ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

築造だ!以上、行け!…大城池

2023-01-31 07:04:48 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県洲本市鮎屋(すもとし あいや)にある洲本川水系の大城池(だいじょういけ)を訪れます。ここは昨日記事にした鮎屋川ダムの右岸の道を少し登っていった先にあります。なので、鮎屋川ダムまでのルートについては昨日の記事をご覧ください。

アクセス通り来ると目的地の左岸に到着します。左岸から見た大城池はこんな感じ。


近くには案内板があります。それによると現在の洲本市の南西部にかつてあった大野村は地形が台地だったため日照りが続くとたちまち水不足になったそうです。この問題を解決すべく大正元年(1912年)にため池を築造しようという声があがりました。ところが鮎屋川の下流で取水する人々から反対されてしまいます。なぜならその上流にため池を作ってしまうと下流の水量が減ってしまうと考えたからです。そのためすぐに工事に取りかかることができず、代替策として用水を流すための井堰とトンネルを2年かけて作ったそうな。その後、水についての問題も解決し、大正12年(1923年)になってようやく大城池の工事に着手。そして昭和3年(1928年)に完成したそうです。


左岸、貯水側から見た大城池の様子。右岸に洪水吐があるのが見えます。


左岸から見た、いわゆるダム上。


すぐ近くには「大城池」と記されたプレート。何度も書きますが、この形のプレートは兵庫県のため池に表示されているものです。


ダム上、中央から見た大城池の様子。ため池扱いなのでしょうが、いえいえ、どうして、立派過ぎるため池です。


左岸側にあるこのユニークな形状のものは取水塔。


一方、下流側の景色はこんな感じ。


対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな景色です。


こちらには、まず3つの石碑が並んでいます。

これは大城池の諸元が記されていて全部は読めませんが、

大正12年(1923年)1月24日に工事着工、昭和3年(1928年)9月30日に竣工と記されているのが読み取れます。

これは「水神祠」で、昭和11年(1936年)4月に寄進されたと記されています。


そして、これは2007年の改修工事竣工記念に建てられた石碑。その内容は余水吐(洪水吐)周辺の漏水防止工事だったようです。


右岸の少し下流側には2つの「物体」が…。右側にあるのは恐らく水神様で、

左側は「大城池之碑」。題字を揮毫したのは貴族院議員の永田秀次郎(ながたひでじろう:1876-1943)。彼は貴族院勅選議員を1918年から1943年まで務めています。この石碑、真横に割れた形跡がありますが、もしかして1995年の阪神・淡路大震災で倒壊して割れたのでしょうか…。

せっかくなので石碑の内容を転記します。不明の箇所もありますが、ご容赦。

「洲本町ノ西南端大野外七部落ニ亘ル六十餘町歩ノ水田ハ古来水利ノ便ヲ缺キ此年旱損アリ禾穀稔ラズ永ク農耕ノ不利ヲ忍ベリ識者夙(つと)に之ヲ愁へ水利ノ根本改善ヲ唱導スルヤ●亦渾然之●和シ地ヲ鮎屋河内ノ渓谷ニ相シテ一大貯水池ヲ築造シ瘠薄(せきはく)ノ畑地約五十町歩ノ開田ヲ併セ行ヒ之ガ水源タラシムルノ計畫●樹テ大正八年十一月耕地整理組ヲ組織ス山口恒雄翁組合長ノ職ニ就キ鋭意事業ノ進捗ニ努メ幾多ノ障碍ヲ排除シ十年五月先ノ放水隧道ノ工事ニ著手セリ然ルニ工半ニシテ翁の長逝ニ遭遇セルハ遺憾ト謂フベシ然レ●嗣子聞一氏克(よ)ク先考ノ意図ヲ継承シ役員以下亦奮起遂ニ大正十二年一月此難工ヲ竣(お)ヘ直ニ溜池築堤ノ工ヲ起ス爾来峻嶮ヲ征シ荊榛(けいしん)ヲ芟夷(さんい)シ細積固結人為ノ最善ヲ傾倒スル茲ニ六星霜昭和三年九月完成ヲ見 大城池ト命名ス盖シ●大城郭ノ如ク又堅緻ニシテ大丈夫ノ意ヲ寓(ぐう)ス其後昭和八年更ニ増築ノ工ヲ施セリ若夫池水一度満盈(まんえい)セムカ紺碧ノ水滾々(こんこん)トシテ幹線水路ニ奔注シテ全域ヲ霑潤(てんじゅん)シ一朝旱天に際會スルモ亦昔日ノ患厄ナク千載農ヲ濟ハム歟茲ニ其梗概ヲ叙シテ不朽ニ傳●
   昭和九年九月 兵庫県耕地課長 野呂勇之助譔又書」



