ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

原型は室町時代…菖蒲沢ダム(堰堤)

2024-07-09 06:58:40 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は宮城県気仙沼市本吉町菖蒲沢(けせんぬまし もとよしちょう しょうぶざわ)にある沖の田川水系の菖蒲沢ダムを目指します。アクセスは「気仙沼カントリークラブ」を目指し、目的地はその西側になります。

南側の堤を登っていくと、こんな感じ。

坂を登り切ると、そこはダム横。左岸側から見た様子がこちら。

ここには「記念碑」と題された石碑があります。ただ、苔むしていて読めない部分が多いので全文転記はできません。そこで要約すると次のような内容が記されています。

「この地域は毎年深刻な水不足に悩まされていた。そこで昭和35年2月8日に溜池を新設するための土地改良区が設立される。そして昭和36年3月、工事に着工し、昭和41年に完成。すべての付帯工事が終了したのち、昭和58年4月27日、土地改良区は解散となり、以後ため池の管理は菖蒲沢ダム水利組合に委託する。このダムに関しては初代理事長の鈴木軍太郎氏の功績は賞賛されるべきものであり、彼のサポートをした畠山仁氏の功績も忘れてはならない。しかし畠山氏はダムがもう少しで完成という直前に病に倒れ帰らぬ人となったのは非常に残念であった。」

…と、こんな内容が昭和58年6月23日に建立された石碑に記されています。

左岸、上流側から見たダムの様子。

では、ダム上を歩いてみましょう。中央付近から見た上流方向の景色。

一方、下流方向を眺めるとこんな感じ。

どこまでがダム上なのかわかりにくい構造ですが、なんとなく右岸側から眺めます。写真を撮り忘れましたが、洪水吐はこの背後の右岸側にあります。

それにしても「記念碑」以外の案内板が見当たらないので別の道から上流側に来てみました。そこから見たダムの様子。

その近くに「菖蒲沢ダム工事概要」と書かれた表示板があります。この表示では昭和34年に着工されたと書かれています。その後貯水機能を高めるため平成6年から翌年にかけて長年堆積した土砂を除去し用水の安定供給を実現。この用水は近隣の農地整備に有効活用されているそうな。なお、諸元を見ると名称は確かに「菖蒲沢ダム」ですが、堤の高さが11.895mとあるので定義上は堰堤となります。


ただ、地元では「菖蒲沢ため池」と呼ばれているようです。また、実はこの地には1547年にはすでにため池が築造されていたようで、それを利用・改良して築造されたのが現在の菖蒲沢ダム(堰堤)のようです。(参考)(参考
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河川名ではない…払川ダム

2024-07-08 06:59:00 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県本吉郡南三陸町歌津払川(もとよしぐん みなみさんりくちょう うたつはらいかわ)にある伊里前川(いさとまえがわ)水系伊里前川に築造された払川ダムを目指します。アクセスは国道45号(南三陸道路)の歌津インターを降り、大船渡方面へ曲がります。そして田束山(たつがねさん)方面へ左折し県道236号を道なりにドンドコ進んでいくと到着します。

見えてきました。これのようです。

県道236号を進んでいくと左岸のダム横になり、そこに「宮城県払川ダム管理事務所」があります。

近くにある案内板。これによれば、払川ダムは伊里前川の洪水調節、流水の正常な機能維持、南三陸町の水道用水の確保を目的とした多目的ダムで、高さは38.9m、長さは94.5m。工事期間は平成4年から平成24年とありますが、同ダムのパンフレットによると昭和62年4月に予備調査が開始され、最終的にダム事業が竣工したのは平成25年(2013年)5月と書かれています。またこのパンフレットによればダム築造の経緯は伊里前川が昭和52年9月の台風11号と昭和56年9月の豪雨により洪水が発生し多大な被害が生じたことから抜本的な治水対策として払川ダムが築造されるに至ったとあります。

ダム横にある「定礎」の石碑。平成22年9月吉日。

その付近から見たダムの様子。


管理事務所からダムを見るとこんな感じ。

左岸、ダム横から見たダム上。ダム湖名の「田束湖(たつがねこ)」はダムの北にある田束山(標高:511.4m)に由来するものと思われ、その中腹あたりから流れ出た水はここへ流入しています。

ダム上、中央から見た上流方向の景色。

ダム下を覗き込み、

下流方向を眺めます。写真中央に見える道路は県道236号。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

右岸、下流側から見たダムの様子。

同、ダム湖側から見た様子。


ダム名は言うまでもなく地名に由来するもので、河川名ではありません。ちょっと紛らわしいですね。
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県境にある相川ダム

2024-07-06 06:58:04 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県登米市東和町錦織(とめし とうわちょう にしきおり)にある北上川水系相川(あいかわ)に築造されている相川ダムを目指します。アクセスは説明が難しいのでグーグル先生の地図もしくは国土地理院の地図で「相川ダム」と検索すると出てくるのでそれを参考にしてください。

