ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

日本人による初アーチ式…鳴子ダム

2022-09-30 12:55:49 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県大崎市鳴子温泉岩渕(なるこおんせん いわぶち)にある北上川水系の鳴子ダムを訪れます。昨日の記事で書いたように国道108号線沿い、すなわち鳴子ダムの左岸側にはこれに関係するものがありました。それだけに期待は膨らみます。

まずは下流から見た「ご尊顔」をご覧ください。険しい場所に築造された治水ダムということがわかります。



では、順を追って見ていきましょう。国道108号を江合川(えあいがわ)上流方面から下ってくると鳴子ダムの管理所が見えます。



管理所へ行くにはこの坂を登ります。


坂を登ると管理所の入口があります。


そこから見たダムの様子。おっ、アーチ式じゃないですか!


先ほど登った坂でなく、下流方向へ行く坂を降りたところには「鳴子ダム記念碑」が建っています。そこにはダム築造の経緯が記されています。



それによれば、江合川は大正6年(1917年)以来改修工事を行なってきたが、昭和19年(1944年)に発生した洪水は計画水量を上回り、昭和22年9月のカザリン(カスリーン)台風と翌年9月のアイオン台風はそれ以上の水量による大洪水となり大災害となった。このため改修工事は大幅な見直しが迫られることになり、北上特定地域綜合開発計画が立ち上げられ、その一環として築造されたのが鳴子ダムだそうです。当該ダムは北上川下流部の洪水防禦を主目的とし、灌漑用水の供給と発電を目的として築造されました。先にも見たように鳴子ダムはアーチ式が採用されていますが、これは日本人のみの手による最初のアーチダムだそうです。ほほぉ〜。

では、ダムへ向かいます。アクセスするには国道を少し下ったところに入口があり、そこから入っていきます。しかしクルマは途中までしか行けません。そこからは歩いて行きます。



案内板です。これでルートがわかりますね。


途中にある看板。さらに5分歩きます。


鳴子ダムは2016年に土木学会選奨土木遺産に選定されています。


説明によると、鳴子ダムは1952年に建設省(現在の国土交通省)により着手され、1957年10月に完成したとあります。


ダム放流バルブ(ハウエル・バンガー・バルブ)。ダム完成時より30年間使用されたもの。これは1935年にC.H.ハウエルとH.P.バンガーが発明したもので、水の放出部分に円錐状の弁を付けることで水を霧吹きのように拡散させます。そのメリットは放出の際に空気を取り込むので水の運動エネルギーを大きく減少させることが可能という点だそうで。




「慈水永遠」と刻まれた石碑。これは昭和60年に干魃が起こったが鳴子ダムの放流により稀に見る大豊作となったことに感謝し建立されたもの。


説明パネル三点。






左岸、ダム湖に来ました。四季折々の様子が楽しめるという案内板。



その隣には鳴子ダムの概要が記されたプレート。これによると工事に着手したのは1952年5月のようですね。



左岸から見たダムの様子。おおっ、アーチってますな!



ダム上は、こんな感じ。空から見てもわかるようにダム上には「なるこダム」とペイントされています。



ダム上、中央から見た貯水側の景色。



94.5mの高さから見たダムの真下。いや〜、足がすくみます。



そして下流側の遠景。



対岸(右岸)に来ました。うん、アーチってる。向こうの山腹に見える建物が管理所です。



左岸側に見えるこれは洪水吐ゲート。



右岸から見たダムの様子。



偉業という表現がピッタリなダムです。ぜひ訪れてみてください。
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鳴子ダム関連の諸々

2022-09-29 10:33:43 | ドライブ関連
どーも、ワシです。えー、今回はダムじゃありません。昨日記事にした上大沢ダムから次の目的地である鳴子ダムへ向かう途中、国道108号を走っていると道沿いにこんなものを見かけました。



「ふるさと緑の道」

気になったので立ち寄ってみました。調べてみると、これは宮城県政100年を記念して昭和47年(1972年)に整備されたものだそうです。そのルートは大きく分けて奥羽山系ルート(254km)と北上山系ルート(103km)の合計357kmからなる道で、17のモデルコースに細分化されているそうな。これらを回ることで宮城県の豊かな自然に親しむことができるんだそうです(参考)。なので、この場所は「ふるさと緑の道」の起点というわけではなく、モデルコースの1つの途中にあるというだけの話。ふぅ〜ん。

その敷地内には直立した銅像が建っています。この人物は誰なんだろうか…。



どうやら地元出身の政治家である高橋清治郎(たかはしせいじろう:1894-1957)のようです。明治大学の教授から衆議院議員となり、国民年金制度創設に尽力。そして鳴子ダムの築造にも貢献したそうな。なるほど、だから銅像は鳴子ダムのほうを向いているんですね。この銅像は彼の没後30年を記念して1987年に地元有志により建立されたそうです。





