ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

再訪だな…青川峡砂防堰堤

2023-04-18 06:52:56 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回目指すのは三重県いなべ市北勢町新町(ほくせいちょうしんまち)にある員弁川(いなべがわ)水系の青川峡(あおがわきょう)砂防堰堤。たまたま地図で見つけたので行ってみることにしました。アクセスは国道306号に「青川峡キャンピングパーク」の標識があるので、それに従っていくと同パークを過ぎた先にあるようです。

ところが、同パークを抜けた先には恐怖のゲートが…。

いや〜、通行止めですか。しかもお目当ての堰堤が工事中とな!


迂回路もないようなので、今回のチャレンジはこれにて終了!

嗚呼。
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上平溜(再訪)からの洞ヶ谷溜(初見)

2023-04-17 06:55:59 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、三重県北部をクルマで走っていた時、ああ、そういえば訪れたけど見ることができなかった場所があったなというのを思い出しました。そこで今回はその場所を目指します。その場所とは三重県いなべ市北勢町別名(ほくせいちょう べつみょう)にある洞ヶ谷溜(どうがたにだめ)という溜池です。昨年3月、一度ここを目指したのですが雪が残っていて辿り着けず、その手前にある上平溜(うえびらだめ)しか見ることができませんでした。果たして今回は辿り着くことができるんでしょうか…(アクセスについては前回訪れた時の記事を参考にしてください)。

期待と不安を抱きつつ目的地へ向かいます。上に書いたように洞ヶ谷溜の手前には上平溜(高さ:19.0m)があるはず。

おーっ、さすがに今回雪はありません。写真は上平溜の右岸から見た、いわゆるダム上の様子。


ダム上、中央から見た上平溜の様子です。


同、下流側の景色。木ばっかり…。


対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


前回来た時は気づかなかったんですが、左岸側に洪水吐があることを知りました。増水すると水はここから流れ出て、

この水路を通って、あちらへ流れてゆきます。


まあ、ここまでは上平溜の再訪の様子なんですが、上に書いたように今回の目的地はここではありません。この奥にある洞ヶ谷溜なんです。さあ、辿り着くことができるのか…。


未舗装の道を進んで行きます。


しばらく行くとゲートがあり、そこから先はクルマでは行くことができないので歩いて進みます。そして、ついに辿り着きました!これが洞ヶ谷溜です。


左岸、貯水側から見た様子。ここも左岸側に洪水吐がありますね。


そして、これがダム上。こんな山奥なのに手入れが行き届いていますね。では歩いてみましょう。


洪水吐は越流式で、増水すると水はここから溢れ出て、

この水路を通って、あちらへ流れてゆきます。


ダム上、中央から見た洞ヶ谷溜の様子。


一方、下流側はこんな景色です。


対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


もしかするとワシが訪れる少し前に草刈りなどをしたのかもしれません。それにしても、こんな山奥にこざっぱりした溜池があるとは驚きでした。ちなみにここのダムの高さは17.1mなので溜池とはいえダムと称しても間違いではありません。でもここと、先に見た上平溜はダム便覧には載っていませんし、どの地図にもそれらの名称は出ていません。ダム・フリークもあまりこれらの存在は知らないかも。それだけに現場を見た時、ちょっと感銘を受けました。

自己満足ではありますが、こういうことがたまにあるからダム巡りはやめられないのでしょうねえ。
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人間・水万歳!…青蓮寺ダム

2023-03-15 07:01:55 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は三重県名張市青蓮寺(なばりし しょうれんじ)にある淀川水系の青蓮寺ダムを目指します。アクセスは国道165号の「夏見」信号を春日丘方面へ曲がり、最初の信号「夏見橋北詰」を右折。そのまま道なりに県道81号を進んで行くと目的地に到着します。なお、右岸を走る県道81号沿いに青蓮寺ダムの管理所があるんですが、管理所の敷地に入る以外に駐車スペースはありません。なので要注意。

ダム名は青蓮寺川を堰き止めて築造したことに由来します。

まずは左岸の高台から見た全景をご覧ください。アーチ型の立派なダムですね。


では、順を追って見ていきます。右岸側にあるこの建物が青蓮寺ダム管理所(ダム上から撮影)。

県道沿いの入口に貼られたプレート。


管理所のある右岸から見たダムの様子。


右岸のダム横には「人間賛歌」と題するインパクトのあるモニュメントがあります。人が両手を広げて天を仰ぎ、天から水を受け、このダムに注ぎ、人間社会の文明の発展に寄与する姿を描いたものらしい。また内側の赤色は人間の社会に対する情熱と熱い血を表現しているそうな。作者は不明。



青蓮寺ダムの目的(洪水調節、河川環境の保全、水道用水、農業用水、発電)が書かれています。


ダム上の通路の壁面には青蓮寺ダムの諸元がデーンと記されています。高さ82mのアーチ式コンクリートダムで、ダム湖名は青蓮寺湖。昭和39年11月に着工し、昭和45年(1970年)3月に竣工。


