ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

一石二鳥?

2011-08-18 04:15:22 | 回想する脳みそ
以前、旧友に会った話をしましたね。そのうちのひとりとは中学時代からの付き合いで、甲子園に出場したこともあるナイスガイ。おっさんになった今でも野球への情熱は衰えていません。もっとも、現在は選手ではなく指導者として活躍していますが。

奴には今でも感謝していることがあります。それは基礎体力を作るきっかけを与えてくれたこと。あれは確か中学1年の秋頃。夕方、奴がワシの家にやってきました。

「突然どうした?」
「いや、体力作りをしようと思って家から走ってきたんだよ」
「ほぅ」

奴とワシの家の距離は約5km。決して近い距離じゃありません。そして、

「よかったら一緒に走らないか?」
「おお、いいね。やろう、やろう!」

てなわけで、その日から1年ほど天候に関係なく毎晩2人で走り続けました。基本は奴がワシの家に来て、今度は奴の家まで一緒に走るというもの。要するに毎日約10kmを走っていたわけです。

慣れれば意外にラクなんですよね。だから毎晩走れたのかもしれません。

その甲斐あって、それまでは年に一度は風邪を引いていたのが、そのランニングをしてからは健康そのもの。おっさんになった今でも医者にかかったことはありません。たぶん、あの時の「貯金」が現在も残っているのでしょう。

と、まあここまではカッコイイお話のように思えますが、実は走る「動機」は別のところにありました。もちろん基本のコースは走るのですが、いつも寄り道をしていたのです。

当時、我々は想いを寄せている女の子がいて、毎晩ランニングのついでにその子たちの家の前まで行くというコースを走っていたのでした。となると10km+αの距離になります。無論、家を見るだけで満足。呼び鈴を押してピンポン・ダッシュなんてしません。あぁ、純な少年時代でした。

それはさておき、今にして思えばあの時に体力作りをしていて良かったとつくづく思います。体力がなければ気力も続きませんし、思うような仕事もできないからです。動機は多少不純だったかもしれません。でもあのランニングがなければ今のワシはなかったといっても過言ではありません。
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M先生のこと

2010-01-25 04:07:05 | 回想する脳みそ
記憶は何かを呼び寄せるんでしょうか…。

前回、若い頃の話を書きました。そこで記した学校では大勢の先生に世話になったのですが、なかでもM先生の授業は常にスリリングで面白かった記憶があります。

もっとも、M先生の授業は音楽学習の入り口付近でウロウロしている我々には高度すぎるものでした。和声も対位法も大して身に付いてない学生にオーケストレーション(管弦楽法)の実習やらアーティキュレーションの課題などを容赦なく与えるのです。「わかりません」などと言おうものなら鋭い眼光が矢のように飛んできました。

また、ある時、ワシが授業の始まる前に教室のピアノで暗譜したばかりのシェーンベルクの《ピアノ組曲》op.25を弾いていたところを見られてしまいました。その直後の授業ではそれについて何も触れませんでした。ところがホッとしたのも束の間、後日ピアノを専攻する学生たちを前にした授業で、突然ワシが呼び出され

「じゃ、お前、あのシェーンベルクの曲、弾いて!」

と命令。今でこそこの作品は学生の間ではポピュラーになっていて、大して珍しいものじゃありません。しかし当時は違いました。この学校ではピアノを専攻していても多くの学生はシェーンベルクという作曲家の存在や、その作品などをナマで聴いたことがなかったのです。

それにワシの専攻はピアノじゃありません。そんな雰囲気の中で突然弾かされる身にもなってください。もうね、心臓バクバクですよ。

M先生がそうした「イヴェント」を思いついたのは、たぶんピアノの連中に耳慣れない音楽を聴かせて刺激を与えようとしたのだと思います。というのも、ワシが弾き終わると、「なに、あの曲」「へんなの」といった声があちこちから発せられたからです。

ワシに言わせれば「お前ら、専攻してるくせにこんな作品も知らんのか!」とその時にも思いましたからね。たぶん似たようなことをM先生も感じていたのだと思うんです。

そんなことを思い出しつつネットを見ていると思いもよらぬ情報に遭遇。なんとM先生が一昨年の暮れに亡くなっていたことを知りました。その学校を離れてからは全く音信不通だったので、まさに寝耳に水の状態。それに先生とはいえ、年齢はワシより少し上。教わっていた当時、M先生は大学院生でしたからね。

ちょっとショックです。

で、驚いたのは数日前にM先生を追悼する意味での作品展が都内の某ホールで行われていたこと。もちろんその演奏会のことは知らなかったので行くことができませんでした。でも数十年ぶりに今回ふと思い出したのは何かの知らせだったのかもしれません。それが冒頭の一文の意味です。

人は生きていく上で、いろいろな人から刺激を与えられ、それを栄養にして成長していくもの。M先生との付き合いはほんのわずかな時間でしたが、その時の「栄養」が今のワシには大いに役立っています。感謝しなければなあと思いますね。

ありがとうございました。
合掌
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プチ伝説

2010-01-24 04:42:49 | 回想する脳みそ
久しぶりに昔のことを書きたいと思います。若い頃、ワシはある学校の図書館に籠ってひたすら勉強していました。そしてそこに所蔵されている本も多数読んだ記憶があります。

