ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

ペータースとレーニシュ

2007-11-12 18:16:51 | CD/DVD
友人からいただいた映画『善き人のためのソナタ』のDVDを観る。これは2006年に制作されたドイツ映画で、第79回アカデミー最優秀外国語賞を受賞した作品。ストーリーについては見てのお楽しみということで、ここでは書かない。

映画を観ていても音楽のことに関心が向いてしまう。嫌だなあと思うけれど仕方がない。職業病だなと諦めることにしている。

この作品で音楽を担当しているのはガブリエル・ヤーレ(Gabriel YARED)。ヤーレは1949年にレバノンのベイルートで生まれた作曲家で、69年にフランスを訪れた際に部外者でありながらエコール・ノルマル・ド・ミュジックでアンリ・デュティユーに作曲理論を学んだという経歴の持ち主。オフィシャル・サイトにはなぜか日本語もセレクトできたりするが、そこでの表記はヤーレでなく「ヤレド」。ヤーレというのはフランス語的な読み方であり、ヤレドはおそらくアラビア語による読み方なのかな…知らんけど。

彼はこれまで多くの映画音楽を手がけている。有名なところでは『イングリッシュ・ペイシェント』(1996)や邦画『Shall We ダンス?』(1996)のリメイク版である『Shall We Dance?』(2004)などがある。

さて話を『善き人のためのソナタ』に戻そう。観ていて気づいたことが2つあった。ひとつは劇作家ドライマンが誕生パーティーで演出家イェルスカからプレゼントされた楽譜のこと。この楽譜のタイトルこそ「善き人のためのソナタ(SONATE VOM GUTEN MENSCHEN)」なのだが、ワシが注目したのはそこではない。「この楽譜ってさ、ペータース版じゃん」ってことだ。

映画のオフィシャル・サイトによると、この曲はヤーレの提供したオリジナルという。で、ペータースからヤーレの作品が出版されているか調べてみたが、該当するものはない。うーん、どういうことなんだろうな。わからん、わからん。

もうひとつの気づいたことはピアノのこと。イェルスカが自殺した知らせを聞いた直後、ドライマンはピアノに向かい「善き人のためのソナタ」を弾く。いい曲だなあと思っていたら、映像にピアノ・メーカーの名前が出た。

おっ、レーニシュじゃん。このメーカーは我が国ではほとんど馴染みがない。会社は1845年にカール・レーニシュがドレスデンで開業。以来、現在まで続いている会社だ。

この映画は心に響くなかなかの名作だと思う。だが、実質的な主人公であるヴィースラーを演じていたウルリッヒ・ミューエが今年の7月22日に胃がんで亡くなっていた(享年54歳)のを知り、さらに切ない気持ちになった。合掌。(参考サイト
コメント

つ、つい出来心で…(?)

2007-06-05 05:55:02 | CD/DVD
たまにはディスクの紹介を。

いや、特に珍しいモノではないのだが、これはジャン・フランチェスコ・マリピエーロ(1882-1973)の弦楽四重奏曲全集。二枚組でありながら、価格は何と980円! さすがは天下の(?)ブリリアント・クラシックスである(笑)

演奏はオルフェウス弦楽四重奏団で、録音は1991年。ま、そんなデータはどうでもいい。むしろ面白いなと思ったのは《第8番》(1963/4)のこと。この曲は言うまでもなく単一楽章で書かれているが、面白いのはその最終部分。なんと、そこで登場するのはベルクの《ピアノ・ソナタ》の冒頭動機なのだ。あ、そんなこと知ってたって? そーですか、そりゃ失礼、失礼。

似たモノついでに、思い出したので、もうひとつ。ドビュッシーの《練習曲》第3番の途中で出てくる音型がさ、スクリャービンの《ピアノ・ソナタ第8番》のなかにもあるんだわさ。急速に下行する連続アルペッジョの音型。両者が全く同一というわけじゃないけど、極めて似ているんだよね。作曲年代的にはスクリャービンのほうが早いから、ドビュッシーがついついパクッてしまったのかも。いやいや、そりゃ失礼だな。ここではインスパイアされたと言っておこうか。ま、パクリなんて他にもたくさん例があるから別に珍しいことじゃないけどね。あ、インスパイア、インスパイア…。

