ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

見応えあり!…四十四田ダム

2024-07-28 06:56:58 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岩手県盛岡市下厨川四十四田(しもくりやがわ しじゅうしだ)にある北上川水系北上川の四十四田ダムを目指します。アクセスは国道4号の「高松」交差点を松園(まつぞの)方面へ曲がり、しばらく行ってから「四十四田」方面へ行くと到着します。

【四十四田の由来】
ダム名である「四十四田」。これは何に由来するんでしょうね。気になったので調べてみました。このサイトによれば平安時代中期の武将である安倍貞任(あべのさだとう:1019?-1062)が住んでいた厨川柵、現在の館坂橋(たてさかばし)付近から上流に数えて44番目の沢があったあたりなのでそう呼ばれるようになったとあります。何気なく読めば「へぇ〜、そうなのか」と思ってしまいますが、じゃあ「田」はなぜ付いたのかと気になりますね。だってその説明ならばダム名は「四十四沢」でもよいはずじゃないですか。でも、そうじゃない。うーむ、どういうことなんでしょうね。一方、別のサイトを見ると、このダムを築造するにあたり44の田んぼが水没したことに由来すると聞いたことがあると書かれています。こちらは真偽の程は不明ですが、なんとなくこの説のほうがしっくりくるような気がするんですが本当のところはどうなんでしょうか…。

とりあえず北上川の左岸側へ行き、ダム下へ向かいます。近くまでは行けませんが、「御尊顔」を拝むことはできました。

その下流には水管橋があります。横から見るとこんな感じ。

河川占用許可表示板を見ると、これは上水道給水のために建設されたようです。

正式名称は「四十四田水管橋」で、1984年6月に完成したものだそうです。


では、左岸のダム横に向かいます。そこには四十四田ダムの概要を記した案内板があります。説明には当該ダムは「北上川改修計画のひとつとして、石淵、田瀬、湯田ダムに続いてつくられた」とあります。あれ?数日前に書いたように田瀬ダムが国の直轄ダムの第一号じゃなかったっけ?(参考)念の為調べてみると、確かに田瀬ダムのほうが早く着工し(1941年)、石淵ダムはその4年後の1945年に着工しました。なので確かに田瀬ダムが直轄ダムの第一号であるのは間違いではありません。ところが石淵ダムは1953年6月9日にダム本体は完成していて、一方の田瀬ダムは1954年10月に竣工。だからこの案内板の説明は間違ってはいません。ちなみに石淵ダムはその後2013年に胆沢川(いさわがわ)の下流に胆沢ダムが完成したことで水没し、現在は見ることができないそうな。

で、話を戻すと、四十四田ダムは洪水調節と発電を主な目的とした重力式コンクリート・アース複合ダムで、昭和37年に工事が開始され、昭和43年(1968年)に完成したそうです。高さは50.0m、長さは480.0m。

そこから見たダムの様子。これも絵になります。

左岸から見たダム上。歩いてみましょう。

右岸に向かって歩いていくと欄干に四十四田ダムの一口メモが貼られています。その1「ダム上は一時期道路として使用されていた」。ダム完成の2年後の昭和45年10月に開催された岩手国体のため、下流にある現在の市道に切り替わるまで8年の間、臨時の市道として松園ニュータウンと国道4号を結ぶ道路として使用されたそうな。

その4「四十四田ダムが衣裳替え!?」。四十四田公園下の法面にある「文字」が季節によって変わるというもの。

ということで、左岸の斜面を見ると確かに「四十四田ダム」の文字が。これが季節ごとに変わるんですね。

ダム上、中央から上流方向を眺めます。

その近くに貼られた「メモ」。ダム下にある四十四田発電所では盛岡市内で使用される電気の15パーセントをまかなっているそうな。

一方、北上川の下流方向の景色。

近くに貼られている「メモ」。上にも書きましたが、四十四田ダムは重力式コンクリートダムと両端をアースダムの複合ダムとして築造されていますが、その接合部の様子を示したものです。

確かにダム下には四十四田発電所が見えます。

対岸(右岸)に来ました。こちらにある四十四田ダム案内板。上に書いた着工の詳細時期は昭和37年11月で、工事完了は昭和43年10月と記されています。あれ?「諸元」が「緒元」になってますが、いいんでしょうか…。


右岸側にあるダム竣工のオシャレな石碑。背景にダムがうまく入るようなアングルになっています。

裏側にはここにも諸元が記されています。

で、その石碑抜きでダムを見るとこんな感じ。

この石碑の向こうに建っているのが北上川ダム統合管理事務所。ここで北上川水系の五つのダム(四十四田ダム、御所ダム、田瀬ダム、湯田ダム、胆沢ダム)を統括管理しているようですね。


ダム上、欄干の一口メモは訪問時には2つしかありませんでした。あとの4つの内容はなんでしょうね。気になります。

ついでに左岸にある四十四田公園から見た四十四田ダムの全景をご覧にいれます。これで位置関係がわかると思います。


実は、この公園にはちょっとしたサプライズがありました。それは次回のお楽しみということで。
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岩洞ダムに感゛動

2024-07-26 06:54:18 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は岩手県盛岡市藪川外山(やぶかわ そとやま)にある北上川水系丹藤川(たんどうがわ)に築造されている 岩洞(がんどう)ダム を目指します。アクセスは国道4号の「北山トンネル南口」信号を岩泉方面へ曲がり、国道455号をひたすら進んでいくと到着します。

