ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

詰めが甘いな!…鈴蘭(砂防)堰堤

2022-12-31 07:11:02 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県神戸市北区山田町下谷上(やまだちょう しもたにがみ)に「鈴蘭砂防ダム」というのがグーグル先生の地図に出ていたので行ってみることにしました。アクセスは国道428号の「水呑」信号から県道52号(小部明石線)に入り、神戸電鉄有馬線の跨線橋の手前の「梅香園」の看板のところのT字路を左折して行くと到着します。

到着しました。これが「ご尊顔」。修復したのかな?


近づいてみると本体には「鈴蘭堰堤」記されたプレートが嵌め込まれています。昭和27年(1952年)3月に完成し、平成19年(2007年)6月に補強工事が行なわれたようです。


あれれ、築造物の名称が違いますね。でも場所は間違ってはいません。ということはグーグル先生の地図の表記が誤っていることがまたもや判明したわけです。それにしてもどこから「鈴蘭砂防ダム」という名称が出てきたんでしょうね。ちょっとこれについて考えてみましょう。鈴蘭というのはこの下流の地名「鈴蘭台南町」に由来するとして、問題は「砂防ダム」と「堰堤」の表記です。築造物の立地とその形状からすると砂防のために建設されたものであるのは間違いありません。だから「砂防」の表記は妥当であり、プレート表記の「鈴蘭堰堤」はむしろ「鈴蘭砂防堰堤」にすべきだったと言えるでしょう。いや、むしろグーグル先生の誤りは「ダム」と表記してしまったことです。もう一度プレートをご覧ください。「堤高10m」とありますね。これがポイントなんです。というのも、ダムの定義が記された河川法第44条によればダムとは高さが15.0m以上の築造物を指し、そして高さ15.0m未満のものは「堰堤」と明言しているんです(参考)。ということはこの築造物は「堰堤」と称すべきで、定義上はダムではないんですね。従ってグーグル先生の地図の表記は間違いで、正しくは「鈴蘭堰堤」あるいは「鈴蘭砂防堰堤」と表記すべきなのです。

それはさておき、堰堤に近づいたので左岸側から接写してみました。職人仕事を思わせる丁寧な「作り」。


そこから見た下流側の景色。


ふと見れば堰堤の横へ繋がる道があるので向かいました。これが左岸から見た堰堤の上です。

しかしながら堰堤の上は立入禁止のようで、行くことはできません。でも、この看板、よく見てください。堰堤名は上に示した「鈴蘭堰堤」と同じですが、堰堤の高さ(12.0m)と長さ(57.7m)が変更されています。しかも平成の補修工事後、令和の時代(2020年11月28日)になって再び補修工事が施工されていたのです。


驚くのはまだ早かった…。この看板の隣にある表示板を見て、さらにビックリ。何がビックリって河川法を司っている国土交通省が堂々と「鈴蘭砂防ダム」と表記していることです。これじゃあ河川法の定義は関係ありませんと言っているようなもの。いいのか?それで。お役所は良い意味で頭が固くなければなりません。あ、グーグル先生の表記はこれと同じなので、ここだけを見て地図に記入したのかもしれませんね。


ビックリなのはそれだけじゃありません。上に掲げた「鈴蘭堰堤」のプレートの数値と違っていることです。どちらも昭和27年3月完成とあるのに、その数値が異なるのは何故なんでしょうね。もしかすると「鈴蘭堰堤」のほうの数値は平成19年6月に補強した結果の数値なんでしょうか?仮にそれが事実ならばこの堰堤の高さと長さは次のような変遷を辿ることになります。
            高さ  長さ
1952年3月完成時   :14.2m 57.7m
2007年6月補強時   :10.0m 60.0m
2020年11月28日改修時:12.0m 57.7m

いや〜、なんだか不自然じゃないですか?高さを下げたり上げたり。そして長さも伸ばしたり縮めたり…。うーむ、よくわからんなぁ。

それはさておき、左岸の堰堤横には「砂防工事の歴史と工夫」なる説明図があります。これは鈴蘭堰堤に限ったことではなく、砂防ダム(堰堤)の一般的な工事の歴史が記されています。


ちなみに左岸側から当該堰堤の「背中」を見るとこんな感じ。堰堤の中央には流木などが流れぬように透過型の装置が付設されています。


鈴蘭(砂防)堰堤…。名称だけ見ると可愛らしいイメージですが、実物を見ると継ぎ接ぎだらけの、未だ工事の真っ最中という感じ。補強や改修工事はいいけど、もうちょっと美しく仕上げようよ。それに表記もね。

ちょっとガッカリちゃん。


今年も飽きずにご覧いただき、ありがとうございました。来年もポンコツジジイはダム巡りを続けます(笑)
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洪水防止に特化!…天王ダム

2022-12-30 07:00:26 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は兵庫県神戸市北区山田町下谷上(やまだちょう しもたにがみ)にある新湊川水系の天王(てんのう)ダムを訪れます。アクセスは県道52号沿いの天王ダムスポーツ公園から入るか、もしくは国道428号の小部トンネル北側の出口の脇から入っていくと到着します。

まずは左岸から見た天王ダムの「ご尊顔」をご覧ください。


では、順を追って見ていきます。ダムへ近づいて行くと最初に目にするのがこの建物、「兵庫県神戸土木事務所 天王ダム管理所」です。



その近くには天王ダムの案内板があります。これによると、当該ダムは下流の神戸市の市街地での洪水を防止する目的で築造されたもので、自然調節方式とあるようにダムには恒常的に水が溜まっているわけではなく、降雨によりある程度ダムに水が溜まった段階で計画的に放水するというシステムらしい。


