ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

新成羽川ダムへ流入…湯野ダム

2023-05-31 06:53:44 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は岡山県高梁市備中町西油野(たかはしし びっちゅうちょう にしゆの)にある高梁川水系の湯野ダムを目指します。アクセスは県道438号から入って行くんですが、その入口には何の目印もないので説明するのは難しいんです。しいて言えば白いガードレールのあるところを入って行くって感じ。(説明になってませんね)

とにかく山の中にあるので到達難易度は高いです。で、心細くなりながらも到着。右岸側に洪水吐のあるダムです。

ダム横周辺には案内板などはありません。ただ、県道から入ってしばらくのところにこんな表示板があり、ダム名の由来は湯野地区に築造されたダムということのようですね。

右岸、貯水側から見たダムの様子。

これがダム上です。行ってみましょう。

上にも書いたように左岸側に越流式の洪水吐があり、溢れた水はこの水路を通って、

あちらへ流れてゆきます。その川は正信川(しょうのぶがわ)と言い、昨日記事にした新成羽川ダムへ流れ込みます。

ダム上、中央から見た貯水側の景色。

一方、ダム下はこんな感じ。あの建物は管理所かな?そこへ行く道が険しかったので行きませんでしたが。

対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

左岸から見た貯水側の様子。

同じところから下流側を眺めます。


ダム周辺に案内図はありませんが、ダム便覧によれば高さ20.9m、長さ71.5mのロックフィルダムで、1975年に竣工したと記されています。でも、出典はどこなんだろう。ダム下の管理所らしきところに書かれているんでしょうか。
コメント

上部調整池として…新成羽川ダム

2023-05-30 06:58:48 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は岡山県高梁市備中町西油野(たかはしし びっちゅうちょう にしゆの)にある高梁川水系の新成羽川(しんなりわがわ)ダムを目指します。アクセスは成羽川沿いを走る県道107号を行くと到着します。

これですね。

左岸側には水利使用標識があります。

左岸、貯水側には慰霊碑が…。表側には16人の名が刻まれています。


裏側には「碑文」が記されていて、転記すると

「この地に揚水を採用した発電に合わせ工業用水の安定確保をはかる目的のため、昭和39年8月新成羽川・田原・黒鳥発電所建設の工を起し、今日その完成にいたったが、本工事期間中不慮の災害により表記16柱の尊い殉職者に対しては誠に遺憾にたえない。よってここにこの碑を建立し、殉職せられた諸氏のめい福を祈る。
  昭和44年7月
     中国電力株式会社」

つまり、この慰霊碑は新成羽川ダム(発電所)建設に限らず、下流の田原・黒鳥発電所の建設に際して亡くなられた、いわば合同慰霊碑というわけですね。

その付近からダムを見るとこんな感じ。

これがダム上。行ってみましょう。

ダム本体には「昭和43年(1968年)11月竣工」と記されています。

ダムの中央にある各ゲートに関するプレート。どのゲートも1986年3月とあるのでその時期に改修工事が行なわれたものと思われます。

ダム上、中央から見た成羽川上流方向の景色。これが新成羽川発電所の上部貯水池になっています。

一方、ダムの真下はこんな感じで、高さは103m。

下流側の遠景。この下流に昨日記事にした田原ダムがあり、そこで貯められた水が揚水発電として使用されます。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。当該ダムがアーチ式であるのがわかりますね。長さは289m。

ダム本体に嵌め込まれた「新成羽川ダム」のプレート。

右岸、貯水側から見たダムの様子。

そして、右岸の下流側から見るとこんな感じ。うん、これも絵になります。

右岸、下流側に歩いて行くと管理所らしき建物がありますが、フェンスがあって行けず。


ダム近辺には案内板はありません。ただ、慰霊碑の碑文からわかるのは、当該ダムは新成羽川発電所の上部貯水池で、下流の田原ダムが下部貯水池として揚水発電をするものであること。それにしても、成羽川に設置されている発電所なのに「新」と付くのはなぜなんでしょうね。調べてみると、どうやら新成羽川発電所ができる前に実は「成羽川発電所」というのがあったようで、新成羽川発電所の完成により成羽川発電所は廃止され、現在はありません。(参考
コメント (1)