その数年後のこと。その学校で世話になったA先生と呑むことに。当時の思い出などを肴に呑んでいると、先生は苦笑しながら話を切り出しました。

「実はね、あの学校のエライさんが君を専任講師にしろと言ってきたんだよ」
「はあ?」
「ほら、今度あの系列が経営する大学ができるだろ?」
「ああ、そうらしいですね」
「うん、それで君をそこの専任にしたらどうかと…」
「いやいや、それ、荒唐無稽な冗談でしょ?」
「そうだよな。でもエライさんは極めて真顔で提案してきてな」
「ありがたい話ではありますが、私はまだ学生ですよ」
「うん、僕もそうエライさんに言ったさ」
「で、エライさんはどう答えたのですか?」
「『あぁ、そうか…』でおしまい」

一体なぜエライさんがそんな突飛な思いつきをしたのでしょうか。どうやら理由があったようなのです。

つまり「あの図書館であれほど熱心に勉強していた学生は今までにいなかった。そしてそいつは図書館の蔵書をすべて読破した」というのがエライさんの耳にした情報だったのだそうです。もちろんこれには事実と違う情報が含まれています。

確かに勉強はしていましたが、熱心だったかどうかは自信がありません。時々居眠りをしてましたし。それに「蔵書をすべて読破した」というのは明らかにウソです。

このように事実と異なることがいつしか勝手に一人歩きを始め、ワシはついには「開校以来最も勉強した人間」とされてしまったわけです。そして、笑っちゃいますが、伝説上の人物として今でも語り継がれているとかいないとか。

もう一度書きますが、その伝説はかなり事実と違います。当事者本人が言うのですから間違いありません。

まあそうやって伝説というのは作られていくものなのかもしれません。事実をかなりデフォルメすることで虚像というものは作られるのでしょう。歴史においてはそうした虚像が人々を惑わすこともありました。

でもワシのケースなんて歴史上の伝説に比べたら本当に可愛いもんです。事実とは異なってはいますが、この伝説が後輩たちに何らかの目標となってもらえるのなら良しとしましょうか。
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活字中毒

2009-11-04 05:31:32 | 回想する脳みそ
もう30年ほど前の話になりますが、ワシの知り合いに「活字中毒」の人がいました。この人は文字通り「本の虫」で、いつも何らかの書物を読んでいたのを覚えています。もっとも、彼の専攻は哲学。それもウィトゲンシュタイン(1889-1951)の言語哲学なんていう難しいものを研究していたので、たたでさえ浮世離れしていました。

驚きなのはこの人の夢の見方です。普通、夢といえば映像で出てくるじゃないですか。でも、この人の場合は違うのです。なんと夢の中に本が出てきて、それを読むことでストーリーを理解するのだとか。つまり我々が通常見る夢を彼は映像でなく文字を追うことで体験するのだそうです。

こんな人は後にも先にも知りません。ちなみにこの人は大学を出てからしばらく消息不明でした。伝え聞いた話によると、その後庭師になったのだとか。

庭師? こりゃまた意外な職業にと思うでしょう。でもウィトゲンシュタインの生涯を知っていれば全然意外じゃありません。なぜならウィトゲンシュタインも壮年期に庭師をしていたことがあったからです。ということは、この人、かなりウィトゲンシュタインに影響されていたのかもしれませんね。

いや、ウィトゲンシュタインの名言のひとつに

「語り得ないことについて、人は沈黙せねばならない」

というものがあります。だから彼の影響なのか断定してはいけないのかも(意味が違うか…)。

ともかく、ウィトゲンシュタインはその後イギリスのケンブリッジ大学で教えるようになるのですが、他方この人は今どうしているんでしょうか。ちょっと気になるところです。
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おみやげ運搬車

2009-09-15 04:38:38 | 回想する脳みそ
誰だって渋滞にハマるのは好みません。むろんワシだってそうです。でも世の中にはその渋滞の実態調査をするために敢えてハマる仕事もあります。今回はそんなお話をしましょう。

少し前に旧日本道路公団関係の運転手をしていたという記事を書きましたね。その時に経験したお話です。

高速道路には利用者のために施設があります。サービス・エリア(SA)やパーキング・エリア(PA)がそうです。当時これらの施設は道路施設協会という組織が管理していました。

で、ここのエライさんは定期的に各SA・PAを視察します。ワシがたまたまヘルプで呼ばれたのは東名高速道路でした。当時関東圏において東名の管理範囲は東京インターから三ヶ日インターまでの片道250km。この間にある各SA・PAをひとつひとつ寄っていきます。

もっとも、これが通常の日ならいいんです。往復500kmそこそこの距離なんて大したことないですからね。でもワシが行ったのは年末の帰省ラッシュの時期。ええ、どう考えても渋滞に突入するのは必至でした。ヘルパーはこういう役回りなので仕方ないんですが、やっぱり心は重いですよ。

当日は早朝6時に部長の家に迎えに行き、いざ出発。案の定、道路は渋滞。その苦痛に耐えながら各SA・PAに寄ります。視察するといっても、担当部長は各レストランや土産物店に挨拶する程度です。別にクレームをつけるわけじゃありません。