マリピエーロ、ドビュッシー、それぞれの「犯行の動機」については現在調査中である。しばし待たれよ。

(業務連絡)
こちら大佐。スネーク、事実関係が判明次第、至急報告せよ!
コメント

動くテレミン

2006-11-13 04:06:24 | CD/DVD
昨年リリースされていたモノであるが、最近入手したのでご紹介を。アルバムのタイトルは「the early gurus of electronic music:1948-1980」で、直訳すれば「電子音楽の初期の導師たち」といったところ。これは3枚のCDと1枚のDVDがセットになっている。CDのほうはクララ・ロックモアの奏するテレミン(テルミンともいう)を皮切りに、まあいろいろな作品がてんこもり。内容の詳細についてはリンク先をご覧いただきたい。いずれにしても電子音楽マニアにはヨダレものであることは間違いない。

むしろワシが面白いなと思ったのはDVDのほう。映像があると、やっぱり楽しいわい。ロックモアはしゃべっとるし、その楽器の生みの親であるレオン・テレミンが楽器のレッスンをしているのだ! うへへ、テレミンが動いてるぅぅぅぅ(笑)

動いているといえばこの人を忘れてはいけない。そう、ミルトン・バビットである。映像では一応インタヴューということになっているが、インタヴューどころか、もう独演会。一見、ガマガエルみたいな風貌で、口数が少ないだろうと思いきや見事に裏切られる。低音で、しかも早口でしゃべる、しゃべる。その内容にはわかりにくいところもあったが、この人の頭の回転がムチャクチャ速いことはわかった。

ちなみに、彼が語っていた音高集合論(pitch-class set theory)というのは音楽の理論分析をする方法論のひとつで、アメリカの学者たちがよく用いているもの。そもそも音高集合論なるものは著名な音楽学者アレン・フォートが1970年代前半に提唱し始めたもののようだが、それがアメリカの理論分析の主流となったのは1990年頃前後ではなかったか。記憶があやふやなので正確なところ自信はないけれど。興味ある方はラリー・J・ソロモンによる集合論入門のサイトをご覧くだされ。まあ、これをいきなり見てもチンプンカンプンだとは思うけどね。

そうそう、DVDの話に戻ろう。映像のなかには1970年代に制作されたものもいくつか含まれている。これを見ると、もうサイケデリックな世界ですよ、ホントに。ワシの頭のなかでは、もう当時のピンク・フロイドやらマイク・オールドフィールドやら、イエスやらが走馬灯のように現われて、これらの映像とダブる、ダブる。

あ、そうそう、この企画モノはシンセの神様ロバート・ムーグの思い出として作られたらしい(ムーグについては「2005年8月24日のブログ」を参照)。だから生前のムーグも当然このDVDの最後に登場する。

いやー、いろんな意味でこれは面白い商品だわ。
コメント

エディ・コンドンなんてどう?

2006-08-09 19:11:37 | CD/DVD
例年8月は気が狂いそうになるほどヒマで、どうやって時間をつぶそうかと思案したものだ。去年の今頃は急な仕事でちょっとバタバタしたものの、まあ大したことはなかった。ところが今年は違う。急な仕事はもちろんだが、何かと動き回らなければならないことがあって、違う意味で気が狂いそうになる。

ワシの仕事はヒマか多忙かの両極端。それは昔から変わらないし、そういうものだと思っている。それにしても、もうちょっと、こう、なんというか、平均的な忙しさにならないものだろうか。まあ、無理だろうな。

…というわけでって、何の脈略もない前フリだったが、まあカタイことは言わずに。じゃ、久しぶりにCDの紹介でもしてみるか。ご紹介するのはエディ・コンドン・バンドの録音。この楽団は1920年代に流行した、いわゆるディキシーランド・ジャズの代表のひとつ。CDは4枚組で、1927年から1949年までの録音が収められている。

で、エディ・コンドンて誰?ってことになるのだが、詳細はココなんかを参考にしていただきたい。まあ、バンジョーやギターを弾きながら自分のバンドを率いて演奏活動をしていた人なのである。いってみれば、アーティー・ショウやらデューク・エリントンみたいなものだな。

それにしてもこのジャケットの写真、知り合いのF社長に似ているなあ。もっとも、F社長は作曲家の松村禎三にも似ているからそう見えるだけなのかもしれないが。すみません、内輪のネタです、ハイ。
コメント

ドゥコーさん

2006-07-25 03:45:54 | CD/DVD
メザシと麦飯が夕食だと言われた元経団連の会長、土光敏夫(1896-1988)のことでは、もちろんない。ここでご紹介するのはフランスの作曲家アベル・ドゥコー(1869-1943)である。「誰それ?三省堂の『クラシック音楽作品名辞典』にはドゥコにも出てないよ?」なんてさぶいギャグを言ってる場合じゃない。とにかくハイペリオンからリリースされたのだから。

収録されているのはドゥコーの4曲からなる《月の光》とデュカス(1865-1935)の《ピアノ・ソナタ》。こんなマイナーな作品を録音するといえば、そう、アムランしかいない(笑)うーん、「すき間商売」してるねえ。

