ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

正しい表記は…東山中谷砂防えん堤

2022-12-17 07:05:15 | 大阪(ダム/堰堤)
えー、どーも、ワシです。グーグル先生の地図を見ていたら、大阪府池田市東山町(ひがしやまちょう)に淀川水系の東山砂防ダムというのがあるので行ってみることにします。アクセスは国道423号の「東山」信号を南東方向へ曲がり、道なりに細い道を登っていくとあるようです。一体どんなダムなんでしょうね。

まずは「ご尊顔」をご覧ください。確かに典型的な砂防ダムです。


…と、まあ簡単に紹介しましたが、実はここへ行くにはクルマでは行けません。たぶん4WD車でも難しいと思います。なので、フツーのクルマはこの辺りに停めて、そこからは歩いてダムへ向かいます。


このあたりはまだ道らしきものがあるんですが、さらに進むと…。


いや、もう、これ、斜面を登る感じ。ここからダムはなんとなく見えてくるんですが、なかなか険しい状態。


上の写真のところを登りきるとダム下に近くなるんですが、そこからダム下へは行けません。なぜなら強烈なヤブがあって先へ進めないからです。じゃあってんで、ダム横へ行ってみることに。でも、その道は石ころだらけで油断すると足を取られます。細心の注意を払いながら登ります。


おー、もう少しでダム横。頑張ろう!


やっとの思いでダム横に到着。しかしご覧の通りフェンスがあってダム上に行くことはできません。く〜っ。


右岸、ダム横から下流側を見るとこんな感じ。遠くに池田市の街並みが見えます。ということはそこそこの高さまで登ってきたということでもあります。


ダム本体にはプレートが嵌め込まれています。そこには「東山中谷砂防えん堤」の文字。あれれ、地図の表記と違うぞ。でも目的地は間違いありません。ということはグーグル先生の地図の表記が間違っているということですね。写真ではうまく撮れていませんが、完成は平成28年5月。高さは14.5mなのでダムの定義からするとダムではなく砂防堰堤でありプレートの表記が正しいことになります。


ダム横に辿り着くまではなかなか大変でした。でも正確な表記を知ることができ、心地よい「冒険」になりましたよ。

疲れたけど。
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いつ名称変更された?…箕面川(治水)ダム

2022-12-16 06:58:54 | 大阪(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は大阪府箕面市箕面(みのおし みのお)にある淀川水系の箕面川ダムを訪れます。アクセスは国道171号の「豊川1丁目」信号を北方向へ曲がり、府道4号(茨木能勢線)を道なりにどんどこ進みます。するとT字路になるので「勝尾寺」方向へ左折。そのまま府道43号を進み、国道423号を潜ってからT字路が出てくるので「高山」方向へ曲がります。そして「箕面隧道」というトンネルの手前を入っていくと目的地に到着します。

【箕面の由来】(参考
さて、関西圏以外の人には珍しい箕面という地名ですが、その由来を調べてみました。今回訪れるダムの南西方向に落差33mを誇る箕面大滝というのがあるんですが、そこから流れ落ちる様子が農業で使用される箕(みの)のおもて面に似ていることから箕面大滝と呼ばれるようになり、その箕面がそのまま地名になったそうな。

ま、そんなわけで箕面川ダムが見えてきました。なかなか大きなダムです。


隧道の手前を左に入ってくと最初に目にするのがこの建物。どうやら箕面川ダムの管理所らしい。なんか不思議なフォルムです。


さらに進むとダム横になるんですが、その近くには「箕面川ダム付近案内図」があります。

治水を目的とするダムで、昭和57年(1982年)に完成したとあります。



その側には「箕面川ダムの案内」。

諸元表。高さはなんと47.0mもあるんですね。


これがダム上。ご覧の通り、車両も余裕で通行できます。


ダム上、中央付近から見た下流側の様子。写真だと平らに見えますが、斜面に沿って撮っているので実際にはそれなりの傾斜があります。写真中段左側に見えるのは洪水吐からの水路です。