お、見えてきました。これのようです。国道沿いには十分な駐車スペースがないのでクルマはダム横に停めます。

右岸のダム横にある表示板。これを見るとわかるようにダム湖名は「岩洞湖(がんどうこ)」で、上流側に取水口があります。これについては次に述べます。

近くにある案内板。これによると昭和23年にこのあたりが北上川河川総合開発地域に指定されたため、当時の農林省が灌漑と発電を目的として築造したのが岩洞ダムだそうです。そして、ダムの構造上の特徴としては傾斜コア型土石混合ダム(傾斜心壁土石ダム)という型式で築造されていることにあります。これは力学的性質や透水度の異なる三種以上の材料の特性を生かすように配置し、止水と安定を目的とした本格的ゾーンタイプのダムで、この型式で築造された国内初のものだそうです。また、ダム上の長さは351.0m、高さは40.0mで、昭和31年1月に着工され、昭和35年(1960年)11月に竣工。

岩洞湖の上流側にある取水口から流れ出た水は盛岡駅方向へ導水管によって運ばれ、直線距離にして約6.0kmのところにある岩洞第一発電所で発電されたのち、やはり導水管を通って北上川近くにある岩洞第二発電所(岩手県盛岡市川又)へ流入し再び発電に使用されてから北上川に放流されます。

この案内板の近くには「岩洞貯水池」と刻まれた石碑があります。その下にはいろいろと書いてあるようですがほとんど読めません。ただ、農林省の文字が見えるので築造当時の名称は岩洞貯水池だったのかもしれません。

では、ダムを見学することにしましょう。右岸、下流側から見たダムの様子。

右岸から見たダム上です。歩いてみましょう。

ダム上、中央から岩洞湖を眺めます。広々しています。

一方、ダムの下を見下ろし、

下流側の遠景を眺めます。

対岸(左岸)手前のところにはゲート式の洪水吐があり、そこから溢れた水は

この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。見た目が新しいので近年改修工事をしたのかもしれませんね。

そして左岸に到着。振り返るとこんな感じ。

左岸、岩洞湖側から見た様子。

見学時には気づかなかったのですが、右岸にある周辺案内図を改めてみると国道を挟んだ高台に管理事務所があったんですね。


それにしても謎なのはダム名の「岩洞」。ちょっと調べてみましたがその由来がわかりません。ご存知の方がおられたら教えてくださいませ。
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力士の験担ぎ…綱取ダム

2024-07-25 06:56:35 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岩手県盛岡市浅岸二ツ森(あさぎし ふたつもり)にある北上川水系中津川に築造されている綱取(つなとり)ダムを目指します。アクセスは国道106号からドッグファームSHINYA盛岡競馬場を横目に見ながら県道36号を進んでいくと目的地に到着します。

【ダム名の由来】(参考
「綱取」はここの地名なのだそうですが、その由来については諸説あるようです。ひとつは昔このあたりの地形が険しく、葡萄の蔓で作った綱に掴まりながら登ったり降りたりしていたから、というもの。次はアイヌ語の「tun・nay・taor(トゥン・ナイ・タオル)」に由来する説。それぞれの単語をしらべてみると「tun:響く、nay:川、taor:川沿いの高所」となり、要約すれば「深く切り込んだ峡谷」といったところでしょうか。もう一つの説は、やはりアイヌ語の「tu・ne・taor(トゥ・ネ・タオル)」に由来する説。これもそれぞれの単語を調べてみると「tu:2つ、ne:〜の、taor:川沿いの高所」となり、要約すると「二股になった切り込んだ峡谷」といったような意味になります。ちなみに力士が験担ぎでここを訪れるという話も…。ほんまかいな。

到着しました。左岸側から見たダムの様子。治水ダムのようですね。

左岸側の親柱に嵌め込まれたプレート。ダムの完成は昭和57年(1982年)10月。


左岸側にある案内図。これによれば、中津川はこれまで氾濫を繰り返し、そのたびに盛岡市の中心部は被災していた。一方、盛岡市は都市化が進み、建築物が密集したことで河川の改修による治水対策は困難となっていた。また人口の増加に伴い水の需要も増加。そのため新たに上水道の確保が必要となっていた。そうした問題を解決するために築造されたのが綱取ダムで、中津川総合開発事業の一環として昭和49年に工事が着手され、昭和57年に竣工。高さ=59.0m、長さ=247.0mの重力式コンクリートダム。

左岸から見たダム上の様子。ダム上は県道36号で、それなりに交通量が多い。車両が途切れた瞬間を狙って撮影。

ダム上、中央付近から見た上流方向の様子。写っているのは綱取大橋。

同じく上流方向ですが、向かって右側を見るとこんな感じ。

一方、ダム下を覗き込み、

下流側の遠景を眺めます。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

右岸、下流側から見たダムの様子。

右岸の下流側はちょっとした公園になっていて、「県営多目的ダム」と記された石碑があります。これは先ほどの案内板にも書かれていましたが、綱取ダムが県営多目的ダムの第1号として築造されたことを記念するもののようです。

近くにある「綱取ダム竣功記念碑」と記された石碑。

右岸、上流側にあるこの建物はなんでしょうね。

別の角度から見ると、これは「岩手県綱取ダム管理事務所」であることが判明。



うーん、綱取の由来がイマイチよくわかりませんね。地名らしいんですが、地図を見てもそんな地名は載ってないし…。
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これから活躍!…簗川ダム

2024-07-23 06:58:28 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岩手県盛岡市川目(かわめ)を流れる北上川水系簗川(やながわ)に築造されている簗川ダムを目指します。アクセスは国道106号の宇曽沢1号橋の東に「←簗川ダム」の表示板があるので、そこを入っていくと目的地に到着します。