近くには「荒雄川発電所 水没の碑」があります。



その裏側には説明文が。転記すると、

「荒雄川発電所 水没ノ碑
昭和二年元仙北電気株式会社 此ノ地に出力八百五十K wノ水力発電所ヲ建設セルモ ソノ后宮城県電東北配電東北電力ヘト継承サレ 昭和三十二年鳴子ダムノ建設ニ伴イ水没ス ココニ往時ヲ偲ビ記念スルモノナリ
昭和四十五年八月」



【江合川の由来】(参考
補足すると、鳴子ダムは江合川(えあいがわ)を堰き止めて築造されたのですが、江合川は源流の荒雄岳(あらおだけ:標高984m)から鳴子ダム下流の旧岩出山町付近までは荒雄川とも呼ばれ、そこから下流は玉造川(たまつくりがわ)とも呼ばれています。現在ではそれらを統一する名称として江合川と呼んでいますが、その由来は下流の大崎平野の中心である旧古川市の江戸時代以前の地名「江合村」にちなむもののようです。

なるほど、だから鳴子ダムの左岸を走る国道沿いのこの地に高橋清治郎の銅像や水没の碑があるんですね。

学びました。
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ダム上だけ時間が…上大沢ダム

2022-09-28 06:55:05 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県大崎市鳴子温泉鬼首三杉(なるこおんせんおにこうべ みすぎ)にある北上川水系の上大沢(かみおおさわ)ダムを訪れます。アクセスは国道108号から最上へ向かう県道63号へ入り、そのまま道なりに進んでいくと到着します。

当該ダムはその北西にある禿岳(かむろだけ:標高1,261m)を水源とする上大沢川を堰き止めて築造されたもので、上大沢川では古来よりたびたび局地的・突発的洪水が発生していたそうな。そこで洪水調節と水道用水確保のために築造されたのが上大沢ダムで、1984年から調査を開始し、2003年に完成したという(参考)。

このダムは形がイレギュラーなため、県道63号からダムへ向かうとダム横でなくダム上の中央近くに繋がっています。そこから左岸方向を見ると、こんな感じ。



というわけで、まずは左岸方向へ。左岸へ向かう道は袋小路になっていて、そこには「定礎」の石碑。1996年11月1日という日付が確認できます。



そこから見たダム上。緩やかなアーチを描いています。ダム上に見えるクリーム色の建物は工事業者が臨時に設置したもののようで、本来はない建物だと思われます。



ダム上のほぼ中央から見た貯水側の景色です。



一方、下流側はこんな感じ。



まあまあ長いダム上を歩いて対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな景色です。



県道に戻ります。実は最初に目にするのがこの表示板なんですよね。これを見て「ああ、これが上大沢ダムなのか…」と気づくんです。



洪水吐は左岸側にあります。越流式ですが、高さが2段階になっていて低水位用と高水位用に分かれています。そして増水すると水はここから溢れ出て、県道の下を横切る水路を通って、



あちらへ流れてゆきます。



上大沢ダム管理事務所は県道沿いにあります。





その近くにある表示板。この表示で当該ダムの形が理解できると思います。最上鬼首線というのは県道63号の別名。



県道63号は時間帯にもよりますが、なかなかの交通量があります。でも、ちょっとダム上に足を踏み入れると途端に時間がゆったり流れる感じがして不思議でした。
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知り、学べる!…釜房ダム

2022-09-27 06:59:45 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県柴田郡川崎町小野大平山(かわさきまち おの おおだいらやま)にある名取川水系の釜房(かまふさ)ダムを訪れます。ダム名は右岸に釜房山(標高:384m)があるのでそれに由来するものと思われます。アクセスは目的地がその釜房山を囲むように走る国道286号沿いにあるので迷うことはないでしょう。

まずは右岸の国道側から見た釜房ダムの全景をご覧ください。左岸の高台に見える建物が釜房ダムの管理所です。この場所は国道に面したちょっとした駐車スペースになっていて、



このような案内板があります。



右岸のダム横に来ました。下流側から見たダムの様子です。



右岸から見たダム上。車両通行可ですが、国道およびダム上の道は意外に交通量があるため停車しないほうが良いと思います。



というわけで、左岸のダム横にクルマを停め、そこから貯水側の景色を撮りました。



そして、ダム下とその遠景。





左岸、ダム横には釜房ダムの諸元が刻まれた碑があります。それによれば、当該ダムは名取川改修計画の一環として戦前に計画され、1941年に築造に着手したものの太平洋戦争勃発により一時中断。そして1966年4月に建設省(現在の国土交通省)直轄事業として着工が再開され、1970年に竣工したと記されています。