すき間商売といえば何といってもハンス・カン先生。ほかのピアニストが弾かない名曲を彼はほとんど録音していた。だからレコード会社で全集モノのような企画をやる場合、必ずといってよいほどカン先生にご登場いただくことになる。

もっとも、演奏のクオリティはガマンしなければならない。ある企画でどうしてもバダジェフスカ(1834-61)の《乙女の祈り》を入れなければならなくなった。そこでマスターテープを調べていたらカン先生の名前を発見。よしよし、これを使わせていただこう。そこまでは良かった。

驚いたのはカン先生の《乙女の祈り》の録音には少なくとも3種類あったこと。念のため全部の録音をチェックしてみた。すると、さらに驚愕の事実が!

何と、どれもちゃんと弾けてないのだ。ご存知のようにあの曲は変奏曲形式で書かれており、頻繁にトリルが現われる。でも一番目立つトリルがどれも千鳥足であること。おまけに頭を抱えてしまったのは3つのヴァージョンが全部異なる場所でコケていたことなのであった。うーむ、ダメじゃん。

この事実を知ったディレクターから「いっそのことアナタが弾いてみたら?」という提案とともに「カンス・ハン」という芸名までいただく始末。もちろんそれは丁重にお断りしたが…。

いやいや、だいぶ脱線してしまった。もちろんアムランの演奏に千鳥足なんて存在しない。テクニックには素晴らしいものがある。カン先生とは天と地の違いだ。

しかし、いくら技巧があっても作品そのものが地味だとどうにもならない。だからこのCDはマニアにはヨダレものであっても、一般にはあまりオススメできない。だって、つまんないんだもの。

それにしてもアムランってライヴで聴いてもCDを聴いている通りの演奏なんだよな。良く言えば裏切らない演奏だけど、悪く言えば別にライヴでわざわざ聴かなくてもいい演奏なのだ。ライヴで臨場感のない演奏ってのも珍しいけどね。超然としているというのか、何というのか…。
コメント

南米のギター音楽

2006-05-14 16:47:00 | CD/DVD
ギター音楽といえば一般にスペインを思い浮かべるかもしれない。しかしここでご紹介するのは南米のギター音楽だ。

まずはアルゼンチンのギタリスト、作曲家カチョ・ティラオ(b.1941)の《Milonga de Don Taco》。ティラオといえば1970年頃のピアソラ主宰の五重奏団のギタリストとして活躍したことはあまりにも有名。ならば、この《Milonga de Don Taco》はピアソラ風かというとそうじゃない。むしろキューバの作曲家レオ・ブローウェル(b.1939)のライトでファンタジックな作風に近い。

ティラオの作風がいかにアストル・ピアソラ(1921-92)と違うのかは、ありがたいことにピアソラの作品もこのディスクに収められているので参考になる。《5つの小品》(1980)などは、まさに「ピアソラ節」。ピアソラ作品はもう1曲収録されている。《チキリン・デ・バチン》(1969)がそれで、ここでは藤井敬吾(b.1956)による編曲版が用いられている。藤井といえば名曲《羽衣伝説》の作曲家としても知られるが、ここでは非常に穏やかなアレンジを行なっており、耳に心地よく響く。おそらくそうした理由から演奏者のエドゥアルド・フェルナンデスは藤井版をここで入れたのではないか。

そのほか、アルゼンチンの作曲家カルロス・グァスタヴィーノ(1912-2000)の《ギターのためのソナタ》や、パラグアイの作曲家アグスティン・バリオス・マンゴーレ(1855-1944)の《カテドラル》、《Maxixe》、それにコロンビアの作曲家ヘンティル・モンターニャの有名な《組曲第4番》、そして最後はウルグアイの作曲家ヘラルド・M・ロドリゲス(1897-1948)の《ラ・クンパルシータ》(ティラオ編曲)。

いずれも佳品揃いで、リラックス・タイムには楽しめるアルバムだ。
コメント

フンメルも捨てがたい

2006-04-29 03:26:38 | CD/DVD
ある雑誌でヨーハン・ネポームク・フンメル(1778-1837)の作品について書く機会があった。そのためフンメルについて調べたり、その作品をざっと聴き直してみた。すると以前には感じなかったが、意外に心地良い作品が多いことに気づく。だからといって諸手を挙げてフンメルを称賛するつもりは毛頭ない。ある条件付きでいう意味だ。

今年はモーツァルト(1756-91)生誕250年ということで音楽メディアはそれをネタに金儲けに必死である。確かに楽譜にしろCDにしろモーツァルト関連のモノは群を抜いて売れているらしい。だからメディアがそこに飛びつくのだろう。ま、金儲けとはそういうものなのかもしれないが。

