ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

英国歌曲展

2005-03-31 22:43:56 | 音楽あれこれ
本日、東京オペラシティリサイタルホールで友人の声楽家である辻裕久氏の演奏会に行く。彼はイギリスの声楽曲を専攻しており、特にブリテン(1913-1976)の歌曲には造詣が深い。「英国歌曲展」というのは彼が企画する演奏会の名称で、今回で9回目となる。毎回興味深い作品が披露されるので、ワシはほとんど欠かすことなく出かけている。

今回取り上げた作曲家は、ガーニー(1890-1937)、ウォルトン(1902-1983)、ブリテンの3人。ガーニーなんて、よほどイギリス音楽に詳しくなければ知らない作曲家だ。《5つのエリザベス朝の歌》(1912)は初めて聴いたが、なかなかの佳品。心なしかバロックを意識したところも感じられる作品である。

ウォルトンの歌曲もなかなか面白かった。シトウェルの歌詞による《3つの歌》(1923)だが、どれも優れたピアノ書法で構成されているといってよい。第3曲「オールド・サー・フォーク」なんて、ある意味カプースチンのピアノ曲を思わせるよなあ。もっとも、書かれたのはウォルトンの作品のほうがはるかに早いのだがね。

ブリテンの《セレナーデ》(1943)はナチュラル・ホルンによるプロローグとエピローグの間に6つの歌曲が挟まれた作品。オリジナルは弦楽オーケストラで伴奏されるのだが、今回は細君でもある伴奏者なかにしあかね氏が編曲したもので演奏された。第4曲にあたる「葬送歌」は15世紀に書かれた作者不詳の歌詞で、完全に韻を踏んでいるものなのだが、音楽のほうは韻とは無関係にグイグイと展開する。

萩原顕彰のホルンは歌曲のなかでも登場したが、もうひとつ音程が定まらなかったな。いや、厳しいことを書くのはこの作品が同時代の名ホルン奏者として知られたデニス・ブレインを意識して書かれたからでもある。ブレインならきっと完璧に吹いたことは想像に難くないのだ。まあ、萩原にそこまで要求するのは酷というものかもしれないが。


(追記:2009/03/25)
業界および関係者の方々へ。ご本人と思われる方から度重なるご要望がありましたので、お答えいたします。この最後のパラグラフについてはあくまで個人的に感じたことを記したものであり、この時感じたことが絶対的に正しいというつもりはありません。従いまして関係者の皆様におかれましてはこの記述内容を鵜呑みにすることのないようお願いいたします。繰り返しますが、上記内容は単なる私見にすぎません。権威も何もない本ブログを根拠にしてご本人の力量を判断することは絶対にお止め下さい。

ただし、判断が妥当かどうかは別にして、この時に「感じたこと」は紛れもない事実ですし、思い感じたことを自由に記すのが本ブログの趣旨でもあります。匿名なら何を書いてもいいのかと思われるかもしれません。無責任じゃないかと。そうじゃないんですよ。匿名ではありますが、いわゆる「しがらみ」に縛られることなく、ひとりの人間として、またひとりのリスナーとして感じたままを率直に記すことができるから敢えてそうしているのです。そのようなわけで記事そのものを削除あるいは訂正するつもりはありません。

以上、この件について再度言及はしません。あしからず。
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愛・知窮迫?

2005-03-30 23:26:29 | 脳みその日常
昔の万博は、いわば国民的な行事だったのではないだろうか。大阪万博などは岡本太郎の「太陽の塔」をはじめ、話題に事欠かなかった。時代が進むにつれて、万博は一部の人だけが盛り上がるイベントになっている気がする。

今回の万博では、テロ防止の意味から会場に弁当などは持ち込んではならないという。それを知らない家族連れがもし手作りの弁当を持参してもNGなのだ。お母さんが早起きして作ったおにぎりも、家族は会場の中で食べることはできない。じゃあどうするかというと、入場者はみな会場内の施設を利用するしかないのだ。それはまるでどこかの「ねずみ島」と同じじゃないか。うーん、なんか違う気がするがねえ。

久しぶりに美容室に行く。ここでの最近の挨拶の言葉といえば「白髪、増えたねえ」だ。確かに、ここ数年で白髪が激増している。改めて鏡を見たら、白髪が集中しているところがあった。まるで白のメッシュを入れてるようで面白い。いや、面白がっている場合じゃないんだが…
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熱心な受講者