裏側の諸元表。貯水湖名は「釜房湖」なんですね。


左岸の取水塔のところには水利使用標識。



左岸はちょっとした公園になっていて、そこには釜房ダムに関する説明看板があります。





「釜房湖」はダム湖百選にも選ばれています。



続いて、左岸側の坂を登って管理所へ行ってみます。これが近影。





管理所付近からダムを見ると、こんな感じ。写真左上に見えるのが釜房山で、その麓を走っているのが国道286号。



管理所の近くには「ふれあい学習資料館」というのがあり、開館時間は8:30〜17:00。職員のおねいさんが丁寧に説明してくれます。資料館の床面には周辺地図が描かれていて、釜房ダムを知るにはとてもわかりやすいです。ダムに関する資料もいくつかいただきました。ファミリーで行っても楽しめる場所だと思います。
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認定されたのなら…村田ダム

2022-09-26 06:54:28 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県柴田郡村田町足立(むらたまち あしたて)にある阿武隈川水系の村田ダムを訪れます。アクセスは県道31号沿いにある「特別養護老人ホーム 柏松苑」の看板のあるT字路を入り、そのまま道なりに進んで行くと到着します。

これが左岸、貯水側から見たダムの様子です。手前に少し見えるのが洪水吐です。



左岸から見たダム上。あれれ、2014年6月のストリートビューでは何の規制もなくダム上に行けたようですが、現在はご覧の通り立入禁止になっています。しょぼん。



仕方がないのでその場所から洪水吐から下流へ向かう水路を撮りました。



ダム横には「村田ダムの概要」と表示された案内板があるんですが、ペンキがかなり剥げ落ちていてほとんど読解不能。



その横には水利使用標識。かんがい用のダムのようです。



さらにその右側には「水源の森百選認定記念碑」。水源の森百選とは1995年7月に林野庁が森林の役割を理解してもらおうと全国の水源の森から100箇所を選定したもの。この「谷山水源の森」(1995年8月4日認定)は村田ダムを含む蔵王連峰東部の標高150mから430mまでの丘陵を指し、アカマツやスギなどの針葉樹やイヌブナやコナラといった広葉樹が広く群生している場所らしい。(参考



左岸、貯水側の少し高い場所にある建物が「村田ダム管理事務所」ですが、フェンスに囲まれていて近づくことはできません。





せっかく水源の森百選に認定されているのに村田ダムの概要も不明だし、ダム上にも行けないのは何とも残念でなりません。トータル的に考えると、見学者のための整備が必要であると思われます。なんでもかんでも禁止すれば良いというものではないでしょう。
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明媚な農業用ダム…川原子ダム

2022-09-25 06:52:20 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は宮城県白石市福岡八宮川原子上(ふくおかやつみや かわらごかみ)にある阿武隈川水系の川原子ダムを訪れます。アクセスは県道254号沿いにある「蔵王キツネ村」の看板のあるT字路を入り、そのまま行くと「川原子ダム」と書かれた小さな看板のあるT字路があるので、そこを入って行くと到着します。

まずは右岸から見た様子をご覧ください。なごむ〜。



まあ、上に書いたアクセス方法だと実際には左岸に到着するんですが、最初に目にするのがダム横にあるこの看板。ああ、農業用水専用のダムなんですね。



左岸から見たダム上はこんな感じです。このガードレールの下が洪水吐の水路になっていて、



そこから見た洪水吐がこちら。そして増水すると水はここから溢れ出て、



この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



水路に架かる橋を渡ると川原子ダムの案内板があります。ダム建設の経緯は次の通り。白石市福岡の水田はダムの北西に位置する蔵王連峰不忘山(ふぼうさん:標高1,705m)中腹から流れ出る青沢を水源として川原子用水路でかんがいしてきたが、青沢の水量が少ないため、度々旱魃の被害に遭っていた。戦後の国策として食料増産が進められていたこともあり農業用水を確保する必要性から宮城県営川原子用水改良事業としてこの地にダムを建設したという。工事の着工は1951年4月1日で、1969年3月31日に竣功したそうな。形式は均一型フィルダム。







その横には「川原子ダム完成記念碑」があります。竣功の三ヶ月後に建立されたこの記念碑には上に記した経緯を簡略化した内容が刻まれています。



記念碑の傍にはナゾの石碑。なんでしょうね。



その奥には管理棟らしき建物があります。でも、施錠されていて近づくことはできません。



近くにはこんな立て看板が…。「みやぎ蔵王三十六景」? これは仙南のシンボルである蔵王を背景とした素晴らしい景観を36箇所選び、観光資源をPRする目的で2004年3月に選定されたそうです。川原子ダムは、なんとその筆頭にあるじゃありませんか!おおーっ。





ダム上を歩きます。中央から貯水側を見ると美しい景色が広がっています。遠くに見えるのがおそらく不忘山ではないでしょうか。



一方、下流側はこんな感じ。



対岸(右岸)に来ました。振り返ってみます。



農業用のダムというと一般的には機能を優先した殺風景なものが多いんですが、川原子ダムは「みやぎ蔵王三十六景」に選ばれただけのことはあり、確かに観光名所としての魅力は充分に備えていると思います。
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瞠目、瞠目!…七ヶ宿ダム

