ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

ふしき・ふしぎ・ふしぎ

2008-05-20 07:41:16 | 脳みその日常
最近気になる「ふしぎ」を3つほど。

その1
爪の伸び方が妙に早くなってきたように思うのですが、みなさんはいかがですか。先日切ったと思っていたら、もう伸びてきているんですよね。ピアノを弾くなど、指先に刺激を与えると爪の伸びが早いのは経験的に知っているのですが、この伸び方はそれとは違うように思うのですが。なんなんでしょうねえ。

その2
道路の端を歩いていて気づきました。無意識のうちにサイフなどを道路中央側の手で持っていることを。なるほど、「ひったくり」はこれを狙っているのか…と。でも、なぜわざわざそんな持ち方をするんでしょうかね。単にワシが平和ボケなのでしょうか…。

その3
少し前から、もう台風のニュースが報じられています。台風って、こんな時期から活動してましたっけ? 何となく夏から秋にかけての風物詩だと思っていたのですが。これは地球が温暖化してきたことによる異変のひとつなのでしょうか。そうだとすると、おそろしいっす。
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公序良俗が壁に?

2008-05-19 07:29:26 | 脳みその日常
某社の水着で泳ぐとタイムが縮まるという理由で、この水着は世界の水泳関係者から注目されています。ところがすべての競技者がその水着にシフトすると同業他社の商売はあがったりになってしまう…。これでは某社による水着の独占販売になるということで、アメリカでは同業他社が某社を相手に裁判を起こす事態に。これはいかにも裁判大国といわれるアメリカならではの光景です。

権利をとことん行使するのは別にいいと思いますよ。でもアメリカを含め資本主義社会ってえのは基本的に競争社会じゃないですか。良質なものや優れたものが評価され生き残ってゆくわけですよ。ならば同業他社がすべきなのは提訴するよりもむしろ、某社に「おいしいところ」を取られないよう、某社よりも優れた商品を開発すればいいだけの話。品質の劣っている商品を作っておきながら「某社は水着市場を独占した!許せん!」なんて訴えてですね、場合によっては独禁法に触れる可能性はあるのでしょうが、なんかねえ、端から見ているとまるで負け犬の遠吠えにしか見えないんですよね。実に醜い、実に格好悪いわけです。

まあ、そもそもこの問題の核心は「どのメーカーの水着だとタイムが早くなるのか」ということなんですが、こんなことを言い始めたらキリがありません。現段階では某社の水着が一番なのでしょうが、そのうち同業他社からもっと優れた商品が開発されることもあるでしょう。競争は永遠に続くのです。

国際水泳連盟はこの問題についてまだ最終的な見解を出していないようですが、連盟としてはコメントしにくいでしょうねえ。もし「競技においてはどのような水着の着用も認める」と公式見解を出したら競技者は当然某社の商品を使用するでしょう。また逆に「某社の水着での競技は認めない」などと言ったら同業他社は喜ぶでしょうけど、当の某社はメロスのように激怒し、つまらんメタボ芸人のように「訴えてやる!」と叫ぶに違いありません。

まあねえ、競技者にしてみれば着用する水着によってタイムが縮まるのなら誰だって某社の商品を使用したいに決まっています。現段階で某社の水着に注文が殺到するのは心情的にはわかります。でも、水泳競技の根本は「誰が一番速く泳げるのか」でしょ? その大前提からすれば水着ごときであーだこーだ議論することじゃありませんよ。

「でも、その水着が問題なんでしょ?」

ええ、そうなんですけど、そんなことで話が先に進まないのであれば、いっそのこと競技者は全裸で泳げばいいんです。そうすれば少なくとも水着問題でモメることはありませんし。

「おおっ、さすが御奉行、見事な御裁き。これで一件落着ですな」
「ふふふ、考えるに足らん案件じゃわ。笑止、笑止」

まあ、確かにファンタスティックな解決策なわけですが、これはたぶん、いや絶対に受け入れられないでしょうね。

それにしても、一体どうなるんでしょうかねえ。
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リーダーの資質(長文)

