物があるようなので行ってみました。アクセスは高野峠に向かう国道429号沿いにあるようです。

グーグル先生の地図に示されている場所に到着しました。これのようです。

透過型の砂防堰堤ですね。



左岸側の堰堤本体にプレートが嵌め込まれていますが、ワシのスマフォではズームしても読めません。


下流方面の景色。


右岸横から堰堤を見ると、こんな感じ。ご覧の通りフェンスが張られていて堰堤の上には行けません。


上流側から見た堰堤の様子。


この砂防堰堤は随分新しい感じだなあ、最近できたのかな?…と思いつつ、後で調べてみると色々なことがわかりました。どうやらこの堰堤は平成30年(2018年)7月7日に発生した土砂災害に対する砂防工事のひとつとして築造されたもののようです(参考)。そしてその土砂災害は同月に起こった西日本豪雨によるもので、14府県で275名の犠牲者を出したそうな。山腹の大規模な崩壊による土石流はこの一帯を一気に押し流し公民館に避難していた住民はさらに高台へ逃げなければならないほどだったという。

神戸新聞によるこの記事を見ると、今回ワシが見た砂防堰堤の上流にさらに大きな砂防堰堤が築造されていることが判明。確かに「高野川支川堰堤」で画像検索してみると上に見た透過型砂防堰堤とは異なるものがヒットするのでどういうことなんだろうかと疑問だったのです。要するにこの土砂災害に対して2基の砂防堰堤が築造されていて、ワシが見たのは下流側のものでした。災害発生から3年が経った令和3年(2021年)に復旧工事が完了し、同年7月に「平成30年7月豪雨宍粟市災害復旧記念式典」が行なわれたそうなのでこの砂防堰堤が新しく見えたのはそういうわけだったんですね(参考)。

機会があれば上流側に築造したものも実際にこの目で見てみたいと思います。
コメント

家屋の裏手に…

2022-11-24 06:58:51 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、昨日記事にした草木ダムのすぐ下流のところに妙なものがあるのを発見。住宅の裏山に砂防堰堤らしきものが…。


思わず近寄ってみました。


「平成30年度(30単防第17号)治山事業 兵庫県」と記されたプレートが嵌め込まれています。


すぐ下には家屋が…。


堰堤の横から見た様子。立入禁止なので堰堤の上には行かず。


堰堤の上流側の様子。


この場所をストリートヴューで確認してみると2013年9月の時点では家屋の裏手には何もありません。また国土地理院の地図にも載っていません。ということはそれ以降、2018年の間にここで何らかの土砂崩れが発生したことが推測されます。だからここに砂防堰堤が築造されたのでしょうね。

こうした場所はおそらく全国に点在するのでしょうが、それにしても堰堤のすぐ下で暮らすなんておちおち寝られやしないだろうなあ。
コメント

兵庫県の草木ダム

2022-11-23 07:41:38 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県宍粟市一宮町草木(しそうし いちのみやちょうくさぎ)にある揖保川(いぼがわ)水系の草木(くさき)ダムを訪れます。アクセスは国道429号(養父宍粟線)沿いの「草置城」の看板のあるT字路を入り、そのまま道なりに進んで行くと目的地に到着します。

ところで、宍粟市は難読地名のひとつですよね。実はワシも知りませんでした。そこで、地名の由来について調べてみました。

【宍粟の由来】(参考
この名称は宍粟市山崎町(やまさきちょう)の中心部の地名である鹿沢(しかざわ)を昔は「ししさわ」と読んだことに由来するのが定説とされています。そして「ししさわ」→「ししああ」→「しさわ」→「しそう」と読み方が変わり、漢字は「宍粟」が当てられたようです。宍粟とは古代の宍人部(ししひとべ)が管理する粟田のことで、宍人は肉を調理する膳夫(かしわで)という意味。膳夫は地方豪族が大和政権への服従の証として一族を朝廷の食事の調理に従事させたものが原型で、その名称は昔は食物を食器でなく柏の葉などに盛ったことから、また酒宴の際に柏手を打って彼らを呼んだことに由来するようです。別の説では「しさわ」は「し(石)」+「さわ(沢)」であることから石の多い川という意味でその地名になったといいます。さらに、8世紀頃に書かれた『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』によると、伊和大神(いわのおおかみ:播磨の国神)がこの場所を訪れた際、舌を出した大きな鹿に遭遇した(ししあわ)ことに由来するとも言われます。

