ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

見た目以上にパワフル!…小川頭首工

2022-04-10 06:55:26 | 富山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は富山県下新川郡(しもにいかわぐん)朝日町山崎にある小川水系の小川頭首工を訪れます。同頭首工は富山県の県営灌漑排水事業により1968年に完成した施設だそうです(参考)。アクセスは県道45号沿いにあるので迷うことはありません。

県道を走ってくると、小川頭首工はこんな風に見えます。



小川の下流方向の様子。



頭首工の上部には水利使用標識。これは灌漑を目的として使用するための標識ですね。



一方、その下部にも水利使用標識があります。こちらは発電を目的として使用するための標識。上のリンク先にも書いてありますが、頭首工から約750m離れたところに小川用水発電所があり、小電力発電を行なっているそうです。



上流側から頭首工を見ると、こんな感じ。写真中央部に見えるのが取水設備。



左岸側にはお魚さんたちが川を遡るための魚道が用意されていて、お魚さんたちはこの段々になっているところから遡り、



頭首工を通らずに上流方向へ行くことができるわけです。



小川の上流方向の景色。これをずっと遡って行くと以前訪れたことのある朝日小川ダムに至るわけですね。



もう一度、上流側から見た頭首工の様子をご覧ください。写真の左側に見えるのが取水設備で、



この柵になっているところが取水口。分水した水は小川の左岸、下流の岩崎や殿町の水田に供給されます。



県道45号を挟んだ反対側にあるこの建物がおそらく小川頭首工の管理所と思われます。思われますと書いたのは看板の表記がよく読めないから…。





小川頭首工それ自体は見た目からしてコンパクトですが、下流の水田に農業用水を供給したり発電に利用されるなど、なかなかの活躍ぶり。意外とパワフル君ですなぁ。
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愛本堰堤を巡る諸々

2022-04-09 06:54:37 | 富山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は富山県黒部市宇奈月町中ノ口(うなづきまちなかのくち)にある黒部川水系の愛本(あいもと)堰堤を訪れます。アクセスは北陸自動車道の黒部インターチェンジを降りて「宇奈月温泉」方面へ。県道53号(若栗生地線)を直進すると自動的に県道14号(黒部宇奈月線)になるのでそのまま進みます。そして県道13号(朝日、船見方面)へ曲がって行くと愛本橋があり、目的地はそのすぐ上流になります。

【宇奈月の由来】(参考
ところで、宇奈月という地名は珍しいのでその由来を調べてみました。黒部川の上流には不動滝という滝があるそうで、むかし冶郎右エ門という猟師がその滝壺に黄金色に輝く聖徳太子像を発見。それを見た瞬間「ほほぅ!」とうなづいたところからそこを「うなづき谷」と呼ぶようになったという。そして現在の「宇奈月」という表記はこの地に温泉地が誕生した1923年頃、月夜に温泉に浸かっていた山岡順太郎(1866-1928)が「この地が京都の宇治や奈良と並ぶ名月の地になるように」という願いを込めてそれぞれの頭文字をとって「宇奈月」と命名したと言われています。山岡は石川県金沢市に生まれ、逓信省入省後、大阪商船社長に就任。さらに関西大学第11代学長を務めた実業家、教育家でもありました。

【愛本の由来】(参考
一方、愛本のほうはここの地形に関係があります。ここから日本海に向かう地形は扇状地になっています。この場所は扇で言えば要の部分にあたり、それを「あいもと」と呼ぶそうな。それが「合本」→「相本」→「愛本」になったという。

では、まず愛本堰堤の「ご尊顔」ご覧ください。これは下流に架かる愛本橋から撮影しました。



そこから下流方向を眺めると、こんな感じ。いつまでも眺めていられる景色です。



愛本橋の右岸に行ってみます。そのたもとには江戸末期の尊王攘夷論者で儒学者として名高い頼三樹三郎(らい・みきさぶろう:1825-1859)が1848年の秋に黒部川を眺めて詠んだ漢詩を刻んだ石碑があります。







