ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

介護する友人

2010-05-19 04:08:21 | 脳みその日常
先日、友人と再会。7年ぶりくらいでしょうか。彼は以前一緒に仕事をした仲間で、現在は仕事を辞め母親の介護をしています。この日は母親をデイ・サービスに預けた合間を縫っての再会でした。

聞けば彼の母親は認知症とのこと。いつも思うのですが、この名称には違和感を覚えるんですよね。なぜならこの病気は周囲のものや人を認知できなくなるわけでしょ? これはいわゆる痴呆症ってやつですもんね。

ボケる症状があるから痴呆症というネーミングにするのはおかしくありません。でも認知できないのに「認知(する)症」と呼ぶのはおかしい。たとえば健忘症というのがありますが、あれは忘れる症状があるからそう呼ぶわけです。認知しない、認知できない症状があるのなら、正しくは「不認知症」もしくは「認知不可症」とするほうが適切なのではないでしょうか。

病名のことはさておき、友人の介護の話を聞くにつけ、介護というのは本当に大変なことだなとつくづく思いました。徘徊しないように常に気を配るとか、紙オムツを交換するとか、そりゃもうワシには未経験の話ばかり。そんな想像を絶することをこの友人はごく普通に、半ば笑いながら話します。

「いや~、この前も参っちゃってさぁ…おふくろ、徘徊しそうになるし」

実の母親なんだから介護するのは当然なのかもしれません。世の中で身内の介護をしている人は大勢いるわけですし。ただ、未経験のワシからすればただただ感心するのみ。「すごいなぁ、よく頑張ってるなぁ…」と。

でも、その友人は言います。「いや、むしろ介護を仕事としてやってる人のほうがスゴいよ。あれは本当に大変な仕事だ。オレにはできない」

確かにそうかもしれません。仕事と割り切ってはいても他人のシモの世話までするのはそうできることじゃない。その意味では尊敬に値しますし、介護職はもっと厚遇されるべきと思いますね。

再会の目的は当初友人を励ますことでした。でも、気丈に振る舞っているにしても「明るい介護生活」を送っている彼からは逆に多くのことを学んだ気がします。なんせ、明日は我が身だからねぇ…。
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小振りだけど大樹

2010-05-18 04:43:07 | ドライブ関連
(クリックすると写真は拡大します)


これは京王相模原線の稲城駅前にあるモニュメント。その名も「希望の大樹」。大樹といっても決して巨大なものじゃありません。いくつかの切り株を集めたという感じ。昼間の景色は知りませんが、夜間は照明が当てられていて、とても印象的です。
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同名の羊

2010-05-08 04:20:21 | 脳みその日常


静岡県西部に住む友人から久しぶりのメール。どうやら近くの動物園にワシと同じ名前の羊がいるそうな。同じ名前といっても、もちろん本名じゃありません。ハンドルネームです。

写真の羊が「ベス」だそうです。ほぅ~、なんだか親近感がわいてきますな。おまけに、この羊の目は怖いと友人は書いていました。ありゃ~、それもワシに似てる気がします。

こうなると本人ならぬ本羊に会ってみたい気になりました。仕事が少しヒマになったら出かけてみようかな。でも、早く行かないと、この「セーター」なくなっちゃいそうだけど(笑)
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増殖するヒナ

2010-05-07 04:46:15 | 脳みその日常
近年ワシが手がける仕事にはひとつの傾向があります。それは初心者向けとか入門者向けの原稿依頼が多いこと。出版不況の時代にあって、仕事の依頼が来ることは本当にありがたいことで、感謝してはいるんです。でも、出版社の目指す方向性にはちょっと疑問があるんですよね。

不況の時代ですから、とにかく売り上げを伸ばすことが先決。実際、入門者向けの商品は専門書に比べ遥かに売れます。だから各出版社は売れるものを出す。

理屈はわかります。ですが、入門した後の人たち向けの書籍があまりにも少ない。ましてや専門家向けの、いわゆる専門書なんてほとんど相手にされない状態。仮に専門書が刊行されるとしても、多くは著者が出版費用を負担する自費出版だったりするわけです。

カネが有り余るほどある人ならそれも可能なのでしょうが、なかなかそうもいきません。だって、著作を出せば出すほど自己負担が増すんですよ。そんなことは誰だって避けたいですよね。現代の研究者や学者が著作を積極的に発表しないのそうした背景があるんです。

