ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

脱力しちまう

2005-01-31 20:15:39 | 脳みその日常
なんだかんだで、ウダウダしていて原稿を書いていなかった。仕方ないので、やる。ウダウダしていたのには理由があった。やろうとは思うのだが、いざパソコンの前に座るとヤル気が起きない。というより脳みそが働かないのがわかる。こういう時にはどうもがいてもムダ。だからウダウダする。

でも不思議なもので、異常に集中できる場合もある。まるで別人の脳みそみたいだ。少し戸惑いながら、一気に仕事を終わらせる。

終わるのはいいが、そのあとに必ずやってくる疲労は何とかならんもんかなあ。たちまち虚脱感。これはヤル気がないのとは違う。ただ単に脳みそが疲れるだけだ。そしてとても眠くなる。あぁ…
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ちょいとリサーチ

2005-01-30 22:01:06 | 脳みその日常
小学館の「クラシック・イン」がスタートして今日で5日目を迎えた。発売前には予約がかなりあり、12月にはすでに増刷したという。ただやはり作る側としては売れ行きが気になる。そこでネットでの「評判」を探ることにした。

方法は実に簡単なもの。ブログの検索窓に「クラシック・イン」と入れるだけ。そうすればこの商品のことを消費者はどのように感じているのかがわかる。ブログは情報発信の手段として使われることもあるが、むしろ公開日記の性質をもっているものが強い。日記というのは書き手の主観がストレートに出る。それだけに書き手がこの商品をどう思っているのかがわかる、というわけだ。

ブログ検索してみた結果、23件ほどヒット。ひととおり読んだところ、ほとんどすべての筆者がこの商品について好印象を持ってくれているようだ。ありがたい。しかし、シリーズはまだ始まったばかり。全50タイトル完結まで、まる2年を擁する企画である。読者に飽きられないよう今後も頑張っていかねば…
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事故には注意

2005-01-29 17:42:59 | 脳みその日常
昼過ぎ、いつもの楽譜屋さんへ行く。そう、「ツケ」で買うことのできる店だ。先月の支払をしに行ったのだが、店頭の棚を見ていたら、欲しい洋書が次から次へと見つかる。となると買わないわけにはいかない。買ってしまった(泣)4冊で、しめて3万円也。もちろん「ツケ」に決まっている。あぁ、またワナにハマってしまった。

しかし今回は思わぬ掘り出し物が。通常の値段ならば7千円の本が、な、な、なんと9百円! や、安すぎる…。出版された年を見ると1986年とある。なるほど、賞味期限切れなのか(苦笑) 売れ残った商品というわけだな。でもワシには「お宝」に見える本だったので、容赦なく購入。ウハウハ気分である。

それにしても今日はいつにも増して、あちこちで交通事故が起きていたようだ。交通情報によれば、各高速道路で多重衝突の事故のことを報じていた。本日は週末だから、運転に慣れないドライバーがウヨウヨと出てくるのも仕方のないこと。下道を走っていても、不慣れさんたちが突然思いもよらぬ行動に出るのに直面することも多い。いきなり右折する奴とか、道路のド真ん中で停止する奴とか…。これじゃあ、事故も起きるわな。

それと関係するのか知らないが、今日の都内はあちこちで白バイやパトカーを見かけた。交差点にはオマーリさんが立っているところもあった。うーん、これはシートベルト未着用と携帯電話で話しながら運転しているドライバーをチェックしてたのか? 公安がゴロゴロいるのは治安を確保するためには有効かもしれない。しかし、運転者はみな彼らを見るので、異常に慎重な運転になる。これも困りものだ。
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貨幣偽造は厳罰に処すべし!