管理所の横の道を進んで行くとダム横になるのですが、そこには「天王ダム」と刻まれた石碑があります。

その裏には「昭和56年(1981年)3月竣工」と記されています。


ところで、ダム名は天王谷川を堰き止めて築造されたことに由来するものと思われます。なお、天王谷川の由来は下流にある祇園神社(兵庫県神戸市兵庫区上祇園町)に関係があるようです。この川はこの祇園神社の横を流れているのですが、同神社は江戸時代までは「素戔嗚社(すさのおしゃ)」もしくは「天王社」、通称「祇園さん」と呼ばれていたそうです。明治時代になってその通称が正式名称とされたためそれ以後は祇園神社と称するようになりました。つまり天王谷川という名称はこの祇園神社がまだ天王社と呼ばれていた頃の名残で、その横を流れていたので天王谷川という名称になったようです。

ダム横には兵庫県の県営ダムにはお馴染みのものがあります。ロボットみたいなフォルムのこの中にはタイムカプセルが入っているそうな。

記述内容は字が掠れていてほとんど読めませんが、タイムカプセルの内容物について記されていると思われます。数日前に記事にした青野ダムにも同様のものがあり、そこの記述ではダムに関する様々な書類がタイムカプセルに入れられたとあるので、おそらくこれも同じなんじゃないかと推測されるからです。


これがダム上です。歩いてみましょう。


ダム上、中央から見た貯水側の景色です。たまたまなのかわかりませんが、ほとんど水がありません。


ダムの真下はこんな感じ。

そして、下流側の遠景。写真中央の下あたりに見えるのが国道428号。


対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じです。


右岸、貯水側から見たダムの様子。


同じく、右岸の下流側から見るとこんな景色。


ダムの下から「ご尊顔」を撮りたかったのですが、それらしき道がわからず。上にあるように国道428号の小部トンネル南側の出口付近からちょっとだけダムを見ることができます。でもこの付近は交通量が多いし、駐車しにくいのでオススメはできません。
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散策と景色を楽しむ…北山貯水池(ダム)

2022-12-29 07:02:48 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県西宮市甲陽園目神山町(こうようえんめがみやまちょう)にある夙川(しゅくがわ)水系の北山貯水池を訪れます。アクセスは甲山(かぶとやま)森林公園の西を走る甲山大師道沿いに貯水池への入口があります。しかし貯水池へはクルマで入れないので甲山大師道沿いにある無料駐車場に停めると良いでしょう。

【甲陽園目神山町の由来】(参考
さて、珍しい地名なので調べてみました。まず甲陽園について。この場所は大正以前は未開拓の原生林だったのを1918年に現在の阪急神戸本線敷設に際して実業家の本庄京三郎(1868-1938)が「甲陽土地」という会社を設立し新興住宅街として開発。地名としての「甲陽園」はこの社名に由来する。なお、甲陽とは北山貯水池の北西に位置する甲山(標高:309m)の南にあるという意味で、その一帯の住宅地を甲陽園と称し、その後に続く名称(例えば甲陽園〇〇町のような)はそこから細分化したもののようです。「目神山町」は神の山と呼ばれる甲山と向かい合う小さな神の山という意味に由来するそうな。ちなみに甲陽園の開発に尽力した本庄京三郎の名は甲陽園本庄町という形で地名として残っています。

【夙川の由来】(参考
ついでに夙川の由来についても調べてみました。元々は宿場の川という意味で、「宿川」と表記していたらしい。この宿とはどこのことか。これは夙川の河口に近い現在の阪急夙川駅と阪神本線の香櫨園(こうろえん)駅付近に昔は「古宿」と呼ばれた宿場町があり、それのことではないかと言われています。それにしてもなぜ「夙川」という表記になったのでしょうね。ここからはあくまで推測です。まず「夙」という文字に着目してみます。これは中世から近世にかけて近畿地方に居住していた賎民のこと。つまり「古宿」もしくはその周辺には彼らが住んでいて、川はそこを流れていたので夙川と呼ばれるようになったのではないかと考えられるのです。事実はどうかは知りませんが。

では、いよいよダム上を歩いてみます。あとで説明しますが、ここ北山貯水池には5つのダムがあります。まずワシが向かったのは貯水池の南側にある第3、第2、第1ダムのダム上です。このダム上の道は繋がっていて道幅もそこそこ広くとられています。


その付近から貯水池を見ると、こんな感じ。向こう側に見えているのは第5ダム。


第3ダムの下あたりから見上げると、こんな感じです。


およそ第3ダムあたりから見た第2ダム(写真左側)とその先の第1ダム(同右側)の様子。


第3ダムのダム上はこのあたりまでで、この先に第2ダムがあります。


その先には「北山貯水池」と表示された案内板があります。これによれば当該貯水池は仁川(にがわ)を主水源とする貯水池で、1968年5月に完成したとあります。



その付近から貯水池を眺めます。向こうに見えるのはダム上の短い第4ダム(左側)と第5ダムの一部。


第2ダムの下流側の景色。


第2ダムから第1ダムへ向かう途中には北山で見られる野鳥が紹介されています。


第1ダムの左岸に相当する場所には「西宮市上下水道局 北山貯水池管理事務所」があります。



その近くには「北山ダム」と記された石碑。揮毫は西宮市7代目市長を務めた辰馬龍雄(たつうまたつお)(参考)。辰馬は、1662年創業の清酒「白鹿」の醸造元で知られる辰馬本家酒造の家に1903年に生まれ、ワシントン大学に留学し、1929年に阪神電鉄に入社。そして1963年4月に西宮市長に就任し、1975年4月まで務めた。1995年に阪神・淡路大震災で死去(参考)。