【簗川の由来】(参考
ところで、簗川の由来が気になったので調べてみました。平安時代後期に起こった前九年の役(1051-1062)の頃、安倍貞任(あべのさだとう:1019-1062)と源頼義(みなもとのよりよし:988-1075)の両軍がこの川を挟んで合戦した際、多くの矢が川に落ち、流れていったことから矢流川と呼ばれるようになり、その後「簗川」と記されるようになったそうな。

ついでに記すと、簗川は台風や豪雨により度々洪水が発生し、下流の川目地区では国道106号が冠水したり、農地や家屋が浸水するなどの被害が出ていました(参考)。そうした経緯から簗川ダムは築造されたようです。

…てなわけで、簗川ダムの左岸に到着。そこから見たダムはこんな感じ。治水ダムのようですね。

近くにある案内板。これによると、簗川ダムは洪水調節、流水の正常な機能維持、水道用水の確保、発電を目的とした多目的ダムで、昭和53年4月から予備調査が行なわれ、平成27年5月に本体工事起工、そして令和3年(2021年)7月に竣工。高さ=77.2m、長さ=242.7mの重力式コンクリートダムだそうです。

左岸、ダム湖側には「簗川ダム」と刻まれた石碑があります。

そして、この建物が「簗川ダム管理所」。


管理所からダムはこんな風に見えます。

左岸から見たダム上の様子。気になるのは完成してまだ3年なのにコンクリートにヒビが入っていること。大丈夫なんでしょうか…。

とりあえず、ダム上を歩いてみましょう。中央から見た上流方向の様子。

ダム下を覗き込み、

下流方向の遠景を眺めます。

ダム本体に貼られている水利使用標識。これは水力発電を目的としたもの。簗川発電所はダム下にあります。

やはりダム本体に貼られている取水設備のプレート。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

右岸、上流側から見た様子。

同、下流側から見たダムの様子。


予備調査から竣工まで随分時間がかかりましたが、今後簗川流域の災害はこれで減少するのではないでしょうか。
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霊山由来の…早池峰ダム

2024-07-22 06:59:59 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岩手県花巻市大迫町内川目(おおはさままち うちかわめ)に築造されている北上川水系の早池峰(はやちね)ダムを目指します。アクセスは国道396号から大迫町方面へ行き、大迫郵便局の先の交差点を「早池峰/内川目」方面へ。そのまま県道43号を稗貫川(ひえぬきかわ)沿いに登っていくと目的地の右岸に到着します。

【ダム名の由来】(参考
早池峰は当該ダムから東北東のところにある早池峰山(はやちねさん:標高1,917m)の名に由来します。この山頂には池があり、そこで祈念すると清水が湧くというところから早池の泉と命名され、そこから山名になったそうな。

【築造の経緯】(参考
しかし、早池峰山の南を流れる稗貫川は過去に何度も氾濫を起こし、特に昭和22年9月のカスリン台風は死者1名、流出家屋18戸、被害総額30億円という災害となりました。その一方で、昭和42、48、53年の各夏季には深刻な水不足となり、河川の正常な機能維持が求められていました。そうした声に応えるべく築造されたのが早池峰ダムだったわけです。ただし、計画当初、このダム名は建設により水没する地区名をとって「落合ダム」でしたが、平成元年5月、地元の要望により「早池峰ダム」に変更。その後、平成7年6月から本体コンクリート打設が開始され、同11年5月に打設完了。同12年(2000年)10月12日に竣工式が行われています。

…てなわけで、早池峰ダムに到着しました。こんなダムです。

右岸、ダム横から見たダム上の様子。

その脇には「早池峰の恵みをたたえ未来へそそぐ」と刻まれた石碑。

その裏には諸元が記されています。洪水調節、水道および工業用水確保、発電、既得取水の安定化および河川環境の保全を目的とする多目的ダムで、高さ=73.5m、長さ=333.0m。

近くには周辺案内図があります。

右岸、ダム横にあるこの建物は早池峰ダム管理所。


管理所の中には早池峰ダムに関する資料が展示されています。


右岸側の県道の壁面には「岳神楽」と「大償神楽」をモチーフにした壁画。

「岳神楽(たけかぐら)」は別名「早池峰神楽」ともいい、花巻市大迫町岳地区に伝承される神楽のことで、早池峰山を霊山と仰いだ山伏修験者が演じたものとされるが、由来や伝承は不明。(参考

「大償神楽(おおつぐないかぐら)」も別名早池峰神楽といい、こちらは花巻市大迫町大償地区に伝わる神楽。いつから始められたかは不明ですが、1488年に書かれた伝授書があることからこの頃にはすでに始まっていたものといわれます。「岳神楽」と「大償神楽」は表裏一体の兄弟神楽といわれ、大償の山神面の口が「あ」であるのに対し、岳のそれは「うん」の形をしています(参考)。これはまさに仏教における万物の始めと終わりを意味する「阿吽(あうん)」を表したもので、そう考えるとなかなか興味深いものがありますね。

では、ダム上を歩いてみましょう。中央から見た上流方向の様子。

一方、ダムの真下を覗き込み、

下流方向の遠景を眺めます。

対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

左岸、上流側から見たダムの様子。写真下部に見えるのはライトで、おそらく夜間に照らされるものと思われます。

同、下流側から見るとこんな感じ。


今回は見ませんでしたが、すぐ上流には瀬織津姫の像があるようです。機会があれば行ってみたいなぁ。
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国直轄ダム第1号!…田瀬ダム