2022-09-24 07:02:34 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県刈田郡七ヶ宿町切通(かったぐん しちかしゅくまち きりとおし)にある阿武隈川水系の七ヶ宿ダムを訪れます。アクセスは国道113号沿いに「七ヶ宿ダム管理所」の看板があるので、そこを入って行くと到着します。

当該ダムは国道から入っていきますが、国道沿いには展望公園があり、そこから「ご尊顔」を拝むことができます。



展望公園はこの上にあります。その斜面には写真では分かりにくいですが「七ヶ宿ダム」の文字が見えます。



斜面には流木で作った「七ヶ宿オオクワガタ」がいます。



展望公園に上ると、こんなモニュメントがあります。何を意味しているのか、そして作者は不明。



そして七ヶ宿ダムの案内。洪水調節、流水の正常な機能維持、農業用水の供給、水道用水及び工業用水の供給を目的とする多目的ダムのようです。







改めてダムを眺めてみます。いやぁ、デカイな。



では、ダム横へ行ってみましょう。展望公園の横にある道を進んで行くと左岸に辿り着きます。



このあたりから下を見ると洪水吐の水路が見えます。



左岸から見たダム上。行ってみましょう。



先ほど見た洪水吐の水路をダム上から見ると、こんな感じ。



その遠景。



「しちかしゅくダム」のプレート。(左岸下流側)

「七ヶ宿ダム」のプレート。(左岸貯水側)


ダム上、中央から見た貯水側の景色。


湖上では定期的に噴水が上がっています。

「噴水打上開始の案内」1日に7回打ち上げがあるようです。


一方、下流側はこんな感じ。



「しちかしゅく湖」のプレート。(右岸下流側)

「七ヶ宿湖」のブレート。(右岸貯水側)


左岸、右岸のすべてのプレートは七ヶ宿ダムに関係した4人のエライ人たちが揮毫しています。

右岸の高所には「七ヶ宿ダム」の文字。



対岸(右岸)から振り返ると、こんな感じ。



右岸、貯水側から見たダムの様子。



同、下流側からダムを見ると、こんな感じ。



【七ヶ宿の由来】(参考
そこらじゅうに「七ヶ宿」が出てくるので、その由来について調べてみました。現在は国道113号になっていますが、昔は「山中通小坂越」と呼ばれる街道で、この街道沿いに仙台藩が管轄する7つの宿場(上戸沢、下戸沢、渡瀬、関、滑津、峠田、湯原)があったことに由来するそうな。そのうち上戸沢宿と下戸沢宿は現在の白石市にあったもので、残る5つの宿場の中心は以前は渡瀬宿でしたが、七ヶ宿ダムの完成とともに水没。現在その役割は関宿地区が担っているそうです。また滑津(なめつ)宿には安藤家本陣の建物が残っており、他に峠田宿と湯原宿があります。

ちなみに安藤家本陣とは江戸時代の参勤交代の際、奥羽地方の13大名が宿泊もしくは休憩した場所のこと。参勤交代は1635年に徳川家光によって始められ、1867年の大政奉還まで続いた地方大名などを江戸へ出仕させる制度ですが、地方大名にしてみると道中が長いため各所で宿泊などをしなければなりませんでした。安藤家は天保期(1831-1845)以降その屋敷を宿泊所として奥羽地方の大名たちに提供したことで知られ、屋敷は昭和58年に修理されて現在に至っています。(参考

さて、左岸に戻ります。ダム横の道を奥へ行くと管理所があるようなので行ってみます。



管理所へ向かう途中の場所から見た洪水吐とダム本体の様子。いや、本当にデカイです。





七ヶ宿ダム管理所に来ました。入口のところにはたくさんの木彫りの動物やら魚やら人魚が置かれています。なんとも賑やか!









管理所から洪水吐を見ると、こんな感じ。



管理所の奥には「七ヶ宿ダム竣功記念碑」。平成3年(1991年)10月とあります。上のリンク先にダム築造の年表が載っていますが、それによると同年10月22日に竣工式が行われたとあります。



まあ、とにかくスケールが大きいので一度訪れてみたら良いと思います。
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ティラミスサンドのケーキ

2022-09-23 07:06:32 | 脳みその料理
どーも、ワシです。えー、今月のデザートでございます。これはカカオのスポンジケーキの間にティラミスを挟んだもの。もちろんラム酒を入れているので味はティラミスそのもの。



まいう〜でございます。
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農業用ダムとしてはオシャレ!…松ヶ房ダム

2022-09-22 06:58:06 | 福島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は福島県相馬市山上松ヶ房(そうまし やまかみ まつがぼう)にある宇多川水系の松ヶ房ダムを訪れます。アクセスは国道115号沿いにある「松ヶ房ダム」の看板のあるT字路から入ってそのまま行くと左岸に到着します。途中「←ダム管理事務所」の看板のあるT字路を入っていくと右岸に辿り着くことができます。今回ワシは管理事務所のほうの道を行きました。