そして、少し目線を上げるとこんな景色。


対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。


右岸、下流側から見たダムの様子。


右岸にある「定礎」の碑。昭和54年(1979年)7月23日とあります。あれれ、ここでは「箕面川治水ダム」の表記になってますね。


近くにある石碑。読みにくいですが、ここでも「箕面川治水ダム」と刻まれています。

その裏には昭和57年(1982年)5月竣功と記されています。ちなみに平成5年(1993年)には環境賞を受賞(参考)。


「みの於や万 雲かけつくる峯の庵(いほ)ハ 松のひびきも手枕(たまくら)のし多」と書かれた歌碑。作者は『方丈記』でおなじみの鴨長明(1155-1216)で、出典は『夫木抄(夫木和歌抄:ふぼくわかしょう)』の巻二十:雑二(参考)。『夫木抄』は、奈良時代末期に編纂された『万葉集』以後に作られた和歌のうち、勅撰和歌集に採録されなかった17,387首を集めた全36巻からなる巨編で、鎌倉時代後期の1316年頃に編纂された私選和歌集。編者は遠江国榛原郡(現在の静岡県牧之原市)の武士で勝間田城主でもあった勝間田長清(かつまたながきよ:生没年不詳/藤原長清ともいう)。


右岸にも箕面川ダムの案内板があります。こちらにはダム築造の経緯が記されています。そのきっかけとなったのは昭和42年(1967年)7月に北摂地域を襲った集中豪雨で、これを機に洪水調節と河川維持用水の補給を目的とするダムの建設が開始されたそうな。



その近くからダムを見ると、こんな感じ。

向こうに見える管理所は本当にユニークな形をしています。

そして、左岸側には洪水吐が見えますね。


この周辺道路沿いには立ち入らないためのフェンスがビッチリと張られているので、実際にはフェンス越しに景色を見ることになります。でも、ダム上から貯水湖はほとんど見えません。写真がないのはそういう理由です。

それにしても築造時には「箕面川治水ダム」だったのが、いつから「箕面川ダム」に名称変更されたんでしょうね。なんか、それが気になります。
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歴史的価値があるかも?…寺ヶ池

2022-08-31 06:57:20 | 大阪(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回はダム便覧に出ていた大阪府河内長野市木戸町(かわちながのし きどちょう)にある大和川水系の寺ヶ池を訪れます。アクセスは国道310号近くの南海高野線「千代田駅」の南西にある寺ヶ池公園の北端になります。

見えてきました。これですね。左岸側に洪水吐があるようです。



左岸、貯水側から見たダム上。向こうに高層マンションが見えますが、そうです、ここは市街地の中にあるんです。だから感覚的には、とてもダムとは思えません。写真左下に見えるのが洪水吐。



左岸、ダム横から見たダム上。手前の橋の下が洪水吐からの水路。



池が増水すると、先ほどの洪水吐から溢れた水はこの水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



ダム上にはいくつかの石碑があります。一番左岸寄りにあるこの碑は「寺ヶ池築造350年記念碑」。平成11年(1999年)建立。寺ヶ池は、もともとこの地にあった寺ヶ池という小さな池を河内長野の庄屋である中村輿次兵衛勝直(なかむらよじべえかつなお:1600/01-1670)が妙法寺平(現在の千代田駅北側)に新田開発をするために改築を発案したもので、1649年に完成したものらしい。(参考



これは「須田翁頌徳碑」。須田翁とは誰ぞ? 調べてみるとここがまだ千代田村だった頃の村長、須田孝なる人物の功績を讃えたものらしい。大正11年(1922年)に建立されたそうな。(参考)なお、この千代田村の名称は大正天皇(1879-1926)の即位(1912)にちなみ江戸城(現在の皇居)の別名である千代田城に由来するもので、千代田村は1916年4月1日より市新野村(いちしのむら)から改称して発足し、1940年6月1日、長野町(ながのちょう)に合併するまで存在していました。



少し中央寄りには3つの石碑が並んでいます。向かって右にあるのは「祐和碑」。「祐和」とは上に記した中村輿次兵衛が隠居後極楽寺に入った際の名前(号)。そこには輿次兵衛の功績が記されています。石碑は明治22年(1889年)に建立され長らく中村家の前にあったものをここへ移設したという。真ん中にあるのは昭和14年(1939年)に樋管伏替工事を行なった際の記念碑。木製の樋からコンクリート製のものに交換したらしい。