当時、三樹三郎が見たのは下の写真にある「愛本の刎橋(はねばし)」で、1662年に加賀前田家の第五代藩主である前田綱紀(1643-1724)の命により笹井七兵衛正房が建造したもの。この橋は橋脚のない珍しい構造で、川の両岸から大木を刎ね出し、中央で繋ぎ合わせてできているんですね。その珍しい構造ゆえに愛本の刎橋は、やはり刎橋として知られる山梨県大月市にある猿橋(さるはし:610年頃建立)、そして山口県岩国市にある連続した木造アーチ橋である錦帯橋(きんたいきょう:1673年建立)とともに日本三奇橋と呼ばれています。この刎橋は20〜30年ごとに架け替えがあり、1920年には鋼鉄製のトラス橋になりましたが、1969年8月の豪雨により流失。現在架かっている愛本橋は1972年7月に竣工した鋼ニールセン系ローゼ桁橋だそうです。ほぉ〜。



ちなみに、愛本の刎橋を建造した笹井七兵衛正房(まさふさ)についてですが、七兵衛正房の子孫である篠井隆正氏によると現在の苗字は篠井であるが、当時は笹井を名乗っていたそうな。そして篠井家の系譜によれば、正房が生まれたのは1632年で、没したのは1682年とのこと(参考)。

堰堤の下流にあるこの建物には1969年8月11日の豪雨で水位が141.23mに達し、この高さまで水に浸かったことが示されています。





愛本堰堤を右岸の高台から見ると、こんな感じ。



愛本橋を渡って左岸に来ました。その脇にあるのが「平三郎茶屋冬期歩道」と記された細いトンネル。



【愛本のちまき】(参考
気になりますね「平三郎茶屋」ってのが…。なんでしょうね。調べてみると、愛本橋のたもとに平三郎と名乗る者が営む茶屋があったそうな。彼には「お光」という器量の良い娘がいた。ある日、お光は橋の中ほどで新しい手拭いを拾う。そして落とし主はこれがなくて困っているだろうと茶屋の軒先に手拭いを吊るしておいた。

数日後、立派な若い侍が茶屋を訪れ、この手拭いは自分のものだと話す。そして平三郎からお光の心配りの話を聞き、侍は是非お光を我が嫁にしたいと願い出る。平三郎は畏れ多いとして断るも、侍は引かない。結局、平三郎は侍の身なりが立派だったことからお光を嫁にやることにした。

三年後、お光はお産のため、ちまきを持参して戻って来た。しかし彼女は両親に「決して産屋を覗いてはならない」と告げる。そう言われると覗きたくなるのが人情というもの。ついに母親が孫の顔見たさに覗いてしまう。すると、そこには大蛇がいて、口から子供を産んで産湯に浸していた。母親が悲鳴をあげると大蛇は赤子を飲み込んでお光の姿に戻り、「姿を見られたからには、もうここには居られない」と言い、土産として持参したちまきの作り方を教え、今後は茶屋でこれを売るようにと言い残して去っていった。

平三郎は愛おしい娘を追いかけて愛本橋の中ほどまで行くと、お光は別れを告げるや、あたりが暗くなったかと思うと大蛇が風に乗って川に飛び込んだ。そして大蛇が姿を消すと再び明るくなり、元の静けさに戻ったという。

うーん、なぜお光は大蛇になっちまったんでしょうねえ。若い侍は一体何者だったんでしょうか…。

いやいや、脱線、脱線。話を戻しましょう。愛本橋から黒部川の左岸を堰堤の方へ来ると何やら不思議なフォルムのモニュメントが…。説明がないのが残念!



さらに左岸を進むと堰堤の横には管理所らしき建物が。



堰堤のほうを見ると、取水口らしきものが見えます。



堰堤と平行して延びているのは送水管?