2024-07-19 07:02:46 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岩手県花巻市東和町田瀬(とうわちょうたせ)を流れる北上川水系猿ヶ石川(さるがいしがわ)に築造されている田瀬ダムを目指します。アクセスは国道238号沿いにある釜石線の宮守駅付近の交差点を「銀河の森運動公園」方面へ曲がり、県道178号を道なりに登っていくと田瀬ダムの右岸に到着します。

左岸から見るとこんなダムです。

順に見ていきましょう。右岸のダム横には田瀬湖周辺のガイドマップがあります。

その右岸ダム横から見たダム上の様子。

右岸から見た田瀬湖の様子。

同、下流側から見るとこんな感じ。

右岸側の親柱のところには「昭和二十九年(1954年)十月竣功」の銘板が嵌め込まれています。

竣功当初の名称は「田瀬堰堤」だったようですね。

ダム上、中央から見た田瀬湖の様子。

一方、下流側の遠景。

対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

左岸、田瀬湖側から見たダムの様子。

この近くにも「田瀬湖周辺ガイドマップ」があり、その横には概要と諸元が書かれています。

これによると、田瀬ダムは国の直轄ダム第1号として昭和16年に着工したものの、昭和19年には戦争が激化してきたため工事は一時中断。その後、昭和22年、23年に来襲したカスリン、アイオン両台風により北上川流域で甚大な被害が発生したため北上川改修計画の改定が余儀なくされます。その影響で田瀬ダムも当初の計画よりも高さが嵩上げされることが決定。そして昭和25年10月に北上川特定地域総合開発事業として発電と灌漑を目的とした多目的ダムとして工事が再開されたようです。そして最終的には高さ=81.5m、長さ=320.0mの直線重力式コンクリートダムとして昭和29年10月に竣工しました。

左岸にあるこの建物は田瀬ダム管理支所。


左岸の少し下流側から見たダムの様子。

この近くには展示棟があり、その内部には田瀬ダムの歴史などがパネルで示されています。

これを読むと、まず大正15年に洪水を資源化するという発想がなされ、それに基づき、水系一貫による「北上川上流改修計画」なるものが昭和16年に立てられます。田瀬ダムはその計画の一環として築造されたもので、ほかに石淵ダム、湯田ダム、四十四ダム、御所ダムの計五つのダムが築造されていったそうな。

田瀬ダムは上にも書いたように当初の計画より5.0m嵩上げし、また、アメリカから高圧ゲートを輸入するなど日本のダム技術発展に寄与するものを取り入れたそうな。

アメリカから輸入した放流施設でしたが、しかし開閉ゲートは全開・全閉方式だったため洪水調節の微調整はできませんでした。そこで、平成6年度から田瀬ダム施設改良事業が開始され、平成10年(1998年)に完成しています。

また、平成17年3月17日には田瀬湖がダム湖百選に認定され、

2021年、田瀬ダムを含む上の5つのダムが土木学会選奨土木遺産に認定されています。

この展示棟の前には米国製の高圧ゲート部品が展示されています。





いや〜、色々な意味でなかなか見応えのあるダムでした。
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再発防止のために…遠野第二ダム

2024-07-17 06:58:52 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岩手県遠野市遠野町九重沢(とおのし とおのちょう くじゅうさわ)を流れる北上川水系来内川(らいないがわ)に築造されている 遠野第二ダム を目指します。ここは前回記事にした遠野ダムの下流にあり、アクセスは県道238号沿いにあるので迷うことはないでしょう。

右岸側から見た様子。治水ダムのようです。

右岸側にある案内図。これによれば、昭和32年に上流の遠野ダムが完成したものの昭和56年8月の台風15号や平成2年9月の台風23号による集中豪雨により河川が氾濫し、下流の遠野市市街で多くの家屋が浸水被害を受けました。このため上のリンク先に書かれてあるように同年(1990年)に遠野第二ダム建設に着手し、平成23年(2011年)3月、治水などを目的とした重力式コンクリートダムが完成。高さは23.1m、長さは87.5m。

右岸側にある石碑。「遠野第二ダム」のプレートが石の中に無理やり押し込まれている感じ。

右岸、上流側から見たダムの様子。

右岸から見たダム上。歩いていきましょう。

ダム上、中央から見た上流方向の様子。

ダムの真下を覗き込み、

下流方向を眺めます。

左岸側にある水路。これはどこへ流れていくんでしょうね。

対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

左岸、上流側から見たダムの様子。

先ほど見た水路へはこのような「網」が付けられています。おそらくここで流木などをガードするんでしょうね。

左岸側にある建物は管理所でしょうか。でも、それを示すものはありません。

その前にはなぜかバスケットボールのゴールが…。レクリエーションに使われるのかな?


まだまだ新しいですが、活躍しないで済めばいいですね。
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県の中小河川改修事業の嚆矢…遠野ダム

2024-07-16 06:58:12 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岩手県遠野市遠野町栃洞(とおのし とおのちょう とちぼら)を流れる北上川水系来内川(らいないがわ)に築造されている 遠野ダム を目指します。アクセスは遠野駅付近を走る県道238号(遠野住田線)を来内川沿いに南下していくと「←遠野ダム」の表示板があるので、そこの道を入っていくとすぐです。

