ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

環八、開通!

2006-05-29 04:28:51 | ドライブ関連
原稿に身が入らなくて、多摩川沿いを軽く流していた。ボーッと走っていたらあることに気づく。そうだ環八が昨日開通したんだった。一体どのような道なのだろう。そう思ったら確かめずにいられなくなった。で、早速環八へ向かう。

事前の情報によれば、井荻トンネルあたりから従来の道と分岐するらしい。まずは外回りの道で行くことにした。いよいよ、井荻トンネルに入る。期待は高まるばかり。

すると新しい道はトンネル内部で分岐していた。その表示はクルマを停止させることができないため撮影できず。まあ、行けばわかることだけど。

分岐してしばらく行ったところの写真が右のもの。だから何?とツッコまないこと。

トンネルを抜けると、今度は目白通りの上を通る高架になる。そして平和台の駅を横目にみながら次は川越街道の上を越える高架に。さらに行くとR17と交差し、赤羽へと抜けることができる。

井荻から目白通りまでの区間と川越街道の高架の部分が今回の工事で完成した場所だ。さて、今度は同じ道を内回りで戻ってみる。

川越街道から目白通りまでは外回りと同じ構造だが、その先がちょっと違っていた。前述のように外回りでは井荻トンネルの内部で分岐していたのだが、内回りでは井荻トンネルに入る手前で一旦従来の道に合流する。そして改めて井荻トンネルに入るように作られていた。

2番目の写真は目白通り手前の春日町付近のトンネルの中。不思議なのは奥が闇のようになっていたこと。ヘンだな、実際には暗くなかったのに…。ちなみに写真の左下にあるのはワシの指。ウッカリ写ってしまった。

最後の写真は目白通りを越えてから潜るトンネルの中。言うまでもないことだが、運転中にケータイのカメラで撮影するのは極めて危険なのでくれぐれもやらないように。この時間(午前3時半)のようにほとんどクルマが通っていなかったので撮影したのであって、いつもはやらない。良い子のみんなはマネしないようにね。

おっと、いけねえ、原稿を書かなくちゃ。
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ラッキーが訪れる瞬間

2006-05-27 04:56:15 | 脳みその日常
マギー審司の持っているアライグマのことでは、もちろんない。うーむ、この一文でどれだけの人が引いたのだろう…。まあ、いいか。

気を取り直して話を続ける。ラッキー、すなわち幸運というものは予期せぬ瞬間に訪れる。これは誰もが経験することだろう。たとえば当たらないと思っていた宝くじが当選するなどというのは、まさにその例。いや、ワシ自身は宝くじを買ったことはないからその手のラッキーの実感はないけれど。

じゃあ、別の例で説明しよう。たとえばパチンコやスロットなどで当たりが出た瞬間。これも、まさにラッキーこのうえない。もっとも、これらの遊戯はもう20年近くやってないから最近狂喜乱舞した記憶はない。

でも、思い返すと当たりが出た瞬間というのは、頭の中である種の空白が生じる時に起こる。不思議なのはこうした空白は意識して作り出せないことである。遊戯に集中していて、フト別のことを考えた瞬間とか、何気なくタバコに火をつけた時などにラッキーはやってくる。その時、本人はまさか当たらないだろうと思っているから、まさしく「予期せぬ幸運」なのだ。

ここ最近、仕事がヒマだったりするので、空いている時間にはネットでタバコ銭を稼いでいる。たとえばこのサイトにあるスロットなどはただボタンを押すだけで遊べるので、ほかのことをしながらでもコツコツと小銭を稼げるから最近ハマっている。参加はもちろん無料なので興味ある方はどーぞ。ゲームはほかにもルーレットとかジャンケンなどもあり、楽しめますぜ。

で、稼げる金額であるが、ゲームだけなら月に2000円ぐらいは…(笑)ええ、ええ、どーせタバコ銭ですもん。この程度ですってば。でも「ラッキー」は味わえますぜ。フトした瞬間に…。いかがっすか、旦那。

それにしても、突然訪れるラッキーというのは何なのだろう。なぜ頭の中に空白が生じるのだろうか。悪い意味でいえば「魔が差す」ということなのかもしれないが、この場合本人にとっては幸運なので「ラッキー」ということになる。もしかすると、我々の意識と「ラッキー」とは併存しないものなのかもしれない。どちらかが存在する時には、他方は存在しない。両者はそんな関係なのだろう。
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町田市上山田町付近を探検

2006-05-26 04:39:10 | ドライブ関連
軽い気持ちで町田市を流していたら、ちょっと気になる道があった。こうなると、もう探検しないわけにはいかない。ナビで確認すると唐木田方面へ抜けられるようだ。ならばと進んでみる。

一応、その道の入り口には「車幅2メートル以内の車両のみ通行可」とあった。ところが進むに従って道路はどんどん狭くなる。挙げ句の果てに写真のような道幅!