下部貯水池らしいよ…田原ダム

2023-05-29 06:57:19 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は岡山県高梁市備中町東油野(たかはしし びっちゅうちょう ひがしゆの)にある高梁川水系の田原(たばら)ダムを目指します。アクセスは県道33号から県道107号に入り、しばらく行くと到着します。

到着しました。こんなダムです。訪れた前日までに降った雨により勢いよく放流していました。

県道107号を上ってくるとダムの左岸に辿り着くのですが、左岸側は木がたくさん繁っていてダムがよく見えません。

左岸のダム横近くには水利使用標識があります。発電を目的としたダムのようです。

左岸から見たダム上。

田原ダムが昭和43年(1968年)11月竣工を示すプレート。ちなみにダム名は左岸ダム横の地名に由来します。


ダム上、中央から見た成羽川(なりわがわ)上流方向の景色。

一方、下流側を眺めます。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。写真左側の建物は管理所のようですが、それを示すものはありません。

右岸にも左岸と同じプレートが嵌め込まれています。

右岸、貯水側から見たダムの様子。


現場には何の説明もないのですが、どうやらここは上流にある新成羽川発電所の下部貯水池のようです(参考)。詳しくは次回記事にする新成羽川ダムで書こうと思います。
コメント

名古屋でのサロンコンサート終了!

2023-05-28 06:04:58 | 脳みその日常
どーも、ワシです。昨日は名古屋某所で行なわれたサロンコンサートに出演してきました。そこはビルの一室を改造したもので、キャパは50人ほど。こんなホールです。


慌ただしい中、リハーサルと本番でなんとか終了。お客様も喜んでいただけたようでホッとしました。
コメント

全員主役の例会

2023-05-27 05:10:43 | 脳みその料理
どーも、ワシです。昨晩は例会をしました。今回はある意味、特別で、我々メンバーの区切りの年を祝う会であるとともに、特別参加したS君の慰労会でもありました。慰労会をしたのは彼が昨年若いながらも町内会長を務め上げたことを労うためです。それも昨年は御柱祭があったため例年より大変だったにもかかわらず泣き言ひとつ言わず頑張ったことに対する、いわば感謝の気持ちでお招きしたのでした。

で、今回はワシが作ったアテはこちら。写真上段左から、ポテトサラダ、牛肉と豆腐のみぞれ煮、小松菜と油揚げの煮浸し。下段左から、出汁巻、漬けマグロ、春巻、鳥の唐揚げ、そして鶏胸肉のごまソース。

鶏胸肉のごまソースが今回のメインで、鶏胸肉を摂氏70度で約2時間低温調理をしたものに黒ごまペーストにマヨネーズとケチャップを混ぜたソースをかけてみました。低温調理だと鶏胸肉はふわっと柔らかく、冷めても硬くなりません。ごまソースは色が泥とかセメントのようだな…とはドクターMの言葉。まあ、確かにその通りなんですが、淡泊な味の鶏胸肉にはなかなか合います。


S君は若いのでこのメニューをぺろりと平らげてましたが、我々ジジイは平らげるのに必死。もっとも、食事の始まる前、すでに奴らはビールを2リットルくらい飲んでましたが。それでも前に比べると食が細くなったなという印象でした。まあ、そんな歳だもん、仕方がないね。

さあて、ちょっと仮眠してから名古屋へ向かいます。そう、コンサートに出るため…。うん、頑張ろう!
コメント

黒鳥発電所のための…黒鳥ダム

2023-05-26 06:59:34 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は岡山県高梁市備中町長屋(たかはしし びっちゅうちょう ながや)にある高梁川水系の黒鳥(くろどり)ダムを目指します。アクセスは成羽川(なりわがわ)沿いを走る県道33号沿いにあるので迷うことはありません。

では、右岸から「ご尊顔」を眺めてみましょう。

右岸、ダム横に来ました。

当該ダムは中国電力の黒鳥発電所のために築造されたもので、昭和43年(1968年)11月竣工。リンク先のデータによれば、高さは15.5mで、長さは122.0mだそうです。

ダム名はもちろん同発電所の名称に由来するものですが、そもそもは発電所のある右岸側の地名から命名したもののようです。

近くには水利使用標識と、

義務放流量管理図があります。

では、ダムの管理橋を歩いてみることにしましょう。ダム本体に貼られている洪水吐ゲートのプレート。竣工の二ヶ月前の1968年9月に設置されました。

管理橋の中央から見た成羽川上流方向の景色。

一方、下流側を眺めます。向こうに見える道路は県道33号です。

対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

左岸、上流側から見たダムの様子。

同、下流側からダムを眺めます。


ところで、右岸の県道33号をダム横から少し上流へ行ったところには「頌徳」と刻まれた石碑があります。そこには備中町の初代町長を務めた小田武雄(1908-1989)の功績が綴られています。