おー、見えてきました。これですね。



右岸の奥にあるこの建物が「松ヶ房ダム管理事務所」。





そこから見た景色。手前には立派な洪水吐が見えます。



「定礎」は昭和61年(1986年)11月。



右岸のダム横には松ヶ房ダムの案内板。ダム湖名は宇多川湖(うたがわこ)。湖名は宇多川を堰き止めてダムが築造されたのでそう命名されたのだと思います。「概要」によると農業用水確保のために築造されたダムで、その位置は福島県と宮城県にまたがっているそうな(ダムの管理は福島県)。



その隣には「豊潤成就」と刻まれた石碑。これは県営かんがい排水事業相馬地区竣工を記念して建立されたもので、



「事業概要」によると、この地区は阿武隈山系から流れ出る日下石川、宇多川、小泉川、地蔵川、三滝川の5つの河川が主な水源になっています。しかしながらこれらの河川は勾配が急で、かつ水量が乏しいため常に用水不足に悩まされてきました。それに対処するため江戸時代には220ものため池が作られたそうですが、老朽化が著しく深刻な問題となっていました。この地に松ヶ房ダムが築造されたのはそうした問題を解決するためで、県営かんがい排水事業はダムを建設するとともに相馬第二地区では頭首工と用水路を新設。これらはこの地域の農業振興のための中核的な基幹水利施設の役割を担っているようです。


石碑の裏側には「碑文」が書かれていて、松ヶ房ダム築造の詳細な経緯が記されています。利水ダムの建設計画は何度も持ち上がったものの、どの場所に築造するのかがなかなか決まらずそれ以上進展しなかったそうです。そして昭和53年(1978年)4月、ダム建設を求める運動が起こり、相馬市と新地町の合意のもと同年12月より福島県営かんがい排水事業として調査が始まります。宇多川を遡り、適地として選ばれたのが現在の場所で、地権者の理解のもとで築造が開始。かくして平成9年(1997年)5月30日に宇多川湖は満水となり松ヶ房ダムは完成に至ったのです。


では、ダム上を進みます。先ほども書いたように右岸側には洪水吐があります。増水すると水はここから溢れ出て、



この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



洪水吐の水路に架かる橋を渡った場所から見たダム上。実はこの場所から貯水側へ向かう道があり、その先には取水塔があるんです。これはちょっと珍しい設計かもしれませんね。たぶん。





ダム上を進みます。ダム上にある欄干の代わりとなる鎖。実物はなかなか太く、以前訪れた岐阜県の徳山ダムのダム上の鎖を彷彿させます。



ダム上、中央から見た宇多川湖の様子。写真左に見えるのが取水塔です。



一方、下流側の景色はこんな感じ。



ダム上、中央には福島県(右岸側)と宮城県(左岸側)の県境を表示するプレートが嵌め込まれています。福島県のプレートに描かれているネモトシャクナゲは福島県の県の花で、宮城県のそれに描かれているミヤギノハギも宮城県の県花です。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



車止めになっているコレ、右岸にもありましたがなんとも可愛らしい形をしています。



左岸、宇多川湖から見たダムの様子。



同、下流側から見ると、こんな感じ。




ちょいと気になったのはダム上。ご覧の通りダム上はなかなかオシャレなデザインになっていて、デザイナーのセンスを感じさせます。また、ダム上の中央はレンガ状の石が綺麗に敷き詰められていてカネをかけているのがわかるほど。ところが、その石があちこちで浮き上がっていて、ダム上を歩いているとちょっと不安になるんです。おそらく経年変化によりダム上の基礎が平らでなくなっているんじゃないでしょうか。



農業用のダムとしてはオシャレなダムだけに、その素敵な姿をキープし続けて欲しいなと思います。
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高の倉ダム(再訪2022)

2022-09-21 06:59:56 | 福島(ダム/堰堤)
えー、どーも、ワシです。今回からしばらく東北方面のダム関連施設を回ります。で、最初に訪れるのは福島県南相馬市原町区高倉細倉(みなみそうまし はらまちくたかのくら ほそくら)にある新田川水系の高の倉(たかのくら)ダムです。実はここ、昨年の12月に来たんですがその時は運悪く工事中でちゃんと見ることができなかったんです(参考)。というわけで今回再訪した次第。アクセス方法などはリンク先を参考にしてください。

まずは右岸から見た「勇姿」をご覧ください。やあやあ、こんなお顔でしたか。



…と、まあ、結果としてご対面することができたんですが、前回と同じく管理事務所のある左岸沿いの道を登ってくると、前回のような工事こそしていませんでしたが、なんと関係者以外立入禁止の表示が!





ダム下へ向かう道も同じように関係者以外立入禁止。ぬぁんと!



この時点では「嗚呼、またもや見ることができないのか…」と諦めムード。でも確か右岸からもアクセスできたことを思い出し、前回と同様に右岸へ移動することに。

右岸のダムへの入口に来ました。でもクルマで行けるのはここまで。ここからは歩いてダムへ向かいます。幸いなことに今回は立入禁止の看板がないのでダムまで辿り着けそう。希望の光が見えてきました。ちょっとウキウキしながらダムへ向かっていると…おおっ、あれか!