要するにかつての洲本町の大野村と7つの部落では昔から水の便が悪く、干ばつがあると穀物は実らず農耕をするには不利な地であったが人々は耐えていた。専門家は以前からこれを憂い、水利を根本的に改善すべきと提唱。(中略)鮎屋河の渓谷に一大貯水池を築造して不毛な畑地、約50町歩を水田にしてこの水源にする計画を立て、大正8年(1919年)11月に耕地整理組合を立ち上げ、山口恒雄が組合長に就任し事業の推進に取り組み、多くの困難を乗り越えた。大正10年(1921年)5月には放水トンネル工事(※)に着手するも工事半ばにして山口が亡くなられたことは遺憾という他はなかった。だが子息の聞一氏は十分に亡父の考えを受け継ぎ、役員以下が奮起した。ついに大正12年(1923年)1月、この難工事を完成させ、すぐに溜池築造工事に取り掛かった。以来、幾多の困難を乗り越えて昭和3年(1928年)9月に工事は完了し大城池と命名した。(後略)

(※)この放水トンネルというのは鮎屋川の水がこのトンネルを通って下流へ向かうためのもので、上流からの常流水が大城池へ流入しないようにしたもの。つまり増水した時にのみ大城池へ流れ込むという条件で下流の水利地権者と折り合いをつけたというわけです。経緯の詳細についてはコチラをご覧ください。

さて、右岸には越流式の洪水吐があります。これはなかなか大きなもので、増水すると水はここから溢れ出て、

この水路を通って、あちらへ流れてゆきます。


たかがため池ですが、築造の経緯を知ると本当に難事業だったんだなぁとつくづく思います。水に執着する人間…恐ろしいねえ。まあ、命がかかってますからね。仕方がないのかもしれませんが。
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矢尾田の粘り腰!…鮎屋川ダム

2023-01-30 06:56:40 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は兵庫県洲本市鮎屋(すもとし あいや)にある洲本川水系の鮎屋川(あいやがわ)ダムを目指します。アクセスは国道28号の「久次米(くじめ)」信号を入り、しばらく道なりに進んで行くと右側にニトリ淡路配送センターが見えてきます。それを横目に見ながら進み、2つ目の大きな交差点を左折(そのまま直進すると次々回記事にする初尾川ダムに辿り着きます)。オニオンロードを進んで行くと大き目の橋が現われます。橋を渡った先の交差点を右折し、そのまま行くと目的地に到着です。

【鮎屋の由来】(参考
なんとなく想像できると思いますが、これは「鮎のいる谷」の意味で、そこを流れる川なので鮎屋川と命名されたようです。また、これ、フツーに読めば「あゆや」ですが「あいや」と読むのは、ここが「藍染の産地」であることに由来するようですね。

上のアクセスの通りに行くとダム横に辿り着くんですが、まずはダム下に行ってみました。これが「ご尊顔」です。


では、順を追って見ていきましょう。アクセス通りに来るとダムの右岸に到着します。こんな感じの横長のダムです。


右岸のダム横にある建物が「鮎屋川ダム管理所」で、


兵庫県のため池に見られるこの看板が設置されているということは、ここもため池と位置付けられているのかもしれません。これについては後述します。


また、鮎屋川ダムから放水される水を利用して発電が行なわれていて、関西電力へ売電しているようですね。


近くにはこの周辺の「地域資源マップ」があり、観光の目安になります。


そのマップにも載っている石碑「矢尾田京兵先生頌徳碑」がダム横にあります。矢尾田京兵(1911- 没年不詳)は三原郡広田村鮎屋に生まれ、昭和26年(1951年)に広田村村長に就任。昭和32年(1957年)7月に同村が洲本市に合併後は県議会議員、鮎屋川土地改良区理事長などを歴任し、この鮎屋川ダム築造に尽力するなど地域の行政・水利事業に寄与した人物として知られています。