送水管はこんな風に延びています。



近くには三枚の水利使用標識が並んでいます。









「愛本堰堤沿革」



「愛本堰堤の歴史と概要」。上の沿革が詳細に説明されています。これによれば、愛本堰堤は1929年に着工し、1932年に築造されたが、これは現在の場所から150m下流に建設されていたそうな。しかし上にも書いたように1969年8月11日に発生した富山県東部での集中豪雨により堰堤は損壊、愛本橋の流出、そして下流域の集落で甚大な被害が出た。未曾有の洪水から得た教訓に基づき、1972年3月に現在の場所に新しい愛本堰堤が完成したとあります。



もっとも、堰堤本体には「昭和48年(1973年)3月竣功」と刻まれているんですけどね。



先ほどの送水管がどこへ繋がっているのかというと、直線距離にして約5.0km離れた場所にある北陸電力の黒西(こくせい)第一発電所(黒部市宇奈月町栃屋:1932年運用開始)へ向かっているようです(参考)。

今回は堰堤のことより、むしろその周辺の記事になっちまいました。まあ、こういうのもたまには良いか。
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背景を学ぶと面白い!…笠破頭首工

2022-04-08 06:51:45 | 富山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は富山県黒部市笠破(かさやぶり)にある片貝川(かたかいがわ)水系の笠破頭首工を訪れます。アクセスは布施川に沿って走る県道125号を以前訪れたことのある布施川ダム方面へ進んでいくと到着します。

【笠破の由来】(参考

ところで、頭首工の名称でもある「笠破」にはどんな由来があるんでしょうか。珍しい地名でもあるので調べてみました。笠破頭首工の近くにはいくつもの「白山社」と呼ばれる神社があるんですが、この頭首工から県道125号を少し下ったところにある最も近い白山社(富山県黒部市笠破1006-2)に笠破の由来を説明する案内板があります。

それによると、鎌倉時代後期、この地に住んでいた三郎右衛門がある時杉の大木を切って薪を作ろうとしたところ、その切り株に一寸八分の大きさの金の薬師如来像があるのを発見。三郎右衛門はそこに小さな祠を建てます。この話を伝え聞いた京都の公家の夫人が三人の従者とともに来訪。その目的は夫人のお乳が出るようにと祈願するためでした。そして祠に着いて祈願するとすぐにお乳が出るようになったそうな。ここから同地は「宝来村(ほうらいむら)」と呼ばれるようになる。

その後、ある女性が川のほとりに自分が被っていた菅笠を置いておいたところ、帰る段になって藪から生えたタケノコが菅笠を突き破っていたという。これを見た女性、慌てたのか「ほうらい村」と言うところを「かさやぶり村」と言い間違えたところからこの名が付いたという。(どんな間違え方やねん!とは思いますが…)

【片貝川の由来】(参考

リンク先の説明によると「『片貝』の名称は『片峡』つまり片側だけの峡谷という意味からといわれ」と書かれていますが、実際どういうことなんでしょうか。想像するに、川の右岸だけが峡谷のような壁面になっていて、それが貝が開いた形、つまりL字型のような感じに見えることから貝の片方、すなわち片貝と呼ばれるようになったということなのかもしれません。

前置きが長くなりました。では、笠破頭首工を見ていきましょう。これが上流側から見た様子です。小ぶりな頭首工ですね。同頭首工が完成したのは1992年で、設備の摩耗などにより劣化が進んでいるため2021年から3カ年計画で補修工事を進めているところだそうです(参考)。見た感じ、頭首工は新しく見えますが、新しく見える部分はすでに塗装し直しているのかもしれませんね。



布施川の上流方面の様子。これを遡っていくと布施川ダムがあります。



頭首工の真横には「笠破頭首工」の看板。



その上部には水利使用標識。



その真下の、白っぽく見えているところが取水口です。分水した水は下流側にある黒部市内生谷(うちゅうだに)の田畑へ供給されます。



ちょっと下流側から見た頭首工の様子。



右岸側には段々になっている魚道が見えますね。これでお魚さんたちも布施川を遡ることができます。



さらに下流側から眺めてみます。



下流方向の景色です。



頭首工の横にはクリームでデコレーションした角型のケーキのような建物。実は、これ県道沿いにある笠破頭首工の水門操作室で、布施川側から見るとこんな感じですが、



県道から見ると、こんなタイル画になっています。



これは地元に伝わる民謡「布施谷節(ふせんたんぶし)」を踊る子供達を表現したものだそうで、1992年12月とあります。原画は高松昭春が制作。同氏はおそらく地元黒部市に在住する方のようです。