2005-01-28 19:23:00 | 脳みその日常
このところ偽造紙幣による犯罪が多発している。振り込め詐欺もそうだが、やることがとにかくセコい。今の時代は貨幣経済で成り立っているのだから、その制度のなかで生活する人間が正規の貨幣を用いるのは最低限の約束事のはず。にもかかわらず偽造するバカが次から次へと現われる。当然こんなことは見過ごされてはならない。犯罪を放っておけば、経済のシステムそのものが崩壊する可能性だってあるのだから。

こうしたバカが罪を犯す動機は、ことによると「人を殺さなければよい」という意識が潜在的にあるんじゃないだろうか。「殺人をしなけりゃいいんだろ?」「貨幣を偽造したくらいでガタガタ言うな」というのがコイツらの本音だろう。もしそうだとするなら、大きな勘違いと言わざるを得ない。たとえ人を殺さなくても、コイツらには社会に迷惑をかけたという厳然たる事実がある。確かにコイツらは誰かを傷つけたわけじゃないし、一見、誰も被害を受けていないようにも思える。しかし、だからといってこれは絶対に放置すべきことじゃない。

たとえば、それは社会保険庁の悪行を放置しておいた結果を思い浮かべてみればよい。もともとは国民から預かっているカネなのに、無能な木っ端役人どもはそれを無意味なレジャー施設の建設などに平気で投入した。だがそんなもん、最初から必要のないものだった。建物の維持もままならず、結局そのツケは国民である我々が負担することになる。そんなバカなことが許されてよいわけがない。人様のカネを勝手に使い込んでおきながら誰も責任を取らないんだぜ。これに関係した木っ端役人どもすべてが終身刑でもいいくらいだ。

貨幣偽造についても五十歩百歩だ。遊び半分で偽造したバカどものせいで経済構造が狂って来たら、一体誰が責任を取るんだ? 犯罪は早いうちに芽を摘めというが、その通りだと思う。いや、犯罪者が物心の付かない子供ならまだしも、いい歳をした大人がやったとなれば、これはもう確信犯と見なされたって文句も言えまい。中国じゃないが、即刻死刑でもいいだろう。

一連の偽造事件は、犯罪者が食うものもなくて、仕方なくやったという類いのものではない。コイツらは自分の利益だけを優先させ、社会に迷惑をかける愉快犯でもある。そんな奴らを生かしておいてもムダムダ。司法はこんなバカどもをとっとと廃棄処分すべきである。そのほうがよっぽど社会が安定し、経済的繁栄にも繋がっていくだろう。

とにかく現代は犯罪に対して刑罰が甘すぎる。人権論者はすぐに「いや、加害者にも人権はある」なんてことを抜かしたりするが、見当違いも甚だしい。まっとうに汗水流して仕事をする、ごく普通の人々にこそ「人としての権利」があるのだ! 他人を騙してのうのうと生きる奴なんぞに、そもそも人としての権利なんぞあるわけはないし、与えるべきじゃないのだ。
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深夜の通販番組

2005-01-27 06:26:04 | 脳みその日常
深夜から明け方にかけて各局は通販番組を放映する。どの番組も視聴者の購買欲をかき立てるような工夫を凝らし、見ていると本当に欲しくなったりするから不思議だ。しかし、なかには工夫をし過ぎて苦笑するしかないものもある。そのほとんどは外国で放映された通販番組を翻訳したものが多い。

最近爆笑したのがバン&サイローラーというエクササイズ・マシン。ワシが爆笑したのは、この商品が面白かったからではない。番組のなかでこのマシンを使った人のセリフに撃沈させられたのである。もちろん、インタヴューを受けているのは欧米人なので、英語で話している。それを翻訳して日本語の吹き替えがこれにかぶせられているのだ。そのなかのひとりのセリフが、こう。

「(バン&サイローラーを使うと)気分はハレルヤって感じ!」

気分はハレルヤ…。どんな感じなんだ? まさか「気分が晴れる」にかけて訳したんじゃないだろうな。だいたい、日本語に直す時点で翻訳者は「何か変だな」って気づけよ。どんな日本人だって、「気分はハレルヤ」なんて言い方はしないし、おそらく死ぬまでそんな表現を聞かないと思う。ガイジンが言うセリフだから許されるとでも思ったのか? いや、それにしても別の表現の仕方があるだろう。