相川ダムは宮城県と岩手県の県境にあり、左岸側の住所が宮城県なのでこのカテゴリーに入れます。左岸沿いの道を上流からダムへ向かっていくと駐車場があり、そこには相川ダムの案内板があります。それに記された諸元を見ると相川ダムの高さは40.3m、長さは168.0mで、中心遮水ゾーン型ロックフィルダムだそうです。

近くにある別の案内板によれば、当該ダムは平成5年(1993年)に国営農地開発事業により築造に着手され、平成10年(1998年)に完成したものだそうです。ダム便覧では「1983年着手、1996年竣工」となっていますが、その出典はどこからなんでしょうね。(参考

ダム湖名は「まさぼう湖」で、その由来はダムのすぐ下流にかつて「正坊(まさぼう)滝」という落差4メートルの滝があり、その滝壺には巨大ウナギが住んでいて村人を震え上がらせていたという伝説に由来するそうな。いや、その説明では「まさぼう」の由来がわかりません。ウナギの名前が「まさぼう」なんでしょうか。ダム便覧の記述によれば「かつて昌坊滝という滝があって、ダム建設により水没した。昌坊という名は、そういう名の農夫がいたという伝説に基づいている」と書かれていますが、この説明でも「まさぼう」と滝の関係がよくわかりませんね。だいたい「正坊」と「昌坊」の字が違っているのでこの説明もなんだかなあという感じですが。

で、その付近からダム方向を見るとこんな感じ。

向こうには管理所らしき建物が見えます。

さらにダムへ向かっていくとダム横に行く道がありますが、なんと行けず…。

仕方なくダム下へ行ってみることに。洪水吐の下から見上げるとこんな感じ。

この洪水吐から溢れ出た水はあちらへ向かって流れてゆきます。


帰宅して調べてみると相川ダムから直線距離にして1.0kmほど北の岩手県側に「東北農政局藤沢開拓建設事務所 相川ダム管理所」なるものがあります。これは実際に見ていませんが、ストリートビューで見る限り管理所というよりロッジといった雰囲気が漂っています。
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青下水源地(2)…青下第2ダムなど

2024-07-05 07:53:03 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。前回の続きになります。仙台市水道記念館の敷地に入り、記念館の奥に青下川(あおしたがわ)があるんですが、右へ降りていくと青下第1ダムが、そして、左へ歩いて行くと、つまり青下第1ダムの上流に今回目指す青下第2ダムがあります。

青下第2ダムの近くにある案内板。それによれば、この「第2」が築造されたのは昭和9年(1934年)であり、下流の「第1」も、また以前訪れたこの上流にある「青下第3ダム」も同じ年に築造されていることから青下水源地にある3つのダムはすべて同時に築造されたことがわかります。

ダムへさらに近づくと青下第2ダムの案内塔があります。

その説明によると「第2」の高さは16.28m、長さは39.2mと表示されていますが、文化庁の登録有形文化財のデータベースをみると高さは14.4mになっています(参考)。またダム便覧では高さは17.4m、そして竣工年は1933年となっていて(参考)、もう数値がバラバラ。どうなってんねん。


で、ここがダムへ降りていく通路なんですが、ご覧の通り行くことはできません。とほほ。


というわけで、青下水源地にある3つのダムのうち、この「第2」だけが直接目で見ることができませんでした。

水道記念館の敷地にはほかに青下ダム旧管理事務所があります。これは「第1」と「第2」の間にあって昭和8年(1933年)に建設されたもの。曲面状の階段室や丸窓のデザインが国際様式を指向した昭和初期の建築様式の特徴を示しており、「造形の模範となっているもの」と評価されたことから1999年6月にこれも登録有形文化財に指定されています。(参考


ただ、なぜか旧管理事務所に付けられたスピーカーからはラジオの音声が大音量で流されていて、敷地内のこんな爽やかな場所にまで響き渡っていて不快極まりないなと思っていました。こういう場所では静寂が相応しいと思うからです。

この大音量があまりに不自然に思えたのでその理由を水道記念館に行って尋ねてみました。

記念館の中には仙台市の水道事業についての様々な展示物があり、歴史なども学ぶことができます。

一通り見学したのち、そこにいた職員の方に「大音量の理由」を聞いてみると、これは要するに熊除け対策のため流しているそうな。なるほど、そういうことでしたか。でもねえ、気持ちよく散策できないなあ。

そんなことを職員の方に伝えると「まったくその通りですね。ただ、安全を考慮すると仕方ないんですよね」と申し訳なそうにおっしゃる。いろいろとお話を伺ったのち上に載せた水道記念館の写真を撮ろうと外へ出ると、職員の方が慌てて出てきました。

「あの、記念写真を撮りましょうか?」
「いやいや、ただ単に水道記念館の写真を撮るだけなので結構ですよ」

また、その場で10分ほど雑談。丁寧、かつ人懐っこい対応に恐縮しました。職員の高橋さん、ありがとうございました。

こういう「ふれあい」、いいよね。
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青下水源地(1)…青下第1ダムなど

