ライターの脳みそ

不定期に更新する思いつきブログ

回りくどい指示

2008-06-25 18:04:36 | 脳みその日常
以前から思っていること。とある有名なホールによく行くのですが、上演前、会場内に流れるアナウンスにはいつも首を傾げてしまいます。演奏中に携帯電話が鳴らないようにとの配慮であることはわかります。しかし、その文言のなかで

「マナーモードに設定の上、電源をお切り下さいますようお願いいたします」

うーん、どういうことなんでしょうねえ。もしこのアナウンスの狙いが「こらっ、演奏中に携帯電話を鳴らすな!」というのであれば、わざわざマナーモードに設定する必要がないと思うんですけどね。なぜそんな面倒臭いことをさせるんでしょうか。原付バイクで二段階右折をするくらい面倒臭いじゃありませんか。もっとも原付の場合は面倒臭いというより、うっかり違反して見つかった時の悔しさったらありませんがね。だいたいその標識が見にくいっちゅうねん!

おっと、取り乱しました。失礼、失礼。

話を元に戻しましょう。さて、マナーモードのみにしておくと機種によってはバイブ機能は生きているので、着信があった場合「ブーブー」と音はします。もしシーンと静まり返った瞬間に会場のあちこちから「ブーブーブー」とバイブ音が鳴ったらどうです? 音楽に感動するもヘッタクレもないですね。もう最悪です。たぶんそういう理由から電源を切れと言うのでしょう。

でも、それなら最初から「演奏の妨げになりますので携帯電話の電源をお切り下さい」でいいじゃないですか。わざわざ「マナーモードに設定」させなくたっていいんです。なのになぜ意味のない作業を指示するのでしょうか。わけがわかりません。

こんな「二段階右折」をしなくても良い方法があります。それも電源を切らずに。他社のは知りませんが、ドコモの携帯には「ドライブモード」というのがあります。これをポンとオンにしておけばホールが求める条件をすべて満たすことができます。着信音はもちろんバイブ音も鳴りませんからね。もしオン状態で着信があっても「着信あり」の履歴が残るので便利です。まあ、こんなことは誰でも知っていることで、改めて書くことでもないんですが…。

それにしてもアナウンスというのは注意を喚起させるためのものなのですから、スマートかつ適切な指示をお願いしたいもんです。都内の他のホールではこんな「二段階右折」的なアナウンスはしていないので、余計にこのホールのアナウンスは気になるのです。このアナウンスはどうせ録音されたものを流しているのですから、単に差し替えれば済むこと。そんな些細な経費を惜しんでいるんでしょうか。それともこれは誰も気づいていないのでしょうか…。

まさかねえ。
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架空のハイドン

2008-06-18 11:59:06 | 音楽あれこれ
いやいや、またブログの更新が遅れてしまいました。定期的に訪問されている皆さん、どうもすみません。

さて、今回はこっぱずかしい誤植をご紹介しましょう。まずは次の画像をご覧下さい。



これは、とあるチラシの一部を切り取ったものです。誤植がすぐにわかったアナタは音楽通です。「いやー、なんのことだか、さっぱりわからん!」というアナタのためにご説明しましょう。

オーストリアの作曲家にハイドン(1732-1809)という人がいるんですが、この人のフルネームは「Franz Josepf Haydn」なわけですよ。ま、場合によっては「Franz」が省略されることもあります。いずれにしても問題はヨーゼフの部分なんです。

ね? もうわかりましたね。チラシを見ると「ヨプゼフ」となってるじゃあ、あーりませんか。誰ですか、ヨプゼフって…。念のために言っておきますが、「ヨプセフ・ハイドン」などという作曲家はおりません。

このチラシはある店先に置いてあったものなんですが、誤植に気づいて店の人に「うわっ、これ、恥ずかしすぎる間違いですよ!」と教えてあげたんです。すると店の人はしばらくその誤植に気づきませんでした。

「え? どこに問題があるんです?」
「ほれ、ここが…」
「ん? え? え゛! ぐぇ~、あわわわ、なんたること!」
「いや、そんなに狼狽しなくても」

店員によれば、このチラシは店頭にだいぶ前から置いてあるとのこと。そして誤植については店側の誰も気づかず、また客からも何の指摘もなかったそうです。まあ、そういうことなら確かに店員も狼狽するでしょうねえ(苦笑)
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悲しみを放棄しない

2008-06-04 04:57:10 | 脳みその日常
先月の12日、歳若い友人が亡くなりました。入院して5日後に永遠の別れになるとは誰も想像しませんでした。医者ですらこの症例で亡くなるとは思わなかったそうです。それほどまでにあっという間の幕切れでした。ワシは葬儀に立ち会えなかったので後日御挨拶に伺ったのですが、ご遺族の無念さに心が痛くなりました。本当に残念でなりません。

生前、友人は多くの人から慕われていました。その人懐っこい笑顔は今でもワシの記憶に残っています。話によれば、葬儀には相当多くの弔問客が来られたそうです。

若い人の訃報に接するたび、再度書きますが心が痛くなります。もちろん高齢者の死とて悲しいですが、やはりまだまだこれから活躍しようという若い人の場合には別の意味での悲しみがあります。ああ、神様、あなたは何て非情なことをなさるのだ…。何も今彼を召さなくてもよいではないですか。

それが彼の寿命だったのだとは思いたくありません。彼にはまだすべきことがたくさんあったでしょうに。周囲の人々も彼の活躍を望んでいたはずです。もちろん、人間、いつかは最期の時が来ます。理屈で考えればその「時」が早いか遅いかというだけなのかもしれません。人はそういうふうに割り切りながら他人の死に対峙するのでしょう。

でもワシは他人の死というものをある種の「儀礼」のように割り切って考えられないのです。たとえば、近所の付き合いだからとか仕事上の付き合いだからというスタンスで、サバサバとした態度で葬儀に出席するなんてとてもできませんね。

友人とは特に親しい付き合いをしていたわけではありません。ですが、儀礼的に弔う気にはなれません。自らの心が痛くならないためには「割り切り」が必要なのかもしれません。たぶん世の多くの人たちがサバサバした態度で葬儀に臨むのは自己防衛のためなのじゃないでしょうか。

付き合いの度合いはともあれ、故人を悼む気持ちはみな同じはず。みんな心が痛いのです。でも、つらく悲しい気持ちを抱けば抱くほど、苦しくなるばかり。となれば各人の防衛本能が働くわけです。苦しくならないためには悲しみを割り切って捉えたら良い、と。まあ、たぶんこんなことを改めて考える人もいないと思います。これはそれぞれの人が自らの経験に基づいて無意識のうちに習得した知恵なのでしょうし。

理屈はそうなのでしょうが、それでもワシは割り切ることができません。もし自らの心の平安を保つために防衛本能から割り切った態度をとるほうがよいとわかっていても、敢えて苦しいほうを選びたいと思っています。心の痛みを放棄したら故人への気持ちや記憶が薄れてしまうような気がするからです。心の痛みをもち続けることで故人を供養できるんじゃないかと思うからです。もっとも、そんなのは実際には後づけの理由であって、亡くなってひと月近く経た今もワシの心はつらい状態なんですけどね。

それにしても、ホント、若い人の死は心にこたえます。
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