石碑の近くには「水神祠」と刻まれた石碑があります。


その隣には「鮎屋川ダム概要」が記されています。諸元によると高さ46.2mの直線重力式コンクリートダムだそうです。


【鮎屋川ダム築造の経緯】
…と、まあ、ここまで書くと鮎屋川ダムは単独で築造されたように思えるでしょうが、実はそうではありませんでした。この資料にはその築造の経緯が記されています。それによると、鮎屋川にはこの上流に大城池(だいじょういけ)というのが昭和3年(1928年)に完成していたのですが、だからといって下流域の水不足解消には至りませんでした。大城池の完成を見込んで下流では畑を水田へ転換したところもあり、それが用水不足へ拍車がかかりました。このため渇水時になると水利権の争いが絶えなかったそうです。そこで昭和14年(1939年)に大城池の上流に大野村と広田村の頭文字に由来する大広池(おおひろいけ)の築造が提唱されるも昭和16年(1941年)12月、太平洋戦争勃発により計画は中止となります。
(第一次鮎屋川ダム計画)
戦後になり、わが国では食糧増産対策が提唱され、地域農業の安定化が急務となります。そこで立ち上がったのが上にも触れた当時広田村村長だった矢尾田京兵でした。彼は兵庫県へ「鮎屋川に200万立方メートル規模のダム」を県営事業として建設して欲しいと要請。兵庫県も前向きに検討していましたが、昭和29年の町村合併促進法の施行に伴い、洲本市と広田村の合併問題、そして兵庫県が抱える財政再建問題の関係からダム建設計画は中止になってしまいます。
(第二次鮎屋川ダム計画)
しかし矢尾田は諦めませんでした。昭和37年(1962年)、当時県議会議員となっていた彼は洲本市長と三原郡緑町町長と連名で「県営鮎屋川ダム建設促進」の陳情書を県へ提出。それと同時に「県営鮎屋川ダム建設期成同盟会」を立ち上げます。そして翌年には全体計画書を作成・提出するも経済効果が低いという理由で採択されませんでした。
(第三次鮎屋川ダム計画)
それでも矢尾田は地域のために事業計画を再考し、用水改良、防災、さらに開拓事業を盛り込んだ多目的事業とする全体計画書を練り直し、その計画書は昭和39年4月に当時の農林省で採択。これにより翌40年(1965年)12月に鮎屋川ダム着工が農林省で認められ築造がスタートします。そして昭和44年11月に念願だった鮎屋川ダムが完成したのです。なるほど、ここに矢尾田の功績を讃える石碑があるのも、これで頷けますね。

そんな経緯で完成した鮎屋川ダムのダム上がこちら。歩いてみましょう。


ダム本体の、いわゆる親柱には「昭和44年9月竣工」と記されたプレートが嵌め込まれています。


ダム上、中央から見た貯水湖の様子。この上流に次回記事にする大城池があります。


ダム本体に嵌め込まれた洪水吐設備と取水設備のプレート。どちらも平成12年(2000年)3月製作とあるので作り直したのだと思われます。



一方、ダムの真下はこんな感じで、

下流側の遠景はまるで空撮のよう。


対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


左岸、貯水側から見たダムの様子。


つらつらと鮎屋川ダム築造の経緯を書きました。たまたま経緯がわかったので書いたのですが、ダムが築造されるにはそれぞれ理由があるはず。それを知るのと知らないのとではダムの見方も違うんじゃないでしょうか。次回はこの上流にある大城池を訪ねてみようと思います。
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シンプル!…猪鼻第2(二)ダム

2023-01-29 06:57:54 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、昨日記事にした猪鼻川(いのはながわ)のダムのさらに上流には洲本川(すもとがわ)水系の猪鼻第2ダムがあるようなので行ってみることにします(住所:兵庫県洲本市千草丙[ちくさ へい])。アクセスは県道481号をさらに上流へ進み、しばらく行くとT字路っぽくなるのでそこを左折して進んで行くと目的地の右岸に到着します。

見えてきました。これですね。


右岸のダム横に来ました。そこには諸元が記されたプレートが巨岩に嵌め込まれています。これによると、高さ41.5mの重力式コンクリートダムで、1977年3月30日に起工し、1979年7月31日に竣工したとあります。洲本市水道課が施主なので上水道のためのダムなんでしょうね。