右岸、青蓮寺湖側から見たダムの様子。


では、ダム上を歩いてみます。車両通行は可能ですが、道幅が狭いため要注意。

ダム上、中央から見た青蓮寺湖の様子。


左岸、下流側から見たダムの様子。


左岸の壁面には「青蓮寺ダム」の文字。これは水資源機構のダムによくあるパターン。


左岸、ダム横には「慰霊碑」。ダム築造に際して亡くなられた9人の名が刻まれています。合掌。


ダム上は狭く、それなりの交通量があるので注意を払う必要があります。やはり「人間賛歌」の印象が強いダムですね。
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今年正式デビュー!…川上ダム

2023-03-14 07:01:41 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は三重県伊賀市青山羽根(あおやまはね)地先にある淀川水系の川上ダムを目指します。アクセスは国道422号「青山羽根」信号から「霧生・高尾」方面の県道29号に入り、道なりに進んで行くと目的地の右岸に到着します。

ダム名は左岸上流側の地名によるものですが、訪れた時はまだ竣工前だったようです。でも一般には公開されていました。ちなみに今月26日に事業完了式が関係者のみで行なわれるそうな(参考

ダム横に行く前に、ダム下に行って「ご尊顔」をパチリ。


では、県道29号から右岸のダム横へ向かいます。川上ダムは県道沿いにあり、入口にはこんな看板が立っています。


入口を入るとすぐに川上ダム管理所があります。


令和3年(2021年)12月に試験湛水が開始したようです。


川上ダム周辺案内図。


右岸から見た川上ダム。いや〜、新しいですね。


管理所と貯水湖の間のスペースには2つの案内がちょこんと座しています。

川上ダムは洪水調節、伊賀市への水道用水、流水の正常な機能維持を目的とする多目的ダム。また木津川の流水量を一定に維持するため、堆砂除去にあたっては周辺の高山ダム布目ダム、青蓮寺ダム(未見)、比奈知ダムと連携して流水を確保するそうな。

川上ダムの諸元。高さ84mの重力式コンクリートダムで、今年(2023年)から管理開始だそうです。


そこから見たダムの様子。


これが右岸から見たダム上。訪れたのが休日だったせいか見学客が多数いました。


ダム湖名は「あおやま川上湖」。


ダム上、中央から見た「あおやま川上湖」の様子。


一方、ダムの真下はこんな感じ。まだ工事中といった感じですね。

そして、下流側の遠景。


対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


左岸、「あおやま川上湖」側から見たダムの様子。


湖面に行くための装置?ケーブルカーみたいですね。これを降りて行くと…

ボートが待機しています。


左岸、下流側からダムを見ると、こんな感じです。うーん、白い!


左岸の広場にある、ブルーシートで覆われたモノ。恐らく26日の事業完了式で披露されるんでしょうね。何だろうなぁ。


近隣の人々が書いたと思われる「寄せ書き」。


この川上ダムに採用された技術。ひとつはダムの上流から流入水バイパスを通したこと。ダム築造により水温上昇が予想され、オオサンショウウオなどの生物に影響が出ると懸念されたため水温の低い上流水を下流へ送ることで水温上昇を防ぐというもの。もうひとつは築造の効率化を図る目的でプレキャスト部材を用いたこと(参考)。これにより現場作業の簡素化が図られ、安全性の向上、施工の効率化・省力化が可能になったそうな。


いや〜、ダム技術も日々進歩しているんですなぁ。
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三重県の滝川ダム

2023-03-13 14:30:25 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は三重県伊賀市高山にある淀川水系の滝川(たきがわ)ダムを目指します。アクセスは国道163号の「平田」信号を中友生(なかともの)方面(県道56号)に曲がり、伊賀コリドールロードを進みます。そしてしばらくすると「滝川ダム」の表示があるのでそこを入って進んで行くと目的地の右岸に到着します。

ところで「コリドール」ってどういう意味なんでしょうねえ。三重県のサイトで「伊賀コリドール」を見ても「伊賀市、名張市を対象とした広域営農団地整備計画において、基幹的な農道として整備された広域農道です」と書かれているだけで、肝心のコリドールの説明はありません(参考)。仕方ないのでグーグル翻訳で「コリドール」と入れてみると英語の「Corridor」と出て、「廊下」「回廊」の意味らしい。ふーん。公式サイトならこの程度の説明があってもいいような気がしますがねえ。命名の理由を示さないのはなんとも怠慢だなあ。

滝川ダムの右岸に行く前にダム下へ行ってみました。「ご尊顔」がこちら。


右岸側に来ました。こんなダムです。


右岸、下流側には案内板があります。

洪水調節、流水の正常な機能維持、伊賀市比自岐(ひじき)・摺見(するみ)・高山地区の水道水の確保を目的とした高さ29.8mの重力式コンクリートダムだそうで。


右岸の貯水側にあるこの建物が「滝川ダム管理事務…」。「所」が隠れとるやないかい!