左岸、ダム横に到着しました。こんなダムです。治水ダムのようですね。

遠野ダムの概要。高さ26.5m、長さ181.5mの重力式コンクリートダムだそうです。

左岸、ダム横には2つの石碑があり、ひとつは横長の石碑で次のように記されています(写真は撮り忘れました)。

「民話の古里遠野の母なる山、物見山、柳田國男をして遠野の城下はすなはち煙火の街なり。その●の●の日は馬千匹人千人の賑はしさなりと云わしめた南部駒はこの地によって育てられ幾多の馬産家によって名馬が生産された。採草の歴史は古く●●●●●●乾草はきと秣の改良は先人より引継がれ秣組合として上組中組下組にわかれ活用されて来た。昭和三十年二月二十一日遠野市と年間契約を結び利用者による自主的経営改善草地の高度利用をはかることを目的に物見山牧野農業協同組合設立発起人会が開催され総意によって設立することを決定した。昭和三十一年一月三十日設立登記完了。当時組合経費の賦課は一組合員年間百円牛馬一頭二百円であった。昭和三十二年八月二十日非出資組合を出資組合に改称。出資口数百四十四口。出資金総額五百七十六万円。出資金一人一口と●●●●。遠野市は田園都市を標榜し農業振興は農業後継者の育成●●●と県立遠野農業高等学校の新設運動が高まりその●●の一部をこの地に求めたので組合は交渉委員を●●接渉を●め昭和三十三年九月十七日農地法第九条の規定による農林省か市より買収。同年同月同日農地法第三十六条の規定によって遠野市遠野町三十二地割●五十番遠野市綾織町新里三十一地割一番の一牧野面積三百五十三万五千九百平方米を組合が取得した。その代金五百三十万円支払は五ヶ年の年賦償還●●つた。ここに物見山は当組合の所有地になり名実共にその歩みを進めたわけであります。この頃より馬にかわって農業の機械化が進みはじめたので組合の健全育成を考え昭和三十三年九月二十六日百四十五万千三百五平方米を伐採期間自昭和五十三年至昭和八十三年の三十一ヶ年間、分収割合を相互五割として岩手県水源林県行造林と契約を取り交わし造林を実施した。昭和四十二年三月二十日百万四百平方米を契約期間自昭和四十二年至昭和九十三年の五十一ヶ年間、分収割合を四対六として岩手県水源林県行造林と契約造林を実施した。昭和四十五年七月二日組合と組合員との利用権改定を確立し組合員三十五名は岩手県水源林県行造林と契約の上造林をし組合員●●名は個人造林を実施した。物見山と人馬の歴史を振り返へり●●取得の起因に想いをはせ、組合の進展とその経●●と●の先人の労苦に感謝の誠を捧げ永く伝えんとするものである。

     昭和四十九年四月吉日
       物見山牧野農業協同組合
       組合長 理事 新里善治」

※物見山(ものみやま)とは遠野ダムの西南西にある標高916mの山のこと。

まあ、要するにこれは物見山牧野農業協同組合設立の経緯を説明したもので、遠野ダムとは無関係の石碑なのでした。

そして、もうひとつの石碑には「締田山記念碑」と題されているんですが、これは大正六年十二月に建立されたもので転記はしませんが、どうやら牛馬の飼料となる秣(まぐさ)を作る田んぼをどのように確保したのかについての経緯が記されています。なので、これも遠野ダムとは関係がありません。


ダム築造の経緯がわからぬまま、とりあえずダム上を歩いてみることにします。

左岸の親柱のところには「昭和三十二年六月一日竣功」のプレートが嵌め込まれており、

1957年に築造された当初の名称は「遠野堰堤」だったようですね。

ダム上、中央から見た上流方向の様子。木ばっかり…。

一方、ダム下を覗き込みます。上のリンク先のデータによれば、遠野ダムの高さは26.5mで、長さは181.5m。

そして下流方向の景色。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

それにしても、こんなプレートをわざわざ貼る必要があるんでしょうか。施設を傷つけるのがいけなのは当然のことだと思うんですけどねえ。それとも過去にそんなモラルのない輩がいたんでしょうか…。


上のリンク先の説明では当該ダムは中小河川改修事業として整備された岩手県補助ダムの第一号だそうで、ここから岩手県の土木事業躍進につながっていったそうな。
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早瀬川砂防ダム(堰堤)

2024-07-15 06:59:52 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岩手県遠野市上郷町細越(とおのし かみごうちょう ほそごえ)にある北上川水系早瀬川に築造されている早瀬川足ヶ瀬砂防堰堤を目指します。アクセスは国道283号(釜石街道)沿いにあるので特別迷うことはないでしょう。

…といって国道を走っていてもお目当ての堰堤は見えません。うっかりすると通過してしまいます。その目印としては国道沿いにある2つの表示板を探してください。そこが堰堤横になります。

堰堤横から見た様子。

おや? 近づいてみると柵のところにある堰堤の名称は「早瀬川砂防ダム」と表示されていますね。でも高さが14.0mとあるので定義上は砂防堰堤となります。堰堤の完成は昭和30年(1955年)3月。

ご覧のように柵があって中央へ行けないので、そこから早瀬川の上流方向を見るとこんな感じ。いや〜、水が澄んでいます。

柵の隙間から落水部を見るとこんな感じ。

うーむ、これではどんな堰堤なのかわかりませんね。仕方ないので意を決して堰堤の下へ行ってみることに。そう決意し、斜面を下り始めたあたりで撮ったのがこちら。石積みの工法ですね。

なんとか堰堤の真下に降りました。そこから見上げます。実はこの上部は落水部なんですよね。かなり間口が広い作りです。

で、通常水が流れているのは左岸側のここからで、堰堤上の落水部は大量に増水した際の非常用のようです。

その流れ出た水はあちらへ流れてゆきます。この景色は国道からは絶対に見ることはできません。


ちなみに「足ヶ瀬」とはここの下流の地名であり、正式名称は「早瀬川砂防ダム(堰堤)」のようですが、たぶん早瀬川が流れる足ヶ瀬という場所に築造されたダム(堰堤)なのでグーグル先生の地図では「早瀬川足ヶ瀬砂防堰堤」と表記されているのだろうと思われます。
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仙人砂防ダム(堰堤)