「布施谷」とは布施川の上流の谷の名称で、「布施谷節」はその地に住む人々により、いつともなく作られ歌い継がれている民謡。記録によると江戸時代の天和年間(1681-1684)には木綿生産に携わる女性たちの「糸引き歌」として歌われていたとあり、1956年1月13日には黒部市指定民族無形文化財に指定され、現在では「布施谷節保存会」がその伝承にあたっているそうです。(参考
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蓑輪頭首工と蓑輪堰堤

2022-04-07 06:51:00 | 富山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。このところ紀伊半島の天気がイマイチなので目的地を別の地域にしてみました。目指したのは北陸方面。まだ雪があるかなあと心配したのですが、全くの杞憂に終わりました。

…というわけで、しばらくは富山と新潟の頭首工巡りが続きますよ。えー? 頭首工?と思うなかれ。確かにダムは人々を水害から守り、生活に役立っています。でも頭首工がなければ水の少ない地域に必要な農業用水を供給できないんです。その意味でも頭首工は人々にとって不可欠な存在なのです。ダムのような派手さはありませんが、いぶし銀のような存在。格好良いじゃないですか。

…てなわけで、今回訪れたのは富山県滑川市蓑輪(なめりかわしみのわ)にある早月川(はやつきがわ)水系の
蓑輪頭首工です。リンク先の記述によると同頭首工が完成したのは1963年。アクセスは県道141号を早月川沿いに進むと到着します。位置としては以前訪れたことのある角川(かどかわ)ダムの南になります。

早月川の右岸を行くと…おー、見えました。これですね。なかなかオシャレな色合い。



でもね、早月川の川幅は意外に広いんです。頭首工の施設があるのは左岸側で川幅の三分の一程度に過ぎません。パノラマにしてみるとそのニュアンスが伝わるかなぁ。とにかく、こんな感じ。



頭首工の下流にある豊隆橋(ほうりゅうばし)を渡り、頭首工の施設に近づきます。ホント、ホワイト・グリーンが良い色をしています。





左岸に来ました。豊隆橋と刻まれた石碑がドーン。



水利使用標識。灌漑と水力発電の2つの標識。



「蓑輪頭首工」の看板。ちなみにグーグル先生の地図の表記は「箕輪頭首工」。先生、ダメだよ、誤字は!



細い階段を上ると頭首工の横に至るのですが、柵があって立ち入ることはできません。従って、そこから見た様子がこちら。



そのお隣には宝物殿のような建物。注連縄があるので何かが祀られているんでしょうか…。気になります。



左岸の上流側には取水口(写真中央)があり、ここから取水して、



いったんは横の沈砂池?に溜められます。



さらに上流側から頭首工を眺めると、こんな感じ。良い色合いです。



先ほどの沈砂池?の水はすぐ下流側の流量調節設備に流れ込みます。



そこにも水利使用標識があります。この水が下流にある早月川電力の早月発電所で発電に使用されるんですね。



そして、この流量調節設備の建物のところから水路があって同発電所へ向かうのでしょう。おや? 向こうに何か見えますね。行ってみましょう。



「蓑輪堰堤」と書かれています。ここ早月川は急流で水量も豊富なことで知られていますが、その川床が砂利層で形成されていて水が浸透しやすいため、夏に晴天が続くと忽ち枯渇して旱魃が発生しやすいという特徴がありました。このため昔から流域の人々は洪水と旱魃に苦しめられ農作物の生産にも多大な影響が生じてきたわけです。



第二次世界大戦後の1948年と翌49年には戦後の食糧難に加え、2年連続の旱魃がこの地を襲います。それがきっかけとなり堰堤の建設運動が開始。1952年7月には国が主導する事業として採択されます。そして1962年になって待望の蓑輪堰堤と幹線導水路が完成。これにより下流域でのコメの生産量が増加したそうな。(参考