そこからダムを見ると、こんな感じ。


右岸には「猪鼻第二ダム管理所」があり、ダム上はその奥になります。



ダム上の入口の脇には「猪鼻第二ダム」と刻まれた石碑があります。


そこから見たダムの様子。


では、ダム上を歩いてみましょう。


ダム上、中央から見た貯水湖の様子。


一方、ダムの真下はこんな感じ。

そして、下流側の遠景。


対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じです。


左岸、貯水側から見たダムの様子。


同、下流側には祠が…。水神様でしょうか。


そこから見たダムの様子。


上水道確保が目的のためだけに築造されたせいか、無駄なものは1つもありません。いたってシンプル。ある種の潔さを感じさせます。1つだけ気になることがあるとすれば、諸元の表記が「猪鼻第2ダム」であるのに対し、管理所と石碑のそれが「猪鼻第二ダム」であること。ま、どーでも良いことですが、正式にはどちらなんでしょうねえ。
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名称たくさん!…猪鼻川のダム

2023-01-28 06:59:12 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は兵庫県洲本市千草丙(すもとし ちくさ へい)に洲本川水系の猪鼻(いのはな)ダムというのがあるのでそれを目指します。アクセスは県道481号をそのまま猪鼻川沿いに進んで行くと勝手に目的地に到着します。県道481号までのルートについては昨日記事にした竹原ダムを参考にしてください。

到着しました。おー、なにやらレトロな雰囲気のダムです。石積みのスタイルは大正から昭和初期にかけて築造されたダムの特徴ですね。


右岸、貯水側から見たダムの様子。うーん、芸術的。


その場所から貯水湖を見ると、こんな感じ。


で、これがダム上なんですが、ご覧の通りフェンスでガッチリとガードされていてダム上に行くことはできません。


ダム本体の、いわゆる親柱のところには「昭和7年(1932年)4月起工 昭和9年(1934年)8月竣工」と刻まれています。

そして「洲本町上水道貯水池堰堤」の文字も。ちなみに洲本町は1889年4月1日に町村制の施行により発足したもので、1940年2月11日に市制施行によって洲本市となっています。


今から90年近く前に築造されたダムですが、もうそろそろ文化遺産に指定されてもいいんじゃないでしょうか。あー、そういえばグーグル先生の地図ではここを「猪鼻ダム」と表示していて、ワシも当たり前のように「猪鼻ダム」と書きましたが、少なくとも右岸側にはそうした表示は見当たりませんでした。また国土地理院の地図では「猪鼻水源池」と書かれています。うーん、じゃあ「猪鼻ダム」とか「猪鼻水源池」という名称は何に基づいているんでしょうねえ。不思議だわぁ。ちなみに兵庫県の「洲本川水系河川計画」の中の名称は「猪鼻第一ダム」になってます(参考)。たぶん、この名称はここの上流にある「猪鼻第2ダム」(次回記事にします)に呼応するものと思われますが、それにしても一体いくつ名称があんねん!統一せい!

ま、でも、素敵な築造物なので良しとしますか(笑)
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居心地の良い場所…竹原ダム

2023-01-27 06:55:39 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県洲本市千草竹原(すもとし ちくさ たけはら)にある洲本川水系の竹原ダムを目指します。アクセスは国道28号沿いにあるドコモショップ洲本店付近で洲本川に千草川が合流するんですが、その千草川に沿って走る県道481号を進んでいくと「猪ノ鼻ダム→」の表示が出てきますが、そのまま直進し、今度は竹原川(グーグル先生の地図では千草川)に沿って進みます。そしてそのまま登っていくと目的地に到着します。

まずは右岸、貯水側から見たダムをご覧ください。


この場所には「竹原貯水池概要」と刻まれた石碑があります。これによると当該ダムは1961年4月に着工し、1964年3月に竣工したそうな。



石碑のあるところから奥に行くと管理所らしき建物があります。でも表示はありません。


石碑の手前がダム上になります。ダム本体の、いわゆる親柱のところには「洲本市上水道竹原貯水池」と、概要に示された起工と竣工を記したプレートが嵌め込まれています。




ダム上、中央には放流を調節するための施設があります。ブルーがとても印象的。


そこから見た貯水側の景色。


一方、ダム下34mをみると、こんな感じ。

そして、下流側の遠景。こういう景色を見ると淡路島の中にいるとは思えませんね。でも、いるんですけど。


対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。


左岸、貯水側から見たダムの様子。


左岸、下流側から見たダムの様子。でも、木が邪魔で、よく見えません。


上水道のためのダムといえば、多くはフェンスなどで厳重に規制されていますが、ここはオープンなので見学者にとってはありがたい限り。静かな場所でもあり、落ち着けます。
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お口がパックリ…天川第2ダム