その裏側には1968年5月10日竣工と記されています。


洪水吐は第1ダムの、いわゆる左岸側にあります。

そして、よく見ると隅には水位を調節できる装置がありました。いずれにしても増水すると水はここから溢れ出て、

あちらへ流れてゆきます。


洪水吐付近から貯水池を見ると向こう正面に第4ダムがあります。


第1ダムの下流側斜面には太陽光発電パネルが並んでいます。2014年8月から発電が開始されたそうな。



第1ダムの、右岸側には北山貯水池の案内板があります。

5つのダムの位置関係はこうなっていて、

ダムの諸元は次の通り。

当初は仁川を堰き止めてダムを築造する計画だったようですが、仁川の勾配が急だったため建設費用が膨大となることが判明したため断念。そこで仁川の湯ノ口取水場から導水管によって窪地であるこの場所まで水を引き入れ貯水池を作ることになったそうな。貯水池名はここの西側にある北山(標高:270m)にちなんで命名されたという。


だいたいこのあたりまでがダム上で、振り返るとこんな感じです。


ついでなので、さらに先へ行ってみると、そこには「愛犬之碑」や「鳥獣慰霊之碑」、

さらには「魚貝塚」まであります。ナムナム。


この日はたまたま休日だったせいか貯水池には多くの人が訪れていました。ダム上を歩くのはなかなか骨が折れましたが、それなりに見どころがある、散策に適した場所でしたね。なお、地図を見ると北側の第4ダムと第5ダムへは道がないので行けないようです。
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どら焼き風ケーキ(笑)

2022-12-28 07:05:32 | 脳みその料理
どーも、ワシです。今回のデザートは余りものを利用した、名付けて「どら焼き風ケーキ」。



通常、ケーキはホールで作るんですが、クリームを多めに作るので中途半端に余ってしまうんです。そしてそのケーキの土台となるスポンジケーキも同様に余るんですね。で、それらをなんとか利用できないかと考えた末、この形となりました。

テキトーに「どら焼き風」と命名しましたが、もちろんそれは見た感じがそれっぽいだけで、味はフツーのヨーグルトムースケーキ。

ま、そうやって材料を無駄なく使い、それらしいモノにするのを考えるのも楽しいんです。ちなみに写真では3つありますが、実際には一回り小さなホールを4等分して4つのケーキができました。でも、写真を撮る前についひとつ食べちゃいました。

テヘヘ。
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背中がちょっと見えるだけ…丸山ダム

2022-12-27 07:01:20 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県西宮市山口町金仙寺にある武庫川水系の丸山ダムを訪れます。アクセスは阪神高速道路7号線の「西宮山口南インター」を降りて「三田」方向へ曲がり、最初の信号「山口町中野」を右折。そしてごみ収集場所のあるT字路を左折し進んで行くと目的地付近に到着します。

ダム名は左岸の丸山(標高:378m)に由来するものと思われます。(参考

左岸、ダム湖から見た丸山ダムはこんな感じです。


で、左岸からダム横へ行こうとしたんですが、残念ながらフェンスの壁が立ちはだかり行くことはできません。あらぁ〜。



仕方がないので左岸からダム湖を眺めます。


実は、この場所はクルマでは来れません。クルマは下の写真のように堤の下に停めて、歩いて階段を登ります。


では、左岸の道を上流に向かって歩いていきます。ちなみに、この道を進んで行くと県道82号に繋がるんですが、そこから入ることはできません。


そして、県道82号近くまで来ました。振り返るとこんな感じ。


ふと、近くを見ると「金仙寺湖」と刻まれた巨石がありました。あ、なるほどダム湖名は金仙寺湖というんですね。地名にもなっている金仙寺は先ほど登って来た階段の下にあるお寺で、その観音堂、昔は尼僧がいましたが現在では無人になっていて近隣住民が管理しているそうな。(参考


…というわけで、丸山ダムについては案内板もなくダムにすら近づけないため、これにて終了。

う〜ん、なんだかなぁ。

追伸:そういえば、同名のダムは岐阜県加茂郡にもありましたね(参考)。
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なんだろうね…深田公園の地中ダム

2022-12-26 07:04:36 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。いや〜、グーグル先生の地図を見ていたら兵庫県三田市弥生が丘(さんだし やよいがおか)の神戸電鉄公園都市線の「フラワータウン駅」近くの深田(ふかたorふかだ)公園に「地中ダム」なるものがあるのを見つけました。地中ダム? なんですか?それは…。気になりますよね。ええ、気になります。というわけで、その実体を探るべく現場に向かいました。

到着してみると、深田公園は新興住宅地の中にあって、公園自体は窪地になっているところにあります。階段を下りて行くと確かに広い公園があるんですが、ダムらしきものは見当たりません。もっとも、地中ダムというくらいですから見えないのは当然なんでしょうけど…。

公園の中で異彩を放っているモニュメントを見つけました。それが「時のプリズム」(1988)と題する作品。作者の新宮晋(しんぐうすすむ:1937- )は大阪に生まれ、東京藝術大学卒業。三田市在住の芸術家らしい。 



これはこれで面白いんですが、ダム巡ラーからすると「いや、目的はこれじゃないでしょ!」と自らにツッコミを入れます。そして、ウロウロと歩いているとこんな案内板を目にしました。どうやら湧き出た水がこの地下あたりに溜まって地下でダムを形成しているらしい。でも何度も書きますがダムは地下にあるので見えません。