そこからダムはこんな風に見えます。


これがダム上。歩いてみましょう。


ダム上、中央から見た貯水側の景色。


一方、ダムの真下はこんな感じで、

下流側の遠景はこんな風。一番上の写真はここに見える道路から撮ったものです。


対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


ダム本体の、いわゆる親柱に刻まれた文字。これは何て書いてあるんでしょうねえ。ダムカードに記載された完成年が2000年であることから推測すると恐らく「平成12年3月完成」と思われます。(参考


左岸、貯水側から見たダムの様子。


そして、下流側から見るとこんな感じ。


上にも書いたように、ここのダム名は「たきがわ」です。もちろんその由来はここを流れる滝川を堰き止めて築造されたことによるもの。ちなみに滝川ダムは秋田県男鹿市と福島県双葉郡にあります。ただし読み方はどちらも「たきかわ」(参考)(参考)。また、長野県小県郡(ちいさがたぐん)青木村にも同名の「たきかわダム」がありますが、こちらは立入禁止(参考)。
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水があってこそ!…真泥池

2023-03-12 06:58:06 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は三重県伊賀市真泥(みどろ)にある淀川水系の真泥池を目指します。アクセス:一番わかりやすいのは国道163号の「真泥大橋北詰」信号を友生(ともの)方面に曲がり、その道沿いにある特別養護老人ホームおおやまだ鶴寿園前の道を入って行くと真泥池の右岸に到着します。もちろん、左岸から行く道もありますが、説明が難しいので省略します。

真泥池はダム便覧を見るとその高さは26.2mと記されています(参考)。池という名称ですが15.0m以上の高さがあるのでダムとして認定されているんでしょうね。真泥池はまた伊賀市のため池ハザードマップにも登録されています(参考)。ところが、これを見ると高さは24.5mと記載されています。あれれ、高さの数値が違っていますね。一体どちらが正しいんでしょうか。もっとも、24.5mであってもダムの条件を満たしているので問題はないんですけどね。

【真泥の由来】(参考
ところで、地名でもある真泥の由来を調べてみました。明治22年3月末以前、ここは真泥村という村で、同年4月以降町村制施行により他の9村とともに山田郡山田村になります。明治29年4月1日、郡制施行により山田郡は阿拝郡(あはいぐん)と合併して阿山郡(あやまぐん)となり、同日山田郡は廃止。阿山郡山田村はその後平成16年11月1日、合併により伊賀市が発足したため同日阿山郡は廃止。それに伴い山田村も消滅し現在は伊賀市真泥という地名になったようです。で、真泥の由来ですが、服部川の南側はかつて泥田だったため、そこからこの地は真泥村と命名されたらしい。

そんなこんなで、今回ワシは左岸のダム横を目指して進みました。見えてきました、あれのようです。


左岸、ダム横に到着。なかなか立派なダムです。池ですけど。


左岸、真泥池側から見たダム上の様子。左岸側には洪水吐があります。


左岸、ダム横には「県営服部川沿岸用水改良事業 真泥池」と刻まれた石碑。

その裏には事業概要が記されています。真泥池下流の服部川沿岸耕地は毎年用水が不足し、昔から水に関する紛争が絶えなかった。そこで用水不足を解消すべく昭和28年に服部川沿岸用水改良事業が開始(参考)。その一環として築造されたのが真泥池で、昭和43年4月に着工し、昭和50年(1975年)3月に完了した(同改良事業は昭和45年に終了)。この石碑では高さが26.2mとあるので、ダム便覧の数値と一致しますね。


そこからダム上を見ると、こんな感じ。


これがダム上。歩いてみましょう。洪水吐の水路は写真の下に通っています。


ダム上から見た洪水吐。増水すると水はここから溢れ出て、

あちらへ流れてゆきます。


ダム上、中央から見た真泥池の景色。


一方、下流側はこんな景色です。


対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


右岸から見た下流側の様子。


真泥という名称からして本当に泥しかない場所だったのかもしれません。でも水がなければ土地はカピカピに乾き、泥にすらならない。そうした場所に真泥池が築造されたことで用水不足が解消され、農業も発展してきたのかもしれませんね。

余談ですが、最初読み方が「みどろ」と知った時、即座にイメージしたのは「血みどろ」でした。うわっ、かつてここでは血生臭い戦いでもあったのか…とおかしな想像をしたのです。もちろん昔は水利権の争いはあったのでしょうが、その由来がそうじゃなくてちょっとホッとしました。
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なぜ「西」が?…西米の川ダム

2023-03-11 06:52:54 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は三重県伊賀市丸柱(まるばしら)にある淀川水系の西米の川(にしこめのがわ)ダムを目指します。アクセスは国道422号沿いにある「伊賀焼伝統産業会館」横の道を入って行くと到着します。

クルマだとダム右岸側の近くまで行くことが可能。こんなダムです。治水ダムかな?