そこから見た下流側の様子。



蓑輪頭首工と蓑輪堰堤の位置関係を示した地図。



蓑輪堰堤が完成した翌年に蓑輪頭首工が完成していることを考えれば早月川の洪水・旱魃問題は早急に解決しなければならない事案だったのかもしれませんね。

それにしても富山県の空は澄んでるね〜。気持ち良いわぁ。
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氷見市の水源を想う…桑の院ため池

2020-10-13 06:59:09 | 富山(ダム/堰堤)
以前千石池ダムを訪れた際に気になっていた上庄川(かみしょうがわ)水系の桑院溜池へ行ってみることにしました。住所は富山県氷見市桑院(ひみしくわのいん)。県道362号沿いにあるようです。

到着しました。貯水側から見た様子です。
 


近くにある看板によると「桑の院ため池」が正式名称のようです。1953年に上庄地区の水不足解消のために築造され、1992年には更なる水不足解消のための国営工事が、そして2002年には県営の灌漑排水事業が完成して以来、近隣の余川川水系と阿尾川水系の水田にも水を安定供給できるようになったとのこと。ほぅほぅ。



これがいわゆるダム上の道です。写真下部に見えるのは余水吐の排水路に架かる橋。



橋の上から見た余水吐はこんな感じ。自由越流式で排水します。



ため池から溢れ出た水はこの排水路から下流へ向かいます。



ため池の様子。



下流側はこんな感じ。



対岸(右岸)へ来ました。振り返るとこんな景色です。



対岸から見たダム上の様子。



対岸側にも余水吐がありました。これはなかなか珍しい。



上のほうの案内板にも書かれていますが、桑の院ため池はこれも以前訪れたことのある五位ダムと繋がっていて、有効に水が利用されているようです。



県道側に戻り、貯水側に少し行くと水分神社(1979年建立)なるものがありました。



また、このあたりは「水源の森」と呼ばれるようです。古来より水を大切に思っているという意味なのかもしれません。



さらにその先には桑の院ため池に関する別の案内板。



あれれ、先ほど見たダム横にある看板ではダムの完成は1953年とありましたが、ここには1954年と書かれています。一体どちらが正しいのでしょうね。



千石池ダムとともに氷見市の水源となっている桑の院ため池。特別楽しめるというほどではありませんが、氷見市の歴史の一端をを垣間見ることができる場所のように思います。
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配慮配慮の本宮砂防堰堤

2020-10-11 07:11:46 | 富山(ダム/堰堤)
今回は富山市小見(おみ)にある常願寺川水系の本宮(ほんぐう)砂防堰堤を目指します。アクセスは県道6号を富山地方鉄道の有峰口(ありみねぐち)駅付近まで来て、「芳見橋」という信号を県道182号へ進みます。そして小見小学校を目標にすると到着できます。

さて、常願寺川に架かる「芳見橋」からはお目当ての本宮砂防堰堤(1937年完成)が見えました。あれですね。



堰堤近くに到着しました。すると、どデカイ看板が…。わかりやすいっちゃ〜わかりやすいけど、デカイ。



その看板から堰堤に向かって行くと、ご立派なトンネルが。見れば「本宮魚道トンネル」と書かれています。上流へ遡りたいお魚さんたちへの優遇措置ですな。





ここの堰堤の高さは22mもあるので、魚道も階段状になっています。それにしてもゴツいな。



では、近くから見た堰堤の「ご尊顔」をどうぞ。



常願寺川下流の景色です。おや? 橋が架かっていますね。あとで行ってみましょう。



その橋へ行く途中に何か建物があります。これは?



常願寺川の雨量と水位流量の観測所だそうです。



建物の裏側には雨量、水位、気温がディジタル表示されています。



先ほど見た橋のところに来ました。この橋の名称は「心のかけ橋」。ぬぁんと素敵なネーミング!



橋の横から見ると複数の副堰堤が備えられているのがわかります。



「心のかけ橋」中央から見た堰堤。



下流側はこんな感じ。



堰堤近くの道路側には本宮砂防堰堤についての詳細な説明看板があります。読みにくい方はコチラにほぼ同じことが記されているので参考にしてくださいね。





その近くには「堰堤とともに撮影してくださいね」と言わんばかりの、見事に配置された石碑。う〜ん、よく考えられています。



石碑の裏を見ると、なんと英語ヴァージョン!