これが右岸から見たダム上です。早速歩いてみます。



ダム上、中央から見た貯水側の景色。



ダムの真下はこんな感じ。



そして下流側の遠景。



ダム上から左岸を見ると…あれが管理事務所でしょうか。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。



左岸、貯水側から見たダムの様子。



近くには「高の倉ダムの概要」を表示した案内板と水利使用標識が並んでいます。







先ほどの建物はやはり管理事務所でした。でも「高ノ倉」と表示されていますね。



「定礎」は1972年11月。



管理事務所付近からダムを見ると、こんな感じ。



衝撃だったのはこれ。セメントでシールドされた壁面が崩れていたんです。なるほど、それで左岸からの道は立入禁止だったんですね。



土砂がもう少し多ければ埋もれていたかもしれない「高の倉ダム」の石碑。あれ?ここでは「ノ」じゃなくて「の」になってますね。



諸元が記されたプレート。「位置」の欄が「福島県原町市高の倉」になっていますが、原町市(はらまちし)は1954年から2006年まで存在した市で、同年に鹿島町(かしままち)、小高町(おだかまち)と合併して南相馬市になったのに伴いそれまでの原町市は南相馬市原町区になりました。


石碑の裏側を見ると、ダムの着工は1972年1月で、竣功は1976年3月と記されています。


再訪してダム全体を見ることができたのは良かったのですが、壁面の崩れを目の当たりにするとダムが築造される場所というのは厳しい自然と隣り合わせなんだなと改めて思い知らされます。
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複雑な地形の狭間に…鴨川ダム

2022-09-20 06:54:33 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県加東市黒谷(かとうし くろだに)にある加古川水系の鴨川(かもがわ)ダムを訪れます。ダム名は鴨川を堰き止めて築造されたことに由来すると思われます。アクセスは県道75号から東条湖へ向かう県道313号に進んで行きます。そして「東条湖八景めぐり」の看板のある二又を右へ入って行くと到着します。

そのルートはダム横へ行く道順ですが、まずはダム下から見た「ご尊顔」をご覧ください。実はこのアングルを見つけるのはなかなか難しいんです。というのも複雑な地形の場所にダムが築造されているからなんですよ。



では、ダム横へ向かいます。クルマで行けるのは鴨川ダム気象観測所付近まで。そこからダムへは歩いていきます。で、そのあたりには「鴨川ダム改修記念」と刻まれた石碑があります。裏側には平成8年(1996年)11月とあるので、改修工事はその頃に完成したものと思われます。





ダム横へ行く途中には「鴨川ダム(東条湖)案内図」があります。東条湖というのはダム湖名なんですね。「あらまし」を読むと、この地域は昔から有数の少雨地帯だったためその対策としてため池を作り、灌漑用水として利用していたようですが、慢性的な水不足と施設の不備から毎年干魃被害を受けていたそうな。そのため戦後の食料確保と農業の合理化を図る目的で昭和22年(1947年)7月から国営の灌漑排水事業が始まり、新たな水源を確保すべく鴨川ダムを築造するに至ったようです。そして施設の機能維持と安全性を確保するため昭和62年(1987年)には改修工事が開始されたとあります。そして上にあるようにその9年後に改修工事が完了したというわけですね。





近くにある複数の石碑。これらは何を意味するものなんでしょうね。



ダム横近くにある水利使用標識。



そのあたりからダムを見ると、こんな感じ。



ダム本体に嵌め込まれたプレート。築造当時の名称は「鴨川堰堤」で、築造に着工したのは昭和23年7月で、昭和26年(1951年)11月に竣功したと記されています。





これが右岸から見たダム上です。歩いてみましょう。



ダム上、中央から見た東条湖の様子。昨日の記事で書いたように大川瀬ダムで貯えられた水の一部は導水路(4.8km)を通ってここへ流れ込んでいるんですね。



一方、ダムの真下はこんな感じ。副ダムが曲がってるのがわかりますね。



そして下流側の遠景です。こうして見ると、下流から「ご尊顔」を見つけるのが難しいかがわかるでしょ?