面白いといってはなんですが、各施設の責任者の対応がみな同じなのには笑ってしまいましたね。彼らからすれば、

「東京からエライさんが来た! 決して粗相のないようにせねば!」

という感じなのでしょう。これらの施設は地元の業者が請け負っていますから、本部から視察が来たとなれば一大事というわけです。なので、部長に対してはとびっきりの笑顔で迎えます。部長のほうも慣れたもので、「ほうほう、そうですか、そうですか」のセリフのみ。

各責任者の共通の対応はほかにもあります。視察を終えてクルマに乗り込む前に彼らは必ず「おみやげ」を持たせてくれるのです。もちろん部長にですよ。

これがひとつふたつならいいんですが、港北PAから始まって浜名湖SAまで片道だけで14もあるわけです。先にも書きましたが、我々は往復するんですから結局28の施設に寄るんですよ。寄るたびに「おみやげ」をもらうわけです。

ご想像の通り、行程が終わりに近づくにつれてクルマのトランクは「おみやげ」で満載になります。あの時は確かトランクに収納しきれず助手席にも積み上げた記憶が…。え? 後部座席には置かないのかって? 置けないですよ。だって部長が横になってるんですから。

こうしてひとまわりしてくると、乗用車はさながら貨物車みたいになります。なんかね、まるで悪代官が商人から上納金をまんまとせしめてきたような感じです。

それにしても、こんなに「おみやげ」をもらっても困るのにね。まあ、すべては協会連中の胃袋に収納されたのでしょうけど。

ちなみに、この時東京へ到着したのは深夜の24時でした。そしてどこかの施設のまんじゅうをもらった記憶があります。今もこんなこと、してるんでしょうかねえ。
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湯飲みの思い出

2009-08-18 05:21:13 | 回想する脳みそ


唐突ですが、これはワシが愛用している湯飲みのひとつ。確か、これ萩焼だと思います。使用するたびに湯飲みの表面の色が変化するんですよね。どのように変わるのかは予想できません。だから面白いんですけど。

これは学生時代にやっていたバイトの時に偶然もらったものです。そのバイトというのは、かつての日本道路公団の傘下にあった会社に出向して役員クラスの車両を運転するドライバーの仕事でした。この会社はあちこちにありまして、それぞれに正職員のドライバーが常駐しているんですが、その職員が急用で休む時にワシはヘルプとして駆り出されていたわけです。

で、今回のケースは東名の足柄サービスエリアがリニューアルするので、その打ち合わせに行くから運転しろという突然の命令でした。この仕事は当日の朝に行き先が告げられます。それが普通なので別に驚きません。まあ、タクシーみたいなもんだと思ってください。

最初はてっきりそのサービスエリアに行くものと思っていました。「こりゃ今回は東名一本だな。うっしっしっ。楽勝、楽勝」と思いながら東名を下っていると後部座席の部長が

「あ、運転手さん、大井松田で降りてね」
「は、はい、わかりました…」

あれれ、足柄はその先なのになぜ手前のインターで降りるんだろう。とりあえず指示されるままにR246を下って行きました。

すると途中から脇道へ行けとの指示。ますます理解できません。でも部長は自信たっぷりに指示するのでその通りに行きました。しばらく行くと、

「あ、この家だからクルマ止めて」
「は、はい…」(この家?)

つまり打ち合わせというのは、その家の人が同サービスエリアのリニューアルに関係していて、そのお宅で打ち合わせをするというものだったのです。

ワシは運転手ですから部長に同行するわけにはいきません。なので打ち合せが終わるまで車中で待機です。これがね、いつ終わるかわからないので困るんです。居眠りするわけにもいきませんから。

一時間ほどして部長とその家人が一緒に戻ってきました。「ああ、見送るつもりなんだな」と思っていると、その家の人は部長にお土産を渡した後、「あ、運転手さんにはこれを差し上げます」といって、この湯飲みを手渡されました。

でも、なぜ湯飲みなんだ?

もとの道を戻りながら考えていましたが、さっぱりわかりません。すると、部長はワシの疑問を察したかのように後部座席から

「あの人は萩焼の陶芸家なんだよ」
「ああ、そうなんですか」
「今回のリニューアルの展示にあの人の作品を使わせてもらおうと思ってね」
「はぁ…」
「でも、運転手の君にまでお土産をくれるなんて、あの人、どうしたんだろうな」
「といいますと?」
「今まで運転手に何かをあげたことなんてなかったからなあ」
「はぁ…」(そう言われてもな…)
「たまたま機嫌が良かったんだろ。まあ、よかったじゃないか!」
「はぁ…」

平凡なひとつの湯飲みですが、以上のようなストーリーがあったというお話でした。
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電磁波は心を振動させない?