とはいうものの、中級者以上の人たち向けの書籍はやはり必要だと思っています。いや、趣味の領域において初心者向けの商品を作るという発想がそもそも気に入りません。

何かにのめり込めば人は一所懸命それを理解しようと能動的に努力するもの。最初は誰だってわからないことだらけ。でも奮闘するうちに少しずつ何かが「見えて」くる。そういう流れがこれまではあったんです。

ところが、今の時代はファストフードに象徴されるように、とにかく短時間でモノにすることが良しとされます。出版界が初心者向けの出版にシフトするのも実は同じ発想なんじゃないでしょうか。こうした商品は、人々が理解できなくてもがく時間を不要にしてくれるからです。

便利だから人々はその商品を買う。
   ↓
売れ行きが伸びる。
   ↓
出版社ウハウハ。

つまりはこんな流れです。

確かに便利かもしれません。でも、こと趣味の世界に関してはその「もがく」ことに意味があるんじゃないでしょうか。さんざん苦闘した上で「なるほどそういうことなのか!」と理解できた時の喜び。これこそが趣味の醍醐味のような気がするんですけどね。

なのに、編集者からは「この作品の聴きどころを書いてください」などという依頼が当たり前のように来ます。いや~、聴きどころなんてさ、どうだっていいでしょ。人それぞれ受け取り方が違うんだし。ワシがここは聴きどころですよと書いたって、読者はそう思わないかもしれないでしょ。「聴きどころ」ってのは実に無意味なものだとよく思うんですよ。そもそもワシ自身そんなこと考えて音楽を聴いたことなかったしね。

たとえば、レンブラントの絵について「ここが見どころだ」なんて教える人はいないでしょ? あるにしてもそれは絵画の構図のこととかタッチ程度のことですよね。じゃあってんで、この音楽の構造はこうなってますと平易な言葉で説明してみるんですが、編集者は「この説明は難しすぎます」などと仰る。う~む。

時々思うんですが、読者だって考える権利があると思うんですよね。なのに、編集者はまるで「読者たちは何も考えなくていいんです」みたいなニュアンスで頼んでくるんですよ。これじゃまるで執筆者は親鳥みたいなもの。読者はいうなればヒナであり、ただ口を開けて親鳥の運んでくるエサを待ってるみたいな…。

こんなやり方でいいんでしょうかね。これじゃあ、いつまでたってもヒナはヒナのままで成鳥になれないんじゃないの? 初心者向け商品は音楽文化の裾野を広げる役割を果たすものではありましょう。しかしここで出版界がもっと考えなくちゃいけないのはヒナを成鳥にしていく道をどう示すかだと思うんですが。
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悠々

2010-05-06 03:58:05 | ドライブ関連


練馬区周辺をドライヴしていた時に撮影したものです。

う~ん、なんかゆったりと治療してくれそう。それとも治療が延々と続くとか? やだなぁ、そうだったら…。
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褒められて当然?

2010-05-03 04:41:56 | 脳みその日常
よほど変わった性癖の人でなければ、貶されるよりも褒められるほうがいいに決まっています。ただ、世の中にはおかしな人もいるらしく…。今回はある編集長から聞いた話です。

メディアというのはさまざまな情報を発信します。そのなかには単なる情報もあれば、特定個人をターゲットにしたものもあります。ただ、後者を扱う場合はその内容が良い評価と悪い評価の二者択一にならざるを得ません。

その場合、当然予想されるのは悪く書かれてしまった時に対象となったその人自身もしくはその人が所属するマネジメントからクレームが来ることです。最初にも書きましたが、誰だって貶されるのは気分が悪いですから、クレームを入れたくなる気持ちもわからないではありません。

ところが、その編集長が承服しかねるのは次の点だというんです。つまり貶された時にはクレームをつけるのに、良い評価をした時には何の反応もないとはどういうことなのか、と。褒められるのが当然と思っているのか? 納得がいかんよ、と。

まったく同感です。クレームをつけるのはまあいいとしても、褒められたのならせめて感謝の一言くらいは言うべきなんじゃないでしょうか。それなのに貶された時だけクレームを入れるなんてのはおかしい。感謝の言葉も言えないんだったら、クレームだってつけるなというわけです。