2023-01-26 06:59:55 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県洲本市由良町由良(すもとし ゆらちょう ゆら)にある天川(あまかわ)水系の天川第2ダムを目指します。アクセスは前回記事にした天川第1ダムの左岸の道をさらに上流へ向かったところにあります。

相変わらず対向車が来たら絶対アウトなほど細い道を進んでいくと…見えてきました、あれのようです。


左岸、ダム横に来ました。写真右下に立入禁止の看板が見えますが、どうやらこれはダム湖へ立ち入ってはいけないという意味のようです。そして第1ダムにあったようなロープもないのでダム上を歩いてみることにしました。


ダム上、中央から見た貯水側の景色。


一方、ダムの真下の様子と、

下流側の遠景。


対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


右岸、ダム横にはよくわからない祠(ほこら)があります。


その付近から見たダムの様子。


うっかりして気づかなかったのですが、その祠の隣には「天川第2ダム」と刻まれたプレートがあるようです。それによれば、工事に着手したのは1981年11月5日で、1983年8月5日に完成したと記されています(参考)。ダムの形状や状態から考えると下流の「第1ダム」と思われる築造物はこれよりも前に築造されたのではないかと推察されます。もしかすると「第1ダム」の右岸にも同様なプレートがあるのかもしれませんね。
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たぶん…天川第1ダム

2023-01-25 06:57:01 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県洲本市由良町由良(すもとし ゆらちょう ゆら)にある天川(あまかわ)水系の天川第1ダムを目指します。アクセスは県道76号から入っていくんですが、どうにも目印がありません。目安としては県道沿いにある「竹友水産」付近の道から入っていきます。ただし、道が細いので要注意です。

対向車が来ないことを祈りつつ進んで行くと目的地の左岸に到着します。木が邪魔だなぁ。治水ダムのようです。


左岸のダム横に来ました。

ダム本体の、いわゆる親柱のところには「由良上水道天川谷水源地」と刻まれたプレートが嵌め込まれています。

貯水側の親柱にも何か書いてあるようですが、見ていると何か色盲検査をする時の画像のようで目がチカチカし、解読不能。むしろその横にある「身替不動尊」の文字が気になります。


ダム上のところにはロープが張られていて、立入禁止の文字があったのでダム上に行くのは諦めました。


左岸、貯水側から見たダムの様子。


ここは当たり前のように天川第1ダムなんて書いてますが、左岸側を見た限りそれを示すもの、そして諸元を記したものは見当たりませんでした。ただ、この上流にあるダムにはハッキリと天川第2ダムと表示されているので、ここがおそらく第1ダムなのではないかと思われます。次回はその第2ダムを訪れます。
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目立たぬフカフカため池!…中池

2023-01-24 07:01:37 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県洲本市中川原町安坂(すもとし なかがわらちょう やすさか)にある洲本川水系の中池(なかいけ)を目指します。アクセスは淡路島中央インターの南西で、金比羅神社の西南西に位置し、県道465号沿いにあります。

中池はその名の通りため池ですが、兵庫県のため池データベースによる高さが16.4mでダムの条件を満たしているので行ってみようと思ったわけです。ちなみにここはダム便覧には載っていません。

そんなこんなで到着しました。いわゆるダム横は県道と繋がっていないので斜面を登っていきます。


斜面の中段にある小屋のところに掲げられた「中池」の表示。


これが左岸から見たダム上です。歩いてみましょう。


ふかふかの草を踏みしめつつ、その中央から貯水側を見るとこんな感じ。


一方、下流側の景色です。写真左下に見えるガードレールのところが県道465号。


対岸(右岸)に来ました。そこには越流式の洪水吐があります。写真ではわかりにくいですが。


そして右岸からダム上を見るとこんな感じ。


県道のある左岸側に戻り、貯水側からダムはこんな風に見えます。


そもそもがため池なので「中池」の看板以外、情報を示すものは何もありません。気にかけなければ完全に通り過ぎてしまう場所です。でも百聞は一見に如かず。実際に見ることに意味があるのだ!…ぬぁんてね。
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ピリリとコンパクト!…奥ノ平池

