どーも、ワシです。えー、今回からまた紀伊半島をウロウロしようと思います。最初に訪れたのは三重県松阪市飯南町粥見(まつさかしいいなんちょうかゆみ)にある櫛田川(くしだがわ)水系の立梅井堰(たちばいいせき)です。アクセスは国道368号沿いにある道の駅「
茶倉駅」を目指します。目的地はその近くなんですが、もっと近づくには櫛田川の右岸に移動して「
リバーサイド茶倉」から入って行くと良いです。
【櫛田川の由来】
ところで、櫛田川という名称が気になったので調べてみることにしました。鎌倉時代の建治・弘安年間(1275-1288)頃までに成立した伊勢神道の根本経典とされる『神道五部書(しんとうごぶしょ)』の中に『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』というのがあるんですが、その記述によると倭姫命が天照大神の鎮座地を探して諸国を旅していた時、この場所で自身の櫛を落としたことから同地は櫛田と呼ばれるようになり、そこを流れる川の名称も櫛田川と命名されたそうな。
…というわけで、立梅井堰に到着しました。その全体像は、こんな感じです。堰堤の石張りを見ると職人仕事って感じですね。
堰堤の横から見ると、こんな感じ。「立梅井堰」のプレートが見えます。
それはそうと、「立梅井堰」という名称、気になりますね。どんな意味なんでしょうか。立梅井堰はそもそも飯南町粥見地区から多気町丹生(たきちょうにゅう)までの水田に水を供給する「立梅用水」の取水堰のこと。
立梅用水の歴史は古く、江戸時代の元禄15年(1702年)に紀州和歌山藩の大畑才蔵(おおはたさいぞう)によって立案されたのが最初。しかしすぐに工事が開始されたわけではありませんでした。その後、丹生村の西村彦左衛門為秋(ためあき)らが和歌山藩に請願したことで文化14年(1817年)にようやく測量が始まります。そして用水建設工事は文政3年(1820年)3月に着工され、文政6年(1823年)3月に完了します。
立梅用水に流す水は櫛田川から取水され、それが立梅井堰なんですが、最初から現在の場所にあったわけではないようです。文政期に完成して以降、櫛田川は何度も洪水を起こし、その度に堰堤は決壊し造りかえられたそうな。ただ、最初の堰堤の位置について、こちらの案内板では現在よりも下流にあったと記されています。
ところが、こちらの案内板によると「当初は現在の桜橋の下流約180mに造られた」とあります。調べてみると現在の桜橋はこの場所から直線距離にして1.5kmほど上流に掛かっている橋なんです。そこから下流180mとしても現在の堰堤より上流に造られていたことになりますね。(
参考)
う~ん、どちらが正しいんでしょうね。立梅という名称は現在地の櫛田川下流の右岸の地名なので最初の案内板の記述が正しいように個人的には思います。
で、現在ある堰堤は四代目の堰堤として大正10年(1921年)4月に設置されたもののようです。堰堤が石張りなのは大正期から昭和初期に築造された堰堤によく見られる特徴です。
もう一度、堰堤をご覧ください。立梅用水へ流れ込む取水口は写真の左側にあって、
この鉄柵のところから立梅用水へ流れてゆきます。
右岸側には魚道も用意されていますが、訪れた日には水量が少なかったため、お魚さんたちはいくら川を遡りたくてもこれじゃあ行けませんね。
櫛田川沿いにあるリバーサイド茶倉のところにはこんな小屋があって、
その壁には水利使用標識が貼られています。これを見ると立梅井堰は発電用の水も供給しているようですね。
小屋の別の壁面には立梅井堰の諸元が記されています。ここから判断するに、石張りの堰堤は大正時代に造られ、右岸側のコンクリート部分やゲートなどは1999年3月に竣工したことがわかります。
なお、「立梅用水」は2014年10月6日に国指定文化財に指定されています。(
参考)