2024-07-14 06:53:50 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岩手県釜石市甲子町第一地割(かまいしし かっしちょう だいいちちわり)にある甲子川水系の仙人砂防ダムを目指します。アクセスは国道283号を行けば到着するんですが、この国道は言うなれば旧道のほうで、目的地は仙人大橋の近くにあります。

釜石方面から来ると仙人大橋手前の急カーブのところに目的地はあり、デーンと鎮座しています。

本体に嵌め込まれた銘板。名称は砂防ダムですが、高さが13.0mなので定義上は砂防堰堤になります。1985年1月完成。なお、「仙人」の名称は付近にある仙人峠に由来するものと思われます。

近づいて落水部を見上げます。

そして、落水部分の様子。澄んだ水です!

そこから下流方向を眺めます。うっかり指が写っていました。失礼。

急カーブのところにある公衆電話ボックス。携帯電話の普及で、これもあまり見かけなくなってきましたね。

その急カーブのところから見た「御尊顔」。


堰堤の向こうがどうなっているのかは確認できませんでしたが、独特の存在感のある築造物でした。
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釜石のシンボル的存在!…日向ダム

2024-07-13 06:58:14 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岩手県釜石市甲子町日向(かまいしし かっしちょう ひなた)にある甲子川(かっしがわ)水系小川川(こがわがわ)に築造されている日向(ひなた)ダムを目指します。アクセスは国道45号(三陸沿線道路)の釜石中央インターチェンジを降りると国道283号に突き当たるので左折。最初の信号を右折して小川川沿いの道をドンドコ進んでいくと到着します。

まずはダム下へ行って「御尊顔」を拝みます。治水ダムのようですね。

左岸のダム横に来ました。そこには日向ダム管理所があります。


釜石市は我が国の近代製鉄発祥の地で、安政4年(1857年)に初めて洋式高炉による銑鉄の製鉄に成功したそうな。それが現在「 橋野高炉跡 」に残っていて、この管理所のデザインはその時の二番高炉覆屋と三番高炉石積がモチーフになっています。

近くにある2つの石碑。ひとつは「水を治めて次代を拓く」と刻まれたもの。

もうひとつの石碑には諸元が刻まれています。平成9年(1997年)10月に完成した重力式コンクリートダムで、高さは56.5m、長さは290.0m。

ダムが築造された経緯はそもそも甲子川が台風のたびに水害による多大な被害が起こっていたことに起因します。その都度河岸の改修工事が行なわれてきましたが、近年、下流の人家や公共物が増加し、都市河川としての性格が強くなってきたことから水の安全向上が喫緊の課題となっていました。そこでこの小川川に洪水調節と流水の正常な機能維持を目的とした日向ダムが築造されたのだそうです。

もちろんダム築造にあたっては移転を余儀なくされた人たちもいました。いまはダム湖の底に沈んでいる地にかつて住んでいたという証としてその人々が「思い出を偲びつつ」と刻んだ石碑があります。

そうして完成したのが日向ダム。

これが左岸から見たダム上。では、歩いてみましょう。

ダム上、中央から見た上流方向の様子。

ダム下を覗き込み、

下流方向を眺めます。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

「日向」は思わず「ひゅうが」と読んでしまいがちですが「ひなた」なんですねえ。

また「小川川」も、ここでは「おがわがわ」ではなく「こがわがわ」なんですね。

近くには「無災害完工」と刻まれた石碑。多くのダムでは築造にあたって犠牲者が出てしまい慰霊碑が建てられています。しかし災害が発生しないで完工できたのは素晴らしいことで誇るべきこと。なのに石碑はひっそりと片隅に置かれています。なんと奥ゆかしい!

右岸、下流側から見たダムの様子。

同、上流側から見た様子。

ダム本体面が石積み模様になっているのは上に見た「橋野高炉跡」の石積模様をモチーフに、また、ダム上に点在する飾り高欄は湖面のさざなみと釜石の花「はまゆり」をイメージ、そして本体の親柱はダムの力強さとゆるやかな山並み、ダム湖の豊かな水が表現されているそうです。


こうしてみると、日向ダムはしっかりしたコンセプトと釜石の特徴が見事に表現されているように思えました。
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放置状態?…大曽根砂防ダム(堰堤)

2024-07-12 06:52:29 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岩手県釜石市唐丹町小白浜(かまいしし とうにちょう こじらはま)に大曽根砂防ダムというのがあるのを見つけたので行ってみることにします。アクセスは国道45号沿いにある定食屋「よしや」の信号(桜峠北)を西方向へ入り、そのまま道なりに進んでいくと到着します。

到着しました。どうやらこれのようです。

本体には銘板が嵌め込まれていますが、ズームしても明確に読めず。ただ、その表記は「大曽根砂防堰堤」になっているのが確認できます。

左岸、上流側から見たダムの様子。

ダム横から見た様子。これを見ると高さは11.0mで、長さは74.3mとあるので、この表記では「砂防ダム」となっていますが、定義上は高さが15.0m未満なので本体の銘板に記されているように砂防堰堤が正解。昭和56年(1981年)3月完成。なお、堰堤名はここを流れる大曽根川に由来します。


上の看板には立ち入ってはいけないと書かれていますが、柵が破損していて入れそうなので自己責任で堰堤の上に行ってみます。これが中央の落水部の様子。

そこから上流方向を見るとこんな感じ。

堰堤の下を覗き込み、

下流方向を見ますが、木でなんも見えず。とほほ。

そこから左岸側を見るとこんな感じ。


堰堤横の柵が破損したまま放置されていることから見て、近年この堰堤はメンテナンスされていないように思われます。
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ご多幸を願って…鷹生ダム