そもそも「ハレルヤ」ってのは、「神を賛美せよ」という意味のヘブライ語 (hallelujah)がラテン語化された語のこと。この語は、古くはグレゴリオ聖歌の歌詞に出てくるし、ミサ曲にも登場する。ヘンデルの《メサイア》(1741)で歌われる有名な「ハレルヤ・コーラス」も、この語は神を賛美する意味で用いられている。そう、つまりハレルヤの意味はそういうことなのだ。

とすると、このマシンを使うと「神を賛美せよという気分」になるわけか…。どんな気分なんだよ。じゃあさ、神を信仰しない無神論者や仏教徒はこのマシンを使うと改宗したくなるのか? こえーな…エクササイズをしていると思ったら、いつの間にか洗脳されていたなんて。(笑)

もうね、ツッコミどころ満載の番組で、ワシは次の商品の紹介を心待ちにしている。
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リニューアル

2005-01-26 06:30:42 | 脳みその日常
昨日、今年になって初めての講座の日。世話役のオッチャンたちが昨年末から宣伝をしていたこともあり、受講者は通常の倍近く集まる。ありがたいものだ。講座の内容も一新し、クラシック音楽の基礎をもう一度見つめ直すことにした。さあて、これが吉と出るか凶と出るか…
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わけわからん編集者

2005-01-24 22:40:25 | 脳みその日常
枝葉にばかりこだわる編集者にあたると最悪である。「ここはちょっと…」「あそこはどうも…」次から次へとクレームをつけてくる。最初にちょっと難しい内容を書くと、「これでは難し過ぎます」と言う。そうだな、これを読むのはビギナーだもんな。こちらも反省する。で、内容的に難しい部分をカットしてサラリと書いて送る。すると今度は「必要な情報は残しておいてくれ」と、またもやクレーム。あのな、ワシはアンタの手足じゃないんだぞ! ましてやゴーストライターでもない。ワシの名前で出る原稿のハズ。盛り込む内容が必要かそうでないかは、ワシが判断すること。なのに、こーしてくれ、あーしてくれという要望ばかりが次から次へと出てくる。

普通の編集者なら、原稿にマズい表現があれば筆者に対して「ここはこのような表現にしたいのですがよろしいですか」となる。ましてや文章そのものの換骨奪胎を要求することなんて、まずない。賢い編集者は、そんなことを要求すれば筆者の文章でなくなることを知っているから。第一、ヒトの書いた文章にあーだこーだクレームをつけること自体、書いた人に失礼とは思わないのだろうか。ま、この人は思わないんだろうな。

少し前、あまりにクレームをつけてきたので、ある実験をしてみた。「そこまでいろいろ指摘するのであれば、あとはそちらで好きなようにリライトして下さい」と放り投げる実験である。放り投げてしまったものについては何を書かれてもよいと思っていたから、たとえワシの名前で出ても仕方がないと諦めていた。

数日してから、別件で話をしていると、放り投げたものについて話が及ぶ。それによると、「本来の仕事を犠牲にしてやったんです」とか「時間がかかったんです」など、やたらと自分が大変な目に遭ったというような口ぶり。まるで自分が被害者であるかのように語る。それほど力作なのかと思い見てみたが、正直、そんな時間をかける文章でもなかった。やれやれ…

ワシに言わせれば、リライトなんてそんなに難しいことじゃない。そもそも編集者ならリライトができて当たり前なのだ。こちらが「好きなようにリライトしてよい」と言ったのだからさらっと済ませばいいのに、それができない損な性分のようだ。かわいそうにねえ。