2005-03-29 23:56:54 | 脳みその日常
今日はいつもの講座の日。本年度からリニューアルした講座であるが、受講者の人数もそこそこ集まるようになった。ありがたいことである。

今回、4人ほど新しい受講者が来た。みな70歳前後の人である。講座の時間が昼過ぎということもあり、来るのは定年を迎えた人や専業主婦がほとんど。「新人さんたち」のなかにはスーツでビシッと決めたオジサンや、どこか気品を感じさせるオバサンがいた。ご丁寧にも講座の始まる前にワシのところへ挨拶に来た。いやー、そんな堅苦しいことしなくてもいいのに(苦笑)

こういうきちんとした人が話を聞きに来るので、こちらも気が抜けない。講座の終わりに質問時間をとるのだが、素人なりに疑問をぶつけてくる。なかにはトンチンカンな質問をする人もいるが、それは仕方のないこと。そうした場合にはピントのずれているところがどこなのかを具体的に説明して差し上げている。

きょうのテーマはベートーヴェンの《月光ソナタ》についてだったが、受講者のなかには妙なマニアもいて、違う意味で驚く。というのも、その人はベートーヴェン自筆のファクシミリ版を持参していたのだ! ファクシミリ版というのは自筆譜を撮影し、それを本にしたもので、かなり高価な代物なのだ。研究者ならともかく、フツーの人はもっていないのが当たり前。ワシだって持ってないのに…

いずれにしても、受講者はみなそれぞれに熱心で毎度感心させられる。来月はどんな「新人」が来るのか楽しみだ。
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知らんがな

2005-03-28 05:04:45 | 脳みその日常
少し前、モーツァルトの《ピアノ協奏曲第22番》を聴いた。その時のカデンツァといったら初耳も初耳。もうね、並行和音とかバシバシ出てくるし。違和感この上ない。なんでそんなカデンツァを弾くかなと思った。

しかし、あとになってそれが誰の作なのか気になり始めた。そうなると調べないわけにいかない。すると、あるわ、あるわ。判明しただけで次のヴァージョンの存在を突き止める。ブリテン、ブゾーニ、アンダ、バドゥラ=スコダ、フロム=ミヒャエルズ、フィッシャー、ケンプ。

うへぇー、こんなに多くの人がこの協奏曲のカデンツァを書いているのか。ま、モーツァルト・オタクなら知っていることかもしれんが、ワシはあまり興味のないところなので当然知らなかった。いやいや、お恥ずかしい。

で、記憶を頼りに当日のカデンツァが誰のものなのか確認する。すると、どうやらブゾーニのもののようだ。なるほど、ブゾーニなら並行和音とか使いそうだな。納得。時間があれば、残りの協奏曲についても調べてみるとするか…
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今日は寝曜日

2005-03-27 22:16:40 | 脳みその日常
今日はやたらとゴロゴロしていた。昨日整備工場で念入りにコーティング作業をした疲れが残っていたのかもしれない。身体はヘトヘトになったが、クルマはピカピカ♪

さあ、今週も頑張ろう!
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ありがたいことぢゃ

2005-03-26 23:54:25 | 脳みその日常
本日は馴染みの整備工場へ行く。いつものオイル交換とタイヤ履き替えのためである。タイヤは春になったのでスタッドレスからノーマルにしてもらう。スタッドレスは「踏ん張り」がきかないためコーナーではフラフラしていたが、これからはノーマルなので、タイトなコーナーでもしっかりとグリップしてくれそうだ。これでますます深夜のドライヴに拍車がかかること間違いなし。

ところで、ここの社長は特別音楽が好きというわけではない。にもかかわらず、昨年ワシが「クラシック・イン」のことを宣伝しておいたら、自発的に定期購読してくれていることが判明。もちろん、この商品は値段の割にお買い得であるから、くだらないCDを買うより遥かに良い。いや、手前味噌というわけじゃなくてね。

嬉しかったのは、社長が自発的に購入してくれたことだ。商品の宣伝チラシを置かせてくれと頼んだものの、まさか本人が買ってくれるとは思わなかったからねえ。些細なことであるが、こういうことが制作する側を勇気づけ、励ますのである。「あぁ、こんな人も読んでくれているんだな。しっかりと作らなくちゃ」ってね。
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得した気分