近くには案内板があります。伊賀市の上水道用水確保のために築造された専用ダムで、昭和56年6月に工事に着手し、昭和58年(1983年)3月に完成。米の川を堰き止めて築造されたダムなんですが、ダム名はなぜか「西米の川」。東米の川ってのもあるんでしょうか…。わかりませんが。


また、水利使用標識もあります。「取水量」のところに水道用水、農業用水、河川維持水と記されている理由は後で述べます。


ダム下から下流方向を見ると、こんな感じ。


右岸側からダム上に登る階段はありますが、鍵が掛かっていて登れず。そこで左岸側に移動してみることに。立入禁止の表示がないので近づいてみました。おー、なかなかの迫力です。


左岸のダム横までやってきました。そこから下を見るとこんな感じ。


左岸、ダム横から見たダム上。歩いてみましょう。


ダム上、中央から見た貯水側の景色。


ダムの真下と下流側の遠景。



ダム下にあるこれは円筒分水。ここで上に書いた取水量が3つの用途に分水されるらしい(参考)。


対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな景色。


今度は右岸側から下を眺めてみます。


なお、西米の川ダムは伊賀市のため池ハザードマップにも載っていて、現場の案内板に書かれているのと同じく高さは18.5mと記されています(参考)。もっとも、表記が同じなのは当たり前なんですけどね。そうじゃないケースが多々あるから困るんですが。
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地域農民の悲願!…滝谷池

2023-03-09 07:01:37 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は三重県伊賀市槙山(まきやま)にある淀川水系の滝谷池(たきたにいけ)を目指します。アクセスは県道50号から入って行くと到着します。ただ、入るところには何の目印もないので真木山神社を探し、その西側あたりにある道が目的地への道となります。

滝谷池という名称は滝谷川を堰き止めて築造されたことに由来します。伊賀市が作成したため池ハザードマップによると、高さは21.5m(参考)。だからなのかダム便覧にも滝谷池は載っています。ところがダム便覧に記された高さはなぜか23.5mなんですよね(参考)。この2.0mの違いは何なのでしょうか。

それはさておき、滝谷池は右岸から見るとこんな感じです。


順を追って見ていきます。上に記した道を進んで行くと突然こんな「関所」が現われます。一瞬、ゲゲッと焦りますが、よく見れば進入禁止ではなく、単に野生動物が通らないようにするゲートなので手動で開閉して進むことができます。


そして進んで行くと滝谷池の左岸に到着します。


左岸、ダム横には「滝谷池竣工碑」と刻まれた石碑が建っています。


石碑の文言を転記すると以下の通り。

   「建碑誌
王滝鞆田の地帯は由来水利の便匱しく天一度旱すれば忽ち田面乾涸して嘉禾稔らずまた之が田圃の復旧にも多大な労費を要し住民常に艱むかかる災害は遂年或は三四年を離て繰返さるこれは古くは寛政年間旧藩主より年貢米全免扶米の恩典近くは明治大正の旱害免租また大正十一年より三歳に及ぶ大旱害に際し開墾助成耕地整理国庫補助の恩典に與り大小溜池の新設拡築など水源涵養に努めしが殆んど奔命の憾なりき只抜本的解決の途は大溜池の構築によって貯水灌漑によるの外なきに至れりこの窮極に際し昭和二十二年十一月縣に於て伊賀東北旱害対策委員會を結成せられ関係国会並に縣議會議員の絶大なる御協力により調査研究を重ね遂に昭和二十五年十月縣營を以て大溜池築造の工に着手せられたり以来結据実に六星霜を閲し昭和三十一年工事完成す貯水量八十万立米の碧水山容に満ち豊なる水溢れて余水吐を掩ふの盛観を呈す而して費すところ三億四千余万円水路●●々三万六千七百余水に及び重畳たる滋賀縣境を繞り巌を削り山腹を貫き以て王滝鞆田四百町歩の養水を流す大小の隧道八十有一伏越工十有八掛樋十有五蓋し稀有の難工事たり顧るに工を起すや住民の熱意と関係者の総親和総努力により百難を排し櫛風沐雨に耐えてこの大業を完成し永き炎嘆の患を絶ちてその恵沢千載に盡きず嗟乎偉なる哉人の熱大いなる哉人の和天工を補いて水系を更め然して地租を滋くし木毛を培いて民生を厚くす世遷り人代るともこの池畔に立てば山紫水明の天恵と共に永久に民衆の幸を希ふものなり
  昭和三十一年十月六日  三 重 縣 知 事  田中覚 題字
              三重縣土地改良協会長 東畑四郎 撰」