2008-05-14 13:12:16 | 脳みその日常
人は誰しも社会の中で何らかの役割を担っています。人の上に立つ者もいれば、そうでない者もいますね。現代には封建制度のような身分制度はありません。ですが、何かを行なおうとする際、必ずリーダーが必要になります。誰かが音頭をとらなければ物事は始まらないからです。

では、リーダーに求められる資質とは何でしょうか。さまざまな要素があると思いますが、何より重要なのはその人が他人からどれだけ信頼される人物なのかということではないでしょうか。安心して付いて行ける人、頼れる存在、それがどんな分野においても共通するリーダーの特徴だと思います。逆に言えば、周囲からみて、どうにも頼りない者はリーダーには相応しくないということになりますね。

昨日、道路特定財源を10年間維持する改正道路整備財源特例法が衆議院で成立しました。また先月はガソリン税など暫定税率を復活させた4月の税制改正関連法が可決されています。これらは国家を導く人たちが行なった最近の決断です。ものすごく簡単に言えば「国にはカネがないよ。だからお前ら国民からカネをふんだくるからな!」というようなもの。

なんだか釈然としません。「道路は必要だから作るのだ」という地方自治体の声は理解できますよ。彼らにとっては死活問題につながる可能性があるからです。それに限定するならば道路特定財源に相当する費用を負担してもいいなとは思います。

でも、なんですか! それを「一般財源化する」っていうトチ狂った発想は! この発想はどうみたって国民をナメているとしか思えません。誰が考えたってそれが矛盾していることはわかります。要するにこれは頭の悪い奴が詐欺を働く際、「そりゃ詐欺だろ」ってすぐにバレてしまうセリフを吐いているようなもの。こんな発想をする人が国家をリードしているとは情けないったらありゃしませんよ。

ただね、そうしたアホな発言をしなきゃならない背景にはたぶん別の理由があるんじゃないかと思うんですよ。そう、つまりは我が国の累積する財政赤字のことです。

ご存知の通り、日本の財政赤字は1,000兆円を越しています(参考サイト)。想像を絶する金額です。こんなワケのわからん金額をみていてフト思うのは、なぜ国家の赤字は「踏み倒し」が認められないんだろうという素朴な疑問です。公的機関が財政破綻した時には銀行の損失がチャラにされましたね? 社会的な影響力があるからという理由で…。だとすれば国家の累積した財政赤字にだってそれが適用されてもいいように思うんですけどねえ。なぜダメなんでしょうかね。

また、我が国は借金まみれのくせにODAをはじめとして他国に資金援助を行なっています。これはいうなれば借金で首の回らない奴が他人にカネを貸している(与えている)ようなもの! こんなこと、個人レヴェルで考えたらありえんでしょ。フツーに考えても頭おかしいですよ。一体どこまで見栄っ張りなんですか。人道的支援とか言ってますが、今の我が国はそれどころじゃないでしょうが。むしろ支援されなければならない立場だと思うんですけどね。

ついでに書いちゃいますが、そもそもなぜ財政赤字なんてことになったんですかね。これこそが実は最も深刻な問題じゃないですか。さかのぼればバブル期に頭の弱い役人どもが全国に無駄な「ハコモノ」を何の見通しもなく作ったからですよ。もちろんそれだけが赤字の原因じゃないでしょうけど。

問題なのは、それによって発生した赤字に対して役人どもが誰も弁済していないことです。なぜ累積赤字は存続して、役人の「踏み倒し」は許されるのでしょうか。こんな理不尽なことはないでしょう。役人ったって、所詮は国民の公僕でしょ? 公僕が主権者である国民に財政的なツケを払わせるなんて図々しいにもほどがあるってもんですよ。

ちょっと前に問題となった国民年金の問題だって同じです。人様のカネを預かっておきながら、ちゃんと管理できないってどういうことですか。それはまだしも横領したとか着服したとか、もう理解不能ですよ。こうした問題によって発生した損失や出費は誰が起こしたのでしょうか? そう、当事者である役人ですね。ならば彼らに全額弁済してもらうのは当然のことじゃないですか。そうだよ、役人ども! お前ら、冗談抜きで全額弁済しなさい! 頼むから国民に迷惑をかけるなよ!