その横には「平成19年度富山県うるおい環境とやま賞」受賞記念に設置されたものが置かれていました。ニクいのは透明なプレートを使っていること。これにより堰堤の様子がプレートとともに楽しめるという演出なのでしょう。ナイス・アイデアです。



最後に、もう一度「ご尊顔」をご覧ください。



見学者にとっては単に癒しの場所であるだけでなく、様々な配慮がなされたスポットだと思います。さすが重要文化財に指定されただけのことはありますね。良きかな。
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農民の悲願…千石池ダム

2020-09-23 07:36:00 | 富山(ダム/堰堤)
今回からしばらくは能登半島にあるダムを訪れてみようと思います。まずは半島の「ふもと」付近にある下田川水系の千石池ダム(富山県氷見市吉岡)から。

これがダム上。その貯水側には何やら案内板がありますね。



これがその案内板。



説明によると、氷見市北端に位置する女良(めら)地区は水田経営を主とする農村地帯でしたが、常に用水不足に悩まされていたそうです。そのままでは荒廃減反にならざるを得ない由々しき状況。女良地区の農民たちは用水確保のため大溜池の築造を懇願していました。そして1959年にようやく千石池ダムの工事が始まり、完成(いつなのかは不明)。これにより同地区は旱魃被害から免れることになったそうです。なるほど、なるほど。

案内板の裏側のほうには増水した際の排水路があります。通常の溜池と違うのは単に排水させるのでなく、越流する手前にも水が溜まるようになっていること。とにかく水を大切にしたいという思いなのかもしれません。



さて、その池の様子はというと、ダム上の中央付近から見るとこんな感じ。



下流側の景色です。



対岸へ来ました。振り返るとこんな感じ。



案内板の文中に書かれていた桑院溜池も気になります。いつか行く機会があれば行ってみようと思います。
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突如現れる…大長谷第四発電所取水堰

2020-09-18 06:48:15 | 富山(ダム/堰堤)
前回の猿腰ダムをあとにして国道471号を大長谷川に沿って南下していくと、上流2.7kmのところになにやら変わった形の建物があるのを発見。これはなんでしょうね。



もう少し近づいてみます。雪国仕様なのでしょうが、それにしても面白い形をしていますね。



堰堤? 貼ってある水利使用標識を見ると「目的」の項目に発電とあるので発電に関係するもののようです。



下流側の景色です。写真上に見える赤い橋は国道471号。今度はこの橋を渡って対岸にまわってみましょう。



対岸に来ました。沈砂用のコンクリート片。無造作に並べられた豆腐のよう。



建物の真横から見るとこんな感じ。おや? 何か書いてあります。



「富山県営 大長谷第四発電所 取水堰」



はぁ、なるほど、わかりました。この取水堰で溜めた水を下流の猿腰ダムの横にあった大長谷第四発電所へ送って発電しているんですね。2枚上の写真の中に見える黒色のフィルター部分が取水口なのでしょう。

対岸から見た上流側の景色です。うん、ここの水も綺麗です。



この場所もグーグル先生の地図には載っていません。アクセスの目安は大長谷川を渡る赤い橋です。位置的には富山県と岐阜県の県境に近いんですけどね。
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美味そうな水…猿腰ダム

2020-09-17 07:31:52 | 富山(ダム/堰堤)
今回訪れたのは富山市八尾町切詰西瀬戸にある神通川水系の猿腰ダム。アクセスは国道471号を大長谷川(おおながたにがわ)沿いに行き、脇道を降りていくと到着です。

ど〜ん、これが「ご尊顔」。



1981年12月竣功。



大長谷第三発電所のためのダムなんですね。



これがダム上。



水利使用標識。河川名に「神通川水系井田川」とありますが、上にも書いたようにここを流れるのは大長谷川で、この下流にある室牧ダムを過ぎると室牧川、そして八尾町高熊で野積川に合流します。さらに野積川は八尾町天満町で久婦須川と合流したのち井田川と名称が変わります。