結局、訳のわからないまま深田公園を後にすることに…。あとで調べてみるとこの地中ダムはアースダム型式であることが判明。上に示した写真のモニュメントの丁度真下に地中ダムがあるようです(参考)。ただ、このダムがいつ築造されたのかは不明。

正直な感想:「ワシはここへ何しに来たんやろ…」。
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肝心の「ご尊顔」が…青野ダム

2022-12-25 07:08:17 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は兵庫県三田市加茂上平山(さんだし かも かみひらやま)にある武庫川水系の青野ダムを訪れます。アクセスは国道176号の「上井沢(かみいざわ)」信号を東方向へ曲がり、県道308号を道なりに進みます。そして「青野ダム→」の看板のある交差点を入って行くと目的地に到着です。

ダム名は青野川と黒川の合流するところに築造されたことに由来するものと思われます。ダムを築造したことにより出来上がったダム湖の名称は「千丈寺湖」。これはダムの上流にある千丈寺山(せんじょうじさん:標高590m)に由来するもので、ダム完成時の三田市長だった塔下真次(とうしたしんじ:1925-2013/市長在任期間:1979年8月-1999年8月)が命名したという。それを記念するモニュメントが千丈寺湖岸にあります。


モニュメントには「サンクレセント・ドルメン」と記されていて、その下には「湖底に沈んだ歴史のためのモニュメント 昭和62年(1987年)5月」と書かれています。これはどういう意味なんでしょうか。サンクレセント(saint-crescent?)は聖なる三日月、ドルメン(dolmen)は先史時代に作られた巨石墓という意味。つまり、地図で見るとわかりますが、ダム築造で生まれた千丈寺湖の形が三日月の形をしていて、ダム築造により水没した集落の歴史を記憶に留めるという意味で巨石墓という語を当てたのではないかと思われます。

これを制作したのは環境造形Q。環境造形Qは1968年に小豆島で開催された「日本青年彫刻家シンポジウム」がきっかけで共同プランニング・制作による都市空間の創出を目指して結成された組織。各地にモニュメントを建てていましたが、東京ドームに「ストーンプラザ」(1988年)を制作したのを最後に同年8月に解散しています。(参考

その隣にあるのが、おそらくドルメンと思われます。ドルメンは別名「支石墓」と訳されるように、基礎となる支石を埋葬地を囲むように並べ、その上に巨大な石を載せるという形をとるものだからです。


そこからダム方向に行くと青野ダムの案内板があります。

ダム築造の目的は、洪水調節、流水の正常な機能維持、上水道用水の確保で、

高さ29.0mの直線重力式コンクリートダムだそうです。

そして、築造の経緯は不明ですが、昭和42年(1967年)6月に青野ダム計画が発表され、昭和58年(1983年)10月にダム本体のコンクリート打設開始、昭和60年(1985年)11月に同打設完了。昭和61年(1986年)12月から湛水が開始されます。


その隣には「青野ダム」と刻まれた石碑。

裏側には概要と諸元が記されています。明確に書かれていませんが、おそらく以前青野川の下流で洪水による水害が発生したため水害防止と都市用水を確保するために本ダムは築造されたもののようです。そして昭和57年(1982年)12月にダム工事に着手し、昭和62年(1987年)3月に完成したとあります。さらに築造により湖底には家屋87戸が沈み、田畑と山林の215ヘクタールが水没したそうな。


石碑からダム方向を見ると何やら公園があり、

所定の時間になるとアーティスティックな噴水を見ることができます。写真では分かりにくいですが、実際に見ると面白いですよ。


で、この先にダムがあります。行ってみましょう。


ダムの手前にあるこの建物は「兵庫県阪神北県民局 青野ダム管理所」。



その近くには生野ダムでも見かけたのと同じロボットのような物体が。ん?何か書いてあります。読んでみましょう。

これはタイムカプセルで、青野ダム建設に関する様々な資料を「未来への手紙」として後世の人々に残す目的で作られたものだそうです。ただ、気になるのは「昭和63年(1988年)3月に完成」とありますが、上の石碑の記述と1年違うんですけど、どういうことなんでしょうねえ。


タイムカプセルの隣には「青野ダム定礎」と刻まれた石碑。昭和59年(1984年)8月とあります。

詳しくは1984年8月30日に定礎式が行なわれたんですね。ふむふむ。


で、その先が青野ダムになります。ようやくダムに来たという感じです。そこから千丈寺湖を見るとこんな感じ。


一方、ダムの下流側の様子です。


対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。


千丈寺湖側から見たダムの様子。


このブログをいつもご覧の皆様なら、あれ?いつもとパターンが違うぞ!とお気づきのことかと思います。そうです!「ご尊顔」がありません。いや〜、実を言うと下流側に下りて行けば「ご尊顔」を撮ることができるかなと右岸側から下りて行ったのですが、道はあるもののその先は関係者以外立入禁止なのでした。というわけで、撮影できず。

ごめんちゃい。
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こりゃまた…山田ダム

2022-12-24 07:01:51 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県三田市高次(さんだし たかすぎ)にある武庫川水系の山田(やまた)ダムを訪れます。アクセスは国道176号の「高次」信号を南下し、最初の一時停止を左折。道なりに進み、山田川を渡る手前の二又を左へ。そのまま行くと目的地に到着します。