この編集者の致命的な欠点は自分の思い描くイメージでなければ良い原稿ではないと信じ込んでいること。あのさ、何事も理想のイメージをもつのは必要なのかもしれないが、筆者はアンタのイメージで書くとは限らんのだよ。無理矢理、自分の枠組みに押し込むような要求をしたって、それは反発を生むだけ。譬えてみれば、教育熱心な親が子供にスパルタ教育をするようなもの。子供にしてみれば息苦しくて仕方がない。理性のないガキだったら、たとえ自分の親でもブチ殺すだろう。幸いにしてワシには理性がある。なのでそんなバカなことはしないから安心していいよ。よかったね。

良い編集者というのは確かに繊細な部分が求められるかもしれない。しかし矛盾するようだが、いい加減な部分も持ち合わせていないとダメである。すべてを完璧にやろうとすると、出来上がった商品の全体的バランスがダメになることもあるからだ。うまく言えないが、そのあたりの勘所がわかっている編集者だとこちらも非常に仕事がしやすい。それは経験的に言える。
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当選確率の低下

2005-01-23 17:31:36 | 脳みその日常
しばしばネットのアンケートに答えている。それによって図書券や商品券などが当たることもある。少なくとも3年前までは年間で6万円ほど「儲けて」いた。4年前には、やはりアンケートでスキャナーや、ちょっとしたデジカメをゲットしたこともある。ところが、最近はなかなか当たらなくなったような気がする。昨年の「成績」は、3万円に届くかどうかだったし。

もちろん、ワシはそれで生計を立てているわけじゃない。だからどうでもいいといえば、どうでもいいこと。ただ、現象として見た時、インターネット人口の増加が当選確率の低下に繋がっているのもまた事実のようだ。ネットをする人が増えれば、それだけアンケートや懸賞に応募する数も増える。すると当選確率も下がる。至極当然のことだわな。
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いかん、いかん

2005-01-22 23:39:41 | 脳みその日常
どうも、最近は心の余裕がなくなっている感じがする。愚痴めいたことをこんなところで書いても仕方ないよなあ。どーなるもんでもないし。

そういえば、仕事に関するもの以外で他人とほとんどコミュニケーションを取ってないことに気づく。家で仕事をしていると、本当に他人と接することがなくなる。社会に出てしばらくの間は、学生時代の友人などと時々話をする。しかし、時間が経つにつれ、それもなくなる。それぞれが異なる環境で生活するようになるからだろう。当然といえば当然だな。

うわっ、税務署から確定申告用紙が届く。そうか、もう確定申告の季節になるんだな。面倒くさいが、申告すれば還付金が戻ってくる楽しみもある。だから、やる。もっとも、ワシの性格からして提出するのは期限ギリギリになるだろうけど(苦笑)

さあて、面倒くさい原稿をやるとしよう。
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署名原稿の意味

2005-01-21 23:24:09 | 脳みその日常
文章には読みやすいものと読みにくいものがある。その判断基準はさまざまだ。おおまかに言って、長たらしい文章は読みにくい。だから短文であればあるほど読みやすいものになる。新聞の文章が短文なのはそうした理由で一文一文が短く書かれている。

しかし、読みにくい文章と感じる場合、別のケースもある。それは書き手と読み手の「相性」からくるもの。人間関係においてもウマの合う人と合わない人がいる。「なんとなくこの人とはウマが合わないな」と感じることがあるだろう。それは理屈じゃない。感覚的に、また根本的に合わないからそう感じるのだ。文章においての相性もそれと同じである。相性の悪い人の文章は読んでいて読みにくく感じる。これは経験的に言えることだ。仮にその書き手と面識がないままその人の文章を読んだとする。「なんだか読みにくいな」と感じた場合、あとで実際に会って話をした時、やはりウマが合わないことがほとんどだ。この意味で読みにくい文章というものも確かに存在するのだ。もしこのブログを読んで読みにくいなと感じたアナタは、きっとワシとは相性が悪いと思いますよ(笑)

つまり読みやすいか、読みにくいかの違いは、「呼吸」から来るものなのだ。もちろん、読み手の教養や読解力がなければ、どんな短文であっても読みにくく感じるだろう。それは問題外なので、相性うんぬんで論じることはできない。ここで言及しているのは、ある程度の教養と読解力があっての話なのである。