小田武雄の経歴についてはネットで検索してもほとんどヒットしないので、碑文を転記しておきます。

「   正六位 初代備中町長 小田武雄之碑
    勲五等
 小田武雄氏は明治四拾壱年壱月壱日旧湯野村大字西山に生まれ早稲田大学を卒業後、兵庫県、厚生省等に勤務の後帰郷され昭和参拾壱年三カ村合併により誕生した備中町(※)の初代町長に選ばれ爾来五期弐拾年の永きにわたりその重任にあたられた。
 氏は温厚誠実、清廉潔白な性格を身上とし洞察力にすぐれ卓抜なる識見と指導力により備中町建設基本計画のもと新町の基盤づくりのため教育施設の整備、農林業等生産基盤の整備 道路網の整備等合併後の地域の均衡ある発展に全力を傾注された
 特に合併時、県下初のブルドーザーの導入による道路網の整備を最重点課題に進められた。
 更に新成羽川ダム 新岡山変電所の建設に際しては企業と関係住民の調整に努め 至難といわれた事業を完成に導かれた。このほか数々の御功績を残し退職された。
 平成元年六月拾七日逝去され国は永年にわたり地方自治の育成発展に貢献された功績により正六位勲五等双光旭日章に叙しその功績を称えた。
 今その徳を偲んで有志相寄り、広く関係者の共鳴を得て頌徳碑を建立し後世にその名を残すものである。
    平成六年拾弐月吉日  備中町長 武並昭二 撰」

(※)備中町は昭和31年(1956年)9月30日に川上郡の富家村(ふうかそん)、平川村(ひらかわそん)、湯野村(ゆのそん)が合併して誕生。その後、平成16年(2004年)10月1日に高梁市、上房郡有漢町(じょうぼうぐんうかんちょう)、川上郡成羽町(かわかみぐんなりわちょう)、川上町(かわかみちょう)との対等合併により新たに高梁市となり現在に至る。

その付近から黒鳥ダムはこんな感じに見えます。
コメント

灌漑に特化!…大竹ダム

2023-05-25 06:57:14 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は岡山県高梁市川上町上大竹(たかはしし かわかみちょう かみおおたけ)にある高梁川水系の大竹ダムを目指します。アクセスは県道294号から本谷川の左岸の道を進んで行くと到着します。

これですね。治水ダムのようです。

ダム上は後回しにして、先に左岸の少し上流側に行ってみます。すると、そこには「県営川上地区かんがい排水事業 竣工記念碑」と刻まれた石碑がありました。

裏側には昭和59年(1984年)6月建立と記されています。

その隣には同排水事業の概要を記した石碑が。これによると、大竹ダムは高さ26.9m、長さ96.8mの直線型重力式コンクリートダムだそうです。

では、ダム上を歩いてみることにします。

大竹ダムは本谷川を堰き止めて築造されたもので、


ダム上、中央から貯水側を眺めるとこんな感じ。

一方、ダムの真下を覗き込み、

下流側の遠景を眺めます。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

こちら側の親柱には「昭和55年(1980年)7月竣功」「岡山県」のプレートが嵌め込まれています。


右岸、貯水側から見たダムの様子。

同、下流側から見るとこんな感じです。

右岸の壁面に目をやると、小さなプレートが…。

近寄ってみると、「大竹ダム 1980年7月 〜」のプレートでした。そんな片隅に貼らなくてもいいのに。なんと奥ゆかしい!