ところで、生誕とか没後●●周年という意味でいうなら、他の作曲家にも着目してしかるべき。キリ番みたいな意味でいえば、思い浮かぶだけでもシューマン(1810-56)は没後150年だし、ショスタコーヴィチ(1906-75)は生誕100年だ。シューマンもショスタコーヴィチも有名な作曲家であることに変わりはない。

にもかかわらず彼らにはほとんどといってよいほどスポットが当てられていない。少なくともモーツァルトのようには。うーん、やっぱりこれも市場原理が関係しているのかねえ。経済抜きで考えれば、平等に扱ってやればいいのにと思うんだけど。

フンメルに話を戻そう。世の中はモーツァルトばかり注目するが、誤解を恐れずに言えば音楽的な特徴はフンメルだって似たようなもの。むしろフンメルの作品にはロマンティシズムももれなく付いている。つまりフンメルの音楽はモーツァルト風な優雅さを残しつつ、ベートーヴェン(1770-1827)のロマンティシズムも感じられるというわけだ。

音楽について「一度で二度美味しい」など、どこかのCMのように言うつもりはない。でもモーツァルトの音楽を広い意味でのBGMと捉えるなら、フンメルの作品だって十分に「鑑賞」に耐えうると思うのだが…。いや、フンメル、なかなかステキだよ。

写真はご存知ブリリアント・クラシックスがリリースしたロマン派の室内楽作品を集めた6枚組の安いボックス。ここにはフンメルの作品のほか、シュポーア(1784-1859)、クロイツァー (1780-1849)、ベルヴァルド(1796-1868)、そしてシューベルト(1797-1828)とベートーヴェンの作品が収められている。なかなか楽しめますぜ、ダンナ。
コメント

トッホの交響曲全集

2006-04-17 07:05:44 | CD/DVD
最近はもう午前4時半すぎになると空はうっすら明るい。考えてみればあと2ヶ月ほどで夏至だもんねえ。時間の経つのは本当に早いなあと思うこの頃。

さて、エルンスト・トッホ(1887-1964)の交響曲全集を見つけたので購入。トッホはオーストリアに生まれたが、ユダヤ系だったため1935年にアメリカへ亡命した。作曲活動はもちろんウィーン時代から行なっていたが、最初の交響曲を書き上げたのは1950年。つまり63歳の時の作品というわけだ。以後1964年に亡くなるまで全部で7つの交響曲を完成させている。今の感覚でいえば定年を迎えてから次々と大作にチャレンジしたことになる。そう、まさに怒濤の快進撃だ。

作曲するにはもって生まれた才能のほかに、相当の気力と体力を必要とする。最後の3つの交響曲なんて、もう半分カンオケに足が入っちゃってる時に作曲したんだから驚かざるを得ない。《第5番》と《第6番》が1963年、そして《第7番》が死の年に書かれたんだからねえ。それだけからしても常人では考えられないパワーがこの人にはあったのかとも思う。

トッホの作風は《第1番》から《第7番》までさほど変化があるわけじゃない。晩年のたった14年ほどの間に劇的な変化を求めるほうが無理というもの。まあ、モロ前衛という感じではない。比較的聴きやすい作品といえるだろう。逆に言うならこれといった特徴がないのだが…。

今回入手した3枚組のセットはかつて単発で発売されたものをまとめたもの。録音年は1995年から2002年の間である。おそらく単発ものの解説をそのまま流用したのだろうが、同梱のブックレットも3冊ある。このうち、《第1&4番》と《第2&3番》の解説を担当しているコンスタンツェ・シュトラッツは読み応えのある文章で感心するが、残りの《第5~7番》の解説を書いているローレンス・ヴェシュラーのはいただけない。少なくとも作品についてほとんど触れていないからである。まあ、どこにでもクソなライターはいるので今さら驚かされないけれど。

興味のある方は聴いてみてはいかがだろうか。
コメント

ロシア正教会の音楽

2006-04-04 14:26:29 | CD/DVD
何かとリーズナブルなディスクを提供してくれる「ブリリアント・クラシックス」。ここからリリースされるCDは、どれも信じられないほど安い。原価割れしてるんじゃないかと思うほど安い。そんな値段でも商売になるのは、おそらく発売権の期限が切れた、もしくは廃盤となった商品のマスターテープを買い取リ、それをCDに再プレスし販売するからではないか。もちろんこれはワシの勝手な推測なのだが。