対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。



地図を見るとわかりますが、地形を変えずにダムを築造するのは本当に難しいんだろうなと思います。
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中継基地的な…大川瀬ダム

2022-09-19 06:51:57 | 兵庫(ダム/堰堤)
台風14号が西日本で猛威を振るっていますね。みなさん、ご注意ください。ご存知の通りダムは水害を防ぐ目的で築造されるのですが、できれば活躍しないに越したことはありません。特にダムに対して思い入れがあるわけじゃなく、たまたまダムを目的地として訪れているワシからするとなんとなく複雑な気分になります。

改めて、どーも、ワシです。今回は兵庫県三田市大川瀬(さんだし おおかわせ)にある加古川水系の大川瀬ダムを訪れます。アクセスは県道75号の「三田レイクサイド カントリークラブ」の看板のある交差点を入り、道なりに進んで行きます。

ダムへ向かう前に下流から「ご尊顔」を仰ぎます。おおっ、治水ダムっぽいですね。



先ほどの道を上っていくと道沿いに「鴨川・大川瀬ダム管理所」が見えてきます。





その近くの脇道を入ると、ある意味でダムの全景を見ることができます。でもそこからダムへ行くことはできないので別の道を探してダムへ近づきます。



右岸のダム横へ至る途中には「大川瀬ダム」と刻まれた石碑があります。



その裏側にはダムの諸元が白抜き文字で示されています。昭和59年10月に着工し、平成3年(1991年)6月に完成した重力式コンクリートダムとあります。


その付近から見たダムの様子。



ダム本体に嵌め込まれたプレート。あれ? ここでは平成3年(1991年)7月竣功と記されていますね。上の諸元からひと月遅れなのは何故なんでしょうか。



右岸、ダム横には「大川瀬ダムあれこれ!」と題された案内板があります。これを読むと、大川瀬ダムは加古川東部の播磨平野、東条川・美の川・明石川などの沿岸と北神戸地域への農業用水不足解消、および神戸市外6市6町への水道用水の安定的供給を図る水源施設のひとつとして築造されたものだそうです。さらにこのダム自体で貯水したものと、2日前に記事にした川代ダムから導水路(13.4km)により流れ込んできた水を合わせて大川瀬導水路(22.7km)へ送り、途中の分水施設、そして志染川(しじみがわ)にある呑吐(どんど)ダムへ送水。さらにさらに、次回記事にする予定の鴨川ダムへ導水路(4.8km)により供給する役割も果たしています。つまり大川瀬ダムは中継的な役割を担うダムというわけですね。







さて、いよいよダム上を歩いてみることにしましょう。



ダム上、中央から見た貯水側の景色。調べてみると川代ダム左岸の上流側にあった取水設備で取り込まれた水が川代導水路を経てここへ流れ込んでいることがわかります。



一方、ダムの真下はこんな感じ。



そして下流側の景色です。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。ここのダム上は直線ではなく、カクっと曲がっています。



左岸、下流側から見たダムの様子。これも絵になりますね。



右岸にある「大川瀬ダムあれこれ!」の案内板は年月が経ったせいか表面がパキパキに割れかけています。一見、区画されていない道路地図かと思いました。築造されてもう31年なので、そろそろリニューアルしてもいいかなあと思ったり…。
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たとえ白くても…黒石ダム

2022-09-18 07:00:37 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県丹波篠山市今田町黒石(たんばささやまし こんだちょう くろいし)にある加古川水系の黒石ダムを訪れます。アクセスは国道176号から県道36号(西脇方面)へ入り、そのまま道なりに今田方面へ進み、県道141号(三田方面)へ行くと到着します。

このアクセス方法だと上流から右岸に辿り着くのですが、こんな感じの景色が見えてきます。



ダム横近くには「黒石ダム概要」の案内板があります。農業用水確保のために築造されたセンターコア型フィルダムだそうです。「位置」の欄には「兵庫県多紀郡今田町黒石」とありますが、多紀郡今田町は1960年4月1日から1999年4月1日まで存在した町で、同日から篠山町(ささやまちょう)、西紀町(にしきちょう)、丹南町(たんなんちょう)と合併して篠山市となり、2019年5月1日からは丹波篠山市と改称されています。丹波篠山市になってもかつての今田町という町名を残しているのは珍しいそうな。



対岸(左岸)側には取水設備の建物が小さく見えます。(写真中央)



ダム横にある「黒石ダム概要」のプレート。これによると築造に着手したのは昭和48年(1973年)12月で、昭和51年(1976年)5月に完成したとあります。ところが「型式」の項目を見ると「センターコア型アースダム」になっています。あれれ、上の案内板とは違いますね。どちらが正しいんでしょうか。



で、いよいよダム上を歩くぞ!…と意気込んでみたものの、関係者以外は立入禁止とな!むむむむ。



ならば仕方がない。そこから貯水側の景色を撮るしかありません。



右岸から見たダムの様子。かなり立派なダムですよね。



地図で確認すると洪水吐は左岸側にあるようです。それにしてもダム上を歩けなかったのは本当に残念でした。
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頭首工やん…川代ダム

2022-09-17 06:54:19 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は兵庫県丹波篠山市大山下(たんばささやまし おおやましも)にある加古川水系の川代(かわしろ)ダムを訪れます。ダム名の「川代」はすぐそばに川代体育館というのがあるので地名(だった?)なのかもしれません。アクセスは国道176号と篠山川が交差するところに「川代ダム管理所」の看板があるのでそこを進んでいくと到着します。