要約すると、もともと水が乏しかったこの地域では江戸時代から明治・大正時代にかけて免租されたり、国の補助金によって大小の溜池が築造されるなどの恩恵を受けてきたが、抜本的な解決にはならなかった。そこで昭和22年11月、伊賀東北旱害対策委員會が結成され、調査研究を重ねた結果、昭和25年10月に三重県が主導する大溜池(滝谷池)の築造に着手。そして昭和31年(1956年)に完成したと記されています。

左岸の滝谷池側には取水設備らしき建物があります。

そこからダム上を見ると、こんな感じ。


これがダム上。ダム上は立入禁止ではないので歩いてみます。


ダム上、中央から見た滝谷池の様子。


一方、下流側はこんな景色です。


対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


右岸、滝谷池側から見た様子。


越流式の洪水吐は右岸のさらに外側にあります。


竣工碑のような石碑があると築造の経緯などがわかって見方が変わりますね。例えば、工事、大変だったんだろうなぁ…とかね。
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謎の女性像…蓮ダム

2022-03-14 06:59:54 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は三重県松阪市飯高町森(まつさかしいいたかちょうもり)にある櫛田川(くしだがわ)水系の蓮(はちす)ダムを訪れます。アクセスは国道166号から県道569号に入って行くと到着します。

上のリンク先にもありますが、ダム建設の経緯は次の通り。1959年に発生した伊勢湾台風をきっかけに1962年から予備調査を開始。そして青田川、蓮川、布引谷川が合流した下流地点にダムを建設することが決まります。1974年から工事に着手し、1991年9月30日に竣工となりました。ダム建設によって66戸が水没し、192戸が移転。青田川と蓮川流域には青田、清瀬、蓮という3つの集落がかつてあり、ダム名はこの蓮集落から取られたものと思われます。

まずはダム下から撮った「ご尊顔」をご覧ください。



これはダム下にある平瀬橋という吊橋から撮ったもので、







そこから蓮川の下流を見ると、こんな感じ。



ダム下には副ダム(減勢工)があって文字通り流れの勢いを減らす役割をするのですが、副ダムの下流にももうひとつの減勢工のようなものが設置されています。それはご覧の通り平瀬橋の下流側にまで延びており、床固工(とこがためこう)のようなもので水を堰き止めています。



県道569号に戻り、ダム横に向かいます。

ダム横には「蓮ダム管理所」があります。





近くには「蓮ダム周遊散策マップ」。これを見ると、蓮ダムは洪水調節、水道水の供給、流水の正常な機能維持、水力発電という4つの目的を持つ多目的ダムであるのがわかりますね。





そこからダムを見ると、こんな感じ。うん、これもなかなか良いアングルです!



左岸、貯水側の県道沿いには「奥香肌湖(おくかはだこ)」と書かれた石碑。ここのダム湖名なんですね。湖名は近くにある奥香肌峡に由来するもののようです。



その裏側に嵌め込まれたプレート。それによるとこの石はここの湖底から採掘されたものらしい。



管理所の横には展望台があるので登ってみましょう。



階段を登りきったところには、こんな女性像が…。その題名も作者名もわからず。管理所の人に聞いてみようと管理所入口にある内線電話をかけるも繋がらず…。う〜む、モヤモヤ。



でも、展望台からの眺めは最高!まさに一望できますよ。



では、いよいよダム上を歩いてみることにしましょう。左岸、ダム湖側には「おくかはだ湖」と刻まれた石碑。



これがダム上です。



ダム上、中央から見た奥香肌湖の様子。



一方、ダムの真下は、こんな感じ。



そして、下流側の遠景。写真中央付近に見えるのが先ほど見た平瀬橋です。



右岸の山肌には「蓮ダム」の看板が。



対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



1991年3月竣工だそうで。



「はちすダム」と刻まれたもの。



「蓮ダム 建設の碑」



右岸、下流側から見たダムの様子。



右岸には1988年10月に完成したという「布引トンネル」があります。





トンネルを抜けると、こんな景色。ちなみにトンネル名はこの先でダムへ流れ込む布引谷川に由来するものと思われます。



トンネルを抜けたところからダム方向を見ると、こんな感じ。



バブル景気(1986-1991)の終焉とともに完成した蓮ダム。それにしても、展望台の女性像がなんなのか気になります。
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本当なのかな…虻野池

2022-03-13 07:00:20 | 三重(ダム/堰堤)
えー、前回は思わぬ「収穫」があって当初の目的地へ行きそびれたわけですが…。あ、どーも、ワシです。今回こそは櫛田川水系の虻野池(あぶのいけ)に向かいますよ〜。住所は三重県松阪市飯高町下滝野(まつさかしいいたかちょうしもたきの)。アクセス方法は昨日の記事を参考にしてくださいね。

…てなわけで、細い道を進んで行くと虻野池が「ど〜ん」と姿をあらわします。うほほ、なんたる存在感!