岡山県の県営ダムのようですが、特にこれといった特徴のない治水ダムでした。
コメント (1)

「みどりちゃん」の正体は?…明治ダム

2023-05-24 06:50:10 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は岡山県井原市芳井町池谷(いばらし よしいちょう いけだに)にある高梁川水系の明治ダムを目指します。アクセスは県道9号沿いに「明治ダム 水辺の広場2.8km→」の表示があるT字路を入り梅木川に沿って進んで行くと、今度は「明治ダム 水辺の広場0.4km→」の看板が見えてくるので、そこを入って行くと到着します。

「あれっ、どういうこと?」…これはワシの心の声です。というのも、「大正池」「昭和池」と巡ってきたので今回の明治ダムはさぞや古いアースダムだろうとハナから思い込んでいたからです。思い込みって怖いねえ。

多少頭が混乱しつつ、ダム横に到着。そこには明治ダム周辺案内図がありました。

近くにある石碑。「県営畑地帯総合土地改良事業 明治地区 竣工記念碑」と刻まれています。

石碑のショルダー部分には「平成九年三月建立」の文字。なんだかオシャレですね。

裏側には概要が記されていて、同事業は岡山県が主体となり、工事は昭和49年(1974年)から平成8年(1996年)にかけて行なわれたもので、明治ダムは高さ33.4mとあります。

そこから見た明治ダムの様子。前日まで降っていた雨の影響で水は黄土色に濁っていました。

この土地改良事業は農水省の補助事業でもあり、ダム名が明治なのは、ここが明治地区だからのようです。明治とあればどうしても明治時代をイメージするし、明治時代に築造されたダムと思っちゃいますよね。もちろんこれも先入観なんですが…。

明治ダム計画概要。諸元の項目の「位置」を見ると「後月郡芳井町池谷地内」とありますが、後月郡(しつきぐん)という名称は大宝律令(701年)以後には既に存在していたようで、1878年に郡区町村編成法の施行により行政区画として後月郡が発足。そのエリアは現在の井原市のそれに相当していました。しかし2005年3月1日に芳井町が井原市に編入したことにより後月郡は消滅しています。つまりダムが完成した時期、ここはまだ後月郡芳井町だったというわけです。

では、ダム上を歩いてみることにしましょう。

定礎は1989年5月で、明治ダムが横尾谷川を堰き止めて築造されたことがわかります。そして、いわゆる親柱に相当するところには「みどりちゃん」というキャラクターが乗っかってますが、その正体・由来はわかりません。

こちらは「ごんぼうくん」ですが、これは芳井町の地域特産物である「明治ごんぼう」から生まれたキャラクターのようです。

ダム上、中央から見た貯水側の景色。

一方、ダムの真下を見下ろすとこんな感じで、

下流側の遠景はこんな眺めです。

右岸の山肌には「明治ダム」の文字。

ちょっと高台には明治ダム管理事務所があります。


右岸から左岸を眺めるとこんな感じ。明治ダム自体は1991年3月に竣工したようですね。

右岸、貯水側から見たダムの様子。

右岸の管理事務所からはこんな風にダムが見えます。

別の道からダム下へ行ってみました。

魚の鱗のように流れ落ちる水。涼しげ〜。

それが副ダムに貯まってから

下流の梅木川へ向かって流れてゆきます。


治水ダムのようですが、明治ダム築造の経緯を記した案内板がないのが惜しいところです。それに「みどりちゃん」ってなんやねん!
コメント

井原市芳井町の昭和池(堰堤)

2023-05-23 06:59:14 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は岡山県井原市芳井町天神山(いばらし よしいちょう てんじんやま)にある高梁川水系の昭和池を目指します。ところがこの昭和池はグーグル先生の地図に載っているんですが、そこへ至る道が出ていません。うーむ、どうするか…。念のため国土地理院の地図を見ると、ちゃんと道が出ています。それならば行けるかもしれない…。

…というわけで、到着しましたよ。これですね。アースダムのようです。

ここが昭和池である証拠は左岸のダム横にあります。「昭和池竣成記念碑」がそれで、ご覧のように昭和11年3月に起工し、昭和13年(1938年)3月竣工と記されています。

左岸の貯水側からダムを眺めます。

そしてこれが左岸から見たダム上。歩いてみましょう。

ダム上、中央から見た昭和池の様子。

一方、下流側はこんな景色。

洪水吐というか排水路は右岸側にあります。

右岸から左岸を見るとこんな感じ。

右岸から下流側を眺めます。なだらかな傾斜という感じですね。


それにしても印象としては小ぶりな感じです。諸元が気になるので案内板を探すも見つからず。そこで、岡山県によるため池データベース(参考)で確認してみることに。それによると、あらら、高さは14.4mで、長さは47.0mと記されているじゃないですか!これだとダムの定義からすれば高さが15.0m未満なのでダムではなく堰堤になります。でも、なぜかダム便覧には載っているんですよね(参考)。どーしてなんだろうか。そのデータを見ると高さは15.0mで、長さは46.0mと記載されているんです。ああ、だからダム便覧に載っているんですね。それにしてもダム便覧のこのデータの出典はどこなんでしょうか。なんだか高さを無理やり15.0mにしたような気もします。しかし、岡山県のデータベースを信用するならば、これは明らかに数値詐称であり、ダム便覧に載せるべきじゃないですね。