ダム名は山田川を堰き止めて築造したこと、もしくはダムの下流の地名(山田)に由来するものと思われます。

【三田の由来】(参考
さて、「三田」と書けば一般的には「みた」と読むと思いますが、この地域では「さんだ」と読みます。その由来について調べてみました。有力な説としては三田市の金心寺(こんしんじ:三田市天神3-28-45)に安置されている弥勒菩薩坐像の胎内に「当地一帯を松山の庄と号す、これを金心寺恩田・悲田・敬田の三福田をもって三田と改む」と刻まれていることに由来するそうな。

三福田とは釈迦が親切にすべき相手について説明する際に三つの田んぼを用いて例えたものを言います。その三つの田んぼとは恩田(世話になった人)、悲田(困っている人)、敬田(尊敬に値する人)のこと。

三田の由来については別の説もあります。本来この三田地域には「みた(屯田、御田、深田)」と呼ばれる地名があったそうです。ところが安土桃山時代、淡河三津田城(おうごみつたじょう)の城主である有馬則頼(ありまのりより:1533-1602)が「みつた」と「みた」は紛らわしいから「三田」は「さんだ」と読むようにせよと命じたというのがその始まりというもの。地元が発行した『三田市史』はこちらの説を採用しているようですが。

【高次の由来】(参考
ついでに「高次」の由来についても調べてみました。地元の言い伝えによると、この地には大きな杉の木があったことから「高杉村」と呼ばれるようになったそうですが、その後「高杉」の「杉」が「次」に変化して「高次村」と表記されるようになったとか。でも、なぜ「杉」が「次」に変化したのかはわかりません。

ま、そんなわけで上に示したルートで来るとダム下に到着します。しかし、三田市の水道用地のため残念ながらこれ以上近づくことはできません。もちろんダム横へ行く道もないので貯水池の様子もわからず…。



足元を見ると流れ出た水が心地よい音を立てていました。


下流方向の景色。これが山田川。


それにしても案内板などがないのでダム自体の情報はありません。ダム便覧によれば高さ15.8mの重力式コンクリートダムだそうですが、一体このデータはどこで入手したものなんでしょうね。ダムカードもないようだし。(参考

そういえば同名表記のダムは和歌山県紀の川市千葉県南房総市にもありましたね。まあ、よくある名前っちゃあ名前なんですからあちこちにあっても不思議じゃないですけど。
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素敵な文化財!…千苅ダム

2022-12-23 06:51:33 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県神戸市北区道場町生野(どうじょうちょう いくの)にある武庫川水系の千苅(せんがり)ダムを訪れます。アクセスは国道176号「道場東」信号を「JR道場駅」方面へ曲がり、県道327号を道なりに行くと道場駅が左に見えるのでその先を左折。すぐ福知山線の線路を越えて右折し、しばらく行くと千苅ダムの駐車場があるのでクルマはそこへ停めます。

これがダム下から見た「ご尊顔」。これね、実際に見ると感動しますよ!


さて、駐車場に到着したはいいんですが、入口と思われる門扉が堅く閉ざされています。ありゃ、万事休すか?


…と思いきや、ふと傍を見ればこんな表示が。なるほど、羽束川(はつかがわ)沿いに歩いて行けばいいのか。じゃあ行ってみましょう。


フェンスに沿って道があるので進んで行きます。


もう少しかな?


まもなく上に挙げたような光景がドーンと現われます。その写真はダム下にある「せんがりはし」から撮ったもので、この橋は大正8年(1919年)5月に架けられたようです。「架」っていう表現は面白いですね。



橋の欄干には何やらありますね。

1998年12月25日に文化庁による登録有形文化財に登録されています。(参考

また2009年2月23日にはこの千苅橋とともに近代化産業遺産に認定されているそうな。


右岸側にはダム横へ通じる階段があるので登ってみます。いや〜、大正期に築造された典型的な石積みの美しいダムです。


ダム横に到着。ご覧のようにダム上に行くことはできません。


そこから見た貯水池の様子です。


そして、下流側を見下ろすとこんな感じ。


右岸、ダム横には「天助人」と記されたプレートが嵌め込まれたモダンなデザインの碑があります。そこには大正7年(1918年)と書かれていて、ダム下の「せんがりはし」の前年に設置されたもののようです。ちなみに「天助人」の出典は、中国、北宋期(977-984)に著された1000巻からなる類書(いわば百科事典みたいなもの)である《太平御覧》(983年編纂)の中の《兵部十八》の《機略六》の《後魏書》。


その下部にはいかにもモダンな神戸だなあと思わせる横文字の記載。そこを見ると工事開始(Commencement)が1914年6月で、竣工(Completion)が1918年12月とあります。

さらにその下には昭和4年(1929年)4月から同6年(1931年)3月にかけて水道拡張工事が行なわれ、堰堤の高さを20尺増し、貯水池の容積を倍にしたことが記されています。


千苅ダムは、さすが登録有形文化財に指定されるに相応しい素晴らしい築造物で、観光名所として是非とも訪れて欲しい場所だと思います。いや〜、すごいわぁ。
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斑状歯対策として…川下川ダム

2022-12-22 07:02:11 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は兵庫県神戸市北区道場町生野(どうじょうちょう いくの)にある武庫川水系の川下川(かわしもがわ)ダムを訪れます。アクセスは国道176号の「道場東」信号から県道327号へ入り、そのまま道なりに進んでいくと目的地に到着します。ただし、この県道327号は場所によってすれ違いが困難なほど狭いところがあるので要注意。