ダム上へは道がないので、クルマをそこに置いて斜面をよじ登ります。まあ、軽い運動ですわぁ。



なみなみと蓄えられた水。



右岸の端には気づかないほどの小さな排水路があります。よく見ると排水路のところに背の高いボルトの束のようなものが見えます(写真中央左寄り)。たぶん池のゴミが流れないためのフィルターのような働きをするのだと思います。



首尾よくその「ゲート」を通過すると、水はこの水路を通って流れてゆきます。



で、これがダム上になります。進んでみましょう。



ダム上、中央から見た池の様子。空のところにある黒い点々はモニターに付着したゴミじゃありません。群れをなして飛ぶ鳥たちです。だからモニターを拭いても取れませんから。



一方、下流側は、こんな感じ。



左岸側には洪水吐? 水が溢れないようにするための装置らしきものがありますが、今は機能していないようです。



で、もし溢れてしまったら、この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



左岸から右岸を見ると、こんな感じ。



虻野池はダム便覧に登録されています。つまりダムとして認識されているためなのか三重県のため池データベースにも松阪市が作成した農業用ため池のリストにも載っていません。一昨日の記事に載せた高束池は載っているのにね。(参考1)(参考2

でも、ダム便覧に登録されているとはいえ、ここが本当に虻野池であるという表示はどこにもないんですよね。確かにその下流には昨日の記事にあるように「虻野川砂防堰堤」があるので間違いないとは思います。しかしながら看板などの確固たる証拠がないので思わず「ホントにここは虻野池なのかな」と訝ってしまいます。本当のところはどうなんでしょうね。
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埋もれそうな…虻野谷川ダム(砂防堰堤)

2022-03-12 06:54:19 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は三重県松阪市飯高町下滝野(まつさかしいいたかちょうしもたきの)にある櫛田川水系の虻野池(あぶのいけ)を目指します。アクセスは国道166号から入って行くんですが、わかりにくいので地図を載せておきます。位置的には前回記事にした高束池(こうぞくいけ)の西側、地図だと高束池の左にある池(ポインターで示したところ)がそれに該当します。



面白いもんで、頭の中で「目的地は虻野池、虻野池、虻野池…」と思っていると他のことが見えなくなるんですね。で、実際に虻野池へ向かっていたんですが、もうすぐ目的地というところに来た時、ふと何かが目に入りました。

おっ、砂防堰堤らしきものがある!

それがこれです。



もうね、目に入った以上、確認しないわけにはいきません。虻野池は後回し。堰堤本体にはプレートが嵌め込まれていました。「虻野谷川ダム」と書かれています。昭和63年(1988年)度通(常)砂(防工事)第41号とあるのでその年に完成したのでしょうね。ただ、高さは9.5mなのでダムではなく砂防堰堤となります。



堰堤に乗ってみました。これが、いわゆるダム上。歩いてみます。



落水部まできました。



そこから貯水側を見ると、こんな感じ。あの奥のほうに虻野池があると思われます。



堰堤の真下の様子です。ここの水には硫黄のようなものが含まれているんでしょうか。



改めて上の地図で確認すると、確かに虻野池の下流に小さな堰堤があるのに気づきました。ああ、これのことなんだなとようやく気づいた次第。ホント、目的地ばかり見ていると周囲が見えなくなるもんです。反省。

次回はいよいよ当初の目的地である虻野池に向かいますよ〜。
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フツーの池だなぁ…高束池

2022-03-11 06:50:09 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は三重県松阪市飯南町粥見(まつさかしいいなんちょうかゆみ)にある櫛田川水系の高束池(こうぞくいけ)を訪れます。ここはダム便覧には載っていないんですが、松阪市が作成した「ため池ハザードマップ」によると高さは16.3mで(参考)、ダムの定義(15.0m以上)をクリアーしているので見学してみようと思った次第。アクセスは国道166号沿いにある松阪飯南森林組合近くのT字路を入って行き、中部電力伊勢開閉所の敷地の周囲を進んで行くと到着します。

到着しました。う〜ん、まあ、確かに池ですな。



ここには、よくあるダム上のようなものは見当たりません。周囲を歩いてみると洪水吐のようなものを見つけました。



しかし越流式のようなものでもなく、ただの排水路という感じ。増水時になると、水はここから溢れ出て、



あちらへ流れてゆくのでしょう。水路はちゃんとコンクリートでできています。



付近にはここが高束池であるという看板や案内板の類は見当たりません。あるのはこんな看板くらい。



だから池の名称の由来は不明。ここの地名なのでしょうか。
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フルタテ?…タチばい!…立梅井堰