最後にアクセスのための地図を載せておきます。確かに道はあるんですが、未舗装でかつ細いのでアクセス難易度は高いかもしれません。地図上の昭和池は写真中央の➕のところで、未舗装路の入口は写真右下のカーソルのところです。参考までに。
コメント

井原市芳井町の大正池

2023-05-22 07:04:58 | 岡山(ダム/堰堤)
今週末に名古屋で出演するコンサートのチケットが完売したそうな。いや〜、そろそろ腹を据えるかな…。

てなわけで、どーも、ワシです。さて、今回は岡山県井原市芳井町吉井(いばらし よしいちょう よしい)にある高梁川水系の大正池を目指します。アクセスは芳井歴史民俗資料館近くの国道313号の「芳井支所前」信号を西進し、「←天神山」表示のあるT字路を曲がります。そして芳井化成株式会社近くのT字路を右折し、道なりに進んでいくと到着するようです。

「大正池」の看板があるので、これのようです。道路は右岸側にあり、こちら側には洪水吐があります(写真下部)。

洪水吐の水路には橋が架けられているので渡ってみます。看板には昨日記事にした大池にも登場していたゆるキャラ「でんちゅうくん」が描かれています。

その裏側には「ため池災害ハザードマップ」が表示されています。どうやらこれが井原市のため池表示のフォーマットのようですね。

洪水吐から溢れ出た水が流れる水路。

いわゆるダム上の中央から見た大正池の様子です。前日までに降った雨のせいで水は濁っていました。

一方、下流側には古い民家が見えます。

左岸まで行こうとしたんですが、ダム上の草が半端なく、断念しました。

「大正池」という名称は全国各地にありますが、おそらくほとんどの池は大正時代に築造されたものなのでしょうね。それを示すものがこの右岸の道沿いにありました。この石碑によると、明治45年(1912年)11月に起工し、大正4年(1915年)6月に落成したとあります(このデータはダム便覧と合致します)。


ダム上の看板とこの石碑以外に大正池についての案内板は見当たらないので、岡山県によるため池データベースを調べてみました。それによれば、この大正池は高さが18.4mで、長さが68.0mだそうです(参考)。
コメント

石碑を判読できれば…大池

2023-05-21 07:01:25 | 岡山(ダム/堰堤)
いや、どーも、ワシです。さて、今回は岡山県井原市西江原町(いばらし にしえばらちょう)にある高梁川水系の大池を目指します。アクセスは県道291号沿いにあり、直角カーブのところが右岸のダム横になります。

右岸側には洪水吐があるんですが、ご覧のようにそれを渡る橋がありません。だから当然ダム上にも行けず。

上に書いたように県道の直角カーブのところがダム横への入口になっています。そこには「大池」の看板が。

その裏側にはハザードマップが表示されています。

これら両面に出ているキャラクターはなんですかね。気になったので調べてみると、名前は「でんちゅうくん」というんだそうな。このゆるキャラは井原市の名誉市民である彫刻家、平櫛田中(ひらくしでんちゅう:1872-1979)の代表作の「鏡獅子」がモデルらしい。田中の本名は倬太郎(たくたろう)ですが、旧姓は田中(たなか)。あー、なんと紛らわしい。それというのも10歳の時に平櫛家の養子となったので以後の苗字は平櫛になったんだとか。苗字しかない男、それが平櫛田中なのだ!(参考

冗談はさておき、平櫛は1935年に帝国美術院会員となり、1937年には同美術院が改組された帝国芸術院になるとともに芸術院会員に。1944年には東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)の教授に就任。ゆるキャラのモデルとなった「鏡獅子」は6代目尾上菊五郎をモデルとしたもので、20年かけて1958年に完成したものだそうな。ちなみに彼の作品は井原市立平櫛田中美術館で見ることができるんだって。興味のある方は行ってみたら良いと思います。