2024-07-04 06:52:42 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は宮城県仙台市青葉区熊ヶ根大原道(おおはらみち)にある名取川水系青下川の青下(あおした)水源地を目指します。ここには3つのダムがあり、以前その最も上流にある「青下第3ダム」は見ることができましたが、残る2つのダムは時間の関係で見ることができませんでした。時間の関係というのはつまり「第1」と「第2」は仙台市水道記念館の敷地からでないと行けず、その時は営業時間外だったというわけ。そこで今回は営業時間内に入ることにしました。

水道記念館の奥の道を降りていくと青下第1ダムがあります。いや〜、職人仕事を思わせますね。

案内板。青下第1ダムは昭和9年(1934年)に水道用水確保のために築造された重力式コンクリートダムで、コンクリート本体の表面に玉石が貼られています。

近くには青下第1ダムとその取水塔が登録有形文化財となったことを示すものが。

青下第1ダムの説明書き。これによると高さ=13.0m、長さ41.5mと記されていますが、文化庁のデータベースでは高さ=13.4m、長さ=41.8mとなっています。ただ、その下部の解説文には現場の説明書きの文章が転記されています(参考)。ところがダムカードのデータでは高さ=18.0m、長さ=43.4m。いや、もう、どれが正しいのやら…(このダムカードのデータはダム便覧に出ています)。高さ表記がまちまちなので、これをダムと呼んで良いのか堰堤と呼ぶべきなのかは難しいところです。


取水塔は前年の昭和8年(1933年)に完成。現場の説明書きには内径2.4m、高さ16.97mの鉄筋コンクリート製と記されています。一方、文化庁のデータベースでは高さ=15.5m。その下部の解説文では現場の説明書きが転記されています(参考)。


右岸から見た管理橋。早速歩いてみましょう。

管理橋中央から見た上流側の景色。

一方、真下を覗き込むとこんな感じ。副ダム(副堰堤)が備えられていますが、しっかり玉石が貼られていて、もはや感動もの!

下流方向の遠景。

対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

この円筒状の装置が取水塔(写真中央)。

左岸から見たダム下(堰堤下)の様子。ここから見ても丁寧な仕事に惚れ惚れします。


ところで、青下第1ダムへ向かう手前のところにはこんなオブジェがあります。一体なんでしょうね。

近寄ってみるとこれは青下ダムが完成した1934年に設置された記念碑で、

これも登録有形文化財に指定されています。(参考

記念碑の表側には山羊の頭の噴水口。なぜ山羊なんだろうか…。

裏側には一連の拡張工事に尽力した人たちの名が刻まれています。


続きます。
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オフの時もあるさ!…柳原頭首工

2022-11-16 07:43:45 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は宮城県栗原市栗駒菱沼柳原(くりこまひしぬま やなぎわら)に北上川水系の柳原頭首工なるものがあるようなので探しに行きます。この頭首工は地図には出ていないのでこのサイトに載っている写真だけが手がかり。

そうこうするうちにその写真と同じ建物(揚水機場)を発見。

近くには水利使用標識。「柳原揚水機」とあるので、ここで間違いなさそうです。

揚水機へはこの水路から流れ込むようです。

その水路の取り入れ口となっているのが、熊川に設置された取水設備。

ところが、取水設備の下流側にあるはずの頭首工が見当たりません。んー、どういうこと?

よくよく見れば、この頭首工の堰堤形式はゴム堰(ゴム引布製起伏堰)で、訪れた時は稼働しておらずペチャンコの状態でした。


参考までにこの場所の地図を載せておきますね。写真中央の➕のところが柳原頭首工(揚水場)です。


…というわけで、探す手間がかかった割にほとんど見るところのない場所でした。せめてゴム堰が膨らんでいればなぁ。
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目立たぬ!…秋山頭首工

2022-11-15 07:22:42 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県栗原市一迫北沢天拝(いちはさま きたざわてんぱい)にある北上川水系の秋山頭首工を訪れます。アクセスは国道398号から一迫川方面へ向かい、姫松館跡(ひめまつだてあと)を目指して行くと目的地が見えてきます。

一迫川左岸から見た秋山頭首工。頭首工名は左岸の下流の地名が「上宮野秋山(かみみやのあきやま)」なのでそれに由来すると思われます。フォルムが地味なのでわかりにくいですが、この頭首工はゴム堰(ゴム引布製起伏堰)なんです。


明治時代以前、ここには秋山堰と成田堰と言う二つの堰堤があったようですが、それが老朽化したため周辺の農業用水の取水が困難になっていたそうな。そこで県営土地改良事業により両方の堰を統廃合して新設されたのが秋山頭首工だそうで(参考)。工事着工は2005年で、2007年に完成(参考)。

一迫川上流方面の景色。これを遡っていくと前回記事にした伊豆野頭首工があります。


上流側から見た秋山頭首工。ね?これだとどこにそれがあるのかわかりませんね。


右岸にあるこの建物が「秋山頭首工操作室」で、


その壁には水利使用標識が貼られています。


そこから頭首工を見ると、こんな感じ。写真中央に見える黒っぽいところが取水口と思われます。


右岸側は草ボーボー、左岸側はフェンスで遮られているため肝心の頭首工へ近づくことはできません。最初はどこにあるのかわかりませんでしたが、なんとか見つけることができて良かったぁ〜。
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見応え充分!…伊豆野頭首工