2023-01-23 06:52:18 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県淡路市浅野南にある富島川(としまかわ)水系の奥ノ平池(おくのひらいけ)を目指します。アクセスは県道462号沿いにあり、「浅野公園」の北西にある三角型の池です。

池とはいうものの、兵庫県のため池データベースによれば高さは15.8mなのでダムの条件を満たしているので行ってみようと思った次第。でもダム便覧には載っていません。

到着しました。ご覧の通り、左岸側に洪水吐があります。


左岸から見たダム上の様子。このダム上は県道462号。写真手前のガードレールの下が洪水吐からの水路です。


これは変形型の越流式の洪水吐なのでしょうか。ともかく、増水すると水はここから溢れ出て、

この水路を通って下流へ流れてゆきます。


「奥ノ平池改修記念碑」と記された石碑。1997年4月竣工とあります。ということはそれ以前に奥ノ平池はあったんでしょうね。それがいつ築造されたのかは不明。また池の名称の由来についてもわかりませんでした。


「奥ノ平池」と表示されたプレート。


いわゆるダム上、中央から見た貯水側の様子。

取水設備のようなもの。


一方、下流側の景色はこんな感じ。播磨灘がよく見えますね。


対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。


農村の高台にあるコンパクトな池という印象ですが、ダム上の県道は生活道路でもあるようで、軽トラが頻繁に行き来していました。
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景色を愛でる!…河内ダム

2023-01-22 07:00:25 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県淡路市河内(こうち)にある浦川水系の河内ダムを訪れます。アクセスは県道71号沿いに「←河内ダム」の看板があるところを斜め左に入っていき、道なりに進んで行くと到着します。

到着しました。これですね。斜面の緩やかなダムです。


左岸の貯水側には取水設備のための建物があります。


「河内ダム」の看板。

淡路市はダムと表記しているものの、兵庫県はここをため池とみなし、指定貯水施設と位置付けているようです。


これがダム上。歩いてみましょう。


ダム上、中央から見た貯水側の様子。向こうには取水塔が見えます。


一方、下流側の景色はこんな感じ。


右岸寄りのところには「豊水和心」と刻まれた石碑があります。文字通り訳せば「豊かな水は心を和ます」ですが、出典は不明。

その裏側には諸元が記されています。1986年7月竣工。


石碑のさらに右岸側には越流式の洪水吐があります。増水すると水はここから溢れ出て、

この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。


右岸から見たダムの様子。


ご覧の通り、ダム上から下流側を見るとずいぶん高い場所にあるように感じられます。ダム便覧のデータによると高さは24.0mだそうですが、この数値の典拠はどこなんでしょうね。
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淡路島の常盤ダム

2023-01-21 07:03:19 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県淡路市野島常盤(のじま ときわ)にある野島川水系の常盤ダムを訪れます。アクセスは県道31号の「常盤ダム」の看板のあるところを入っていき、そのまま県道460号を進んで行くと到着します。

そういえば、同名のダムは長野県木曽郡にもありましたね(参考)。さらに北海道小樽市にも上水道専門の同名のダムがあるようです(未見)。

…てなわけで、右岸に到着しました。アースダムのようです。


右岸の県道460号沿いには水神様?が祀られています。

平仮名で「おさいせん」と書かれていると、なんだか優しい気持ちになります。


県道とダム上は繋がっています。これがダム上。


「常盤ダム」の表示。


1974年3月竣工。


ではダム上を歩いてみましょう。ダム上、中央から見た貯水側の景色。


一方、下流側はこんな感じ。写真には写っていませんが、右側には瀬戸内海が少しだけ見えます。


さらに左岸へ向かうと建物が…。管理所かなと思いきや、

門柱には「北淡路開拓建設事業 中央管理事務所」

そして建物には「北淡路土地改良区事務所」の文字。いずれにしても常盤ダムはここが管理しているようです。


さらに奥へ進むと、越流式の洪水吐が。ここから溢れ出た水が野島川となって播磨灘に流れ込みます。向こうに見える黄色い建物は「北淡自然休養村センター」。


ダム便覧には「常盤川水系」と書いてありますが、地図で見る限り野島川が播磨灘に流れ込んでいるので「野島川水系」が正しいように思います。というか、この付近に常盤川なんてなさそうなんですけど…。
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穏やかに貯留!…谷山ダム