そして左にある石碑は「寺ヶ池改築記念碑」。これは昭和44年(1969年)に改築工事を行なった際のもの。


ダム上、中央から見た寺ヶ池の景色。



同、下流側の様子。ご覧の通り、近くは住宅地。



対岸(右岸)に来ました。振り返ると、おじさんが歩いています。そう、ここは近所の人たちの散歩道でもあるようです。



実際に行ってみると街の中にある大きな池という印象ですが、調べてみるとそれなりに意味のある池であることがわかりました。なるほど、なるほど。
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2つの市の水がめ…滝畑ダム

2022-08-30 06:56:22 | 大阪(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は大阪府河内長野市滝畑(かわちながのし たきはた)にある大和川水系の滝畑ダムを訪れます。アクセスは国道170号から「滝畑」方面へ行くと目的地の左岸入口に到着します。

ダム横へ行く前に下流側から見た「ご尊顔」をまずご覧ください。形状からすると治水ダムのようですね。



ダム横へ向かいます。府道218号沿いに「←滝畑ダム管理事務所」の看板があるのでそこを入って行きます。管理事務所の手前には駐車場がありますが、開門時間は9:00から16:00までなので要注意。それ以外の時間帯に来ても入れないし、当然その奥にあるダムも見ることはできません。

これが管理事務所、正しくは「大阪府南河内農と緑の総合事務所 滝畑ダム分室」。ダムはその奥にあります。





ダムへ行く途中には…おっ、ここにも大阪府みどりの百選の石碑が。「滝畑ダムと四十八滝」はその59番に登録されています。滝は今の所あまり興味がないので行きませんけどね。



水利使用標識です。当該ダムは河内長野市と富田林市(とんだばやしし)へ水道用水を供給する目的で築造されたもののようです。



その横には防災ダムでもあるんだよとアピールする看板。



左岸のダム横に来ました。ダム本体には「昭和55年(1980年)3月竣工」「滝畑ダム」のプレートが嵌め込まれています。あれ?上のリンク先を見ると「昭和48年(1973年)に着工し、昭和57年(1982年)3月に完成」とありますが、ここでいう完成はダム全体の完成を指しているんでしょうか。たぶん、そうなんでしょうね。





ダム上を歩きます。中央から見た貯水側の景色は、こんな感じ。



一方、ダムの真下とその遠景です。リンク先の諸元表を見ると、滝畑ダムの高さは62mで、大阪府内のダムでは最も高いそうな。なるほど、確かに目がクラクラします。





ダム上の欄干には即席で作ったような案内板があります。なんと、Youtubeでダム見学ができるそうな。またそのサイレン音も聴けるらしい。ほぉ〜。



対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。見た感じではアーチ式のダムのようですが、リンク先の説明によると構造的には曲線重力式コンクリートダムだそうです。



右岸、貯水側から見た様子。



その右岸にはこんなモニュメントが…。一体誰がどんな意図で制作したんでしょうね。説明がないのでわかりません。



実はここを訪れた時間が閉門時間近くだったので慌てて見学したんですが、駐車場に戻って来たら既に閉門時間が過ぎていました。こりゃマズイぞと思いつつ門に向かうと職員の方が門を半分開けたまま待っていてくれました。いや〜本当に申し訳ない。
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永遠の楽園?…永楽ダム

2022-08-29 06:56:12 | 大阪(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は大阪府泉南郡熊取町久保(せんなんぐんくまとりちょう くぼ)にある見出川(みでがわ)水系の永楽ダムを訪れます。ダム名はその上流に永楽池というのがあり、それにちなんで付けられたようです。永楽とはその谷に住む人々がこの先ずっと楽しく暮らせるようにという意味らしい(参考)。アクセスは県道62号の「永楽ダム」「永楽ゆめの森公園」の看板のあるT字路を入り、さらに「熊取永楽墓苑→」の表示のあるやはりT字路を道なりに進んで行きます。そして阪和自動車道の松原那智勝浦線を潜ってさらに行くと目的地の左岸側に到着します。

まずはダム下から見た「ご尊顔」をご覧ください。もっとダムに近づきたいのですが、行けるのはここまで。写真手前に見えるのは熊取町永楽浄水場の管理棟(だと思う)。この場所へ行くには上で紹介したルートとは別の道から行くのですが、道が細いので要注意です。