今、ワシはある仕事をしているが、提出する原稿は毎回ダメ出しをされている。ワシが昨日今日この仕事を始めたのなら、それも仕方がないと思う。しかしそうではない。なのにダメ出しをされる。いったいどこがダメなのか、さっぱりわからない。編集者いわく「初心者が対象なので、読みやすい文章で」という。そんなことは先刻承知だ。できるだけ専門用語を使わないなどの工夫はしているつもりなのだが、それでもその編集者は読みにくいという。

話を聞いてみると、どうやらワシの文章の組み立て方に問題があるらしい。順序良く説明してくれればいいのだと言う。編集者の言いたいことは理解できる。それにしても、ワシの文章って、そんなにわかりにくいのだろうか。自分で言うのもおかしな話であるが、ワシの文章というのは突然飛躍するようなことはないハズだし、なぜそうなのかという理由は必ずどこかに書くようにしている。普通の読解力の持ち主ならば、きっと理解できると思っているのだが。

確かに順序良く説明すればわかりやすいとは思う。でも、そんな何の個性もない文章ってさ、まるで家電の取扱説明書みたいなものだろ。いうまでもなく説明書にはそれを書いた人の名前なんて載ってない。個性のない文章なのだから載せる必要がない。だから載せないのは当然である。しかし、仮にもワシの書いたものについてはワシの名前が出る。なんのための署名原稿なんだ?

署名があるということは、その文章については署名者にすべての責任があるという意味だ。その文章が良いか悪いかは読者が決めること。編集者が書き手の「クセ」についてクレームをつけるのは、そもそも間違っている。取扱説明書のような文章が良いとするなら、なぜワシの個性を殺してまでワシの署名を出さなければならないんだ? それだったら署名にする必要がないだろ。無署名のほうがよっぽどありがたいわ。

編集者にはいろいろな人がいる。だから一概に彼らをどーのこーの言うつもりはない。しかし、書き手の文体やクセにまで注文をつけてくるのはどうかと思う。まるでチンピラに言いがかりをつけられているようなものだからねえ。理不尽な物言いにストレスは溜まるばかり。毎回そんな調子なので、正直この仕事から降りようかとも考えているところだ。
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肉はブロックで…

2005-01-20 17:24:34 | 脳みその日常
最近スーパーへ行くと、ワシは必ずブロックの肉を買う。というのも、ブロック肉はさまざまな点でメリットがあると思うからだ。ブロックで買っておけば、作りたい料理に合わせて切り分ければよい。そんなの面倒くさいと思うかもしれないが、なーに、たいしたことじゃない。単に切るだけのことだし。

そう思うようになったのは、ある出来事からだった。ある日スーパーへ行くと、お目当ての肉がなかった。「さあて、困ったな…どうしよう」悩んでいる時に目に入ったのがブロック肉だった。「うーん、カタマリかぁ。まあ、しゃーない。これで何とかしよう」 豚バラ肉のブロックねぇ…そうだな、角煮でもするか。安易な発想である。

ところでバラ肉のブロックを買う場合、注意すべき点がある。それは目に見えない部分にはゴッソリと脂身が隠されているのだ! つまり、ショーケースに並んでいるパックの表面には、できるだけ赤身の部分が見えるようになっているのである。見えるところだけを見て、「うひゃー、お得、お得♪」なーんて喜ぶのはブロック初心者。まだまだ修行が足らない。見えないところには、おびただしいほどの脂身がグラム数を稼いでいるのに…。

ブロック初心者は帰宅し、いざ調理する段になってその恐怖を味わう。確かに想像を絶するほどの脂身が隠されている。だが、ここでひるんでいては中級者にはなれない。中級者クラスになると、親のカタキともいうべき脂身は「旨味」にしてしまえという発想になる。そこに気づけば、憎き脂身なんて宝の山に見えてくるから不思議だ。脂身を見ているだけでヨダレが出てくるほど。まさに、「パブロフの犬」状態である。