いやいや、ちょっと怒りが爆発しちまいました。

ま、そんなわけで、話を元に戻します。ワシが何を言いたいのかというと、要するに人の上に立つ人間はもっとうまくやれよということなんですよ。国家財政が逼迫しているのは誰だって知っていることです。ただ、そこで国民にだけカネの負担をさせるなんていうのはあまりに愚かすぎますよ。先にも書きましたが、実は予算の中には「ムダなカネ」が相当あるはずです。これも以前ブログで書きましたが、たとえば役人をはじめとする公務員のボーナス。これだって理論上は出てはならない、いや、出る必要がないものです。

「損して得とれ」という言葉とはちょっと意味が違いますが、人様からおカネを頂戴するのに単に「おい、カネ出せよ!」といったって反感を買うだけです。国民に理解が得られる簡単な方法があるのに、なぜそれをしないんでしょうね。

その方法とはまず行政の側で徹底的な経費削減を行なうのです。国家が転覆しかかっているのですから、政治家や議員の給与だって大幅に減額することだってやむを得ないでしょう。もしかするとこれだけで予算の相当な金額が確保できるかもしれません。

こうして国を主導する側が「もうこれ以上我々には削るところがありません」と表明した上で「それでも国家の財政は赤字なのです。どうか国民の皆様、ご協力を!」と懇願すりゃあ、よほどのヘソマガリでない限り国民は税金の負担をするでしょうよ。

これはある意味で理想論かもしれません。でもね、支持率が低いのはこの人のアタマが弱いからではなく、国民の気持ちがわかってないからにほかならないんですよ。こんな人がリーダーになって国家をうまく操縦できるわけがない。国民に理解されたいのであれば「説明が足りませんでしたね」などと言い訳せず、理解されるような方法を実践すればいいだけのこと。やっぱりさあ、リーダーってのは子分(国民)のことを心配する親分肌じゃないとダメなのかもね。といって、仮に政権交代したとしても、こちらはこちらで頼りないし…。
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誕生日とは?

2008-05-12 04:40:59 | 脳みその日常
先日はまた歳を食ってしまいました。思いやりのある方々からはお祝いのお言葉を頂戴し、ありがたいなあと思っているこのごろであります。ところで、誕生日とはこの世に生を享けた日というわけで「めでたい、めでたい」と祝われるのが通例となっていますね。祝われる本人も周囲の祝福に乗せられてか、「嬉しいな、ワクワクドキドキ」となるのではないでしょうか。

確かに周囲の人たちが無条件に自分のことを祝ってくれるのですから、本人としては嬉しくないわけがありません。先にも書きましたように、ありがたいことではあります。でも、よくよく考えてみると、ワシがこの世に生まれたのはワシの「ちから」によるものではないわけですよ(オカルト的には「自分の意志で生まれてきた」となりますが…)。現象としてみればワシの母親が肉体的苦痛に耐えた末に、それこそ自らの腹を痛めてワシを産んだわけです。それがワシの「誕生日」というわけですよ。

この世に生を享けた日なのだから「誕生日」というのは間違いじゃありません。でもワシ個人の考えですが、この「誕生日」というのはむしろ自分をこの世に産んでくれた母親に感謝する日なのではないかと思うのです。

「いや、母の日はちゃんと他にあるじゃないか」

そういう意見もあるでしょう。でもそれは世の中が勝手に決めたこと。「母の日」に浮かれるのは生花店をはじめ、贈答品などを扱う業者にすぎません。カーネーションなどを贈られた母親たちも嬉しいには違いないでしょう。でもその喜びはいわゆる「誕生日」に私たちが周囲から祝福されるのと同じ性質のものではないかと思うのです。