事情はさておき、安い値段で音楽が聴けるのは嬉しいことだ。今回ご紹介するディスクもそのひとつ。これはロシア正教会の音楽を集めたもので、2枚組で52曲も収められている。それが、ナ、ナント、990円!そのへんのスーパーや駅でワゴンにテンコ盛りにされている海賊盤並みの価格だ。

それにしても、このディスクに収録されている作曲家のマイナーなことといったら…。言葉を失う。ロシアの作曲家についてはそれなりに知っていると自負していたが、にしても知らん奴ばかり。コイツ、誰だよ!うわっ、コイツも知らんぞ!げっ、コイツ、何者?…そんな作曲家ばかり。

でも、考えてみれば知らないのは当然なのだ。言い訳をしているのではない。たとえば、合唱界、教会音楽界、吹奏楽界というのは一般の人からみればクラシック音楽のテリトリーと思うだろう。まあ、大きく見れば間違いではない。

ところがこれら3つの世界はどれも独特な世界なのだ。いくらフツーのクラシック音楽のことを知っているからといって、これらをナメたら痛い目に遭うこと間違いなし。この世界に足を踏み入れた途端、きっと気づくだろう。あちゃー、ラビリンスに来ちまったわい、と。いや、むしろ方向音痴の人がナビゲーション・システムに頼って運転していたら、突然GPSが故障してパニくると言えばわかりやすいか。とにかく知れば知るほど奥が深く、もうワケがわからなくなってくるのであーる。

それはともかくとして、収録されている曲はどれも聴き応えがあり、寛いだ気分になれる。ロシア聖教信者でなくとも純粋に音楽を楽しむことは十分可能だ。もっともロシア語の歌詞カードは付属していないので歌詞がどんな内容なのかはわからない。ロシア語特有の「ムニャー」とか「~ニェーニエ」みたいな音の連続にしか聴こえないかもしれないけど。

まあ、いいではないか。へぇー、ロシア語ってそんな感じなのかと思って聴けば、さ。
コメント

ビザンツ聖歌はいかが?

2006-02-08 04:07:52 | CD/DVD
朝までに原稿を2つ入れなければならないのだが、ちっとも書く気にならない。こういう時にはまったく関係ないことをするのが一番。いつもならドライブというパターンなのだが、すでに午前3時を回っている。締め切りがなければ出掛けてしまうところだが、そうもいかない。そこで別の方法を考えてみることにした。

ふとCDライブラリーに目を向ける。すると1枚のCDが浮き上がって見えた。それがこの「ビザンツ聖歌」のアルバムである。ま、たまには聴いてみるか。気分転換になるかもしれない。

ビザンツ聖歌とは、いわゆる東方教会で演奏される音楽のこと。一般に我々の耳に馴染みのあるのはグレゴリオ聖歌だが、両者はいわば対極のものといってよい。グレゴリオ聖歌はその後カトリックの教会音楽に発展する。だから我々のイメージしている西洋の教会音楽がグレゴリオ聖歌なのはそういう経緯があったわけだ。

これに対して、ビザンツ聖歌は歴史の上では1453年にコンスタンティノポリスの滅亡とともに終結した「はず」だった。制度のうえでは存在しない音楽なのだが、実際のところはちゃんと東方教会で歌われている。ことわざに「人の口に戸は建てられない」というのがあるが、音楽にも似たようなことが言える。社会制度とは無関係に教会が存在する限り、この種の音楽は伝えられてゆく。こうしてビザンツ聖歌は今も聴くことができるのである。

ではビザンツ聖歌はどのような音楽なのか。一言で表現するなら、低音のドローンのうえにメリスマのきいた単旋律のソロで歌われる音楽である。メリスマの仕方がまさに東洋を思わせる。そのためこの音楽にインドのシタールが加わったとしても全く違和感は感じられないだろう。もちろんこれは教会音楽だからシタールとの「共演」などあるわけはないのだが。

それにしても、ここでソロを務めているシスター、マリー・ケイルーズ(Marie Keyrouz)の声は何とも色っぽい。ちょっとゾクゾクしてしまうほどだ。このアルバムではビザンツ教会で行われる一週間の儀式のための音楽が収められている。たとえば月曜日のアッレルーヤから始まり、復活祭の日曜日までという具合。毎日こんな声で歌われたら、さすがのキリストさんも復活したくなるわな…。いや、失敬、失敬。

さて、仕事、仕事。
コメント

脳みそがスポンジ

2006-01-18 06:15:33 | CD/DVD
狂牛病になったわけではない。面倒くさい原稿がひとつ終わり、ホッとしたら脳みそがまるでスポンジのような感じになったのだ。スカスカ、フワフワ。

そうなると何も考えられないし、ネタも思いつかない。「なーんだ、また休脳日かよ!」と思われるのも悔しいので(笑)、前向きに検討することにした。そうなると、やることは決まっている。もうおわかりですね?ええ、ええ、ドライブですとも。