さて、左岸側の道を登って行くと有料駐車場の先にダムへの入口があります。ただしクルマは入れないのでそこからは歩きとなります。その途中には大阪みどりの百選の石碑。永楽ダムは96番に登録されています。



さらに進むと「永楽ダム事業概要」を記した石碑。ちょっと南国の佇まい。農業用水と上水道用水のためのダムで、着工は1958年4月で、竣工は1968年3月とあります。一番上のリンク先には1965年着工と記され、またダム便覧を見ると竣工は1967年と書かれています(参考)。でもこの石碑の記述が正しければどちらも間違いなのは明らかですね。





そして、これがダム上です。本体には「永楽ダム」と「昭和43年(1968年)3月竣功」のプレートが嵌め込まれています。







ダム上、中央から見た貯水側の景色。いや〜、素敵な色じゃないですか!



一方、ダムの真下はこんな感じ。



そして、下流側の遠景。



対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



右岸、貯水側から見たダムの様子。



この周辺には1,000本の桜の木があるそうで、その時期になると多くの人が訪れるようです。なるほど、だから有料駐車場があるのか…。しっかり金儲けしてまんなぁ。
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熊取町で遭遇した「1号治山ダム工」

2022-08-28 07:09:39 | 大阪(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は大阪府泉南郡熊取町久保付近を走っていて遭遇した築造物のご紹介。当初目指していた永楽ダム(次回の記事で書きます)の左岸側の道をうっかり行き過ぎてしまい、しばらく上流方向へ行ったところにこんなものが…。木材で作られたような砂防堰堤のようです。



近づいてみると、大阪府が平成30年度の治山事業として築造した「1号治山ダム工」と記されています。



いわゆるダム横から見た様子。コンクリートをベースにして表面に木材を貼っているんですね。



築造物の真ん中に来ました。そこから上流側を見ると、こんな感じ。ちょっとした沢があるようですね。



下流側の真下の様子。



そして、下流側の様子。向こうに見えるのが永楽ダムの左岸からの道。



いや〜、他府県においては谷止工や床固工といった類いのものは探し始めるとキリがないので、できるだけスルーしているのですが、見えてしまったものは仕方ありません。とりあえず「こんなものがあるよ」というご報告を。
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平っぽくなってるけど…稲倉池

2022-08-27 10:24:54 | 大阪(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は大阪府泉佐野市日根野字稲倉(ひねの あざ いなくら)にある樫井川(かしいがわ)水系の稲倉池を訪れます。アクセスは府道62号沿いにある「泉佐野カントリークラブ」の看板のある変則的T字路を入り、そのまま道なりに進むと到着します。この看板のところには何と「稲倉池専用道路」なる小さな石碑もあるんですよね。残念ながらその写真を撮るのを忘れましたが。

右岸に到着しました。右岸側には越流式の洪水吐があります。



これが、いわゆるダム上になります。写真下方に見える橋の下は洪水吐から溢れ出た水の水路で、



その水はあちらへ流れてゆきます。



ダム上、中央から見た稲倉池の様子。



一方、下流側の景色。あれれ、全然高さがありませんね。グラウンドになっています。ダム便覧によると高さは32.2mとありますが(参考)、グラウンドはダム上よりも少し低い位置にあります。これはどういうことなんでしょうか。おそらく稲倉池が築造された後、ダム下に盛り土をしてそこをグラウンドにしたのではないかと考えられます。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。グラウンドの高さがダム上とさほど違わないのが分かりますね。



そこから見た稲倉池の景色です。



稲倉池のダム横は狭く、駐車スペースがありません。なのでダム横へ行く手前のスペースに停めることをオススメします。そこには「天恵遺勒」と刻まれた石碑があります。天の恵みは勒(くつわ)を残す? うーん、どういう意味なんでしょうね。典拠は不明。





ダム横付近に稲倉池に関する案内板はありませんでしたが、先ほど来た道の途中にこんなマップがありました。



静かな良いところです。
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赤が目印!…新滝ノ池

2022-08-26 08:18:38 | 大阪(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は大阪府泉佐野市上之郷(いずみさのし かみのごう)にある樫井川(かしいがわ)水系の新滝ノ池を訪れます。アクセスは関西空港自動車道の上之郷インターチェンジの近くにある「泉佐野丘陵緑地」の西側の外周道路を進み、阪和自動車道を潜って行くと到着します。