2022-11-14 08:34:08 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県栗原市一迫真坂柳原(いちはさままさか やなぎはら)にある北上川水系の伊豆野(いずの)頭首工を訪れます。アクセスは県道178号沿いにある伊豆野せせらぎ公園から入っていくと到着します。

いかにも「映え」のする五人衆といった感じ。おや? この色彩、どこかで見た覚えが。そうだ、以前訪れた小田(こだ)ダム川台頭首工と同じです。これら二つは長崎川繋がりなので関連性があるのはわかります。でも、伊豆野頭首工は一迫川に設置されたもの。色味が同じなのは偶然?それとも発注元もしくは施工業者が同じ?


ところで、頭首工名の「伊豆野」の由来が気になります。右岸の頭首工横に案内板があり、そこにも書かれていますが、調べてみるとこのサイトに詳細が出ているので興味ある方はお読みください。まあ、要するに「伊豆野」と言うのは江戸時代の1600年代に現在の東北新幹線の「くりこま高原駅」の東側付近の呼び名で、ここを新田開発する目的で1646年に作られたのが「伊豆野堰(いずのぜき)」でした。この「伊豆野頭首工」は「伊豆野堰」の上流180mのところに築造されたもので、完成は1997年3月。右岸部の取水口は伊豆野幹線用水路に接続しているそうな。


案内板の近くにあるクリーム色の建物は管理棟のようですが、その壁面には水利使用標識が貼られています。



では順を追って見ていきましょう。迫川(はさまがわ)上流方向の様子。この上流に花山ダムがあり、それを経た迫川の水がこの伊豆野頭首工に辿り着きます。


右岸、上流側から見た頭首工の様子。写真右側のところが取水口で、

ここから取水された水は、

こちらへ流れてきて、

あちらへ流れてゆきます。これが伊豆野幹線用水路。

そのすぐ先には使用目的不明の水車があります。モニュメントみたいなものでしょうか。


右岸、頭首工の横から見た様子。


頭首工本体に貼られたプレート。ゲートの竣工は1997年3月なので、これは完成当時のままのようです。


魚道は右岸側にあります。


頭首工を経た迫川の水はもう少し下流へ行くと秋山頭首工(次回の記事)に辿り着くことになります。


頭首工の右岸の下流側にはセンスのある公園が整備されています。



どうやらこのデザインは頭首工の完成に伴って撤去された「伊豆野堰」のミニチュア版として復元したもののようです。


公園内には「恵水謝恩」と刻まれた石碑。伊豆野頭首工を含む迫川上流地区のかんがい排水事業が着工から27年を経て完成したことが記されています。



「伊豆水神碑」。この石碑は昭和5年(1930年)に「伊豆野堰」開削に関係した伊達藩二代藩主忠宗(1600-1658)、その命を受けた奉行古内主膳重廣(ふるうちしげひろ:1588-1658。主膳は通称)、仙台藩士で郡奉行そして工事責任者だった川村孫兵衛元吉(かわむらもとよし:1622-1692。孫兵衛は通称)の3人をこの地域の永遠の大恩人としてその遺徳を追慕する目的で現在地から下流110mのところに建立されたものだそうです。ところが伊豆野頭首工を含む伊豆野幹線用水路改修工事により移設を余儀なくされ、この地へ移されたそうな。




公園内にはさらに白鳥省吾の詩「埋もれた口碑」が。これは1921年に書かれた詩集『楽園の途上』所収の作品(参考)。そういえば、花山ダムにも栗駒ダムにも白鳥の碑がありましたね。


いや〜、歴史のある伊豆野頭首工。見どころあり、学びありの場所でした。
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ならいましょう!…西風頭首工

2022-11-10 12:36:44 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県栗原市一迫西風(いちはさまならい)にある北上川水系の西風頭首工を探します。「探します」と書いたのはどの地図にも載っていないからです。じゃあ、なぜ西風頭首工というものがあるのかを知ったのかというと、このサイトに出ていたから。アクセスは国道398号沿いにあるデイサービス郷の湯の奥の長崎川にあるようです。

限られた情報を基に目的地を探すのは大変ですが、同時に冒険をするようで面白い。ワクワクしながら目的地へ向かうと、ありました!これのようです。


上に書いたアクセス方法だと、ご覧のように頭首工の上流から目的地へ向かうことになります。


頭首工の右岸、上流側にあるのが取水口。


川を堰き止めている堰堤部分は、なんとゴム堰(ゴム引布製起伏堰)!