しかし、これがちょっと困ったことに…。軽く200kmほど走ったのだが、運転中に聴いた音楽がマズかった。ワシのクルマには6連奏のCDチェンジャーがついている。基本的にクルマのなかでクラシックは聴かない。聴くのはもっぱらヘヴィ・メタかフュージョンと決めている。ウキウキで運転したいのに、そこでクラシックなんて聴いたら脳みそがついつい「仕事モード」になっちまう。そんなのはイヤだ。だから聴かない。

ところが今CDチェンジャーに入っているラインナップのなかにキース・ジャレットの名作「ケルン・コンサート」があるのをすっかり忘れていた。今回はこれにやられてしまったのだ!

スカスカになったスポンジ状の脳みそに、こういう曲はストレートに染み込んでくる。キースのピアノの音が鳴った瞬間にワシの頭の中で「ドカーン!!!!」と音がしたかと思うほどその音楽は突撃してきた。もうね、頭の中でチャイコフスキーの序曲《1812年》の大砲が響いているんでさぁ…。

このアルバムはもちろん1975年にケルンで行なわれたインプロヴィゼーションの模様を録音したライヴ。これまで何百回聴いただろうか。とにかく思い出せないほどよく聴いたのは確かだ。聴くたびにさまざまな記憶が呼び起こされる。「ああ、あの時にこれを聴いたな」とか「そういえばこの時にもこれを聴いたな」などなど。

スカスカになっている脳みそに、記憶という豪速球が直撃したのだからたまったもんじゃない。文字で表わすなら「うひゃぁぁぁぁああああああ」って感じになった。脳みそはまさにスポンジ状なので、いくらでも吸い込む吸い込む。しばらくしたら耳から脳みその水が溢れてくるかと思いましたよ。いや、マジで。

いやー、それにしても名曲だなあ。心に滲みるし、泣けますぜ。まあ、そんなことは誰でも知ってることだと思うけど。

コメント

フリードマンでも聴いてみようか

2006-01-04 04:59:08 | CD/DVD
今の現役音大生のなかにはコルトーすら知らない者もいる。いや、名前は知っているかもしれない。しかしそれは「コルトー版」という楽譜の存在で知っているのであって、彼が著名なピアニストだったことは知らない。だからコルトーの演奏すら録音でも聴いたことがないのはデフォルト。信じられないかもしれないが、本当の話。うーむ、隔世の感があるな。

コルトーおじさんのことも知らないのだから、ましてやフリードマンおじさんのことだって彼らは知らないかもしれない。ならばここで教えてあげようじゃないの。よーく覚えておくよーに(笑)

イグナーツ・フリードマン(1882-1948)はポーランド生まれのピアニスト、作曲家で、ホフマン、ゴドウスキ、ローゼンタール、ラフマニノフ、レヴィーンなどと並び、20世紀前半に活躍した名演奏家のひとりとして有名なのだ。20世紀前半といえば、その演奏スタイルは19世紀のそれを当然引きずっている。ま、別の言い方をするなら「ヴィルトゥオーソ・スタイル」という感じだな。

テクニックがあるのはデフォルトだけど、表現の仕方は何というか武骨で、場合によっては豪快だったりする。また昔の録音方法がほぼ「一発勝負」だったこともあり、音を間違えて弾いてもお構いなし。現在みたいに1音1音をチマチマ編集するなんてセコイことはしない。もちろん、あの有名なアルトゥール・ルービンシュタインの初期の録音だって、そう。むちゃくちゃ音をはずしまくっても録り直しなんてしない。潔いねえ。なんて男らしいんだ!いや、もしかしたら本心では録り直ししたかったのかもしれんが(笑)

話をフリードマンへ戻そう。彼の知名度がイマイチなのは同時代の猛者たちに比べ「炸裂度」のなさが挙げられる。少なくとも豪快に鍵盤をぶっ叩くなんてことはあまりしない。うん、シフラみたいに「お下品」じゃないし。むしろフリードマンはワルツやマズルカの3拍子をちゃんと2拍目をつんのめって弾くという「伝統」に根ざしていたりするから「ニクイね、この!」ってな感じを抱いたりする。だから、なんて優雅なショパンなのだろうと思ってしまったり…。

だからといってフリードマンにテクニックがないわけじゃない。ヴァイオリニストのエルマンみたいに独特の音色でテクのなさを勘弁してもらおうなんて姑息なことをフリードマンは思っていない。ショパンの《革命》とか《エチュード》op.10-7なんてスゴイぞ。特にop.10-7のほうなんて曲の最後に勢い余ってアドリブとか入れてるし(笑)なんだ、意外にオチャメじゃん。