しかしダム横へは直接クルマで行くことはできません。手前のところでクルマを置いて歩いて行きます。



ほんの少し歩くとダム横に到着します。これが右岸から見たダム上。



ダム便覧の表記は「新滝の池」ですが、現場にある石碑の表記は「新滝之池」。



ところがダム本体に嵌め込まれているプレートの表記は「新滝ノ池」。表記がもうバラバラ。統一せねば…。よし!この記事では このプレートの表記に合わせることにしましょう。1995年2月竣工。



洪水吐は右岸側にあります。それにしても赤く彩られたダムは珍しいんじゃないでしょうか。それもレンガっぽく。



洪水吐から溢れ出た水は、この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



ダム上、中央から見た貯水側の景色。



左岸近くから貯水側を見ると、こんな感じ。



対岸(左岸)に来ました。振り返るとダム上がアーチ状になっているのが分かりますね。



左岸、貯水側から見たダムの様子。この赤、なぜか印象に残りますね。



左岸の道を上流方向へ行くと東屋があるんですが、そこからダムを見ると、こんな感じ。



「新滝之池」の石碑を見ると、横山ノック(1932-2007)が大阪府知事時代(1995-1999)に築造されたことが分かりますが、この石碑の名前は赤くなっています。墓石の慣例と一緒にして良いのかは分かりませんが、名前を赤くするのはその人が存命であることを示すもの。でもノックさんはもう亡くなっているので白字にしたらいいのにと思うのはあくまでワシの個人的見解です。
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緑、緑、緑!…堀河ダム

2022-08-24 07:17:58 | 大阪(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は大阪府泉南市信達童子畑(せんなんし しんだちわらづはた)にある男里川水系の堀河(ほりご)ダムを訪れます。ダム名は上流にある堀河谷(ほりごだに)を堰き止めて築造したことに由来すると思われます。アクセスは府道63号沿いにある「紀泉わいわい村」の看板のあるT字路を入り、すぐ左折。そのまま道なりに進んで行くと到着です。

到着しました。これですね。



右岸、ダム横の山側には環境美化と地域文化の向上を目的とした「せんなんミニ・ルネッサンス」運動の一環として泉南市内の中学校の美術部の生徒たちが制作した壁画が並んでいます。



しかし、どこにでもバカはいるもので、心ない落書きがされていて台無し。なんでこういうことをするかね。



同じ右岸のダム側には「堀河ダム竣工記念」と刻まれた石碑があります。



その中央には堀河ダム築造の経緯が記されています。転記すると次の通り。

「古来水資源の不足に悩まされて来た当泉南地区は、昭和31年町村合併に伴い地元産業の発展と住民繁栄のため、水の確保が必須の条件であり、当時の町長喜納朝則氏は昭和34年に堀河ダム建設促進委員会を設置し、多年の念願であった建設計画を具体的に進め、昭和37年4月より大阪府営事業として着手。翌38年11月泉南町土地改良区を設立して本事業の推進が計られた。
 この間久しきに亘り土地改良区理事長上林久雄氏をはじめ、役員各位の献身的な努力と地元の協力は幾多の困難を克服して昭和45年(1970年)に竣工した。
 茲に関係各位の労を感謝しその業績を永く後世に傳えるものである。
  昭和47年9月 泉南市長 浅羽富造」



ん? これは?「大阪みどりの百選」とありますね。調べてみると平成元年(1989年)2月、大阪府民に大阪を代表するみどりの景観を募集したところ257,000を越える投票が集まり、その中から100箇所を選んだものらしい。この堀河ダムは94番にあります。



近くには「堀河ダム」と刻まれた石碑がなんらかの力が加えられたのか破損しています。痛々しい限り。



これが右岸から見たダム上。行ってみましょう。



ダム上、中央から見た貯水側の景色。



ダムの真下の様子。



そして下流側の遠景。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



左岸、上流側から見たダムの様子。



同、下流側から見ると、こんな感じ。



周りにはこれだけ木があるので「ご尊顔」を拝むのは難しい。なんとか見えないかなと撮影ポイントを探していると左岸の下流側に架かる赤い鉄橋から撮ることができました。



ネットでここを検索してみると堀河ダムは妊婦の霊が出る心霊スポットだとか、今年6月19日にはダム湖に入って溺れそうになった子供を助けようとした男性が亡くなる事故が起きています。そうしたことからここはマイナスなイメージがあるのかもしれません。でも溺死事故はダム湖に入らなければ起きなかったわけだし、昼間に行けば霊に出くわすこともないでしょうから一度行ってみることをオススメします。まさに緑がたくさんあって良いところですよ!
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楠畑の砂防ダム