2022-03-10 07:01:39 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回からまた紀伊半島をウロウロしようと思います。最初に訪れたのは三重県松阪市飯南町粥見(まつさかしいいなんちょうかゆみ)にある櫛田川(くしだがわ)水系の立梅井堰(たちばいいせき)です。アクセスは国道368号沿いにある道の駅「茶倉駅」を目指します。目的地はその近くなんですが、もっと近づくには櫛田川の右岸に移動して「リバーサイド茶倉」から入って行くと良いです。

【櫛田川の由来】
ところで、櫛田川という名称が気になったので調べてみることにしました。鎌倉時代の建治・弘安年間(1275-1288)頃までに成立した伊勢神道の根本経典とされる『神道五部書(しんとうごぶしょ)』の中に『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』というのがあるんですが、その記述によると倭姫命が天照大神の鎮座地を探して諸国を旅していた時、この場所で自身の櫛を落としたことから同地は櫛田と呼ばれるようになり、そこを流れる川の名称も櫛田川と命名されたそうな。

…というわけで、立梅井堰に到着しました。その全体像は、こんな感じです。堰堤の石張りを見ると職人仕事って感じですね。



堰堤の横から見ると、こんな感じ。「立梅井堰」のプレートが見えます。



それはそうと、「立梅井堰」という名称、気になりますね。どんな意味なんでしょうか。立梅井堰はそもそも飯南町粥見地区から多気町丹生(たきちょうにゅう)までの水田に水を供給する「立梅用水」の取水堰のこと。

立梅用水の歴史は古く、江戸時代の元禄15年(1702年)に紀州和歌山藩の大畑才蔵(おおはたさいぞう)によって立案されたのが最初。しかしすぐに工事が開始されたわけではありませんでした。その後、丹生村の西村彦左衛門為秋(ためあき)らが和歌山藩に請願したことで文化14年(1817年)にようやく測量が始まります。そして用水建設工事は文政3年(1820年)3月に着工され、文政6年(1823年)3月に完了します。

立梅用水に流す水は櫛田川から取水され、それが立梅井堰なんですが、最初から現在の場所にあったわけではないようです。文政期に完成して以降、櫛田川は何度も洪水を起こし、その度に堰堤は決壊し造りかえられたそうな。ただ、最初の堰堤の位置について、こちらの案内板では現在よりも下流にあったと記されています。



ところが、こちらの案内板によると「当初は現在の桜橋の下流約180mに造られた」とあります。調べてみると現在の桜橋はこの場所から直線距離にして1.5kmほど上流に掛かっている橋なんです。そこから下流180mとしても現在の堰堤より上流に造られていたことになりますね。(参考



う~ん、どちらが正しいんでしょうね。立梅という名称は現在地の櫛田川下流の右岸の地名なので最初の案内板の記述が正しいように個人的には思います。

で、現在ある堰堤は四代目の堰堤として大正10年(1921年)4月に設置されたもののようです。堰堤が石張りなのは大正期から昭和初期に築造された堰堤によく見られる特徴です。

もう一度、堰堤をご覧ください。立梅用水へ流れ込む取水口は写真の左側にあって、



この鉄柵のところから立梅用水へ流れてゆきます。



右岸側には魚道も用意されていますが、訪れた日には水量が少なかったため、お魚さんたちはいくら川を遡りたくてもこれじゃあ行けませんね。



櫛田川沿いにあるリバーサイド茶倉のところにはこんな小屋があって、



その壁には水利使用標識が貼られています。これを見ると立梅井堰は発電用の水も供給しているようですね。



小屋の別の壁面には立梅井堰の諸元が記されています。ここから判断するに、石張りの堰堤は大正時代に造られ、右岸側のコンクリート部分やゲートなどは1999年3月に竣工したことがわかります。



なお、「立梅用水」は2014年10月6日に国指定文化財に指定されています。(参考
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ダム上の忘れ物…坂東池(溜)

2022-03-06 07:07:16 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は三重県桑名市多度町美鹿(たどちょうびろく)にある木曽川水系の坂東池(ばんどういけ)を目指します。アクセスは県道610号沿いにある「いなべモータースポーツランド」の看板のあるところを入っていき、スポーツランドを過ぎてさらに進むと目的地の右岸側に到着します。

入口のところにある看板。「坂東溜」(ばんどうだめ)と表記されていますが、いなべ市が作成しているため池ハザードマップによると名称は「坂東池」。もちろん同一の場所です。ただし、ハザードマップに記されている高さは18.0mですが、ダム便覧のデータによると29.5m。(参考)なぜこんなにも数値が異なるんでしょうね。全くもって謎です。



これが右岸から見た、いわゆるダム上。



右岸の傍にはほとんど廃墟と化している小屋。



ダム上、中央から見た貯水側の景色です。



一方、下流側はこんな景色。



ダム上にこんなものが落ちていました。散弾銃の薬莢?