溢れ出るヨダレと格闘しつつ、ブロック肉を切り分けてゆく。もうその瞬間、ワシの頭の中ではゴクうまの料理ができあがっている。あとはそれに近づけるだけ。うふふ…うふふ…

さて、いよいよ上級者編である。ぬぁーんて、勝手にグレードを決めてるのも、どーかと思うが。まあいいか…。要するに上級者クラスになると赤身になんて目もくれない。(笑) もうね、気になるのは「脂身さま」である。たとえば、霜降り肉にしたって、結局は赤身のところに脂身がどの程度混ざっているかが問題になるわけでしょ? つまりは脂身さまが肉の価値を決めているのでございますよ。さすがは脂身さま、やることがニクいですな。つまらんダジャレは置いといて…。

言い忘れたが、脂身はいわば旨味の含まれた脂である。単に脂身といっても、牛、豚、鶏によって味に違いがあるのだ。料理にもよるが、上級者は違う種類の脂身をブレンドしたりもする。おおっ、これぞ脂身の神々が旨味のハーモニーを奏でる瞬間! あとは必要な具材をフライパンに投げ込むのみ。

どこまで説得できたのか不安であるが、要はブロックで肉を買うと良いということ。グラム単価がやや高いという声もあろう。いやいや、あの旨味を味わってご覧なさい。単価にこだわっていた自分が、いかにちっぽけな人間であったのかが、わかりますぜ(笑)
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利他心をもつこと

2005-01-20 04:59:02 | 脳みその日常
人は誰でも「自分のために」何かをする。
それは自分という個体を自分が管理しているゆえに当然である。
悪く言えば、それは自己中心的な行為と取られかねない。
だが、これも他人との関係で考えれば、すべて悪いこととはいえない。
なぜなら自分と他人との間に利害関係が生じた場合、他人が迷惑を被るようであれば、「自己中心的」もしくは「身勝手」と言われるだけのことだから。
他人が迷惑と思わなければ、そうした非難めいた発言は出ないものである。

ところで、同じ人間なのに他人からのウケがやたらと良い人がいる。
実際には身勝手なことをしているのに、その人が同じことをしても憎まれない。
これはその人がもって生まれたキャラのせいでもあろう。
倫理学的に言えば、その人は徳を積んでいるということになろうか。
いずれにしても、得な性格であることは間違いない。
まったくそうでないワシからすると、このような人は本当に羨ましい限りである。

さて、あなたには大切な人はいるだろうか?
いるとすれば、その人が客観的には身勝手なことをしても、あなたはきっとその人を許せるのではないだろうか。
むしろ、その人のために時間もお金も費やすことを何とも思わないだろう。
たとえば親が子供を育てるというのは、これにあたる。
もっとも、最近の若い親はそうでない奴もいるようだが。

自分を捨ててまで相手のことが考えられるということ。
それができる人はなかなかいないものだ。
家族や恋人といった特定の人に対してだけ捨て身の愛情を注ぐことは、やろうと思えば誰でもできる。
しかし単なる知り合いに対しても、そのような思いやりを示すことのできる人はどれだけいるだろうか。
おそらく皆無に近いのではないかと思う。

現代では誰もが心に余裕がなく、いっぱいいっぱいだと言われている。
確かにそうかもしれない。
だが、見方を変えると現代人のほとんどは自己愛が強すぎるゆえに、そうなるのではないだろうか。
自分というものがあまりに愛おしくてたまらないのだろう。
だから他人のことには構わず、身勝手で自己中心的な行為に走るのではないか。
それをワシは否定しない。
しかし、それぞれが好き勝手に行動していたら、どこかで必ず争いが生ずるものだ。

争いというのは心を動揺させるだけで、決して平安をもたらすことはない。
つまり、争ったり、いがみあったりすることは、百害あって一利なしなのである。
頭ではわかっているが、これを実践することはなかなか難しい。
けれど、利他的な気持ちをもっていれば、むやみに怒ることもない。
ワシはそのことをある人から学んだ。
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検索遊び…またまた