いうまでもないが、この道は一方通行ではない。万一対向車が来たらアウトである。どうにもならない。シャレにもならん!もっとも、深夜なので対向車が来る確率は低いが、絶対に来ない保証はどこにもない。なので、できるだけ早急に走り抜けた。

前にも書いたことがあるが、車載のナビゲーションは情け容赦がない。「だって、ちゃんと道があるだろ!」と言われればそれまでである。だけどさ、この道路もそうだが、いかにもフツーの道ですよというような表示の仕方はいかがなものかと。もし昼間だったら、うっかり進入してエライ目に遭うかもしれないのだ!

まあ、深夜のお遊びなので、こんな道でもワクワクできていいのだが。でも追い剥ぎなんかが突然現われたら万事休すだろうな。逃げようがないし…って、時代は平成だったな。

あははは。
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文章修行の思い出

2006-05-25 04:35:21 | 回想する脳みそ
修行なんてオーバーなものじゃないが、自分の文章を意識して書くようになったのは19歳から20歳にかけてだったと思う。当時、ある先生に師事して個人的に文章の書き方を学んでいた。とはいえ、手取り足取り教えていただいていたわけではない。彼はどちらかといえば放任主義で、自分のスタイルを押しつけることは、まずしなかった。

しかし、それだけに書き手の責任には極めて厳格で、このフレーズのなかでこの単語を用いるのは適切でないとか、キミがそのような論を述べるからには読み手を納得させるだけの根拠を示す必要があるなど、かなりやり込められたこともあった。ならば、どうすればよいのかと尋ねても決して答えは返って来なかった。「それはキミ自らが考えることだよ」と。

困ったねえ、そういわれても皆目見当がつかないのだから。でも何らかの答えを提示するまで彼は次の課題を与えてはくれなかった。もちろん間違った答えを提示しようものなら、なぜそのような答えを導いたのかと、これまた糾弾される始末。だから指導の際には本当に毎回が真剣勝負だった。

その結果、自分の文章が良くなったかはわからない。現在でも自分の文章なんてホント下手だなあと毎度ガックリくる。もっと品よく流暢に書けないものだろうか。うーん、たぶん死ぬまで書けないだろうな。

ステキな文章が書けるというのは別にして、あの時学んだのはまず「自分でとことん考えること」だった。他人に文章を推敲してもらうのでなく、表現から用法など、すべて自分で吟味する癖がついたのは今にして思えば幸いだった。

フリーでやっている現在、基本的に誰もワシの文章を推敲する者はいない。だから原稿を書き始める最初からメールで送る最後まで、すべて自己責任ということになる。もっとも、こんなブログなんて大して見直してないからホントいい加減なんだけど。

(おまけ)


夏に近づいているねえ。写真は午前3時50分ころの東京。もう、こんなに明るいのだ。三日月がもうちょっとキレイに写っていればなあ…。
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ベネット版《ポーギーとベス》

2006-05-24 21:17:51 | 音楽あれこれ
ガーシュウィン(1898-1937)のジャズ・オペラ《ポーギーとベス》(1935)は言わずと知れた傑作。それを基にいくつかの編曲が作られた。作曲者自身による編曲版は《キャットフィッシュ・ロウ》として知られるが、その次によく演奏されるのはおそらくロバート・ラッセル・ベネット(1894-1981)による編曲版であろう。

このベネット版には管弦楽版と吹奏楽版があり、吹奏楽版のほうは現在でもしばしば演奏される。ところが管弦楽版のスコアは現在販売されておらず、もし演奏したいと思ったら出版社が所有する「貸し譜」を利用するほかはない。こういう事情なので、我々ライターは曲目解説をするにあたって苦戦を強いられることになる。何せスコアを入手することができないんだからね。