到着しました。あれれ、これがダム? 頭首工のようにも見えるんですが。まあ、でも、これが「ご尊顔」。



国道176号から篠山川沿いに進んでくると、ダムはこんな風に見えます。



対岸(左岸)に見えるこれは取水設備でしょうね。写真の黒いところから取水すると思われます。



右岸から見た篠山川の上流方向の様子。



左岸の上流側にも取水設備があるようです。



これが右岸から見たダム上。でもなんか違和感がありますね。とりあえず歩いてみましょう。



本体に貼り付けられたプレート。平成3年(1991年)6月竣功とあります。でも堰堤高が9.0mなのでダムとは書かれていますが、定義上は堰堤になります。川代ダムがダム便覧に載っていないのはダムの条件(高さ15m以上)を満たしていないからですね。でも施工者である農林水産省が「ダム」と主張するので、この記事でもダムと呼ぶことにします。(しぶしぶ)



ここで使用されているゲート設備が完成したのは前年(1990年)の3月。



ダム上、中央から見た篠山川上流方向の景色。



一方、下流側はこんな感じ。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じです。



左岸、上流側から見た様子。



同、下流側から見た「五人衆」の勇姿。



右岸に沿って走る道路を挟んだ高台にあるこの建物が川代ダム管理所。



おそらく管理所から川代ダムはこんな風に見えると思います。



管理所の入口は右岸沿いの道を少し遡り、ぐるっと回ったところにあります。でもご覧の通り関係者以外は敷地内に入ることはできません。



形状は明らかに頭首工なのに農林水産省は頑なにダムと言い張るんですね。いったん決定したらテコでも動かない。まあ、それがお役所なんでしょうけど…。
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諸元の統一を!…佐仲ダム

2022-09-16 07:04:13 | 兵庫(ダム/堰堤)
へへへ、どーも、ワシです。えー、今回は兵庫県丹波篠山市小坂(たんばささやまし おさか)にある加古川水系の佐仲(さなか)ダムを訪れます。アクセスは県道97号から県道289号へ入り、高速道路(舞鶴若狭自動車道)を潜って行くと到着します。

さて、ダム名の「佐仲」ですが、これはダムの北西方向に「佐仲峠」というのがあり、ダムの水源もそちらから来ているのでこれに由来するものと思われます。余談ですがグーグル先生の地図の表記では「佐沖峠」になっています。先生、またやらかしてますよ!しっかりしてくだせぇ。

そんなこんなで、佐仲ダムの左岸に到着です。



当該ダムは県道289号沿いにあるのですが、ダム上の入口には橋で言うところの親柱があります。そのコンクリート塊には「佐仲ダム概要」と「佐仲ダム」のプレートが嵌め込まれています。これによれば、佐仲ダムは農業用水確保のために築造されたもので、工事着手は昭和50年4月、完成は昭和53年(1978年)3月とあります。





ダム横付近には「佐仲ダムの概要」が書かれた案内板があります。あれれ、先ほどのプレートと見比べるといくつか表記に相違がありますね。例えば「堤高」「堤体積」「満水面積」を見比べてみましょう。さらに「施工期間」も昭和49年12月〜昭和55年3月と書かれていて、これもプレートの記載と異なります。一体どちらが正しいんでしょうか。悩んでしまいます。



その案内板付近から見たダムは、こんな感じ。



左岸の県道を貯水方向に進むと取水設備の建物があります。



その壁には水利使用標識が貼られています。


そこからダム上を見ると、こんな感じ。



これが左岸から見たダム上です。歩いてみましょう。



すぐ近くには「区画漁業権設定」の看板。どうやら当該ダムでは許可されれば釣りをすることができるようです。もっとも、ワシは興味がないのでどーでもいいんですが。



ダム上、中央から見た貯水側の景色。水の色が素晴らしい!



一方、下流側はこんな感じ。ダムの高さが約40mあるせいでしょうか、まるでジオラマのようです。



右岸側には洪水吐があります。



洪水吐を違う角度から。越流式で、増水すると水はここから溢れ出て、



この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



洪水吐よりも中央側のところには何やら石碑があります。写真では木で覆われて見えませんが「清水洗心」と刻まれています。文字通り訳せば「清らかな水は心を洗う」ですね。



その裏側には昭和53年5月に建立されたと記されています。その下に「西紀町(にしきちょう)」とありますが、これは1960年元旦から1999年4月1日まで存在した町名で、同日から今田町(こんだちょう)、篠山町(ささやまちょう)、丹南町(たんなんちょう)と合併して篠山市となりました。その後、以前にも書いたように2019年5月1日に元号が令和になったのを機に丹波篠山市に改称し今日に至っています。


対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな景色です。写真下方のガードレールの下が洪水吐からの水路。



右岸、貯水側から見たダムの様子。



諸元の表記が案内板によって異なるのが気になるし、統一して欲しいなとは思います。それでも農業用ダムとしてはデータをちゃんと提示していて、さすが県営事業だけのことはあるなと感心。
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