2009-07-26 03:30:42 | 回想する脳みそ
唐突ですが、今回は電子レンジのことを書いてみようと思います。ワシにとって電子レンジといえば青春時代の思い出と結びついています。本題に入る前に、ちょっと回想させてください。

上京して2年目、ワシは大家さんの二階に下宿していました。食事付きではありませんでしたが、大家さんの奥さんからは時々手作りのおかずをいただきました。そのおかずはいつも奥さんがワシの部屋へもってきてくれたのですが、毎回部屋の戸口にそっと置くだけ。そして廊下で「○○君、食べてね」と一言告げて階下へ降りて行くのです。

直接手渡しすればいいのにと思うかもしれませんが、それは奥さんのワシへの思いやりでした。つまり勉強の邪魔をしてはいけないと思ったのでしょう。このことを思い出すと今も胸が熱くなります。

その優しさの根っこにあったのは今にして思えば「母親と主婦の目線」だったと思います。当時奥さんは還暦を過ぎた頃で3人の息子さんを立派に育て上げ、悠々自適の生活をされていました。だから奥さんにしてみればワシは4人目の息子みたいなもの。食事は出さないにせよ、気にかけてくれていたんだと思います。

今もそうでしょうが、主婦ならば家族の健康に気遣うもの。となれば身体によくない食べ物を家族に食べさせるわけにはいきません。そのような考えから奥さんは今でいう有機野菜などの情報収集には貪欲で、健康的な食材を常に求めていました。

さらに、奥さんは贅沢とは無縁の生活を送っていました。貧しかったわけではありません。むしろ、そこそこ裕福だったと思います。にもかかわらず無駄なことは一切しませんでした。

「主婦は知恵を出してケチケチ生活をすればいいのよ!」という言葉はちゃんと行動にも表れていたんです。たとえば「暮しの手帖」という雑誌がありますが、奥さんはここの「主婦の知恵」みたいなコーナーだったと思いますが、何度も掲載されたほどですから…。もうね、筋金入りの倹約家です。

やっと電子レンジの話につながります。実はその奥さんは当時「電子レンジは健康に良くないから使っちゃいけないわよ!」と口癖のように言っていたのです。つまり低レヴェルではあっても放射線がここから出るんだから健康に悪いのよ、と。

確かに電子レンジは英語でマイクロウェーヴ・オーヴン(microwave oven)といい、加熱や解凍などを行なう調理器具のことです。その原理はマイクロ波を物質に当てることで電磁波エネルギーが物質に熱を発生させて調理するというもの。調べてみると先に紹介した雑誌では1975年から翌年にかけて「電子レンジ - この奇妙にして愚劣なる商品」という特集を組んでいます。なるほど、奥さんはこれを読んでいたのかもしれません。

それにしても私たちの生活で今や電子レンジは便利な調理器具として普通に使われています。ちまたには電子レンジを使ったお手軽レシピなる本もたくさん出版されていますよね。でも実際のところ電子レンジは人体へ悪影響を及ぼすものなのでしょうか。そんなに危険な器具なら生産中止されていても不思議じゃないと思うんですけどね。

ネットで検索すると電子レンジの危険性について警告しているサイトはいくつもあります。あるサイトでは電子レンジをどうしても使いたければ水蒸気加熱するウォーター・オーブンにすべきと主張しています。苦笑してしまうのは、ウォーター・オーブンなら「ヘルシオ」がオススメと、ちゃっかり宣伝してたりするんですが…。

か、会社の人なんでしょうか?(笑)
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ハーヴィー、墜つ

2009-03-02 17:16:00 | 回想する脳みそ
昨日、CNNのポッドキャストを聞いていたらポール・ハーヴィーの死が報じられていました。ポール・ハーヴィー? 誰?という方もおられるでしょう。この人はいわばアメリカにおける放送の父みたいな存在でですね、若い方はわからないかもしれませんが、声を聞けば「ああ、あの人か」と思いだすことでしょう。

ワシが彼を知ったのはまだ子供の頃でした。当時よくラジオを聞いてましてね、特にFENがお気に入りでした。「AMERICAN TOP40」では最新のポップス・チャート情報が得られましたからね。またウルフマン・ジャックのオッサンの声も印象的でした。

そんな中、確か夕方の番組だったと思いますが、「ポール・ハーヴィー・ニュース」というものがありましてね、いろいろなニュースを聞いたことが思い出されます。短時間の番組でしたが、密度が非常に濃かったことを覚えています。さらに「ザ・レスト・オブ・ザ・ストーリー」という番組では有名人のさまざまなエピソードが紹介されていました。

これらの番組をそれこそ集中して聞いていたおかげで、英語のヒアリング能力は驚くほど向上しました。しゃべくりのほうは今でも大したことはありませんけどね。

それにしても「語り」で人を魅了するって、すごいことですよね。もちろんハーヴィーさんとは面識はありません。ですが、ここに感謝の気持ちを伝えたいと思います。

ありがとう! Mr. Harvey !
安らかにお休み下さい。
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凄い御婦人(下)

2009-02-10 06:19:07 | 回想する脳みそ
(前回からの続き)

そもそもこの方の人生そのものが波瀾に富んでいました。結婚して男児をもうけたものの、まもなく離婚。今でこそ離婚なんて珍しいものじゃなくなりましたが、当時にあって世間からの風当たりは強かったことでしょう。

それでも彼女は負けませんでした。子供を育てるために、なんとキャバレーの経営を始めます。最盛期には20人ほどの従業員を抱えていたそうです。そして驚くべきはその息子さん。なんと現役で東大に入学したのだとか。この御婦人が入院している時、息子は既に大学を卒業し、所帯を持ち、エリート・サラリーマンとして多忙な日々を送っていたようです。