「そんなことなら録音を聴けばいいじゃないか」と思うだろう。ワシもそう思っていた。ところがディスクに付いている解説を読むが何か釈然としない。こう感じる時はまず何か落とし穴があると思って良い。そこでスコアを探すことが始まった。

主要な音大の図書館また楽譜店などに照会および検索をしても、前述の通り「貸し譜」なのでありませんという返答。そこで母校の図書館で顔見知りの司書さんに事情を話して探してもらった。数日後連絡が入る。「見つかりましたよ!」その声はまるで天使の声に聞こえた。

スコアを取り寄せて確認。すると、とんでもないことがわかった。一般に知られているベネット版の録音ではかなり省略されていたのだ!詳細については原稿で書くのでここでは記さないが、とにかく我々が耳にしていたものは完全版ではなかったのである。

そこから導かれるのは、それを解説した人たちは誰もスコアを見て確認していなかったという驚愕の事実!解説文の内容がトンチンカンだったのは、そのせい。たぶん最初に誰かが書いた文章を参考にして「子引き」「孫引き」したに違いない。

たとえば、従来の解説では「この作品は8つの曲からなっている」などとあるが、スコアでは「第1曲」「第2曲」などと区切られてはいない。まるでメドレーのように次々に有名な旋律が出てくるだけである。こんな簡単なことはスコアを見れば誰でもわかる。それに録音でスコアの省略された部分があることを解説で誰も指摘していないのは、やはりスコアで確認しなかった証拠なのだ。よし!ワシがちゃんとした解説を書いてやろうじゃないの。今、密かに燃えている(笑)

不可解なのは、なぜこのスコアが東京音大の図書館にあったのかということ。「貸し譜」だとしたら表向きには所有していてはマズイからだ。これもスコアを見て納得。同図書館がこれを入手した1981年頃、これは出版譜として販売されていたようなのだ。ご丁寧に「6ドル」と表示されているし。

ただ、現在「貸し譜」扱いになっている経緯についてはわからない。出版元もしくは所有元がかつてと現在では違うので詳細については問い合わせるしかない。おそらく「貸し譜」にしたほうが利益があると判断したのだろう。

いずれにしても、モノ書きであるならば素性の分からない他人が書いた文章を鵜呑みにしてはならない。そんな当たり前のことをせず、テキトーに他人の文章をパクる奴がいかに多いことか。今回の調査で改めてそれを痛感した。

同業者の皆さん、ちゃんと調べて書こうね。ウソはすぐにバレるからさ。
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三保の松原へ

2006-05-23 16:03:46 | ドライブ関連
   

昨日はふと海が見たくなったので、静岡の三保の松原を目指す。東名の清水インターで下りて三保方面へ。

三保の松原といえぱ「羽衣の松」が有名だが、ワシが見たいのは広大な海。上の写真ではよくわからないが、ワイドアングルで広がる遠浅の海は、日々のくだらないことを忘れさせてくれる。こうした景色を見ると、人間なんて本当にちっぽけなものだと、つくづく思う。なのに、ちっぽけな奴らがこの地球を勝手に動かしている…。うーん、なんだかなあ。自然への畏敬の念なんて、現代人にはもうないのかもしれない。

せっかくここまで来たので、近くの海洋科学博物館に立ち寄る。ここはいわゆる水族館と海洋に関する展示がミックスされたような場所なのだが、なかなか面白い。先ほどは海を外から見たが、今度は海中から見るといった具合。チャーミングなのは「クマノミ」。引用サイトはバーチャルな世界だが、まあこれは参考程度ということで。

ここまで来たついでに、東静岡駅近くまで足をのばす。お目当てはウワサの寿司屋「鮨のお久だ」だ。一番食いたかったのは大トロだが、この日は良いネタが仕入れられなかったということで食えず。でもソフトでとろける中トロや桜えびの軍艦巻きなどを堪能。いやー、うまかった!店内の雰囲気もよく、一度は行ってみる価値あり。
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師匠のブログ

2006-05-22 03:52:11 | 回想する脳みそ
リンクを辿って行くと思いも寄らないサイトに出くわすことがある。先日遭遇したのは、ナント、むかし習っていたピアノの師匠のブログだった。実名で出ているので間違いない。あることがきっかけで師匠とは音信不通になっていたが、よもやこんな形で「再会」するとは…。