2023-01-20 06:58:51 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県淡路市楠本(くすもと)にある楠本川水系の谷山ダムを訪れます。このダムは前回記事にした大谷池の右岸の道をそのまま道なりに下ってくると到着します。つまり大谷池から溢れ出た水が谷山ダムへ流れ込むというわけです。ダム名は大谷池から下ってきた途中の地名(谷山)に由来するものと思われます。

その道を下ってくると谷山ダムの右岸に辿り着きます。これがダム上。ダムは1974年3月竣工。




ダム上、中央から見た貯水側の景色。


一方、下流側はこんな感じ。


洪水吐は左岸側にあります。越流式のもので、増水すると水はここから溢れ出て、

この水路を通って、あちらへ流れてゆきます。


「谷山ダム」と表示された看板。後からわかったのですが、兵庫県ではため池にはこのタイプの看板がほぼもれなく取り付けられています。


左岸、下流側から見たダムの様子。


洪水吐からの水路の横にあるこの建物は「谷山ダム管理所」。



そして、対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。写真下に見える橋の下が洪水吐からの水路。


左岸、貯水側から見たダムの様子。


左岸の隅っこには何かを祀っている仏像があります。


上流の大谷池と比べ、同じアースダムでありながら規模も大きい、しっかりしたダムという印象でした。
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ダムとしても認定!…大谷池

2023-01-19 06:59:52 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回から淡路島のダム巡りをしていきますよ〜。まぁ、淡路島といっても兵庫県ですからね。兵庫県のダム巡りの続きっちゃあ続きなので、だからなんだと言われても困るんですが…。

最初に訪れるのは兵庫県淡路市楠本(くすもと)にある楠本川水系の大谷池(おおたにいけ)です。アクセスは神戸淡路鳴門自動車道の淡路インターチェンジを降りて県道157号を仁井方向へ左折。そのまま進んで行くと左側に白く大きな仏像(開鏡大観世音)が見えてくるので、そこを左折。道なりに進んで行くと目的地に到着します。

この大谷池はダム便覧にも載っていますが、兵庫県はこれをため池とみなしていて、そのデータベースによると高さは16.6mと記載されています。この高さゆえダム便覧ではダムとして認定して載っているんだと思われます。

アクセス通りに来ると、ダムの左岸に到着します。左岸側に洪水吐がありますね。


これが左岸から見たダム上になります。白いガードレールの下が洪水吐からの水路で、


そこから洪水吐を見ると、こんな感じ。越流式のしっかりした洪水吐です。増水すると水はここから溢れ出て、


この水路を通って、あちらへ流れてゆきます。


大谷池の看板。隣にはここが洪水調節をする指定貯水施設であることを示す看板があります。


ダム上、中央から見た大谷池の様子。


一方、下流側の景色。島の中にいるとは思えない不思議な感覚。


「バス禁止」…? これだけ見ればダム上はバスの通行が禁止されているようにも見えます。もっとも、こんな細い道にバスは来ないでしょうけど。言うまでもありませんが、ここでいう「バス」は魚のブラックバスのことで、おそらくそれを放流してはいけないという意味なんでしょうね。なんとも言葉足らずです。


対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。


2008年には優良ため池として表彰されています。あらら、ここには「大谷ダム」と記されていますね。


右岸、下流側から見たダムの様子。アースダムであるのがわかります。


右岸の大谷池側にあるこの建物は見張所でしょうか。それを示すものはありませんでした。


写真には写っていませんが、たまたまなのかもしれませんが、地元に住んでいると思しきカップルが何組もここに来ていました。デートコース?
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治水専用ダム?…安富ダム

2023-01-18 06:56:47 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県姫路市安富町皆河(やすとみちょう みなご)にある揖保川水系の安富ダムを訪れます。アクセスは国道29号の「安志南(あんじみなみ)」信号のT字路を夢前方面へ曲がり、県道23号に入ります。そのまま直進し、県道430号へ進み、そのまま道なりにドンドコ行くと目的地に到着します。

地名の安富町は1956年7月1日に安師村(あなしむら)と富栖村(とみすむら)が合併して発足したもので、各村から1文字ずつ取って命名されたもの。その当時は宍粟郡(しそうぐん)に属する町でしたが、2006年3月27日に姫路市に編入したことで宍粟郡は消滅。安富町の名称はそのまま姫路市の地名として残っています。また、皆河の由来はミナ(水)ゴウチ(河内)が元の意味で、水の豊富な河谷という意味だそうな(参考)。