2005-03-25 23:42:48 | 脳みその日常
アップしたのは、最近購入したバタワース著「アメリカ・クラシック作曲家事典」(第2版)である。これは日本の書店経由で買うと31,500円なのだが、アマゾンだと18,100円で購入することができる。値段がそんなに違うならアマゾンで買うしかない。なじみの書店には申し訳ないけれど。今年の後半にはアメリカ音楽史について書くことになっているので、この本が大活躍するのは間違いないだろう。うははは。
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はくちょう丸♪

2005-03-24 15:44:55 | ドライブ関連
たまには和むものを。

アップした画像は諏訪湖名物の遊覧船「はくちょう丸」である。久しぶりの墓参りに来たついでに撮影。それにしても昔に比べて諏訪湖は結氷しなくなったものである。氷上スケートした頃が懐かしい。

たまに田舎に来ると、あちこちに顔を出さなくてはならないので大変だ。もちろん営業の意味も込めてだが…(笑)
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都会人が忘れてしまったもの

2005-03-23 05:58:15 | 脳みその日常
破顔一笑という熟語がある。これは文字通り腹の底から思い切り笑うことだ。周囲に気兼ねすることなくガハハハと笑うから顔がまるで破れたようにみえる。それを形容したのがこの熟語であろう。

ところが、どういうわけか、都会に暮らす人々は思い切り笑わない。面白いことがないわけじゃない。でも「バカ笑い」をすることはほとんどない。なぜだろう。周囲の目が気になるのだろうか。バカ笑いはみっともないとでも思っているのだろうか。

確かに由緒正しい家柄の方々は大口を開けてガハハハとは笑わない。いや、もしかすると見えないところで笑っているのかもしれないが、少なくとも人前ではみなお上品にほくそ笑むのが当たり前らしい。

だけどさ、笑いというのは面白いから笑うんであって、面白いと思っている時に人前を気にして笑いたい気持ちを押し殺しながらクスクス笑うなんて変だよなあ。うん、きわめて不自然だよ。

ワシは地方出身者であり、家柄もヘッタクレもない家庭に育った。だから今でも面白いことがあると思わずバカ笑いをしてしまう。まかり間違ってもオホホホ…なんていう上品な笑いはできない。笑いの基本は、やはりガハハハハもしくはギャハハハであると信じて疑わない。

だから、上京して最初に感じたのは「なぜ東京の人は思い切り笑わないんだろう」ということだった。本当に不思議だった。はじめは面白いと思わないから爆笑しないのかなとも思ったが、どうやらそうではない。思うに、子供の頃から破顔一笑する機会が少なかったのではないか。また親を含め周囲から、暗黙のうちに「爆笑することは好ましくない」といった教育を受けたのかもしれない。いずれにしても、彼らが腹の底から笑うのをワシはほとんど見たことがない。

都会に生まれ育った人からすれば、「いや、そんなことはない」と叱られるかもしれない。しかし都会と田舎では笑い方が明らかに違うのだ。ウソだと思うなら、日本テレビの人気番組「笑ってコラえて」を見るが良い。この番組は主として田舎の人々の素朴なリアクションを「売り」にしている。田舎の人々は、たとえ目の前にカメラがあっても素顔の自分を平気で晒す。だから笑い方だって、基本はワッハッハッだ。まるで魂が飛び出てしまいそうなほどデカイ口を開けて笑う。そう、田舎の人はこの笑い方が普通なのだ。クスクスとかオホホホなんて笑い方をする人は、そうはいない。

ワシは何も笑い方に優劣をつけるつもりはない。いろんな笑い方があっても一向に構わないと思う。ただ、なんていうのかな、都会の人々は本来の人間にとって大切な何かを忘れてしまっている気がするのだ。笑うという行為は喜怒哀楽のひとつである。だが、そうしたいわば本能的な行為ですら素直に表現できないとすれば、何かが間違っているのだろうし、どこかに歪みがあるという気がしてならない。さあ、みなさん、腹の底から笑ってみませんか?
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役人も庶民のハズなのに

2005-03-22 05:53:24 | 脳みその日常
年度末恒例となっている道路の無駄な掘り返し。こちらも、もう神経が麻痺しているせいか、昔ほど苛立つことはなくなっている。しかし役所の考えることは本当にワケがわからん。

道路工事をすれば当然渋滞が発生する。それは仕方のないこと。問題は工事をいつやるかなのだ。国土交通省の役人が本当にバカだなと思うのは、工事を週末や連休の始まる前の晩に行うことである。