2024-07-11 07:00:05 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岩手県大船渡市日頃市町中甲子(おおふなとし ひころいちちょう なかかっし)を流れる盛川(さかりがわ)水系鷹生川(たこうがわ)の鷹生ダムを目指します。アクセスは国道107号から五葉温泉方面へ入り、県道193号を登っていくと到着するようです。

【鷹生川の由来】(参考
珍しい名称の川ですが、その由来は推測ですがこのダムの周辺に絶滅危惧種であるイヌワシが生息していたことから命名されたのではないかと思われます。周知の通りイヌワシはタカ目タカ科イヌワシ属に分類される鳥なので「タカが生息する川」という意味でそう呼ばれるようになったのかもしれませんね。たぶん。

さて、まずは県道193号からダム下へ行って「御尊顔」を拝むことにします。

水利使用許可標識。灌漑を目的としたダムらしい。

県道193号に戻り、右岸のダム横に来ました。

右岸広場にある周辺案内図。ダム湖名は「五葉湖」

近くにあるこの建物はダム監視所。

鷹生ダムの概要。このダムは洪水調節、河川環境の保全、水道用水確保を目的とした多目的ダムで、高さは77.0m、長さは332.0m。

「五葉の清き流れを次代へつなぐ」と刻まれた石碑の裏には諸元が記されています。平成18年(2006年)10月竣工。


監視所からダムはこんな風に見えます。

右岸から見たダム上。歩いてみましょう。

ダム上、中央から見た上流方向の景色。いや〜、絶景、絶景。

一方、ダム下を覗き込み、

下流方向の遠景を眺めます。

対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

左岸、上流側から見たダムの様子。

右岸の県道沿いの壁面には「五葉山に生息するホンシュウジカ」と題する壁画。五葉山(ごようざん:標高1.351m)は当該ダムの北北東に位置し、大船渡市、釜石市、住田町の境にある山です。


県道沿いにある駐車場の脇にある「鷹生ダム広報スクエア」。

その内部には鷹生ダムの築造の過程が説明されています。なお、上のリンク先によれば、このダムの特徴はダム本体の主要資材(セメント、水、骨材)がすべて地場産品でまかなわれていることだそうです。


鷹生ダム管理事務所はダムから県道を約800mほど上流へ行ったところにあります。


面白いのは管理事務所の地名が「上甲子(かみかっし)」であるのに対し、右岸のダム横の地名は「下甲子(しもかっし)」、そして左岸のダム横の地名は上に記したように「中甲子」というように同じ地名でないこと。つまり三つの地名のクロスオーバーしたところにこのダムは築造されたというわけですな。
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調理しないけど…綾里川ダム

2024-07-10 06:54:09 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岩手県大船渡市三陸町綾里熊ノ入(おおふなとし さんりくちょう りょうり くまのいり)を流れる綾里川水系綾里川に築造された綾里川ダムを目指します。アクセスは県道9号を石浜漁港近くまで行き、その先の綾里川に架かる港橋の左岸側の道を進んでいくと目的地に到着します。

その道を進んでいくとダムが見えてくるので、ちょいと寄ってみましょう。

近くまで行って非常用洪水吐を見上げます。

近くには綾里川周辺案内図があります(これはダム横にも同じものがあります)。

ではダム横へ向かいます。来た道をそのまま登っていくと左岸のダム横に辿り着きます。そこには存在感のある綾里川ダム管理所があります。


近くには綾里川ダムの諸元が記された石碑があります。それによれば、当該ダムは高さ=43.0m、長さ=154.0mの重力式コンクリートダムだそうで。


管理所からダムを見るとこんな感じ。

左岸にはこんな像があります。なんでしょうね。

その下の説明によると、これは綾織姫の像で、彼女は綾羅(りょうら:刺繍の入った美しい布)を織ることが上手だったそうな。そして村中の女性たちに綾羅の織り方を教えたことで村では織物業が発達したという。綾里という地名の由来は綾織姫、つまり綾羅を織った姫にちなみ、「りょうおり」→「りょうり」に転じ、漢字も「綾里」となったようです。

その付近から見たダムの様子。

左岸から見たダム上。歩いてみましょう。

ダム本体の欄干には三陸町の木「杉」と花「椿」を象った二種類のモチーフが使われています。ちなみに三陸町とは1967年4月1日から2001年11月15日まで存在した気仙郡(けせんぐん)三陸町のことで、同日大船渡市に編入され消滅しています。


ダム上、中央から見た上流方向の景色。

一方、ダム下を覗き込み、

下流側の遠景を眺めます。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

竣工は平成12年(2000年)10月。つまり三陸町が大船渡市に編入される前年ですね。だからモチーフは三陸町のままだったわけです。もし編入後に竣工していたらそのモチーフは「松」と「椿」(大船渡市の木と花)だったかもしれません。

右岸、上流側から見たダムの様子。

同、下流側から見るとこんな感じ。


国道45号を走っていると陸前高田から大船渡あたりの沿岸には津波対策としての堤防が作られています。もちろんそれは2011年に発生した東日本大震災後に作られたもので、その高さは12.5m(参考)。沿岸から海が見えないほどの高さです。
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千松ダム…そして、ちょっと考察

2024-07-07 06:54:04 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岩手県一関市藤沢町大籠(いちのせきし ふじさわちょう おおかご)にある北上川水系二股川(ふたまたがわ)に築造されている千松(せんまつ)ダムを目指します。アクセスは国道346号沿いにある「千松左官」の看板付近の道を入り、道なりに進んでいくと到着します。