ついでに揖保川についても調べてみました。

【揖保川の由来】(参考
『播磨国風土記』によると、伊和大神と天日槍(あめのひぼこ:渡来神)が国を巡る争いをした際、伊和大神が慌てて食事をしながら川を遡っていたのでその時に口から飯粒がこぼれ落ちたそうな。その場所が後に「粒丘(いいほのおか)」と呼ばれるようになり、転じて「揖保」になったようです。さらに現在の揖保川は同風土記では「宇頭(うず)川」と表記されています。宇頭は渦の当て字のようですが、昔からこの川が渦を巻くような暴れ川だったためそのように表記されたと思われます。

そんなこんなで到着。まずはダム下から見た「ご尊顔」をご覧ください。


草木川の下流方向はこんな感じ。


右岸のダム横へ向かいます。しっかりした造りのダムです。



ダム横に来たんですが、ご覧の通りダム上には行けず。さすがは関西電力です!(皮肉)


仕方がないのでダム横から貯水側を眺めます。


ダム横には草木ダムに関する案内板はありません。なのでこれがいつ築造されたのか不明でした。帰宅して調べてみたところダムから直線距離にして約1.4km離れたところにある関西電力草木発電所(兵庫県宍粟市一宮町百千家満[いちのみやちょうおちやま])へ送水され発電に使用されるようです(参考)。おそらくダム下のここから勢いよく流れる水が草木川とは別の水路を通って発電所へ向かうのだと思われます。


肝心の築造年ですが、上の参考サイトによると1913年(大正2年)に竣工したと記されています。どうりで職人仕事を思わせるような築造物なわけですな。これは大正から昭和初期にかけて築造されたダムや堰堤に共通する特徴といえます。

それにしてもダム名は「くさき」なのに地名は「くさぎ」なのは面白いですね。以前訪れたダムにもそんな例がありましたが、どこだったかなぁ。そういえば同名のダムは群馬県にもありましたね(参考)。
コメント

矢田川発電所のための…入江ダム

2022-11-22 07:12:04 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県美方郡香美町村岡区入江(みかたぐんかみちょう むらおかくいりえ)にある矢田川水系の入江ダムを訪れます。アクセスは国道482号の村岡トンネル西側入口の手前(美岡工業の看板が目印)を入って行くと到着します。

湯舟川の右岸、ダム横から見た様子。


右岸からダム上を見ると、こんな感じ。でも、さすがは関西電力が管理するダムです(皮肉)。門扉はしっかり閉ざされていてダム上に行くことはできません。


水利使用標識。


右岸、ダム横の傍にあるのが「入江ダム管理所」。



同、上流側から見たダムの様子。


下流側からダムを見ると、こんな感じ。木が邪魔で全貌を見ることはできませんが、ダム本体には「入江ダム」の文字が。


ダムの周囲には案内板がないので築造の経緯などはわかりません。調べてみるとこの場所から直線距離にして約9.0km下流のところにある関西電力矢田川発電所(美方郡香美町村岡区長瀬)へ湯舟川とは別の水路から送水され発電に使用されているようです。つまり入江ダムは矢田川発電所取水ダムというわけですね。資料によると入江ダムは矢田川発電所が運用開始したのと同じ1958年に竣工したそうな。

ほぉ〜。
コメント

堰堤だね…石井発電所名色取水ダム

2022-11-21 07:40:00 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県豊岡市日高町名色(ひだかちょう なしき)にある円山川水系の関西電力 石井発電所名色取水ダムを目指します。アクセスは国道482号に近い「全但バス 但馬ドーム」付近から稲葉川(いなんばがわ)方面へ行き、八反の滝の上流に目的地はあります。

到着しました。これが右岸から見た「ご尊顔」。ゴム堰(ゴム引布製起伏堰)ですね。


下流方面の景色。この先に八反の滝があります。


右岸側にあるこの建物が管理棟。

関西電力お馴染みの鉄柵には「石井発電所名色取水ダム」の文字が書かれたプレート。

そして、水利使用標識。


右岸側の道を挟んだところに取水口から分水した水を一時的に貯水する池があります。ここから直線距離にして約2.6km下流にある石井発電所(豊岡市日高町石井)へ送水され、発電に使用されるのでしょう。