意外だったのはその内容である。ピアニストが書いているのだから、内容は当然音楽のことだろうと思っていた。ところが、豈図らんや扱っているテーマは音楽以外のこと。社会問題だったり、タバコの害について、などなど。

まあ、考えてみれば音楽家だから音楽のことを書かなくちゃいけないなんて理由はどこにもない。それこそ読み手の勝手な先入観なのだ。おそらく彼は芸術家としてでなく、ひとりの人間として意見をそこで述べているのだろう。そのスタンスに敬服。いや、いかにも彼らしいなと思った。

確かに今は音信不通になっているが、師匠とは大体において基本的にウマが合った。音楽についての考え方もそうだったし、それ以外についても真っ向から対立することはまずなかった。まるで鏡を見ているかのようで、「アンタはワシか!」と思うことも、しばしば。

師事していたころは1回60分のレッスンだったが、ピアノについて指導された記憶がほとんどない。与えられた曲を一通り弾くと、あとは世間話で終わる。一体何をしにレッスンに行っているのかわからないこともあった。ピアノについて何も教えてくれないのになぜ高いレッスン料を払わねばならないのか、と。

誤解のないように記しておくが、別にワシはピアノが上手だったわけじゃない。もし指導する必要のないほどの腕前だったら、ワシはとっくにピアニストとして世界中を股にかけて……いやいや、妄想はこれぐらいに。

当時を推測するに、彼はきっとワシと話したかったのだと思う。ワシはピアノの腕はダメダメだったが、脳みそは発達していた。当時の彼の弟子たちもさほど優秀な奴はいなかったが、師匠とディベートできるほどの明晰な奴もいなかった。当時はまだ気鋭のピアニストとして活躍していた彼のことだ。演奏はもとより音楽論も誰かに披露したかったのではないか。そして、そのための「いけにえ」がワシだった…。

マトモなレッスンは受けられなかったが、ワシは彼を恨んではいない。むしろ今にして思えばアノ時の話は現在の仕事の上で大いに役立っている。世の中に無駄なことはないというが、これもそのひとつなのかもしれない。

ありがとう、師匠。感謝してます。
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今度はショスタコだとさ

2006-05-21 05:47:08 | 音楽あれこれ
今年はモーツァルト(1756-91)の生誕250年ということで、あちこちからモーツァルトについての原稿依頼があった。面倒くさいなと思いつつ、とりあえずノルマをこなすことを心がけた。いろんな人がモーツァルトについてさんざん書いたから、そろそろ依頼が来ることもなくなるだろう。やれやれである。もっともまだ2006年も半分なので、まだまだ油断はできないけれど。

ちょっとホッとしていたら、今度はショスタコーヴィチ(1906-75)についてあーだこーだ書けだとさ。それも数社から。ありゃー、ついに来たか。まあ、確かに今年はショスタコーヴィチ生誕100年だから彼についての原稿依頼が来るかもしれんなとは思っていた。でも、モーツァルトが終わったからって、どこもすぐにショスタコにシフトせんでもいいと思うのだがねえ。個人的にはモーツァルトよりショスタコのほうが面白いと思っているので、ファンキーな内容でバンバン書けそうな気がするが。

あと、来るとすればシューマン(1810-56)かな。没後150年だし。いや、来ないことを祈ろう。だってあまり面白そうなネタがないもんなあ。音楽はよく出来てるとは思うけどね。
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有明埠頭に佇む

2006-05-20 05:23:51 | ドライブ関連
ガソリン代が高騰したせいか、最近はなかなかドライブする気が起きない。といってドライブしないままだと何となくストレスが溜まりそうなので出かけてみた。場所は以前にも紹介したことのある有明埠頭。

ここは実際に船舶が接岸できる構造になっているため、海の間近までクルマで行くことができる。だからその気になればクルマごと海にダイブすることも可能だ。もちろんそんなバカなことをするつもりはさらさらないけれど。

前回行った時には船舶は一隻も停泊していなかったが、今回は発見。それが右の写真である。写真では判別できないが、近寄って確認したところ、この船は徳島から来ているようだ。船の構造からして、たぶんこれはコンテナを運搬するのではないだろうか。