左岸から見た感じだと右岸側にあるクリーム色の建物が管理棟のようで、そこになんらかの情報が書かれているようですが、左岸から詳細を確認することはできず。右岸の下流からアクセスできそうでしたが道が細く、未舗装だったので断念しました。

西風を「ならい」と読むのは東風を「こち」と読むより難しいですね。ちなみに南風は「はえ」、また北風は「きた」と読むこともあれば西風と同じく「ならい」とも読みます。あー、日本語は難しい。
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ダムっぽくない!…長沼ダム

2022-11-09 15:05:01 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県登米市迫町北方長沼下(とめし はさまちょうきたかた ながぬました)にある北上川水系の長沼ダムを訪れます。アクセスは国道398号沿いの「パシフィックコンサルタンツ長沼ダム」の看板のある交差点を入り、突き当りを右折していくと目的地に到着します。

到着しました。下流側から見た洪水吐の様子。洪水吐のところには「パシフィックコンサルタンツ長沼ダム」の文字。これは愛称だそうです。それにしてもダムのイメージじゃないねえ。むしろ農地に囲まれたまさに沼。洪水吐の形状は頭首工を思わせます。


左岸、沼側から見た洪水吐の様子です。


左岸から見たダム上。歩いてみます。


三方島定規土手(さんぽうしまじょうぎどて)の説明図。これは現在の飯土井・仮屋・谷地付近の土地開発のために当時の北方三方島に迫川(はさまかわ)に沿って約1,800mの長さの土手を築き、洪水が起こった際に迫川の水が三方島付近から皿沼・伊豆沼・長沼へ流れ込むのを防ぐもので、江戸時代の1685年に完成したものだそうです(参考)。この土手築造に関しては賛否両論あったようですが、正直なところこの説明ではピンときません。




その隣には長沼ダムの案内板。昭和46年(1971年)に迫川流域の洪水調節、流水の正常な機能維持を目的とした治水ダムとして調査が開始され、昭和50年(1975年)から工事に着手。しかし平成4年(1992年)に漕艇コースなどの湖面の有効利用を目的とした多目的ダムへ変更。そして平成26年(2014年)5月に完成したそうな。(記事冒頭のリンクも参照ください)





記事冒頭のリンク先に書かれている通り、ダム上の長さはなんと1,050m!いつもなら対岸まで行くのですが、この時は雨が降りそうな天気だったこともあり、ほんの数十mだけ歩いたところで断念。とにかく長い!


その付近から見た長沼の様子。


そして、下流側の景色。ダムの高さは15.3mなので全く高さを感じません。


歴史を振り返るといろいろあったようですが、上にも書いたようにダムに来たというより、沼の土手を散歩したという感じでした。
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正式な案内板が欲しい!…宿の沢ダム

2022-11-08 16:32:04 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県栗原市高清水宿の沢(たかしみず しゅくのさわ)にある北上川水系の宿の沢ダムを訪れます。アクセスは県道59号沿いの「天神橋」の表示のあるT字路(カーブミラーあり)を入り、そのまま進んで行くと目的地の左岸に到着します。

おー、あれですね。


ダム横までもう少し。


左岸のダム横まで来ました。しかしご覧の通り、ゲートが閉まっていてダム上に行くことはできません。


警告ともとれる看板。赤字で「必ず警察へ通報」と書かれちゃあ万事休す。とほほです。


ゲートの横にある「定礎」の石碑。1999年6月とあります。


ふと道路沿いを見ると二つの石碑が。ひとつは「小山田貯水池竣功記念」と題されたもの。ところどころ読めないところがありますが、転記すると全文は次の通りです。

「この貯水池は栗原郡清滝村高清水町及び瀬峰町の耕地約六百余町部●●●し用水補給の目的を以って築造されたもので、即ちこれらの耕地は由来を小山田川を唯一の水源とし灌漑して来たりしが年々この川が枯渇 用水の不足甚だしく農業経営の上に一大脅威を加ふるに至り之がため関係農家の困憊●●●言語に絶するに至り茲(ここ)に昭和十八年を期してこの地域の農家相謀り小山田川沿岸耕地整理組合を設立貯水池工事の実施促進を請願陳情せし結果幸い農林省の認めるところとなり同年九月県営事業として着工の運びとな●●●●時偶々國の総力を挙げての決戦期を迎え着工とは名のみ幾何もなく工事中止の止むなきに至る幸い昭和二十一年工事の再開を得しも終戦直後の世相は混乱し食糧物資の欠乏甚だ●●為に工事の進捗意に任せず加うるに連年の水害惨禍は目を覆はしめるものあり斯(か)くして農家の負担は過重●●●これ以上の負担に耐え得ずとし一時前途に一抹の暗影を投せしも農林省当局を始め前組合長佐藤信吾現組合長高橋孝吉の両氏組合役員各位並びに関係者の一致協力は克(よ)く困難を乗越え日夜努力を傾注 遂にこの難事業を完成せり この間歳を閲すること実に九年有余事業費金貳千四百拾五萬円を要したり 由来産業の興隆は社会の進運に寄与する所以に貯水池の竣功により受ける地方発展の成果は期して待つべきものありそれと共にこの事業に携わりし諸氏の郷土愛と敢闘の精神は後の世に永く語り継がれ良き教訓となることを信ず
以上当時を回顧 経過を敍し 以って後世に伝えんとするものなり
 昭和二十七年七月三十日
  宮城県知事   佐々木家壽治 篆額
  宮城県農地部長 安 部 義 正  拝文」