国民がこれから遊びに行こうとしている時に工事を行なうバカがどこにあるのだ! そんな時に工事をすれば酷い渋滞が発生するのは当たり前だろ。ワシみたいな一般庶民が考えたってわかることだ。

実は先ほど2時間ほどフラっとドライヴに行ってきた。もちろん一般社会は本日から仕事である。だからみな今日からの仕事に備えてこの時間には寝ている。つまり道路はガラガラに空いているのだ。

役人ってのはさ、国民の公僕だろ? 国民が暮らしやすいように働くのが公僕の仕事ではないのか? 国民を煩わせるようなことをするのは公僕としてあってはならんだろ。

もちろんどうしても国民に協力してもらわなければならないことはある。しかし、できるだけ国民に迷惑をかけないようにするのが公僕なんじゃないのか? だったら、工事なんかは連休明けの前の晩にでもやればいいのだ。

国土交通省で思い出したが、ワシの高校の同級生で野澤君という奴がいる。最近判明したところによると、彼は国土交通省の官僚らしい。野澤君は昔からマジメを絵に描いたような「クソ」マジメな奴だった。まあ勉強はできるんだろうが、我々庶民がどのように感じているか、彼にはわからんのだろうな。

頭が良いというのは勉強ができることではない。物事を臨機応変に対処できる能力のある奴こそ本当に頭の良い奴なのだ。そういう奴らが役人でないと、本当に世の中は良くならない。そういう奴が役人なら、国民の声に耳を傾け、問題があればすぐそれに対処するだろう。そうなれば我々の生活は自ずと良くなるに決まっている。

でも、実際にはそうではない。何かというと、やたらと規則、規則と抜かしやがる。そんな規則ばかりにとらわれているから役人はモノを考えなくなるのだよ。そう、マニュアル・バカってやつだな。

モノを考えない役人が計画した道路工事だからこそ渋滞が起きるのは当然なのだ。あーあ、ダメだね、ホントに。能無し役人とはいえ、おまえら、もっと脳みそ使って考えろよな。
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統一表記にしろよ

2005-03-21 16:48:43 | 音楽あれこれ
どうやら来年シュツットガルト歌劇場が来日するらしい。それはいいのだが、これって「シュトゥットガルト」の間違いなんじゃないのか? 気になるので検索してみた。

ヤフーで検索してみると、「シュツットガルト」だと39746件がヒット。一方「シュトゥットガルト」では37597件ヒット。うーむ、数字的にはイイ勝負だな。しかし、これはどちらの語句でもヒットする「あいまい検索」の結果かもしれない。だから何とも言えない。

では、辞書検索で決着をつけてみよう。まずは「シュツットガルト」。うわっ、ある。「ドイツ南部の都市。出版・印刷・機械などの工業が発達。(大辞林)」とな。ならば、「シュトゥットガルト」ならどうだ。げげっ、これもある。「ドイツ南西部の工業都市。バーデン‐ビュルテンベルク州の州都。もとビュルテンベルク王国の首都。自動車工業・出版などが盛ん。人口、行政区五八万(一九九一)。(大辞泉)」

こうしてみると、アサヒ・コムは『大辞林』の表記に従ったことになるな。しかしワシなどは「シュトゥットガルト」で見慣れているから「シュツットガルト」ってえのは何か違和感を覚えるのである。地名をはじめとするカナ表記は何らかの統一が必要じゃないのかね。

たとえば、現在でも不統一の表記として知られるのは北欧系の固有名詞である。さすがにスウェーデンの劇作家ストリンドベリ(1849-1912)は原語読みで辞書に表記されているが、童話で有名なアナスンは検索に引っかからない。

試しに「アンデルセン」を辞書検索してみるとちゃんと出てくる。その説明の最後には確かに「デンマーク語名アナセン」と申し訳程度に書かれている。ならば「アナセン」で検索してみるが、出て来ない。もちろん原語読みにもっと近い「アナスン」で検索しても、もちろんヒットしない。

もし日本語を勉強するデンマーク人が日本語の辞書で「アナスン」を調べようとしても、日本では「アンデルセン」と呼ばれていることを知らなければ、いつまでたっても調べられない。もっとも、ある程度日本語を学んでいればアナスン=アンデルセンだと気づくと思うけれど。

クラシック音楽の世界にはほかにもおかしな表記が当たり前のようにある。たとえばスウェーデン生まれの有名なトロンボーン奏者などは、本来はリンドベリのはずなのだが、わが国での表記は「リンドバーグ」。