唯一の身内である息子がなぜ見舞いにも来ないんだろうかと不思議に思っていましたが、よくよく聞いてみると、御婦人自らが息子に見舞いに来ることを禁じたのだとか。「見舞いに来る時間があったら仕事をしなさい!」と。御婦人は病で辛い状態にあったはずです。体調が悪ければ悪いほど、人は心が弱くなるもの。そんな時、身内から励ましの言葉があればどれほど心強いでしょうか。にもかかわらず彼女はそうしませんでした。

もちろんこれは母親の息子への思いやりだったに違いありません。息子に心配させまいとする母親の気持ちです。いや、それは痛いほどよくわかります。ですが、体力が弱まり、その上味覚までなくなっている状況で、この心の強さは何なんでしょうか。

そうそう、前回書いた「外泊」の実態を聞いてさらに驚かされました。この外泊というのは実は仕事に行っていたのです。その仕事とは身障者の食事を作ったり世話をするヘルパーなのだそうです。健康な人がヘルパーをするのならともかく、この御婦人は自分がヘルプしてもらってもおかしくない状態なのです。思わず「そんな無理してまで仕事をしなくても…」と言ったところ、彼女は鋭い眼差しをこちらに向けて、

「何言ってるの! 今世話をしている人はね、四肢が使えないのよ!」
「はぁ…」
「私が世話をしてあげなかったら食事すらできないのよ!」

入院の費用を稼ぐために働いていたのも事実だと思います。でも、この人が自身のことを顧みず、むしろ身体の不自由な相手のことを優先させる態度、それは他者への愛があるからこそできることなのではないでしょうか。文字で書いてしまえば簡単なことのように思えるかもしれません。しかし、いざ同じような状況になった時、果たしてどれほどの人がこの御婦人のように行動できるでしょうか。本当に凄い人です。頭が下がります。

(後日談)
放射線治療に辟易していた御婦人はその後ある民間療法と出会いました。そしてその療法によって舌じゅうに広がっていた腫瘍は完全に消失。彼女の主治医は「奇跡としか言いようがない」と首を傾げるばかり。その後退院し、現在も元気で過ごしています。

その療法についてですが、実はワシが紹介したものなんです。従ってその詳細についてはワシが最も熟知しているのですが、ちょっと不明な点や納得できないことがいくつかあるので、ここではご紹介しません。悪しからず。

(了)
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凄い御婦人(上)

2009-02-09 05:35:49 | 回想する脳みそ
あれよあれよという間に前回の記事から一週間あまりが過ぎてしまいました。う~ん、一体ワシは何をしていたのでしょうか。特に忙しかったわけじゃありません。毎月の初めには通常レギュラーで書いている原稿で悩まされるのですが、今回は珍しくお休みでしたし。時間というものが本当に早く過ぎているように思います。ああ、それに前にも書きましたが、爪の伸びる早さが加速しています。みなさん、そんなことはありませんか?

さてさて、本題に入りましょう。今回はちょっと凄い人のことを書きたいと思います。その人と出会ったのはもう10年ほど前のことです。とある病院で知り合ったのですが、その人、ご自身が病気で苦しんでおられるにもかかわらず、とにかく明るくおしゃべりが好きな方でした。

病気といっても決して軽いものではなく、なんと舌ガン。ご承知の通り、舌ガンの治療は通常放射線が用いられます。放射線治療は何回かにわけて行なわれるのですが、治療直後にはヘトヘトになるようです。当時その方はすでに還暦を過ぎていたと思います。年齢的にも体力を消耗する治療なので、いつも陽気なその御婦人もさすがにこの時ばかりは辛そうでした。

端から見ていて特に気の毒だったのは食事の時間です。その治療の影響で味覚がなくなってしまうのだそうです。これは本当に辛いと思いますよ。だって美味しそうに見える食べ物を口に入れても何の味もしないんですから。ただ食べ物が舌に触れる感覚はあるので「何かが口に入っている」ということは本人もわかります。でも、それに味はないんです。

「まるで砂を食べているみたいなのよ!」

切なそうに訴えるその姿に、ワシは何と言って励まして良いのかわかりませんでした。

食べ物に味を感じないのですから、当然食欲なんてわくわけがありません。それについてはわかるような気がします。でも当の本人にしかその苦しみはわからないでしょう。見ていて本当に気の毒でした。

その御婦人の病状はかなり進行していたはずなのですが、なぜか週末になると外泊許可を病院からもらって出かけていたようです。ワシはもちろんその人の身内ではありませんが、「そんな状態で外泊して大丈夫なんだろうか…」と気にかけていました。ただ、この人を見舞う人は一度も来なかったので、当初こちらは勝手に想像し、

「寂しくて、きっと知り合いのところに行くんだろうな…」

くらいに思っていました。ところが何度かお話をするうち、この御婦人が強靭な精神力をもっていることがわかってきたのです。

(つづく)
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想いがつい…

2008-10-21 05:41:09 | 回想する脳みそ
歳を取るのは嫌なものです。昨日の夕飯に何を食ったのかすら思い出せないんですから…。でも不思議なことに昔のことは覚えているもの。なんなんでしょうね、これは。