ダム名は文字通り川下川を堰き止めて築造されたことに由来するのですが、築造の背景にはなかなか深刻な問題があったようです。というのも、下流の西宮北部と宝塚市では昔から歯の表面に褐色の斑点やシミが生ずる斑状歯(はんじょうし)の人が多数おり、当時はその原因が不明で一種の風土病とされていました。ところが戦後すぐに宝塚市内の飲料水を分析したところ高濃度のフッ素が検出されます。そこで宝塚市は従来市が所有する水源をやめ別の水源の確保を検討したのですが、人口の急増によって水道の使用量が増大し、時には断水するほどの状態であったためフッ素濃度の高い水を供給し続けるしかなかったそうです。

しかし1971年に宝塚市内の歯科医が児童の中に斑状歯が多数見られると指摘。これを受けて飲料水のフッ素濃度問題が再燃します。そこで調査を開始したところ川下川のフッ素濃度が低いことが判明。これにより新たな水源として川下川に注目が集まり、そこにダムを築造することになったようです。ほぉ〜、なるほどね。

そうこうするうちに川下川ダムの右岸に到着しました。右岸から見たダムの様子がこちら。上のリンク先によれば中心コア型ロックフィルダムで、高さが45.0m。1977年4月より運用開始だそうです。


洪水吐は右岸側にあり、形状は扇型。増水時になると水はここから溢れ出て、


この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。


右岸の県道沿いには「川下川ダム」と記されたモニュメントのようなものが。

別の面には諸元が刻まれています。それによると1972年11月2日に着工し、1977年3月31日に完工したとあります。


で、これがダム上なんですが、ご覧の通り「関係者以外立ち入り厳禁」の表示があり、もちろんガッチリと施錠されているのでその先に行くことはできません。もっとも、水道局が管理しているダムは大抵そうなんですけどね。

鉄柵の向こうに見える建物には「貯水池管理室」の表示が。


フッ素には虫歯を予防する効果があると言われますが、だからといって盲目的に使用すれば良いわけじゃない。何事にも適量というのがあり、過剰摂取は身体に毒なのだということを教えてもらった気がします。
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うんざりな日とくらぁ!…一庫ダム

2022-12-21 07:17:38 | 兵庫(ダム/堰堤)
雑誌の特集記事の執筆は思った以上に大変。はぁ〜、やっと終わった。

どーも、ワシです。今回は兵庫県川西市一庫唐松(ひとくら からまつ)にある淀川水系の一庫ダムを訪れます。アクセスは国道173号の「井補野(いほの)」信号を一庫ダム方向(県道604号)に入り、すぐのトンネルを抜けた先に目的地があります。

まずは左岸から見た「ご尊顔」をご覧ください。


では、順を追って見ていきます。上に書いたアクセス方法で来ると一庫ダムの右岸に到着します。その右岸の駐車場には「一庫ダム周辺案内」があります。


駐車場に面した壁にも案内板があります。

「建設事業の効果」とは、言うなればダムの目的のことで、洪水調節、不特定灌漑、新規利水を目的として築造された多目的ダムというわけです。

諸元表も記されています。

ダムの工事は1976年12月に着工され、1982年3月に竣工。ダム築造にあたり32戸が湖底に水没したそうな。


一庫ダム管理所は右岸にあります。水資源機構が管理しているダムなんですね。



ダム上は県道604号で、意外に交通量があるので右岸側から撮るのは断念しました。で、ダム上に面したところには「一庫ダム 建設の碑」や、

ダム本体にも諸元が記されたプレートが嵌め込まれています。


上にも書いた通り、ダム上の県道604号の交通量が多いため歩行者は狭い歩道を進むことになります。で、まずはダム上の中央付近から見たダムの真下の様子。

そして、下流側の遠景はこんな感じ。


左岸に来ました。その斜面には「水・人・自然の調和を目指す一庫ダム」の文字。このアピールの仕方は水資源機構ならではのやり方ですね。


左岸からダム上を見ると、こんな感じです。歩道の幅の狭さ、わかりますか?向こうから来た人とやっとすれ違うことができるくらい狭いです。


左岸、ダム湖側から見たダムの様子。


右岸に戻るため、今度はダム湖側の歩道を進みます。そしてダム上、中央から見たダム湖の様子です。


右岸に戻ってきました。ダム本体に嵌め込まれた「一庫ダム」のブレートの上にダム湖百選の文字を発見。ああ、ダム湖名は知明湖というんですね。


その近くに知明湖(ちみょうこ)についての案内板。説明によるとこのダム湖を知明湖と命名したのは1966年から1990年まで川西市長を務めた伊藤龍太郎(1911-没年不明)で、ダム湖に映る知明山(ちみょうやま:標高349m)にちなんでいるそうな。なお、知明山はダム上から見た上の写真だと左奥に見えるのがそうです。この知明山は多田銀山として知られ、また古くは奇妙山とも呼ばれていたそうな。そして奈良時代に東大寺大仏を建立する際、聖武天皇の夢の中に伊勢皇大神が現われ、この奇妙山で産出する銅を使うようにとのお告げがあったという言い伝えがあるんだとか。ほぉ〜。


さて、右岸、知明湖に面して建っているこの建物は展望台らしい。登ってみます。

展望台から見た一庫ダムの様子。


訪れた日、阪●ピクニックとかいう団体がダムの周囲をゾロゾロと歩いていました。その案内人の誘導する声がほとんど罵声に近く、閉口しながらの見学に。何もそんなに怒鳴らなくたっていいのにね。
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サブがメインの忘年例会