風が強くなってきたので、トレーラーの「寝床」に行ってみる。写真は前回とは違う場所のもの。トラクター(トレーラー・ヘッドともいう)はスヤスヤと眠っているようだ。その後方に積まれているのはコンテナの類い。これらはどこへ運ばれるのだろうか。

そんなことを思いながら、海底トンネルを抜けて大田市場から羽田へ向かう。これも前に書いたが、新しくなった羽田空港はホントにゴチャゴチャしていてわからん。行き先の表示があるからいいようなものの、表示がなかったらタダの迷路だよな。もちろんこんな深夜にはクルマはいないから自由に動けるけどさ。
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見るだけの脳みそ

2006-05-19 03:55:30 | 脳みその日常
ここしばらくネット・サーフィンはしていたが、不思議とブログを書く気力が湧かなかったので更新せず。わざわざお越しいただいた皆様には伏してお詫び申し上げます。

さて、なぜ書く気力がなかったのか。いろいろ考えてみた。そもそも文章を記すという行為は脳みそが能動的に考えなければ始まらない。何かを考えようと思わなければ文章は書けないもの。文章は書かなくてもネットを見ることができたのは見るという行為が受動的でも可能だからである。わかりやすい例でいえば、テレビはボーッと見ていられるが、音楽は同じようなスタンスでは聴けない。もっとも、BGMのような種類のものもあるけれど。

要するに、ここしばらくワシの脳みそは脳の視覚野は働いていたが、思考する領域はストップしていたということなのだろう。何かを考え、感じたら書かずにはいられないからね。

それにしても、考えなくてよいというのは本当にラクである。アクティブでいるにはつまり動き、行動するためのエネルギーがいる。でも受け身でいることはエネルギーを必要としない。だからラクなのだろう。

昔の人は写真を撮られると魂が抜かれると本気で心配したというが、ネット・サーフィンにもそれに通ずるものがあるように思う。実際には魂が抜かれるなんてことはありえない。だけど、サーフィンをしていて確かに情報は入手できるけど、それをどうしようと考えることはあまりないのではないか。

そして気づけば時間だけが過ぎている。一体その間何をしていたんだろう。我に返った時、何も考えていない自分に気づくのだ。そう、それはまるで魂が抜かれたかのような錯覚。ね、通ずるものがあるでしょ?

ここで一服。

そうか、ここ数日文章が書けない理由がわかった。今週始めに仕上げた原稿のせいだ。不本意ながらも出した原稿のことをすっかり忘れていた。うんうん、その原稿に没頭したために、きっと魂がどこかへ行っていたんだろうな。

なお、不本意な理由については後日談があるので、そのうち書きます。お楽しみに。
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南アフリカへ

2006-05-16 11:08:04 | 脳みその日常
といっても、行くのはワシじゃない。講座の受講生である。先ほどケータイから「いってきまーす」と元気よくメールが届いた。

それにしてもワシの周囲のシルバー世代は元気な人が多い。普通、若い人からエネルギーをもらうとはいうが、年輩者から元気をもらうというのは考えてみればおかしな話。いや、ことによるワシに元気がないのかもしれないな。よし!栄養のあるものを食うか…って、そーゆー問題じゃないか…。

前にも書いたように、ウチの受講生はバラエティに富んでいる。ワシがオヤジ・ギャグを交えて講義するよりも、受講生たちに毎回持ち回りで話をしてもらったほうが面白いと思うんだけどねえ。いろんなジャンルのいろんな話が聞けるわけだし。

そんなことを前に講座で話したら、「それだったら音楽講座じゃないでしょ!」と叱られてしまった。まあ、確かにそうなんだけどさ。でも、そんなムキにならなくてもいいのにと思ったり…。

さてさて、昨日はやっとの思いで原稿を書き終えた。ある意味で充実した気分ではあるが、全力を尽くせなかったという後悔が残る後味の悪いものだった。まあワシがどうあがいても物理的に解決できる問題じゃなかったから仕方がないのだが。

そんなわけで今日はいつものパターンからすると原稿が書けない日。何をしようかな。面倒くさい事務処理でもするか…。
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意外なところに意外な…

2006-05-15 03:29:44 | ドライブ関連
都内の住宅地を軽く流していたら右のような看板を発見。

「ベルシャ絨毯専門店」!!!