そもそも、その対象となる人は公開の場で活動しているわけです。別の見方をするなら、そういった活動をするにあたってはどんな評価も甘んじて受けるくらいの覚悟があってしかるべきなんじゃないかと思うんですよ。

だから、世にいう一流の人たちってのはメディアがどんな評価をしようが気にしません。いや、気にすることもあるのかもしれませんが、いちいち目くじらを立てるようなことはしません。その都度クレームをつけていたら疲れてしまうからでしょうね。

それに、一流の連中は自分の能力に絶対的な自信をもっています。自分のことは自分がよくわかっているので、メディアがどう書こうが彼らにとって関係ないんです。だから常に泰然自若でいられるんでしょうね。もっとも、そうだからこそ彼らは一流なんでしょうけど。
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本当の老いとは

2010-05-02 04:10:06 | 脳みその日常
中年オヤジが言うのも何ですが、多くの高齢者を観察していて「老い」にはいくつかの段階があることに気づきました。

まず高齢者ではあっても社交的に活動する人がいます。こういう人は見た目は老いていますが、精神的には決して老いていません。だから元気に動き回れるのでしょうし、向上心も人一倍あります。ワシと関わりのある高齢者はなぜかみな元気です。一体どうなってるんでしょうね、彼らは。サイボークみたいで恐ろしいほどです。

ところが同じ高齢者であっても家に籠っていたり、何の目標もなく過ごしている人は本当の意味での「老人」のように思えます。こうなると、もはや「お迎え」を待っている状態。人生にもう未練などないのでしょうね。ちょっと寂しい気もしますが。

話は変わりますが、どんなに徳を積んだ高僧の中にも死ぬ間際になってすら、生に対して執着する人もいたようです。たとえば一休和尚とか良寛などがそうで、両人とも最期の言葉が「死にたくない」だったそうです。

もちろん直接聞いたわけじゃありませんから、真偽のほどはわかりません。でも、もし本当にそのような言葉を残したのだとしたら彼らはまだ本当の「老い」の状態ではなかったのかもしれません。本当に達観していたら生に執着することはないでしょうから。むしろ本当に老いていたらあの世へ行くことを喜んで受け入れるのではないでしょうか。

それはさておき、前にどこかで見たのですが、面白いことを書いている人がいました。それは次のような内容です。

「いま世界には68億人もいるんだけどさ、中にはひとりくらい死なない奴がいても不思議じゃないよな?」

うんうん、確かにそんな人がいても不思議じゃない気がします。突然変異があってもおかしくないですもん。でも、遅かれ早かれ100パーセントの人に「お迎え」が来るんですよね。これを読んでいるアナタも書いているワシもいつかは同じ終わりを迎えるわけです。

現在はまだ健康ですから「お迎え」が来るなんていう実感はありません。そりゃそうでしょう。でも終わりがあるのは確かなのですから、せめて心の準備くらいはしときましょうかね。いや、いよいよそうなった時に考えればいいか…。

ともかく、たとえ肉体が老いたとしてもできるだけ活動的に日々を過ごしていたいと思います。理想ではあるんですけどねぇ。
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深夜の笑顔

2010-05-01 04:20:18 | ドライブ関連
なんだか先月はバタバタと動いていました。やっと一段落です。不思議なもので、一仕事終えると誰かと話したくなります。もしくはどこかへ行きたくなるんですよね。

特に話し相手もいないので、ふらっとドライヴに出かけました。

深夜営業している、とある飲食店に立ち寄ってみました。

「いらっしゃいませ~」

応対してくれたのは若い女の子。そのハジけるような笑顔に驚きました。とかく深夜営業の店というのは愛想が悪いもの。それが当然と思っていたので吃驚したのです。

そうはいうものの、こんな深夜帯に働くのは疲れるはず。そのため、どんな相手であっても声をかけるようにしています。

「遅くまで大変だね。疲れない?」

すると、その子、またまたとびきりの笑顔で、

「もう慣れちゃいましたから平気ですよ~」

接客業とはいえ、大したもんだなと感心しました。と同時にこちらの蓄積していた疲れもいっぺんに吹き飛んで、今はとてもイイ気分です。
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