2022-12-18 07:07:34 | 脳みその料理
どーも、ワシです。今年最後の例会をしました。いつものメンバーに加え、今年の御柱祭で世話になった梃子長を再び招いての宴。このところ急に寒くなってきたので「おでん例会」にしようと目論みます。ただし、おでんはワシの中では料理ではないので(つまり、出汁に具材を放り込んで煮たものという認識)、それとは別にアテを作りました。その全景がこちら。


鳥の唐揚げ、海老の天ぷら、自家製シュウマイ、出汁巻、二種の刺身の漬け、ポテトサラダ、小松菜と油揚げの煮浸し。

これらを前座の料理として提供し、この後にメインのおでんを登場させて満腹にさせる作戦でした。みんな、年の割に食うのでこれくらいの量は楽勝だと思ったのです。

ところが、これらを平らげた頃、「さあ、いよいよメインのおでんだゾ!」と告げるや、
「おいおい、まだあるんかよ!」「作り過ぎだゾ!」と、お叱りの数々。うーむ、せっかく5時間もかけて煮込んだ「名作」なのにこの言われようです。

当初の予定ではおでん鍋を中央にドーンと置いてみんなでつつくつもりでしたが、こんなイベントをしてもあまり喜ばれそうにないと判断。それでも食べてもらいたいのでセレクトしたものを中くらいの鉢に盛って提供しました。

で、結果として前座として提供した料理がメインになってしまうという摩訶不思議な現象が…。

ちなみにおでんの写真はありません。想定外の結果に驚いて、ただ単に撮るのを忘れただけなんですけどね。

まあ、でもみんな元気で今年も乗り切ることができました。来年も定期的に集まろうと思います。
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正しい表記は…東山中谷砂防えん堤

2022-12-17 07:05:15 | 大阪(ダム/堰堤)
えー、どーも、ワシです。グーグル先生の地図を見ていたら、大阪府池田市東山町(ひがしやまちょう)に淀川水系の東山砂防ダムというのがあるので行ってみることにします。アクセスは国道423号の「東山」信号を南東方向へ曲がり、道なりに細い道を登っていくとあるようです。一体どんなダムなんでしょうね。

まずは「ご尊顔」をご覧ください。確かに典型的な砂防ダムです。


…と、まあ簡単に紹介しましたが、実はここへ行くにはクルマでは行けません。たぶん4WD車でも難しいと思います。なので、フツーのクルマはこの辺りに停めて、そこからは歩いてダムへ向かいます。


このあたりはまだ道らしきものがあるんですが、さらに進むと…。


いや、もう、これ、斜面を登る感じ。ここからダムはなんとなく見えてくるんですが、なかなか険しい状態。


上の写真のところを登りきるとダム下に近くなるんですが、そこからダム下へは行けません。なぜなら強烈なヤブがあって先へ進めないからです。じゃあってんで、ダム横へ行ってみることに。でも、その道は石ころだらけで油断すると足を取られます。細心の注意を払いながら登ります。


おー、もう少しでダム横。頑張ろう!


やっとの思いでダム横に到着。しかしご覧の通りフェンスがあってダム上に行くことはできません。く〜っ。


右岸、ダム横から下流側を見るとこんな感じ。遠くに池田市の街並みが見えます。ということはそこそこの高さまで登ってきたということでもあります。


ダム本体にはプレートが嵌め込まれています。そこには「東山中谷砂防えん堤」の文字。あれれ、地図の表記と違うぞ。でも目的地は間違いありません。ということはグーグル先生の地図の表記が間違っているということですね。写真ではうまく撮れていませんが、完成は平成28年5月。高さは14.5mなのでダムの定義からするとダムではなく砂防堰堤でありプレートの表記が正しいことになります。


ダム横に辿り着くまではなかなか大変でした。でも正確な表記を知ることができ、心地よい「冒険」になりましたよ。

疲れたけど。
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いつ名称変更された?…箕面川(治水)ダム

2022-12-16 06:58:54 | 大阪(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は大阪府箕面市箕面(みのおし みのお)にある淀川水系の箕面川ダムを訪れます。アクセスは国道171号の「豊川1丁目」信号を北方向へ曲がり、府道4号(茨木能勢線)を道なりにどんどこ進みます。するとT字路になるので「勝尾寺」方向へ左折。そのまま府道43号を進み、国道423号を潜ってからT字路が出てくるので「高山」方向へ曲がります。そして「箕面隧道」というトンネルの手前を入っていくと目的地に到着します。

【箕面の由来】(参考
さて、関西圏以外の人には珍しい箕面という地名ですが、その由来を調べてみました。今回訪れるダムの南西方向に落差33mを誇る箕面大滝というのがあるんですが、そこから流れ落ちる様子が農業で使用される箕(みの)のおもて面に似ていることから箕面大滝と呼ばれるようになり、その箕面がそのまま地名になったそうな。

ま、そんなわけで箕面川ダムが見えてきました。なかなか大きなダムです。


隧道の手前を左に入ってくと最初に目にするのがこの建物。どうやら箕面川ダムの管理所らしい。なんか不思議なフォルムです。


さらに進むとダム横になるんですが、その近くには「箕面川ダム付近案内図」があります。

治水を目的とするダムで、昭和57年(1982年)に完成したとあります。



その側には「箕面川ダムの案内」。

諸元表。高さはなんと47.0mもあるんですね。


これがダム上。ご覧の通り、車両も余裕で通行できます。


ダム上、中央付近から見た下流側の様子。写真だと平らに見えますが、斜面に沿って撮っているので実際にはそれなりの傾斜があります。写真中段左側に見えるのは洪水吐からの水路です。