あまりの唐突な出現に驚く。帰宅してネットで調べてみる。どうやら経営しているのは来日して18年ほど経つイラン人らしい。深夜だったので店内はもちろん見えないが、情報によると丹念な作りで評判らしい。

唐突ついでに、全く関係のない話を。新座市に深夜でも洗車できる場所を発見。そのうちお世話になるかもしれない。でも、このところ洗車をしてもすぐに雨が降るから悔しいんだよなあ。

で、どうせ雨が降るだろうとそのままにしておくから我がクルマはバッチイまま…。

トホホである。
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南米のギター音楽

2006-05-14 16:47:00 | CD/DVD
ギター音楽といえば一般にスペインを思い浮かべるかもしれない。しかしここでご紹介するのは南米のギター音楽だ。

まずはアルゼンチンのギタリスト、作曲家カチョ・ティラオ(b.1941)の《Milonga de Don Taco》。ティラオといえば1970年頃のピアソラ主宰の五重奏団のギタリストとして活躍したことはあまりにも有名。ならば、この《Milonga de Don Taco》はピアソラ風かというとそうじゃない。むしろキューバの作曲家レオ・ブローウェル(b.1939)のライトでファンタジックな作風に近い。

ティラオの作風がいかにアストル・ピアソラ(1921-92)と違うのかは、ありがたいことにピアソラの作品もこのディスクに収められているので参考になる。《5つの小品》(1980)などは、まさに「ピアソラ節」。ピアソラ作品はもう1曲収録されている。《チキリン・デ・バチン》(1969)がそれで、ここでは藤井敬吾(b.1956)による編曲版が用いられている。藤井といえば名曲《羽衣伝説》の作曲家としても知られるが、ここでは非常に穏やかなアレンジを行なっており、耳に心地よく響く。おそらくそうした理由から演奏者のエドゥアルド・フェルナンデスは藤井版をここで入れたのではないか。

そのほか、アルゼンチンの作曲家カルロス・グァスタヴィーノ(1912-2000)の《ギターのためのソナタ》や、パラグアイの作曲家アグスティン・バリオス・マンゴーレ(1855-1944)の《カテドラル》、《Maxixe》、それにコロンビアの作曲家ヘンティル・モンターニャの有名な《組曲第4番》、そして最後はウルグアイの作曲家ヘラルド・M・ロドリゲス(1897-1948)の《ラ・クンパルシータ》(ティラオ編曲)。

いずれも佳品揃いで、リラックス・タイムには楽しめるアルバムだ。
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名前で呼ぶこと

2006-05-13 10:17:54 | 脳みその日常
親子ほど年齢の違う後輩と話していたら、こう言われた。「なぜそんなに後輩たちの名前を覚えているんですか?」と。そんなの当たり前じゃないの?と言うと、「とてもマネできません」と、しきりに感心している。

確かに人の名前を覚えるのは大変だ。学生は毎年入学してくるわけだし。悲しいかな、年齢を重ねてくるとモノ覚えも悪くなる。それでも工夫して何とか覚えるようにしている。一体何のために?

答えは簡単だ。自分が名前を呼ばれる立場になって考えてみればよい。「おいおい、そこのキミ」と呼ばれるよりも、「ちょっと○○さん」と自分の苗字を呼ばれたほうが、たぶん大多数の人は嬉しいだろう。

なぜ自分の名前を呼ばれると嬉しいのか。相手は自分のことを認識してくれていると知るからだ。名もない大勢のなかのひとりとして見ているのでなく、○○という名前をもった特定の人として認めてくれている。自分が他者から認められているとわかれば、自分もその相手を認めようとか理解しようと思うのは自然なこと。

そうやって昨日までは知らない者同士だったのが、親しい間柄になってゆく。ほんのちょっとした努力で円滑な人間関係は築かれるのだ。だからワシは名前を覚えることにストレスを感じたことはない。ストレスを感じるとすれば、モノ覚えの悪いクソ忌々しいこの脳みそに対してだけである。
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ビジー、ビジー

2006-05-12 07:13:23 | 脳みその日常
ちょっとバタバタしておりますので、お休みします。
明日には何かアップできるでせう。
それでは。
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