おっと、大池からだいぶそれてしまいましたね。話を戻しましょう。で、ダム上に行けないので右岸のダム横から大池を眺めてみます。

大池から溢れた水はこの洪水吐を通って、あちらへ流れてゆきます。

ふとダム上を見ると、木々の間から石碑のようなものが。そこには「昭和二十…」「西江原町…」だけが見えて、あとは分からず。


うーむ、釈然としないなあ。でも、ネットを検索したらこの文言は「昭和二十三年(1948年)十二月十日 西江原町大池掛一同建之」ということが判明(参考)。本当ならその裏側に築造の経緯などが記されているんでしょうけど、さすがにそれは分からず。まあ、とにかく大池はこの時期に築造されたのは間違いないようです。

ちなみに岡山県のため池データベースによると、大池の高さは24.0mで、長さは78.0mだそうです(参考)。この数値はダム便覧も同じですが、そこに1986年着手で1987年竣工と記されているのは違うんじゃないかなあと思います。おそらくこれは改修工事か何かを実施した時期ではないかと。そうでないと石碑に記された年月日はなんなんだということになるからです。
コメント

岡山県の青野ダム

2023-05-20 06:52:14 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は岡山県井原市青野町(いばらし あおのちょう)にある高梁川水系の青野ダムを目指します。アクセスは国道486号の「西新町」信号から青野方面へ向かう県道291号へ進み、道なりに行くと「←青野池0.3km」の表示があるので、そこを入って行くと到着するようです。

おー、これですね。アースダムかな?

左岸、貯水側からダムを眺めます。

これがダム上。歩いてみましょう。もちろん車両通行可です。

左岸側には越流式の洪水吐があります。前日までに降った雨のせいで水が勢いよく溢れていました。

そして、写真ではわかりにくいですが、この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。

ダム上に掲げられた看板。ここが青野ダムである「証拠」はこれのみ。案内板は見当たりません。うーん、しょうがないなあ、岡山県のため池データベースを調べましたよ。それによると、青野ダムの高さは23.0mで、長さは82.0mだそうです(参考)。ちなみにダム便覧を見ると高さは20.0m、長さは92.0mになってます。

ダム上、中央から見た貯水側の景色です。

一方、下流側の景色を眺めます。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じです。

右岸から貯水側を眺めます。こんな黄土色をしていますが、おそらく通常はキレイな水なんでしょうねえ。

下流側の傾斜の様子。さほど急斜面ではありませんね。


青野ダム…そういえば兵庫県三田市にも同名のダムがありましたね(参考)。
コメント

星田川流域の守護神!…星田池(ダム)

2023-05-19 06:57:25 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は岡山県井原市美星町星田(いばらし びせいちょう ほしだ)にある高梁川水系の星田池を目指します。アクセスは県道166号沿いにあるので迷うことはないと思います。ただ、ここは昨日書いた星田第二池から星田川を遡ったところにあるので川に沿って行けばいいように思いますが、クルマで行くことはできません。なので、一旦県道407号に出て、それから県道166号に入って行くのがわかりやすいと思います。

星田池は独特な形をしているので、県道166号に沿って長い洪水吐があります。

洪水吐を別の角度から見るとこんな感じ。訪れた前日までに降った雨のせいで洪水吐から水が勢いよく溢れています。そして写真中央に見える水路に流れ込んで下流へ向かいます。

その付近から、いわゆるダム上を眺めます。ダム上は県道166号が通っています。

そしてこれが右岸から見たダム上の道。

おっ、こんなところにピコリーノが…。久しぶりに見た気がします。

右岸、ダム横から下る遊歩道があるので行ってみます。これが右岸から見た斜面の様子。

遊歩道を下りていくと先ほど見た洪水吐から溢れ出た水がここへ出てることが確認できます。写真ではわかりにくいですが、水路は地下トンネルになっていて、ここで滝のように流れ落ちています。