2005-01-19 17:19:48 | 脳みその日常
検索システムってのは、確かに便利ではある。
キーワードを放り込んで検索ボタンを押せばたちどころに結果が出てくるからね。
ところが、現在のどの検索システムもまさしく「機械的に」検索するのみ。
ある事柄を調べようと検索をかけたら、ご丁寧にどーでもよいサイトまでみつけてくれるし。
何と言ったら良いか…そう、検索する人の意図を汲むようなシステムってないかなあ。

個人のコレクションのサイトなんて見たって、何も得るものはないし、第一、時間の無駄。
そんなことより、ワシの知りたい事柄はどこにあるんじゃぁぁぁぁぁぁ。
心の中で、こう叫ぶこともしばしば。

で、今回の遊びは、自分の名前をキーワードとして検索すること。
たぶんこれは誰もがやったことがあるだろう。
よっぽど珍しい名前でない限り、名字もしくは名前でヒットするはず。
ワシの場合、姓名だけで検索してみると、やたらとヒットする。
Yahoo!検索で試してみたら、なんと2200件もあった。

これらをすべて見ていたら気が遠くなる。
だから、自分の専門である「音楽」をキーワードに追加して再検索する。
おおっ、264件まで絞り込めたではないか!
この程度なら各ページを見る元気も出るわな。

見ていくと、同姓同名で、かつ音楽業界で活躍している奴がゴロゴロいるぢゃないか。
うーん、複雑な気持ちだな。
といって、「モー娘。」とか「藤岡弘、」のように名前のあとに「、」「。」をつけるのも何だし。
よし、ほかの同姓同名さんが淘汰されていくのを待つことにするか(笑)
いや、こちらが先に淘汰されたりして…(苦笑)
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モルゴーア

2005-01-18 23:30:55 | 音楽あれこれ
いやー、息詰まる良い演奏だったな。
モルゴーア・クァルテット第22回定期演奏会である。

まず曲目の構成がよく考えられていた。

ハイドン《弦楽四重奏曲》op.50-3 (4)
シックリー《弦楽四重奏曲第1番》「アメリカン・ドリーム」 (5)
[休憩]
バルトーク=シェルリー《ミクロコスモス》から五つの小品 (5)
バルトーク《弦楽四重奏曲第3番》 (4)
(注)カッコ内は楽章数

これを見るとわかるように、休憩を中心として対照形になっている。
実はこうしたバランスを考慮することは演奏会の成功のカギにもなる要素なのだ。
曲目が調性音楽ばかりで組む場合は、それに加えてそれぞれの曲の調性をカデンツのように並べると尚可。
ま、今回の場合は調性を考慮する必要がないから、この条件は無視して構わないのであるが。

あとはそれぞれの作品の内容と演奏に、感服と発見。

1983年に作曲されたシックリーの作品はタイトルの通り、アメリカの要素をてんこ盛りにしたもの。
ジャズやカントリーといった米国ならではの語法が次から次へと出てくる。
それらの要素にミニマル・ミュージックがミックスされたりもする。
うかつなことにワシは知らなかったのだが、ヴィオラがハーモニクスで演奏するとホルンの音みたいに聴こえるんだねえ。
また、2本のヴァイオリンとヴィオラすべてをハーモニクスでハモらせると、ハーモニカと笙を足して2で割ったような響きになることも初めて知った。
うん、発見、発見。
いろんな技法が用いられた作品ではある。

確かに聴いている時には面白いと思ったが、残念ながらそれだけの作品という感じがした。
なんと言おうか…そう、「浅い」のである。
音楽なんて楽しけりゃいいのだという人には、きっと大満足の曲に聴こえただろう。
しかしワシは後半のバルトークを聴くと、いや、それだけで満足していいのかと思ったのだ。