右岸からだとダムの様子が把握できないので、左岸に移動。上流側から見ると、こんな感じ。


写真中央に見える鉄柵のところが取水口です。ここから分水したものが先ほどの貯水池へ向かいます。


左岸から見た「ご尊顔」。パンパンに張られたゴム堰から水が勢いよく流れ落ちているのがわかりますね。


石井発電所の諸元によれば、運用開始が1954年9月なのでこの取水ダムもその頃に築造されたものと思われます(参考)。でも、ダムと称していますが、高さ的には堰堤なのでダムの定義からすると「石井発電所名色取水堰堤」と呼ぶのが適切ではないでしょうか。

(おまけ)
右岸の畑を見張るマネキンの首。これがどれほどの効果があるのかは知りません。案山子の代用なのでしょうが、畑の縁にこんなのがゴロゴロ並んでいるとホント不気味でしかありません。夜に来たら怖いだろうなぁ。
コメント

岩中発電所取水堰堤?…道場ダム

2022-11-20 07:25:02 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県豊岡市日高町道場(ひだかちょうどうじょう)にある円山川(まるやまがわ)水系の道場ダムを訪れます。アクセスは国道482号「久田谷(くただに)」信号から南下し、稲葉川(いなんばがわ)を渡って道なりに進むと管理所に到着します。

まずは「ご尊顔」をご覧ください。


順を追って見ていきます。上に書いたアクセス方法で行くと最初に管理所が目に飛び込んできます。

その壁面には水利使用標識が貼られています。

しかし、管理しているのは秘密主義で知られる関西電力ですから容易にダムへ近づくことはもちろん、見せてはくれません。フェンスの隙間から見るも、ちょっとしか見えません。

フェンス伝いに川へ近づくも、見えるのはこんな程度。


それならばと今度は左岸に移動してみます。こちら側ももちろんフェンスで覆われているのですが、その隙間から撮ってみました。向こう側(右岸)に「くの字」形をした魚道が見えます。

右岸の上流側(上の写真の右側に見切れている)に見えるのが取水口で、調べてみるとここで取水した水は直線距離にして約3km下流のところにある関西電力岩中発電所(豊岡市日高町岩中)へ送られ発電に使用されるようです。(参考


岩中発電所の運用開始が1957年1月なのでこの道場ダムもその頃に築造されたものと思われます。もっとも、グーグル先生の地図では「道場ダム」と書かれていますが、ダムの定義からすると高さが足りないので、これは堰堤と呼ぶべき。だからダム便覧には載っていません。ついでに言うなら岩中発電所で使用するために築造されたものなので、その用途からすると「岩中発電所取水堰堤」なのでしょうね。
コメント

推測してみよう!…但東ダム

2022-11-19 07:44:05 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県豊岡市但東町畑山(たんとうちょうはたやま)にある円山川水系の但東ダムを訪れます。アクセスは県道701号沿いの「たんとう花公園」付近から入っていくと到着します。

左岸のダム横に到着しました。横長の治水ダムのようです。


左岸側には「兵庫県但東ダム管理所」があります。



その付近から見たダムは、こんな感じ。


もうちょい奥まったところから見たダムの様子。


ダム横には「但東ダム」「よこたに湖」と刻まれた石碑。ダム湖名はこのダムが横谷川を堰き止めて築造されたことに由来すると思われます。



但東ダムの案内板です。




左岸から見たダム上。歩いてみます。


ダム上、中央から見た「よこたに湖」の景色。


ダム本体に貼り付けられたプレート。取水放流設備の完成は2007年3月。


ダムの真下はこんな感じ。高さは25.7mなので恐怖は感じません。


下流側の遠景。紅葉も手伝って美しい景色です。


対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


右岸、「よこたに湖」側から見たダムの様子。


右岸、下流側から見た様子。


ダム下に行けそうだったので、行ってみます。正面から見た「ご尊顔」。横長なので写真に入りきらず。


近づいて非常用洪水吐を見上げます。


ダム下にも但東ダムの案内板が。でも、こちらはダム横の簡略版という感じ。


このダム、いつ築造されたんでしょうか。明確な記載がないので推測してみます。上に見たように取水放流設備は2007年3月に完成とありますね。ということはダムの築造はその頃かもしくはそれ以前ということになります。取水放流設備は作り替えられることがあるからです。ならば、他に築造のヒントはあるのでしょうか。

ダム横にある案内板に注目します。諸元表の河川の位置を見ると「兵庫県豊岡市但東町畑山地先」とありますね。この表示が何を表しているかというと、この地名になった時期がわかります。調べてみると但東町は2005年3月末日まで出石郡(いずしぐん)但東町でした。ところが翌4月1日より豊岡市に合併されたため豊岡市但東町に変わっています。案内板の表示は作成時点での地名が書かれます。ということは但東ダムが完成したのは2005年4月1日以降と考えられます。