そんなわけで、今回は遠い昔の高校時代のお話をします。

ある日の数学の授業で「事件」は起きました。この日は代数だか行列だかの授業だったと思います。代数なんてね、ワシのような文系の生徒にはどーでもよいのでした。何しろ大学受験には関係のないものだったんですからね。でもまあ、学校の方針だったのかもしれませんが、文系のクラスでも理系の授業が行なわれていたのです。

そんな、誰も聴きもしない授業ですから、教える先生だって淡々とおざなりに説明するだけ。ワシらのほうはワシらのほうで「よし、この授業は寝るぞー!」と決め込む奴もいれば、他の科目の予習をする奴など、もう「なに?この空間!」てな感じでした。

でも、先生としては生徒とコミュニケーションをとりたかったのでしょうね。そう、あれは「ケーリー・ハミルトンの定理」を説明し終わった時のことです。ここで、ちょっとこれについて説明しておきましょうね。ワシがこれを習った時代には確か「ケイレイ・ハミルトンの法則」と呼ばれていました。まあそれはどうでもいいんですが、意外に知られていないのは、これはハミルトンというひとりの学者の名前ではないということです。

当時ワシも誤解していたのですが、これはアイルランドの数学者ウィリアム・ハミルトン(1805-1865)の四元数の研究に着想を得たイギリスの弁護士で数学者のアーサー・ケイリー(1821-1895)が発見したものだったのです。つまり2人の数学者によって発見された定理というわけですね。ならば「ケーリー&ハミルトンの定理」と表記すればいいのに、実際には「ケーリー・ハミルトンの定理」などと書かれています。うーん、これじゃあ誤解されるのも無理ないわなあ。

え? その定理はどういうものかって? そんなの覚えてないですよ。なにしろ寝てたんですから。

ま、このように様々なリズムによる寝息がさながらミニマル・ミュージックのように聞こえている時でした。先生が突然A君を名指ししたのです。A君はその時、完全に昏睡状態でした。ちょっとヨダレが出ていたかもしれません。そんな状態の彼に先生はたずねました。

「はい、じゃあ、A君、この法則は何と言ったかな?」
「ん? うーん、んぁー?」

もうね、完全に寝ぼけてます。先生はそんなの先刻お見通しなのですが、激怒することなく板書された法則を指して

「ほら、ここに書いてある法則式は何と言うんだい?」

と、優しくA君を諭すように言いました。A君の脳みそはようやく正気に戻ってきたようで、元気よく教室中に響き渡る声で

「はい、それは『ケイレイ・ハルミトンの法則』です!」(一同爆笑)

と、のたまったのでした。なぜ我々が爆笑したのかといいますと、これには理由がありました。当時A君には「ハルミ」という名の片思いの子がいたのです。もしかすると名指しされる直前に「ハルミ」の夢を見ていたのかもしれません。いや、きっとそうでしょう。だから「ハミルトン」を「ハルミトン」といい間違えたのです。どうでもいい情報ですが、この「ハルミ」さん、美人ではありましたが、いささかふくよかな体型だったので、A君はきっとこの法則を記憶する際に

「ハルミ」+「豚(トン)」=「ハルミトン」

と覚えたんだろうなという説がまことしやかに広まったほどです。そんなA君も今ではメタボ真っ盛りの小学校教諭。もちろん奥さんは「ハルミ」さんじゃありません。あー、なんと甘酸っぱい青春時代でしょうか。ちなみに本人に確認しましたが、彼はこの「事件」については全く記憶にないそうです。

でもさ、A君、今頃ワシにピアノを教えてとか言わんでくれよな。そんな太い指だと黒鍵と黒鍵の間に挟まって抜けなくなっちまうぜ(笑)
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おい、キューリ!

2008-01-14 07:50:05 | 回想する脳みそ
ここでいう「キューリ」とは小学校時代の友人のあだ名である。なぜ「キューリ」なのか。他の奴よりもちょっとだけ顔が長かったから。ただそれだけの理由でコイツは「キューリ」と命名された。今そんなことをしたらPTAが黙っていないだろう。でも当時は大らかな時代。きっと本人は不本意だったろうが、周囲の誰もがコイツのことを「キューリ、キューリ」と呼んでいた。もちろん親しみを込めてである。だから問題にすらならなかった。

ある教員から聞いた話によると、最近の小学校では名字(もしくは名前)で呼ばせているという。あだ名で呼び合うと保護者から即座に学校へクレームが来るからなのだそうだ。「なぜウチの子がこんなあだ名で呼ばれなくちゃならないのか! 一体学校は何をしてるんだ!」と。

なるほど、言われてみれば最近の子供たちはあだ名で呼び合うことはしていないかもしれないな。ワシの感覚からすると、なぜあだ名で呼び合わないんだろうと不思議に思っていた。小学生のクセに何か他人行儀な感じがしたからである。もっとフランクな関係になればいいのにと。

それと比べたらワシのガキの頃なんてあだ名は当たり前。いや、今から考えれば「こりゃマズイだろ」というようなあだ名で呼ばれている奴もいた。河童に似ているという理由で「カッパ」とか、目が大きいから「デメ」というのはまだフツーの類い。前述の「キューリ」もここに属する。

ひどいのになるとスポーツ刈りというヘア・スタイルをしているだけで「ハゲ」。実際にハゲてるわけじゃないのに。また鼻が詰まり気味の女の子には「ちくのう」。うーん、間違いなく傷ついていただろうな。