シェルリーが編曲した《ミクロコスモス》は、たぶんダメな編曲の例ではなかろうか。
原曲はピアノ曲集なのだが、まずその良さが全く活かされていないからである。
苦笑したのは、作曲家のH氏による曲目解説。
シェルリーの編曲したのが《ミクロコスモス》の中のどの曲なのか全く触れていないこと。
おいおい、これって手抜きじゃないのかね。

ワシが感服したのは最後に演奏されたバルトークの《第3番》。
演奏するほうにとっても、聴くほうにとっても難曲なのだが、もの凄い説得力があった。
ホール内の空気もピーンと張りつめていたから、ワシだけが魅了されていたわけじゃないことは確か。
もうね、テンションが凄いのなんのって。
ま、バルトークの作品はそういう作風でもあるんだが。

白眉だったのは、アンコール。
なんとショスタコーヴィチの《交響曲第5番》の第3楽章。
もちろん弦楽四重奏での演奏。
いやー、名曲はどんな楽器編成でやっても心にしみるわ。
ショスタコ独自の和声変化は、弦楽四重奏のような室内楽でやると寒気がするほどシビれる。
もちろん良い意味でね。
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検索遊び

2005-01-18 04:30:47 | 脳みその日常
どこぞの放送局は「ヴ」表記を認めていない。
だからヴァイオリンは「バイオリン」だし、ヴィヴァルディは「ビバルディ」となる。
これは何もその放送局に限った表記ではない。
文部科学省が義務教育用に定めた表記でもある。
だから、小中学校の教科書では「バイオリン」「ビバルディ」という表記がなされるわけだ。

面白いのはYahoo!などの検索システム。
このシステムがどういう構造になっているのか知らないが、時々あいまいな検索結果を出すことがある。
つまり、「ヴ」を使っても使わなくても同じページにヒットすることがあるのだ。
たとえば、Yahoo!検索で「ベートーベン」と「ベートーヴェン」を検索してみる。すると、
「ベートーベン」で検索すると128981件のページにヒット。
「ベートーヴェン」で検索すると179158件のページにヒット。
件数こそ異なるが、重複してヒットするページが多いのには笑える。
さすがに「ベートーン」で検索したら25件しかヒットしなかった。
ま、そりゃそーだわな。

そこで、ふと思いついた単語が「ヴァンサンカン」。
ヴァンサンカン(vingt-cinq ans)とは言うまでもなくフランス語で25歳という意味。
この単語を雑誌名にした女性誌もある。
もっとも、こちらは「25ans」という表記なのだが…

いずれにしてもこの単語にも「ヴ」が存在する。
同様に検索してみる。
「バンサンカン」で検索すると294件のページにヒット。
「ヴァンサンカン」で検索すると12465件のページにヒット。
おおっ、この場合は明らかに「バンサンカン」と「ヴァンサンカン」は別物なんだな…
すべてを確認したわけではないが、重複してヒットしたものはなさそう。
あいまい検索がされないので、当然「ンサンカン」では検索しても意味がないので、やらない。

うーん、この違いはどこにあるんだろう。
フランス語については最初にカナ表記する際に「ヴ」が容認されたのだろうか。
目につくところに文部科学省の「表記の手引き」が見当たらないので確認できないのが悔しい。
でも、たとえば象徴主義詩人のPaul-Marie Verlaine (1844-1896)ならどうなのか。
「ベルレーヌ」で検索すると1361件のヒット。
「ヴェルレーヌ」で検索すると7187件のヒット。
どうも、「ヴェルレーヌ」という表記のほうが一般的のような気もする。
少なくともワシにはこちらのほうが違和感がない。
いや、ワシの感想はどーでもよいのだ。
しつこいが、「ルレーヌ」の検索は無意味なので、やらない。

正直に告白しておこう。
これらを調べている時に、うっかり「ばんさんかん」で検索してしまった。
すると日本食研のHPにヒット。
あぁー、突然焼肉が食べたくなってしまった。
うぅぅぅ。
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