そして、少し目線を上げるとこんな景色。


対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。


右岸、下流側から見たダムの様子。


右岸にある「定礎」の碑。昭和54年(1979年)7月23日とあります。あれれ、ここでは「箕面川治水ダム」の表記になってますね。


近くにある石碑。読みにくいですが、ここでも「箕面川治水ダム」と刻まれています。

その裏には昭和57年(1982年)5月竣功と記されています。ちなみに平成5年(1993年)には環境賞を受賞(参考)。


「みの於や万 雲かけつくる峯の庵(いほ)ハ 松のひびきも手枕(たまくら)のし多」と書かれた歌碑。作者は『方丈記』でおなじみの鴨長明(1155-1216)で、出典は『夫木抄(夫木和歌抄:ふぼくわかしょう)』の巻二十:雑二(参考)。『夫木抄』は、奈良時代末期に編纂された『万葉集』以後に作られた和歌のうち、勅撰和歌集に採録されなかった17,387首を集めた全36巻からなる巨編で、鎌倉時代後期の1316年頃に編纂された私選和歌集。編者は遠江国榛原郡(現在の静岡県牧之原市)の武士で勝間田城主でもあった勝間田長清(かつまたながきよ:生没年不詳/藤原長清ともいう)。


右岸にも箕面川ダムの案内板があります。こちらにはダム築造の経緯が記されています。そのきっかけとなったのは昭和42年(1967年)7月に北摂地域を襲った集中豪雨で、これを機に洪水調節と河川維持用水の補給を目的とするダムの建設が開始されたそうな。



その近くからダムを見ると、こんな感じ。

向こうに見える管理所は本当にユニークな形をしています。

そして、左岸側には洪水吐が見えますね。


この周辺道路沿いには立ち入らないためのフェンスがビッチリと張られているので、実際にはフェンス越しに景色を見ることになります。でも、ダム上から貯水湖はほとんど見えません。写真がないのはそういう理由です。

それにしても築造時には「箕面川治水ダム」だったのが、いつから「箕面川ダム」に名称変更されたんでしょうね。なんか、それが気になります。
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これを見たからには…三宝ダム

2022-12-15 07:19:25 | 兵庫(ダム/堰堤)
いや〜、来年の5月末に名古屋で行なわれるコンサートに出ることになってしまいました。うーん、どうなることやら…。

どーも、ワシです。今回は兵庫県丹波市春日町上三井庄(たんばし かすがちょう かみみのしょう)にある由良川水系の三宝(みたから)ダムを訪れます。アクセスは県道69号(春日栗柄線)沿いに「三宝ダム」の表示があるので標識に従って進みます。そして県道709号(中山綾部線)を道なりに行くとまたまた「三宝ダム」の表示があるのでそのT字路を入って行くと目的地に到着します。

【三宝ダムの由来】(参考
ところで、ダム名の由来が気になりますよね?ええ、調べてみましたよ。三井庄地区の伝承にこんなお話があるそうな。「井」は井戸などの水源を意味し、「三井」は三つの井戸のこと。同地区には岩井、浅井、今井という3つの井戸があり、井戸に雨乞いをすると慈雨に恵まれたそうです。だから昔から生活に欠かせない水は畏敬と感謝の対象とみなされ「宝」と呼ばれていました。そこで三井庄の宝にしたいという地元住民の願いによって「三宝ダム」と命名されたのだそうです。

さて、まずはダム下へ行き、「ご尊顔」を拝むことにしましょう。横長のダムなので画面に入りきりません。


常用洪水吐の下のところです。ご覧のように渇水の際には庭園のような姿が現われます。


ダム横へ向かいます。最初に目に入るのが「兵庫県柏原土木事務所 三宝ダム管理所」。



近くには三宝ダムの概要が書かれた案内板があります。

ダムの「位置」が「氷上郡春日町上三井庄」になっていますが、氷上郡(ひかみぐん)は2004年11月1日にそこに属する6町(柏原町[かいばらちょう]、氷上町、青垣町[あおがきちょう]、春日町、山南町[さんなんちょう]、市島町[いちじまちょう])が合併して丹波市となったため、同日消滅しています。なので、現在の地名は冒頭に示したものとなります。


その案内板付近からダムを見ると、こんな感じ。


右岸、下流側から見たダムの様子。


右岸、ダム横にはモニュメントのようなものが…。三本の石柱は三宝を表現しているのでしょうか。


では、ダム上を歩いてみましょう。


ダム上、中央から見たダム湖の様子。


一方、ダムの真下はこんな感じ。高さは35.1mなのでほとんど恐怖を感じません。

そして、下流側の遠景。


対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じです。


ダム本体に嵌め込まれた「まつ」と「さつき」のプレート。これらは旧春日町の町木と町花です。


左岸、下流側から見たダムの様子。


「三宝ダム 定礎」の石碑。1993年5月。ダムの完成は1995年(参考


左岸、ダム湖側から見たダムの様子。


ダム本体に嵌め込まれた「ノジギク」と「クスノキ」のプレート。これらは周辺に群生する植物と思われます。


リンク先のダムカードの記載によると、三宝ダムは地域に密着した局地的な治水・利水対策を目的とするわが国で最初に完成した小規模生活ダムだそうです。小規模生活ダムといえば、以前訪れた富山県の大谷ダムもそうでしたね。ちなみに小規模生活ダム建設事業は1988年に国の補助事業として始まり、建設採択第1号は大谷ダムでしたが、それが完成したのは1998年なので実際には三宝ダムが小規模生活ダムとして完成した第1号になるのです。

ほほぉ。
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