要するに、ここは宿の沢ダムができる前に「小山田貯水池」というものがあったようです。同貯水池は昭和18年(1943年)9月に県営事業として着工したものの戦時中のため一時工事は中断。戦後の翌1946年から工事は再開し、昭和27年に9年の歳月を得て完成したことが記されています。ちなみに当時宮城県知事だった佐々木家壽治(ささきかずじ:1886-1954)は盛岡師範学校(現在の岩手大学)を卒業し、衆議院議員を二期務めたのち1949年に宮城県知事に当選する。1951年には資金難だった商工業救済を目的とする振興無尽株式会社を設立。地元のことを考える「百姓知事」として人気が高かったという。

その左側には「佳種在田」と題するもの。こちらも転記しておきます。

「碑文
 本耕地は栗原郡南部に位置し、小山田川沿岸に拓けた瀬峰町、高清水町の二町一ヶ村にわたる東西に長く南北に狭い、水田四・九〇九ヘクタールの地域で各水利施設の不完全はもとより水利系統の組織が甚だ悪く用水の不足、それに伴う干害、下流部には浸水被害等極端なものがあり又水田の区画形状はすこぶる錯雑で細分され道水路の幅員は狭小湾曲甚だしく配置が疎悪で利用が極度に低く収穫に影響し又農耕労力の無駄が大なるものがあった
 昭和二十六年七月二日栗原郡小山田沿岸耕地整理組合が組織変更許可により栗原郡小山田川沿岸土地改良区が設立され、先に県営事業として宿の沢溜池の完成を見、多年の宿望が達せられたが、この溜池の用水を最も合理的に且つ経済的に使用し更に食糧増産と労力の軽減を計り農家経済の向上を企図するには区画整理をなし灌排水路農道の整備に依ってのみ可能なることを確信し区画整理実施の計画を樹立したのである
 然るに組合員中には反対の声も少なからず再三再四総会並びに総代会を開催し組合員の理解を深め賛同を得て昭和二十七年四月積雪寒冷単作地帯区画整理事業として着工した
 以来満五ヶ年の歳月と四七・七七二千円を投じ指導機関 援助と組合員の協力役職員並びに関係者の熱意と努力が幾多困難を克服しここにこの大事業の完成を見るに至ったのである
 顧みればこの事業に携わって来られた関係者一同のなみなみならぬ苦労に対し深く感謝し組合員各位の絶大なる理解と協力のこのあふるる愛土の精神に強く感銘するものである
 ねがわくばこの事業が明日への郷土発展の唯一の契機であることを再びここに深く肝に銘じ佳き種は遺され永久に美田の栄え在らんことを乞うものなり。
  栗原郡小山田川沿岸土地改良区理事長 中野芳夫 選文
   昭和四十八年四月」

この記述を要約すると、昭和26年(1951年)に小山田沿岸耕地整理組合から小山田川沿岸土地改良区に名称変更され、昭和27年(1952年)4月には積雪寒冷単作地帯区画整理事業に着手。そして区画整理と灌排水路農道を整備し昭和32年(1957年)に完成したと記されています。

これら二つの石碑を見て思うのは表記と時期の違いがみられることです。小山田貯水池が宿の沢溜池と同一のものとするなら完成時期が違います。「貯水池」の石碑では1943年に着工し9年を経て完成したとあるので、貯水池の完成は1952年になるはず。ところが「佳種在田」では小山田川沿岸土地改良区が設立された段階(1951年)で「先に県営事業として宿の沢溜池の完成を見」たとあります。

一体これはどういうことなのか。念のため小山田川沿岸土地改良区のサイトを確認してみると小山田貯水池の記述はありませんが、宿の沢ダムが昭和24年(1949年)に完成とあります。ということは名称こそ違いますが、宿の沢溜池と宿の沢ダムは同一のものと判断して良さそうです。じゃあ「貯水池」の碑に書かれている昭和18年(1943年)に着工し、「九年有余」の歳月を経て昭和27年(1952年)に完成したと思われる小山田貯水池は別物なんでしょうか。それとも記述の単なる誤り?

詳細はともかくとして宿の沢ダムが昭和20年代に築造されたことは間違いありません。そして昭和52年(1977年)には小山田川沿岸地区かんがい排水事業が開始され、その一環として宿の沢ダムの改良工事が1999年6月に定礎され、少なくとも同事業が完成をみた2002年までには同ダムの工事も完成したとみて良さそうです。

あー、いろいろ調べて疲れたぁ。せめてダム横にでもちゃんとした案内板があればいいのにな。
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伝説から命名!…化女沼ダム

2022-11-05 06:57:03 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県大崎市古川小野遠沢(ふるかわおの とおさわ)にある北上川水系の化女沼(けじょぬま)ダムを訪れます。場所は東北自動車道の長者原サービスエリアの近くで、国道4号の「羽黒」交差点から岩出山(いわでやま)方面へ行く県道266号に曲がります。そして「←化女沼古代の里」の看板のあるT字路を入って行くと目的地に到着します。