洪水吐は左岸側にあります。雪が積もっているのと水量が少ないため実態はつかめず。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



このため池の名称の由来はよくわかりません。ただ、ここと接しているのが「いなべ市員弁町」なんですが、ため池から見て南西方向のところの地名に「坂東新田」というのがあるので、そのあたりと関係があるのかもしれません。
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高さ詐称?…員弁(大)池

2022-03-05 06:51:11 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は三重県いなべ市員弁町楚原(いなべちょうそはら)にある員弁川水系の員弁大池(いなべおおいけ)を目指します。その名称なんですが、グーグル先生の地図やダム便覧での表記は「員弁大池」なんですが、いなべ市が作成している「ため池ハザードマップ」や国土地理院の地図では「員弁池」なんですよね。一体どちらが正しいんでしょうねえ…。ちなみにアクセスは「いなべ公園」の東側なのでいなべ公園に向かっていけば到着します。

いなべ公園の入口付近からは向こうに「ご尊顔」が見えます。写真に見えている道はダム下に通じているので、ダム上(いなべ公園)に行くにはこの左側の道を登っていきます。公園が営業中ならばそのまま進むとダム横に辿り着くことができます。



右岸のダム横に来ました。正面には「員辨池記念碑」がデーンと建っています。その裏側を見ると「昭和19年(1944年)10月22日建立」とあります。この記念碑の表記は「員弁池」ですね。(1)





そこからダムを見ると、こんな感じ。



ダム横のスペースには「いなべ公園」の案内図があります。これで位置関係がわかりますね。



先ほどの記念碑の傍にある案内板。ここでの表記は「員弁大池」。自然環境保全地域に指定されたのは1978年1月23日。(2)



その隣にあるのが「県営ため池等整備事業 竣工記念碑」(1991年2月28日建立)。裏側に記された沿革には、員弁池は左岸台地の旱魃多発地帯に灌漑用水を供給するため、昭和9年(1934年)8月から昭和11年(1936年)3月にかけて工事が行なわれて完成した。しかし築造から40数年が経過し老朽化が進むにつれ漏水量が増加したため昭和63年から3ヵ年計画により同池の浚渫と改修を行ない、平成3年(1991年)2月に完成したとあります。(参考)(3)





右岸から見たダム上。



ダム上、中央から見た貯水池の様子。



同、下流側の景色です。



洪水吐は左岸側にあり越流式になっていて、増水すると水はここから溢れ出て、



この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



その水路に沿う形で階段が設置されています。ちょっとオシャレ。



洪水吐の水路に掛かる橋を渡ると左岸になります。振り返ると、こんな感じ。



左岸には「員弁大池 創設指導者 和波久衛氏の功績を讃う」と刻まれた石碑。同氏は昭和11年に員弁池を築造した当時の何かの組合長で、員弁池の築造の必要性を唱えて近隣の各村長や関係当局と折衝にあたった人物のようです。この石碑自体は昭和39年(1964年)3月に建立されたものですが、ここでの表記は「員弁大池」ですね。(4)





記事の最初に書いた「員弁大池」と「員弁池」の表記はどちらが正しいのかという問題についてちょっと考えてみます。年月が記された(1)〜(4)までの表記を改めて見ると昭和11年(1936年)に築造されてから昭和19年(1944年)に建立された記念碑(1)までは明らかに「員弁池」だったようです。ところが和波氏を讃えた石碑(4)が建立された昭和39年(1964年)には「員弁大池」に変わっています。そして自然環境保全地域に指定された昭和53年(1978年)頃に建てられたと思われる案内板(2)の表記も「員弁大池」。ここまでで考えられるのは、池の名称は昭和20年(1945年)から昭和38年(1963年)の間に変わったのではないかということ。

でも、なぜ改称したのかはわかりません。おそらく最も新しい石碑である「竣工記念碑」(3)を建立する際、製作担当者もこの疑問が頭をよぎったのではないでしょうか。というのも、確かに沿革の最初に「員弁池」と記していますが、「員弁大池」の文字は見当たりません。もしそれを記したら「いつ員弁池から員弁大池になったのか」の説明を書かなければならなくなるからです。その説明が書いていないということはこの担当者もいつ改称されたのかわからなかったんでしょうね。だから文の最後まで「員弁大池」という文字を出さずに曖昧なままの説明にした…。これが真相なのかもしれません。

最後にびっくりしてしまう事実を。何度か書いている通りダム便覧で扱うダムは高さが15.0m以上のものを載せているんですが、この「員弁(大)池」も高さが15.0mとして掲載されています。ところが、いなべ市が作成したため池マップ(員弁池と表記)を見るとその高さはなんと「14.4m」(参考)。え、え、え、え、15.0m未満じゃないですか! なのにダム便覧に堂々と載っている…。

良いんですかね、これ…。
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