いずれにせよ、世の中が決めた「母の日」に祝われることで、当の母親はかつて味わった究極の肉体的苦痛が本当に癒されるのでしょうか。母親はそれこそ損得抜きで苦痛に耐えました。それは我が子を愛していればこそなのです。子に対する母親の無償の愛を思えば、子供としては「誕生日」というよりもむしろこの日こそ「母親に感謝する日」なのではないかと思うんですよね。

もっとも、多くの母親は、

「えー、そんな昔のことは忘れちゃったわよ!」

と言うかもしれません。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とはよくいったものです。それでも子供からすれば、母親は自分を世の中にデビューさせてくれた大恩人なわけです。「いいわよ、そんなこと、もう!」などと言われても「誕生日」には感謝の気持ちを伝えるべきじゃないかなと思いますね。

「んー、でもさ、父親には感謝しなくていいの?」

おっと、そうでした。確かにこの論理からすれば父親を無視するわけにはいきませんもんね。父親なくして私たちの存在はありえないのですから。さあて、どうしたものか…。

ええい!面倒臭い! いっそのこと「誕生日」は「両親に感謝する日」にしましょう。そうすれば一応辻褄は合いますし、ついでに言えば世の中でいうところの「父の日」も必要なくなりますもんね。また、すでに親御さんの両方もしくはどちらかを亡くされた方もこの日に感謝の気持ちを表現すればいいわけですから。

でも、今年ワシをお祝いしてくれた皆さん、来年も祝福は受け付けております。皆さんのご厚意を無にしたらバチが当たりますからね。わっはっはっ。
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ウレシイひとこと(後)

2008-05-10 09:10:37 | 脳みその日常
(前回の続き)

「2日後ですか…わかりました」
「すみませんが、もうしばらくお待ち下さい」

ホッとしたのも束の間、担当者から更なる強烈なプレッシャーの言葉が。

「あ、それから原稿の送り先ですが…」
「はい」
「スケジュール的にキツイ状態ですんで、原稿は直接デザイナーに送ってください!」

そこからは、もう脳みそ全開です。ありったけの集中力を駆使し、10枚のCDを聴きながらスコアを血眼で凝視し続けました。最近は目の「体力」が弱ってきたせいか、目を酷使すると知らないうちに目の毛細血管が切れることがよくあります。ええ、今回も左目がやられました。まあ、そんなことはどうでもいいんです。とにかく原稿を書き上げるのが先決なのですからね。

不眠不休の末、なんとか間に合わせることができました。もうね、死ぬかと思いましたよ。そして原稿を担当者に指示された通りデザイナーに送るとともに、念のため担当者にも送って、直後に意識を失いました(正確に言うと爆睡したんですが…)。

意識が戻ったのは担当者からの電話でした。書いた内容に全く自信がなかったので、恐る恐る電話に出ると、その第一声が

「いやー、素晴らしい原稿、ありがとうございました!」
「はぁ…そうですか」(脳みそがまだ起きていない)
「本当にありがとうございました!」

受話器を置いてもまだ事情が理解できていないまま、起き上がったついでにメールをチェック。するとデザイナーからメールが届いていました。

「うーん、書き方のおかしいところでもあったのかな」

これも恐る恐る開いてみると、どこかで聴いたセリフが書いてあったのです。

「非常に素晴らしい原稿、ありがとうございました」

自分の原稿を自画自賛する図々しさはワシにはありません。むしろあんな内容でよかったのか今でも不思議に思っているくらいなのです。でも、ほぼ同じ時間に別々の場所でワシの原稿を読んだ人が同じような発言をしたのですから、今回はまあ、そこそこの出来ではあったんだろうなとは思います。