左岸から見た化女沼ダムの様子。


この左岸のダム横には「宮城県化女沼ダム管理事務所」があります。ここは観光資料館を兼ねているようです。



左岸側には立派な洪水吐があります。


左岸のダム横には照夜姫を象ったブロンズ。化女沼ダムは1995年10月18日竣功だそうです。


その横には「化女沼の伝説」が書かれています。いや〜、何だかおどろおどろしいお話ですなあ。


左岸から見たダム上。歩いてみます。


洪水吐の上から見た水路の様子。


洪水吐に架かる橋を渡ると、こんな説明看板が。へぇ〜、化女沼は1971年2月2日にイランのラムサールで締結された通称「ラムサール条約」(正式名称:特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約)に基づくラムサール条約湿地なんだねえ。2008年10月30日に登録。また、この大崎地域は2017年3月に日本農業遺産に、また同年12月には世界農業遺産に認定されているそうな。ほぉ〜。


その近くには化女沼ダムの案内図。これによれば、当該ダムから流入する田尻川は元来川幅が狭く、下流は低湿地帯なので1947年9月のカスリン台風、1948年9月のアイオン台風の襲来で大洪水が発生し多大な被害を出しました。そのため1958年から河川改修工事を開始したものの田尻川は氾濫を繰り返したため抜本的な見直しが図られます。化女沼ダムはその一環として計画され、1986年築造に着手。そして1995年にゾーン型フィルダムとして完成したそうです。




ダム上、中央から見た貯水湖の様子。


一方、ダム下はこんな感じ。サッカーができる運動場になっています。


対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな景色。


右岸から見た貯水湖の様子。


右岸には祠のようなものがあります。行ってみましょう。

化女沼龍神が祀られているようです。

祠の左脇には照夜姫(てるよひめ)さんが居り、

その横には先ほど左岸で見たのとほぼ同じ内容の伝説が書かれています。小学生が一所懸命に書いたのかな?


右岸の駐車スペースのところにも「化女沼の伝説」が書かれています。


全国各地には美しい女性が湖に身を投げたという話があちこちにあり、いつしかそれが伝説となっています。でも不思議なことにオッサンが身を投げてそれが伝説になったという話はほとんど聞きません。どうしてなんでしょうね。悲劇にならないからでしょうか。「何してんねん、オッサン!」で片付けられちゃうからかな。

嗚呼、オッサンは哀れなり!
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舘前頭首工…だと思う

2022-11-04 06:52:59 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は宮城県加美郡加美町米泉上川原付近を走る県道159号沿いで偶然頭首工を見つけたので、それを紹介したいと思います。

鳴瀬川水系の田川に設置された頭首工ですが、グーグル先生の地図には載っていません。でもそれなりの規模の頭首工だし、よく見ればゴム堰(ゴム引布製起伏堰)による頭首工じゃないですか。



頭首工の場所の目安となるのが県道159号沿いにあるこの建物。管理棟のようですがそれを示すものはありません。

建物の壁には水利使用標識が貼られています。でも頭首工名が記載されていないので気になるところ。


建物の裏手には「富源」と題された古めかしい石碑が。あれ? これは確か昨日記事にした孫沢溜池の経緯を記した石碑じゃないですか。そこには孫沢溜池の他に舘前堰(たてまえせき)についても記されています(参考)。


舘前堰が昭和34年(1959年)に高さ3.0mの重力式混凝土(コンクリート)堰堤として築造されたのはわかりました。じゃあ、それがこの頭首工とどんな関係にあるんでしょうか。「富源」と題された石碑がここに設置されているということからして、おそらくこの頭首工は舘前堰に代わるものとして建設されたのではないかと思われます。

でも、頭首工名は? 画像検索してみると、どうやら舘前頭首工というらしい。さらにいつ建設されたのかを調べてみると鳴瀬川農業水利事業が平成3年から同21年にかけて行なわれており、その施設概要の中に舘前頭首工の文字があることから、少なくとも同頭首工は平成21年(2009年)までには完成していたことがわかります(参考)。

では、頭首工へ近づいてみます。左岸、下流側から見た頭首工の様子。左岸側に魚道があるのがわかりますね(写真右側)。


頭首工の横から見た様子。管理橋は立入禁止なのでその先へは行けません。


左岸、上流側から見た様子。


上流側から魚道を見ると、こんな感じ。


左岸の上流側に取水口があって、

そこで取り込まれた水は、下の写真のS字型に見える水路を通って、

下流の農地へ向かいます(写真に見えている水路は舘前幹線用水路)。(参考


この頭首工名の由来はこのあたりの地名ではなく、上に書いたように昭和時代に活躍していた舘前堰の名を受け継いだものと考えてよさそうです。ちなみに舘前堰と名のつくものはすでに江戸時代にはあって、田川には多川堰と舘前堰があったそうな。舘前堰は当時米泉堰(こめいずみせき)とも呼ばれ、加美町中新田(なかにいだ)の米泉、羽場(はば)、城生(じょう)、上狼塚(かみおいのつか)、南町、岡町、西町、雑式目(ぞうしきのめ)及び四日市場村の水田に水を供給していたそうです(参考)。