これら二つのデータから導き出されるのは但東ダムの完成時期は2005年4月1日から2007年3月の間ということになります。でも、常識的にみて取水放流設備は二年足らずの間に交換するとは考えにくい。となると取水放流設備の完成時期イコール但東ダムの完成もしくはその直後と考えるのが自然なのではないでしょうか。あくまで推測ですけどね。
コメント

築造年はいつ?…滝上ダム

2022-11-18 07:31:06 | 京都(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は京都府宮津市万年にある如願寺川水系の滝上ダムを訪れます。アクセスは国道178号沿いにある宮津市民体育館前のT字路を入り、滝上浄水場を横目に見ながらさらに登って行くと到着します。

【万年に至る経緯】
現在ここの地名は万年ですが、それは慶応2年(1866年)以降の話。それ以前は吹屋谷(ふきやだに)と呼ばれていたそうな。吹屋は鍛冶屋を意味するので、このあたりには昔は鍛冶屋が多く住んでいたのかもしれませんね。

さて、右岸に到着しました。そこから見たダム上の様子です。


でも、実際のダム横はこうなっています。つまり洪水吐からの水路と思しきところに架かる橋を渡ってからダム上へ向かうようになっているのです。

でも、ご覧の通り、ダム上に行くことはできません。一番上の写真はそのフェンスの隙間から撮ったものなのでした。


水路の上流側の様子。この先が本当に洪水吐なのかどうかはわかりません。


一方、下流側はこんな感じ。


これだけでは物足りないのでダム下へ向かい、木の間からちょっとだけ見える「ご尊顔」をキャッチ。

よく見ると、ダム下の中央あたりから水が出ています。

染み出てきた水は本当に澄んでいて、流れ出る音を聞かせられないのが残念!


先ほどの水路はここに繋がっているらしく、ダムの下へ流れ落ちる構造のようです。


ダム下から見た下流方向の様子。


宮津市の資料によれば、滝上浄水場が完成したのは1912年6月で、翌年11月から宮津市内の一部に給水を開始したと書かれています。ところが滝上ダムに関しては平成16年(2004年)に改修とあるのみで、築造年についての記述はありません。あー、なんだかモヤモヤした気分。(参考

(おまけ)
ダム下の草むらで見つけた不法投棄の現場。

題して「捨てられた愛妻」…あ、あなた〜。
コメント

行くのはなかなか…岸谷ダム

2022-11-17 07:19:23 | 京都(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は京都府舞鶴市与保呂岸谷(よほろきしたに)にある与保呂川水系の岸谷ダムを訪れます。アクセスは国道27号と与保呂川が交差する「舞鶴市字浜」の交差点を与保呂川に沿って進み、府道51号から府道487号を進んでいくと与保呂浄水場があるのでそこを右折していくと目的地に到着します。

【与保呂の由来】
さて、与保呂という地名が珍しいので調べてみました。奈良時代の713年、元明天皇が各令制国の国庁に地方の歴史や文物を記した風土記編纂の詔勅を下します。こうして各国の風土記が完成するわけですが、京都北部の内容を記した『丹後国風土記』も同時期(おそらく8世紀中)に編纂されています。そこには有名な「浦島伝説」や「羽衣伝説」も所収されています。『丹後国風土記』の原本は散逸して現存していないのですが、15世紀末に京都の北白川家に伝わっていたものを丹後国一之宮籠神社の社僧である智海が筆写したのが『丹後国風土記残欠』と呼ばれるものです。ここに与保呂についての記述があります。それによれば、

「与保呂と号くる所以は、古老伝えて曰く、往昔、豊宇気大神之神勅によりて、此地に神人仕丁等を置かせらる。故に与保呂と云う。」

とあります。つまりこの場所に神社の雑役や警備を担当する神人(じにん)や古代の律令制において50戸ごとに二人の成年男子が三年交替で諸官庁で労役に服す仕丁(じちょう、つかえのよぼろ)が配備されたことからここを与保呂と呼ばれるようになったというらしい。

しかしながら『丹後国風土記残欠』の中で記されている「地名の由来」は938年に編纂された『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』の誤記を訂正することなく使用していることから、『丹後国風土記残欠』は散逸した『丹後国風土記』を補完するものではなく、どちらかといえば偽書とされているようです(参考)。