リンドバーグといえば一般には1927年に大西洋を横断した冒険家を思い浮かべるだろう。でもこの冒険家の国籍はアメリカ。だから英語読みの表記で間違いじゃないのだ。いや、待てよ、この音楽家も、もしかするともうどこかの英語圏の国に亡命しているのかもしれんな。もしそうなら「リンドバーグ」でいいのだけれど。なんだろなー、まったく。

それにしても、表記というのは面倒くさいものだ。日本語のカナ表記はいつになったらマトモになるんだろう。
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対岸の火事と思っていると…

2005-03-20 18:55:36 | 脳みその日常
午前10時53分頃、九州北部で震度5~6の地震が発生。多数の負傷者が出た模様。被害に遭われた方のことを思うと掛ける言葉も浮かばないが、1日も早い復興を願うばかりだ。

とはいうものの、心の中で被災された人々に同情し、自分が当事者となった時のことを想定するかというと、実は何も対策をしていないというのが現状。どこかで「地震なんて対岸の火事だ」と思っているからなのだろう。それは単に心が冷たいというのではない。心のどこかに楽観的な考え方があるからではないか。

自分の身に火の粉が降り掛かってきて、はじめて人は「しまった!」と感じるもの。だから後悔という言葉があるのだし、「後悔先に立たず」という諺や「覆水盆に返らず」という故事もあるわけだ。かなりの割合でヘコんだとしても「死ぬしかない」なんて考える人はそういるわけじゃない。生きる望みが少しでもあれば、人間は生きることを選ぶ。何とかしようと努力する。難しい言葉で表現すれば「生への執着」だ。

いやいや、そんな難しいことはデーケンやショーペンハウアーなどの哲学者がすでに語っているからここでは書かない。要するに、人間のDNAにはどんなピンチに遭遇しても「何とかなるだろう」というふうにあらかじめプログラミングされているのだ。だから、ニュース映像などで悲惨な状況を見たとしても、その時には気の毒だと感じるけれど、自分は大丈夫だろうとか、そうなっても何とかなるさと楽観的でいられるのだ。いくら心配性といわれるA型の人であっても、程度の差こそあれ死を選択することがないのはそのためである。もっとも、精神的に病んでいる人は別ですがね。

そう、人間は本当に「お気楽な」生き物なのである。でも、そう言いながら結局後悔するんだよな。憎めない生き物だと、つくづく思う。いや、こんなことは今ワシが被災者じゃないから言えること。実際に罹災したらきっと自分で自分をブン殴ると思うね。「何をノンキなこと抜かしとんねん!」って。
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スカスカのホール

2005-03-19 19:54:47 | 音楽あれこれ
昨晩の東京文化会館大ホールは悲惨だった。これは「東京オペラの森」企画の一環で、アラン・ギルバート指揮によるオーケストラ演奏会。あの大ホールで4割程度のお客しか入らないなんて最悪もいいところ。これが現代音楽の演奏会ならわかる。でもそうじゃない。全曲がリヒャルト・シュトラウスだったのだから。

集客が悪い理由はいくつかある。まず入場料が高いこと。次に宣伝不足だったこと。最後は内容だろうな。前の2つはともかくとして、3番目のことは一番考える必要があると思う。

演目のことは別にして、この企画に出演する演奏者は、いわば「サイトウキネン・オーケストラ」のメンバーである。一部のゴマスリ連中が「サイトウキネン」をやたらと称賛するせいで、このオケは素晴らしいというふうに思われているが、実は評判ほどのものじゃない。そのほかのちゃんとした耳と見識をもつ人々からの評価はまるで低いのである。

なぜそんなに低い評価なのかというと、寄せ集めのメンバーで作られた臨時のオケだからである。各人の能力はソリストとして優れているのかもしれない。しかしだからといってソリストが集まれば良いオーケストラになるかというと、残念ながらそうではない。

ソリストというのはみな個性の強い演奏家なのだ。音色も違えばクセも違う。そうした連中が集まっても均一な音色になるハズがないのだ。仮にうまくいくとしたら、それは指揮者の能力を褒めるべきであろう。ところが残念なことに、指揮者にはそこまでの能力はないようである。