他の業界のことは知りませんが、この業界に身を置いていてしばしば思うのは、他人を評価する人がほとんどいないことです。もっとも、ゴマスリの意味で絶賛する人はいますよ。でもそんなのはすぐにバレます。「あぁ、コイツは良からぬことを企んでいるな」とか「何らかの利用目的で褒めているな」ってね。

だけど、やっぱりそれなりの仕事に対しては評価する発言があってしかるべきだと思います。素直に「いい仕事をしたね」と言ってあげれば済むことなんですよ。ワシは誰かが良い仕事をした時、できるだけ直接言ってあげるようにしています。なのに、ほとんどの人がそうしないのはどうしてなんでしょうか。

考えられるのは「自分だけが評価されたい」という態度なのかもしれません。「他人がどんな仕事をしても、そんなのは知らん、絶対に評価なんぞするものか」という我良しの考えがあるんでしょうね。だから、たまに他人から褒められると疑心暗鬼になったりするわけです。「コイツは怪しいぞ」と。

いやいや、そうじゃなくてですね、「良いものは良い」と相手を素直に認めてあげればいいんですよ。互いにそうした態度で接すれば「よおーし、また頑張ろう」という気になるじゃないですか。ところが、どういうわけか他人の足を引っ張るようなことをし合う…。うーん、なんて了見が狭いんでしょうね。

今回、面識のない方々と仕事をし、思いがけない評価をいただきました。正直、驚きました。いや、嬉しかったのも事実なんですが、こんなたわいもない原稿に対してストレートに褒められることがない、もっと正しく言えば「慣れていない」のでビックリしたのです。もしかすると地方の方々がその内容に対してよく理解できていなかったのかもしれません。それでもね、たまに褒められるのは嬉しいものだと、つくづく感じたわけですよ。

(おしまい)
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ウレシイひとこと(中)

2008-05-09 23:40:38 | 脳みその日常
(前回の続き)

ある日、とある地方の団体から突然原稿依頼が。ワシは基本的にというか、自らを売り込むようなことをほとんどしていないので驚いたわけです。たぶん、どこかで掲載されたワシの原稿をその担当者が読まれたのか、もしくは誰かがワシのことを紹介したのだと思います。いずれにせよ、原稿の依頼が来ることはありがたいので喜んで引き受けました。

ところがです。相手の依頼する内容がまったくイメージできないんですよ。一体どのようなことを書いたら良いのやら…。依頼を快諾したものの、今更断るわけにはいきません。さあて、これは困った。どうしたらいいんだろうか…と。

全く何も書けないまま、時間だけが過ぎてゆきました。そして、ついに締切の日。書くためのおおよそのネタは集めてあったのですが、とてもその日に間に合わせることはできません。

言うまでもないことですが、決められた締切日が守れないのはライターとして失格です。たとえ内容がテキトーであっても、とにかく出さなくちゃいけないんですよね。それは何もこの世界に限ったことじゃありません。社会の中で生きるひとりの人間として守らなければならない最低限のルールなわけです。

「あぁ、いまワシはその最低限のルールを破ろうとしている。」

もうね、この時点で自己嫌悪に陥っている状態、サイテーな人間だなと自らを呪っているわけです。だけど、担当者に「今日は(原稿が)出せません」と連絡しないわけにはいきません。ダンマリを決め込むなんざ、卑怯者のすること。そこまで人間を落としたくはないので、意を決して今日中に出せないことを相手に告げました。すると担当者はワシの心を見透かすかのように、間髪入れず、

「で、いつ入稿していただけるんです?」(棒読み)

それは確認のつもりで発した言葉なのかもしれません。でもワシにはそれが死刑宣告を受けたような衝撃でした。もちろん原稿を書いていないのは自分なのであり、弁解の余地はありません。ただただ謝るしかないのでした。でも、相手にしてみればこちらの事情はどうでもよいこと。とにかく入稿予定日が知りたいわけです。そこでワシは何の根拠もなく、

「申し訳ありませんが、あと2日だけ時間を下さい」

と懇願しました。いや、この時点ではホントにこの原稿を2日間で書き終える自信なんてなかったんです。もう、半ばヤケクソ状態ですよ。そして、こう発言することで自らを奮い立たせようとしたのかもしれません…。

(つづく)
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ウレシイひとこと(前)

2008-05-08 07:18:23 | 脳みその日常
みなさま、お久しぶりです。お元気でしたか?