ダム中央から見た上流の大長谷川の様子。



ダムの真下はこんな感じ。



下流側の遠景です。



対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。元の側に見えるのがクリーム色の建物が大長谷第四発電所。あれ? このダムは「第三発電所」用に作られたのに第三発電所がここにはありませんね。どういうことなんでしょうか。実はここから下流5キロのところ(八尾町庵谷)に「第三」があるらしい。



大長谷第四発電所。



発電所から放流された水です。わかりますかね? この美味しそうな感じ。フランスのサルコジ元大統領もビックリ…。すみません、調子に乗りました。





猿腰ダムはまあ普通でしたが、そこを流れる水の色に感動しました!
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放置状態の原山ダム

2020-09-16 07:23:08 | 富山(ダム/堰堤)
今回は富山市八尾町東川倉にある神通川水系の原山ダムを目指します。アクセスは県道323号から不動滝へ向かう道を進んでいくとあるようなのですが、グーグル先生の地図ではダムまでの道が見当たりません。こんな時は国土地理院の地図がオススメ。下の写真は該当する場所を写したものです。この写真で原山ダムは右側にある池なのですが、ほらね、ちゃんとダムまでの道が出ています。さすがは天下の国土地理院。



ところが、実際にその道を進んでみるとご覧のような未舗装の道。Uターンもままなりません。



こういうケースでは冷静な見極めが大切。やみくもに突き進むとエライ目に遭うことは経験上知っているからです。なので、「これ以上クルマで行ったら危ない」と感じたら即停車するのが賢明な判断と言えるでしょう。というわけで、ここからは歩いてダムを目指します。

歩くこと15分。藪の中に原山ダムを発見。枝をかきわけながらなんとかダム上に到着しました。ダム上もご覧のように草で覆われています。



ダム中央から見た貯水側の景色。



ダム下はこんな感じ。もう草だらけ。



対岸まで草を踏み分けつつ来ました。振り返るとこんな感じ。



周囲を見渡しても「原山ダム」の看板はありません。たぶん放置された状態で、管理もほとんどされていないように見受けられます。苦労して見つけた割に得るものがない場所でした。

ま、こんなこともあるさ!
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グーグル先生の知らない…水神ため池

2020-09-15 07:08:30 | 富山(ダム/堰堤)
前回の野地溜池が工事中だったので国土地理院の地図を見たら近くにダムらしきものがあるのを発見(下の写真の左上)。そうとわかれば行ってみたくなります。



当該の場所は南砺市土生(なんとしはぶ)。未舗装の道をクルマで行けるところまで行って、あとは歩いて探しました。

そして藪の先に目的の場所が。



木をかきわけてなんとかダム上に到着。もうね、冒険者の気分ですよ。



貯水池の様子です。自然の中にあるなぁって感じ〜。



下流側はこんな感じ。見えるのはやっぱり木しかありません。



対岸から振り返るとこんな感じ。対岸といっても、たかが数十メートルの距離なんですけどね。



対岸側には排水路があります。増水すると、ここから流れ出て、



あちらへ向かうように作られています。



それにしても、ここには何の看板もありません。単なる池なのでしょうか。半ば諦めながら元の道を戻ると、途中にこんな看板が。



おお、写真では分かりにくいですが「水神ため池」と書かれています。もちろんこれはグーグル先生の地図にも国土地理院の地図にもその名称は出ていません。たぶんこの地域限定の農業用水確保のために作られたのではないかと思われます。

ほとんど知られていない場所を見つけた時の喜び。なんのメリットもありませんが、ただただ充実した気持ちになります。ええ、自己満足なんですけどね。
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リニューアル中…野地溜池

2020-09-14 07:34:04 | 富山(ダム/堰堤)
南砺市小院瀬見(なんとしこいんぜみ)にある小矢部川水系の野地溜池へ行ってみました。アクセスは県道10号から入っていきます。

到着したはいいんですが、なんと工事中。





かなり大掛かりな工事のようです。いつ完成するんでしょうね。


(お知らせ)

岐阜県にある高根第一ダムをアップデートしました。昼間の様子を追加しています。よろしければコチラをご覧ください。
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打尾谷ため池? or 大鋸屋林道溜池?