川に沿った遊歩道をさらに下ってきました。そこから上流を眺めるとこんな感じ。写真右上に見えるのがダム上です。

流れてきた水は星田川となって、この水が下流の第二星田池へ向かうのですね。

元来た道を戻ってダム横へ。ダム上、中央から星田池を眺めるとこんな感じ。

一方、下流側の景色です。

対岸(左岸)に来ました。そこには水利使用標識があります。星田第二池と同じく灌漑用水補給のために築造されたものであるのがわかります。

左岸側からダム上を眺めます。

左岸側はちょっとした公園になっていて、ここにはまず2つの石碑があります。

ひとつは「県営畑地帯総合土地改良事業 美星地区 竣工記念碑」と刻まれたもの。

裏側には平成3年(1991年)3月建立とあります。

隣にあるもうひとつの石碑は同改良事業についての概要が記されていて、この事業が1970年から1990年にかけて行なわれたことが書かれています。言うまでもありませんが、これはあくまで改良事業についてであり、星田池の築造年ではありません。

じゃあ、星田池はいつ築造されたのでしょうか。近くには「星田池記念碑」があります。その内容は下記に転記しておきます。


「小田郡小田町(おだちょう)川面村(かわもそん)及び中川村地内の耕地約三百町歩は従来灌漑用水源に乏しく旱天の場合は忽ち被害激甚を極め関係農民の最も憂慮する処であったその対策として一大貯水池を新設し以て旱害の憂苦を免かれんとする地元有志当時の岡山県会議員小野清一郎氏川面村長妹尾宗一氏小田町長佐近徳三郎氏中川村長高月毅一郎氏等の発意により尚星田地内池敷関係者の協力を得て溜池築造の議成り岡山県に於て調査の結果星田池築造の計画を樹立し県議会の議を経て茲に県営事業として昭和十七年四月一日工を起したが時恰も大東亜戦争の影響を受け全く難工を続け数度の計画変更をやむなくせられたにも拘らず幸い関係者の総力により総事業費二千七百万円内訳国庫補助金五割県費二割地元負担金三割と九ヶ年の歳月を費して昭和二十六年三月遂に待望の星田池が完成するに至ったこの池の貯水量百二十三万四千立方米貯水面積十一・四陌堤長百四十米であるこれにより支配地域一帯は永久に旱害を免かれることになり地方農民積年の要望を達成し斉しくその恵沢に浴するに至る茲に星田池築造の記念碑を建設し以て永遠の記念とする
  昭和三十四年四月 星田池土地改良区建之」

要約すると、従来この下流地域では灌漑用の水源に乏しく、日照りが続くとたちまち旱害になる場所だった。その対策として一大貯水池を築造しようということになり、岡山県の県営事業として昭和17年(1942年)4月1日に起工したものの、大東亜戦争の影響で数度の工事計画の変更をせざるを得なかった。しかし関係者の尽力により昭和26年(1951年)3月に星田池は完成したという。ちなみにダム便覧では竣工は1950年と書かれていますが、この記念碑を見ればそれが間違いであるのは明らかですよね。また、同便覧では高さが27.2mとあるので星田池はダムとみなして良いと思います(もっとも、その数値が何に基づいているのかは不明ですが)。

いや〜、こういう記念碑があると星田池の築造がなかなかの難事業だったことがわかりますね。なるほど、なるほど。
コメント

清々しい放流を目撃!…第二星田池(ダム)

2023-05-18 07:00:03 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は岡山県井原市美星町黒木(いばらし びせいちょう くろぎ)にある高梁川水系の第二星田ダムを目指します。アクセスは国道486号の「小田東町」信号を成羽(なりわ)・美星(びせい)方面の県道48号へ入り、道なりに進み、美星方面の広域農道へ。そして橋の手前のT字路を左折し、しばらく行くと二又に分岐するので右へ下り、そのまま行くと目的地に到着します。

訪れた前日まで降っていた雨のせいで放流しているのを見ることができました。なかなかの迫力です。

右岸から見たダム上。ダム上は関係者以外立入禁止ですが、

いわゆる親柱のところには「星田川」と「第二星田池」のプレートが嵌め込まれています。


ダム横から貯水側を眺めます。おそらく本来はキレイな水なのでしょうが、この時は黄土色に濁っていました。

右岸には水利使用標識があります。灌漑用水補給のためのダムらしい。

やはりダム横から下流側を見ます。

放流の様子を今一度眺めます。いや〜、清々しいまでの勢い。


その近くには「第二星田池 完工記念碑」と刻まれた石碑があり、

裏側には「昭和59年3月吉日 岡山県知事 長野士郎 書」と記されています。

その隣にはダムの概要が記された石板があります。これによると、当該ダムは昭和59年(1984年)3月に完成した高さ42.6m、長さ108.0mの直線型重力式コンクリートダムだそうです。