ベートーヴェンの《月光ソナタ》だって負けてない。もうね、ぶっ飛ばしてるわけよ。特に最終楽章なんて、ちょっとした「テンペスト」(笑)ビックリするのはまだ早い。リストの《ラ・カンパネッラ》なんてコーダ部分を省略しちゃって終わってるし。(ヲィヲィ)

そんなオチャメなことをしているが、トータルで聴くとやはりフリードマンの演奏には言葉にできないテンペラメントが感じられる。だから1920年代半ばの録音で音は悪いけど、思わず演奏に魅了されてしまう。

そう考えると録音のクオリティなんて演奏そのものには何ら影響しないことがわかる。逆に言えば、いくらナマの音に近い録音であっても、演奏がヒドけりゃどーにもならないという理屈になる。まあ、考えてみりゃー当たり前のことなんだけどね。
コメント

しみるねえ…グラズノフ

2005-12-12 04:40:10 | CD/DVD
先ほどから何となくグラズノフ(1865-1936)の交響曲を聴いている。もちろん《第1番》から順番に《第8番》まで。あれっ、そういえば未完成に終わった《第9番》の第1楽章のCDはどこへ行ったのかな…まあ、いいか。

概して作曲された順に聴くというのはその作曲家の作風の変化が分かって面白い。もっとも、グラズノフの場合はさほど極端な変化があるわけではない。ある意味で最初から作風が完成されていたというべきだろう。何しろ彼は神童として誉れ高かったからである。

よく指摘されるのはベートーヴェン(1770-1827)との関係。つまりベートーヴェンの交響曲の《第2番》から《第6番》までの調性とグラズノフの《第3番》から《第7番》のそれが同一であること。

べートーヴェン     グラズノフ
第2番: ニ長調 / 第3番: ニ長調
第3番:変ホ長調 / 第4番:変ホ長調 
第4番:変ロ長調 / 第5番:変ロ長調
第5番: ハ短調 / 第6番: ハ短調
第6番: ヘ長調 / 第7番: ヘ長調

これは単なる偶然だろうか。いやそうじゃないよな。たぶんグラズノフの意識的な「犯行」だろう(笑)

それはともかくとして、通して聴くと、やはり《第5番》と《第8番》が傑作だなあと思う。もちろんこれはワシの主観にすぎない。《第6番》をグラズノフの代表作とする人もいるようだが、まあ判断は各自に委ねることにしよう。

《第5番》(1895)といえば、その最終楽章の閉じ方がチャイコフスキーの《ピアノ協奏曲第1番》(1875/改訂'88)の第1楽章の締めくくり方と同一であることは周知の事実。しかし作曲年を見れば明らかなように、グラズノフの《第5番》のほうが後で書かれたことからパクッたのは彼のほう。まあ、格好よく終わるからいいんだけど。それにしてもこの第3楽章は泣かせるねえ。

《第8番》(1906)を傑作としたのは、個人的な理由にほかならない。久々に聴いて今さら気づいたのは、ワシが学生時代に作曲したピアノ曲の主題がこの作品の第1楽章をルーツにしていたこと。そうか、そうだったのか…。どうりで良いメロディーだと思ったわけだ。ここだけの話だが、実は《第4番》の第1楽章の第1主題も、ワシは気づかないうちに自作のテーマとしてパクッていたのであった(大汗)

おそらくワシの脳みその潜在記憶にこれらの主題があったんだろうな。そうとわかれば一連のピアノ曲は封印しなければなるまい。もっとも、他人様に聴かせるほどのモノじゃないけどね。
コメント

CANNONS & FLOWERS

2005-12-07 06:10:32 | CD/DVD
タイトルだけを見て、思わずニヤリとしたアナタは間違いなくシフラ・ファンですね?(笑)何のことやらサッパリわからんという人のために一応ご説明を。

ジョルジ・シフラ(1921-94)は20世紀ハンガリーを代表するピアニスト。その演奏は聴衆を魅了して止まなかった。とはいえ率直に言って、シフラのスタイルは「一流の芸」である。もちろんこれは最大の褒め言葉であって、決して貶しているのではない。二流、三流の芸術よりも「一流の芸」のほうがはるかに素晴らしいし、見応えもあるからだ。

シフラの演奏を「芸」とするのに抵抗があるのなら、エンターテイナーと呼んでも構わない。次々とスゴい技を繰り出し、聴き手を驚愕の世界に引き込む。芸術家ぶっている二流以下の奴らにここまでの吸引力はない。だからシフラは一流のエンターテイナーなのだ。