偶然目にした頭首工でしたが、思わぬ形でその地域の歴史を学ぶことができました。感謝。
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クルマでアクセスできたのか!…孫沢溜池

2022-11-03 07:00:39 | 宮城(ダム/堰堤)
へへへ、どーも、ワシです。今回は宮城県加美郡加美町孫沢東山二番(かみぐんかみまち まごさわ ひがしやまにばん)にある鳴瀬川水系の孫沢溜池を目指します。地図を見ると県道159号沿いにある「北日本工業株式会社 加美工場」の看板のある交差点を北上し、その道沿いのリスパック株式会社宮城工場付近から入って行くとあるようです。

とりあえず、目的地である孫沢溜池はこんな感じ。手前に見える橋の下は洪水吐の水路です。


結果的に目的地に到着できたのですが、その入口を探すのは難航しました。というのも、グーグル先生の地図には入口となる道が載っていないからです(この段階では国土地理院の地図を見るのを忘れていました)。入口となる道の「候補」はいくつかあり、どれも未舗装で、しかも細い。仕方ないのでクルマを置いて歩いて探します。

すると、この看板の前の細道から入って行くとどうやら孫沢溜池に行けることが判明。

軽トラの車幅ほどの道を進みます。

溜池の気配すらありません。

いや〜、ホントにあるんかいな…。

山道を彷徨っている感じです。

おっ、見えてきました。あれのようです。


てなわけで、到着しました。溜池のダム下には水利使用標識。かんがいを目的とするダムのようです。


ダムの斜面の中腹には石碑のようなものがあります。しかしながら、溜池に近づくことは禁止されているようで、斜面にすら登ることはできません。この写真もズームしてこの程度なのでそこに何が記されているのかは不明。


ここには何の案内板もありません。なので、ネットで調べてみると孫沢溜池の築造の経緯が記された石碑を見つけました。それによると溜池築造のきっかけは昭和8年(1933年)に起こった未曾有の旱魃で、これに対処するべく昭和12年(1937年)に孫沢溜池は完成したそうな。しかしその後溜池に土砂が流入したことで貯水量が減少。そこで昭和34年(1959年)に洪水吐を1m20cm嵩上げするなどの改修工事が行なわれたそうです。(参考

さて、左岸側には越流式の洪水吐があるのですが、もちろんこれ以上近づくことはできません。


その洪水吐から溢れた水は、この水路を通って向こうへ流れてゆきます。


ここで水路沿いに道があることに気づきました。その道幅は先ほど来た道よりも広いんです。後から確認したところ、どうやらこの道から来れば溜池近くまでクルマで近づけたようです。そのアクセス方法は以下の通り。県道159号から先ほどの交差点をさらに西へ向かい、しばらく行ったところにあるパトランプのあるT字路を入り、二又を右へ行き、そのまま道なりに行けば到着します。

なぁ〜んだ、そうだったのか。今度来る時は…いやぁ、もう来ないだろうな。
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こっそりと…惣の関第二ダム

2022-11-02 06:58:42 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県宮城郡利府町森郷内ノ目南(りふちょう もりごう うちのめみなみ)にある砂押川水系の惣の関(そうのせき)第二ダムを訪れます。アクセスは県道40号沿いにある利府浄水場のところから「キリスト教 森郷キャンプ場」の看板のところを入っていき、砂利道へ入ります。そしてダム湖の橋を渡り、右折。そのまま行くと目的地の右岸に到着します。

まずは「ご尊顔」をご覧ください。


さらっと到着したように思うかもしれませんが、いえいえ、ここへ行くにはある程度歩かなければなりません。順を追って説明します。昨日記事にした惣の関ダムからちょっと見えた橋がここでいうダム湖の橋で、その名を「うちのめはし」と言います(1997年3月完成)。橋の名称はここの地名に由来します。


「うちのめはし」から下流側を眺めます。すると惣の関ダムがこんな風に見えます。

一方、内の目沢川の上流側の様子。この先に今回の目的地があるはず。


橋を渡るとT字路になっていて、地図によれば目的地は右方向。しかしこの先はクルマでは行けません。看板には通行禁止とありますが落石などの危険があるという理由なので自己責任で行ってみることにしました。目的地まで約500mです。

とはいえ、こんな道を進みます。

まだまだ先のようです。


そして、ついに到着!これのようです。


ダム本体に嵌め込まれた「惣の関第二ダム」のプレート。1989年5月完成とあります。


右岸から見たダムの様子。


これがダム上。歩いてみましょう。


ダム上、中央から見た貯水側の景色。お世辞にも綺麗とはいえない水の色。


ダムの真下と遠景はご覧の通り。



対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。


クルマでアクセスするには惣の関第二ダムの西側にある「めぐみ野サッカー場」のほうから行くのが近いのですが、なんとダムへ向かう道にはゲートがあり、しかも閉まっていて進むことができません。なので行かれる方はダム湖側からアクセスすることをオススメします。なお、当該ダムの説明は昨日の記事で少し触れているのでよろしければお読みください。
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