この裏側には築造の経緯のようなものが書かれています。それによると、当該ダムは星田川農業用水総合開発の一環として、この上流にある星田池(未見)とともに下流の矢掛町の水田と美星町の畑地灌漑のために築造したものだそうです。


なるほど、じゃあ、次は上流の星田池に行ってみることにしましょうか。
コメント

嶽でないのはなぜ?…鬼ヶ岳ダム

2023-05-17 14:56:49 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は岡山県小田郡矢掛町上高末(おだぐん やかげちょう かみこうずえ)にある高梁川水系の鬼ヶ岳ダムを目指します。場所は県道35号沿いにあるので迷うことはなさそうです。

【矢掛町の由来】(参考
ところで、矢掛町の由来について気になったので調べてみました。これについてはいくつか説があり、まずは桃太郎伝説の起源として知られる「温羅伝説」に由来するというもの。温羅(うら/おんら)は古代吉備地方を統治していた伝説上の鬼もしくは人といわれます。彼は4m余りの大男で、自らを「百済の王子」と称し、大陸での戦いに敗れて渡来して来たそうな。吉備の人たちは彼をあたたかく迎えたので、その返礼として彼は当時の百済の造船技術や製鉄技術そして製塩技術などを伝え吉備地方の産業の発展に貢献します。百済の王子はしかし朝鮮半島から敵が来襲すると考え、山頂に城を築きました。その城壁を「ウル」と呼んでいたことにちなみ王子は「うら(温羅)」と呼ばれるようになったそうです。吉備地方の産業が発展するに従い、その勢いは大和朝廷に脅威を与えることになります。そこで朝廷は孝霊天皇の皇子のひとりである吉備津彦命(きびつひこのみこと)を派遣し温羅制圧を命じます。両者は矢を放って攻撃しますがなかなか決着がつきませんでした。結果的に吉備津彦命が二本の矢を同時に放ったことで決着をみるのですが、現在の矢掛町は吉備津彦命が放った矢の落ちた場所だったことからそう呼ばれるようになったそうな。

もうひとつの説は当時町内を流れる小田川の川面には家々の影が美しく映り込んでいたそうです。そこからかつては「屋影」と表記されていたそうな。その後、この地域で矢尻を生産するようになったことから「矢掛」と表記されるようになったというもの。

【高末の由来】(参考
また、高末の由来も気になりますよね?ええ、調べてみましたよ。その由来には2つ説があり、ひとつは昔この辺りで須恵器が作られていたことによるものです。少し前に書いた倉敷市の陶奥池の記事でも触れましたが、渡来人が須恵器の技術をもたらしました。この地域でも須恵器が製造されていたんですね。そして特にこの地域の須恵器は硬かったことから「硬い須恵器」→「硬」「須恵」転じて「高末」という表示になったというもの。

もうひとつの説は香水説。ここでいう香水とは硫化水素の匂い(硫黄自体に匂いはありません)のことで、今回訪れる鬼ヶ岳ダムの上流の鬼ヶ嶽では温泉が湧いていて、その匂いから匂う水→香る水→香水→高末に転じていったというもの。

ま、そんなこんなで左岸のダム横に到着しました。

左岸、上流側からダムを眺めます。

そして、これがダム上。歩いてみましょう。

いわゆる親柱に相当するところには「鬼ヶ岳ダム」のプレートが嵌め込まれています。

美山川を堰き止めて築造されたんですね。

ダム上、中央にある洪水吐ゲートなどは1970年1月に設置されたものらしい。

中央から貯水側を眺めます。

ダムの真下を覗き込み、

下流側の遠景を眺めます。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

右岸側には「鬼ヶ岳ダム 完工記念碑」があり、

その裏には昭和44年(1969年)11月吉日とあります。

右岸側には管理事務所がありますが、

老朽化が進んでいます。


当該ダムに関しては案内板が見当たらなかったので調べてみると、これは高さ39.0m、長さ96.0mの農林ダムらしい(参考)。

うーん、完工は1969年で、洪水吐ゲートなどは翌年に設置されたということなんでしょうか。それにしても当該ダムの表記が「鬼ヶ岳」なのに対し、上流の鬼ヶ嶽温泉の表記が異なるのはなぜなんでしょうね。「嶽」の字が難しいからかな?
コメント