そうこうするうちに到着。まずは左岸から見た「ご尊顔」をご覧ください。治水ダムなのかな。


順を追って見ていきます。県道430号沿いの、ダムの入口のところにある建物は「兵庫県姫路土木事務所 安富ダム管理所」。



管理所の前には兵庫県のダムではおなじみのロボット型のタイムカプセルがあります。カプセルにはダム建設に関する資料が詰め込まれているそうな。それにしてもロボットが泣いてるように見えますね。



ダム横には「安富ダム」と記されたモニュメントがあります。これは何を表現したものなんでしょうね。



右岸のダム上の入口のところにも「安富ダム」とレリーフされたものが。昭和59年(1984年)9月竣工。


右岸、下流側から見た「勇姿」。


では、ダム上を歩いてみましょう。


ダム上、中央から見た貯水湖の様子。国土地理院の地図によれば、この貯水湖名は「富栖湖(とみすこ)」。名称の由来はおそらく安富町と、その隣にある宍粟市山崎町母栖(しそうし やまさきちょう もす)から1文字ずつ取って命名されたのではないかと思われます。

ふと、目を落とすと吸い込まれそうになる穴が!ちょっと足がすくみます。


一方、ダムの真下を見下ろしてみます。

そして、下流側の遠景。


対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。


左岸、「富栖湖」側から見たダムの様子。あの穴は上のリンク先の説明によれば半円越流オリフィス形式による常用洪水吐らしい。



県営ダムでありながら現場に築造の経緯や諸元などの案内板がないのは残念。見学者には優しくないなぁと思ったり…。

さて、次回からはしばらく淡路島のダムを巡りますよ〜。お楽みに!
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兵庫県の菅生ダム

2023-01-17 06:55:48 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は兵庫県姫路市夢前町莇野(ゆめさきちょう あぞの)にある夢前川水系の菅生(すごう)ダムを訪れます。アクセスは県道23号の「四辻」信号を「菅生ダム」方面へ曲がり、そのまま県道411号を道なりに進み、「文殿(ふどの)トンネル」を抜けたところを右折すると目的地に到着します。

「莇野」という地名は文字通りアザミ(莇)が群生する野という意味なので、おそらくかつてこの場所にはアザミが多く生えていたと思われます。また、ダム名は菅生川を堰き止めて築造したことによるのでしょう。そういえば宮城県大崎市にも同名のダムがありましたね。もっとも、こちらのダム名は地名に由来しますが。(参考

ま、そんなわけで菅生ダムに到着しました。右岸から見るとこんなフォルムです。


実はトンネルを抜けたダムへの入口にはこれらの案内板があります。

ダム湖名は「明神湖」で、この貯水池が明神山(みょうじんさん:標高688m)のふもとにあることに因んだものらしい。明神山の由来はその頂上に獄大明神(たけだいみょうじん)が祀られていたためで、かつては明神が獄(みょうじんがたけ)と呼ばれていたそうな。

菅生ダムの諸元が記された石板。1972年4月着工で、1978年3月に竣工とあります。

その後、2008年10月に改良工事が行なわれ、ダムの高さを70cm嵩上げして55.0m→55.7mしたことで、堤体積も95,800㎥→96,600㎥となり、2011年1月に完成したとあります。そして上のリンク先に書かれているように、それまではゲートにより放流していたのが、改良工事後には自然調節方式ダムに変更されています。


その案内板付近から見たダムはこんな感じ。


右岸のダム横から下流方向の斜面にはこのような通路があり、

その先には「菅生ダム」と刻まれた石碑があります。裏側には改修以前の諸元が記されています。



右岸のダム横に戻り、ダム上を歩いてみることにします。


ダム上、中央から見た「明神湖」の景色。


一方、ダムの真下はこんな感じ。

そして下流側の遠景。色彩がちょっと変ですが、これは撮影したスマフォのせい。


左岸、「明神湖」側にあるこの建物は「兵庫県姫路土木事務所 菅生ダム管理所」。



そこからダムを見ると、こんな感じ。


管理所の前には兵庫県のダムではおなじみのロボット型タイムカプセル。

ダム築造に関する様々な資料がカプセルの中に収められています。


宮城県の同名のダムは見ることができませんでしたが、こちらのダムは無事見ることができてよかった(笑)
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