2020-09-13 07:10:06 | 富山(ダム/堰堤)
グーグル先生の地図によると、南砺市小田島に小矢部川水系の大鋸屋(おがや)林道溜池というのがあるので行ってみました。アクセスは国道304号から大鋸屋神社付近の道を打尾川(うちおがわ)に沿って進んで行くと到着です。

ところが、そこにある看板を見ると「打尾谷ため池」。うちおだにためいけ? あれれ? 違うところに来ちゃったかな? カーナビの地図を再確認するも間違いではなさそう。一体どういうことなんでしょうか。どちらが正式な名称なんでしょうね。ナゾ、ナゾ、ナゾ。



とりあえず見学開始です。これがいわゆるダム上の道となります。



ため池側から見たダム上。



ダム上、中央から見たため池の様子。



下流側の景色です…といっても木ばかり。



対岸へ来ました。振り返るとこんな感じ。



その横には、これ排水路でしょうか。



対岸、下流側から見たダム上。



ため池の名称のナゾは残るにしても、ため池本体はどこにでもあるフツーのため池でした。まあ、これも実際に行って見なけりゃわからないわけで、良い経験となりました。

チャンチャン。


(お知らせ)

岐阜県にある高根第二ダムをアップデートしました。昼間の様子を追加しています。よろしければコチラをご覧ください。
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紛争回避…赤祖父溜池

2020-09-11 06:45:45 | 富山(ダム/堰堤)
富山県南砺市川上中にある小矢部川水系の赤祖父(あかそぶ)溜池に来ました。溜池の脇にある案内板によれば、南砺市(井口、城端、福野)の田畑を潤す用水確保のため、赤祖父山麓を水源とする赤祖父川を堰き止めて作られたのがこの溜池だそうです。

そのきっかけは1926年の大旱魃で、水の取り合いによる争いを防ぐ目的もあったとか。そして、1932年9月に溜池工事が着手されましたが、第二次世界大戦勃発により労働力不足となり、工事は遅々として進まず。ようやく完成したのは1945年6月でした。その後、1997年から2000年にかけて改修工事が行われ今に至っています。2010年3月、農林水産省の「全国ため池百選」に選定。



これがダム上に相当する道。車両通行不可。歩いてみます。



溜池の様子。水がキレイですね。



下流側の景色です。



対岸(左岸)へ来ました。振り返るとこんな感じ。



左岸には越流式の排水路。訪れた時にはカラッカラでしたがね。



別の場所にある似たような案内板。ここに写っている「円筒分水槽」が見たかったのですが、見当たらず。残念。



水の取り合いをするなんてバカなことを…と言うなかれ。当該地域の人々にすればこれはもう死活問題なのです。ただ、それによって争いごとが起きるというのはあまり良いとは言えません。そこで溜池が作られ、無益な争いを防いだわけです。その意味でいえば「たかが溜池、されど溜池」なんですよね。

溜池、バンザイ。


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おや、こんなところに…大勘場第2号砂防ダム

2020-09-10 06:58:45 | 富山(ダム/堰堤)
今回目指したのは富山県南砺市利賀村大勘場(なんとしとがむらたいかんば)にある庄川水系の利賀川ダム(別名:水無ダム)。のんきに県道34号を進んで行ったのですが、なんと通行止め!

止むを得ず引き返し、県道を走っていると、立派な砂防ダムを発見!



県道よりも下にあったので利賀川ダムへ向かう時には気づかなかったのです。看板もないし、もちろんグーグル先生の地図にも載っていません。よく見ると砂防ダム本体にプレートがあるじゃありませんか。ズームしてみると「大勘場第2号砂防ダム」と書かれています。残念なことに完成年が読み取れません。11月というのはわかるのですが。



これが利賀川で、上流の利賀川ダムから流れてきた水であるのは間違いありません。それにしても水が綺麗なこと、綺麗なこと。美味しそうですよね。



当初の目的は果たせませんでしたが、こんな綺麗な色の水を見たら「まあ、いいか」と思えました。チャンチャン。


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