まずはダム下へ行って「御尊顔」を拝みます。

続いて右岸のダム横に向かいます。付随する建物の屋根の形と色が印象的。

右岸、上流側から見た様子。

ダム本体に嵌め込まれたプレート。ダム湖名は「せんまつ湖」。

右岸、ダム横から見たダム上の様子。行ってみましょう。

欄干には藤の花をかたどったものが…。それは築造当時の地名が東磐井郡(ひがしいわいぐん)藤沢町で、同町の花が藤だったことに由来するものと思われます。なお、同町は1926年6月1日からの名称でしたが、2011年9月26日に一関市に編入されています。

ダム上、中央から見た「せんまつ湖」の様子。

一方、ダム下の副ダムを覗き込み、

下流方向の遠景を眺めます。

左岸側にあるこの建物は千松ダム管理事務所。それにしても独特なフォルムです。これは後述するようにキリスト教会をイメージしたもののように思えます。


対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

左岸、管理事務所付近から見たダムの様子。

同、「せんまつ湖」側から眺めます。水の色がなんとも言えません。

その近くには「せんまつ湖」と刻まれた石碑と、平成八年十一月吉日と記された定礎の碑。


案内板には諸元と「せんまつ湖」の由来が書かれています。

それによると、千松ダムは国営藤沢開拓建設事業で造成した田畑の灌漑用水確保のために築造された直線重力式コンクリートダムで、着手は平成7年12月、完成は平成10年(1998年)10月。高さは26.8m、長さは111.0m。ダムの規模を25人乗りのマイクロバスを単位として表現しているのは面白いですね。

「せんまつ湖」の由来。この説明によると備中国(現在の岡山県)の精錬師、千松大八郎と小八郎兄弟が招聘されてこの地に居を構えたことから地域一帯が千松と呼ばれるようになったことに由来するとあります。ところが、いろいろなサイトを調べていくと事実はちょっと違うようです。


つまり、千松兄弟が招聘されてこの地に来たのは説明では1592年と読めますが、兄弟に秘法を学んだという烔屋衆(どうやしゅう)のひとりである千葉土佐(1543-1590)の年譜(参考)によると兄弟を招聘したのは1558年で、しかも兄弟の姓はもともと「布留(ふる)」だったようです。そして兄弟は最初桃生郡に烔屋を構え、その後1592年に製鉄に適した大籠村の千松沢に定住し姓を「千松」に変えたそうな。だから案内板の説明では千松兄弟がこの地に来たから地名が千松になったとありますが、実は千松沢というのがもともとあって、そこに兄弟が居を構えたので姓を「布留」から「千松」に変えたというのです。

ところがですよ、備中の製鉄の歴史研究(参考)によると平安時代には製鉄が盛んだった備中国ですが鉄鉱石は次第に枯渇し、11世紀以降は備前と備中南部の製鉄遺跡が見られないそうな。ということは兄弟が招聘された1558年頃はすでにこの地で製鉄は行われていなかったことになりますね。なのに兄弟は招聘された…。なんのために? いや〜、なんだか不自然ですよね。もしかして兄弟は作られた人物ではないかと、この著者は考えます。

では、なぜ千松兄弟の話は作られたのでしょうか。時代は下り、江戸時代になった1637年、九州で島原の乱が起こります。幕府はキリシタン勢力による乱に驚き制圧するのですが、仙台藩でもキリスト教徒の弾圧が1623年から始まります。そして1839年、大籠村で神父を匿っている住民がいるとの密告があり、神父は江戸に送られ火刑。それに伴い大籠村でも信仰を貫いた309人のキリシタンが殉教する悲劇が起きます。これが意味するのは大籠に製鉄技術とキリスト教を教えた者がいたということ。著者によれば、それは後藤寿庵と孫右衛門神父だそうな。

後藤寿庵(1577-1638)は陸奥国磐井郡藤沢城主、岩淵秀信の次男(又五郎)として誕生。1596年に長崎で洗礼を受け、寿庵と改名します。1612年、伊達家の家臣である後藤信康の義弟となり後藤姓になり、見分村(現在の岩手県奥州市水沢福原)を拝領。そして荒地を開墾しつつ西日本諸国を巡ったときに学んだ「けら押し法」による新しい製鉄技術を大籠の人たちに伝えたそうな。しかしキリスト教を信仰するのは良いが布教は止めよという伊達政宗の提言を断ったため、その後水沢の家を放火され1638年に亡くなりました。

孫右衛門神父は1615年にスペインから来日した人で、本名はフランシスコ・バラヤス。当時江戸幕府はキリシタン禁教政策をとっていたため、1621年、まだ禁教政策をとっていなかった仙台藩に逃れる。そこで寿庵と出会い、彼と共に人々に信じることや希望持つこと、そして愛することを伝えます。しかし上に書いたように1639年に捕えられ、江戸で火刑に処せられました。

で、なぜ千松兄弟の話が作られたのか。その理由としてこの著者は寿庵と孫右衛門神父は「厳しい禁教化において二人とも罪人として処罰されており、当時二人の実際の名を語ることは不可能なことでした。代わりに千松大八郎、小八郎という名前を使うことで、大籠の人たちは自分達が信じた信仰の素晴らしさを子孫に伝えたかったと考えられます」と結論づけています。

うーむ、「せんまつ湖」の由来からだいぶ脱線してしまいましたね。でも、これがきっかけになっていろいろと学ぶことができて良かったと思います。
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