いや、さらにスゴイあだ名を思い出したぞ。

「くにゃにゃう」

何のことだかサッパリわからないと思う。由来はこうだ。ある時、この女子は教室で不覚にも「おもらし」をしてしまった。それも大きなほうである。

周囲には当然ニオイが漂い始める。本人は涙目なのだが、もうどうすることもできない。そのうち誰かが「くさい」と言い始めた。そこで終わればこの子のあだ名は、まあ「クサ子」で済んだだろう(そのあだ名でも相当ショックだろうが)。

ところがそのニオイがかなりキツかったらしく、連想はどんどん発展する。

くさい → 鼻が曲がる → 気が狂う → 頭が腐りそう → 腐っちゃう

子供の想像力とはナント恐ろしいのだろう。途方もない形へ向かってしまう。

しかしこれを命名した奴にもそれなりに良心の呵責があったのだ。あだ名を「腐っちゃう」とストレートに呼ぶのは忍びないと思ったようで、ちょっと可愛らしく、そして元の言葉のニュアンスを残して「くにゃにゃう」と命名。まあ、どんなに変形したところで本人は命名の由来を知っているのだから相当ショックだったとは思う。

いま、彼らはどうしていることやら…。ちなみに「キューリ」は現在、地元の会社で営業の責任者らしい。ふと思い立ってそいつの名前(もちろん本名)で検索してみたら偶然発見。扱っているのは精密機器。やっぱり野菜じゃなかったか。ウソウソ、ごめんよ、キューリ。
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5,000kmという距離

2007-12-21 05:11:31 | 回想する脳みそ
クルマの冬支度(スタッドレス・タイヤに交換)とオイル交換のために馴染みの整備工場に行った。これでいつ雪が降っても大丈夫。いや、どんな雪道に行っても平気。もっとも、道路が凍結していたら、いくらスタッドレスでも歯が立たないけどね。

オイル交換の際、社長がオド・メーターを見て、

「ほぅ、今回は随分と走りましたね。3ヶ月で5,000kmですか」

確かにいつもより多く走ったなとは思う。5,000kmという距離は、それだけを見れば相当の長さのように思う人もいるだろう。でも、モノは考えようである。たとえば東京 - 博多間を往復すれば約2,200kmだ。つまりこれを2往復とちょっと走れば、あっという間に5,000kmになる。そう考えれば5,000kmなんて大した距離じゃない。

もう15年ほど前のこと。面倒な仕事でストレスがピークに達していた。やっとの思いで仕事を終わらせたワシは、ハッと気づくと東名に乗って西へ向かっていた。最初は目的もなく走っていたが、フトその数年前に取材で九州に行ったことを思い出した。そして、何もためらうことなく、目的地は博多に決まる。

博多に何をしに行ったのかって? 決まってるじゃないですか、ラーメンを食いにですよ(笑)取材に行った際にたまたま食ったラーメンの味を思い出したってわけよ。オーバーに言えば「夢よ、もう一度」である。

目的が決まれば、あとは猪突猛進あるのみ。片道約1,100kmをトイレ休憩を除き、ほとんどノン・ストップで走破。そして約13時間後には博多に到着。すぐさまお目当てのラーメンを食った。言葉にならないくらい旨かったのは言うまでもない。

目的を達してしまうと、もう帰ることしか思いつかない。で、また高速に乗って先ほど走って来たルートを戻る。

不思議なもので、帰り道はこんなに東京って遠いのかと思うほど時間が長く感じた。復路も往路とさほど時間的には変わらなかったのに。でも帰らないわけにはいかないので我慢しながら走った記憶がある。

約30時間後には無事東京に帰還。現在ならETCの深夜割引を使えば片道15,000円ちょっとで済むが、当時はまだETCなんてない。支払いはクレジット・カードか、もしくは現金ニコニコ払いである。明確に覚えていないが、たぶん片道23,000円くらいだったと思う。

ということは、往復で高速代(約46,000円)とガソリン代(約30,000円?)を合計すると約76,000円かかったことになる。つまり一杯のラーメンを食うために76,000円を出したわけだ。こんなバカなことをする奴が他にいるだろうか!(いや、いない!)これを書きながら、つくづく自分のアホさ加減に呆れる。でも、当時の意識にはまだバブル的な発想があったんだろうな。

…にしても、自己嫌悪である。

ま、要するに、こんなアホなことを2回もすれば5,000kmなんて、あっという間だよって話なんですよ。もちろん、それ以来ワシは二度とこんな愚行はしてない。え?一晩に200~300kmをいつも走っている奴が何を抜かすかって? ええ、まあそれも愚行と言えば愚行なんでしょうがね(苦笑)
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不思議な縁

2007-08-12 06:20:58 | 回想する脳みそ
今月の6日、作曲家の松村禎三さんが肺炎のため亡くなった。享年78歳だったそうな(参考記事)。その作品を聴いたことはあっても、本人と面識はなかった。しかしワシにとって松村さんは「特別な人」なのである。

さかのぼることウン十年前、まだワシが田舎に住んでいた頃、行きつけの床屋があった。当時ワシを担当していたのは店主の息子。息子といってもその人はワシよりは10歳ぐらい年長のニイチャンだった。だから現在はもうジイサンといってよいほどの年齢だろう。