いずれにせよ、与保呂という地名が古代において公的な仕事に使役された人民の意である丁(よほろ)に由来するのは間違い無いのかもしれません。

だらだらとまあ書いてしまいました。で、当初の目的地である岸谷ダムに戻りましょう。これが左岸側から見た様子です。


左岸のダム横に来たんですが、なんと立入禁止!貯水池だから仕方がないのかもしれませんね。


扉には経済産業省が運営する平成19年度の近代化産業遺産に認定されたとあります。ただし、これは岸谷ダム(岸谷貯水池)だけが認定されたのではなく「舞鶴市の赤煉瓦製造関連遺産と建造物」の一部として認定されたようです。なんと紛らわしい。


それでもフェンスの間からダム上を見ると、こんな感じです。


しかしまあ、なんとも悔しい。というのはですね、ここへはすんなり到着したわけじゃないからです。まずは与保呂浄水場への入口にある案内板があります。これによれば岸谷ダム(貯水池)は明治38年(1905年)に完成し、旧海軍の水がめとして使用されたのち、現在は舞鶴市の生活用水として使用されているそうな。


その道を入ってくと与保呂浄水場の正面玄関となります。



でも、岸谷ダムは見えません。えー、どこにあんねん。地図で確認するとこの道の先にあるようです。仕方ないのでクルマを降りて向かうことに。

こんな景色を見ながら、

このカーブの先にあるのか?

いーや、ないんかい!

またカーブが…。

おっ、何か見えて来たゾ。


で、ようやく先ほどのダム横へ到着したわけなんです。通常ダム巡りをすると一日に10,000歩から14,000歩くらいは歩きます。なかなかの運動になっていいんですが、時々こういう「試練」に出くわすと途端に息が上がって自分がポンコツであることを思い知らされます。まあ、ポンコツなのは間違いないんですけどね。でも、負けんぞー。
コメント

オフの時もあるさ!…柳原頭首工

2022-11-16 07:43:45 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は宮城県栗原市栗駒菱沼柳原(くりこまひしぬま やなぎわら)に北上川水系の柳原頭首工なるものがあるようなので探しに行きます。この頭首工は地図には出ていないのでこのサイトに載っている写真だけが手がかり。

そうこうするうちにその写真と同じ建物(揚水機場)を発見。

近くには水利使用標識。「柳原揚水機」とあるので、ここで間違いなさそうです。

揚水機へはこの水路から流れ込むようです。

その水路の取り入れ口となっているのが、熊川に設置された取水設備。

ところが、取水設備の下流側にあるはずの頭首工が見当たりません。んー、どういうこと?

よくよく見れば、この頭首工の堰堤形式はゴム堰(ゴム引布製起伏堰)で、訪れた時は稼働しておらずペチャンコの状態でした。


参考までにこの場所の地図を載せておきますね。写真中央の➕のところが柳原頭首工(揚水場)です。


…というわけで、探す手間がかかった割にほとんど見るところのない場所でした。せめてゴム堰が膨らんでいればなぁ。
コメント

目立たぬ!…秋山頭首工

2022-11-15 07:22:42 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県栗原市一迫北沢天拝(いちはさま きたざわてんぱい)にある北上川水系の秋山頭首工を訪れます。アクセスは国道398号から一迫川方面へ向かい、姫松館跡(ひめまつだてあと)を目指して行くと目的地が見えてきます。

一迫川左岸から見た秋山頭首工。頭首工名は左岸の下流の地名が「上宮野秋山(かみみやのあきやま)」なのでそれに由来すると思われます。フォルムが地味なのでわかりにくいですが、この頭首工はゴム堰(ゴム引布製起伏堰)なんです。


明治時代以前、ここには秋山堰と成田堰と言う二つの堰堤があったようですが、それが老朽化したため周辺の農業用水の取水が困難になっていたそうな。そこで県営土地改良事業により両方の堰を統廃合して新設されたのが秋山頭首工だそうで(参考)。工事着工は2005年で、2007年に完成(参考)。

一迫川上流方面の景色。これを遡っていくと前回記事にした伊豆野頭首工があります。


上流側から見た秋山頭首工。ね?これだとどこにそれがあるのかわかりませんね。


右岸にあるこの建物が「秋山頭首工操作室」で、


その壁には水利使用標識が貼られています。


そこから頭首工を見ると、こんな感じ。写真中央に見える黒っぽいところが取水口と思われます。


右岸側は草ボーボー、左岸側はフェンスで遮られているため肝心の頭首工へ近づくことはできません。最初はどこにあるのかわかりませんでしたが、なんとか見つけることができて良かったぁ〜。
コメント