2022-08-23 06:59:52 | 大阪(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は大阪府泉南市楠畑(せんなんし しんだちくすばた)に男里川(おのさとがわ)水系の楠畑川砂防ダムというのがあるようなので行ってみました。アクセスは府道63号の「楠畑」の表示のあるT字路を入り、そのまま進んで行くとあるようです。

楠畑川に沿って細い道を進み、舗装路をどんつきまで行くとそれ以上はクルマで行くことが不可能。そこからは歩いて未舗装のこんな林道を進みます。いや〜、本当にあるんかいな…。



しばらくしてダム横に到着。右岸から見ると、こんな感じ。



上流側から見た様子。



ダム上を歩いてみます。中央から上流側の下を見下ろすと、こんな感じ。水はありませんでした。



上流側の景色です。木しか見えません。



一方、下流側のダム下の様子。



そして下流側の景色。集落が山の中に埋もれている感じ。



ダム上、中央から右岸を見ます。



ここで、ふと疑問。果たしてこのダムは目指していた楠畑川砂防ダムなんだろうか…と。というのも概して砂防ダム本体にはダム名が記されたプレートが貼られているんですが、ご覧の通りダムの周囲には木が多くプレートの有無すら確認できなかったからです。改めてグーグル先生の地図で確認すると楠畑川砂防ダムは先ほど見た集落を山のほうへ行ったところにあるじゃないですか。なぬっ、それが本当だとしたら、目の前にあるこの砂防ダムはなんなんだ?

とりあえず歩いて集落のほうへ行ってみました。ところが確かに細道はあるのですが、その道は家と家の間の軒先を通る感じで居心地が悪い。不審者がいると通報されてもおかしくない状況。別に悪事を企んでいるわけじゃないんだから気にしなければ良いだけなんですが、なんとなく気が引けてそれ以上進むのをやめました。

…というわけで、楠畑川砂防ダムが確認できないまま退散。

(おまけ)
その集落を歩いていたら子ダヌキが水道管をぶらさがりながら遊んでいるのを目撃。なんとも微笑ましい光景でした。

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珍しいフォルム!…泉南農業公園調整池

2022-08-22 06:57:41 | 大阪(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は大阪府泉南市信達岡中(せんなんし しんだちおかなか)にある男里川(おのさとがわ)水系の泉南農業公園調整池を訪れます。ここはダム便覧に掲載されていますが(参考)、高さが14.9mなので定義上はダムではなく堰堤になります。でも、そのフォルムがなかなか珍しいので行ってみることにしました。アクセスは阪和(はんわ)自動車道の泉南インターチェンジを下りて府道63号を岩出方面へ左折し、最初の信号を右折して上っていくと目的地は左側になります。

堰堤のユニークなフォルムというのが、これ。う〜ん、これは透過型なのかなぁ。



横から見ると、こんな感じ。ただし、堰堤は道から低いところにあるのでその上に行くことはできません。



これは一体なんだろうか…。



で、洪水吐はどこかなとウロウロしていると、府道63号方向へ下ったところの貯水池(?)の隅にありました。

その貯水池の様子がこちらで、



その中央には取水設備があります。



洪水吐は右岸側にあって、増水すると水はここから溢れ出て、



この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



この調整池がどのような経緯で築造されたのかはわかりません。周囲に案内板がないからです。でも、まあ、堰堤を見るだけでも訪れた意味がありました。
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改修以前が知りたい!…大谷池

2022-08-21 06:59:49 | 大阪(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は大阪府阪南市自然田(はんなんし じねんだ)にある男里川(おのさとがわ)水系の大谷池を訪れます。アクセスは府道257号沿いの「DAIHATSU シバノオート」のところのT字路を入って行くと右側に阪南市立老人福祉センターがありますが、目的地はその先です。