オケの各パートの音色が均一でないことで何の問題があるのだと思われるかもしれない。技術があればいいじゃないかと思うだろう。違うのだ。パートごとの音色が均一であるからこそ心地よい響きとなるわけだし、そうじゃなければ何人も集まる意味がない。アンサンブルというのは各楽器の音色が調和するからこそ美しく響くのである。

でも、このオケはそうじゃない。だから聴いていても心地よくなれないのだ。なぜそれが音楽監督の小澤にはわからないのだろうか。昨晩はアラン・ギルバートが指揮したが、この人はいわば身内みたいなもの。つまりオケの一員であるヴァイオリン奏者の建部洋子の息子がアランなのだ。うがった見方をすれば、経費を安くしようとしたのかもしれない。

アランはわが国ではすでに何度も指揮し、雑誌などでも取り上げられている。しかし、注目されるほどの能力があるとは正直思えない。この日の演奏が凡庸に思えたのはオケの問題とともに指揮者の能力も関係していたのではないか。そんな事情はたぶん聴衆のほうが気づいている。それもあって昨晩の客の入りは最悪だったんじゃないのか?

企画する側は、名の知れた演奏家を呼んでくればそれでよいと思っていたのかもしれない。ちょっと昔ならそれでもよかった。でも今は違うのだよ。客を甘く見たら痛い目に遭うという典型的な例である。
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教育者がこれじゃあな…

2005-03-18 12:29:36 | 脳みその日常
都中学校校長会の批判に私学協会が反論

思わず苦笑したこの記事。つまり私学としてみれば、誇張し過ぎだと言いたいらしい。きわめつけは私学側の近藤会長の次の発言だ。よせばいいのに、こんなことを言ってしまった。

「そもそも公立がしっかりした教育をしていれば、私立に来る人はいないのではないか」

もしもし、公立がヘタレだからこそ、アンタらは食えてるんだろ? (蔑)
近藤会長、自爆である。
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新興宗教のようなもの

2005-03-18 11:01:07 | 脳みその日常
連日マスゴミが騒いでいるライブドアvsフジテレビの攻防戦。庶民からすればどうでもよいことで、いい加減、早く決着をつけろと言いたくなる。別にどっちがどうなってもいいんだからさ。

気になるのは堀江を支持する人間の浅はかさ。なぜあんな奴を支持するんだろう。若くして既成の勢力に立ち向かうから? ワシに言わせれば、アイツは単に法律の網をかいくぐってカネ儲けしている金融ゴロにしか見えないけどな。奴は業務提携をしてみんなで幸せになりましょうという。だけど、従来通りだってフジ側の社員は高給をもらって十分幸せじゃないのか? 何も堀江がいなくたって不幸ではないと思うのだがね。結局、堀江はフジに絡むことで自分に利益が上がることを目論んでいるんだよ。自分が幸せになりたいがために、得意のレトリックとカネの力を使って何とかしようとしているだけ。

既成の勢力を打破するために頑張って欲しいという支持者にとって、堀江は何か新しいことをしているかに見えるだろう。しかし奴は一体どんな新しいことを創造したっていうんだい? たまたまやってる企業がITというだけで、誰かが考案したテクノロジーをカネ儲けに利用しているだけじゃないか。本当に新しいことをするというのなら、自分で放送局を立ち上げればいいだけの話。だけど奴はそうしない。つまり既成のものを「利用して」、カネ儲けに使いたいだけなのだよ。フジ側の人間がよく、「堀江はただマネーゲームを楽しんでいるだけ」と言うのはそれを意味していると思う。

前述のように、どちらがどうなってもワシは知らん。だが、単純に堀江支持を叫ぶ人を見ていると、何か新興宗教みたいなニオイを感じるのはワシだけだろうか。新興宗教といえば、ずる賢い教祖が脳みその弱い人間を巧みなレトリックによって入信させるうさんくさい団体だ。新興とはいえ、別に新しいことをするわけじゃない。宗教とは名ばかりで、結局はカネ儲けを目的に活動することにほかならない。だいたいどの教祖も主張するのは、世界の平和だよな? ほら、堀江の主張と何となく似てるじゃない。

世の人々は、既存の制度に不満を持つからといって、十分な考えもなしにコイツの発言に賛同すると痛い目に遭うと思うぞ。カネ儲け第一主義の奴が他人の幸せなんて考えるわけないじゃん。こういう奴は、自分さえ儲かればそれでいいんだから。でもきっと、それがわからんやつはいるんだろうな。お気の毒にねえ。
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