前回の記事からナントひと月以上も経過してしまいましたね。時間の経つのは早いものです。ブログを更新しなかった理由は特にありません。別に病気だったわけでもありません。相変わらず元気そのものですよ。ただ、なんとなく書くのを忘れていたんです。

まあ、ワシがブログを書こうが書くまいが世の中に変化があるわけでもなし。所詮は個人の戯言、便所の落書きなのですからね。どうでもいいんですが…。

前置きはそのくらいにして本題に移ります。

今の仕事は長いこと続けていますが、未だになぜこの仕事をやっているのか自分でもわからなくなる時がよくあります。ご同業の方ならご承知の通り、決してカネになる仕事じゃありません。といって手を抜くわけにもいきません。ここでは敢えて匿名で書いていますが、仕事となれば話は別。署名原稿なんですからね。ワシの書き手としての信用にかかわってくるからです。

他の方のことは知りませんが、少なくともワシに限って言えば仕事内容は毎回違います。その内容がカンタンならいいのですが、残念ながらそうでないことのほうが多いような気がします。たとえば曲目解説の依頼が来たとしましょう。

慣例では演奏会当日のひと月前あたりに依頼が来ることになっているようです。でもワシのところに来る依頼は最も早くて3週間前。いや、その程度ならワシにとっては楽勝コース。うれし涙がでちゃいそうになります。

この程度の依頼なら毎回大歓迎なのですが、世の中そんなに甘くありません。担当者がワシをナメているのかは知りませんが、ここ10年ほどは2週間前というのが当然のようになっているのです。いや、そんなのはまだ良いほうで、非常識なクライアントになると

「すいませ~ん、明後日までにお願いしま~す」

と涼しい顔で依頼してくる始末。一体、何を食えばそのようなノーテンキな人間になれるのか、サッパリわかりません。

どんなことでもそうでしょうが、何かを解説するにはある程度の時間が必要なんです。複雑な作品であればアナリーゼ(分析)してみなけりゃわからんものもあるんですよ。でも、ノーテンキな担当者は「そんなの、関係ねぇ!」てな調子で依頼してくるわけです。

「そんな理不尽な依頼なら断ればいいではないか!」と思うでしょ?

ええ、できることならワシも冷たい口調で断りたいですよ。

「ナメとんか? こら!」と言いたいですよ。

でも、そう言えないのが苦しいところなのです。何しろ、この業界、狭いですからね。知らないうちに知らないところで知らない人がワシのことを知っていたりするわけです。

たとえば、ある担当者に暴言を吐いたとしましょう。そうするとアッと言う間にその話が、ご丁寧に尾ひれまでついて広がるのです。ったく、何たることでしょう!

日常がこんな調子ですから、よほどスケジュールが詰まっていない限り、依頼された仕事は内容がどうであれ、すべて受けるのです(受けざるを得ないともいふ)。そうなると場合によっては徹夜するなんて当たり前。

でもワシとて人間ですから、やっぱり眠くなります。だけど寝ている場合じゃない。そういう時は、もう根性で乗り切るしかありません。仕事は基本的にはデスク・ワークですが、体力と根性がないとフリーランスのライターなんて務まりません。

「だけど、肉体労働じゃないからラクそうだな」

なんて思うかもしれませんが、残念ながらハズレです。まあ、やってみればわかります。たとえ体力が続いたとしても、ある段階に来た時、脳が勝手に思考停止しますから。こうなると、もうどうにもなりません。お陀仏です。

そんな日々を送っていたある日…(つづく)
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