到着しました。これが左岸から見たダム上。



そのすぐ傍には「大谷池改修碑」。そこには着工は1969年10月で、1972年3月に竣工したとありますが、これはあくまで改修工事に関する情報で、大谷池そのものはそれ以前からあったようです。ダム便覧によると「1700年代に築造された溜池」と記されていますが、その出典は不明(参考)。また大谷池と命名された経緯もわかりません。



いわゆるダム上、中央から見た貯水側の様子。



一方、下流側はこんな感じ。



洪水吐は右岸側にあります。増水時になると水はここから溢れ出て、



この水路を通って、あちらへ流れてゆきます。



対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。写真のガードレールの下が洪水吐の水路。



ここは市街地のちょっとした高台なのでダムという感じではありません。おそらく近隣の人たちからすると「大きな池」という認識だと思います。だからワシが池の付近をウロウロしていたら福祉センターの職員らしき人にジロジロ見られたのも無理はありません。もっとも、悪いことをしてるわけじゃないので気にしませんけどね。

はっはっはっ。
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51の尊命と引き換えに…鳥取池

2022-08-20 06:53:24 | 大阪(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は大阪府阪南市桑畑(はんなんし くわばた)にある男里川(おのさとがわ)水系の鳥取池(とっとりいけ)を訪れます。アクセスは国道26号から株式会社センエイエンジニアリングを目指し、さらにその道を進んで行くと到着します。

【鳥取池の由来】
池の名前は現在の阪南市一帯がその昔は和泉国日根郡鳥取郷(いずみのくに ひねぐん とっとりごう)と呼ばれていたことに由来するもので、鳥取郷という地名は平安中期の承平(じょうへい)年間(931-938)に学者で、三十六歌仙の一人である源順(みなもとのしたごう:911-983)が編纂した『倭名類聚抄』に初めて登場するそうな。(参考

そんなわけで、鳥取池の右岸に到着しました。しかしダム上は自動車通行禁止なのでクルマは手前の駐車スペースに停めて歩いて行きます。



ダム横には「紀泉高原国有林案内マップ」。



そこからダム上を見ると、こんな感じ。



ダム上、中央には「鳥取池管理塔」。ここは阪南市が管理しているんですね。





ダム上、中央から見た貯水側の様子。



ダムの真下を見ると…。



そして下流側の遠景です。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



帰途につこうとクルマを停めたところまで戻ると、山側に何やら石碑のようなものが…。



「水難者慰霊之碑」と刻まれています。



その裏側には次のような文言が刻まれています。転記すると、

「鳥取池は大東亜戦争中物資が窮乏の秋の建設にして昭和27年7月11日当地を襲える未曾有の豪雨に脆くも決潰(けっかい)し多数の田畑家屋を流出し桑畑字民51名の遭難者を出す凄惨言語に絶し慟哭悲愁の声未だ耳底を去らず嗚呼哀(し)い哉。爾来挙村一体鋭意災害対策を講じ孜々(しし)復旧に邁進する五星霜幸に政府並に大阪府の援助を得て鉄筋の堰堤を築造す人為の最善を盡し以って災害の絶無を期す近代式池塘近郊其比を見ず茲年鳥取池の再築に当り謹みて遭難諸賢の芳名を録し恭しく在天の尊霊を弔す希くば永久に鳥取池を護持せられんことを。
  巍々たる堰堤 世を益し民を利す
  山は高く水は清。千古霊を慰めん
昭和33年3月上浣(上旬)」

補足説明すると、鳥取池は灌漑用のダムとして男里川上流の井関川を堰き止めて昭和19年(1944年)に着工し、昭和23年(1948年)に完成します。ところが昭和27年(1952年)7月10日、朝から降り続いた雨は昼から豪雨となり、各地の河川が氾濫。翌11日になった頃、ついに鳥取池が決壊。下流の桑畑地区では小学生6名を含む51名が犠牲となりました。鳥取池はその後昭和29年(1954年)から復旧工事に着手し、昭和33年(1958年)に完成しています。(参考

「水難者慰霊之碑」の横には犠牲となった51人の名前が刻まれています。合掌。



鳥取池へ行く手前には緑地や桜の園があるようですが、周囲は木に覆われていて「ご尊顔」を拝むことはできません。
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