ワシは昔からそうなのだが、床屋や美容室といったところでは上辺の世間話をしない。親しくなれば相手が仕事中であってもかなりつっこんだ話をする傾向にある。相手は迷惑なのかもしれないが、波長が合う人とはディープな内容であってもかなり盛り上がる。

たまたまそのニイチャンとも波長が合ったのだろう。彼は口数が少ないタイプだったが、ワシとは打ち解けて話してくれた。そんななか、たまたまワシがピアノを習っている話をした時のこと。ニイチャン、突然思い出したように

「あのさ、松村禎三っていう作曲家、知ってる?」と訊いてきた。もちろんクソガキであるワシが知るはずもない。いや、正確に言えばその名前は本などで見たことはあった。だから初耳ではない。しかしどんな作品なのかなんてもちろん知らない。せめて三善か武満クラスならばまだ知っていたろう。とにかく、クソガキにその名前はマニアックすぎたのである。

「うーん、名前ぐらいかなあ、知ってるって言っても」
「そうかぁ…」
「でも、なぜその人のことを?」

当時ニイチャンは東京で理容師の修行を終えて帰って来たばかりだった。東京時代は修行中の身とはいえ酒が好きで、新宿(だったと思う)の行きつけの店に通っていたそうな。で、そこで、やはり常連の松村氏と知り合いになり、酒を酌み交わすほどの仲になったのだそうである。田舎に引っ込んでからもニイチャンはたびたび上京したそうだが、馴染みの店に行くと松村氏がいて、そのたびに膝を突き合わせて酒を飲んでいたらしい。

その話を聞いた当時は「へぇ、そんな有名人と知り合いなんですねえ」という程度の感想しかもたなかった。しかしワシがこの業界で仕事をしている今、改めて「縁」とは不思議なものだなと思う。松村氏とは直接面識はなかったにせよ、氏はいわば知り合いの知り合いなのだから。そんなことなら生前の松村氏に会っておけば良かったなと、ちょっと後悔。

それにしても、ニイチャン、まだ元気でいるんだろうか。次に帰省した折、店に行ってみるかな。でもあそこにはとんでもない悪妻がいるのだ。ブサイクなのは目をつむるとしても問題は腕の悪さ。ニイチャンが忙しい時、この嫁がワシの担当だったのだが、当時、何度コイツに耳を切られそうになったことか…。

「あらー、ごめんねー。ついウッカリしちゃってー(棒読み)」…って、コラ! ワシをゴッホにする気か!

激怒したこと数知れず。

今度行ったら確実にゴッホになるかもしれんな…ひぃぃぃぃぃ
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ドカドカ、ゴリゴリ…

2007-03-24 05:43:40 | 回想する脳みそ
部屋を片付けていたら面白いものが出てきたので、ご紹介。なんと、それはワシが若い時に通ったディスコのカード。今のワシを知っている人はきっと想像できないだろうが、当時はヘヴィ・メタに狂っていたのだ。当然プレイもしていたけれど…。

ディスコといったって、イケイケのネーチャンたちのように踊ることはない。最近の例でいえば、エア・ギターみたいなもの。ただ、ジャンルがジャンルだけに流暢な動きなんてない。重く、しかもキョーレツに速いバス・ドラと、ディストーションを限界までかけまくった、そう、まるでミニマル・ミュージックみたいなギターのリフが延々とゴリゴリ続く。そんななか、入場者は何かの宗教に取り憑かれたかのようにひたすらヘッド・バッキングを繰り返すのだ。

そこは楽しいという空間ではない。爆音に陶酔してはいるが、むしろ修験者の修行のよう。曹洞宗の開祖である道元(1200-53)は只管打坐だったのに対し、我々はひたすら首を振りまくる。「儀式」が終われば当然首には激痛の嵐。でも決して挫けることはない。翌週にはまた参加するのだ。あー、イッちゃってるねえ(苦笑)

こんなアヤシイ「儀式」が行われていたのは新宿の伊勢丹会館にあった「ツバキハウス」というところ。現在はないが、平日は一応フツーのディスコだった(そうだ)。しかし週末ともなるとそこはヘヴィ・メタ野郎どもの「聖地」と化す。

服装は上下レザーは当たり前で、上級信徒になるとさらに肩やら手首周りに画鋲の親玉みたいなものが付いた「礼服」を着用する。うっかり接触しようものなら出血すること間違いなし。最近の過激なメタル・ファッションでは鎖をジャラジャラさせているみたいだが、当時そんなジャラジャラ小僧は少なかったような気がする。

一般の目からすれば異様な光景である。しかしこの空間ではそれが常識。そんな場所へTシャツとジーパンみたいな格好で乗り込んだらどうなるか。もちろん白い目で見られるに決まっている。なんとなれば、ここでは非常識な服装だから。

でもワシはそんなプレッシャーにめげたりはしなかった。見た目だけ「信者ぶっている」奴のほうがよっぽどウソくさいと思っていたからね。因縁をつけられることもあったけど、そんな雑魚はスルー。むしろ最も注意したのは首振りの最中にバランスを崩して画鋲の親玉に触れないこと。だってホントに痛いんだぜ(笑)

写真(上)はカードのオモテ。写真(下)はそのウラ。
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