彼をエンターテイナーと呼ぶ理由はほかにもある。残されているライヴ映像などを見てわかるようにその超絶的な技巧はカメラですら捕らえることができない。確かに手は動いているようなのだが、それはまるで残像のよう。こうした驚異的なテクニックにあって、突然「核爆発」が起きる。

もちろん文字通りの意味ではない。低音のオクターヴなどがまさに炸裂するのだ。録音を何度も聴いていれば、どこで炸裂するのかはわかるようになる。「そろそろ炸裂するぞ」と思っていると、当然のようにその箇所にくると「ドカーン!」と鳴る。すると何故か笑ってしまう。オカしくてたまらないのだ。

笑いというのは予想外の出来事に直面した時に起こるものとされている。お笑いが面白いのは、思ってもみないリアクションが来るせいである。本来なら予想されるものに対して笑いは生じないはずなのだが、シフラの場合は予想できていても笑ってしまう。もしかすると最初にワシが受けた笑いのツボが条件反射のようによみがえるせいなのかもしれないが。

理由はともあれ、とにかく炸裂する瞬間に笑いがこみ上げるのは事実。何度聴いても同じ場所で笑ってしまう。演奏で笑わせてくれるアーティストなんてまずいない。それだけでもシフラが並の演奏家でなかった証拠ではないか。

話をもとへ戻そう。『CANNONS & FLOWERS』(1996)はシフラの回想録である。ハンガリー語だったオリジナルの原稿を息子のシフラ・ジュニアがフランス語に翻訳し、それを英訳したのが本書だ。

注目は本書に9曲収録されたCDが付録していること。これは1948年から1977年までに録音されたものがチョイスされている。なかでもユーマンス(1898-1946)の《Tea for Two》をジャズ風にシフラがアレンジしたもの(1954)なんてスゴいけど、やっぱり笑ってしまう。
コメント

たまにはラモーでも…

2005-11-15 11:42:30 | CD/DVD
ジャン=フィリップ・ラモー(1683-1764)はフランス・バロックを代表する作曲家のひとり。音楽史においてラモーといえばまずブフォン論争の渦中にいた人物として思い出される。この論争はごく簡単にいえばフランスの古典音楽、とりわけトラジェディ・リリックを支持する国王派と、新たに台頭してきたイタリア音楽、特にオペラ・ブッファを信奉する王妃派との間に闘わされたものである。

論争が勃発したそもそもの発端は1752年にペルゴレーシ(1710-36)の《奥様となった召使い》がパリで上演されたことに起因する。それまでのフランス・オペラはどちらかといえばシリアスな内容か、もしくは悲劇的なものであった。ところが《奥様となった召使い》は喜劇。そりゃーパリの保守派は怒りますわな。「なめとんのか!」と。たぶんラモー先生も鼻の穴を膨らませながら激怒したとか、しないとか…。

そうなるとイタリア・オペラ擁護派は俄然形勢不利となる。「やべーよ、これ…」と思ったのかも。しかしそこへ協力な助っ人が現われた。その人の名はジャン=ジャック・ルソー(1712-78)。そう『エミール』『社会契約論』を著した啓蒙思想家である。侃々諤々の議論が行なわれるなか、翌年にルソーは『フランス音楽に関する書簡』を発表。これによりそれまでビビッていたイタリア・オペラ擁護派は元気百倍となり、さらに論争を続けることになる。

政治的には1754年にパリに来ていたイタリア喜劇一座を退去させることで国王派の勝利に終わった。しかしそれが結果的にはフランスにおける喜劇、つまりオペラ・コミックの発達につながってゆく。うーん、歴史は皮肉なものだ。

いやいや、ブフォン論争なんてここではどうでもよいこと。ラモーの音楽を紹介しなくちゃ。右に挙げたCDはいずれもブフォン論争以前に作曲された作品である。右上のは「クラヴサン曲集」で、ギルバート・ローランドがなかなか爽快な演奏をしている。レーベルは低価格でお馴染みのナクソスだからといってあなどってはいけない。むしろお買い得というべきだろう。

右下のはケネス・ワイスがラモーのオペラとバレエをクラヴサン用に編曲したもの。《ダルダニュス》《カストルとポリュクス》《ピグマリオン》《恋するインド》からそれぞれ数曲ずつセレクトして収録されている。これがまたドラマチックで聴き応え十分。

我が国におけるラモーの位置づけは、いうなればヘンデルのようなものだ。バロック音楽といえばすぐにJ.S.バッハかヴィヴァルディにばかり焦点が当てられがち。しかしラモーやヘンデルの豊かでドラマ性のある音楽はもっと評価され、演奏されるべきだと思う。
コメント